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大学基準と予備校基準・東大現代文編
東大現代文を受験テクニックで解くことができないことは、予備校・青本・赤本の模範解答に誤りが多いことでも分かる。それを正しいと信じている受験生があまりにかわいそうだ。  東大現代文で高得点を挙げたいのであれば、受験テクニックを磨くより、むしろ教養を身に付けた方が早い。教養はすぐに身につかないと思われがちだが、そうでもない。実は大学入試問題で使用されている評論文の多くは、大学教科書や副教材である。大学入学後に、大学教科書や副教材を正確に読むことのできる学生がほしいからだ。だから、大学入試問題で使用... ...続きを見る

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2007/02/14 01:28
大学基準と予備校基準
ことし東大受験生を指導していて、いちばん驚いたのは、予備校の東大模試の模範解答がとてもではないが模範解答といえるものではなかったことだ。むしろ誤っている。自分たちでつくっている問題だから、とても素晴らしい模範解答ができていいはずなのに、そうではない。これは、どうしてなんだろう。 ...続きを見る

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2007/02/04 13:12
2006年東大前期・国語第1問「来世観」
 なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。答えは単純である。(ア)死者は決して消滅などしないからである。親・子・孫は相互に似ており、そこには消滅せずに受け継がれていく何かがあるのを実感させる。失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が(a)チンデンしており、過去によって規定され... ...続きを見る

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2006/11/12 15:46
2006年東大前期・国語第4問「教育問題」
 産業革命以前の大部分の子どもは、学校においてではなく、それぞれの仕事が行なわれている現場において、親か親代りの大人の仕事の後継者として、その仕事を見習いながら、一人前の大人となった。そこには、同じ仕事を共有する先達と後輩の関係が成り立つ基盤がある。(ア)それが大人の権威を支える現実的根拠であった。そういった関係をあてにできないところに、近代学校の教師の役割の難しさがあるのではないか。つまり学習の強力な動機づけになるはずの職業共有の意識を子どもに期待できず、また人間にとっていちばんなじみやすい見... ...続きを見る

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2006/11/07 12:51
1995年東大前期・国語第一問「他者への眼差し」
市村弘正『小さなものの諸形態』より出典。 【問題文】  物との結びつきを根本的に変質させ、社会との結びつきを根底的に変化させつつある私たちにとって、そこでの出来事の生成と着床のあり方は、経験におけるそれとは正反対である。正反対であるような変質であり、変化なのである。その「結びつき」が含んでいた物事のあらゆる局面は、時間とともに結晶するのではなく、反対に一つ一つその aリンカクと形状と特性とを曖昧にし消失していく。それはくっきりと刻まれ印づけられるということがない。この限りで現代の私たちを貫く... ...続きを見る

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2006/02/11 22:29
1996年東大前期・国語第五問「身体論・人間の記憶」
三善晃「指の骨に宿る人間の記憶」より出典 【問題文】  谷川俊太郎さんの詩《ポール・クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編〈死と炎〉は、「かわりにしんでくれるひとがいないので わたしはじぶんねしなねばならない」で始まる。それで、「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は、この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれないだろうか わたしのほねのみみに」  この十年ほど、時々右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか... ...続きを見る

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2006/01/03 00:32
1996年東大前期・国語第二問「教育論」
中原俊『子どもの謎−神様が降りてくるまで』より出典。 【問題】  次の文章は、ある映画監督が書いた文章である。これを読み、傍線部ア・イ・ウのいずれかを選び、それを手掛かりとして、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、手掛かりとして選んだ傍線部の記号を記入せよ。  注意 採点に際しては、表記についても考慮する。 【問題文】  どうして子どもの頃の映画のなんか作りたいと思ったのだろうか? やっぱり年のせいかな、40越... ...続きを見る

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2005/12/31 15:02
1996年東大前期・国語第一問「科学思想」
坂本賢三『科学思想史』より出典。 【問題文】  科学研究にあたっては、科学者は常にある一定の前提のもとに対象に立ち向かっている。それは必ずしも研究者自身に意識されているとは言えないが、それでも事情は変らない。たとえば、現在の大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの「法則」を発見しようとしている。この場合、「法則」が存在するかどうかは科学の問題ではない。それは現代の科学者にとっては自明の前提なのであって、つまり前提なのである。  しかし、対象の中に法... ...続きを見る

