テーマ:佐々木系図

歴史読本「戦国大名血族系譜総覧」2009年4月号・「六角氏」原稿

概略 六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。室町期には将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめて、嘉吉の土一揆…
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宇多源氏の系譜

源氏といえば、武士の棟梁である清和源氏が有名だが、実は公卿源氏が源氏の本来の姿であった。武士の棟梁よりも、『源氏物語』の主人公光源氏が源氏らしい源氏であった。嵯峨源氏の源信(左大臣)・源融(左大臣)・源順(『倭名類聚抄』作者)、宇多源氏の源雅信(左大臣)・源重信(左大臣)・源倫子(藤原道長妻)・源経信(大納言)、醍醐源氏の源高明(左大臣…
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式部卿敦実親王

敦実親王(八九三-九六七)宇多天皇の第八皇子。一品式部卿。一条宮、八条宮。母贈皇太后藤原胤子(内大臣藤原高藤娘)。醍醐天皇(諱敦仁)の同母弟である。音曲を名手として有名であり、延喜七年(九〇七)十一月二十二日の自らの元服式でも(『日本紀略』)、拝舞したと伝えられている(『西宮記』『扶桑略記』)。このとき三品に叙され、のち一品式部卿に補任…
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左大臣源雅信

源雅信(九二〇-九九三)敦実親王の三男。母藤原時平娘。一条左大臣・鷹司左大臣。朝廷の重鎮として、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条らの皇太子時代に、その東宮傅(皇太子傅)となった。また安和の変(九六九年)で醍醐の皇子左大臣源高明が失脚した後も、雅信は源氏として執政の地位を維持し続けた。貞元二年(九七七)四月二十四日には右大臣に補任され、…
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源宰相扶義

源扶義(九五一-九九八)源雅信の四子。母藤原氏南家流大納言元方娘。文章生、蔵人兼図書助、式部少丞、叙爵、遠江権守、安芸権守、河内守、従五位上、正五位下、蔵人兼右少弁、左少弁、従四位下、左中弁、中宮権亮、播磨権守、蔵人頭(頭中弁)、従四位上、内蔵頭、正四位下、中宮権大夫、参議兼右大弁、美作兼守、左大弁、大蔵卿に至り(『公卿補任』)、一条天…
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四位中将源成頼

源成頼(九七六-一〇〇三)参議源扶義の長男。兵庫助、式部丞(『尊卑分脈』)。兵部大輔、式部大輔、鎮守府将軍(沙々貴神社所蔵佐々木系図)、近衛中将(『権記』)。  一般には『尊卑分脈』の記述により扶義子息の兄弟順は経頼・成頼の順とされ、兄経頼の近江守受領にともない、弟成頼が近江佐々木庄に下向したと考えられている。しかし当時の資料『権記』…
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兵部大輔良経

藤原良経(一〇〇〇-一〇五八)中将源成頼の末子。母後朱雀天皇御乳母(『尊卑分脈』などでは朱雀天皇御乳母)。沙沙貴神社所蔵佐々木系図では兵部大輔とするが、尊卑分脈では藤原行成の子良経を兵部大輔とする。沙沙貴神社本では、父成頼の母を藤原行成女としており、行成の子良経との混同も見られるだろう。  そこで当時の記録から、行成の子良経の事績と思…
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蔵人経方

平経方(生没年未詳)左馬頭良経の子孫か。兵庫助、従五位下(『尊卑分脈』宇多源氏流)。昇殿、兵庫助、兵部大輔(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。式部大輔(『西讃府志』)。『作者部類』の祐子内親王家紀伊の記事では、経方を散位平経重とする。叙爵後に経重(重経)と改名したのだろう。  経方は、『帥記』康平八年(一〇六五)七月七日…
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常盤恵冠者為俊

平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条では「四位陪従家定」とある。 …
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『源行真申詞記』

鳥羽院政期に近江佐々木氏で内部抗争があった。鳥羽院と美福門院得子のあいだに生まれた近衛天皇が即位して間もない永治二年(一一四二)二月に京都で新六郎友員という武者が殺され、検非違使庁は友員の伯父源行真を容疑者として取り調べた。この使庁の尋問に対する行真の陳述書が『源行真申詞書』(『平安遺文』六巻二四六七号)である。  同文書は、当時検非…
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佐々木源三秀義

