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みんなの「歴史」ブログ

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三井・目賀田氏の略系譜
 三井・目賀田氏はその系譜伝承によれば、藤原道長流御子左家の権中納言藤原基忠の子右馬頭信忠の子孫という。そして一井氏の女婿になることで、比牟礼八幡社神主となった。一井氏は和邇氏族だが、佐々木荘下司源行真(豊浦冠者行実)の孫家職が一井氏に養子に入り源氏となった。さらに一井氏に目賀田氏が女婿に入った。まず一井中務太郎入道生蓮から目賀田女房(一井丞正観)に正神主職と大島郷内の田畠が譲渡され(一七六九号、『鎌倉遺文』23362)、延慶元年十二月日付袖判文書で一井丞正観(源氏女)が神主に補任された。さらに... ...続きを見る

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2016/08/18 00:25
メールマガジン系図学校一覧
「先祖の名で家系を知る―通称が資料になる」「佐々木宇津木氏―源氏なのに平氏」第1号、2013年3月1日。 「先祖の名で家系を知る2―農民に多い衛門や兵衛」「出雲佐々木延福寺氏」2号、2013年3月15日。 「先祖の名で家系を知る3―氏姓と名字のちがい」「佐々木近江四郎氏綱と佐々木加地氏」第3号、2013年4月1日。 「関東奉公衆佐々木氏の系譜」「六角氏と近衛家」第4号、2013年4月15日。 「天龍寺供養に参列した佐々木一族」第5号、2013年5月1日。 「観応の擾乱と佐々木一族」第6... ...続きを見る

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2016/03/20 23:47
2015年東大後期総合科目V・解答と解説
解説 第一問  東大では、二〇一〇年八月二十五日にハーバード教授マイケル・サンデル氏を招いて「正義」をテーマに白熱講義がおこなわれた。また二〇一一年冬学期には「正義を問い直す」というテーマで学術俯瞰講義(全十三回)が行われ、第十一回はサンデル氏が講義した。 【問一】正義と不正に対する人びとの反応の違いの理由を問う問題だ。注目できるのは、正義を冷静に批判する人が、不正を糾弾するときには熱くなると述べられている箇所だ。これを形式的概念を超えた、心の奥底にあるものの吐露と捉えると、正義理念が見え... ...続きを見る

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2015/04/07 01:04
多賀大社梵鐘銘文(天文24年)
  多賀大社鳧鐘銘文 天文二十四年九月二十日                           本願上人祐尊謹誌  大日本国近江州多賀大社鳧鐘     天文廿四年九月廿日奉鋳之畢 ...続きを見る

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2014/06/13 00:26
近江尼子氏の系譜
 足利尊氏から佐々木導誉(京極高氏)へ康永四年(一三四五)に給付された近江国甲良庄尼子郷について、「ミま」に譲与する内容の佐々木導誉置文がある。「ミま」は、まだ若いのだから百二十年後まで生き残るであろうと述べられているので、若い人物であろう。これは、国立国会図書館所蔵「伊予佐々木文書」所収の応安六年(一三七三)二月二十七日付治部少輔宛導誉置文(解題第六巻110)である。  これに京極高秀(治部少輔)は、正(五か)月二十六日付佐々木隠岐入道宛京極高秀(解題115)で、尼子郷が最良の土地と考えてお... ...続きを見る

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2014/05/26 13:19
宇喜多秀家の系譜
 宇喜多氏の出自に関しては、『宇喜多能家寿像画賛』の百済王出自説がもっとも有名である。能家は宇喜多秀家の祖父である。能家―直家―秀家と続く。京都南禅寺の僧九峰宗成による『宇喜多能家寿像画賛』は岡山県立博物館に収蔵され、国指定の重要文化財になっている。奥書によれば成立は大永四年(一五二四)八月であり、同時代資料といえる。  九峰宗成については、朝倉尚の論文「景徐周麟の文筆活動――延徳三年(2)」(地域文化研究三〇巻、二〇〇四年)に詳しい。九峰宗成の系譜には不明な点が多いが、足利義政の子息といわれ... ...続きを見る

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2014/05/14 01:42
『天文三年浅井備前守宿所饗応記』
『天文三年浅井備前守宿所饗応記』 浅井備前守(亮政) 御屋形様(京極高清) 御曹司様(高広) ...続きを見る

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2014/02/19 16:00
細川幽斎の系譜−佐々木大原流細川氏
熊本藩主細川氏の藩祖細川藤孝(幽斎)の養父が、実は佐々木大原氏出身の細川政誠(伊豆守・治部少輔)の孫刑部少輔晴広(又次郎)との有力な学説がある。これは山田康弘「細川幽斎の養父について」(『日本歴史』2009年3月号、96-104頁)で発表したものである。 ...続きを見る

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2013/12/19 13:12
長山遠江守と佐々木馬淵氏【改訂版】
 和歌山県有田郡広川町広八幡宮所蔵佐々木系図によれば、紀伊竹中氏は佐々木氏の出自で、美濃竹中氏の子孫と伝えられている。美濃竹中氏といえば、羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛重治が有名であり、遠江守重元―半兵衛重治―丹後守重門と続く。竹中遠江守が六角義治から援軍要請を受けて近江坂田郡に出兵するなど、近江・美濃国境を支配していた竹中氏は六角氏との関係が強い。  東大史料編纂所所蔵『美濃国諸家系譜』第六巻所収の竹中系譜によれば、江戸期でも竹中氏の系譜は不明になっており、いくつかの説をとりあげている。@清和源氏... ...続きを見る

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2013/12/08 01:22
美濃土岐氏系図の研究(1)―土岐頼貞の系譜(2訂)
 鎌倉期の土岐氏は美濃の有力御家人で、北条氏と姻戚関係を結び、土岐隠岐守光定は北条氏を妻としていた。光定の庶子は隠岐太郎・三郎と称し、嫡子は隠岐孫太郎・孫二郎と称した。系図では頼貞母を北条貞時女とし、頼貞妻を北条宗頼女とする。しかし頼貞母(光定妻)は北条時定女の誤りだろう。時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国i阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得... ...続きを見る

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2013/12/06 01:27
2013年東大後期・総合科目V・第2問【解答速報】
【問1】  アヘン戦争で清が敗北したことを知っていた幕府は、ペリーが来航すると翌年には日米和親条約を結んだ。しかし国威の低下と考える人々は攘夷を唱え、将軍継嗣問題ともからみ開国派と攘夷派が激しく対立した。大老井伊直弼はアロー戦争中に日米修好通商条約を結び、安政の大獄で反対派を処断した。  しかし横浜開港で輸出超過となり、江戸では物品不足となり、また欧米と日本の金銀交換比率のちがいにより金が大量に流出するなど、日本経済は混乱した。  桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、幕府では公武合体が主... ...続きを見る

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2013/03/19 23:42
〈系図学校〉立ち上げ
今年4月、主にインターネットで活動していた佐々木哲学校(佐々木哲.jp)のなかに系図学校を立ち上げ、会報の発行を中心に活動し、会員数が増えましたら法人とし、全国的に講演活動を展開していきます。この系図学校は、山嵜正美氏が事務局をされていた「近江佐々木氏の会」を発展的に継承するものですが、佐々木氏以外の系譜伝承も対象とします。 ...続きを見る

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2013/02/15 02:17
永原氏の系譜(2訂)
 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐々木系図や野洲郡志所収三宅四五六郎氏所蔵系図(以下、三宅系図)では、守護代楢崎氏の分流に永原氏が見える。  しかし『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を... ...続きを見る

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2013/02/15 01:45
メールマガジン「系図学校」見本
メルマガ「系図学校」 〜歴史学者による本格的な系図講座 ...続きを見る

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2013/02/05 00:08
近江城郭研究者からのメール
城郭研究者長谷川博美氏から興味深いメールを頂いた。長谷川氏からの謹賀新年のメールへに対する御礼のメールに、再び長谷川氏からメールを頂いた。近江(現滋賀県)の戦国大名六角氏とその筆頭家老後藤氏との関係を、城郭の石垣の配置から考察したもので、歴史学と中世考古学の共同作業への期待を高める内容になっている。近江の城郭には全国に先駆けて早い時期から石垣があり、とくに穴太積みが有名である。その石垣の積み方で城の性格や役割が分かるが、長谷川氏の報告によると、後藤氏の本城佐生城は六角氏の本城観音寺城と敵対する作... ...続きを見る

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2013/02/01 00:41
講演会準備のお知らせ
歴史を学ぶことで、わたしたちは自らを知り、現在直面する問題の解決の糸口を発見できます。昨今の問題もその起源は歴史にあります。そこで、歴史認識の深化を身近な系譜伝承の研究から始めるため、系譜学を立ち上げます。自らの系譜伝承で新たな歴史的事実が掘り起こされれば、最新の歴史研究の成果を自分に身近なものと感じられるでしょう。そこで、講演会再開の準備を進めます。 ...続きを見る

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2013/01/03 21:29
佐々木大原氏系譜(2訂)
佐々木大原氏の歴史は、近江守護佐々木信綱(近江守)の庶長子重綱に始まる。重綱は承久の乱では父信綱に従い、宇治川の先陣を徒歩で駆けて戦功を上げた。そののち左衛門尉に補任されて将軍藤原頼経の近臣となり、有力御家人として幕府の諸行事にも参列した。近江守信綱の長男である左衛門尉という意味で、近江太郎左衛門尉と名乗っている。ところが遺産相続では、太郎重綱(大原氏祖)・次郎高信(高島氏祖)の外祖父川崎為重(中山五郎)が比企能員の乱で滅亡していたため、北条義時を外祖父とする三郎泰綱(六角氏祖)・四郎氏信(京極... ...続きを見る

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2012/11/22 12:45
宇多源氏の近江進出と秀郷流藤原氏―蒲生氏の源流【改訂2版】
摂関家と秀郷流藤原氏  藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘三年(1006)六月十六日条に、秀郷流藤原氏文行(秀郷の曾孫)と伊勢平氏正輔(平貞盛の孫)の闘争事件が記されている。左衛門尉文行は検非違使別当藤原斉信の召しによって法住寺に参仕していたが、帯刀正輔に打擲された。難を逃れようと文行は寺から逃走したが、このとき検非違使に射返してしまった。文行は道長に保護を求めて土御門邸に逃げ込んだ。しかし検非違使に弓を引くのは重罪であり、身柄は引き渡された。ところが本来は縄で縛られて徒歩で連行されるところを、... ...続きを見る

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2012/10/17 00:06
文庫版『戦国大名血脈系譜総覧』10月発刊予定!!
六角氏の系譜 六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。 室町期には三代将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また六代将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめ、嘉吉の土一揆(嘉吉元年〈一四四一〉)では黒幕であった。文安の乱(文安二年〈一四四五〉)では満綱・持綱父子が自殺して衰退し同族京極氏の介入を招くが、応仁・文明... ...続きを見る

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2012/09/05 19:07
大河ドラマ『平清盛』批判について(改訂)
 大河ドラマ『平清盛』の視聴率が低いと話題になっているが、私はよくできていると思う。ドラマ初期の「高平太」の逸話はさすがに演出しすぎで見るに耐えられなかったが、回を重ねるごとに見応えがある。演出では、松山ケンイチ演じる平清盛が一本調子に見えて、これまでは中井貴一の平忠盛に魅かれ、今は井浦新の崇徳上皇と矢島健一の藤原教長の主従、玉木宏の源義朝に魅かれている。平忠盛の「左様か」という台詞が好きで、最近では「そうか」がわたしの口癖になっているほどだ。  内容では、平清盛の実母は祇園女御本人ではなく妹... ...続きを見る

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2012/06/05 01:13
久留里藩主黒田家の系譜
 一般に宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏というと外様大名の筑前福岡藩主黒田家が有名だが、実は譜代大名である久留里藩主黒田家も先祖が近江出身であり、宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏の子孫の可能性がある。  『寛政重修諸家譜』によれば久留里藩主黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱(信濃守)に始まり、定綱の子広綱のとき黒田氏に改めたという。寛政譜では黒田氏を橘氏に分類しており、大橘氏は名字ではなく氏姓と分かる。家紋は木瓜であり、橘姓も名乗る浅井氏との関係を連想させる。  尾張浅井氏は近江浅井氏と同族と伝え、また... ...続きを見る

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2012/05/18 11:36
わが家の歴史
●父方の佐々木与右衛門家(隅立て四つ目結、女紋は三つ柏)は近江守護佐々木六角氏出身で、系譜では織田信長と対抗して毛利氏に頼った源義秋(綱秋)の子源義房(綱房)に始まる。そのため六角氏郷の子孫ではない。上方から会津、さらに出羽に移ったという。江戸中期には廻船問屋を家業とする郷士、出羽で480町歩の新田を開発した。屋号は「ヤマヨ(山ヨ)」。「与右衛門」は四郎右衛門という意味か。  出羽に転出後、戦国大名最上義光の旧臣で『乞食大名』のモデル佐々木愛綱(鮭延典膳・越前守)の子孫大沼半左衛門家(四つ目結... ...続きを見る

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2012/02/26 03:06
田中・山崎・永田氏の系譜―高島七頭(4)
田中氏の系譜  高島郡田中郷の所職は、もともと「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫が有していたと考えられる。田中入道憲家は「源行真申詞記」に登場する愛智家次(愛智秦氏か)の弟で、その子孫が山崎氏を名乗った。本佐々木氏では紀道政の一族である真野時家が船木に移住して船木氏を名乗り、さらに若狭に転出するなど、平安末には積極的に高島郡に進出していた。田中入道憲家もそのひとりだろう。その跡を継承したのが、高島七頭のひとつ田中氏である。  高島佐々木流田中氏の初代は、出羽守頼... ...続きを見る

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2011/12/03 01:09
当ブログの参考文献の扱いについて
 当ブログでは、記事の読みやすさから注や参考文献を必要最小限にとどめています。基準は@文言を引用した場合、A独自の意見・主張である場合です。そのため資料に基づいて記している場合には、資料名は記しますが、資料を掲載・紹介しているだけの文献をひとつひとつ記すことはしません。お問い合わせがあった場合にはお答えします。  このように独自性を基準にしているため、参考文献に挙げるものは、最初に主張した方の文献です。そうでなければ独自性のある発見者をないがしろにするからです。大学院でも教員からは最初に発見・... ...続きを見る

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2011/08/28 22:45
木地師小椋氏の系譜(4版)―清和源氏満季流と本佐々木氏
 木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。  建久二年(1191)四月近江守護佐々木定綱と山門が抗争した。前年近江に大水害があり、多くの荘園が年貢未進となり困窮した山門僧兵による暴力事件が多発した。佐々木庄も同様で、日頃から佐々木庄を千僧供料と主張していた山門僧兵は激昂し、日吉社僧を佐々木庄に乱入させた。... ...続きを見る

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2011/06/30 22:35
後南朝の系譜伝承についての雑考
 正長元年(1428)7月に称光天皇が嗣子のないまま危篤状態に陥ると、父の後小松上皇は北朝系の伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとした。これは南北朝合一の条件のひとつ両統迭立を無効とするものであり、南朝皇族である小倉宮が異議を唱えた。南北朝合一後の南朝皇族を後南朝というが、ここから後南朝の活動が活発になる。  小倉宮は、南朝最後の後亀山天皇の正嫡である恒敦宮の王子であり、南朝の正統な後継者であった。小倉宮は、南朝方の伊勢国司北畠満雅を頼り嵯峨から逃亡した。さらに満雅は鎌倉公方足利... ...続きを見る

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2011/05/31 02:47
武田二十四将横田高松の系譜(改訂)
 武田氏二十四将のひとり横田高松の孫伊松は徳川家康に五千石で召しだされて幕府旗本となり、さらに田沼意次の側近横田準松(筑後守)のときには御側御用取次として権勢を振るい、加増されて家禄九千五百石となり、旗本筆頭となった。横田氏は家伝によれば、佐々木三郎秀義の末孫次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、横田川和泉村のほとりに采地を受け、家号を横田に改めたという。また甲陽軍鑑によれば、伊勢出身という。  浅井吉高という人物は横田氏家伝のほかの資料に見られないこと、また浅井氏が甲賀郡に領地... ...続きを見る

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2011/04/12 01:10
横山氏の系譜―高島七頭(3)
 高島郡横山郷地頭職は鎌倉初期には大江広元であったが、佐々木広綱に譲られた(地蔵院文書)。このことから、佐々木広綱が大江広元の女婿であったことが分かる。広綱の「広」の字は、烏帽子親であり舅でもある広元の一字書き出しであろう。しかし山城守広綱が承久の乱で京方であったことから、乱後に鎌倉方の弟近江守信綱(当時は右衛門尉)に与えられ、それが近江二郎左衛門尉高信から次男出羽守頼綱(五郎)、さらに頼綱の長男出羽三郎左衛門尉頼信に伝えられた。  正応五年(1292)のものと推定できる閏六月二十八日付左衛門... ...続きを見る