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2005/12/26 01:35
1997年東大前期・国語第五問「時の流れ」
長田弘『自分の時間へ』より出典。 【問題文】  川の流れを見るのが好きだ。たとえどんな小さな流れであろうと、川のうえにあるのは、いつだって空だ。川の流れをじっと見つめていると、わたしは川の流れがつくる川面を見つめているのだが、わたしが見つめているのは、同時に川面がうつしている空であるということに気づく。ふしぎだ。川は川であって、じつは川面にうつる空でもあるということ。すなわち川は、みずからのうちに、自らの空をもっているということ。  川の流れをずっと見ていて、いつも覚えるのはそのふしぎな感... ...続きを見る

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2005/12/06 20:09
1997年東大前期・国語第二問「見る」
多田智満子『鏡のテオーリア』より出典。 【問題文】  見るためには対象と自分との間に距離をおかなければならない。これは明白な事実である。  しかし、見るという行為が、対象との間の物理的距離を心理的にゼロにする場合がある。他者のまなざしが私に向けられ、そのまなざしが私をとらえたときがそれだ。  私が或る人の眼を美しいと思ったり、眼の表情に注意したりすることができるのは、その人が私にまなざしを向けているまさにそのときではない。私が彼にまなざしを向け、彼が私にまなざしを向けていないとき、私は距... ...続きを見る

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2005/12/06 15:55
1997年東大前期・国語第一問「歴史と物語」
坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』より出典。 【内容】  ある人物についての物語が、なによりも当の本人を満足させなければならない場合とは、どのような場合であろうか。それは、自分が不確かな未来や危機的状況を前にして、何らかの選択あるいは決断をしなければならない場合である。このような場合、ひとはその選択や決断が自分にいい結果をもたらすかどうか判断するために、過去の事例を探り、自分の能力や資質を確認しようとするだろう。そして、その決断が自分にふさわしいものか確認しようとするのではないだろうか。... ...続きを見る

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2005/12/05 14:16
1998年東大前期・国語第五問「時間」
檜山哲彦『時の巨人』より出典。 【内容】  さして用があるわけでもないのに、なにやら腰の落ち着かない年の瀬になると、毎年きまって思い出す句がある。   年を以て巨人としたり歩み去る  作者は高浜虚子だ。心そぞろなわが身に比べ、大股で歩む巨人の姿が大きく感じられ、その悠然としたさまに心を傾けたくなるせいだろうか。  「年歩む・去ぬる年」は冬・歳末の季語だが、年末年始の虚子の句なら、   去年今年貫く棒の如きもの の方がむしろ人口に膾炙しているかもしれない。  じっさい「時」の姿をこ... ...続きを見る

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2005/11/30 00:40
1998年東大前期・国語第二問「社会人」
赤瀬川原平『社会人原論』より出典。 【内容】  社会人は領収書をもらう。社会人がなぜ領収書をもらうのかというと、税金を払っているからである。領収書がないと仕事上の必要経費として認めてもらえず、自分の出費になる。  ところが食事などの場合、仕事なのかプライベートなのか、ちょっと曖昧なことがある。またプライベートの場合でもとりあえず領収書をもらっておけば、いざというとき仕事上の経費として落とせるかもしれないと考えたりもする。その複雑な谷間を歩いていくのが社会人だ。  社会人どうしが食事をして... ...続きを見る

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2005/11/29 21:04
1998年東大前期・国語第一問「脳死」
西谷修「問われる『身体』の生命」(『朝日新聞』1992年1月28日夕刊〈変わるか死生観「脳死臨調」答申に思う〉)より出典。 【内容】  ふつう死は、心臓が停止して血流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停止として起こる。ところが脳が先に機能停止に陥ることがある。この場合、中枢神経をまとめる脳の死によって全身もやがて死ぬことになるが、人工呼吸器の力でしばらく脳死状態の身体を「生かして」おくことができる。つまり死を抑制するテクノロジーの介入によって、死を中断された中間的身体が作り出されるのである... ...続きを見る

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2005/11/28 00:56
1999年東大前期・国語第五問「短型詩」
柳沢桂子『生と死が創るもの』より出典。 【内容】  俳句や短歌は不思議な詩型である。短い言葉のなかに、長い言葉よりも広い世界を表現することができる。長い詩型が言葉によってすべてを限定するのに対して、短い詩型は読者のイマジネーションに頼るために、表出される世界が広がるからだ。  そういえば、短歌では小さいものを詠うのはやさしいが、大きなものを詠うのが難しいとされる。たとえば、海に浮かぶ小舟を詠うことはできるが、ただ広い海だけを詠うのは難しい。  これは人間の神経系の構造と関係があろうと私は... ...続きを見る

