テーマ:研究実況中継

多賀大社梵鐘銘文(天文24年)

  多賀大社鳧鐘銘文 天文二十四年九月二十日                           本願上人祐尊謹誌  大日本国近江州多賀大社鳧鐘     天文廿四年九月廿日奉鋳之畢 佐々木宮内少輔源賢誉 横関妙祐        太田監物 尼子沙彌宗志       同 彦助        同 安久里女 多賀豊後守     …
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『天文三年浅井備前守宿所饗応記』

『天文三年浅井備前守宿所饗応記』 浅井備前守(亮政) 御屋形様(京極高清) 御曹司様(高広) 「一族衆」 京極加賀守政数 加賀五郎(政数甥) 黒田四郎左衛門尉(宗清) 岩山民部少輔 高橋兵部少輔(清世) 碧憪斎 「奉行人」 大津若狭守(清忠) 山田越中守(清氏) 「国人衆」 熊谷下…
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美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂)

 鎌倉期の土岐氏は美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎と称した。系図では頼貞母を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条時定女の誤りだろう。時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国i阿蘇社領を管理し…
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永原氏の系譜(2訂)

 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐…
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久留里藩主黒田家の系譜

 一般に宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏というと外様大名の筑前福岡藩主黒田家が有名だが、実は譜代大名である久留里藩主黒田家も先祖が近江出身であり、宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏の子孫の可能性がある。  『寛政重修諸家譜』によれば久留里藩主黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱(信濃守)に始まり、定綱の子広綱のとき黒田氏に改めたという。寛政譜では黒田…
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木地師小椋氏の系譜(4版)―清和源氏満季流と本佐々木氏

 木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。  建久二年(1191)四月近江守護佐々木定綱と山門が抗争した。前年近江に大水害があり、多くの荘園が年…
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後南朝の系譜伝承についての雑考

 正長元年(1428)7月に称光天皇が嗣子のないまま危篤状態に陥ると、父の後小松上皇は北朝系の伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとした。これは南北朝合一の条件のひとつ両統迭立を無効とするものであり、南朝皇族である小倉宮が異議を唱えた。南北朝合一後の南朝皇族を後南朝というが、ここから後南朝の活動が活発になる。  小倉宮は、…
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武田二十四将横田高松の系譜(改訂)

 武田氏二十四将のひとり横田高松の孫伊松は徳川家康に五千石で召しだされて幕府旗本となり、さらに田沼意次の側近横田準松(筑後守)のときには御側御用取次として権勢を振るい、加増されて家禄九千五百石となり、旗本筆頭となった。横田氏は家伝によれば、佐々木三郎秀義の末孫次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、横田川和泉村のほとりに采地…
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横山氏の系譜―高島七頭(3)

 高島郡横山郷地頭職は鎌倉初期には大江広元であったが、佐々木広綱に譲られた(地蔵院文書)。このことから、佐々木広綱が大江広元の女婿であったことが分かる。広綱の「広」の字は、烏帽子親であり舅でもある広元の一字書き出しであろう。しかし山城守広綱が承久の乱で京方であったことから、乱後に鎌倉方の弟近江守信綱(当時は右衛門尉)に与えられ、それが近…
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朽木氏の系譜―高島七頭(2)

 朽木氏は、高島高信の次男出羽守頼綱に始まる佐々木出羽家のうち、頼綱の次男出羽守義綱が承久勲功の朽木庄を相続したことに始まる。頼綱は霜月騒動で活躍し、安達泰盛(城陸奥守)追討賞で出羽守を受領した。安達氏の名乗り「城」は出羽介兼秋田城主を意味する出羽城介を世襲したことに由来するため、出羽守補任には特別な意味があるようにも思える。『尊卑分脈…
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越中家(高島)と能登家(平井)の系譜―高島七頭(1)

