アクセスカウンタ

テーマ「歴史」の記事 help リーダーに追加 RSS

トップへ  |  テーマトップへ  |  テーマランキング一覧へ

タイトル 日 時
2008年東大世界史第3問「交通の歴史」
【問題】 世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。これに関連して、以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2008/07/11 12:59
『葉隠』鍋島氏と佐々木氏
『葉隠聞略』六に「鍋島家の御紋のこと」という記事がある。鍋島家の紋は、元来、目結紋であるという。  慶長8年(1603)に、隠居後の鍋島直茂が、徳川家康のお召しにより、江戸に上ったときに、御召船の幕に四つ目結紋をつけた。そのため、直茂の隠居分を継承した小城藩の御召船や武具には四つ目結紋が付けられた。  その後、江戸に滞在していた鍋島勝茂が松平若狭守の酒宴に招かれたとき、若狭守から「鍋島殿の御先祖は佐々木氏であると内々承っている。それならば、御紋は四つ目結のはずである。しかし今は杏葉の紋を使わ... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2007/12/25 19:05
『系譜伝承論』出来ました!!
お待たせいたしました。 昨日11月27日に印刷・製本所から思文閣出版に届き、今日11月28日にわたしの自宅に届きました。先行予約していただいた皆様には、来週初めから順次発想いたします。これから注文される方にも送料無料でお送りいたしますので、メールにて連絡いただければ幸いです。  また、『佐々木六角氏の系譜』の出版社在庫がなくなりましたが、著者の手元には僅かですが残部がありますので、こちらもメールにてお申し込みくだされば、お送りいたします。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2007/11/28 13:07
『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』近日刊行 !!
佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)は、奥付では11月20日付発行ですが、印刷所から出版社に届くのが11月27日の予定です。見直し作業に手間取ったことと、印刷・製本所の混雑のために公刊が遅れました。予約していただいた方には御迷惑をかけましたが、いよいよ発行されます。著者に直接申し込んでいただいた方には、送料無料でお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。 【内容】 歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2007/11/21 10:48
11月京都勉強会
11月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2007年11月11日(日)  12時半〜14時半:絵画資料論『洛中洛外図』など  14時半〜16時半:『京極氏家臣某覚書抜萃』など         【会費】  一般:3,000円  ※学生は割引 【会場】  キャンパスプラザ京都 5階 演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

トラックバック / コメント

2007/10/24 23:53
『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』予約受付
佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)が、いよいよ10月刊行されます。わたくし著者に先行予約していただいた方には、送料無料で、刊行しだいお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。 【内容】 歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として正当な評価を受けてこなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえるという斬新な手法で、資料としての可能性を示す。さらに、系図に作為や錯誤... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 15

2007/10/09 00:59
7月京都勉強会
7月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2007年7月1日(日)  東大現代文を読む : 13時〜14時半  >>2007年東大前期第4問「解釈学と結婚のカタチ」  系図の読み方講座 : 15時〜16時半  >>『尊卑分脈』と佐々木系図:鎌倉期の仮称・官位    【会費】  3、000円 【会場】  京都市生涯学習総合センター山科  アスニー山科の研修室2  http://web.kyoto-inet.or.jp/org/a... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2007/06/08 00:17
6月東京勉強会(改訂2)
6月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。出席希望者にはあらかじめ目印をお知らせしたいので、記事コメントあるいはメールでご連絡願います。 【日時】 6月3日(日)・24日(日) ◆東大入試で教養講座(13:00〜14:50) @現代文講座「2007年東大現代文を読む」 A世界史講座「古代オリエント文明」「ローマ季節風貿易と仏教隆盛」 ※希望者がいらっしゃれば、日本史講座も始めます。 ◆歴史勉... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2007/05/20 23:40
5月東京勉強会
5月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。出席希望者はあらかじめ記事コメントあるいはメールでご連絡願います。 【日時】 ◆5月20日(土)13:00東京ウィメンズプラザ(青山)  @東大入試で教養講座  A歴史講座『系図の読み方1』         『江源武鑑について』 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 7

2007/05/12 09:29
観音寺城見学会
5月勉強会前日5月5日に観音寺城見学を実施します。 近江観音寺城は近江守護佐々木六角氏の本城で、戦国期最大級の山城で、鉄砲に備えて本格的な石垣も用いています。それまでの城は土塁でしたから、石垣を用いたことは画期的でした。また家臣団が集住し、おびただしい数の郭(曲輪)それぞれが家臣の屋敷になっていました。城下町石寺は、日本で最初の楽市が実施されたことで著名です。織豊期の遺構もあり、織田信長近江進出後も健在であったことが分かります。このことが六角氏当主をめぐる系図問題に一石を投じ、六角義実・義秀・... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 9

2007/04/23 13:09
5月京都勉強会
5月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2007年5月6日(日)  教養日本史・世界史 : 12時半〜14時半  系図の読み方 : 14時半〜16時半  >>佐々木分流の系図をもとにして  ※詳細は後日お知らせいたします。   ご意見ご要望が有りましたら、お知らせください。  ※前日に、近江観音寺城見学も考えています。   【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都 5階 演習室  http://www.consortiu... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2007/03/30 11:11
『東大入試で遊ぶ教養 世界史編』はじめに
 歴史学は、実は暗記の学問ではなく思考の学問だ。だから、教科書程度の知識があれば、あとは思考力と論理力で解けるという問題が、いい問題だ。それが、まさに東大入試だ。  しかし同じ歴史科目でも、日本史と世界史では勉強の仕方がちがう。日本史では歴史を深めることが求められるが、世界史では出来事をタテ・ヨコにつなげていくことが求められる。視点を変えるだけでも、大きく歴史観が変わるからだ。  東大世界史の論述問題では、いくつかのキーワードが用意されている。キーワードは教科書で学ぶ範囲のもので、お馴染みの... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/10/22 02:16
『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』 2版刊行!!
お待ちどうさまでした m( _ " _ )m ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が重版されました。最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 24

2006/10/18 12:20
東大日本史・受験生の勘違い
 大学で、面白いことが話のネタになったことがある。  それは数年前の早稲田大学でのことだが、日本経済史の授業で、江戸時代の農民の生活について説明したところ、学生から「先生は歴史がわかっていない」と言われたというのだ。どうも学生は小学校から受験時代まで、江戸時代の農民の生活は困窮を極めたと教わってきたらしい。しかし、近年の江戸時代の歴史像は大きく変わっている。江戸時代の経済が成熟していたことがわかってきているのだ。お触れで、お茶を飲んではいけません、贅沢をしてはいけません、旅行(物見遊山)をして... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 3