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2005/11/24 13:23
1999年東大前期・国語第二問「青春論」
安部公房『砂漠の思想』より出典。 【内容】 これまで日本では青春は不当に買いかぶられるか、不当に抑圧を強いられてきたと思う。しかし、よく考えてみれば、どちらも青春は清純なものだという固定観念のうえに成り立っていたのだ。どちらも、青年をひとつの青春概念の中に閉じ込めているのである。  だが、本当の青春は、自分が青春であることに決して甘んじたりしない自己否定の精神のことである。現状を認めないことが未完成な魂の特質であり、だからこそ完成に向かうたくましさもある。青虫も、現状否定によって初めてチョ... ...続きを見る

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2005/11/24 02:27
1999年東大前期・国語第一問「身体論」
鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』より出典。 【内容】 身体はひとつの物質体であることは間違いないが、他の物質体とは異質な現われ方をする。  たとえば、身体が正常に機能しているとき、ほとんど意識のなかに現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されない。意識することで、かえって脚がもつれてしまう。つまり、わたしたちにとって身体は、普通は素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。しかし、その同じ身体が、たとえば疲れているとき、病気のとき、にわかに不透明なものとして、あ... ...続きを見る

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2005/11/23 21:22
東大現代文・受験現代文での出題者の意図
東大国語の現代文を読むときに注意してほしいことは、どんなに反発したい内容であっても反発しないで、賛成しながら読むということである。これは東大現代文に限らず、どの大学の現代文にもいえることだが、受験生でも反論できるほどヤワな評論文が、受験現代文で使用されることはない。反発を感じたとしたら、むしろ読み方が浅いということだ。出題者は、その評論文を読んで何かを感じてほしいと思って出題しているのである。  しかし大学は、従順な学生を欲しがっているわけではない。正しく理解できなければ、正しく批判することも... ...続きを見る

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2005/11/23 17:08
2000年東大前期・国語第四問「言葉」
三木卓『海辺の博物館』より出典。 【内容要約】  窓の向こうには丘がある。この数年、この丘をながめながら仕事をしていたから、この丘の変化は分かったつもりでいた。それでも見落としているものを発見したり、知っているものでもあらためて感銘したりする。  去年、わたしは自分にしては長い時間を書けた小説を発表した。今わたしは次の、時間のかかる小説に着手しようとしている。それは、わたし自身も変化していると、感じるからだ。  小説は、自分をからめとる世界をひとつ自分なりに書くということだ。そのときは、... ...続きを見る

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2005/11/22 14:28
2000年東大前期・国語第一問「環境問題」
加茂直樹『社会哲学の現代的展開』の中の「環境保護は何を意味するか」より出典。  【内容要約】 環境問題を取り上げるとき、環境保護は当然のことと考えられている。しかし「環境の保護」という言葉を、みんなが同じ意味でつかっているわけではない。そしてその微妙な差異が、実践の上では重大な差異になりうる。  そのうえ環境保護の対象として「環境」「自然」「生態系」が挙げられるが、これらの間にはニュアンスの違いがあり、場合によってはその違いが大きなものになる。  まず自然は、近代自然科学的な見方によれば... ...続きを見る

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2005/11/21 00:18
2001年東大前期・国語第四問「携帯電話」
岡部隆志『言葉の重力』より出典。 【内容要約】 携帯電話を通した会話は、独り言の掛け合いではないだろうか。会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがなく、ただ自分のことをとりとめもなくしゃべっている。そこにあるのは、自分の独り言を一方的に話すという関係である。  インターネットで飛び交う声も、独り言に近い。だから私はそこに私的な文章を載せる気になれない。文は自分に向って書くもの、他者へ伝達するものと、私は思っているからである。  独り言には、何かを伝えようというメッセージ性がない。か... ...続きを見る

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2005/11/17 01:29
2001年東大前期・国語第一問「母国語」
リービ英雄「ぼくの日本語遍歴」(『新潮』2000年5月号)より出典。 【内容要約】 ぼくが「星条旗の聞こえない部屋」を発表してから、なぜ母国語の英語ではなく日本語で書いたのか聞かれた。その質問の中には、英語で書いた方が楽だろうし、近代でもポスト近代でも英語が支配的な言語であるのにという意味合いが含まれていた。  ぼくが日本語で書きたくなったのは、日本語が美しいからだ。しかし、もっと大きな理由は、外国人にとっては壁であり潜戸でもある日本語について、小説を書きたくなったからだ。西洋から日本へ「... ...続きを見る

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2005/11/16 00:21
2002年東大前期・国語第四問「解釈学・系譜学・考古学」
永井均『転校生とブラック・ジャック』の中の「解釈学・系譜学・考古学」より出典。 ...続きを見る