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2011/02/07 02:48
朽木氏の系譜―高島七頭(2)
 朽木氏は、高島高信の次男出羽守頼綱に始まる佐々木出羽家のうち、頼綱の次男出羽守義綱が承久勲功の朽木庄を相続したことに始まる。頼綱は霜月騒動で活躍し、安達泰盛(城陸奥守)追討賞で出羽守を受領した。安達氏の名乗り「城」は出羽介兼秋田城主を意味する出羽城介を世襲したことに由来するため、出羽守補任には特別な意味があるようにも思える。『尊卑分脈』によると、頼綱(入道道頼)には出羽三郎頼信・五郎義綱・四郎氏綱・五郎有信があった。このうち五郎義綱が勲功の所領近江国朽木庄(承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也)と... ...続きを見る

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2010/11/24 01:38
越中家(高島)と能登家(平井)の系譜―高島七頭(1)
西佐々木氏(高島七頭)の系譜  近江守護佐々木近江守信綱の次男近江二郎左衛門尉高信は高島郡田中郷を与えられ、その子孫は繁栄して「西佐々木」あるいは「高島七頭」と呼ばれる武士団を形成した。高信の母は長男近江太郎左衛門尉重綱と同じく川崎五郎為重女であろう。為重は比企能員の乱で滅亡したため、母が北条義時女である三男泰綱(六角氏)・四男氏信(京極氏)にくらべると所領は少なかった。それでも長男泰信は、佐々木四郎信綱の孫である四郎で左衛門尉の者を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」として『吾妻鏡』弘長三年(1... ...続きを見る

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2010/10/20 02:29
永原氏の系譜
 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐々木系図や野洲郡志所収三宅四五六郎氏所蔵系図(以下、三宅系図)では、守護代楢崎氏の分流に永原氏が見える。  しかし『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を... ...続きを見る

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2010/09/24 00:30
能登畠山氏と佐々木氏
 能登にも佐々木氏が多く分布しているが、能登畠山氏は佐々木六角氏と重縁の関係にあり、義綱の奉行人馬淵綱重(彦三郎)は近江六角氏の重臣馬淵氏の出身と考えられる。また六角義賢(承禎)も晩年の一時期を能登で過ごし、自画像を遺している(裏本友之氏所蔵文書)。この佐々木六角氏と能登畠山氏を結ぶのが、羽衣伝説で有名な近江国余呉荘であった。  三河松平氏も、松平益親(泰親息、式部丞)が日野裏松家代官として近江国菅浦に派遣され、菅浦住民と対立した際には、三河から援軍が来たと菅浦文書にある。こうして近江武士が三... ...続きを見る

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2010/08/02 23:23
南北朝期の越後佐々木加地氏の系譜
 わたしが最近興味をもっているのが、越後佐々木加地氏と隠岐佐々木氏だ。佐々木加地氏に興味をもったのは、鮭延秀綱(愛綱)の子孫大沼氏の系図をみてからである。大沼系図は、ネットで見られる佐々木六角満綱流鯰江氏出身とする鮭延系図とは異なり、佐々木氏の中祖秀義の子真綱から始まり、吉田氏や加地氏、六角氏の人物が登場しながら愛綱に至るというものである。吉田氏が登場するのは、暦応四年(1341)七月十三日の天竜寺供養で調度役を勤めた佐々木源三左衛門尉秀長を『太平記』が「吉田源左衛門尉」としたことが原因であろう... ...続きを見る

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2010/03/08 01:55
河野親清と首藤親清
 河野氏は伊予国越智郡郡司である越智氏の子孫と伝えられるが、通清の父親清は伊予守源頼義の四子三島四郎親清であるという。実は源頼義・義家父子の有力な郎等に首藤資清(佐藤公清の猶子守部氏)があり、その孫が左衛門少尉親清である。資清の子資道(豊後権守)は康和三年(一一〇一)源義家の子対馬守義親が鎮西で反乱を起こしたとき、義家の命を受けて鎮西に下向したが、義親に味方して追討の官吏を殺害して捕縛され、かわって平正盛が追討使となった。資道の子である親清は、『中右記』大治五年(一一三〇)十一月二十二日条に「北... ...続きを見る

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2009/11/29 00:40
一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5)
 佐々木泰清は、本妻大井太郎朝光女(光長姉)を娶り、さらに正妻葛西清親女を娶ったように(11)、東国の豪族級御家人と閨閥を形成した。泰清は隠岐・出雲守護として、『葉黄記』宝治元年(一二四七)五月九日条に六波羅評定衆として見え、建長四年(一二五二)正月十一日臨時宣で検非違使に補任され、翌五年二月四日賀茂・八幡両社行幸行事賞で従五位下に叙爵されて、正嘉元年(一二五七)に従五位上に加級、『経俊卿記』同年五月十一日条でも六波羅評定衆として見える。翌二年に信濃守に補任された(検非違使補任)。以後、隠岐佐々... ...続きを見る

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2009/11/08 00:35
一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(4)
 一遍の祖河野通清は平治の乱で一時没落したが、源頼朝の挙兵に呼応して土佐で源希義(頼朝弟)が挙兵すると、通清・通信父子も伊予で挙兵した。『吉記』養和元年(一一八一)八月二十三日条に「伊予国在庁川名大夫通清」が平家に討たれたことが伝聞として記されているが、通信は源義経に従い戦功を挙げて所領を回復している。  伊予守護には、頼朝の伊豆配流時代からの側近佐々木盛綱が補任されたものの、建仁三年(一二〇三)通信は守護佐々木盛綱の奉行によらず、旧のごとく国中の一族郎党を率いるよう御教書を得ている(『吾妻鏡... ...続きを見る

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2009/11/07 00:27
一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(3)
 『聖絵』では小田切里の武家屋敷の敷地内に一遍の叔父河野通末の墳墓と思われる盛土が描かれている。「或武士」は、いったん伴野氏が預かった河野通末を引き取った人物であり、河野氏と因縁のある人物と考えられる。そこで資料を探すと、嘉暦四年(一三二九年)鎌倉幕府下知状(守矢文書)に「小田切郷佐々木豊前々司跡」とある(9)。この記事から信濃国佐久郡大井荘内小田切郷の地頭が、佐々木宗清(豊前守)と分かる。宗清は鎌倉幕府草創期に活躍した佐々木兄弟のうち五郎義清の曾孫で、出雲・隠岐守護を世襲した隠岐佐々木氏の嫡流... ...続きを見る

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2009/11/06 00:25
一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(2)
 『聖絵』巻四第五段では、信濃国佐久郡伴野市庭の一遍・時衆の歳末別時念仏会の際に紫雲が立ち、時衆と周囲の人びとが上空を見て合掌している。しかし一遍は上空に視線を向けず、一人の僧と対峙している。この場面と連続する同一画面の小田切の里の踊念仏場面に、河野通末(通信の三男)の墳墓があり(7)、紫雲はこの小田切の里の場面へと連なる。紫雲に合掌する人びとは、小田切の里に向かって拝んでいる形になる。たしかに小田切の里で踊念仏の始行があった。一つの画面における二つの場面は、紫雲で連続しており、地理的にも同郡内... ...続きを見る

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2009/11/05 01:52
一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(1)
 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)によれば、信濃国小田切の里で踊念仏が始められた。巻四の第五段に伴野市庭と小田切の里の場面が描かれ、つづく巻五の第一段に大井太郎屋形が描かれている。詞書に従えば、信濃入りした一遍は善光寺を訪れたのち下野小野寺を訪れ、再び信濃入りして小田切の里・伴野市庭・大井太郎館に立ち寄ったという。  しかも信濃の佐久郡に入った一遍は、小笠原氏惣領であった伴野荘地頭伴野氏のもとに寄らず、小田切の里を訪れている。一遍の叔父河野通末が配流されたのは伴野荘であり、親族の鎮魂が目的ならば... ...続きを見る

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2009/11/04 01:38
『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(6)
 『聖絵』と同様に資料価値があるとされている伝記絵巻に、『遊行上人縁起絵』(以下、『縁起絵』)がある。全十巻四十三段で、前半の四巻までが一遍の伝記、後半の五巻から十巻までが真教の伝記となっている。原本は現存せず、鎌倉時代から江戸時代の模写本が二十数本残っているだけである。  それら模写本の詞書から、『縁起絵』作者は平宗俊(真光寺本)あるいは池刑部大輔(金蓮寺本)とされている(13)。この平宗俊を北条一族の淡河氏と推測する学説もあるが(14)、北条系図に宗俊は見えない。真教と縁があり、平氏で諱字... ...続きを見る

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2009/10/21 00:14
『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(5)
 久我通光(一一八七―一二四八)は臨終にあたり、遺産のすべてを後妻三条(西蓮)に譲渡したため、先妻の子どもとの間に所領問題が生じた。通光の嫡子右大将通忠(一二一六―一二五〇)は継母三条に対して割譲を求めたが、後嵯峨上皇の院宣によって、通忠には山城国久我荘を認められただけであり、そのほかの所領は三条が相続した。さらに三条は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘の三か所を娘如月に譲り、如月の没後は中院通成の娘源顕子(今出川一位)に譲るよう譲状を記した。この源顕子は、前述のように西園寺実兼の正妻であ... ...続きを見る

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2009/10/20 00:45
『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(4)
 これまで後援者「一人」を摂関・太政大臣・右大臣に当てはめていたために、特定するに至らなかったのではないだろうか。そこで発想を変えて、「一人」を不定代名詞「ひとり」という意味で「いちにん」と読めば、土御門定実および大炊御門冬輔など、広く一遍に結縁した有力者のなかに後援者をもとめられよう。両者ともに『聖絵』の登場人物の一人である。とくに大炊御門冬輔であれば、絵師円伊に同定されている園城寺の円伊僧正(5)の一門である。また土御門定実であれば、『伏見天皇宸記』正応五年二月二十日条にあるように「才学」の... ...続きを見る

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2009/10/19 00:06
『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(3)
 そこで、当時はまだ結婚形態が女系から男系に移る過渡期であり、西日本の系図では女系も重視されたことを念頭におくならば、通成の親族を男系に絞る必要はない。  そのような観点から見れば、中院通成は、太政大臣西園寺実兼(一二四九―一三二二)の正妻従一位顕子の父であり、左大臣西園寺公衡(一二六四―一三一五)や永福門院(伏見院中宮)・昭訓門院(亀山院准后)の外祖父である。『聖絵』が成立した正安元年(一二九九)には、女婿の西園寺実兼が前太政大臣(いちのひと)であり、外孫の公衡は右大臣(いちにん)の現職で、... ...続きを見る

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2009/10/18 00:06
『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(2)
 『聖絵』巻七第二段によれば、弘安七年(一二八四)京都因幡堂に移った一遍の許を、土御門入道前内大臣が訪ねて念仏の縁を結んでいる。公家で結縁した最初の人物である。この人物は、土御門通親の孫である内大臣中院通成(一二二二―八六)と考えられる。土御門一門は、藤原道長の女婿であった村上源氏右大臣師房に始まる公家の名門で、院政期に摂関家の対手として勢力を得た。後鳥羽院政期には、内大臣土御門通親が朝廷の実権を握り「源博陸(源関白)」と呼ばれている。  中院通成は『尊卑分脈』では三条坊門と記されているが、『... ...続きを見る

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2009/10/17 00:30
『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(1)
 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)制作の後援者は、『聖絵』巻十二第三段の詞書に「一人のすすめによりて、この画図をうつし」とある「一人」である。この「一人」について、「いちじん」と読めば天皇であるが、「いちのひと」と読めば摂政・関白であるため、歓喜光寺所蔵『開山弥阿上人行状』にあるように、これまで関白九条忠教(一二四八―一三三二)と考えられてきた。しかし「一の人(いちのひと)」は、律令制度のもとで太政官を指揮する太政大臣(則闕の官)も意味する。また「いちにん」と読めば第一人者を意味し、奈良朝の藤原不... ...続きを見る

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2009/10/16 00:58
大庭氏の家紋―柏紋と鷹羽紋
 隠岐佐々木氏の初代佐々木義清は、頼朝挙兵時に平家方の大将となった大庭景親の娘婿だが、これまで大庭氏の家紋について決定的なものがなかった。紋章学の沼田頼輔は『日本紋章学』(明治書院、1926年、〔復刻版〕新人物往来社)で、大庭氏の子孫と考えられる幕府旗本大場氏(桓武平氏良文流)の家紋、藤丸・一引両・三つ大文字を挙げている。このうち三つ大文字は「三つ盛り大文字」であり、三星のように「大」の字を三つ盛った紋である。  この「三つ大文字」については、『源平盛衰記』三五の「義経院参」の条に「大文字三ツ... ...続きを見る

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2009/05/20 00:50
歴史読本「戦国大名血族系譜総覧」2009年4月号・「六角氏」原稿
概略 六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。室町期には将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめて、嘉吉の土一揆では黒幕であった。文安の乱では満綱・持綱父子が自殺して衰退するが、応仁・文明の乱で高頼が活躍して再び盛り返した。足利義尚・義稙二代の将軍親征を受けたが(長享・延徳... ...続きを見る

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2009/05/06 14:18
2008年東大世界史第3問「交通の歴史」
【問題】 世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。これに関連して、以下の設問(1)〜(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)〜(10)の番号を付して記しなさい。 ...続きを見る

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2008/07/11 12:59
『葉隠』鍋島氏と佐々木氏
『葉隠聞略』六に「鍋島家の御紋のこと」という記事がある。鍋島家の紋は、元来、目結紋であるという。  慶長8年(1603)に、隠居後の鍋島直茂が、徳川家康のお召しにより、江戸に上ったときに、御召船の幕に四つ目結紋をつけた。そのため、直茂の隠居分を継承した小城藩の御召船や武具には四つ目結紋が付けられた。  その後、江戸に滞在していた鍋島勝茂が松平若狭守の酒宴に招かれたとき、若狭守から「鍋島殿の御先祖は佐々木氏であると内々承っている。それならば、御紋は四つ目結のはずである。しかし今は杏葉の紋を使わ... ...続きを見る

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2007/12/25 19:05
『系譜伝承論』出来ました!!
お待たせいたしました。 昨日11月27日に印刷・製本所から思文閣出版に届き、今日11月28日にわたしの自宅に届きました。先行予約していただいた皆様には、来週初めから順次発想いたします。これから注文される方にも送料無料でお送りいたしますので、メールにて連絡いただければ幸いです。  また、『佐々木六角氏の系譜』の出版社在庫がなくなりましたが、著者の手元には僅かですが残部がありますので、こちらもメールにてお申し込みくだされば、お送りいたします。 ...続きを見る

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2007/11/28 13:07
『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』近日刊行 !!
佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)は、奥付では11月20日付発行ですが、印刷所から出版社に届くのが11月27日の予定です。見直し作業に手間取ったことと、印刷・製本所の混雑のために公刊が遅れました。予約していただいた方には御迷惑をかけましたが、いよいよ発行されます。著者に直接申し込んでいただいた方には、送料無料でお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。 【内容】 歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、... ...続きを見る

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2007/11/21 10:48
11月京都勉強会
11月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2007年11月11日(日)  12時半〜14時半:絵画資料論『洛中洛外図』など  14時半〜16時半:『京極氏家臣某覚書抜萃』など         【会費】  一般:3,000円  ※学生は割引 【会場】  キャンパスプラザ京都 5階 演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

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2007/10/24 23:53
『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』予約受付
佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)が、いよいよ10月刊行されます。わたくし著者に先行予約していただいた方には、送料無料で、刊行しだいお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。 【内容】 歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として正当な評価を受けてこなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえるという斬新な手法で、資料としての可能性を示す。さらに、系図に作為や錯誤... ...続きを見る

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2007/10/09 00:59
7月京都勉強会
7月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2007年7月1日(日)  東大現代文を読む : 13時〜14時半  >>2007年東大前期第4問「解釈学と結婚のカタチ」  系図の読み方講座 : 15時〜16時半  >>『尊卑分脈』と佐々木系図:鎌倉期の仮称・官位    【会費】  3、000円 【会場】  京都市生涯学習総合センター山科  アスニー山科の研修室2  http://web.kyoto-inet.or.jp/org/a... ...続きを見る