2006/10/11 22:58
10月京都勉強会
10月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年10月29日(日)  歴史講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  歴史講座 『東大入試で教養日本史』  歴史講座 『佐々木六角氏の系譜』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都 5階 第3演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/10/05 22:46
『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』重版決定!!
お待ちどうさまでした m( _ " _ )m ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が重版されます。10月末か11月初に刊行される予定です。最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/09/29 19:41
2006年東大前期・世界史第1問「近代が生んだナショナリズム」
近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し、民主主義が成長した反面、各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは、国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし、対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方、国際法を制定したり、国際機関を股立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。  このように戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という三つの時期にどのように現れたのかについて、解答欄(イ)に一七行以内で脱... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/09/12 02:16
2005年東大前期・世界史第1問「負の遺産と現代世界」
人類の歴史において、戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に、それを乗り越えて平和と解放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。  第二次世界大戦は一九四五年に終結したが、それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており、これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし、国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく、米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。例えば、中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢カ争いが... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/09/09 02:27
2004年東大前期・世界史第1問「銀が歴史を変えた」
一九八五年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。一九九七年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は一六、一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。一九世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。一九世紀に西欧諸国が金本位制に移行する中で、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、一九三〇年代に、中国が最終的に銀貨の流通を禁止する... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/09/08 03:24
2003年東大前期・世界史第1問「技術と歴史の深い関係」
私たちは、情報革命の時代に生きており、世界の一体化は、ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに行き交うだけでなく、情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には、運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。  歴史を振り返ると、運輸・通信手段の新展開が、大きな役割を果たした例は少なくない。特に、一九世紀半ばから二〇世紀初頭にかけて、有線・無線の電信、電話、写真機、映画などの実用化がもたらされ、視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は、欧米諸国がアジア・アフリカに侵略... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/09/07 01:01
2002年東大前期・世界史第1問「華僑の歴史」
世界の都市を旅すると、東南アジアに限らず、オセアニアや南北アメリカ、ヨーロッパなど、至る所にチャイナ・タウンがあることに驚かされる。その起源を探ると、東南アジアの場合には、すでに宋から明の時代に、各地に中国出身者の集住する港が形成され始めていた。しかし、中国から海外への移住者が急増したのは、一九世紀になってからであった。その際、各地に移住した中国人は低賃金の労働者として酷使されたり、ヨーロッパ系の移住者と競合して激しい排斥運動に直面したりした。例えば、米国の場合、一八八二年には新たな中国人移民の... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/09/05 11:56
2001年東大前期・世界史第1問「エジプトの歴史」
輝かしい古代文明を建設したエジプトは、その後も、連綿として五〇〇〇年の歴史を営んできた。その歴史は、豊かな国土を舞台とするものであるが、とりわけ近隣や遠方から到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応との関わりを抜きにしては、語ることができない。  こうした事情に注意を向け、  (1)エジブトに到来した側の関心や、進出に至った背景  (2)進出をうけたエジブト側がとった政策や行動 の両方の側面を考えながら、エジプトが文明の発祥以来、いかなる歴史的展開をとげて... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/09/03 00:47
2000年東大前期・世界史第1問「中国思想が啓蒙思想に影響を与えた」
大航海時代以降、アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると、特に一八世紀フランスの知識人たちの間では、東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように、中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり、中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/09/01 23:45
1999年東大前期・世界史第1問「地域を通して世界を見る・スペインの歴史」
ある地域の歴史をたどると、そこに世界史の大きな流れが影を落としていることがある。イベリア半島の場合もその例外ではない。この地域には古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した。とりわけヨーロッパやアフリカの諸勢力はこの地域にきわめて大きな影響を及ぼしている。このような広い視野のもとでながめるとき、紀元前三世紀から紀元一五世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか。その経過について解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した語句に必ず下線を... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/08/31 23:42
1998年東大前期・世界史第1問「南北アメリカ・歴史の分岐点」
アメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国は、ともにヨーロッパ諸国の植民地として出発した。しかし、独立後は、イギリスの産業革命などの影響の下で対照的な道を歩むことになった。たとえば、アメリカ合衆国の場合には、急速な工業化を実現していったのに対して、ラテンアメリカ諸国の場合には、長く原材料の輸出国の地位にとどまってきた。そしてラテンアメリカ諸国は、政治的にも経済的にもアメリカ合衆国の強い影響下におかれることになったが、その特徴は、現在のラテンアメリカ諸国のあり方にも大きな影響を及ぼしている。  そこで、... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/08/31 01:00
1997年東大前期・世界史第1問「少数民族問題」
二〇世紀の民族運動の展開を考えるさい、第一次世界大戦の前後の時期は大きな意味をもっている。この時期にはユーラシアの東西で旧来の帝国が崩壊し、その結果一部の地域では独立国家も生まれたが、未解決の問題も多く残った。それは、現代世界の民族と国家をめぐる紛争の原点ともなった。こうした旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら、解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した箇所には必ず下線を付せ。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/08/30 00:21
1996年東大前期・世界史第1問「大英帝国の栄光と没落」
一八世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、世界全体に工業社会の到来をもたらし、現代世界の形成に大きな役割を果たした。そのさい、人々はイギリスの覇権を「パクス・ローマーナ」(ローマの平和)になぞらえて「パクス・ブリタニカ」と呼んだ。しかし、「パクス・ブリタニカ」の展開には、さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った。現代世界はこのような対抗関係を重ねるなかで形作られたとも言えよう。そこで、一九世紀中ごろから二〇世紀五〇年代までの「パクス・ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について、下に... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/08/28 23:52
『東大入試で遊ぶ教養−日本史編』刊行!!
歴史好きの大人と東大受験生のための佐々木哲著『東大入試で遊ぶ教養−日本史編』(長崎出版)が、ついに刊行です。また、マイナーだけど実はすごい佐々木氏・六角氏をその実力どおり具体例にしましたので、佐々木氏・六角氏マニアの方が読んでも楽しめます。紀伊國屋屋書店・三省堂書店・ジュンク堂・丸善・オリオン書房など、有名書店では店頭にあります。分類は人文・歴史ですが、書店によっては受験コーナーにあります。インターネットではアマゾン・BK1などで購入できます。最寄りの書店・セブン-イレブンでも、ご注文できます。... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2006/08/08 00:54
8月東京勉強会
8月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 【日時】 ◆8月6日(日)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜17時 『哲学とマーケティング』  15時〜17時 『六角義康と足利義昭、豊臣秀次』 ◆8月20日(日)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 『弱者の進化論』  15時〜17時 『系図の読み方』 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/26 23:48
『東大入試で遊ぶ教養 日本史編』はじめに
 意外に思われるだろうが、東大入試では受験知識はいらない。考える問題になっているから、教養程度の知識があれば十分だ。だから、『東大入試で遊ぶ教養』シリーズは、受験知識を身につけるための本ではなく、@教養力を身につけたい大人や、A論述力を身につけたい受験生のための本になっている。  まず知っておいてほしいのは、学問が目指しているのは、これまで正しいと思われていた常識を疑うことだ。たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/25 09:25
2003年東大前期・日本史第4問「米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代!」
次の文章は民俗学者柳田国男が一九五四年に著したものである。これを読んで下記の設問A〜Cに答えなさい。  一八七八年(明治一一年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明治時代には農民はハレの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい。(中略)こんどの戦争中、山村の人々は(1)米の配給に驚いた。当局とすれば、日常米を食わぬ村だと知っていても、制度ともなれば配給か... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/22 03:18
2005年東大前期・日本史第4問「先進的だった明治憲法」
次の文章は、吉野作造が一九一六年に発表した「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」の一部である。これを読んで、下記の設問に答えなさい。 憲法はその内容の主なるものとして、(a)人民権利の保障、(b)三権分立主義、(c)民選議院制度の三種の規定を含むものでなければならぬ。たとい憲法の名の下に、普通の法律よりも強い効力を付与せらるる国家統治の根本規則を集めても、以上の三事項の規定を欠くときは、今日これを憲法といわぬようになって居る。(中略)つまり、これらの手段によって我々の権利・自由が... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/20 00:23
2004年東大前期・日本史第4問「地租改正と農地改革」
地租改正と農地改革は、近代日本における土地制度の二大改革であった。これらによって、土地制度はそれぞれどのように改革されたのか、あわせて六行以内で説明しなさい。 【解き方】  「地租改正」や「農地改革」を知らない受験生はいない。では説明できるかというと、これがなかなか難しい。  地租改正というと、近代化を目指した明治政府が、国家財政の基礎を固めて安定させるために実施したものというのは知られているが、地租改正そのものが土地制度の改革というのは、どういう意味だろう。  地租改正は、一八八〇年ご... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/18 01:05
1999年東大前期・日本史第3問「江戸期の家督相続」
次の(1)〜(5)の文章は、江戸時代の有力な商人たちが書いた、いくつかの「家訓」(子孫への教訓書)から抜粋し、現代語に訳したものである。これらを読んで、下記の設問に答えよ。 (1)家の財産は、ご先祖よりの預かりものと心得て、万端わがままにせず、子孫へ首尾よく相続するように、朝暮心掛けること。 (2)天子や大名において、次男以下の弟たちはみな、家を継ぐ長男の家来となる。下々の我々においても、次男以下の者は、長男の家来同様の立場にあるべきものだ。 (3)長男については、幼少のころから学問をさせ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/14 21:14
2004年東大前期・日本史第3問「海に開かれた蝦夷地」
次の(1)〜(3)の文章は、江戸時代における蝦夷地の動向について記したものである。これらを読んで、下記の設問に答えなさい。 (1)アイヌは、豊かな大自然の中、河川流域や海岸沿いにコタン(集落)を作り、漁業や狩猟で得たものを、和人などと交易して生活を支えた。松前藩は蝦夷地を支配するにあたって、有力なアイヌを乙名などに任じ、アイヌ社会を掌握しようとした。また藩やその家臣たちは、アイヌとの交易から得る利益を主な収入とした。 (2)一八世紀に入ると、松前藩は交易を広く商人にゆだねるようになり、一八... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/14 02:25
2006年東大前期・日本史第3問「琉球王国の繁栄」
次の文章(1)・(2)は、一八四六年にフランス海軍提督が琉球王府に通商条約締結を求めたときの往復文書の要約である。これらを読み、下記の設問A・Bに答えなさい。 (1)[海軍提督の申し入れ] 北山と南山の王国を中山に併合した尚巴志と、貿易の発展に寄与した尚真との、両王の栄光の時代を思い出されたい。貴国の船はコーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた。あのすばらしい時代はどうなったのか。 (2)[琉球王府の返事] 当国は小さく、穀物や産物も少ないのです。先の明王朝から... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/07/13 10:36
1984年東大前期第3問「江戸経済の成熟と近代化」
以下の二つの設問A、Bに答えよ。 A.下記の文は、近世の絹織物業の代表的な生産地である、西陣と桐生の歴史を記したものである。この文の下線部(1)、(2)の史実は何故おこったのか、その原因について、それぞれ二行以内で記せ。  京都には、古くから伝統的技術にもとづいた絹織物業があったが、一六世紀末、中国から導入された織物の技術によって、西陣の地に新たな機業がおこった。これ以後、西陣は一七世紀を通じて、絹織物の生産地としての独占的地位を保持しつづけた。幕府が糸割符制度を定めたのも、西陣の存在と無関... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/07/07 22:24
2003年東大前期・日本史第3問「江戸幕府の歴史認識と華夷変態」
次の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。  一七世紀後半になると、歴史書の編纂がさかんになった。幕府に仕えた儒学者の林羅山・林鵞峰父子は、神代から一七世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させ、水戸藩では徳川光圀の命により『大日本史』の編纂がはじまった。また、儒学者の山鹿素行は、戦国時代から徳川家康までの武家の歴史を記述した『武家事紀』を著した。  山鹿素行はその一方、一六六九年の序文がある『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されその支配をう... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2006/06/22 02:14
7月東京勉強会
7月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆7月22日(土)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 哲学講座『弱者の進化論』  15時〜17時 歴史講座『織田信長と六角義堯』 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/06/13 01:56
7月京都勉強会
7月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年7月9日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『弱者の進化論』  歴史講座 『織田信長と六角義堯』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都  第4演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/06/13 01:52
2002年東大前期・日本史第二問「武士と農民は同一階層」
次のア〜エの文章を読んで、下記のA〜Dに答えなさい。 ア 室町時代、国人たちは在地に居館を設け、地侍たちと主従関係を結んでいた。従者となった地侍たちは惣村の指導者層でもあったが、平時から武装しており、主君である国人が戦争に参加するときには、これに従って出陣した。 イ 戦国大名は、自分に従う国人たちの所領の検地を行い、そこに住む人々を、年貢を負担する者と、軍役を負担する者とに区別していった。そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした。 ウ 近世大名は、家臣たちを城下町に強制... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 5