源秀義(生年未詳-一一八四)本名源資長。実父源有賢。始め左大臣藤原頼長の家礼、のち近衛天皇蔵人(『台記』)、叙爵、鳥羽院殿上人、宮内卿大夫(『兵範記』)、上総介(『尊卑分脈』宇多源氏時中流資長の項)。源為義の猶子(『尊卑分脈』『続群書類従』)、為義の娘婿(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。佐々木三郎(『尊卑分脈』)、佐々木源三秀義(『吾妻鏡』…
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蔵人の尉定綱

佐々木定綱(生年未詳-一二〇五)秀義の長男。母源為義娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。佐々木太郎、佐々木左衛門尉、佐々木判官(『吾妻鏡』)。  父秀義に従い東下して、はじめ下野宇都宮朝綱の許に寄寓するが、のち父秀義の指示で弟盛綱とともに伊豆配流中の源頼朝に近侍した。治承四年(一一八〇)八月の源頼朝の挙兵では、弟経高・…
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山城守広綱

佐々木広綱(生年未詳-一二二一)定綱の長男。小太郎。左兵衛尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、山城守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。広綱の諱字から、母は宇都宮朝綱の娘(定綱の本妻)で、大江広元が烏帽子親あるいは舅であったと推定できる。源平合戦で活躍した叔父経高・盛綱より早く任官し、建久二年(一一九一)当時すでに左兵衛尉に補任されてい…
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近江守信綱

佐々木信綱(一一八一-一二四二)定綱の四男。母は新田義重娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。本妻は川崎為重娘(『尊卑分脈』)。正妻は北条義時の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。左近衛将監、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、従五位上(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。沙々貴神社所蔵佐々木系図では左衛…
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壱岐大夫判官泰綱

佐々木泰綱(一二一三-一二七六)佐々木信綱の三男。母北条義時娘。三郎、佐々木判官三郎、近江三郎兵衛尉、近江三郎左衛門尉、検非違使、叙留、近江大夫判官、従五位上、壱岐守、壱岐大夫判官(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。  父信綱が近江守護在職中にすでに左兵衛尉、左衛門尉を歴任し、嘉禎二年(一二三六)九月五日父信綱が評定衆を辞職して遁世すると…
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備中守頼綱

佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)泰綱の次男。母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。  建長二年(一二五〇)十二月三日北条時頼…
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備中判官時信

佐々木時信(一三〇六-一三四六)頼綱の末子。母は後伏見院女房(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。三郎、左兵衛尉、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、従五位上、備中守、近江入道(『園太暦』貞和二年十二月二十四日条)、芝田原殿(『比牟礼八幡宮領条々』)。正和三年(一三一四)十二月十四日に九歳で元服し、幼少のまま近江守…
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大夫判官氏頼(入道崇永)

六角氏頼(一三二六-一三七〇)佐々木時信の長男。母は長井時千娘。孫三郎(山中文書)、近江三郎(小佐治文書)、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、大夫判官入道。建武二年(一三三五)父時信の辞職にともない近江守護を継ぐものの幼少のため、一族馬淵義綱が守護代になった。暦応元年(一三三八)足利尊氏の加冠で元服した。このとき尊氏の猶子になったの…
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右兵衛佐義信

六角義信(一三四九-一三六五)氏頼の長男。母は佐々木道誉娘(『祇園執行日記』貞和六年三月五日条で氏頼を「大法師婿」とする)。幼名千手(千寿)。観応の擾乱で足利尊氏・直義両派の誘いに窮して出家した父氏頼の譲りを受けて、観応二年(一三五一)六月二十五日六角氏の家督を継承した。ただし幼少のため、叔父山内信詮(定詮)が近江守護を預かった(『太平…
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左京大夫満高

六角満高(一三六五-一四一六)氏頼の子。母藤原氏。実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系…
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大膳大夫満綱