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2007/06/08 00:17
6月東京勉強会(改訂2)
6月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。出席希望者にはあらかじめ目印をお知らせしたいので、記事コメントあるいはメールでご連絡願います。 【日時】 6月3日(日)・24日(日) ◆東大入試で教養講座(13:00〜14:50) @現代文講座「2007年東大現代文を読む」 A世界史講座「古代オリエント文明」「ローマ季節風貿易と仏教隆盛」 ※希望者がいらっしゃれば、日本史講座も始めます。 ◆歴史勉... ...続きを見る

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2007/05/20 23:40
5月東京勉強会
5月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。出席希望者はあらかじめ記事コメントあるいはメールでご連絡願います。 【日時】 ◆5月20日(土)13:00東京ウィメンズプラザ(青山)  @東大入試で教養講座  A歴史講座『系図の読み方1』         『江源武鑑について』 ...続きを見る

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2007/05/12 09:29
観音寺城見学会
5月勉強会前日5月5日に観音寺城見学を実施します。 近江観音寺城は近江守護佐々木六角氏の本城で、戦国期最大級の山城で、鉄砲に備えて本格的な石垣も用いています。それまでの城は土塁でしたから、石垣を用いたことは画期的でした。また家臣団が集住し、おびただしい数の郭(曲輪)それぞれが家臣の屋敷になっていました。城下町石寺は、日本で最初の楽市が実施されたことで著名です。織豊期の遺構もあり、織田信長近江進出後も健在であったことが分かります。このことが六角氏当主をめぐる系図問題に一石を投じ、六角義実・義秀・... ...続きを見る

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2007/04/23 13:09
5月京都勉強会
5月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2007年5月6日(日)  教養日本史・世界史 : 12時半〜14時半  系図の読み方 : 14時半〜16時半  >>佐々木分流の系図をもとにして  ※詳細は後日お知らせいたします。   ご意見ご要望が有りましたら、お知らせください。  ※前日に、近江観音寺城見学も考えています。   【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都 5階 演習室  http://www.consortiu... ...続きを見る

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2007/03/30 11:11
『東大入試で遊ぶ教養 世界史編』はじめに
 歴史学は、実は暗記の学問ではなく思考の学問だ。だから、教科書程度の知識があれば、あとは思考力と論理力で解けるという問題が、いい問題だ。それが、まさに東大入試だ。  しかし同じ歴史科目でも、日本史と世界史では勉強の仕方がちがう。日本史では歴史を深めることが求められるが、世界史では出来事をタテ・ヨコにつなげていくことが求められる。視点を変えるだけでも、大きく歴史観が変わるからだ。  東大世界史の論述問題では、いくつかのキーワードが用意されている。キーワードは教科書で学ぶ範囲のもので、お馴染みの... ...続きを見る

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2006/10/22 02:16
『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』 2版刊行!!
お待ちどうさまでした m( _ " _ )m ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が重版されました。最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 ...続きを見る

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2006/10/18 12:20
東大日本史・受験生の勘違い
 大学で、面白いことが話のネタになったことがある。  それは数年前の早稲田大学でのことだが、日本経済史の授業で、江戸時代の農民の生活について説明したところ、学生から「先生は歴史がわかっていない」と言われたというのだ。どうも学生は小学校から受験時代まで、江戸時代の農民の生活は困窮を極めたと教わってきたらしい。しかし、近年の江戸時代の歴史像は大きく変わっている。江戸時代の経済が成熟していたことがわかってきているのだ。お触れで、お茶を飲んではいけません、贅沢をしてはいけません、旅行(物見遊山)をして... ...続きを見る

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2006/10/11 22:58
10月京都勉強会
10月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年10月29日(日)  歴史講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  歴史講座 『東大入試で教養日本史』  歴史講座 『佐々木六角氏の系譜』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都 5階 第3演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

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2006/10/05 22:46
『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』重版決定!!
お待ちどうさまでした m( _ " _ )m ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が重版されます。10月末か11月初に刊行される予定です。最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 ...続きを見る

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2006/09/29 19:41
2006年東大前期・世界史第1問「近代が生んだナショナリズム」
近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し、民主主義が成長した反面、各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは、国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし、対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方、国際法を制定したり、国際機関を股立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。  このように戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という三つの時期にどのように現れたのかについて、解答欄(イ)に一七行以内で脱... ...続きを見る

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2006/09/12 02:16
2005年東大前期・世界史第1問「負の遺産と現代世界」
人類の歴史において、戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に、それを乗り越えて平和と解放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。  第二次世界大戦は一九四五年に終結したが、それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており、これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし、国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく、米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。例えば、中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢カ争いが... ...続きを見る

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2006/09/09 02:27
2004年東大前期・世界史第1問「銀が歴史を変えた」
一九八五年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。一九九七年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は一六、一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。一九世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。一九世紀に西欧諸国が金本位制に移行する中で、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、一九三〇年代に、中国が最終的に銀貨の流通を禁止する... ...続きを見る

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2006/09/08 03:24
2003年東大前期・世界史第1問「技術と歴史の深い関係」
私たちは、情報革命の時代に生きており、世界の一体化は、ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに行き交うだけでなく、情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には、運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。  歴史を振り返ると、運輸・通信手段の新展開が、大きな役割を果たした例は少なくない。特に、一九世紀半ばから二〇世紀初頭にかけて、有線・無線の電信、電話、写真機、映画などの実用化がもたらされ、視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は、欧米諸国がアジア・アフリカに侵略... ...続きを見る

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2006/09/07 01:01
2002年東大前期・世界史第1問「華僑の歴史」
世界の都市を旅すると、東南アジアに限らず、オセアニアや南北アメリカ、ヨーロッパなど、至る所にチャイナ・タウンがあることに驚かされる。その起源を探ると、東南アジアの場合には、すでに宋から明の時代に、各地に中国出身者の集住する港が形成され始めていた。しかし、中国から海外への移住者が急増したのは、一九世紀になってからであった。その際、各地に移住した中国人は低賃金の労働者として酷使されたり、ヨーロッパ系の移住者と競合して激しい排斥運動に直面したりした。例えば、米国の場合、一八八二年には新たな中国人移民の... ...続きを見る

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2006/09/05 11:56
2001年東大前期・世界史第1問「エジプトの歴史」
輝かしい古代文明を建設したエジプトは、その後も、連綿として五〇〇〇年の歴史を営んできた。その歴史は、豊かな国土を舞台とするものであるが、とりわけ近隣や遠方から到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応との関わりを抜きにしては、語ることができない。  こうした事情に注意を向け、  (1)エジブトに到来した側の関心や、進出に至った背景  (2)進出をうけたエジブト側がとった政策や行動 の両方の側面を考えながら、エジプトが文明の発祥以来、いかなる歴史的展開をとげて... ...続きを見る

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2006/09/03 00:47
2000年東大前期・世界史第1問「中国思想が啓蒙思想に影響を与えた」
大航海時代以降、アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると、特に一八世紀フランスの知識人たちの間では、東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように、中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり、中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。 ...続きを見る

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2006/09/01 23:45
1999年東大前期・世界史第1問「地域を通して世界を見る・スペインの歴史」
ある地域の歴史をたどると、そこに世界史の大きな流れが影を落としていることがある。イベリア半島の場合もその例外ではない。この地域には古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した。とりわけヨーロッパやアフリカの諸勢力はこの地域にきわめて大きな影響を及ぼしている。このような広い視野のもとでながめるとき、紀元前三世紀から紀元一五世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか。その経過について解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した語句に必ず下線を... ...続きを見る

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2006/08/31 23:42
1998年東大前期・世界史第1問「南北アメリカ・歴史の分岐点」
アメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国は、ともにヨーロッパ諸国の植民地として出発した。しかし、独立後は、イギリスの産業革命などの影響の下で対照的な道を歩むことになった。たとえば、アメリカ合衆国の場合には、急速な工業化を実現していったのに対して、ラテンアメリカ諸国の場合には、長く原材料の輸出国の地位にとどまってきた。そしてラテンアメリカ諸国は、政治的にも経済的にもアメリカ合衆国の強い影響下におかれることになったが、その特徴は、現在のラテンアメリカ諸国のあり方にも大きな影響を及ぼしている。  そこで、... ...続きを見る

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2006/08/31 01:00
1997年東大前期・世界史第1問「少数民族問題」
二〇世紀の民族運動の展開を考えるさい、第一次世界大戦の前後の時期は大きな意味をもっている。この時期にはユーラシアの東西で旧来の帝国が崩壊し、その結果一部の地域では独立国家も生まれたが、未解決の問題も多く残った。それは、現代世界の民族と国家をめぐる紛争の原点ともなった。こうした旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら、解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した箇所には必ず下線を付せ。 ...続きを見る

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2006/08/30 00:21
1996年東大前期・世界史第1問「大英帝国の栄光と没落」
一八世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、世界全体に工業社会の到来をもたらし、現代世界の形成に大きな役割を果たした。そのさい、人々はイギリスの覇権を「パクス・ローマーナ」(ローマの平和)になぞらえて「パクス・ブリタニカ」と呼んだ。しかし、「パクス・ブリタニカ」の展開には、さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った。現代世界はこのような対抗関係を重ねるなかで形作られたとも言えよう。そこで、一九世紀中ごろから二〇世紀五〇年代までの「パクス・ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について、下に... ...続きを見る

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2006/08/28 23:52
『東大入試で遊ぶ教養−日本史編』刊行!!
歴史好きの大人と東大受験生のための佐々木哲著『東大入試で遊ぶ教養−日本史編』(長崎出版)が、ついに刊行です。また、マイナーだけど実はすごい佐々木氏・六角氏をその実力どおり具体例にしましたので、佐々木氏・六角氏マニアの方が読んでも楽しめます。紀伊國屋屋書店・三省堂書店・ジュンク堂・丸善・オリオン書房など、有名書店では店頭にあります。分類は人文・歴史ですが、書店によっては受験コーナーにあります。インターネットではアマゾン・BK1などで購入できます。最寄りの書店・セブン-イレブンでも、ご注文できます。... ...続きを見る

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2006/08/08 00:54
8月東京勉強会
8月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 【日時】 ◆8月6日(日)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜17時 『哲学とマーケティング』  15時〜17時 『六角義康と足利義昭、豊臣秀次』 ◆8月20日(日)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 『弱者の進化論』  15時〜17時 『系図の読み方』 ...続きを見る

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2006/07/26 23:48
『東大入試で遊ぶ教養 日本史編』はじめに
 意外に思われるだろうが、東大入試では受験知識はいらない。考える問題になっているから、教養程度の知識があれば十分だ。だから、『東大入試で遊ぶ教養』シリーズは、受験知識を身につけるための本ではなく、@教養力を身につけたい大人や、A論述力を身につけたい受験生のための本になっている。  まず知っておいてほしいのは、学問が目指しているのは、これまで正しいと思われていた常識を疑うことだ。たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につ... ...続きを見る

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2006/07/25 09:25
2003年東大前期・日本史第4問「米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代!」
次の文章は民俗学者柳田国男が一九五四年に著したものである。これを読んで下記の設問A〜Cに答えなさい。  一八七八年(明治一一年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明治時代には農民はハレの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい。(中略)こんどの戦争中、山村の人々は(1)米の配給に驚いた。当局とすれば、日常米を食わぬ村だと知っていても、制度ともなれば配給か... ...続きを見る

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2006/07/22 03:18
2005年東大前期・日本史第4問「先進的だった明治憲法」
次の文章は、吉野作造が一九一六年に発表した「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」の一部である。これを読んで、下記の設問に答えなさい。 憲法はその内容の主なるものとして、(a)人民権利の保障、(b)三権分立主義、(c)民選議院制度の三種の規定を含むものでなければならぬ。たとい憲法の名の下に、普通の法律よりも強い効力を付与せらるる国家統治の根本規則を集めても、以上の三事項の規定を欠くときは、今日これを憲法といわぬようになって居る。(中略)つまり、これらの手段によって我々の権利・自由が... ...続きを見る

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2006/07/20 00:23
2004年東大前期・日本史第4問「地租改正と農地改革」
地租改正と農地改革は、近代日本における土地制度の二大改革であった。これらによって、土地制度はそれぞれどのように改革されたのか、あわせて六行以内で説明しなさい。 【解き方】  「地租改正」や「農地改革」を知らない受験生はいない。では説明できるかというと、これがなかなか難しい。  地租改正というと、近代化を目指した明治政府が、国家財政の基礎を固めて安定させるために実施したものというのは知られているが、地租改正そのものが土地制度の改革というのは、どういう意味だろう。  地租改正は、一八八〇年ご... ...続きを見る

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2006/07/18 01:05
1999年東大前期・日本史第3問「江戸期の家督相続」
次の(1)〜(5)の文章は、江戸時代の有力な商人たちが書いた、いくつかの「家訓」(子孫への教訓書)から抜粋し、現代語に訳したものである。これらを読んで、下記の設問に答えよ。 (1)家の財産は、ご先祖よりの預かりものと心得て、万端わがままにせず、子孫へ首尾よく相続するように、朝暮心掛けること。 (2)天子や大名において、次男以下の弟たちはみな、家を継ぐ長男の家来となる。下々の我々においても、次男以下の者は、長男の家来同様の立場にあるべきものだ。 (3)長男については、幼少のころから学問をさせ... ...続きを見る

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2006/07/14 21:14
2004年東大前期・日本史第3問「海に開かれた蝦夷地」
次の(1)〜(3)の文章は、江戸時代における蝦夷地の動向について記したものである。これらを読んで、下記の設問に答えなさい。 (1)アイヌは、豊かな大自然の中、河川流域や海岸沿いにコタン(集落)を作り、漁業や狩猟で得たものを、和人などと交易して生活を支えた。松前藩は蝦夷地を支配するにあたって、有力なアイヌを乙名などに任じ、アイヌ社会を掌握しようとした。また藩やその家臣たちは、アイヌとの交易から得る利益を主な収入とした。 (2)一八世紀に入ると、松前藩は交易を広く商人にゆだねるようになり、一八... ...続きを見る

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2006/07/14 02:25
2006年東大前期・日本史第3問「琉球王国の繁栄」
次の文章(1)・(2)は、一八四六年にフランス海軍提督が琉球王府に通商条約締結を求めたときの往復文書の要約である。これらを読み、下記の設問A・Bに答えなさい。 (1)[海軍提督の申し入れ] 北山と南山の王国を中山に併合した尚巴志と、貿易の発展に寄与した尚真との、両王の栄光の時代を思い出されたい。貴国の船はコーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた。あのすばらしい時代はどうなったのか。 (2)[琉球王府の返事] 当国は小さく、穀物や産物も少ないのです。先の明王朝から... ...続きを見る

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2006/07/13 10:36
1984年東大前期第3問「江戸経済の成熟と近代化」
以下の二つの設問A、Bに答えよ。 A.下記の文は、近世の絹織物業の代表的な生産地である、西陣と桐生の歴史を記したものである。この文の下線部(1)、(2)の史実は何故おこったのか、その原因について、それぞれ二行以内で記せ。  京都には、古くから伝統的技術にもとづいた絹織物業があったが、一六世紀末、中国から導入された織物の技術によって、西陣の地に新たな機業がおこった。これ以後、西陣は一七世紀を通じて、絹織物の生産地としての独占的地位を保持しつづけた。幕府が糸割符制度を定めたのも、西陣の存在と無関... ...続きを見る

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2006/07/07 22:24
2003年東大前期・日本史第3問「江戸幕府の歴史認識と華夷変態」
次の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。  一七世紀後半になると、歴史書の編纂がさかんになった。幕府に仕えた儒学者の林羅山・林鵞峰父子は、神代から一七世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させ、水戸藩では徳川光圀の命により『大日本史』の編纂がはじまった。また、儒学者の山鹿素行は、戦国時代から徳川家康までの武家の歴史を記述した『武家事紀』を著した。  山鹿素行はその一方、一六六九年の序文がある『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されその支配をう... ...続きを見る

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2006/06/22 02:14
7月東京勉強会
7月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆7月22日(土)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 哲学講座『弱者の進化論』  15時〜17時 歴史講座『織田信長と六角義堯』 ...続きを見る

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2006/06/13 01:56
7月京都勉強会
7月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年7月9日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『弱者の進化論』  歴史講座 『織田信長と六角義堯』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都  第4演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

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2006/06/13 01:52
2002年東大前期・日本史第二問「武士と農民は同一階層」
次のア〜エの文章を読んで、下記のA〜Dに答えなさい。 ア 室町時代、国人たちは在地に居館を設け、地侍たちと主従関係を結んでいた。従者となった地侍たちは惣村の指導者層でもあったが、平時から武装しており、主君である国人が戦争に参加するときには、これに従って出陣した。 イ 戦国大名は、自分に従う国人たちの所領の検地を行い、そこに住む人々を、年貢を負担する者と、軍役を負担する者とに区別していった。そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした。 ウ 近世大名は、家臣たちを城下町に強制... ...続きを見る

