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宇多源氏の系譜
源氏といえば、武士の棟梁である清和源氏が有名だが、実は公卿源氏が源氏の本来の姿であった。武士の棟梁よりも、『源氏物語』の主人公光源氏が源氏らしい源氏であった。嵯峨源氏の源信(左大臣)・源融(左大臣)・源順(『倭名類聚抄』作者)、宇多源氏の源雅信(左大臣)・源重信(左大臣)・源倫子(藤原道長妻)・源経信(大納言)、醍醐源氏の源高明(左大臣)・源俊賢(大納言)・源隆国(大納言)、村上源氏の源師房(左大臣)・俊房(左大臣)・顕房(右大臣)などである。  源氏は天皇と「源を同じくする」という意味であり... ...続きを見る

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2005/05/29 23:10
式部卿敦実親王
敦実親王(八九三−九六七)宇多天皇の第八皇子。一品式部卿。一条宮、八条宮。母贈皇太后藤原胤子(内大臣藤原高藤娘)。醍醐天皇(諱敦仁)の同母弟である。音曲を名手として有名であり、延喜七年(九〇七)十一月二十二日の自らの元服式でも(『日本紀略』)、拝舞したと伝えられている(『西宮記』『扶桑略記』)。このとき三品に叙され、のち一品式部卿に補任された。翌延喜八年(九〇八)には山城守藤原忠房の作曲した『延喜楽』に舞をつけ(『礼源抄』)、宇多上皇が子供の相撲を見物したときも、山城守藤原忠房が作曲した『胡蝶』... ...続きを見る

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2005/05/28 14:56
左大臣源雅信
源雅信(九二〇−九九三)敦実親王の三男。母藤原時平娘。一条左大臣・鷹司左大臣。朝廷の重鎮として、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条らの皇太子時代に、その東宮傅(皇太子傅)となった。また安和の変(九六九年)で醍醐の皇子左大臣源高明が失脚した後も、雅信は源氏として執政の地位を維持し続けた。貞元二年(九七七)四月二十四日には右大臣に補任され、さらに貞元三年(九七八)十月二日に左大臣に補任されて、一条左大臣/あるいは鷹司左大臣と称された。公卿源氏の中でも、皇子ではなく皇孫で大臣に補任されたのは、実は雅信... ...続きを見る

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2005/05/28 00:06
源宰相扶義
源扶義(九五一−九九八)源雅信の四子。母藤原氏南家流大納言元方娘。文章生、蔵人兼図書助、式部少丞、叙爵、遠江権守、安芸権守、河内守、従五位上、正五位下、蔵人兼右少弁、左少弁、従四位下、左中弁、中宮権亮、播磨権守、蔵人頭(頭中弁)、従四位上、内蔵頭、正四位下、中宮権大夫、参議兼右大弁、美作兼守、左大弁、大蔵卿に至り(『公卿補任』)、一条天皇の九卿のひとりになった(『続本朝往生伝』)。九卿とは、右大臣藤原実資(小野宮流)・大納言藤原斉信・大納言藤原公任・大納言源俊賢・権大納言藤原行成・参議源扶義・中... ...続きを見る

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2005/05/27 01:05
四位中将源成頼
源成頼(九七六−一〇〇三)参議源扶義の長男。兵庫助、式部丞(『尊卑分脈』)。兵部大輔、式部大輔、鎮守府将軍(沙々貴神社所蔵佐々木系図)、近衛中将(『権記』)。  一般には『尊卑分脈』の記述により扶義子息の兄弟順は経頼・成頼の順とされ、兄経頼の近江守受領にともない、弟成頼が近江佐々木庄に下向したと考えられている。しかし当時の資料『権記』によれば、長保三年(一〇〇一)八月四日当時成頼は四位中将であり(『権記』)、このとき経頼は従五位下であった。さらに『公卿補任』でも、経頼を扶義の次男とする。資料に... ...続きを見る