西佐々木氏(高島七頭)の系譜  近江守護佐々木近江守信綱の次男近江二郎左衛門尉高信は高島郡田中郷を与えられ、その子孫は繁栄して「西佐々木」あるいは「高島七頭」と呼ばれる武士団を形成した。高信の母は長男近江太郎左衛門尉重綱と同じく川崎五郎為重女であろう。為重は比企能員の乱で滅亡したため、母が北条義時女である三男泰綱(六角氏)・四男氏信(…
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永原氏の系譜

 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐…
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能登畠山氏と佐々木氏

 能登にも佐々木氏が多く分布しているが、能登畠山氏は佐々木六角氏と重縁の関係にあり、義綱の奉行人馬淵綱重(彦三郎)は近江六角氏の重臣馬淵氏の出身と考えられる。また六角義賢(承禎)も晩年の一時期を能登で過ごし、自画像を遺している(裏本友之氏所蔵文書)。この佐々木六角氏と能登畠山氏を結ぶのが、羽衣伝説で有名な近江国余呉荘であった。  三河…
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河野親清と首藤親清

 河野氏は伊予国越智郡郡司である越智氏の子孫と伝えられるが、通清の父親清は伊予守源頼義の四子三島四郎親清であるという。実は源頼義・義家父子の有力な郎等に首藤資清(佐藤公清の猶子守部氏)があり、その孫が左衛門少尉親清である。資清の子資道(豊後権守)は康和三年(一一〇一)源義家の子対馬守義親が鎮西で反乱を起こしたとき、義家の命を受けて鎮西に…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(6)

 『聖絵』と同様に資料価値があるとされている伝記絵巻に、『遊行上人縁起絵』(以下、『縁起絵』)がある。全十巻四十三段で、前半の四巻までが一遍の伝記、後半の五巻から十巻までが真教の伝記となっている。原本は現存せず、鎌倉時代から江戸時代の模写本が二十数本残っているだけである。  それら模写本の詞書から、『縁起絵』作者は平宗俊(真光寺本)あ…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(5)

 久我通光(一一八七―一二四八)は臨終にあたり、遺産のすべてを後妻三条(西蓮)に譲渡したため、先妻の子どもとの間に所領問題が生じた。通光の嫡子右大将通忠(一二一六―一二五〇)は継母三条に対して割譲を求めたが、後嵯峨上皇の院宣によって、通忠には山城国久我荘を認められただけであり、そのほかの所領は三条が相続した。さらに三条は肥後国山本荘・近…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(4)

 これまで後援者「一人」を摂関・太政大臣・右大臣に当てはめていたために、特定するに至らなかったのではないだろうか。そこで発想を変えて、「一人」を不定代名詞「ひとり」という意味で「いちにん」と読めば、土御門定実および大炊御門冬輔など、広く一遍に結縁した有力者のなかに後援者をもとめられよう。両者ともに『聖絵』の登場人物の一人である。とくに大…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(3)

 そこで、当時はまだ結婚形態が女系から男系に移る過渡期であり、西日本の系図では女系も重視されたことを念頭におくならば、通成の親族を男系に絞る必要はない。  そのような観点から見れば、中院通成は、太政大臣西園寺実兼(一二四九―一三二二)の正妻従一位顕子の父であり、左大臣西園寺公衡(一二六四―一三一五)や永福門院(伏見院中宮)・昭訓門院(…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(2)

 『聖絵』巻七第二段によれば、弘安七年(一二八四)京都因幡堂に移った一遍の許を、土御門入道前内大臣が訪ねて念仏の縁を結んでいる。公家で結縁した最初の人物である。この人物は、土御門通親の孫である内大臣中院通成(一二二二―八六)と考えられる。土御門一門は、藤原道長の女婿であった村上源氏右大臣師房に始まる公家の名門で、院政期に摂関家の対手とし…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(1)