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2006/06/06 12:05
1983年東大前期・日本史第二問「鎌倉新仏教の誕生」
 歴史学を一生の仕事とする決意を固めるのと、ほとんど同じころ、私は高等学校の教壇に立った。私にとって、これが初めての教師経験であり、生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立往生することもしばしばであったが、その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。 「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜ、だれもそれができなかったのか」。これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期... ...続きを見る

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2006/06/03 07:04
2005年東大前期・日本史第二問「北条泰時消息文」
次の文章は、鎌倉幕府執権北条泰時が、弟の六波羅探題重時に宛てて書き送った書状の一節(現代語訳)である。これを読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。 ...続きを見る

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2006/06/01 21:22
1996年東大前期・日本史第2問「守護・守護大名・戦国大名」
次の(1)〜(6)の文を読んで下記の設問に答えよ。 (1)一三四六年、室町幕府は山賊や海賊、所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守護に取り締らせる一方、守護請や兵粮米と号して、守護が荘園や公領を侵略することを禁じた。 (2)一四〇〇年、信濃の国人たちは、入国した守護に対して激しく低抗してついに合戦となり、翌年、幕府は京都に逃げ帰っていた守護をやめさせた。 (3)一四一四年、九州の一地方の武士たちが作成した契約状によれば、喧嘩を起した場合、双方が処罰されることとなっている。 (4)一五... ...続きを見る

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2006/05/31 11:37
2006年東大前期・日本史第2問「海国日本と平氏」
院政期における武士の進出について述べた次の(1)〜(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。 (1)院政期には、荘園と公領が確定される動きが進み、大寺社は多くの荘園の所有を認められることになった。 (2)白河上皇は、「私の思い通りにならないものは、賀茂川の水と双六のさいころと比叡山の僧兵だけだ」と言ったと伝えられる。 (3)慈円は、『愚管抄』のなかで、「一一五六(保元元)年に鳥羽上皇が亡くなった後、日本国における乱逆ということがおこり、武者の世となった」と述べた。 (4)平氏... ...続きを見る

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2006/05/29 11:54
6月東京勉強会
6月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆6月 3日(土)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 哲学講座『科学思想史を学ぶ意義』  15時〜17時 歴史講座『戦国期の佐々木氏』 ◆6月10日(土)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C  18時〜19時 出席者との哲学談義  19時〜21時 歴史講座『織豊期の佐々木氏』 ...続きを見る

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2006/05/24 22:31
6月京都勉強会
6月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年6月11日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『科学思想史を学ぶ意義』  歴史講座 『戦国期佐々木六角氏』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都  第1演習室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

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2006/05/24 22:19
2006年東大前期・日本史第1問「藤原的なものと大伴的なもの」
次の(1)〜(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。 (1) 律令制では、官人は能力に応じて位階が進む仕組みだったが、五位以上は貴族とされて、様々な特権をもち、地方の豪族が五位に昇って中央で活躍することは多くはなかった。 (2) 藤原不比等の長男武智麻呂は、七〇一年に初めての任官で内舎人(天皇に仕える官僚の見習い)となったが、周囲には良家の嫡男として地位が低すぎるという声もあった。彼は学問にも力を注ぎ、右大臣にまで昇った。 (3) 太政官で政治を議する公卿には、同一氏族から一人が出... ...続きを見る

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2006/05/21 15:41
2003年東大前期・日本史第1問「唐が蕃国 !?」
次の(1)〜(4)の八世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。 (1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。 (2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。八世紀には、日本は唐に二〇年に一度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。 (3) 七四三年、新羅使は、それまでの「調」という貢... ...続きを見る

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2006/05/20 01:28
斎藤道三の国盗りは父子2代(六角承禎書状)
天文・弘治年間足利義晴・義輝父子を保護しているあいだ、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護。北伊勢で北畠氏と抗争。弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化した。  永禄三年(一五六〇)浅井長政の自立阻止のため、承禎は北近江に侵攻。しかし野良田合戦では敗北。そこで宿老衆は、承禎の長男義治(当時は四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめて同盟。承禎はこの縁談に反対した(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書:七月二十一日付宿老宛六角承禎書状)。  こ... ...続きを見る

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2006/05/17 02:38
六角・朝倉同盟を示す朝倉教景書状の紹介
天文元年(一五三二)十二月に六角氏と朝倉氏の間で密約。天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫『古今消息案』)にくわしく記されていないが、「末代迄」という文言から重要な内容とわかる。翌年に義景が誕生したことになっているが、『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」には義景が六角氏綱の子という異説が記されている。関係があるだろう。 ...続きを見る

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2006/05/07 02:48
5月東京勉強会
5月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 ◆5月20日(土)東京ウィメンズプラザ・第一会議室A  18時〜19時 来場者の希望に応じた談話  19時〜21時 歴史講座『戦国期佐々木六角氏』 【会場】 ★東京ウィメンズプラザ  青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。  渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分  都バス(... ...続きを見る

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2006/05/01 20:42
5月京都勉強会
5月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年5月14日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『母国語』  歴史講座 『室町期佐々木六角氏』    【会費】  3、000円 【会場】  キャンパスプラザ京都  2階和室  http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html ...続きを見る

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2006/05/01 20:28
『佐々木六角氏の系譜』完売間近!
お蔭様で、『佐々木六角氏の系譜』は完売間近です。紀伊国屋書店の在庫もなくなりましたので、現在、確実に購入できるのは三省堂書店、オンライン書店ビーケーワン(BK1)、オリオン書房(ノルテ店)のみとなりました。それぞれ以下のホームページからご注文下さい。 ...続きを見る

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2006/04/19 21:01
4月東京勉強会
4月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆4月16日(日)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A  13時〜15時 哲学講座『解釈学・系譜学・考古学』  15時〜17時 歴史講座『佐々木荘と佐々木氏』 ◆4月30日(日)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 哲学講座『母国語』  15時〜17時 歴史講座『鎌倉御家人佐々木氏』 ... ...続きを見る

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2006/03/14 21:22
4月京都勉強会
4月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年4月9日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座 『解釈学・系譜学・考古学』  歴史講座 『鎌倉御家人佐々木氏』    【会費】  3、000円 【会場】  京都市国際交流会館 第4会議室 13時〜17時  http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html   今後の予定 ◆5月14日(日) キャンパスプラザ京都  和室 ... ...続きを見る

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2006/03/14 21:14
『佐々木六角氏の系譜』ついに公刊 !!
お待ちどうさまでした m( _ " _ )m ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が納品されます。流通にのるにはもうしばらく時間がかかるかと存じますが、最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。 すでに研究者・書店・近江佐々木氏の会の方でご注文いただけた方々には、厚く御礼申し上げます。 ■判型:四六判 200頁 ■定価:2,310円(税5%込) ■初版年... ...続きを見る

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2006/03/10 00:05
『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』近日公刊!
いよいよ佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』が刊行されます。最寄りの書店か、出版元の思文閣出版にお問い合わせ下さい。また勉強会でもお分けできるようにいたします。サインをご希望の方はおっしゃってください。 ■判型:四六判 200頁 ■定価:2,310円(税5%込) ■初版年月:2006年03月刊行予定 ■ISBN:4-7842-1290-6 【内容】 入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されている佐々木六角氏系図について、当時の資料をきちん... ...続きを見る

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2006/03/03 00:00
3月京都勉強会
3月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。 【日時】  2006年3月12日(日)  哲学講座:13時〜15時  歴史講座:15時〜17時 【演題】  哲学講座『発想の転換』  歴史講座 『佐々木六角氏の歴史』    【会費】  3、000円 【会場】  京都市国際交流会館 第4会議室 13時〜17時  http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html   今後の予定 ◆4月 9日(日) 京都市国際交流会館 第4会議室 13時〜1... ...続きを見る

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2006/02/26 14:55
3月東京勉強会
3月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。 現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。 【日時】 ◆3月 5日(日)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A  13時〜15時 『系図伝承論』  15時〜17時 『発想の転換の方法』 ◆3月11日(土)江戸東京博物館・第二学習室  13時〜15時 『発想の転換の方法』  15時〜17時 『佐々木氏の歴史』 ...続きを見る

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2006/02/26 14:51
『系図資料論』序
 わたしたちは似たものに同じ記号を付け、同じカテゴリーに分類する。たとえば系図に作為と錯誤が多いという符号が付けられたことで、すべての系図資料が実証的な歴史研究の資料にはなりえないと思われた。たしかに系図の記述そのままを信じることはできない。佐々木系図で近江国佐々木庄に最初に留住した伝えられる源成頼は、実際には四位中将という殿上人であり、近江国に留住した形跡はない(1)。系譜伝承のまま源成頼が近江に留住したと記述すれば誤りとなる。しかし系図は、本当に実証的研究の役に立たないものなのだろうか。 ... ...続きを見る

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2006/02/26 03:54
系図研究史
 家系・系図の研究でまず思い出されるのは、太田亮氏である。太田氏は系譜学会を組織して、機関誌『系譜と伝記』(のち『国史と系譜』)を発行し、各地の愛好家から多くの論考が寄せられた。『姓氏家系大辞典』はそのような広大な基盤の上に完成したものである。太田氏は家系に関する資料を集めて整理し、歴史資料としての系図の価値を高めようとしたと評価できる。  その一方で史実探究を急いだために、同一地域に古代豪族と中世豪族があった場合には、中・近世の系図を疑って中世豪族を古代豪族の直系の子孫とした。たとえば宇多源... ...続きを見る

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2006/02/26 03:53
資料としての系譜伝承
 系図は、実証的研究ではまず無視される資料である。しかし系図・由緒書は、それが作成された時代の歴史叙述の一形態であり、時代の思潮や社会の動向をとらえるための絶好の資料である。歴史学だけではなく社会学・民俗学・文化人類学など学際的研究を通して人類史的視点から姓名・系譜のあり方を解明すれば、日本社会の特質を捉えることもできる。このように系図は貴重な資料であり、その調査・収集・保存・整理を体系的に進めることが急がれる。しかし、そのための基礎的な前提となる系譜学を資料学として確立するには、まだまだ未解決... ...続きを見る

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2006/02/26 03:52
資料としての家紋
 上杉本洛中洛外図は、誰が上杉謙信に贈ったものかが問題になっている。今谷明氏は屏風に描かれている景観を綿密に考察し、とくに変転の激しい武家邸宅に注目して年代比定を試みた(23)。そして公方様(将軍邸)・細川殿(管領細川邸)・典厩(細川典厩邸)・武衛(旧斯波邸、将軍家別邸)・伊勢守(政所執事伊勢邸)・畠山図子上臈(旧畠山邸)・和泉守護殿(和泉守護細川邸)・薬師寺備後(摂津守護代薬師寺邸)・三好筑前(三好長慶邸)・高畠甚九郎(山城郡代高畠邸)・松永弾正(松永久秀邸)の存在や規模・位置・名称に注目して... ...続きを見る

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2006/02/26 03:51
系譜記号論
 系譜記号論の契機になったのは、ひとりの歴史的人物の実在をめぐる問題に興味をもったことである。その人物は、京都の隣国近江国の戦国大名六角義実である。彼は近江守護職を世襲した宇多源氏佐々木氏の嫡流で、足利将軍の養子となり、参議兼近江守に補任されたという。  六角義実は、従来、近世初頭の系図作者沢田源内によって作り上げられた架空の人物と考えられてきた。家系・系図研究の入門書である太田亮『家系系図の合理的研究法』(30)をはじめ、一般読者向けの家系・系図関連の書物のほとんどで、沢田源内は偽系図作者の... ...続きを見る

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2006/02/26 03:49
資料は語る
 歴史的事実を、その痕跡から他者として顕在化することができる。歴史叙述をフィクション物語と同じだと批判する物語論は、このことを見逃している。同一資料を意図的に別の見方で見ることで、それまで排除されてきた歴史的事実を浮かび上がらせることができる。  たとえば偽文書である。従来の史料批判では、偽文書は歴史的事実を歪曲するものとして排除されていた。しかし、偽文書も歴史の中で生み出されたものである。偽文書を排除することで、偽文書に含まれている史実も排除することになる。偽文書から読み取ることのできる史実... ...続きを見る

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2006/02/26 03:48
歴史学における科学革命
 発想の転換は、確実な資料を一つ一つ積み重ねてもできない。異なる視点を持ち込む必要がある。異なる視点で作り上げた作業仮説を、良質な資料によって実証するのである。実証できれば、同一資料を使って通説とは反対の結論を導き出すことができたことになる。これは、実証的研究も研究者の見方に束縛されていることを示すとともに、歴史像を転換するという歴史学における科学革命の方法を示している。  しかし歴史像の転換は既存の歴史像の全てを否定するものではなく、既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、既成概念で... ...続きを見る

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2006/02/26 03:47
史料批判と系譜伝承
 『江源武鑑』は、系図作者沢田源内の著作として偽書のレッテルを貼り続けられてきた。沢田源内は自らを鎌倉草創期以来の近江守護佐々木六角氏につなげるために、戦国期六角氏歴代に義実−義秀−義郷の三代を加筆して、自ら義郷の嫡子氏郷(義綱)と名乗ったという。しかし『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)であり、氏郷はちょうどその年に生まれている。『江源武鑑』を彼の著作とすることはできない。しかも氏郷と同時代の記録『京極家臣某覚書抜萃』(54)によれば、氏郷は同じく近江守護佐々木氏の子孫である讃岐丸亀藩主京... ...続きを見る

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2006/02/26 03:45
江州宰相の研究・序
 『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に、江州宰相という人物が登場する。天文八年(一五三九)五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛および下向した記事がある。この記事に関する頭書が、『鹿苑日録』十六巻(『日用三昧』七巻)の表紙にあり、この人物は「相公」と記されている。宰相も相公も参議の唐名であり、一般的には宰相を相公と言い換えても当たり前だと思われる。このように何でも当然だと言って受け流しては、そこで探究は終わってしまう。しかし同書で、ただ「相公」とのみ記す場合は現職の将軍を指す。つま... ...続きを見る

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2006/02/24 21:43
六角隆頼
 これまで、六角氏綱の跡はただちに弟定頼が継承したと考えられてきた。しかし氏綱(佐々木四郎、近江守)の没年は永正十五年(一五一八)であるにもかかわらず、定頼(弾正少弼)の近江守護職補任は天文六年(一五三七)である(6)。ここに十九年間の空白がある。これをどう理解すればいいだろうか。  実は、山津照神社文書に、大永六年(一五二六)五月二十八日付青木社家中宛六角隆頼願状がある(7)。内容は、祈願が成就したときには近江甲賀郡内で所領を寄進するというものである。 ...続きを見る

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2006/02/24 21:42
足利義晴祝言と四郎殿父子
 管領細川氏(細川京兆家)内部における高国と晴元の抗争によって、十二代将軍足利義晴は近江への逃亡生活を余儀なくされ、六角氏の居城観音寺場内にあった桑実寺に仮幕府を開いた。そのような中での天文三年(一五三四)六月に、六角氏の仲介で将軍義晴と前関白近衛尚通の娘が婚礼を挙げた。場所は桑実寺であった。そのときの模様を記した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)に、「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参、十合十荷御進上之、御一献参」とある。この記事によれば義晴の... ...続きを見る

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2006/02/24 21:41
長命寺結解と四郎殿様
 六角四郎と義賢を明確に区別している例は、六角氏の本国近江国内の資料にもある。それが『長命寺結解』(9)である。長命寺は、六角氏の祖佐々木秀義の菩提寺である。秀義(源三)は鎌倉幕府草創期に源頼朝の挙兵を助けて近江守護(惣追捕使)の初代となり、以後佐々木氏が近江守護を保持し続けた。六角氏はその佐々木氏の嫡流である。当然、長命寺と六角氏の結び付きは強い。そのため長命寺文書で六角四郎と義賢が明確に区別されていることの意義は大きい。  私がこの長命寺の出納記録である結解(けちげ)を発見したときは、『鹿... ...続きを見る

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2006/02/24 21:40
佐々木四郎公能
 四郎殿様と義賢が別人であったことをダメ押しする決定的な資料がある。それが『証如上人日記』(11)天文十年(一五四一)十月五日条である。本願寺証如が将軍足利義晴(室町殿)に馬を進上したが、その返礼として将軍の私信である御内書と太刀(祐光)が給付された。その太刀は佐々木四郎公能に進上させたものである。このとき佐々木四郎を名乗る人物の実名は公能であった。 ...続きを見る