六角満綱(一四〇一-一四四五)満高の長男。母は足利基氏の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。四郎右兵衛尉、大膳大夫、従四位下、近江守護。正妻は足利義満娘(『系図纂要』足利系図)。法号は龍雲寺殿貞山宗岱。  応永十八年(一四一一)将軍足利義持による飛騨国司姉小路尹綱追討の命を拒否したため、満高・満綱父子は近江守護を解任さ…
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兵部大輔持綱

六角持綱(生年未詳-一四四五)満綱の長男。四郎右兵衛尉、兵部大輔、従四位上、近江守護。法号は西蓮寺殿瑞岳宗勝。常善寺過去帳では、法号西蓮寺前兵部宗勝。  父満綱が在京したため、早くから近江守護の政務を任され、『花営三代記』応永二十八年(一四二一)二月十八日条と翌二十九年(一四二二)九月十八日条に、将軍義持の伊勢神宮御参宮で、持綱が草津…
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近江守久頼

六角久頼(生年未詳-一四五六)満綱の末子。母は足利直冬娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。始め相国寺僧周恩。四郎、近江守、従四位上、近江守護。法号は詳光寺殿融山周恩。  文安元年(一四四四)七月六角氏被官が、近江守護六角持綱(四郎、兵部大輔)の無道を訴え、持綱の弟時綱(五郎、民部少輔)を奉じて一揆を起こした(『康富記』…
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大膳大夫政勝

六角政勝(生没年未詳)久頼の長男。『甲賀二十一家之由来』では「政頼」。六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫、近江守護。  康正二年(一四五六)父久頼が憤死すると、遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄二年…
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大膳大夫高頼

六角高頼(一四六二-一五二〇)政勝の長男。幼名亀寿、本名行高、四郎、大膳大夫、右兵衛入道(『御内書案』)、近江守護。法号は龍光寺殿嘉山宗椿。  応仁・文明の乱で東幕府は六角政堯を近江守護に補任し、西軍の高頼に対抗させたが、政堯は戦没した。替わって東軍の重鎮京極持清が近江守護に補任された。しかし持清・勝秀父子が相次いで没すると、持清の三…
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近江守氏綱

六角氏綱(一四九二-一五一八)高頼の長男。母足利成氏娘(実は近衛政家娘か)。亀寿、四郎、近江守、従四位上。法号は雲光寺殿日山宗佐。  永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏…
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江州宰相義久(義実)

六角義久(一五一〇-一五五七)氏綱の長男。母堀越公方足利政知娘(足利義澄妹)。六角四郎。大膳大夫、近江守、参議、権中納言。諸系図では「義実」。『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に「江州宰相」が登場し、天文八年(一五三九)五月十九日条と二十日条に宰相上洛と下向の記事がある。この記事がある『鹿苑日録』十六巻表紙の頭書では、この宰相…
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宰相義秀(徳川公)

六角義秀(一五三二-一五六九)義久の長男。母は後奈良院典侍。幼名亀寿、本名公能。足利義晴養子。修理大夫、参議。『お湯殿の上の日記』に六角氏の幼名亀寿が頻出する。それは、天文十四年(一五四五)十二月五日典侍が亀寿元服の御礼に音物を進上しているように、亀寿の母が後奈良院典侍だからだ。  『お湯殿の上の日記』は、天皇常住の常御殿のお湯殿の間…
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左兵衛佐義郷

六角義郷(生年未詳-一五八二)義秀の子、あるいは弟。左兵衛佐。沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木系図略などの諸系図や、『江源武鑑』『佐々木軍記』など編纂物では、義秀の子息とする。しかし朽木文書で「中左兵衛佐氏郷」と署名していることから、『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月十二日条で、亀寿(義秀)とともに音物を進上した「中」と…
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大本所義堯

六角義堯(一五五一-一五八二)義秀の子。足利義輝実子(続群書類従本伊勢系図)。亀千代(『お湯殿の上の日記』『親俊日記』)。本名実頼(『山中文書』)。系図では実名義頼、官職は右京大夫(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)、あるいは左京大夫(続群書類従本伊勢系図)。和田山城主(『江源武鑑』)。六角承禎(義賢)からは「大本所」(『坂…
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