2006/06/06 12:05
1983年東大前期・日本史第二問「鎌倉新仏教の誕生」
 歴史学を一生の仕事とする決意を固めるのと、ほとんど同じころ、私は高等学校の教壇に立った。私にとって、これが初めての教師経験であり、生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立往生することもしばしばであったが、その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。 「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜ、だれもそれができなかったのか」。これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/06/03 07:04
2005年東大前期・日本史第二問「北条泰時消息文」
次の文章は、鎌倉幕府執権北条泰時が、弟の六波羅探題重時に宛てて書き送った書状の一節(現代語訳)である。これを読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/06/01 21:22
1996年東大前期・日本史第2問「守護・守護大名・戦国大名」
次の(1)〜(6)の文を読んで下記の設問に答えよ。 (1)一三四六年、室町幕府は山賊や海賊、所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守護に取り締らせる一方、守護請や兵粮米と号して、守護が荘園や公領を侵略することを禁じた。 (2)一四〇〇年、信濃の国人たちは、入国した守護に対して激しく低抗してついに合戦となり、翌年、幕府は京都に逃げ帰っていた守護をやめさせた。 (3)一四一四年、九州の一地方の武士たちが作成した契約状によれば、喧嘩を起した場合、双方が処罰されることとなっている。 (4)一五... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/31 11:37
2006年東大前期・日本史第2問「海国日本と平氏」
院政期における武士の進出について述べた次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。 (1)院政期には、荘園と公領が確定される動きが進み、大寺社は多くの荘園の所有を認められることになった。 (2)白河上皇は、「私の思い通りにならないものは、賀茂川の水と双六のさいころと比叡山の僧兵だけだ」と言ったと伝えられる。 (3)慈円は、『愚管抄』のなかで、「一一五六(保元元)年に鳥羽上皇が亡くなった後、日本国における乱逆ということがおこり、武者の世となった」と述べた。 (4)平氏... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/29 11:54
6月東京勉強会
6月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆6月 3日(土)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 哲学講座『科学思想史を学ぶ意義』  15時〜17時 歴史講座『戦国期の佐々木氏』 ◆6月10日(土)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C  18時〜19時 出席者との哲学談義  19時〜21時 歴史講座『織豊期の佐々木氏』 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/24 22:31
6月京都勉強会
6月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年6月11日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『科学思想史を学ぶ意義』  歴史講座 『戦国期佐々木六角氏』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都  第1演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/24 22:19
2006年東大前期・日本史第1問「藤原的なものと大伴的なもの」
次の(1)〜(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。 (1) 律令制では、官人は能力に応じて位階が進む仕組みだったが、五位以上は貴族とされて、様々な特権をもち、地方の豪族が五位に昇って中央で活躍することは多くはなかった。 (2) 藤原不比等の長男武智麻呂は、七〇一年に初めての任官で内舎人(天皇に仕える官僚の見習い)となったが、周囲には良家の嫡男として地位が低すぎるという声もあった。彼は学問にも力を注ぎ、右大臣にまで昇った。 (3) 太政官で政治を議する公卿には、同一氏族から一人が出... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2006/05/21 15:41
2003年東大前期・日本史第1問「唐が蕃国 !?」
次の(1)〜(4)の八世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。 (1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。 (2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。八世紀には、日本は唐に二〇年に一度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。 (3) 七四三年、新羅使は、それまでの「調」という貢... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/20 01:28
斎藤道三の国盗りは父子2代(六角承禎書状)
天文・弘治年間足利義晴・義輝父子を保護しているあいだ、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護。北伊勢で北畠氏と抗争。弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化した。  永禄三年(一五六〇)浅井長政の自立阻止のため、承禎は北近江に侵攻。しかし野良田合戦では敗北。そこで宿老衆は、承禎の長男義治(当時は四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめて同盟。承禎はこの縁談に反対した(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書:七月二十一日付宿老宛六角承禎書状)。  こ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/17 02:38
六角・朝倉同盟を示す朝倉教景書状の紹介
天文元年(一五三二)十二月に六角氏と朝倉氏の間で密約。天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫『古今消息案』)にくわしく記されていないが、「末代迄」という文言から重要な内容とわかる。翌年に義景が誕生したことになっているが、『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」には義景が六角氏綱の子という異説が記されている。関係があるだろう。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2006/05/07 02:48
5月東京勉強会
5月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 ◆5月20日(土)東京ウィメンズプラザ・第一会議室A  18時〜19時 来場者の希望に応じた談話  19時〜21時 歴史講座『戦国期佐々木六角氏』 【会場】 ★東京ウィメンズプラザ  青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。  渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分  都バス(... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/01 20:42
5月京都勉強会
5月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年5月14日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『母国語』  歴史講座 『室町期佐々木六角氏』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都  2階和室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/05/01 20:28
『佐々木六角氏の系譜』完売間近!
お蔭様で、『佐々木六角氏の系譜』は完売間近です。紀伊国屋書店の在庫もなくなりましたので、現在、確実に購入できるのは三省堂書店、オンライン書店ビーケーワン(BK1)、オリオン書房(ノルテ店)のみとなりました。それぞれ以下のホームページからご注文下さい。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/04/19 21:01
4月東京勉強会
4月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆4月16日(日)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A  13時〜15時 哲学講座『解釈学・系譜学・考古学』  15時〜17時 歴史講座『佐々木荘と佐々木氏』 ◆4月30日(日)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 哲学講座『母国語』  15時〜17時 歴史講座『鎌倉御家人佐々木氏』 ... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/03/14 21:22
4月京都勉強会
4月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年4月9日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『解釈学・系譜学・考古学』  歴史講座 『鎌倉御家人佐々木氏』    【会費】  3、000円 【会場】  京都市国際交流会館 第4会議室 13時〜17時  http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html   今後の予定 ◆5月14日(日) キャンパスプラザ京都  和室 ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/03/14 21:14
『佐々木六角氏の系譜』ついに公刊 !!
お待ちどうさまでした m( _ " _ )m ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が納品されます。流通にのるにはもうしばらく時間がかかるかと存じますが、最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 すでに研究者・書店・近江佐々木氏の会の方でご注文いただけた方々には、厚く御礼申し上げます。 ■判型:四六判 200頁 ■定価:2,310円(税5%込) ■初版年... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 15