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2006/02/24 21:39
義久という人物
 『鹿苑日録』に義久という人物が登場する。彼は鹿苑院主梅叔法霖と交流があり、十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になるなど幕府内の有力者でもあった。しかし辻善之助編『鹿苑日録総索引』(12)でも氏姓が記されず、これまで注目されてこなかった。  義久の記事は、『鹿苑日録』に三カ所ある。まず天文六年(一五三七)六月十五日条に、義久が法霖に書を送った記事である。その前日の六月十四日条に、近江国内の鹿苑院領四ケ郷の差出検地についての記事がある。 ...続きを見る

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2006/02/23 23:49
義久と恵林院殿十七回忌
 『鹿苑日録』天文八年(一五三九)二月二十九日条に、六角定頼(霜台)が鹿苑院主の法霖に書状を遣わした記事があり、さらに続けて法霖が恵林院殿(十代将軍足利義稙)十七回忌料について大館晴光(左衛門佐)に問い合わせた記事がある。六角定頼の記事と足利義稙十七回忌料の記事は関連しているように読むことができるが、この記事だけでは即断できない。やはり前後の記事を丹念に読み込んでいく必要がある。  まず三月九日条に、五千疋を寄進するとの大館晴光の返事が記載されている。 ...続きを見る

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2006/02/23 23:48
足利将軍の猶子
 義久が足利義稙十七回忌の法事の主催者であり、しかも僧録鹿苑院主にとって「御成」の主体になることは、義久が足利氏の連枝と目されていたことを示していよう。たしかに沙々貴神社本では、義久に当たる人物「義実」が十一代将軍足利義澄の猶子であったと記されている。  義澄は、周防・長門・筑前守護大内義興に擁立された前将軍義稙(西国御所・西国大樹)の巻き返しによって、永正五年(一五〇八)に近江に出奔した。こうして義稙は前例のない将軍再任を果たした。江州公方義澄は近江守護六角氏に保護されたが、義稙派による包囲... ...続きを見る

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2006/02/23 23:47
義久の出家
 実は足利義稙法事の記事で、義久は「義久入道」と記されている。しかし沙々貴神社本によれば、義久(系図では義実)は永正七年(一五一〇)の生まれである。義久の父氏綱は永正十五年(一五一八)に享年二十七歳で没している。父死去の時点で義久は九歳である。『御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」、『厳助往年記』で「六角四郎」、そして『長命寺結解』でも「四郎殿様」として登場した天文三年(一五三四)に、義久は二十五歳である。また江州宰相として登場する天文五年(一五三六)に、義久は二十七歳である。そして義久入道... ...続きを見る

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2006/02/23 23:46
義久入道と宗能
 義久が天文六年(一五三七)以降に「宗能」と名乗っていたことは、『続群書類従』所収の三上系図に付けられている三上文書によって知ることができる。義久が「義久入道」と呼ばれる時期と重なる。この文書の原本は確認できないが、もし明らかな偽文書ならば一般に流布している「義実」と記したと考えられる。わざわざ「宗能」とはしないだろう。この文書は信用できる。  同文書には六角宗能安堵状写一通、六角宗能一字書出状写一通、秀書状写一通がある。まず天文六年(一五三七)正月十六日付六角宗能安堵状写は、三上三郎次郎宛に... ...続きを見る

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2006/02/23 22:18
六角定頼の近江守護補任
 叔父定頼の近江守護職補任は、義久が出家したと考えられる天文六年(一五三七)である。しかも、定頼は近江守護のまま幕政にも大きく関与した。江州宰相を補佐するための近江守護職と考えられる。  ところで六角定頼は五位で弾正少弼に任官していたが、弾正少弼は京都を巡察して非違を糾す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。そのため長官の尹には親王が補任され、次官のうち上級次官の大弼は参議が兼任、下級次官の少弼には四位・五位の殿上人が補任された。三等官の忠には実務官僚である侍身分の者がなった。律令制度で... ...続きを見る

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2006/02/23 21:55
義久一周忌
 江州宰相の没年について系譜伝承に混乱があり、特定できない。沙々貴神社所蔵佐々木系図では没年月日を天文十五年(一五四六)九月十四日とし、法号を東禅寺殿仁山崇義大居士とするが、『江源武鑑』では没年月日を弘治三年(一五五七)十一月二十二日とし、法号を東光院殿贈権中納言三品崇山大居士とする。系譜伝承によって生没年に多少の異同があるものの、おおまかにこの二つの時期に絞られる。これは二人の人物の没年を混同しているものと考えられるが、どちらにも決定打がない。  ところが、『鹿苑日録』天文十八年(一五四九)... ...続きを見る

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2006/02/23 21:41
江州宰相の贈官
 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に「ふけよりとて。□うくわん事にりんしのさいそく申さるゝ。てん文九年の御ゆとのゝ日記にも。せんくわう御心しるしのにもなきよしおほせらるゝ。御かへり事かさねとあり」と足利義輝が贈官の催促をしているという記事があるが、前将軍義晴の左大臣贈官は薨去直後の天文十九年(一五五〇)五月四日にすでに行なわれており、義晴の贈官のことではない。江州宰相の贈官の記事だろう。  このことによって、永禄二年(一五五九)までに江州宰相が薨じていたことが分かる。『鹿... ...続きを見る

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2006/02/23 21:38
織田信長と近江殿
 信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条に「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也」と記されている。当時、信長が近江殿になり、信長の子息信雄(茶箋)が将軍になるという噂があったことが知られる。この信長がなると噂された近江殿は、まさしく近江殿であ... ...続きを見る

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2006/02/23 21:37
『江源武鑑』の錯誤
 『江源武鑑』では、義久に当たる人物を一貫して「義実」と記述している。しかし義実の実名が義久と分かった後で同書を読むと、永禄十年(一五六七)十一月九日条に「義久」という実名が登場していることに気づく。これは、義賢(承禎)の次男中務大輔が「義久」と改名したが、屋形義秀の勘気を受けて「賢永」と改名したという記事である。 ...続きを見る

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2006/02/23 21:35
六角義秀の研究・序
 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿より二色二かまいる」とあり、亀寿の元服で、典侍(ないしのすけ)が天皇家に御礼を進上している。また同書の天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条では「かめちよかみおきとて、二色一かしん上申」とあり、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。   『お湯殿の上の日記』は宮廷記録のひとつで、天皇常住... ...続きを見る

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2006/02/22 22:46
『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期に六角高頼は『碧山日録』で「亀」「亀子」「亀寿子」などと呼ばれている(1)。『碧山日録』の記主太極は、近江北郡守護京極氏の一族である佐々木流鞍智氏の出身であり、当時の幕政に翻弄されて孤軍奮闘していた佐々木惣領家の六角亀寿に同情し、親しみを込めて「亀」「亀子」「亀寿子」と記した。そして『お湯殿の上の日... ...続きを見る

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2006/02/22 22:44
足利義晴政権と六角亀寿
 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するようになる。  天文六年四月三十日条「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。これ以後、日常的な物を進上するようになる。まず同年十月十一日条で「かめこ、みつかんしん上申」と亀子が蜜柑を進上し、同年十二月六日条でも「かめこ、まん一ふたしん上申」と亀子が饅頭を進上した記事がある。さらに同年... ...続きを見る

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2006/02/22 22:41
六角亀寿の元服
 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をしていることから、典侍が亀寿の母であったことが分かる。天文九年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」という新大典侍の子が参上した記事は、亀寿の記事である可能性もある。これで亀寿の記事が『お湯殿の上の日記』に頻出する理由が理解できる。  しかし元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通... ...続きを見る

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2006/02/22 22:29
六角亀寿の実名
 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、同書によっては、知ることができない。それだけ同書を書き継いだ人々にとっては、六角亀寿は親近な存在であったことが分かる。そこで、六角亀寿の実名を他の資料から明らかにしてみよう。  『証如上人日記』(5)天文十年(一五四一)十月五日条には、次のようにある。 ...続きを見る

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2006/02/22 22:27
『万松院殿穴太記』作者と六角氏
 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年(一五五四)七月九日条に「内侍所へ罷向、穴太記読之、盞有之」とあるように、同書は天皇家の内侍司に収められていた。この記事から同書が天文二十三年(一五五四)までには成立していたことが分かる。また『群書類従』(二十九輯)所収のものは、関白二条晴良が天文十九年(一五五〇)初冬下旬に書写したものである。これ... ...続きを見る

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2006/02/22 22:26
六角亀千代
 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には京都の東寺に入った(『言継卿記』『厳助大僧正記』)。細川氏綱が細川氏家督となり、晴元は若狭に出奔した(『言継卿記』)。また三好長慶は将軍御供衆に列し、将軍直臣となった。  この年、再び六角氏嫡子の幼名を名乗るものが幕府に出仕し、天皇家女房衆に音物を進上する。幕府政所執事である蜷川親俊の日記『親俊日... ...続きを見る

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2006/02/22 22:23
六角義秀と小倉良秀
 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そうであれば、こののち義秀が早世した理由も分かる。  当時、六角氏は京都政界から遠ざかっている。そのため徳川公の動向はまったく分からない。天皇家女房衆に音物を進上することはできない状況にあった。このあいだ六角氏は将軍義輝を擁立して京都を伺っていたが、同時に周辺諸大名との抗争にも巻き込まれていた。斎藤... ...続きを見る

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2006/02/22 22:22
桶狭間の戦いと六角氏
 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するようになっても、六角氏に関する記事は少なくなる。 永禄元年(一五五八)五月三日将軍義輝は六角氏の援助で近江坂本に移り、さらに六角氏が将軍義輝と三好長慶の和談を斡旋して、同年十一月二十七日義輝の帰京を実現した。和平を実現した六角義賢は隠居して承禎と名乗った。  『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九... ...続きを見る

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2006/02/22 22:20
修理大夫書状
 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と見ることができる。修理大夫は参議が兼職することのできる官職であることも、徳川公義秀が修理大夫であったことと矛盾しない。 ...続きを見る

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2006/02/22 22:17
観音寺騒動と足利義輝殺害事件
 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。  しかし永禄六年(一五六三)六角氏では、義治(当時は右衛門尉義弼)が重臣後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺したことで、承禎・義治父子と六角近臣団が対立するという観音寺城騒動(後藤騒... ...続きを見る

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2006/02/22 00:17
足利義昭入洛運動
 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶らは早速、甲賀和田城から越後上杉輝虎(のち謙信)や尾張織田信長など諸大名に連絡を取った(19)。  覚慶らを保護した和田氏は甲賀武士であったが、また将軍御供衆(和... ...続きを見る

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2006/02/22 00:16
江州殿と織田信長の入洛
 足利義秋が北陸を移座している間、永禄十年(一五六七)四月十八日に六角氏式目(義治式目)が制定された。三上越後守(恒安)・後藤喜三郎(高治)・三井新五郎(治秀)・真光寺周揚・蒲生下野守入道(定秀)・青地入道(道徹)・青地駿河守(茂綱)・永田備中守入道(賢弘)・平井加賀守(定武)・馬淵山城守入道(宗綱)・三雲対馬守(定持)・永田刑部少輔(景弘)・進藤山城守(賢盛)・池田孫二郎(景雄)・三雲新左衛門尉(成持)ら六角氏近臣団は、この分国法によって承禎・義治父子の行動を規制し、体制の立て直しを図った。 ... ...続きを見る

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2006/02/22 00:15
義秀遠行
 入洛直後に義秀は病没した。やはり義秀は傷病に苦しんでいた。滋賀県和田文書の(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状(27)によれば、信長は義秀が没したとの報に接して言語を絶するとともに、近く起こるであろう六角承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めた。 ...続きを見る

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2006/02/22 00:14
朝倉義景と六角義景
 越前の戦国大名朝倉義景は、六角氏綱の子息であったという異説がある。富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』で、義景=六角氏説は異説として紹介されている(30)。六角氏側では、『江源武鑑』はまったく伝えていないものの、沙々貴神社本佐々木系図と『六角佐々木氏系図略』が、六角氏綱の次男として朝倉義景を記述している。  これまでは、六角氏綱の没年が永正十五年(一五一八)であることから、天文二年(一五三三)誕生の義景の実父とするには年代が合わないとされてきた(31)。しかし氏綱の孫と考えれ... ...続きを見る

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2006/02/22 00:12
浅井久政・長政父子と六角氏
 『江源武鑑』『浅井日記』では、浅井長政を六角氏の武将と伝えている。また『六角佐々木氏系図略』では、浅井久政は六角氏の庶子だったとも伝えている。もしそうであれば、六角氏と朝倉・浅井両氏は深く結び付いており、元亀争乱で浅井長政が朝倉義景に寝返ったことも理解できる。少なくとも浅井久政の名乗りは、江州宰相六角義久の諱字を給付されたものと考えられる。  元亀争乱では、前述の和田文書所収(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状に使者として見える沢田兵部少輔をはじめ、山崎・目賀田・伊達・藤堂など六角氏... ...続きを見る

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2006/02/22 00:11
元亀争乱と近江修理大夫
 『言継卿記』元亀元年(一五七〇)四月二十九日条に、「江州へ六角出張云々、方々放火云々、北郡浅井申合、信長に別心せしむ云々」とある。当時は、浅井氏が信長に反旗を翻したのは、六角氏と示し合わせたためと考えられていたことが分かる。また(元亀元年)七月十六日付益田藤兼宛朝山日乗書状(42)に「江州北之郡浅井別心候、則ち六角殿も六千計りにて取り出でられ候」とあり、このときの六角軍の兵力が六千であったことが分かる。けっして少なくない。  続けて『言継卿記』同年五月九日条に「巳刻織田出陣、二万計りこれ有り... ...続きを見る

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2006/02/22 00:10
比叡山再興と佐々木氏郷
 元亀二年(一五七一)信長によって焼き打ちされた比叡山延暦寺を、佐々木氏郷(義郷)が元亀三年(一五七二)蒲生郡中荘山に再興したという伝承がある(45)。氏郷が七百石を寄進したことで、近江蒲生郡中荘山を新比叡山として延暦寺が再建された。坊舎は七十二坊を数えたという。この七百石はその土地の収穫高ではなく、年貢高である。現在の長命寺の建物はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。氏郷が延暦寺を蒲生郡に再建していることは、彼が信長から自立した勢力であったことを示している。  この江州殿による延暦寺再建... ...続きを見る

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2006/02/22 00:09
六角義堯と佐々木左馬頭
 元亀三年(一五七二)九月御屋形様が一向一揆を観音寺城に入城させた。この御屋形様は六角義堯と考えられる。義堯は、山中文書所収の(年未詳)十月二日付六角承禎書状(51)に登場する。  夜前に義堯の許を訪れた者があり、そのことについて義堯が夜中に池田氏を使者として承禎・義治父子に相談したという。その相談内容は書中に書けないとするものの、1.三河方面のこと、2.三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、3.出座のことなどが記されている。このうち三河方面のことは、同書状の日付け十月二日に注目すれば、元亀三... ...続きを見る

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2006/02/22 00:08
足利義昭政権と元亀争乱
 実は元亀争乱は、朝倉義景が足利義昭の上洛命令を拒否したことで始まっている。足利義昭は単なる傀儡ではなく、畿内政権の実質的主体として将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年(一五六八)十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」といわれている。義昭は畿内を幕府系の諸将に配分することで彼らへの軍事動員権を確保し、奉公衆など直属軍を編成している。実際にこの直属軍によって、本圀寺を宿所としていた義昭を襲撃した三好三人衆勢を撃退した。義昭の軍事力... ...続きを見る

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2006/02/22 00:06
六角義堯の研究・序
 義堯は発給文書が多く残っていることから、その事跡はかなり明らかである。元亀元年(一五七〇)六角氏は越前朝倉義景や北近江浅井長政・比叡山延暦寺・本願寺と連携を取っていたが、義堯は元亀三年(一五七二)に秘密裡に将軍足利義昭や甲斐武田信玄・阿波三好甚五郎らと連絡を取って(山中文書)、信長包囲網を強固にした。この信長包囲網は翌元亀四年/天正元年(一五七三)四月に信玄が急死したことで崩壊し、同年七月信長によって足利義昭は京都を追放され、さらに八月には朝倉義景や浅井久政・長政父子が相次いで滅亡した。  ... ...続きを見る

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2006/02/15 23:26
甲賀武士と六角義堯
 甲賀武士というとすぐに甲賀忍者を想像してしまうが、実は自立した中小領主による一揆(地域連合)であり、中には朝廷・公家や幕府に直仕する者もいた。この甲賀武士と六角氏の関係は深く、山中文書や黒川文書には義堯に関する文書が伝わる。その甲賀郡中惣が全国的に注目されたのは、応仁・文明の乱後に起こされた六角氏征伐のときである。  近江守護六角高頼(行高)は応仁・文明の乱で西軍にあって反幕府的行動をとり、乱後も混乱に乗じて寺社本所領を押領し続けた。そのため九代将軍足利義尚は、高頼を討つため長享元年(一四八... ...続きを見る