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2005/05/26 23:01
左馬頭良経
藤原良経(一〇〇〇−一〇五八)中将源成頼の末子。母後朱雀天皇御乳母(『尊卑分脈』などでは朱雀天皇御乳母)。実名良経。始め冷泉院皇子為尊親王養子(『権記』長保三年十月九日条)、のち権大納言藤原行成の実子となる(『春記』長暦二年十二月十四日条)。そのため同時代資料では「藤原良経」と見える。  童殿上(『権記』寛弘八年六月十一日条、および沙々貴神社佐々木系図に「童形時常有帝王傍□生育」)、少納言(『権記』寛仁元年八月九日条)、尾張権守、左馬頭、殿上人、後一条天皇側近(『左経記』長元五年二月十九日条・... ...続きを見る

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2005/05/25 21:15
蔵人経方
平経方(生没年未詳)左馬頭良経の子孫か。兵庫助、従五位下(『尊卑分脈』宇多源氏流)。昇殿、兵庫助、兵部大輔(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。式部大輔(『西讃府志』)。『作者部類』の祐子内親王家紀伊の記事では、経方を散位平経重とする。叙爵後に経重(重経)と改名したのだろう。  経方は、『帥記』康平八年(一〇六五)七月七日条に後冷泉天皇(後一条皇子・後朱雀兄)の蔵人として登場する。記事の内容は、蔵人経方が記主である源経信に消息(手紙)を送ったというものである。記主経信は宇多源氏六条... ...続きを見る

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2005/05/24 23:42
常盤恵冠者為俊
平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条では「四位陪従家定」とある。  『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治二年(一〇八八)の『白河上皇高野御幸記』(寛... ...続きを見る

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2005/05/20 00:20
『源行真申詞記』
鳥羽院政期に近江佐々木氏で内部抗争があった。鳥羽院と美福門院得子のあいだに生まれた近衛天皇が即位して間もない永治二年(一一四二)二月に京都で新六郎友員という武者が殺され、検非違使庁は友員の伯父源行真を容疑者として取り調べた。この使庁の尋問に対する行真の陳述書が『源行真申詞書』(『平安遺文』六巻二四六七号)である。  同文書は、当時検非違使別当(検非違使庁長官)であった閑院流藤原氏の内大臣三条公教の子息左大臣実房の日記『愚昧記』の紙背文書として、偶然に伝わったものである。子息実房が、用済みとなっ... ...続きを見る

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2005/05/19 15:07
佐々木源三秀義
源秀義(生年未詳−一一八四)本名源資長。実父源有賢。始め左大臣藤原頼長の家礼、のち近衛天皇蔵人(『台記』)、叙爵、鳥羽院殿上人、宮内卿大夫(『兵範記』)、上総介(『尊卑分脈』宇多源氏時中流資長の項)。源為義の猶子(『尊卑分脈』『続群書類従』)、為義の娘婿(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。佐々木三郎(『尊卑分脈』)、佐々木源三秀義(『吾妻鏡』)。  平治の乱後、秀義は近江佐々木庄領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼ろうと東下したが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた相模渋谷庄司重国に引き留められて... ...続きを見る

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2005/05/18 23:59
蔵人の尉定綱
佐々木定綱(生年未詳−一二〇五)秀義の長男。母源為義娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。佐々木太郎、佐々木左衛門尉、佐々木判官(『吾妻鏡』)。  父秀義に従い東下して、はじめ下野宇都宮朝綱の許に寄寓するが、のち父秀義の指示で弟盛綱とともに伊豆配流中の源頼朝に近侍した。治承四年(一一八〇)八月の源頼朝の挙兵では、弟経高・高綱とともに伊豆目代山木兼隆の後見堤信遠を討った。弟盛綱は始め加藤景廉とともに頼朝の側近に仕えていたが、頼朝の命で追討軍に加わり加藤景廉とともに兼隆の首を獲った。... ...続きを見る

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2005/05/17 16:23
山城守広綱
佐々木広綱(生年未詳−一二二一)定綱の長男。小太郎。左兵衛尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、山城守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。広綱の諱字から、母は宇都宮朝綱の娘(定綱の本妻)で、大江広元が烏帽子親あるいは舅であったと推定できる。源平合戦で活躍した叔父経高・盛綱より早く任官し、建久二年(一一九一)当時すでに左兵衛尉に補任されていた。  建久二年(一一九一)比叡山の抗争では隠岐に流されたが、後白河院の仏事による恩赦で建久四年(一一九三)に帰京し、左衛門尉に昇進し、父定綱についで近江・隠岐... ...続きを見る

