テーマ:一遍・時衆

河野親清と首藤親清

 河野氏は伊予国越智郡郡司である越智氏の子孫と伝えられるが、通清の父親清は伊予守源頼義の四子三島四郎親清であるという。実は源頼義・義家父子の有力な郎等に首藤資清(佐藤公清の猶子守部氏)があり、その孫が左衛門少尉親清である。資清の子資道(豊後権守)は康和三年(一一〇一)源義家の子対馬守義親が鎮西で反乱を起こしたとき、義家の命を受けて鎮西に…
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一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5)

 佐々木泰清は、本妻大井太郎朝光女(光長姉)を娶り、さらに正妻葛西清親女を娶ったように(11)、東国の豪族級御家人と閨閥を形成した。泰清は隠岐・出雲守護として、『葉黄記』宝治元年(一二四七)五月九日条に六波羅評定衆として見え、建長四年(一二五二)正月十一日臨時宣で検非違使に補任され、翌五年二月四日賀茂・八幡両社行幸行事賞で従五位下に叙爵…
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一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(4)

 一遍の祖河野通清は平治の乱で一時没落したが、源頼朝の挙兵に呼応して土佐で源希義(頼朝弟)が挙兵すると、通清・通信父子も伊予で挙兵した。『吉記』養和元年(一一八一)八月二十三日条に「伊予国在庁川名大夫通清」が平家に討たれたことが伝聞として記されているが、通信は源義経に従い戦功を挙げて所領を回復している。  伊予守護には、頼朝の伊豆配流…
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一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(3)

 『聖絵』では小田切里の武家屋敷の敷地内に一遍の叔父河野通末の墳墓と思われる盛土が描かれている。「或武士」は、いったん伴野氏が預かった河野通末を引き取った人物であり、河野氏と因縁のある人物と考えられる。そこで資料を探すと、嘉暦四年(一三二九年)鎌倉幕府下知状(守矢文書)に「小田切郷佐々木豊前々司跡」とある(9)。この記事から信濃国佐久郡…
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一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(2)

 『聖絵』巻四第五段では、信濃国佐久郡伴野市庭の一遍・時衆の歳末別時念仏会の際に紫雲が立ち、時衆と周囲の人びとが上空を見て合掌している。しかし一遍は上空に視線を向けず、一人の僧と対峙している。この場面と連続する同一画面の小田切の里の踊念仏場面に、河野通末(通信の三男)の墳墓があり(7)、紫雲はこの小田切の里の場面へと連なる。紫雲に合掌す…
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一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(1)

 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)によれば、信濃国小田切の里で踊念仏が始められた。巻四の第五段に伴野市庭と小田切の里の場面が描かれ、つづく巻五の第一段に大井太郎屋形が描かれている。詞書に従えば、信濃入りした一遍は善光寺を訪れたのち下野小野寺を訪れ、再び信濃入りして小田切の里・伴野市庭・大井太郎館に立ち寄ったという。  しかも信濃の佐久郡…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(6)

 『聖絵』と同様に資料価値があるとされている伝記絵巻に、『遊行上人縁起絵』(以下、『縁起絵』)がある。全十巻四十三段で、前半の四巻までが一遍の伝記、後半の五巻から十巻までが真教の伝記となっている。原本は現存せず、鎌倉時代から江戸時代の模写本が二十数本残っているだけである。  それら模写本の詞書から、『縁起絵』作者は平宗俊(真光寺本)あ…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(5)

 久我通光(一一八七―一二四八)は臨終にあたり、遺産のすべてを後妻三条(西蓮)に譲渡したため、先妻の子どもとの間に所領問題が生じた。通光の嫡子右大将通忠(一二一六―一二五〇)は継母三条に対して割譲を求めたが、後嵯峨上皇の院宣によって、通忠には山城国久我荘を認められただけであり、そのほかの所領は三条が相続した。さらに三条は肥後国山本荘・近…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(4)

 これまで後援者「一人」を摂関・太政大臣・右大臣に当てはめていたために、特定するに至らなかったのではないだろうか。そこで発想を変えて、「一人」を不定代名詞「ひとり」という意味で「いちにん」と読めば、土御門定実および大炊御門冬輔など、広く一遍に結縁した有力者のなかに後援者をもとめられよう。両者ともに『聖絵』の登場人物の一人である。とくに大…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(3)

 そこで、当時はまだ結婚形態が女系から男系に移る過渡期であり、西日本の系図では女系も重視されたことを念頭におくならば、通成の親族を男系に絞る必要はない。  そのような観点から見れば、中院通成は、太政大臣西園寺実兼(一二四九―一三二二)の正妻従一位顕子の父であり、左大臣西園寺公衡(一二六四―一三一五)や永福門院(伏見院中宮)・昭訓門院(…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(2)

 『聖絵』巻七第二段によれば、弘安七年(一二八四)京都因幡堂に移った一遍の許を、土御門入道前内大臣が訪ねて念仏の縁を結んでいる。公家で結縁した最初の人物である。この人物は、土御門通親の孫である内大臣中院通成(一二二二―八六)と考えられる。土御門一門は、藤原道長の女婿であった村上源氏右大臣師房に始まる公家の名門で、院政期に摂関家の対手とし…
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『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(1)

 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)制作の後援者は、『聖絵』巻十二第三段の詞書に「一人のすすめによりて、この画図をうつし」とある「一人」である。この「一人」について、「いちじん」と読めば天皇であるが、「いちのひと」と読めば摂政・関白であるため、歓喜光寺所蔵『開山弥阿上人行状』にあるように、これまで関白九条忠教(一二四八―一三三二)と考えられ…
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