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2006/02/15 23:25
山中文書と六角義堯
 元亀・天正年間に六角承禎・義治父子とは別に六角氏当主がいたことを示す六角承禎書状が、滋賀県山中文書(3)に収められている。それは、義堯書状の内容を山中大和守(俊好)に知らせた(年未詳)十月二日付六角承禎書状である(4)。 ...続きを見る

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2006/02/15 23:23
武田勝頼と六角義堯
 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義景と北近江浅井久政・長政父子は相次いで滅亡した。そして元号も元亀から天正に改元された。  しかし義堯は、信玄の後継者四郎勝頼と連絡を取り合った。この交渉では承禎自らが、義堯の使者として活動している(黒川文書)。承禎は、天正二年(一五七四)武田勝頼に使者辻和泉守を派遣して交渉を進めた(黒川文書)。さ... ...続きを見る

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2006/02/15 23:20
武田勝頼との同盟
 甲賀武士の子孫に伝えられた滋賀県黒川文書(11)に、義堯書状が収められている。それは、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す、六角義堯書状である。 ...続きを見る

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2006/02/15 23:19
一向一揆との連携
 天正三年(一五七五)四月織田軍が大坂本願寺に向かったことを聞いた六角義堯は、大和国吉野郡飯貝に所在する浄土真宗寺院本善寺に宛て書状を発給し、何か承ることがないか尋ねるとともに、上洛のため軍事行動を起こした武田勝頼軍の動きを今後報告することを約束している(本善寺文書)。 ...続きを見る

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2006/02/15 23:15
上杉謙信と六角義堯
 上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は十三代将軍義輝には心服していたが、その実弟義昭に対しては異なっていたようだ。しかし義堯が協力を要請したことで、それまでの態度を一転させて反信長陣営に加わった。謙信が義堯に全幅の信頼を寄せていたことが分かる。続群書類従本伊勢系図別本(巻百四十一)の伊勢貞孝の項にあるように、足利義輝の男子が六角氏の養子... ...続きを見る

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2006/02/15 23:12
織田信長包囲網の形成
 上杉謙信が要請を受け入れたことに対する義堯の礼状が、『歴代古案』に収められている。同文書の三宝院義堯書状がそれである(26)。この義堯書状は『越佐史料』に掲載されているが、原本がないために花押を確認できない。しかし上杉謙信が援軍の要請を受けたこと対する礼状であることから、三宝院義堯ではなく六角義堯の書状と分かる。 ...続きを見る

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2006/02/15 23:10
毛利氏と六角義堯
 吉川文書には、六角義堯書状が多く含まれている。それは、天正四年(一五七六)の足利義昭の備後下向を実現させたのが義堯だからである。もともと義堯は吉川元春から年頭や歳暮の祝儀を贈られるなど交流があった。実は毛利氏側は初め足利義昭の備後下向を迷惑がっており、足利義昭本人が依頼しても承諾しなかった。義堯が交渉に乗り出したことではじめて、吉川元春も毛利輝元へ取り成した(吉川文書)。そのため吉川文書に多くの義堯書状が残された。毛利氏も上杉氏と同様、足利義昭の要請は断っても義堯の要請に応えている。このことで... ...続きを見る

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2006/02/14 22:18
吉川元春と六角義堯
 『大日本古文書』吉川家文書では、一連の義堯書状を畠山義堯書状とする。しかし義堯花押が近江国内の木村文書・黒川文書に収められている六角義堯書状の花押と一致し、また『大日本古文書』小早川文書所収の『礼銭遣方注文写』に「六角殿」が見えるとともに、同じく小早川文書所収の六角義堯書状案で義堯の署名の下に当時の注記で「六角殿これ也」と記されていることから、六角義堯書状と分かる。そのため『大日本古文書』も小早川家文書や山内首藤家文書では、義堯書状を六角義堯書状としている。また『吉川文書花押藪』(東京大学史料... ...続きを見る

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2006/02/14 22:17
足利義昭・六角義堯の備後鞆津下向
 毛利氏は天正四年二・三月に足利義昭と真木島昭光が備後下向の援助を求めても承諾しなかったが(36)、同年四月に六角義堯が要請すると受け入れている。足利義昭の備後鞆津への移座は、義堯が交渉に乗り出したことで実現した。このことは吉川元春が六角義堯を重く見ていたことを示していよう。  まず吉川元春に毛利輝元への取り成しをもとめた義堯書状(37)がある。 ...続きを見る

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2006/02/14 22:15
細川昭賢と毛利氏
 吉川元春は使者今田経忠を立てて備後鞆に着津した足利義昭一行を訪れて祝儀を贈ったが、その際の(天正四年)十月二日および三日付の一連の文書が吉川文書に収められている。  まず十月二日付のものは、足利義昭御内書(41)、真木島昭光(玄蕃頭)奉書(42)、真木島昭光書状(43)、小林家孝(民部少輔)書状(44)であり、また翌三日付けのものは上野秀政(大和守)書状(45)、昭賢書状(46)・畠山昭清(上野介)書状(47)・武田信景(右衛門佐)書状(48)である。  このとき小早川隆景も祝儀を贈ってお... ...続きを見る

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2006/02/14 22:12
小早川隆景と六角義堯
 足利義昭亡命政権が備後鞆津に到着したときに、義昭らが吉川元春に宛てた(天正四年)十月二日・三日付の一連の礼状の中に六角義堯礼状がない。このことは、『礼銭遣方注文写』の宛所に「六角殿取次」と「同厩方」があるものの、「六角殿」本人がないことと関連があろう。義堯本人の到着は遅れたのだろうか。  実は『大日本古文書』では、これら十月二日・三日付の一連の礼状を、天正元年(一五七三)足利義昭が河内若江城に在城していたときのものとしている。しかし、小早川家文書(椋橋家什書第七巻)に、天正四年(一五七六)の... ...続きを見る

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2006/02/14 22:10
備後国人山内氏と六角義堯
 また毛利氏に属していた地元備後の有力国人山内隆通(新左衛門尉)・元通(刑部少輔)父子も、足利義昭一行や六角義堯に祝儀を贈っており、山内首藤家文書に義堯礼状(58)が収められている。それを見てみよう。 ...続きを見る

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2006/02/14 22:08
北畠・朝倉両氏の再興運動
 天正四年(一五七六)十一月二十五日に伊勢国司北畠氏の本所北畠具教を始め北畠一族が、織田信長の密命によって滅ぼされた。足利義昭や義堯らが備後国鞆津に下向した翌月である。しかし北畠氏の有力庶子家・坂内御所の坂内亀寿(亀千代)は逃亡に成功し、北畠具教の弟朝親(具親)も奈良興福寺東門院を出て還俗し挙兵した。朝親はさっそく同年十二月六日付で坂内亀千代(亀寿)に書状を送り、協力を期待している(59)。また坂内亀寿から支援を求められた六角承禎も、天下静謐のためにも援助を惜しまないと伝えるとともに、北畠殿を相... ...続きを見る

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2006/02/14 22:06
六角義堯の堺上陸
 天正六年(一五七八)正月七日、義堯が足利義昭の先方として阿波・淡路両国の兵を従えて和泉堺に着岸するとともに、大和多武峰の衆徒に出陣を求めたことを、談山神社文書所収の義堯書状(67)で知ることができる。 ...続きを見る

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2006/02/14 22:04
佐々木義高伝承と六角義堯
 天正六年(一五七八)正月義堯は堺に上陸した。その後、反信長連合は攻勢を強めたが、同年十一月六日毛利水軍が摂津国木津川口で織田水軍に敗れたことで石山本願寺は孤立し、形勢は逆転していく。それ以後の義堯の動向は、義堯書状もなく古文書で正確に跡づけることができない。  ところが但馬国浅間佐々木家系図(70)によれば、天正年間に浅間城(養父郡八鹿町浅間)に入っていた佐々木義高(近江守)が、天正八年(一五八〇)羽柴秀長の但馬侵攻の際、織田方に降伏したという。同系図では、義高を六角義秀の子息と伝えている。... ...続きを見る

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2006/02/14 22:02
江州入替合戦
 天正十年(一五八二)六月二日に本能寺の変が起きた。一般に光秀は、近江平定に時間を浪費したために十分に体勢を整える暇もなく、同月十三日の山崎の戦いで秀吉に敗れたと考えられている。『江源武鑑』によれば、この間に江州入替合戦があったという。本能寺の変で信長が倒れると、六角氏は天下に号令する機会と見て、琵琶湖を水路にして光秀の居城坂本城を攻めたが、明智軍は陸路で六角氏の居城観音寺城と安土城を攻めた。これを江州入替合戦といい、観音寺城と安土城が落ちるを見た六角軍は戦意を喪失して散り散りに落去していったと... ...続きを見る

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2006/02/14 22:00
六角義郷の研究・序
 系図では実名(諱)の真下から血筋・伝承を意味するが系線が引かれているが、沙沙貴神社所蔵佐々木系図では系線の右脇に官位や通称・幼名などが列記され、左脇に母が記されている。母親が明記されているのは、同系図が女系を重視した西日本型系図だからである。その母親の記述の後に、本人の事績が記述されている。  同系図によれば六角義秀の嫡子義郷は、位階は従五位上・従四位下・従四位上・正四位下を経て、官職は右兵衛佐・左衛門督・左近衛中将・近江守を歴任している。また義郷の母は、織田信長の娘と伝えられている。つぎに... ...続きを見る

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2006/02/08 23:24
六角義郷の母織田氏
 義郷の経歴と同じ人物が『太閤記』に登場する。左衛門侍従豊臣義康である。沙沙貴神社本では義康という本名(前名)を伝えていないが、『六角佐々木氏系図略』では義郷の本名を義康と伝えている。しかも義康の官職は左衛門督・右近衛少将と伝えられており、実名義康と官職左衛門督という事跡は、まさに左衛門侍従豊臣義康の事跡と一致する。  また『六角佐々木氏系図略』では、義康(のち義郷)の母が織田信康の娘であったと伝えている。義康の名乗りも外祖父信康の一字を用いたものと考えられる。ただし『江源武鑑』では信康ではな... ...続きを見る

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2006/02/08 23:18
犬山之伊勢守息女
 『六角佐々木氏系図略』でいう信康に相当する人物としては、信長の叔父で犬山織田氏を継いだ織田信康(与次郎)と、伊勢守系織田氏の直系であった岩倉織田信安が考えられる。しかし続群書類従本をはじめ織田系図に、六角義郷の母に相当する女性を見つけることができない。義郷(義康)の母が織田氏であるというのは、六角氏側にのみ伝えられている。佐々木系図の系譜伝承は、やはり誤伝であろうか。  天正十年(一五八二)に発給された三月七日付松井友閑宛織田信長黒印状写によれば、甲斐武田勝頼が滅亡したとき、岩倉織田氏と犬山... ...続きを見る

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2006/02/08 23:16
左衛門侍従義康による六角氏再興
 『太閤記』の「関白職并家臣之面々任官之事」で、任官した人々の最後に左衛門侍従豊臣義康が名を連ねている。沙沙貴神社本でも、義郷の豊臣賜姓と侍従任官の記事がある。この任官は天正十三年(一五八五)のことだが、沙沙貴神社本では天正十四年(一五八六)としている。実は『歴名土代』でも、天正十四年に従四位下に叙位された五辻元仲に続けて、義康ら公家成り大名がまとめて記されており、この一年のズレは十分に許容範囲である。  また『兼見卿記』天正十三年(一五八五)十月六日条では、丹羽長重(五郎左衛門尉侍従)・細川... ...続きを見る

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2006/02/08 23:15
聚楽第行幸
 天正十六年(一五八八)四月には後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第に行幸したが、『聚楽亭行幸記』に公家成り大名のひとりとして左衛門侍従義康が記されている。 ...続きを見る

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2006/02/08 23:12
武衛義康
 『天正記』では、聚楽第に供奉した公家成り大名の一人に武衛義康がいる。『聚楽第行幸記』や『太閤記』と比較することで、武衛義康が左衛門侍従義康と同一人物であることが確認できる。沙々貴神社本にあるように六角義郷の前官は右兵衛佐であり、武衛と呼ばれるに相応しい。  六角氏では、元亀年間に比叡山再興に尽力した氏郷が左兵衛佐であったほか、義郷の高祖父六角高頼が右兵衛入道と称されていた(続群書類従本『御内書案』)。そのため十一代将軍足利義澄妻である高頼の娘は、武衛娘と呼ばれている。戦国期の公家権中納言鷲尾... ...続きを見る

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2006/02/08 23:10
豊臣義康と津川義近
 天正十八年(一五九〇)の小田原の陣には六角氏も参陣し、近江六角殿が秀吉陣中の茶会に出席している(『天王寺屋会記』宗凡他会記)。このとき六角殿に足利義昭側近の真木島昭光(玄蕃頭)が供奉していることから、この六角殿は足利義昭の備後下向に随行した義堯(六角殿)本人か/足利義昭の養子と伝わる義郷(義康)と考えられる。  この小田原の陣では、義郷(義康)と同じく武衛と呼ばれうる津川義近(三松)が、東国大名との外交に奔走して伊達文書に多くの書状を残している。まず(天文十六年)九月八日付伊達政宗宛津川義近... ...続きを見る

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2006/02/08 23:09
豊臣秀次と左衛門督殿
 金吾殿は名護屋から帰京すると、秀次の与力大名になったと考えられ、『駒井日記』文禄三年(一五九四)二月二十日条に左衛門督殿が見える。このとき左衛門督殿は、豊臣秀吉・秀次の吉野花見で御供衆が帯びる金太刀・金脇差のうち城預り分を、秀次から渡されている。  ところで沙々貴神社本によれば、義郷は文禄元年(一五九二)に秀次の命令によって近江永原山城主に取り立てられ、高麗征伐の陣から帰京したという。左衛門督殿(金吾殿)が実際どこの城主であったかは確認できないが、彼の動向と沙々貴神社本の記事はやはり一致する... ...続きを見る

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2006/02/08 23:07
佐々貴少将宛徳川家康書状
 文禄四年(一五九五)関白豊臣秀次の謀反事件直後の諸大名血判状(木下文書) に、左衛門侍従義康の署名血判がない。同連判状に署名血判している安房侍従義康は、小田原の陣以後に豊臣氏に臣従した安房の大名里見義康のことである。もちろん江州八幡侍従・左京大夫父子も見られない。沙々貴神社本や『江源武鑑』によれば、六角義郷(義康)は秀次に連座して没落したと記されている。この連判状は秀次謀反事件に関わるものであり、秀次に連座して失脚していれば、署名・血判がないのは当然である。ここでも六角義郷(義康)と左衛門侍従... ...続きを見る

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2006/02/08 23:06
江家中将
 その後の義康の行動を知る手がかりが、『鹿苑日録』に記されている。『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)正月二十九日条に登場する「カウケ中将殿」が、義康の後身と考えられる。  この「カウケ中将殿」の「カウケ」は、近江家(あるいは江州家)を意味する江家と考えられる。(元亀元年)六月十九日付近江修理大夫宛織田信長書状写(17)でも、六角氏を指して「江家」という表現がされているように、六角氏が「江家」と呼ばれることがあった。また沙々貴神社本佐々木系図で、義康(同系図では義郷)の官職の一つに近衛中将を挙げ... ...続きを見る

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2006/02/08 23:04
『江源武鑑』刊行
 沙沙貴神社所蔵佐々木氏系図や明暦二年(一六五六)版『江源武鑑』、さらに『六角佐々木氏系図略』によれば義康(伝承では義郷)が没したのは元和九年(一六二三)である。そして『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)である。このとき義康はまだ生存していた。信長の弟織田有楽斎(長益)もこの年に没しており、関係者の多くはまだ生存していた。六角承禎の次男佐々木高盛(高定)が没したのも、まだ前年の元和六年(一六二〇)である。まったくの虚偽が書けるような時期ではない。しかも『江源武鑑』はその後も版を重ねており、当... ...続きを見る

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2006/02/08 23:02
沢田源内と六角氏郷
 谷春散人「沢田源内偽撰書由来」(1)では、沢田源内の偽作と考えられる編纂物(史書)や系図を列挙して、従来の口碑や村記にはこれらの作為を真に受けたものが多いと主張した。また『近江蒲生郡志』も、建部賢明の『大系図評判遮中抄』を信用して、義実−義秀−義郷は沢田源内によって作り上げられた架空の人物とした。  賢明は兄賢之・弟賢弘(一六六四−一七三九)らとともに関孝和の門人であった和算の学者であり、八代将軍徳川吉宗に仕えた人物である。その賢明が著した『大系図評判遮中抄』によれば、偽系図作者沢田源内が自... ...続きを見る