2006/03/10 00:05
『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』近日公刊!
いよいよ佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が刊行されます。最寄りの書店か、出版元の思文閣出版にお問い合わせ下さい。また勉強会でもお分けできるようにいたします。サインをご希望の方はおっしゃってください。 ■判型:四六判 200頁 ■定価:2,310円(税5%込) ■初版年月:2006年03月刊行予定 ■ISBN:4-7842-1290-6 【内容】 入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されている佐々木六角氏系図について、当時の資料をきちん... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2006/03/03 00:00
3月京都勉強会
3月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年3月12日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座『発想の転換』  歴史講座 『佐々木六角氏の歴史』    【会費】  3、000円 【会場】  京都市国際交流会館 第4会議室 13時〜17時  http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html   今後の予定 ◆4月 9日(日) 京都市国際交流会館 第4会議室 13時〜1... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/26 14:55
3月東京勉強会
3月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆3月 5日(日)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A  13時〜15時 『系図伝承論』  15時〜17時 『発想の転換の方法』 ◆3月11日(土)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 『発想の転換の方法』  15時〜17時 『佐々木氏の歴史』 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/26 14:51
『系図資料論』序
 わたしたちは似たものに同じ記号を付け、同じカテゴリーに分類する。たとえば系図に作為と錯誤が多いという符号が付けられたことで、すべての系図資料が実証的な歴史研究の資料にはなりえないと思われた。たしかに系図の記述そのままを信じることはできない。佐々木系図で近江国佐々木庄に最初に留住した伝えられる源成頼は、実際には四位中将という殿上人であり、近江国に留住した形跡はない(1)。系譜伝承のまま源成頼が近江に留住したと記述すれば誤りとなる。しかし系図は、本当に実証的研究の役に立たないものなのだろうか。 ... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 4

2006/02/26 03:54
系図研究史
 家系・系図の研究でまず思い出されるのは、太田亮氏である。太田氏は系譜学会を組織して、機関誌『系譜と伝記』(のち『国史と系譜』)を発行し、各地の愛好家から多くの論考が寄せられた。『姓氏家系大辞典』はそのような広大な基盤の上に完成したものである。太田氏は家系に関する資料を集めて整理し、歴史資料としての系図の価値を高めようとしたと評価できる。  その一方で史実探究を急いだために、同一地域に古代豪族と中世豪族があった場合には、中・近世の系図を疑って中世豪族を古代豪族の直系の子孫とした。たとえば宇多源... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/26 03:53
資料としての系譜伝承
 系図は、実証的研究ではまず無視される資料である。しかし系図・由緒書は、それが作成された時代の歴史叙述の一形態であり、時代の思潮や社会の動向をとらえるための絶好の資料である。歴史学だけではなく社会学・民俗学・文化人類学など学際的研究を通して人類史的視点から姓名・系譜のあり方を解明すれば、日本社会の特質を捉えることもできる。このように系図は貴重な資料であり、その調査・収集・保存・整理を体系的に進めることが急がれる。しかし、そのための基礎的な前提となる系譜学を資料学として確立するには、まだまだ未解決... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/26 03:52
資料としての家紋
 上杉本洛中洛外図は、誰が上杉謙信に贈ったものかが問題になっている。今谷明氏は屏風に描かれている景観を綿密に考察し、とくに変転の激しい武家邸宅に注目して年代比定を試みた(23)。そして公方様(将軍邸)・細川殿(管領細川邸)・典厩(細川典厩邸)・武衛(旧斯波邸、将軍家別邸)・伊勢守(政所執事伊勢邸)・畠山図子上臈(旧畠山邸)・和泉守護殿(和泉守護細川邸)・薬師寺備後(摂津守護代薬師寺邸)・三好筑前(三好長慶邸)・高畠甚九郎(山城郡代高畠邸)・松永弾正(松永久秀邸)の存在や規模・位置・名称に注目して... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 5

2006/02/26 03:51
系譜記号論
 系譜記号論の契機になったのは、ひとりの歴史的人物の実在をめぐる問題に興味をもったことである。その人物は、京都の隣国近江国の戦国大名六角義実である。彼は近江守護職を世襲した宇多源氏佐々木氏の嫡流で、足利将軍の養子となり、参議兼近江守に補任されたという。  六角義実は、従来、近世初頭の系図作者沢田源内によって作り上げられた架空の人物と考えられてきた。家系・系図研究の入門書である太田亮『家系系図の合理的研究法』(30)をはじめ、一般読者向けの家系・系図関連の書物のほとんどで、沢田源内は偽系図作者の... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/26 03:49
資料は語る
 歴史的事実を、その痕跡から他者として顕在化することができる。歴史叙述をフィクション物語と同じだと批判する物語論は、このことを見逃している。同一資料を意図的に別の見方で見ることで、それまで排除されてきた歴史的事実を浮かび上がらせることができる。  たとえば偽文書である。従来の史料批判では、偽文書は歴史的事実を歪曲するものとして排除されていた。しかし、偽文書も歴史の中で生み出されたものである。偽文書を排除することで、偽文書に含まれている史実も排除することになる。偽文書から読み取ることのできる史実... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 9

