テーマ:六角系図

歴史読本「戦国大名血族系譜総覧」2009年4月号・「六角氏」原稿

概略 六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。室町期には将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめて、嘉吉の土一揆…
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壱岐大夫判官泰綱

佐々木泰綱(一二一三-一二七六)佐々木信綱の三男。母北条義時娘。三郎、佐々木判官三郎、近江三郎兵衛尉、近江三郎左衛門尉、検非違使、叙留、近江大夫判官、従五位上、壱岐守、壱岐大夫判官(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。  父信綱が近江守護在職中にすでに左兵衛尉、左衛門尉を歴任し、嘉禎二年(一二三六)九月五日父信綱が評定衆を辞職して遁世すると…
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備中守頼綱

佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)泰綱の次男。母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。  建長二年(一二五〇)十二月三日北条時頼…
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備中判官時信

佐々木時信(一三〇六-一三四六)頼綱の末子。母は後伏見院女房(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。三郎、左兵衛尉、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、従五位上、備中守、近江入道(『園太暦』貞和二年十二月二十四日条)、芝田原殿(『比牟礼八幡宮領条々』)。正和三年(一三一四)十二月十四日に九歳で元服し、幼少のまま近江守…
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大夫判官氏頼(入道崇永)

六角氏頼(一三二六-一三七〇)佐々木時信の長男。母は長井時千娘。孫三郎(山中文書)、近江三郎(小佐治文書)、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、大夫判官入道。建武二年(一三三五)父時信の辞職にともない近江守護を継ぐものの幼少のため、一族馬淵義綱が守護代になった。暦応元年(一三三八)足利尊氏の加冠で元服した。このとき尊氏の猶子になったの…
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右兵衛佐義信

六角義信(一三四九-一三六五)氏頼の長男。母は佐々木道誉娘(『祇園執行日記』貞和六年三月五日条で氏頼を「大法師婿」とする)。幼名千手(千寿)。観応の擾乱で足利尊氏・直義両派の誘いに窮して出家した父氏頼の譲りを受けて、観応二年(一三五一)六月二十五日六角氏の家督を継承した。ただし幼少のため、叔父山内信詮(定詮)が近江守護を預かった(『太平…
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左京大夫満高

六角満高(一三六五-一四一六)氏頼の子。母藤原氏。実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系…
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大膳大夫満綱

六角満綱(一四〇一-一四四五)満高の長男。母は足利基氏の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。四郎右兵衛尉、大膳大夫、従四位下、近江守護。正妻は足利義満娘(『系図纂要』足利系図)。法号は龍雲寺殿貞山宗岱。  応永十八年(一四一一)将軍足利義持による飛騨国司姉小路尹綱追討の命を拒否したため、満高・満綱父子は近江守護を解任さ…
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兵部大輔持綱

六角持綱(生年未詳-一四四五)満綱の長男。四郎右兵衛尉、兵部大輔、従四位上、近江守護。法号は西蓮寺殿瑞岳宗勝。常善寺過去帳では、法号西蓮寺前兵部宗勝。  父満綱が在京したため、早くから近江守護の政務を任され、『花営三代記』応永二十八年(一四二一)二月十八日条と翌二十九年(一四二二)九月十八日条に、将軍義持の伊勢神宮御参宮で、持綱が草津…
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近江守久頼

六角久頼(生年未詳-一四五六)満綱の末子。母は足利直冬娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。始め相国寺僧周恩。四郎、近江守、従四位上、近江守護。法号は詳光寺殿融山周恩。  文安元年(一四四四)七月六角氏被官が、近江守護六角持綱(四郎、兵部大輔)の無道を訴え、持綱の弟時綱(五郎、民部少輔)を奉じて一揆を起こした(『康富記』…
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大膳大夫政勝

六角政勝(生没年未詳)久頼の長男。『甲賀二十一家之由来』では「政頼」。六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫、近江守護。  康正二年(一四五六)父久頼が憤死すると、遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄二年…
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大膳大夫高頼

六角高頼(一四六二-一五二〇)政勝の長男。幼名亀寿、本名行高、四郎、大膳大夫、右兵衛入道(『御内書案』)、近江守護。法号は龍光寺殿嘉山宗椿。  応仁・文明の乱で東幕府は六角政堯を近江守護に補任し、西軍の高頼に対抗させたが、政堯は戦没した。替わって東軍の重鎮京極持清が近江守護に補任された。しかし持清・勝秀父子が相次いで没すると、持清の三…
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近江守氏綱

六角氏綱(一四九二-一五一八)高頼の長男。母足利成氏娘(実は近衛政家娘か)。亀寿、四郎、近江守、従四位上。法号は雲光寺殿日山宗佐。  永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏…
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江州宰相義久(義実)

六角義久(一五一〇-一五五七)氏綱の長男。母堀越公方足利政知娘(足利義澄妹)。六角四郎。大膳大夫、近江守、参議、権中納言。諸系図では「義実」。『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に「江州宰相」が登場し、天文八年(一五三九)五月十九日条と二十日条に宰相上洛と下向の記事がある。この記事がある『鹿苑日録』十六巻表紙の頭書では、この宰相…
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宰相義秀(徳川公)