 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)制作の後援者は、『聖絵』巻十二第三段の詞書に「一人のすすめによりて、この画図をうつし」とある「一人」である。この「一人」について、「いちじん」と読めば天皇であるが、「いちのひと」と読めば摂政・関白であるため、歓喜光寺所蔵『開山弥阿上人行状』にあるように、これまで関白九条忠教(一二四八―一三三二)と考えられ…
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斎藤道三の国盗りは父子2代(六角承禎書状)

天文・弘治年間足利義晴・義輝父子を保護しているあいだ、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護。北伊勢で北畠氏と抗争。弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化した。  永禄三年(一五六〇)浅井長政の自立阻止のため、承禎は北近江に侵攻。しかし野良田合戦では敗北。そこで宿老衆は、承禎の長…
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六角・朝倉同盟を示す朝倉教景書状の紹介

天文元年(一五三二)十二月に六角氏と朝倉氏の間で密約。天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫『古今消息案』)にくわしく記されていないが、「末代迄」という文言から重要な内容とわかる。翌年に義景が誕生したことになっているが、『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」には義景が六角氏綱の子という異説が記されている。関…
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『佐々木六角氏の系譜』結語

 佐々木六角氏研究は面白い。とくに系図については、入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されているものの、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくるからだ。では、どうして否定されていたのだろうかという素朴な疑問が生まれる。  理由は多くあるが…
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『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」3

 もうひとつ系譜伝承を資料として用いた実践例を挙げておこう。沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、鎌倉期の近江守護六角流佐々木頼綱(佐々木備中守)の娘に参議左大弁俊雅の母という人物がいる。しかし頼綱と同時代の公卿に俊雅という人物はいない。実は俊雅は平安後期の醍醐源氏流の公卿であり、鎌倉期の佐々木頼綱とは年代が一致しない。しかも俊雅の母は、清…
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『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」2

系譜学の試み  わたしの研究方法は、まず系譜伝承には錯誤・隠喩という形で史実が含まれているという前提から出発する。そのため系図の記述をそのまま使用するのではなく、錯誤・隠喩のもとになる史実を探し出すため、まず系譜伝承をさまざまな要素に分解する。つぎに抽出した要素をもとに作業仮説を立てる。そしてその作業仮説を資料に照らし合わせ、矛盾があ…
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『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」1

 これまで江戸初期の学者沢田源内は、旧近江守護家佐々木六角氏の子孫と名乗るため、戦国期の近江守護六角氏綱に義実-義秀-義郷という架空の人物をつなげ、自らを義郷の子息氏郷を記す系図を創作したと考えられてきた。しかし氏郷と同時代の人々には、氏郷はまさに佐々木六角氏の直系と認められていた。さらに幕府編集の『寛政重修諸家譜』でも、氏綱の弟の系統…
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常盤恵冠者為俊(再改訂版)

平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条では「四位陪従家定」とある。 …
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検非違使為俊と四位陪従家定

『尊卑分脈』『続群書類従』をはじめとする佐々木系図で、平為俊は源季定に改名したとされるが、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ヽヽ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。陪従とは賀茂神社・石…
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童任官の記事

『長秋記』は村上源氏左大臣俊房の二子権中納言(兼皇后宮権大夫)師時の日記だが、その元永2年(1119)8月14日条で、後三条天皇の孫有仁王へ源氏賜姓のこと、三位に叙位すべきことが記されている。さらに続けて「以某丸可任掃部属者」と、童の任官のことが取り上げられている。『中右記』同日条を見ると清原清友が掃部少属に任じられているので、『長秋記…
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祐子内親王家紀伊と経方

小倉百人一首の72番「音にきく高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ」(名高し高師の浜のあだ波を、袖に掛けたりはしません 掛けてしまって涙で袖を濡らしたくはありませんから)で有名な歌人祐子内親王家紀伊は、母小弁と同じく後朱雀天皇皇女祐子内親王(高倉一宮)家に出仕し、長久2年(1041)の祐子内親王家歌合、康平4年(1061)の祐子…
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