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2005/05/16 14:21
近江守信綱
佐々木信綱(一一八一−一二四二)定綱の四男。母は新田義重娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。本妻は川崎為重娘(『尊卑分脈』)。正妻は北条義時の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。左近衛将監、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、従五位上(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。沙々貴神社所蔵佐々木系図では左衛門佐とするが、検非違使叙留を左衛門佐任官と誤り伝えたものであろう。  正治二年(一二〇〇)十月後鳥羽院が近江柏原庄地頭弥三郎為永の討伐を宣下したものの、柏原為永... ...続きを見る

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2005/05/14 01:29
壱岐大夫判官泰綱
佐々木泰綱(一二一三−一二七六)佐々木信綱の三男。母北条義時娘。三郎、佐々木判官三郎、近江三郎兵衛尉、近江三郎左衛門尉、検非違使、叙留、近江大夫判官、従五位上、壱岐守、壱岐大夫判官(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。  父信綱が近江守護在職中にすでに左兵衛尉、左衛門尉を歴任し、嘉禎二年(一二三六)九月五日父信綱が評定衆を辞職して遁世すると、その年十一月二十二日には検非違使に補任された(二十三歳)。さらに叙爵(従五位下に叙位)されても検非違使にとどまることは叙留といい大変名誉なこととされたが、泰綱は... ...続きを見る

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2005/05/12 23:04
備中守頼綱
佐々木頼綱(一二四二−一三一〇)泰綱の次男。母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。  建長二年(一二五〇)十二月三日北条時頼邸で元服して「三郎頼綱」と名乗った。このとき九歳であった(『吾妻鏡』)。翌建長三年(一二五一)十一月十三日将軍藤原頼嗣に供奉している(『吾妻鏡』)。正嘉元年(一二... ...続きを見る

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2005/05/11 15:04
備中判官時信
佐々木時信(一三〇六−一三四六)頼綱の末子。母は後伏見院女房(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。三郎、左兵衛尉、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、従五位上、備中守、近江入道(『園太暦』貞和二年十二月二十四日条)、芝田原殿(『比牟礼八幡宮領条々』)。正和三年(一三一四)十二月十四日に九歳で元服し、幼少のまま近江守護を勤めた。そのため、広定(信綱弟)流佐々木氏の青地冬綱(常楽院文書:正和二年九月十六日付檜物庄預所宛守護書下案)・馬淵範綱(東大寺文書:元享四年五月二日付馬淵範... ...続きを見る

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2005/05/08 19:32
大夫判官氏頼(入道崇永)
六角氏頼(一三二六−一三七〇)佐々木時信の長男。母は長井時千娘。孫三郎(山中文書)、近江三郎(小佐治文書)、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、大夫判官入道。建武二年(一三三五)父時信の辞職にともない近江守護を継ぐものの幼少のため、一族馬淵義綱が守護代になった。暦応元年(一三三八)足利尊氏の加冠で元服した。このとき尊氏の猶子になったのだろう、康永二年(一三四三)に十八歳で検非違使補任に補任された。これは異例の早さである。しかも康永四年(一三四五)二十歳で叙爵されて従五位下大夫判官となった。さら... ...続きを見る

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2005/05/07 01:32
右兵衛佐義信
六角義信(一三四九−一三六五)氏頼の長男。母は佐々木道誉娘(『祇園執行日記』貞和六年三月五日条で氏頼を「大法師婿」とする)。幼名千手(千寿)。観応の擾乱で足利尊氏・直義両派の誘いに窮して出家した父氏頼の譲りを受けて、観応二年(一三五一)六月二十五日六角氏の家督を継承した。ただし幼少のため、叔父山内信詮(定詮)が近江守護を預かった(『太平記』二十九巻八重山蒲生野合戦事)。山内信詮(五郎左衛門尉・備中大夫判官)が守護正員ではなく守護を預かる立場であったことは、『園太暦』で信詮(五郎左衛門尉)を「江州... ...続きを見る