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2006/02/07 23:46
天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』
 『夢窓国師俗譜』は、六角氏郷によって書かれたものであるが、その奥書は相国寺百代住持汝舟妙恕によって書かれているので、ここに紹介しよう。  寛文三年(一六六三)九月晦日に「佐々貴管領氏郷朝臣」がたまたま相国寺を訪れ、愚渓等厚禅師(同寺九九代住持)と対談した。そのとき禅師が、当山の開山である夢窓国師は、公(氏郷)の先祖宇多天皇の九代の後胤であり、国師の父が長谷観音に祈り生まれたことを話した。それに対して、氏郷は次のように答えている。わが家の九代は、ちょうど保元・平治の乱の頃(一一五六−六〇)に当... ...続きを見る

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2006/02/07 23:44
六角氏郷と庭田重条
 佐々木氏と同じく宇多源氏雅信流の公家庭田重条(右中将雅純次男)が、万治三年(一六六〇)に六角氏を称して従五位下大膳権大夫に叙任され(十一歳)、伏見宮家殿上人になっている。ところが、重条の兄で庭田家を継いでいた侍従雅秀は病気がちであった。重条は寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家し、その二年後の寛文七年(一六六七)に兄雅秀が二十歳で没した。庭田家を継いだ重条は、のちに従一位権大納言に至り、武家伝奏も勤めた。  実は庭田家からは葛岡・大原・見雲(三雲)、勧修寺流藤原氏の万里小路家からは高島など佐々... ...続きを見る

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2006/02/07 23:42
『京極氏家臣某覚書抜萃』
 『京極氏家臣某覚書抜萃』には、後継者のいない氏郷の消息が伝えられるとともに、讃岐丸亀藩主京極高豊の子息が氏郷の養子になったことが記されている。  天和年間(一六八一−八四)、京都に佐々木六角氏の末孫である六角中務少輔という人物がいたが、浪人にもかかわらず、白小袖の下着を着用していた。そのため、それを不審に思った京都所司代稲葉正則(丹後守)は二人の与力と申し談じて中務少輔宅に赴き、貴殿にては何の官位昇進があって白小袖の下着を着用しているのかと、対面の上尋ねたところ、中務は少しも驚かず返答した。... ...続きを見る

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2006/02/07 23:41
六角氏再興運動
 沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田郷重という人物が万治三年(一六六〇)に没している。同系図によれば郷重の弟重秀の母は和田氏であり、源内の母が和田氏であったとする『大系図評判遮中抄』の記述と一致する。源内と同一人物と見て間違いあるまい。源内が水戸家に仕官活動したのが承応二年(一六五三)頃であるから、彼はその八年後に没していることになる。元禄六年(一六九三)に七十三歳で没した氏郷とは、明らかに別人である。  また『大系図評判遮中抄』では源内の父と弟が老中阿部豊後守忠秋に仕えたとしているが、実... ...続きを見る

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2006/02/07 23:39
江戸時代における『江源武鑑』の評判
 一般に偽書とされている『江源武鑑』には元和七年(一六二一)版があり、同書がその頃に生れた源内の著作でないことは明らかである。そのことだけでも、『江源武鑑』を源内の著作とする『大系図評判遮中抄』の記述が信用できないことが分かる。完全に事実を誤認している。六角義賢(承禎)の次男高定が没したのは初版刊行の前年/元和六年(一六二〇)年であり、同書初版が刊行された当時六角氏関係者で生存していた者も当然いた。とうてい荒唐無稽なことを書くことのできるような時期ではない。  義実・義秀・義郷の実在を主張する... ...続きを見る

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2006/02/07 23:37
『大系図評判遮中抄』
凡大系図(卅巻)ハ佐々木本家ノ姦賊六角中務氏郷カ古伝ニ偽補スル所也。蓋此者ハ、本近江国ニテ種姓モ知サル凡下ノ土民也。父ハ沢田喜右衛門トテ坂本雄琴村ニ手ツカラ鋤鍬ヲ執テ纔ノ地ニ耕作シテ世ヲ渡シ農夫ナリ。武州忍ノ城主阿部豊後守忠秋ニ正保四年ノ比カトヨ加恩ノ地ヲ江州ニ賜リシ時、喜右衛門其家ノ吏官某カ下司ト成テ名ヲ武兵衛ト改メ租税ノ事ヲ司リシニ、万才覚アレハ後ニ忠秋ヨリ忍ノ県令ト成サル。是ヨリ先本国ニ在シ時、同邑ノ百性和田勘兵衛カ娘ニ成トイヘル女ヲ娶テ子ヲ生ス、其名ヲ喜太郎ト云。下種ノ子タリト云トモ、容... ...続きを見る

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2006/02/07 23:35
『大系図評判遮中抄』批評
 『大系図評判遮中抄』を読むかぎり、沢田源内の華麗な経歴に驚かされる。まず青蓮院門跡尊純法親王に稚児として仕えたという。源内が単なる貧農(文中では「土民」)の子ではないことは明らかだ。さらに二代将軍徳川秀忠の息女で、後水尾院中宮となった東福門院和子の家司天野豊前守長信や、名門公家の師実流藤原氏権大納言飛鳥井雅章に仕えている。どうしたら身分社会である江戸時代に、貧農の子がこのような経歴をもつことができるのだろうか。しかも源内の父は阿部忠秋の重臣になっている。  実は江戸初期にはまだ身分は流動的で... ...続きを見る

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2006/02/07 23:33
佐々木氏の嫡庶争い
 旗本佐々木高重が自らを佐々木氏嫡流とする系図を幕府に提出したことを、実は同じく六角義賢(承禎)の子孫であった佐々木定賢が、『佐々木氏系譜序例』(11)で批判している。同書によれば、義賢には長男義治と次男高定があった。さらに高定には二人の男子があって、長男が高賢で、次男が幕府旗本となった高和である。このうち高賢は伯父義治の娘を娶り、その長男定治が外祖父義治の養子になって大坂城主豊臣秀頼に仕えた。定治は大坂落城後に会津藩主蒲生家に寄食し、蒲生家改易後には加賀金沢藩主前田家に仕えていた。その定治の嫡... ...続きを見る

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2006/02/07 23:31
おわりに
 これまでの歴史研究では、戦国期の近江守護六角義実(参議兼近江守)抜きで合理的で自己完結的な歴史叙述をしてきた。たしかに良質な資料を隈なく見ても、義実という名の人物は見当たらない。実在しないと思いながら良質な資料を読めば、義実は存在しない。しかも、それで辻褄が合っていた。義実に対してよほど思い入れがなければ、彼の実在を信じられなかった。しかし義実は実在したと信じて資料を読み込んでいくと、義実と同じ事跡を持つ人物義久(江州宰相)を発見することができた。しかも偽系図作者と考えられていた沢田源内も、実... ...続きを見る

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2006/02/07 23:28
秋の蝉と『江源武鑑』
昨日の10月14日天気予報が外れて、関東地方は気持ちのいい晴天になった。風邪をひいてしまってブログの更新もできないほど辛い私には、気温の上がったことが何よりもうれしかった。しかも大学で、つくつく法師が鳴いていた。いまごろ地上に出てきてかわいそうだなとも思ったが、晴れて気温が上がれば、まだ蝉も出てくるんだなと、季語どおりの蝉の声に少しうれしかった。  しかも大学に行っている間に、今週の火曜日10月11日神田神保町大屋書店で購入した『江源武鑑』(明暦2年版本)がゆうパックで家に届いた。まさに天晴れ... ...続きを見る

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2005/10/15 13:41
『佐々木六角氏の系譜』出稿
著書『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』を今日出稿しました。来春には刊行できると思います。内容はブログで発表したものに少し修正を加えたものです。  私がブログを始めたのは、私の研究論文を学術誌に掲載するにはあまりに多くの壁があるため、学術誌にこだわらずインターネットで公表しようと以前から考えていたためです。とくにブログという形を選んだのは、連載という形で公表できるので、少しずつまとめていくのにとても便利で、しかも修正を小まめにできることからです。ホームページだとある程度まとめてから公開するので... ...続きを見る

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2005/10/05 21:17
『佐々木六角氏の系譜』執筆ほぼ終わる
昨日9月25日に、『佐々木六角氏の系譜』序論と結語、それに戦国期六角氏の記事内容の見直しが終わりました。あとは掲載写真の選定と掲載系図の作成です。これからもちょっとした修正はあるでしょうが、今週中には筆了になる予定です。いよいよ出版社に出稿します。来春には公刊されるでしょう。  『佐々木六角氏の系譜』の連載を始めた頃は、平安・鎌倉期の原稿をきちんと書くことができるかどうか不安もありましたが、ブログで連載しながら内容を深めることができ、もう平安・鎌倉期を専門外と言う必要がなくなりました。  来... ...続きを見る

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2005/09/26 01:42
『佐々木六角氏の系譜』結語
 佐々木六角氏研究は面白い。とくに系図については、入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されているものの、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくるからだ。では、どうして否定されていたのだろうかという素朴な疑問が生まれる。  理由は多くあるが、実証歴史学であるにもかかわらず認められない理由は、まず先人の言うことを疑うのは難しいということだ。先人の意見を否定するのは気が引けるというだけの問題ではない。研... ...続きを見る

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2005/09/15 00:03
『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」3
 もうひとつ系譜伝承を資料として用いた実践例を挙げておこう。沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、鎌倉期の近江守護六角流佐々木頼綱(佐々木備中守)の娘に参議左大弁俊雅の母という人物がいる。しかし頼綱と同時代の公卿に俊雅という人物はいない。実は俊雅は平安後期の醍醐源氏流の公卿であり、鎌倉期の佐々木頼綱とは年代が一致しない。しかも俊雅の母は、清和源氏頼光流の三河守頼綱の娘である。佐々木氏は宇多源氏流であるため、公的文書では源頼綱と名乗る。そのため系図作成者が二人の源頼綱を混同してしまったのである。通常な... ...続きを見る

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2005/09/14 15:45
『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」2
系譜学の試み  わたしの研究方法は、まず系譜伝承には錯誤・隠喩という形で史実が含まれているという前提から出発する。そのため系図の記述をそのまま使用するのではなく、錯誤・隠喩のもとになる史実を探し出すため、まず系譜伝承をさまざまな要素に分解する。つぎに抽出した要素をもとに作業仮説を立てる。そしてその作業仮説を資料に照らし合わせ、矛盾があれば修正し、無矛盾なものにして仮説(学説)として採用する。後一条・後朱雀朝で乳母子として活躍した左馬頭良経(系図上の宇多源氏義経)の事跡も、この方法を用いて明らか... ...続きを見る

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2005/09/14 15:44
『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」1
 これまで江戸初期の学者沢田源内は、旧近江守護家佐々木六角氏の子孫と名乗るため、戦国期の近江守護六角氏綱に義実−義秀−義郷という架空の人物をつなげ、自らを義郷の子息氏郷を記す系図を創作したと考えられてきた。しかし氏郷と同時代の人々には、氏郷はまさに佐々木六角氏の直系と認められていた。さらに幕府編集の『寛政重修諸家譜』でも、氏綱の弟の系統である定頼−義賢−義治を「佐々木庶流」としている。どうやら学者沢田某は事実にもとづいた佐々木系図を記しただけで、しかも佐々木六角氏直系の氏郷とは別人のようだ。 ... ...続きを見る

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2005/09/13 20:00
『佐々木六角氏の系譜』執筆中
ただいま執筆中の『佐々木六角氏の系譜−系譜学の試み』(仮題)がいよいよ書きあがります。内容はブログで紹介している記事をまとめたものなので、ブログを更新していないように見えて実は記事をこまめに修正していました。注目している記事があれば、内容が更新されているかどうか確認してみてください。大幅に内容が変わっているかもしれません。出版社は思文閣出版を予定しています。 ...続きを見る

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2005/09/08 01:17
常盤恵冠者為俊(再改訂版)
平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条では「四位陪従家定」とある。  『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治2年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(寛... ...続きを見る

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2005/08/16 23:00
佐々木六角氏系譜研究・参考文献
【系譜学】  網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、1984年。  網野善彦『日本中世史料学の課題◆系図・偽文書・文書』弘文堂、1996年。  網野善彦「系譜・伝承資料学の課題」(『古文書研究』50号、5-15頁、1999年)。  太田亮『家系系図の合理的研究法』(立命館出版部、1930年):復刻版『家系系図の入門』(新人物往来社、1967年)。  太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年。  佐伯有清『新撰姓氏録の研究』本文編・研究編、吉川弘文館、1962-3年。  ... ...続きを見る

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2005/08/14 18:01
検非違使為俊と四位陪従家定
『尊卑分脈』『続群書類従』をはじめとする佐々木系図で、平為俊は源季定に改名したとされるが、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ヽヽ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。陪従とは賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀や行幸で、神楽の管弦・舞・歌などに従事する四位・五位の地下である。そのため位階は四位であっても、殿上人の末席六位蔵人に続いて四位陪従として記さ... ...続きを見る

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2005/08/01 22:57
童任官の記事
『長秋記』は村上源氏左大臣俊房の二子権中納言(兼皇后宮権大夫)師時の日記だが、その元永2年(1119)8月14日条で、後三条天皇の孫有仁王へ源氏賜姓のこと、三位に叙位すべきことが記されている。さらに続けて「以某丸可任掃部属者」と、童の任官のことが取り上げられている。『中右記』同日条を見ると清原清友が掃部少属に任じられているので、『長秋記』の「某丸」が清原清友と分かる。これは、任官によって成人名を名乗った例となろう。  ほかにも『中右記』永長元年(1097)8月20日条に「右兵衛尉某丸」、同記康... ...続きを見る

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2005/07/24 03:38
祐子内親王家紀伊と経方
小倉百人一首の72番「音にきく高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ」(名高し高師の浜のあだ波を、袖に掛けたりはしません 掛けてしまって涙で袖を濡らしたくはありませんから)で有名な歌人祐子内親王家紀伊は、母小弁と同じく後朱雀天皇皇女祐子内親王(高倉一宮)家に出仕し、長久2年(1041)の祐子内親王家歌合、康平4年(1061)の祐子内親王家名所合、承暦2年(1078)の内裏後番歌合、嘉保元年(1094)の藤原師実家歌合、康和4年(1102)の堀河院艶書合、永久元年(1113)の少納言定通歌合... ...続きを見る

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2005/07/17 00:23
二人の経方
実はここしばらく、私の頭は平経方のことでいっぱいだった。平経方は本当に宇多源氏経方なのだろうかという不安を持ち続けていた。それが昨日(7月13日)解決した。『水左記』康平8年正月23日条の「今夜被補頭蔵人、頭ハ権中弁経信、蔵人者藤原有信・実□等、雑色経方(範国子)」という記事の解釈が決したのである。  『康平記』康平3年(1060)7月17日条に蔵人所雑色平経方、同月19日条に諸大夫平経方が登場するが、蔵人所雑色は蔵人所の下級職員であり、事務系の公家である名家の者が任じ、そこで蔵人見習いをした... ...続きを見る

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2005/07/14 04:01
式部卿敦実親王(改訂版)
敦実親王(893-967)宇多天皇の第八皇子。一品式部卿。一条宮、八条宮。母贈皇太后藤原胤子(内大臣藤原高藤娘)。醍醐天皇(諱敦仁)の同母弟である。音曲を名手として有名であり、延喜7年(907)11月22日の自らの元服式でも(『日本紀略』)、拝舞したと伝えられている(『西宮記』『扶桑略記』)。このとき三品に叙され、のち一品式部卿に補任された。翌延喜8年(908)には山城守藤原忠房の作曲した『延喜楽』に舞をつけ(『礼源抄』)、宇多上皇が子供の相撲を見物したときも、山城守藤原忠房が作曲した『胡蝶』に... ...続きを見る

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2005/07/13 16:06
左馬頭良経(改訂版)
源良経(1000-1058)中将源成頼の末子。母天皇御乳母(『尊卑分脈』などで後朱雀天皇御乳母)。実名良経。始め冷泉院皇子為尊親王養子(『権記』長保3年10月9日条)、のち権大納言藤原行成の実子となる(『春記』長暦2年12月14日条)。そのため同時代資料では「藤原良経」と見える。  童殿上(『権記』寛弘8年6月11日条、および沙々貴神社佐々木系図に「童形時常有帝王傍□生育」)。少納言(『権記』寛仁元年8月9日条)、尾張権守、左馬頭、殿上人、後一条天皇側近(『左経記』長元5年2月19日条・同9年... ...続きを見る

