テーマ:佐々木系図

左衛門督侍従豊臣義康

六角義康(生年未詳-一六二三)義堯の子息。母は織田信長養女(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。六角氏と岩倉・犬山織田氏が行動をともにし(『織田信長文書の研究』:『武家事記』二十九所収松井友閑宛織田信長黒印状写)、六角佐々木氏系図略で義康母を「信康女」とすることから、義康母は犬山之伊勢守息女(『織田信長文書の研究』:『南陽堂…
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左馬頭義政

仁木義政(生年未詳-一五七三)六角氏綱の次男。五郎次郎。佐々木左馬頭。実名は義信であろうか(『安養寺文書』)。系譜伝承では「河端義昌」「八幡山義昌」とする。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されると、弟義昭(覚慶)は近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏を頼った。永禄十年(一五六七)には足利義昭の朝倉義景邸御成があり、このとき六角氏被官山内…
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朝倉義景

朝倉義景(一五三三-一五七三)六角氏綱の孫。義久あるいは義政(仁木殿)の子。 朝倉孝景の養嗣子。幼名長夜叉丸。本名延景。従四位下、左衛門督。越前国主。  『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」では、義景が六角氏綱の子息だという異説が記されている。しかし、これまでは氏綱の没年が永正十五年(一五一八)で、義景の生年が天文二年(一五三三)である…
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弾正少弼定頼

六角定頼(一四九五-一五五二)高頼の次男。始め相国寺僧承亀。永正十三年(一五一六)九月戦傷で病床にあった兄氏綱の陣代になった(永源寺文書)。翌永正十五年(一五一八)に氏綱が病没すると、氏綱の嫡子義久(四郎)が家督を相続した。さらに永正十七年(一五二〇)父高頼も病没すると、定頼が還俗して甥義久の後見になった。  大永元年(一五二一)足利…
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左京大夫義賢(入道承禎)

六角義賢(一五二一-一五九八)定頼の長男。四郎。天文八年(一五三九)閏六月能登畠山義総の娘と祝言(『大館日記』『鹿苑日録』)、同年十月には従五位下左京大夫に補任された(『歴名土代』)。天文十一年(一五四二)には従兄弟義政(六角氏綱の次男)とともに伊勢出兵し、伊勢北畠氏を破った。これによって六角氏は北伊勢員弁・朝明両郡を獲得している。しか…
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右衛門督義治

六角義治(一五四四-一六一二)義賢の長男。母能登畠山義総娘。幼名亀松丸(朽木文書:十一月二十八日付佐々木民部少輔宛亀松丸書状、同日付同宛水原氏家書状)。本名義弼。四郎、右衛門尉(木村文書『六角氏書状巻物』)、右衛門督(『顕如上人書状案』)。法名玄雄。  永禄三年(一五六〇)宿老衆が義弼(四郎)と美濃斎藤義龍の娘との縁談を進めた。それに…
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中務大輔高盛

大原高盛(一五四七-一六二〇)義賢の次男。母は土岐頼芸妹。大原高保(氏綱弟)の養子。次郎左衛門尉・中務大輔。本名は高定。『近江蒲生郡志』では「義定」とするが、「義定」と自署する文書はない(『龍太夫文書』ほか)。佐々木六角氏で「義」の字を使用するのは、将軍から給付されたときであり、高盛が兄義治から家督を継承したように見せるため、「義定」と…
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