2006/02/26 03:48
歴史学における科学革命
 発想の転換は、確実な資料を一つ一つ積み重ねてもできない。異なる視点を持ち込む必要がある。異なる視点で作り上げた作業仮説を、良質な資料によって実証するのである。実証できれば、同一資料を使って通説とは反対の結論を導き出すことができたことになる。これは、実証的研究も研究者の見方に束縛されていることを示すとともに、歴史像を転換するという歴史学における科学革命の方法を示している。  しかし歴史像の転換は既存の歴史像の全てを否定するものではなく、既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、既成概念で... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/26 03:47
史料批判と系譜伝承
 『江源武鑑』は、系図作者沢田源内の著作として偽書のレッテルを貼り続けられてきた。沢田源内は自らを鎌倉草創期以来の近江守護佐々木六角氏につなげるために、戦国期六角氏歴代に義実−義秀−義郷の三代を加筆して、自ら義郷の嫡子氏郷(義綱)と名乗ったという。しかし『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)であり、氏郷はちょうどその年に生まれている。『江源武鑑』を彼の著作とすることはできない。しかも氏郷と同時代の記録『京極家臣某覚書抜萃』(54)によれば、氏郷は同じく近江守護佐々木氏の子孫である讃岐丸亀藩主京... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/26 03:45
江州宰相の研究・序
 『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に、江州宰相という人物が登場する。天文八年(一五三九)五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛および下向した記事がある。この記事に関する頭書が、『鹿苑日録』十六巻(『日用三昧』七巻)の表紙にあり、この人物は「相公」と記されている。宰相も相公も参議の唐名であり、一般的には宰相を相公と言い換えても当たり前だと思われる。このように何でも当然だと言って受け流しては、そこで探究は終わってしまう。しかし同書で、ただ「相公」とのみ記す場合は現職の将軍を指す。つま... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/24 21:43
六角隆頼
 これまで、六角氏綱の跡はただちに弟定頼が継承したと考えられてきた。しかし氏綱(佐々木四郎、近江守)の没年は永正十五年(一五一八)であるにもかかわらず、定頼(弾正少弼)の近江守護職補任は天文六年(一五三七)である(6)。ここに十九年間の空白がある。これをどう理解すればいいだろうか。  実は、山津照神社文書に、大永六年(一五二六)五月二十八日付青木社家中宛六角隆頼願状がある(7)。内容は、祈願が成就したときには近江甲賀郡内で所領を寄進するというものである。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/24 21:42
足利義晴祝言と四郎殿父子
 管領細川氏(細川京兆家)内部における高国と晴元の抗争によって、十二代将軍足利義晴は近江への逃亡生活を余儀なくされ、六角氏の居城観音寺場内にあった桑実寺に仮幕府を開いた。そのような中での天文三年(一五三四)六月に、六角氏の仲介で将軍義晴と前関白近衛尚通の娘が婚礼を挙げた。場所は桑実寺であった。そのときの模様を記した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)に、「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参、十合十荷御進上之、御一献参」とある。この記事によれば義晴の... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/24 21:41
長命寺結解と四郎殿様
 六角四郎と義賢を明確に区別している例は、六角氏の本国近江国内の資料にもある。それが『長命寺結解』(9)である。長命寺は、六角氏の祖佐々木秀義の菩提寺である。秀義(源三)は鎌倉幕府草創期に源頼朝の挙兵を助けて近江守護(惣追捕使)の初代となり、以後佐々木氏が近江守護を保持し続けた。六角氏はその佐々木氏の嫡流である。当然、長命寺と六角氏の結び付きは強い。そのため長命寺文書で六角四郎と義賢が明確に区別されていることの意義は大きい。  私がこの長命寺の出納記録である結解(けちげ)を発見したときは、『鹿... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/24 21:40
佐々木四郎公能
 四郎殿様と義賢が別人であったことをダメ押しする決定的な資料がある。それが『証如上人日記』(11)天文十年(一五四一)十月五日条である。本願寺証如が将軍足利義晴(室町殿)に馬を進上したが、その返礼として将軍の私信である御内書と太刀(祐光)が給付された。その太刀は佐々木四郎公能に進上させたものである。このとき佐々木四郎を名乗る人物の実名は公能であった。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/24 21:39
義久という人物
 『鹿苑日録』に義久という人物が登場する。彼は鹿苑院主梅叔法霖と交流があり、十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になるなど幕府内の有力者でもあった。しかし辻善之助編『鹿苑日録総索引』(12)でも氏姓が記されず、これまで注目されてこなかった。  義久の記事は、『鹿苑日録』に三カ所ある。まず天文六年(一五三七)六月十五日条に、義久が法霖に書を送った記事である。その前日の六月十四日条に、近江国内の鹿苑院領四ケ郷の差出検地についての記事がある。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 23:49
義久と恵林院殿十七回忌
 『鹿苑日録』天文八年(一五三九)二月二十九日条に、六角定頼(霜台)が鹿苑院主の法霖に書状を遣わした記事があり、さらに続けて法霖が恵林院殿(十代将軍足利義稙)十七回忌料について大館晴光(左衛門佐)に問い合わせた記事がある。六角定頼の記事と足利義稙十七回忌料の記事は関連しているように読むことができるが、この記事だけでは即断できない。やはり前後の記事を丹念に読み込んでいく必要がある。  まず三月九日条に、五千疋を寄進するとの大館晴光の返事が記載されている。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 23:48
足利将軍の猶子
 義久が足利義稙十七回忌の法事の主催者であり、しかも僧録鹿苑院主にとって「御成」の主体になることは、義久が足利氏の連枝と目されていたことを示していよう。たしかに沙々貴神社本では、義久に当たる人物「義実」が十一代将軍足利義澄の猶子であったと記されている。  義澄は、周防・長門・筑前守護大内義興に擁立された前将軍義稙(西国御所・西国大樹)の巻き返しによって、永正五年(一五〇八)に近江に出奔した。こうして義稙は前例のない将軍再任を果たした。江州公方義澄は近江守護六角氏に保護されたが、義稙派による包囲... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 23:47
義久の出家
 実は足利義稙法事の記事で、義久は「義久入道」と記されている。しかし沙々貴神社本によれば、義久(系図では義実)は永正七年(一五一〇)の生まれである。義久の父氏綱は永正十五年(一五一八)に享年二十七歳で没している。父死去の時点で義久は九歳である。『御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」、『厳助往年記』で「六角四郎」、そして『長命寺結解』でも「四郎殿様」として登場した天文三年(一五三四)に、義久は二十五歳である。また江州宰相として登場する天文五年(一五三六)に、義久は二十七歳である。そして義久入道... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 23:46
義久入道と宗能
 義久が天文六年(一五三七)以降に「宗能」と名乗っていたことは、『続群書類従』所収の三上系図に付けられている三上文書によって知ることができる。義久が「義久入道」と呼ばれる時期と重なる。この文書の原本は確認できないが、もし明らかな偽文書ならば一般に流布している「義実」と記したと考えられる。わざわざ「宗能」とはしないだろう。この文書は信用できる。  同文書には六角宗能安堵状写一通、六角宗能一字書出状写一通、秀書状写一通がある。まず天文六年(一五三七)正月十六日付六角宗能安堵状写は、三上三郎次郎宛に... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 22:18
六角定頼の近江守護補任
 叔父定頼の近江守護職補任は、義久が出家したと考えられる天文六年(一五三七)である。しかも、定頼は近江守護のまま幕政にも大きく関与した。江州宰相を補佐するための近江守護職と考えられる。  ところで六角定頼は五位で弾正少弼に任官していたが、弾正少弼は京都を巡察して非違を糾す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。そのため長官の尹には親王が補任され、次官のうち上級次官の大弼は参議が兼任、下級次官の少弼には四位・五位の殿上人が補任された。三等官の忠には実務官僚である侍身分の者がなった。律令制度で... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 21:55
義久一周忌
 江州宰相の没年について系譜伝承に混乱があり、特定できない。沙々貴神社所蔵佐々木系図では没年月日を天文十五年(一五四六)九月十四日とし、法号を東禅寺殿仁山崇義大居士とするが、『江源武鑑』では没年月日を弘治三年(一五五七)十一月二十二日とし、法号を東光院殿贈権中納言三品崇山大居士とする。系譜伝承によって生没年に多少の異同があるものの、おおまかにこの二つの時期に絞られる。これは二人の人物の没年を混同しているものと考えられるが、どちらにも決定打がない。  ところが、『鹿苑日録』天文十八年(一五四九)... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 21:41
江州宰相の贈官
 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に「ふけよりとて。□うくわん事にりんしのさいそく申さるゝ。てん文九年の御ゆとのゝ日記にも。せんくわう御心しるしのにもなきよしおほせらるゝ。御かへり事かさねとあり」と足利義輝が贈官の催促をしているという記事があるが、前将軍義晴の左大臣贈官は薨去直後の天文十九年(一五五〇)五月四日にすでに行なわれており、義晴の贈官のことではない。江州宰相の贈官の記事だろう。  このことによって、永禄二年(一五五九)までに江州宰相が薨じていたことが分かる。『鹿... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 21:38
織田信長と近江殿
 信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条に「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也」と記されている。当時、信長が近江殿になり、信長の子息信雄(茶箋)が将軍になるという噂があったことが知られる。この信長がなると噂された近江殿は、まさしく近江殿であ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 21:37
『江源武鑑』の錯誤
 『江源武鑑』では、義久に当たる人物を一貫して「義実」と記述している。しかし義実の実名が義久と分かった後で同書を読むと、永禄十年(一五六七)十一月九日条に「義久」という実名が登場していることに気づく。これは、義賢(承禎)の次男中務大輔が「義久」と改名したが、屋形義秀の勘気を受けて「賢永」と改名したという記事である。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/23 21:35
六角義秀の研究・序
 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿より二色二かまいる」とあり、亀寿の元服で、典侍(ないしのすけ)が天皇家に御礼を進上している。また同書の天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条では「かめちよかみおきとて、二色一かしん上申」とあり、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。   『お湯殿の上の日記』は宮廷記録のひとつで、天皇常住... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:46
『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期に六角高頼は『碧山日録』で「亀」「亀子」「亀寿子」などと呼ばれている(1)。『碧山日録』の記主太極は、近江北郡守護京極氏の一族である佐々木流鞍智氏の出身であり、当時の幕政に翻弄されて孤軍奮闘していた佐々木惣領家の六角亀寿に同情し、親しみを込めて「亀」「亀子」「亀寿子」と記した。そして『お湯殿の上の日... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:44
足利義晴政権と六角亀寿
 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するようになる。  天文六年四月三十日条「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。これ以後、日常的な物を進上するようになる。まず同年十月十一日条で「かめこ、みつかんしん上申」と亀子が蜜柑を進上し、同年十二月六日条でも「かめこ、まん一ふたしん上申」と亀子が饅頭を進上した記事がある。さらに同年... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:41
六角亀寿の元服
 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をしていることから、典侍が亀寿の母であったことが分かる。天文九年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」という新大典侍の子が参上した記事は、亀寿の記事である可能性もある。これで亀寿の記事が『お湯殿の上の日記』に頻出する理由が理解できる。  しかし元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:29
六角亀寿の実名
 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、同書によっては、知ることができない。それだけ同書を書き継いだ人々にとっては、六角亀寿は親近な存在であったことが分かる。そこで、六角亀寿の実名を他の資料から明らかにしてみよう。  『証如上人日記』(5)天文十年(一五四一)十月五日条には、次のようにある。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 3