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2005/05/06 00:37
左京大夫満高
六角満高(一三六五−一四一六)氏頼の子。母藤原氏。実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系図)。正妻は足利基氏娘(『足利治乱記』)。法号は大慈院宝山崇寿。  貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂され... ...続きを見る

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2005/05/05 01:14
大膳大夫満綱
六角満綱(一四〇一−一四四五)満高の長男。母は足利基氏の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。四郎右兵衛尉、大膳大夫、従四位下、近江守護。正妻は足利義満娘(『系図纂要』足利系図)。法号は龍雲寺殿貞山宗岱。  応永十八年(一四一一)将軍足利義持による飛騨国司姉小路尹綱追討の命を拒否したため、満高・満綱父子は近江守護を解任されたが、まもなく父満高は近江守護に復職した。応永二十二年(一四一五)伊勢北畠満雅追討では満綱が出陣している(『勢州軍記』『満済准后日記』応永二十二年四月十日条)。... ...続きを見る

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2005/05/02 11:49
兵部大輔持綱
六角持綱(生年未詳−一四四五)満綱の長男。四郎右兵衛尉、兵部大輔、従四位上、近江守護。法号は西蓮寺殿瑞岳宗勝。常善寺過去帳では、法号西蓮寺前兵部宗勝。  父満綱が在京したため、早くから近江守護の政務を任され、『花営三代記』応永二十八年(一四二一)二月十八日条と翌二十九年(一四二二)九月十八日条に、将軍義持の伊勢神宮御参宮で、持綱が草津での御昼休を沙汰したことが記されている。また同記応永三十一年(一四二四)十二月二十七日条の貢馬の記事で、貢馬注文の写しに「六、佐々木左京大夫入道跡、今は六角四郎兵... ...続きを見る

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2005/05/01 23:51
近江守久頼
六角久頼(生年未詳−一四五六)満綱の末子。母は足利直冬娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。始め相国寺僧周恩。四郎、近江守、従四位上、近江守護。法号は詳光寺殿融山周恩。  文安元年(一四四四)七月六角氏被官が、近江守護六角持綱(四郎、兵部大輔)の無道を訴え、持綱の弟時綱(五郎、民部少輔)を奉じて一揆を起こした(『康富記』文安元年七月一日条)。そして文安二年(一四四五)正月満綱・持綱父子は自殺した(『東寺執行日記』『師郷記』)。文安の乱である。管領細川勝元は時綱の近江守護補任を認め... ...続きを見る

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2005/04/28 20:35
大膳大夫政勝
六角政勝(生没年未詳)久頼の長男。『甲賀二十一家之由来』では「政頼」。六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫、近江守護。  康正二年(一四五六)父久頼が憤死すると、遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄二年(一四五八)五月十四日亀寿は突然近江守護を解任され、後見の政堯が近江守護に補任された(『尋尊大僧上記』長禄二年六月八日条)。幕府が六角氏の内政に干渉したのである。... ...続きを見る

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2005/04/27 23:46
大膳大夫高頼
六角高頼(一四六二−一五二〇)政勝の長男。幼名亀寿、本名行高、四郎、大膳大夫、右兵衛入道(『御内書案』)、近江守護。法号は龍光寺殿嘉山宗椿。  応仁・文明の乱で東幕府は六角政堯を近江守護に補任し、西軍の高頼に対抗させたが、政堯は戦没した。替わって東軍の重鎮京極持清が近江守護に補任された。しかし持清・勝秀父子が相次いで没すると、持清の三男政経が東軍に、末子高清が西軍に分かれて京極氏は弱体化した。そのため高頼は領国支配を着実に進めることができ、京都の隣国近江は西軍一色になった。  また西軍と古河... ...続きを見る