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2005/11/13 17:18
2002年東大前期・国語第一問「生と死」
村上陽一郎『生と死への眼差し』の中の「死すべきものとしての人間」より出典。 【内容要約】 一人称の死は、生きているかぎり決して体験されることのない、未知のものである。それは論理的には知りえないものである。では、知りえないものに対しての恐怖はどのような形をとるのだろうか。おそらく死への恐怖は、人が人間であることの証明であるといえるだろう。  まず消極的な面から考察してみよう。第三人称の死は、私にとっては単なる客観的な事物の消滅であり、本当の意味での「死」ではない。自分の前に立ちはだかる未知の... ...続きを見る

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2005/11/10 23:37
東大国語・現代文対策
 東大現代文を受験テクニックで解くことができないことは、予備校・青本・赤本の模範解答に誤りが多いことでも分かる。それを正しいと信じている受験生があまりりにかわいそうだと思い、佐々木哲学校ブログ版で東大前期・国語第一問・第四問の解答例を連載している。  東大現代文で高得点を挙げたいのであれば、受験テクニックを磨くより、むしろ教養を身に付けた方が早い。教養はすぐに身につかないと思われがちだが、そうでもない。実は大学入試問題で使用されている評論文の多くは、大学教科書や副教材である。大学入学後に、大学... ...続きを見る

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2005/11/08 17:17
2003年東大前期・国語第四問「詩作と引用」
篠原資明『言の葉の交通論』の中の「T詩的言語への交通論 詩と痕跡過剰性」より出典。 【内容要約】  作品の背後には過去の無数の作品がある。それだけでも十分に痕跡の過剰について語ることができる。しかし、痕跡の過剰とはそれだけを意味するのではない。実は、過去の作品には別様でありえたかもしれないという可能性がある。そのような可能性があふれているということを、痕跡の過剰ということができる。そして引用とは、まさに別様でありえたかもしれないという可能性を、自分のコンテクストに引用しながら提示して見せるこ... ...続きを見る

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2005/11/07 14:02
2003年東大前期・国語第一問「民俗宗教・靖国問題」
小松和彦「ノロイ・タタリ・イワイ」(山折哲雄・川村邦光編『民俗宗教を学ぶ人たちのために』)より出典。 【内容要約】  民俗宗教において、祟りの信仰は大きな比重を占めている。それは広い意味での「世間の目」「霊の目」に対する恐怖・配慮の象徴的表現であるかもしれない。しかし日本人は、死者が家族や親族、それに共同体のために犠牲になった者であっても、彼らに対して「負い目」「後ろめたさ」を感じ、その霊を慰め、祠を建て、神に祀り上げてきた。言い換えれば、日本人は生きているというだけで、霊に対して「負い目」... ...続きを見る

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2005/11/06 14:53
東大現代文・解答例の連載について
予備校・赤本・青本の模範解答が不十分であるため、今後も『東大入試で哲学』の連載を続けていきます。今年度の受験生がアクセスしているのであれば、急がれるでしょうから、間をあけずに連載していくことにします。  また携帯電話からのアクセスが多いようですので、今後は内容要約・解説を短くまとめて、解答例を中心に記述していきます。そうすれば携帯電話からアクセスしたときに見やすいでしょう。東大入試の場合は、解答を読んだだけで本文の内容が分かるというのが好い解答ですから、内容要約・解説を短めにしても十分なのです... ...続きを見る

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2005/11/04 00:28
絶望と希望
2004年東大入試前期国語第四問は、多木浩二の『写真論集成』より出典。「世界は存在し、かつ人間も存在している」と述べているように、世界と人間の実在を認めたうえで、世界と人間のズレに注目している。評論文ではよく「差異」と記されているものだ。しかも世界のことを「超人間的」と述べている。この多木浩二の主張を発展させて、その超人間的な世界が客観性だと主張することができる。  わたしたちは、現実に対して何もできないという無力感を感じることがある。この目の前に現れた壁は、まさに主観を超えた客観性である。そ... ...続きを見る

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2005/11/03 00:13
2004年東大前期・国語第四問「写真」
多木浩二『写真論集成』より出典。 【内容要約】 「写真になにが可能か」と自問すると、質疑応答に見られるような答えというよりも、ほとんど肉体的反応ともいえる二通りの答えが生じてくる。  ひとつは、現実に対して「写真にはなにもできない」という一種の無力感である。しかし、その無力感を乗り越えたところから、「写真に可能ななにものかがある」という認識が生まれてくる。実は、私たちは日々こうした二通りの答えの間を揺れ動いており、どちらか一方ではけっしてありえない。このようなことは、なにも写真だけのことで... ...続きを見る