2006/02/22 22:27
『万松院殿穴太記』作者と六角氏
 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年(一五五四)七月九日条に「内侍所へ罷向、穴太記読之、盞有之」とあるように、同書は天皇家の内侍司に収められていた。この記事から同書が天文二十三年(一五五四)までには成立していたことが分かる。また『群書類従』(二十九輯)所収のものは、関白二条晴良が天文十九年(一五五〇)初冬下旬に書写したものである。これ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:26
六角亀千代
 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には京都の東寺に入った(『言継卿記』『厳助大僧正記』)。細川氏綱が細川氏家督となり、晴元は若狭に出奔した(『言継卿記』)。また三好長慶は将軍御供衆に列し、将軍直臣となった。  この年、再び六角氏嫡子の幼名を名乗るものが幕府に出仕し、天皇家女房衆に音物を進上する。幕府政所執事である蜷川親俊の日記『親俊日... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:23
六角義秀と小倉良秀
 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そうであれば、こののち義秀が早世した理由も分かる。  当時、六角氏は京都政界から遠ざかっている。そのため徳川公の動向はまったく分からない。天皇家女房衆に音物を進上することはできない状況にあった。このあいだ六角氏は将軍義輝を擁立して京都を伺っていたが、同時に周辺諸大名との抗争にも巻き込まれていた。斎藤... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:22
桶狭間の戦いと六角氏
 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するようになっても、六角氏に関する記事は少なくなる。 永禄元年(一五五八)五月三日将軍義輝は六角氏の援助で近江坂本に移り、さらに六角氏が将軍義輝と三好長慶の和談を斡旋して、同年十一月二十七日義輝の帰京を実現した。和平を実現した六角義賢は隠居して承禎と名乗った。  『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:20
修理大夫書状
 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と見ることができる。修理大夫は参議が兼職することのできる官職であることも、徳川公義秀が修理大夫であったことと矛盾しない。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 22:17
観音寺騒動と足利義輝殺害事件
 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。  しかし永禄六年(一五六三)六角氏では、義治(当時は右衛門尉義弼)が重臣後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺したことで、承禎・義治父子と六角近臣団が対立するという観音寺城騒動(後藤騒... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:17
足利義昭入洛運動
 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶らは早速、甲賀和田城から越後上杉輝虎(のち謙信)や尾張織田信長など諸大名に連絡を取った(19)。  覚慶らを保護した和田氏は甲賀武士であったが、また将軍御供衆(和... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:16
江州殿と織田信長の入洛
 足利義秋が北陸を移座している間、永禄十年(一五六七)四月十八日に六角氏式目(義治式目)が制定された。三上越後守(恒安)・後藤喜三郎(高治)・三井新五郎(治秀)・真光寺周揚・蒲生下野守入道(定秀)・青地入道(道徹)・青地駿河守(茂綱)・永田備中守入道(賢弘)・平井加賀守(定武)・馬淵山城守入道(宗綱)・三雲対馬守(定持)・永田刑部少輔(景弘)・進藤山城守(賢盛)・池田孫二郎(景雄)・三雲新左衛門尉(成持)ら六角氏近臣団は、この分国法によって承禎・義治父子の行動を規制し、体制の立て直しを図った。 ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:15
義秀遠行
 入洛直後に義秀は病没した。やはり義秀は傷病に苦しんでいた。滋賀県和田文書の(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状(27)によれば、信長は義秀が没したとの報に接して言語を絶するとともに、近く起こるであろう六角承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めた。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:14
朝倉義景と六角義景
 越前の戦国大名朝倉義景は、六角氏綱の子息であったという異説がある。富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』で、義景=六角氏説は異説として紹介されている(30)。六角氏側では、『江源武鑑』はまったく伝えていないものの、沙々貴神社本佐々木系図と『六角佐々木氏系図略』が、六角氏綱の次男として朝倉義景を記述している。  これまでは、六角氏綱の没年が永正十五年(一五一八)であることから、天文二年(一五三三)誕生の義景の実父とするには年代が合わないとされてきた(31)。しかし氏綱の孫と考えれ... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:12
浅井久政・長政父子と六角氏
 『江源武鑑』『浅井日記』では、浅井長政を六角氏の武将と伝えている。また『六角佐々木氏系図略』では、浅井久政は六角氏の庶子だったとも伝えている。もしそうであれば、六角氏と朝倉・浅井両氏は深く結び付いており、元亀争乱で浅井長政が朝倉義景に寝返ったことも理解できる。少なくとも浅井久政の名乗りは、江州宰相六角義久の諱字を給付されたものと考えられる。  元亀争乱では、前述の和田文書所収(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状に使者として見える沢田兵部少輔をはじめ、山崎・目賀田・伊達・藤堂など六角氏... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:11
元亀争乱と近江修理大夫
 『言継卿記』元亀元年(一五七〇)四月二十九日条に、「江州へ六角出張云々、方々放火云々、北郡浅井申合、信長に別心せしむ云々」とある。当時は、浅井氏が信長に反旗を翻したのは、六角氏と示し合わせたためと考えられていたことが分かる。また(元亀元年)七月十六日付益田藤兼宛朝山日乗書状(42)に「江州北之郡浅井別心候、則ち六角殿も六千計りにて取り出でられ候」とあり、このときの六角軍の兵力が六千であったことが分かる。けっして少なくない。  続けて『言継卿記』同年五月九日条に「巳刻織田出陣、二万計りこれ有り... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:10
比叡山再興と佐々木氏郷
 元亀二年(一五七一)信長によって焼き打ちされた比叡山延暦寺を、佐々木氏郷(義郷)が元亀三年(一五七二)蒲生郡中荘山に再興したという伝承がある(45)。氏郷が七百石を寄進したことで、近江蒲生郡中荘山を新比叡山として延暦寺が再建された。坊舎は七十二坊を数えたという。この七百石はその土地の収穫高ではなく、年貢高である。現在の長命寺の建物はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。氏郷が延暦寺を蒲生郡に再建していることは、彼が信長から自立した勢力であったことを示している。  この江州殿による延暦寺再建... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:09
六角義堯と佐々木左馬頭
 元亀三年(一五七二)九月御屋形様が一向一揆を観音寺城に入城させた。この御屋形様は六角義堯と考えられる。義堯は、山中文書所収の(年未詳)十月二日付六角承禎書状(51)に登場する。  夜前に義堯の許を訪れた者があり、そのことについて義堯が夜中に池田氏を使者として承禎・義治父子に相談したという。その相談内容は書中に書けないとするものの、1.三河方面のこと、2.三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、3.出座のことなどが記されている。このうち三河方面のことは、同書状の日付け十月二日に注目すれば、元亀三... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:08
足利義昭政権と元亀争乱
 実は元亀争乱は、朝倉義景が足利義昭の上洛命令を拒否したことで始まっている。足利義昭は単なる傀儡ではなく、畿内政権の実質的主体として将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年(一五六八)十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」といわれている。義昭は畿内を幕府系の諸将に配分することで彼らへの軍事動員権を確保し、奉公衆など直属軍を編成している。実際にこの直属軍によって、本圀寺を宿所としていた義昭を襲撃した三好三人衆勢を撃退した。義昭の軍事力... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/22 00:06
六角義堯の研究・序
 義堯は発給文書が多く残っていることから、その事跡はかなり明らかである。元亀元年(一五七〇)六角氏は越前朝倉義景や北近江浅井長政・比叡山延暦寺・本願寺と連携を取っていたが、義堯は元亀三年(一五七二)に秘密裡に将軍足利義昭や甲斐武田信玄・阿波三好甚五郎らと連絡を取って(山中文書)、信長包囲網を強固にした。この信長包囲網は翌元亀四年/天正元年(一五七三)四月に信玄が急死したことで崩壊し、同年七月信長によって足利義昭は京都を追放され、さらに八月には朝倉義景や浅井久政・長政父子が相次いで滅亡した。  ... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 14