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2005/04/26 23:38
近江守氏綱
六角氏綱(一四九二−一五一八)高頼の長男。母足利成氏娘(実は近衛政家娘か)。亀寿、四郎、近江守、従四位上。法号は雲光寺殿日山宗佐。  永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏綱が近衛家の縁者だったと推定できる。さらに『重編応仁記』などで先天的に身体に障害があったとする記述が誤りだと分かる。著名な学者が書いたからといって正しいわけではな... ...続きを見る

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2005/04/25 13:13
江州宰相義久(義実)
六角義久(一五一〇−一五五七)氏綱の長男。母堀越公方足利政知娘(足利義澄妹)。六角四郎。大膳大夫、近江守、参議、権中納言。諸系図では「義実」。『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に「江州宰相」が登場し、天文八年(一五三九)五月十九日条と二十日条に宰相上洛と下向の記事がある。この記事がある『鹿苑日録』十六巻表紙の頭書では、この宰相のことを「相公」と記している。「宰相」も「相公」も参議の唐名だが、『鹿苑日録』では「相公」は将軍を意味する。同書の用語法に従えば、「江州宰相」は将軍もしくは将軍連... ...続きを見る

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2005/04/24 17:22
宰相義秀(徳川公)
六角義秀(一五三二−一五六九)義久の長男。母は後奈良院典侍。幼名亀寿、本名公能。足利義晴養子。修理大夫、参議。『お湯殿の上の日記』に六角氏の幼名亀寿が頻出する。それは、天文十四年(一五四五)十二月五日典侍が亀寿元服の御礼に音物を進上しているように、亀寿の母が後奈良院典侍だからだ。  『お湯殿の上の日記』は、天皇常住の常御殿のお湯殿の間で、天皇近侍の女官典侍が記した当番日記である。その内容は天皇の動静が主で、恒例・臨時の行事、任官・叙位・下賜・進献、および将軍以下の参内の様子も記している。また女... ...続きを見る

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2005/04/23 00:11
左兵衛佐義郷
六角義郷(生年未詳−一五八二)義秀の子、あるいは弟。左兵衛佐。沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木系図略などの諸系図や、『江源武鑑』『佐々木軍記』など編纂物では、義秀の子息とする。しかし朽木文書で「中左兵衛佐氏郷」と署名していることから、『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月十二日条で、亀寿(義秀)とともに音物を進上した「中」と同一人物と推定できる。そうであれば義秀の弟だろう。  永禄十一年(一五六八)九月義秀は足利義昭を観音寺城に迎え、二十二日織田信長とともに上洛軍を起こして(『お湯... ...続きを見る

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2005/04/22 00:01
大本所義堯
六角義堯(一五五一−一五八二)義秀の子。足利義輝実子(続群書類従本伊勢系図)。亀千代(『お湯殿の上の日記』『親俊日記』)。本名実頼(『山中文書』)。系図では実名義頼、官職は右京大夫(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)、あるいは左京大夫(続群書類従本伊勢系図)。和田山城主(『江源武鑑』)。六角承禎(義賢)からは「大本所」(『坂内文書』)と呼ばれた。  沙々貴神社所蔵佐々木系図では、義堯に相当する義頼について、始め若狭武田義統の養子となり、のち帰家したと伝える。しかし若狭武田氏の養子に... ...続きを見る

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2005/04/21 00:18
左衛門督侍従豊臣義康
六角義康(生年未詳−一六二三)義堯の子息。母は織田信長養女(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。六角氏と岩倉・犬山織田氏が行動をともにし(『織田信長文書の研究』:『武家事記』二十九所収松井友閑宛織田信長黒印状写)、六角佐々木氏系図略で義康母を「信康女」とすることから、義康母は犬山之伊勢守息女(『織田信長文書の研究』:『南陽堂楠林氏文書』所収天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状)と推定できる。官位は、右兵衛佐・左衛門督・侍従・左近衛中将・近江守と累進した。近江八幡山城主。系図... ...続きを見る