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2005/11/02 02:20
個性
2004年東大入試・国語第一問の問題文の内容は、「個の没落」という言葉でも分かるように、悲観的な相対主義である。しかし、確固たる個がないということを積極的に評価することもできる。  個性とはいっても、実は自分の内側から生じたものではない。他者との関係の中で自分はつくられている。本当の自分はどこか遠くにあるものではなく、自分が日々の生活の中でつくっていくものだ。占いをしても、心理テストをしても、自分の部屋にこもっても、本当の自分は見えてこない。自分探しをしても、自分を見つけることはできない。自分... ...続きを見る

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2005/10/31 00:24
2004年東大前期・国語第一問「個の没落」
伊藤徹の『柳宗悦 手としての人間』より出典。 【内容要約】 判断の基盤としての個人の没落は、環境問題を例に挙げると分かりやすい。未来の世代の権利を侵害していると考えて、現在の個人の欲望を制限することは、今日において当然のことと受け止められている。人間以外の生物はもちろん、山や川さえ尊重さしようと考えることは、もはや珍しいことではない。現在では、人間主義を排除して、個人はもちろん、人類も越えて、「地球という同一の生命維持システム」を行動規範の基盤とすることが試みられている。  だが、私たちは... ...続きを見る

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2005/10/26 01:48
見ているものと見ていないもの
これは、2005年東大入試前期の問題で引用された小池昌代「背・背なか・背後」を、わたしの経験・研究と照らし合わせて解釈+拡張したものだ。  だれも自分の背中を見ることはできない。だから自分の後ろで他人が笑っていると気になる。もしかしたら、汚れているのかもしれない。あるいは、だれかイタズラで張り紙を貼ったかもしれない。しかも自分だけが見ることができない。見ようとすれば、鏡のあるところまでいかなくてはならない。背中には、そんな怖さ・もどかしさ・難しさがある。  このように視線は届かないが、わたし... ...続きを見る

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2005/09/07 20:23
2005年東大前期・国語第四問「背・背なか・背後」
小池昌代「背・背なか・背後」(岩波書店『図書』二〇〇四年七月号)より出典。 【内容要約】 待ち合わせ場所で待っている相手に近づくとき、そのひとが後ろ向きだったら、どんなふうに声をかけようか迷う。ひとの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう。これまで付き合ってきたのは、いつも相手の正面ばかりだからだ。そもそも背中は、ひとの無意識があふれている場所だ。だから、ひとの後ろ姿を見るとき、見てはならないものを見たようで、後ろめたく感じる。  背中の周りに広がっているものは、そのひとの「背... ...続きを見る

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2005/09/06 16:52
「偽善」という言葉は嫌いだ。
これは、2005年東大入試前期の問題で引用された三木清の文を読んで思ったことだ。もちろん三木清は、引用文の中で偽善のことについて述べているわけではない。しかし、他人のことを「偽善者」と言っている人たちに対して私が持っていた違和感と、三木の道徳観と結びついた。  道徳という言葉があると、道徳が行動とは離れて単独にあるように錯覚してしまうが、実は道徳は行動と切っても切れない関係にある。人は行動することによって反省し、そして今度はこれまでとは異なる行動をしようと思う。徳は必ず行動に表れるものだし、ま... ...続きを見る

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2005/09/02 23:27
2005年東大前期・国語第一問「道徳と技術」
三木清『哲学入門』より出典。 【内容要約】 すべての道徳は、ひとが徳ある人間になることを要求している。それは、徳のある行為をする者になれということである。たとえの徳のある人であっても、行動をしていないうちは、潜在的に徳のある人であるにすぎない。徳のある行動することで初めて、徳のある人といえる。  ところで人間は常に環境の中で生活している。われわれの行為は単にわれわれ自身の内から自発的に出てくるものではなく、環境との関係から出てくるものである。単に能動的でなく、また単に受動的なものでもない。... ...続きを見る

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2005/08/26 14:56
『東大入試で哲学』連載のお知らせ
今は大学前期試験の採点中のため、8月から『東大入試で哲学』を連載開始します。この連載は、@大学レベルの教養を身につけたい大人のための教養講座であり、A東大2次試験合格の実力を身につけたい受験生のための大学受験講座でもあります。  大学入試問題で現代文があるのは、大学の教科書を読む力があるかどうかを確認したいためです。ですから現代文の問題は、大学教養科目の教科書になる評論文を使用します。ということは、大学入試問題を読むことで、大学レベルの教養が身につくということです。  しかも東大の入試問題は... ...続きを見る

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2005/07/24 12:56

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東大入試で教養