2006/02/15 23:26
甲賀武士と六角義堯
 甲賀武士というとすぐに甲賀忍者を想像してしまうが、実は自立した中小領主による一揆(地域連合)であり、中には朝廷・公家や幕府に直仕する者もいた。この甲賀武士と六角氏の関係は深く、山中文書や黒川文書には義堯に関する文書が伝わる。その甲賀郡中惣が全国的に注目されたのは、応仁・文明の乱後に起こされた六角氏征伐のときである。  近江守護六角高頼(行高)は応仁・文明の乱で西軍にあって反幕府的行動をとり、乱後も混乱に乗じて寺社本所領を押領し続けた。そのため九代将軍足利義尚は、高頼を討つため長享元年(一四八... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/15 23:25
山中文書と六角義堯
 元亀・天正年間に六角承禎・義治父子とは別に六角氏当主がいたことを示す六角承禎書状が、滋賀県山中文書(3)に収められている。それは、義堯書状の内容を山中大和守(俊好)に知らせた(年未詳)十月二日付六角承禎書状である(4)。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/15 23:23
武田勝頼と六角義堯
 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義景と北近江浅井久政・長政父子は相次いで滅亡した。そして元号も元亀から天正に改元された。  しかし義堯は、信玄の後継者四郎勝頼と連絡を取り合った。この交渉では承禎自らが、義堯の使者として活動している(黒川文書)。承禎は、天正二年(一五七四)武田勝頼に使者辻和泉守を派遣して交渉を進めた(黒川文書)。さ... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/15 23:20
武田勝頼との同盟
 甲賀武士の子孫に伝えられた滋賀県黒川文書(11)に、義堯書状が収められている。それは、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す、六角義堯書状である。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/15 23:19
一向一揆との連携
 天正三年(一五七五)四月織田軍が大坂本願寺に向かったことを聞いた六角義堯は、大和国吉野郡飯貝に所在する浄土真宗寺院本善寺に宛て書状を発給し、何か承ることがないか尋ねるとともに、上洛のため軍事行動を起こした武田勝頼軍の動きを今後報告することを約束している(本善寺文書)。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/15 23:15
上杉謙信と六角義堯
 上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は十三代将軍義輝には心服していたが、その実弟義昭に対しては異なっていたようだ。しかし義堯が協力を要請したことで、それまでの態度を一転させて反信長陣営に加わった。謙信が義堯に全幅の信頼を寄せていたことが分かる。続群書類従本伊勢系図別本(巻百四十一)の伊勢貞孝の項にあるように、足利義輝の男子が六角氏の養子... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/15 23:12
織田信長包囲網の形成
 上杉謙信が要請を受け入れたことに対する義堯の礼状が、『歴代古案』に収められている。同文書の三宝院義堯書状がそれである(26)。この義堯書状は『越佐史料』に掲載されているが、原本がないために花押を確認できない。しかし上杉謙信が援軍の要請を受けたこと対する礼状であることから、三宝院義堯ではなく六角義堯の書状と分かる。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/15 23:10
毛利氏と六角義堯
 吉川文書には、六角義堯書状が多く含まれている。それは、天正四年(一五七六)の足利義昭の備後下向を実現させたのが義堯だからである。もともと義堯は吉川元春から年頭や歳暮の祝儀を贈られるなど交流があった。実は毛利氏側は初め足利義昭の備後下向を迷惑がっており、足利義昭本人が依頼しても承諾しなかった。義堯が交渉に乗り出したことではじめて、吉川元春も毛利輝元へ取り成した(吉川文書)。そのため吉川文書に多くの義堯書状が残された。毛利氏も上杉氏と同様、足利義昭の要請は断っても義堯の要請に応えている。このことで... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:18
吉川元春と六角義堯
 『大日本古文書』吉川家文書では、一連の義堯書状を畠山義堯書状とする。しかし義堯花押が近江国内の木村文書・黒川文書に収められている六角義堯書状の花押と一致し、また『大日本古文書』小早川文書所収の『礼銭遣方注文写』に「六角殿」が見えるとともに、同じく小早川文書所収の六角義堯書状案で義堯の署名の下に当時の注記で「六角殿これ也」と記されていることから、六角義堯書状と分かる。そのため『大日本古文書』も小早川家文書や山内首藤家文書では、義堯書状を六角義堯書状としている。また『吉川文書花押藪』(東京大学史料... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:17
足利義昭・六角義堯の備後鞆津下向
 毛利氏は天正四年二・三月に足利義昭と真木島昭光が備後下向の援助を求めても承諾しなかったが(36)、同年四月に六角義堯が要請すると受け入れている。足利義昭の備後鞆津への移座は、義堯が交渉に乗り出したことで実現した。このことは吉川元春が六角義堯を重く見ていたことを示していよう。  まず吉川元春に毛利輝元への取り成しをもとめた義堯書状(37)がある。 ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/14 22:15
細川昭賢と毛利氏
 吉川元春は使者今田経忠を立てて備後鞆に着津した足利義昭一行を訪れて祝儀を贈ったが、その際の(天正四年)十月二日および三日付の一連の文書が吉川文書に収められている。  まず十月二日付のものは、足利義昭御内書(41)、真木島昭光(玄蕃頭)奉書(42)、真木島昭光書状(43)、小林家孝(民部少輔)書状(44)であり、また翌三日付けのものは上野秀政(大和守)書状(45)、昭賢書状(46)・畠山昭清(上野介)書状(47)・武田信景(右衛門佐)書状(48)である。  このとき小早川隆景も祝儀を贈ってお... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:12
小早川隆景と六角義堯
 足利義昭亡命政権が備後鞆津に到着したときに、義昭らが吉川元春に宛てた(天正四年)十月二日・三日付の一連の礼状の中に六角義堯礼状がない。このことは、『礼銭遣方注文写』の宛所に「六角殿取次」と「同厩方」があるものの、「六角殿」本人がないことと関連があろう。義堯本人の到着は遅れたのだろうか。  実は『大日本古文書』では、これら十月二日・三日付の一連の礼状を、天正元年(一五七三)足利義昭が河内若江城に在城していたときのものとしている。しかし、小早川家文書(椋橋家什書第七巻)に、天正四年(一五七六)の... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:10
備後国人山内氏と六角義堯
 また毛利氏に属していた地元備後の有力国人山内隆通(新左衛門尉)・元通(刑部少輔)父子も、足利義昭一行や六角義堯に祝儀を贈っており、山内首藤家文書に義堯礼状(58)が収められている。それを見てみよう。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:08
北畠・朝倉両氏の再興運動
 天正四年(一五七六)十一月二十五日に伊勢国司北畠氏の本所北畠具教を始め北畠一族が、織田信長の密命によって滅ぼされた。足利義昭や義堯らが備後国鞆津に下向した翌月である。しかし北畠氏の有力庶子家・坂内御所の坂内亀寿(亀千代)は逃亡に成功し、北畠具教の弟朝親(具親)も奈良興福寺東門院を出て還俗し挙兵した。朝親はさっそく同年十二月六日付で坂内亀千代(亀寿)に書状を送り、協力を期待している(59)。また坂内亀寿から支援を求められた六角承禎も、天下静謐のためにも援助を惜しまないと伝えるとともに、北畠殿を相... ...続きを見る

