テーマ:六角義秀研究

六角義秀の研究・序

 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿より二色二かまいる」とあり、亀寿の元服で、典侍(ないしのすけ)が天皇家に御礼を進上している。また同書の天文二十一年(一五五二)十一月二十七…
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『お湯殿の上の日記』と六角亀寿

 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期に六角高頼は『碧山日録』で「亀」「亀子」「亀寿子」などと呼ばれている(1)。『碧山日録』の記主太極は、近江北郡守護京極氏の一族である佐々木…
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足利義晴政権と六角亀寿

 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するようになる。  天文六年四月三十日条「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。これ以後、日常的な物を進上するようになる。まず…
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六角亀寿の元服

 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をしていることから、典侍が亀寿の母であったことが分かる。天文九年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」という新大典侍の子が参上した記事は、亀…
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六角亀寿の実名

 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、同書によっては、知ることができない。それだけ同書を書き継いだ人々にとっては、六角亀寿は親近な存在であったことが分かる。そこで、六角亀寿の実…
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『万松院殿穴太記』作者と六角氏

 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年(一五五四)七月九日条に「内侍所へ罷向、穴太記読之、盞有之」とあるように、同書は天皇家の内侍司に収められていた。この記事から同書が天文二十…
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六角亀千代

 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には京都の東寺に入った(『言継卿記』『厳助大僧正記』)。細川氏綱が細川氏家督となり、晴元は若狭に出奔した(『言継卿記』)。また三好長慶は将軍御…
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六角義秀と小倉良秀

 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そうであれば、こののち義秀が早世した理由も分かる。  当時、六角氏は京都政界から遠ざかっている。そのため徳川公の動向はまったく分からない。…
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桶狭間の戦いと六角氏

 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するようになっても、六角氏に関する記事は少なくなる。 永禄元年(一五五八)五月三日将軍義輝は六角氏の援助で近江坂本に移り、さらに六角氏が将軍義…
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修理大夫書状

 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と見ることができる。修理大夫は参議が兼職することのできる官職であることも、徳川公義秀が修理大夫であったことと矛盾しない。     又三…
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観音寺騒動と足利義輝殺害事件

 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。  しかし永禄六年(一…
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足利義昭入洛運動

 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶ら…
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江州殿と織田信長の入洛

 足利義秋が北陸を移座している間、永禄十年(一五六七)四月十八日に六角氏式目(義治式目)が制定された。三上越後守(恒安)・後藤喜三郎(高治)・三井新五郎(治秀)・真光寺周揚・蒲生下野守入道(定秀)・青地入道(道徹)・青地駿河守(茂綱)・永田備中守入道(賢弘)・平井加賀守(定武)・馬淵山城守入道(宗綱)・三雲対馬守(定持)・永田刑部少輔(…
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義秀遠行

 入洛直後に義秀は病没した。やはり義秀は傷病に苦しんでいた。滋賀県和田文書の(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状(27)によれば、信長は義秀が没したとの報に接して言語を絶するとともに、近く起こるであろう六角承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めた。   義秀遠行之趣絶言語儀候、承禎帰国者近可有之条、各尤油断   有之間敷…
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朝倉義景と六角義景

 越前の戦国大名朝倉義景は、六角氏綱の子息であったという異説がある。富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』で、義景=六角氏説は異説として紹介されている(30)。六角氏側では、『江源武鑑』はまったく伝えていないものの、沙々貴神社本佐々木系図と『六角佐々木氏系図略』が、六角氏綱の次男として朝倉義景を記述している。  これまで…
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浅井久政・長政父子と六角氏

 『江源武鑑』『浅井日記』では、浅井長政を六角氏の武将と伝えている。また『六角佐々木氏系図略』では、浅井久政は六角氏の庶子だったとも伝えている。もしそうであれば、六角氏と朝倉・浅井両氏は深く結び付いており、元亀争乱で浅井長政が朝倉義景に寝返ったことも理解できる。少なくとも浅井久政の名乗りは、江州宰相六角義久の諱字を給付されたものと考えら…
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元亀争乱と近江修理大夫

 『言継卿記』元亀元年(一五七〇)四月二十九日条に、「江州へ六角出張云々、方々放火云々、北郡浅井申合、信長に別心せしむ云々」とある。当時は、浅井氏が信長に反旗を翻したのは、六角氏と示し合わせたためと考えられていたことが分かる。また(元亀元年)七月十六日付益田藤兼宛朝山日乗書状(42)に「江州北之郡浅井別心候、則ち六角殿も六千計りにて取り…
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比叡山再興と佐々木氏郷

 元亀二年(一五七一)信長によって焼き打ちされた比叡山延暦寺を、佐々木氏郷(義郷)が元亀三年(一五七二)蒲生郡中荘山に再興したという伝承がある(45)。氏郷が七百石を寄進したことで、近江蒲生郡中荘山を新比叡山として延暦寺が再建された。坊舎は七十二坊を数えたという。この七百石はその土地の収穫高ではなく、年貢高である。現在の長命寺の建物はそ…
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六角義堯と佐々木左馬頭

 元亀三年(一五七二)九月御屋形様が一向一揆を観音寺城に入城させた。この御屋形様は六角義堯と考えられる。義堯は、山中文書所収の(年未詳)十月二日付六角承禎書状(51)に登場する。  夜前に義堯の許を訪れた者があり、そのことについて義堯が夜中に池田氏を使者として承禎・義治父子に相談したという。その相談内容は書中に書けないとするものの、1…
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足利義昭政権と元亀争乱

 実は元亀争乱は、朝倉義景が足利義昭の上洛命令を拒否したことで始まっている。足利義昭は単なる傀儡ではなく、畿内政権の実質的主体として将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年(一五六八)十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」といわれている。義昭は畿内を幕府系の諸将に配分するこ…
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