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2005/04/19 23:52
左馬頭義政
仁木義政(生年未詳−一五七三)六角氏綱の次男。五郎次郎。佐々木左馬頭。実名は義信であろうか(『安養寺文書』)。系譜伝承では「河端義昌」「八幡山義昌」とする。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されると、弟義昭(覚慶)は近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏を頼った。永禄十年(一五六七)には足利義昭の朝倉義景邸御成があり、このとき六角氏被官山内六郎左衛門尉と九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、亭主朝倉義景と義政(仁木殿)が義昭を大門の外で出迎えている(『朝倉義景亭御成記』)。このとき義政は迎えられる側では... ...続きを見る

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2005/04/18 01:34
朝倉義景
朝倉義景(一五三三−一五七三)六角氏綱の孫。義久あるいは義政(仁木殿)の子。 朝倉孝景の養嗣子。幼名長夜叉丸。本名延景。従四位下、左衛門督。越前国主。  『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」では、義景が六角氏綱の子息だという異説が記されている。しかし、これまでは氏綱の没年が永正十五年(一五一八)で、義景の生年が天文二年(一五三三)であることから、年代が一致しないと否定されてきた。しかし義景誕生の前年・天文元年(一五三二)十二月に、六角氏と朝倉氏の間で密約が交わされている。これに関連する天文元年十... ...続きを見る

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2005/04/17 21:41
弾正少弼定頼
六角定頼(一四九五−一五五二)高頼の次男。始め相国寺僧承亀。永正十三年(一五一六)九月戦傷で病床にあった兄氏綱の陣代になった(永源寺文書)。翌永正十五年(一五一八)に氏綱が病没すると、氏綱の嫡子義久(四郎)が家督を相続した。さらに永正十七年(一五二〇)父高頼も病没すると、定頼が還俗して甥義久の後見になった。  大永元年(一五二一)足利義稙が管領細川高国と不和になり、淡路に出奔すると、替わって足利義晴(義澄の子)が高国を支持して入京し、将軍に就任した。翌二年(一五二二)三月定頼も入京し、六角氏は... ...続きを見る

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2005/04/16 14:19
左京大夫義賢(入道承禎)
六角義賢(一五二一−一五九八)定頼の長男。四郎。天文八年(一五三九)閏六月能登畠山義総の娘と祝言(『大館日記』『鹿苑日録』)、同年十月には従五位下左京大夫に補任された(『歴名土代』)。天文十一年(一五四二)には従兄弟義政(六角氏綱の次男)とともに伊勢出兵し、伊勢北畠氏を破った。これによって六角氏は北伊勢員弁・朝明両郡を獲得している。しかし義賢が単独で行動をとるのは、もうすこし後のことである。  天文十七年(一五四八)には細川晴元政権の内部で三好長慶と三好政長が対立すると、晴元は政長を支持して長... ...続きを見る

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2005/04/15 00:08
右衛門督義治
六角義治(一五四四−一六一二)義賢の長男。母能登畠山義総娘。幼名亀松丸(朽木文書:十一月二十八日付佐々木民部少輔宛亀松丸書状、同日付同宛水原氏家書状)。本名義弼。四郎、右衛門尉(木村文書『六角氏書状巻物』)、右衛門督(『顕如上人書状案』)。法名玄雄。  永禄三年(一五六〇)宿老衆が義弼(四郎)と美濃斎藤義龍の娘との縁談を進めた。それに反対した父六角承禎の同年七月二十一日付書状(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)によって、斎藤道三の国盗りが、実は父長井新左衛門尉との二代にわたるものであったことが分か... ...続きを見る

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2005/04/14 00:15
中務大輔高盛
大原高盛(一五四七−一六二〇)義賢の次男。母は土岐頼芸妹。大原高保(氏綱弟)の養子。次郎左衛門尉・中務大輔。本名は高定。『近江蒲生郡志』では「義定」とするが、「義定」と自署する文書はない(『龍太夫文書』ほか)。佐々木六角氏で「義」の字を使用するのは、将軍から給付されたときであり、高盛が兄義治から家督を継承したように見せるため、「義定」という名乗りが創作された可能性が高い。高盛の孫で江戸幕府旗本の源兵衛高重が「義定」という名乗りを創作したと考えられる。実際、宝永五年(一七〇八)に、兄義治の子孫であ... ...続きを見る

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2005/04/13 00:06

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