トラックバック 0 / コメント 2

2006/02/14 22:06
六角義堯の堺上陸
 天正六年(一五七八)正月七日、義堯が足利義昭の先方として阿波・淡路両国の兵を従えて和泉堺に着岸するとともに、大和多武峰の衆徒に出陣を求めたことを、談山神社文書所収の義堯書状(67)で知ることができる。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:04
佐々木義高伝承と六角義堯
 天正六年(一五七八)正月義堯は堺に上陸した。その後、反信長連合は攻勢を強めたが、同年十一月六日毛利水軍が摂津国木津川口で織田水軍に敗れたことで石山本願寺は孤立し、形勢は逆転していく。それ以後の義堯の動向は、義堯書状もなく古文書で正確に跡づけることができない。  ところが但馬国浅間佐々木家系図(70)によれば、天正年間に浅間城(養父郡八鹿町浅間)に入っていた佐々木義高(近江守)が、天正八年(一五八〇)羽柴秀長の但馬侵攻の際、織田方に降伏したという。同系図では、義高を六角義秀の子息と伝えている。... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:02
江州入替合戦
 天正十年(一五八二)六月二日に本能寺の変が起きた。一般に光秀は、近江平定に時間を浪費したために十分に体勢を整える暇もなく、同月十三日の山崎の戦いで秀吉に敗れたと考えられている。『江源武鑑』によれば、この間に江州入替合戦があったという。本能寺の変で信長が倒れると、六角氏は天下に号令する機会と見て、琵琶湖を水路にして光秀の居城坂本城を攻めたが、明智軍は陸路で六角氏の居城観音寺城と安土城を攻めた。これを江州入替合戦といい、観音寺城と安土城が落ちるを見た六角軍は戦意を喪失して散り散りに落去していったと... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/14 22:00
六角義郷の研究・序
 系図では実名(諱)の真下から血筋・伝承を意味するが系線が引かれているが、沙沙貴神社所蔵佐々木系図では系線の右脇に官位や通称・幼名などが列記され、左脇に母が記されている。母親が明記されているのは、同系図が女系を重視した西日本型系図だからである。その母親の記述の後に、本人の事績が記述されている。  同系図によれば六角義秀の嫡子義郷は、位階は従五位上・従四位下・従四位上・正四位下を経て、官職は右兵衛佐・左衛門督・左近衛中将・近江守を歴任している。また義郷の母は、織田信長の娘と伝えられている。つぎに... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/08 23:24
六角義郷の母織田氏
 義郷の経歴と同じ人物が『太閤記』に登場する。左衛門侍従豊臣義康である。沙沙貴神社本では義康という本名(前名)を伝えていないが、『六角佐々木氏系図略』では義郷の本名を義康と伝えている。しかも義康の官職は左衛門督・右近衛少将と伝えられており、実名義康と官職左衛門督という事跡は、まさに左衛門侍従豊臣義康の事跡と一致する。  また『六角佐々木氏系図略』では、義康(のち義郷)の母が織田信康の娘であったと伝えている。義康の名乗りも外祖父信康の一字を用いたものと考えられる。ただし『江源武鑑』では信康ではな... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/08 23:18
犬山之伊勢守息女
 『六角佐々木氏系図略』でいう信康に相当する人物としては、信長の叔父で犬山織田氏を継いだ織田信康(与次郎)と、伊勢守系織田氏の直系であった岩倉織田信安が考えられる。しかし続群書類従本をはじめ織田系図に、六角義郷の母に相当する女性を見つけることができない。義郷(義康)の母が織田氏であるというのは、六角氏側にのみ伝えられている。佐々木系図の系譜伝承は、やはり誤伝であろうか。  天正十年(一五八二)に発給された三月七日付松井友閑宛織田信長黒印状写によれば、甲斐武田勝頼が滅亡したとき、岩倉織田氏と犬山... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/08 23:16
左衛門侍従義康による六角氏再興
 『太閤記』の「関白職并家臣之面々任官之事」で、任官した人々の最後に左衛門侍従豊臣義康が名を連ねている。沙沙貴神社本でも、義郷の豊臣賜姓と侍従任官の記事がある。この任官は天正十三年(一五八五)のことだが、沙沙貴神社本では天正十四年(一五八六)としている。実は『歴名土代』でも、天正十四年に従四位下に叙位された五辻元仲に続けて、義康ら公家成り大名がまとめて記されており、この一年のズレは十分に許容範囲である。  また『兼見卿記』天正十三年(一五八五)十月六日条では、丹羽長重(五郎左衛門尉侍従)・細川... ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/08 23:15
聚楽第行幸
 天正十六年(一五八八)四月には後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第に行幸したが、『聚楽亭行幸記』に公家成り大名のひとりとして左衛門侍従義康が記されている。 ...続きを見る

トラックバック / コメント

2006/02/08 23:12