六角義秀(一五三二-一五六九)義久の長男。母は後奈良院典侍。幼名亀寿、本名公能。足利義晴養子。修理大夫、参議。『お湯殿の上の日記』に六角氏の幼名亀寿が頻出する。それは、天文十四年(一五四五)十二月五日典侍が亀寿元服の御礼に音物を進上しているように、亀寿の母が後奈良院典侍だからだ。  『お湯殿の上の日記』は、天皇常住の常御殿のお湯殿の間…
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左兵衛佐義郷

六角義郷(生年未詳-一五八二)義秀の子、あるいは弟。左兵衛佐。沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木系図略などの諸系図や、『江源武鑑』『佐々木軍記』など編纂物では、義秀の子息とする。しかし朽木文書で「中左兵衛佐氏郷」と署名していることから、『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月十二日条で、亀寿(義秀)とともに音物を進上した「中」と…
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大本所義堯

六角義堯(一五五一-一五八二)義秀の子。足利義輝実子(続群書類従本伊勢系図)。亀千代(『お湯殿の上の日記』『親俊日記』)。本名実頼(『山中文書』)。系図では実名義頼、官職は右京大夫(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)、あるいは左京大夫(続群書類従本伊勢系図)。和田山城主(『江源武鑑』)。六角承禎(義賢)からは「大本所」(『坂…
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左衛門督侍従豊臣義康

六角義康(生年未詳-一六二三)義堯の子息。母は織田信長養女(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。六角氏と岩倉・犬山織田氏が行動をともにし(『織田信長文書の研究』:『武家事記』二十九所収松井友閑宛織田信長黒印状写)、六角佐々木氏系図略で義康母を「信康女」とすることから、義康母は犬山之伊勢守息女(『織田信長文書の研究』:『南陽堂…
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左馬頭義政

仁木義政(生年未詳-一五七三)六角氏綱の次男。五郎次郎。佐々木左馬頭。実名は義信であろうか(『安養寺文書』)。系譜伝承では「河端義昌」「八幡山義昌」とする。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されると、弟義昭(覚慶)は近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏を頼った。永禄十年(一五六七)には足利義昭の朝倉義景邸御成があり、このとき六角氏被官山内…
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朝倉義景

朝倉義景(一五三三-一五七三)六角氏綱の孫。義久あるいは義政(仁木殿)の子。 朝倉孝景の養嗣子。幼名長夜叉丸。本名延景。従四位下、左衛門督。越前国主。  『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」では、義景が六角氏綱の子息だという異説が記されている。しかし、これまでは氏綱の没年が永正十五年(一五一八)で、義景の生年が天文二年(一五三三)である…
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弾正少弼定頼

六角定頼(一四九五-一五五二)高頼の次男。始め相国寺僧承亀。永正十三年(一五一六)九月戦傷で病床にあった兄氏綱の陣代になった(永源寺文書)。翌永正十五年(一五一八)に氏綱が病没すると、氏綱の嫡子義久(四郎)が家督を相続した。さらに永正十七年(一五二〇)父高頼も病没すると、定頼が還俗して甥義久の後見になった。  大永元年(一五二一)足利…
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左京大夫義賢(入道承禎)

六角義賢(一五二一-一五九八)定頼の長男。四郎。天文八年(一五三九)閏六月能登畠山義総の娘と祝言(『大館日記』『鹿苑日録』)、同年十月には従五位下左京大夫に補任された(『歴名土代』)。天文十一年(一五四二)には従兄弟義政(六角氏綱の次男)とともに伊勢出兵し、伊勢北畠氏を破った。これによって六角氏は北伊勢員弁・朝明両郡を獲得している。しか…
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右衛門督義治

六角義治(一五四四-一六一二)義賢の長男。母能登畠山義総娘。幼名亀松丸(朽木文書:十一月二十八日付佐々木民部少輔宛亀松丸書状、同日付同宛水原氏家書状)。本名義弼。四郎、右衛門尉(木村文書『六角氏書状巻物』)、右衛門督(『顕如上人書状案』)。法名玄雄。  永禄三年(一五六〇)宿老衆が義弼(四郎)と美濃斎藤義龍の娘との縁談を進めた。それに…
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中務大輔高盛

大原高盛(一五四七-一六二〇)義賢の次男。母は土岐頼芸妹。大原高保(氏綱弟)の養子。次郎左衛門尉・中務大輔。本名は高定。『近江蒲生郡志』では「義定」とするが、「義定」と自署する文書はない(『龍太夫文書』ほか)。佐々木六角氏で「義」の字を使用するのは、将軍から給付されたときであり、高盛が兄義治から家督を継承したように見せるため、「義定」と…
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「六角系図」連載完結

 佐々木六角氏研究は面白い。とくに系図については、入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されているものの、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくるからだ。では、どうして否定されていたのだろうかという素朴な疑問が生まれる。  理由は多くあるが…
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