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2005/07/13 16:03
蔵人経方(改訂版)
平経方(生没年不詳)左馬頭良経の子孫か。兵庫助、従五位下(『尊卑分脈』宇多源氏流)。昇殿、兵庫助、兵部大輔(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。式部大輔(『西讃府志』)。『作者部類』の祐子内親王家紀伊の記事では、経方を散位平経重とする。叙爵後に経重(重経)と改名したのだろう。  経方は、『帥記』康平8年(1065)7月7日条に後冷泉天皇(後一条皇子・後朱雀兄)の蔵人として登場する。記事の内容は、蔵人経方が記主である源経信に消息(手紙)を送ったというものである。記主経信は宇多源氏六条... ...続きを見る

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2005/07/13 16:02
常盤恵冠者為俊(改訂版)
平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条では「四位陪従家定」とある。  『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治2年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(寛... ...続きを見る

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2005/07/13 16:01
佐々貴山公の系譜・序
鎌倉以前の佐々木氏について、古代豪族佐々貴山公と宇多源氏流佐々木氏が同流か別流かという問題がある。ワカタケル大王(雄略)の名が記されているため歴史教科書にも記載されている埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の系譜で、その雄略に杖刀人首(親衛隊長)として仕えた東国豪族ヲワケの上祖とされるオオヒコ(大彦命)は、佐々貴山公の上祖でもある。系譜上ヲワケと佐々貴山公は同祖の関係にある。もちろん実際に血縁的な同族関係にあったとまでは言えないが、鉄剣銘の系譜に登場する人物のうち五代ササキワケ(タサキワケ)が佐々貴山公氏... ...続きを見る

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2005/07/12 02:17
大王ワカタケルと佐々貴山公
佐々貴山公は近江国蒲生郡篠笥(ササキ)郷を本拠とする古代豪族であり、記紀で八代人皇と伝わる孝元天皇(オオヤマトネコ・クニクル)の皇子大彦命の子孫という伝承をもつ。大彦命(オオヒコ)は『記紀』で四道将軍の一人として北陸道を進んだと伝えられている人物で、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の系譜の上祖に「オオヒコ」と記されていたため、実在の人物ではないかという議論が盛り上がり話題となった。すくなくとも古墳時代の豪族たちからは共通の先祖と見なされ、その実在が信じられていたことが分かる。  オオヒコの子孫という... ...続きを見る

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2005/07/12 02:15
奈良時代の佐々貴山公
飛鳥時代のササキ山君の動向は今日伝わっていない。飛鳥時代は近江・越前を勢力基盤にした継体に始まる。その継体の皇女には、佐々宜郎女(古事記)/荳角皇女(日本書紀)とササキを名乗る皇族がいる。また継体の擁立を画策した大連大伴金村を支援した大臣巨勢男人は、本姓雀部(ササキベ)臣ともいわれている。それでも飛鳥時代のササキ山君の動向は不明である。  しかし奈良時代以降、佐々貴山公は近江国蒲生・神崎両郡の大領(郡司の長官)に補任されて近江国中郡で大きな勢力を保持した。とくに天平16年(744)4月13日聖... ...続きを見る

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2005/07/12 02:13
平安前期の佐々貴山公
佐々貴山公は平安時代になっても勢力があった。延暦4年(785)正月地方政治の功績を賞されて、蒲生郡大領外従六位上佐々貴山公由気比が、丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麿、豊後国海部郡大領外正六位上海部公常山らとともに外従五位下に叙された(『続日本紀』)。外位は地方官の者が叙される位階で、京官が叙される位階よりも下位である。外官では五位が最高位であった。このことから、由気比が有力地方豪族の地位を確保していたことが分かる。由気比の名は、宮中を守る武官である衛門府の唐名靭負(ゆげひ)の当て字と考えられ... ...続きを見る

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2005/07/12 02:12
平安中期の佐々貴山公
平将門と藤原純友が起こした承平・天慶の乱(935−941)の頃に、佐々貴山公興恒が近江追捕使に補任されていたことが、天暦10年(956)6月13日付け太政官符(『朝野群載』)によって確認できる。近江は東海道・東山道・北陸道の三道が集合する要害であったため追捕使が設置されたが、それに佐々貴山公興恒が補任されたのである。その後任は大友兼平であった。兼平は、前述の蒲生郡擬大領大友馬飼の子孫だろう。天暦10年(956)の太政官符は彼らの後任人事に関するものであり、興恒の追捕使在任期間は承平・天慶の乱(9... ...続きを見る

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2005/07/12 02:10
院政期の佐々貴氏(『源行真申詞記』)
鳥羽院政期に近江佐々木氏で内部抗争があった。鳥羽院と美福門院得子のあいだに生まれた近衛天皇が即位して間もない永治二年(一一四二)二月に京都で新六郎友員という武者が殺され、検非違使庁は友員の伯父源行真を容疑者として取り調べた。この使庁の尋問に対する行真の陳述書が『源行真申詞書』(『平安遺文』六巻二四六七号)である。  同文書は、当時検非違使別当(検非違使庁長官)であった閑院流藤原氏の内大臣三条公教の子息左大臣実房の日記『愚昧記』の紙背文書として、偶然に伝わったものである。子息実房が、用済みとなっ... ...続きを見る

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2005/07/12 02:07
左馬頭良経研究で用いた系譜研究方法(改訂版)
私の研究方法は、まず系譜伝承には錯誤・隠喩という形で史実が含まれているだろうという前提から出発する。そこで系図の記述をそのまま使用するのではなく、系図を分解して要素を抽出し、それをもとに作業仮説を立てて資料に照らし合わせ、無矛盾であれば仮説(学説)として採用する。後一条・後朱雀朝で乳母子として活躍した左馬頭良経(系図上の宇多源氏義経)の事跡も、この方法を用いて明らかにした。  『尊卑分脈』宇多源氏流では、宇多源氏義経の本名を章経とし、官位は兵部丞・式部丞・兵部大夫であったと伝える。本名と官位に... ...続きを見る

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2005/07/11 01:48
左馬頭良経研究で用いた系譜研究方法
私の研究方法は、まず系譜伝承には錯誤・隠喩という形で史実が含まれているだろうという前提から出発する。そこで系図の記述をそのまま使用するのではなく、系図を分解して要素を抽出し、それをもとに作業仮説を立てて資料に照らし合わせ、無矛盾であれば仮説(学説)として採用する。後一条・後朱雀朝で乳母子として活躍した左馬頭良経(系図上の宇多源氏義経)の事跡も、この方法を用いて明らかにした。  『尊卑分脈』宇多源氏流では、宇多源氏義経の本名を章経とし、官位は兵部丞・式部丞・兵部大夫であったと伝える。本名と官位に... ...続きを見る

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2005/07/04 03:31
良経、世後子ト為ル也
『春記』長暦2年(1038)12月14日条に「良経為世後子也」という記事がある。これは、良経が皇后禎子内親王の御給で正四位下に叙されることが決まったときの記事である。これまで、この記事の意味が分からずにいた。しかし「世尊寺(藤原行成)の後子と為る也」と読むことができることに気づいた。このことで、今まで疑問に思っていたことが一気に解決した。  左馬頭良経は宇多源氏参議経頼の近親者で、後一条天皇近臣であり(『左経記』長元5年(1032)2月19日条)、また弟源成経が東宮(のち後朱雀天皇)殿上人にな... ...続きを見る

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2005/06/29 02:14
後三条着袴と左馬頭良経
『春記』長暦2年(1038)11月25日条に後朱雀天皇の第二親王(のち後三条天皇)着袴の儀の様子が記されている。寅刻に諸卿が皇后宮(三条皇女禎子内親王)に参り、寅三刻には関白藤原頼通の牛車で二宮を奉り参内した。このとき藤原頼通と皇后禎子内親王の関係が良好であったことが分かる。乳母は牛車に同乗し、牛車が朔平門に留められると、皇后宮亮を兼任していた左馬頭良経が二宮を抱え、藤原資房(『春記』記主、小野宮流藤原氏)が御劔を奉じて、麗風殿に向った。帰途もやはり良経が二宮を抱え、資房が御劔を奉じている。 ... ...続きを見る

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2005/06/26 17:41
後一条天皇近臣左馬頭良経
長元5年(1032)2月19日『左経記』の記主参議源経頼が参内したところ、仰せがあり、前日18日左馬頭良経朝臣の従者が、右大将藤原実資の随身を打ったため、今日19日下手人を奉るよう宣旨があり、検非違使が良経邸に派遣されたという。さらに一日上達部が言うには、看監長・放免らが邸内に入り乱行したという。このことについて何か聞いているか尋ねられた源経頼は、検非違使が到来したことは伝え聞いているものの、看監長の乱行は聞いていないと答えた。そのため、確かめるよう仰せがあった。五位以上の家は宣旨で指示がなけれ... ...続きを見る

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2005/06/21 13:47
宇多源氏義経の実名
宇多源氏四位中将源成頼の子義経の実名がわかった。『左経記』長元5年(1032)2月19日条および同9年(1036)4月26日条に「左馬頭良経朝臣」)の記述があり、『扶桑略記』の「良経」が正しいことが分かった。陸奥守以前の官職が左馬頭であることも分かった。軍事貴族に相応しい官歴である。  義経(良経)は、前九年合戦で源頼義が陸奥守を更迭されて再任されるまでのあいだ陸奥守に在職し(『扶桑略記』『百錬抄』)、天喜4年(1056)12月29日兵部大輔に遷任されている(『百錬抄』)。これで源頼義は陸奥守... ...続きを見る

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2005/06/20 12:06
近江守氏信
京極氏信(1220-1295)佐々木信綱の4男。母は北条義時娘。左衛門尉・検非違使・対馬守。文永2年(1265)引付衆に列し、翌3年(1266)11月には朝幕間の交渉役である東使を勤め、12月に評定衆に列した。建治元年(1276)4月、弘安5年(1282)7月にも東使を勤めている。翌弘安6年(1283)10月には父信綱と同様、近江守に補任された。また氏信は鎌倉桐谷に住んだため「桐谷の尉」と呼ばれた。  このように氏信が庶子でありながら、鎌倉幕府要職を歴任できたのは、氏信が北条得宗家に密着して得... ...続きを見る

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2005/06/19 02:56
能登守宗綱
京極宗綱(1248-1297)氏信の4男。母左少将阿野実遠娘。左衛門尉、検非違使、能登守。長兄頼氏は、霜月騒動(1285)で安達泰盛追討の賞として豊後守に補任されて佐々木豊後家を立て、次兄範綱は左衛門尉に任じ伯父大原重綱娘を娶ったものの早世した。三兄満信は左衛門尉・佐渡守を歴任して佐々木佐渡家を立てたが、弘安2年(1279)10月4日34歳で没している。氏信の跡は、四男である宗綱が継承した。母が将軍家女房右衛門督(阿野実遠娘)であったことも関係していよう。阿野家は鎌倉殿伺候の公家であり、実遠の母... ...続きを見る

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2005/06/18 02:16
佐渡判官宗氏(入道賢観)
佐々木宗氏(1269-1329)京極宗綱養子。実父佐々木満信(佐渡守)。本名宗信。三郎。左衛門尉、検非違使、佐渡守。評定衆に列し(続群書類従本佐々木系図)、応長元年(1311)10月26日に出家したが、元応元年(1319)閏7月に東使を勤めている(内閣文庫所蔵大乗院文書『文保三年記』応長元年閏7月28日条に「東使両人(行海・賢親)奏聞条々」とあり、金沢文庫古文書180号に「寺門事、御使能登入道・佐渡判官入道両人治定候了」とある)。元徳元年(1329)7月16日に、享年61歳で没した。  このよ... ...続きを見る

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2005/06/17 00:17
佐渡大夫判官高氏(佐々木導誉)
京極高氏(1296-1373)佐々木宗氏の次男。母京極宗綱娘。京極宗綱養子。四郎。左衛門尉・検非違使・佐渡守。佐渡大夫入道。法名道誉(自署では導誉)。評定衆、引付頭人、政所執事。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。  正中元年(1324)3月高氏は後醍醐天皇の石清水行幸で、検非違使として橋渡しの行事を勤め(増鏡)、従五位下に叙爵されて大夫判官。嘉暦元年(1326)得宗北条高時が出家すると、実兄貞氏(近江前司・善観)とともに出家、導誉と名乗った。元弘の変でも当初は幕府方として行動、加地時秀(... ...続きを見る

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2005/06/16 19:08
近江守秀綱
生年不詳〜1353年没。高氏の長男。源三左衛門尉、佐渡大夫判官、近江守。侍所頭人。上総守護。母は不詳。『尊卑分脈』で次弟秀宗の母を二階堂時綱女と記しているが、秀綱の母は記されていない。秀宗の外祖父二階堂時綱(三河守)は政所執事・評定衆・引付頭人を歴任した官僚系の有力御家人であり、鎌倉幕府でも室町幕府でも登用され続けた。しかも秀宗は京極氏の仮名四郎を名乗り、資料でも佐々木佐渡四郎左衛門尉と記されている。代々の嫡子の仮名は家ごとに決まっており、京極家の嫡子の仮名四郎を名乗る秀宗は嫡子だろう。導誉が時... ...続きを見る

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2005/06/15 23:48
大膳大夫高秀
京極高秀(1328〜1391)高氏の三男。佐渡五郎左衛門尉、従五位下、治部少輔、大膳大夫。高秀が大膳大夫に補任されたことは、京極氏が公卿につぐ諸大夫に列したことを意味する。家格の上昇である。高秀は幕府内でも細川頼之派として、引付頭人、評定奉行、侍所頭人など幕府要職を歴任した(『花営三代記』)。幕府主流派である。また父道誉以来の出雲・飛騨守護、摂津能勢郡と河辺郡北部の分郡守護、清和源氏の氏寺多田院の管理権を世襲した。本領近江北郡については、軍事指揮権を手放さなかったため、使節遵行権は六角氏で、軍事... ...続きを見る

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2005/06/14 23:44
治部少輔高詮
京極高詮(1352〜1401)高秀の長男。本名高経。四郎兵衛尉、左衛門尉、検非違使、治部少輔。引付頭人、評定奉行、侍所頭人、山城守護。法名浄高。はじめ六角氏頼猶子となり、幼い満高(亀寿)の後見として近江守護に補任された。  応安3年(1370)8月8日幕府は目賀田信職(五郎兵衛入道玄仙)の訴えにより、福能部式部大夫相続人が近江福能部荘切田地頭職に濫妨することを停止し、下地を目賀田信職に交付することを、高経(佐々木四郎兵衛尉)に命じている(古證文二)。使節遵行は守護の重要な仕事の一つであり、これ... ...続きを見る

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2005/06/13 13:25
治部大輔高光
京極高光(1375-1413)高詮長男。大膳大夫、治部大輔。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡の分郡守護(軍事指揮権)。侍所頭人。法名高通(道通)。応永10年(1413)には侍所頭人に在職していた。さらに応永16年(1409)から18年(1411)までの間、侍所頭人に再任されていた。  応永15年(1408)足利義満が没すると、幕府は南朝側の皇位継承権者成仁(後村上天皇の孫)を出家させるなど、南北朝合一の条件「両統迭立」を破る動きを見せている。そのような中、応永18年(1411)飛騨国司姉小路尹綱... ...続きを見る

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2005/06/12 15:08
治部少輔持高
京極持高(1411-1439)高光の長男。幼名吉童子。本名持光。三郎、治部少輔。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡分郡守護(軍事指揮権)。侍所頭人、山城守護。御相伴衆。応永28年(1421)から応永30年(1423)頃まで叔父高数が侍所頭人を預かり、応永31年(1424)から正長元年(1428)まで持高が侍所頭人であった。  永享5年(1433)足利義教呪詛事件を契機に起きた山門騒動では、六角満綱とともに山門領押使として、近江国内の延暦寺領を没収している。このとき、近江南7郡(神崎・蒲生・甲賀・野... ...続きを見る

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2005/06/11 01:01
加賀守高数
京極高数(?-1441)高詮次男。左衛門尉・加賀守。侍所頭人・山城守護。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡の分郡守護(軍事指揮権)。御相伴衆。法名道統(有統)。応永18年(1411)兄高光の陣代として飛騨国司姉小路尹綱を追討した。応永20年(1413)兄高光が没すると、まだ幼かった甥京極持高(持光)を後見して、応永28年(1421)から応永30年(1423)まで侍所頭人・山城守護を勤めた。また持高とともに御相伴衆にも列した。永享11年(1439)持高が没すると、持高に弟持清(中務少輔)がいたにもかか... ...続きを見る

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2005/06/10 02:45
大膳大夫持清(入道生観)
京極持清(1417-1470)高光の次男。母は正親町三条公豊娘。六郎。中務少輔、大膳大夫。侍所頭人、山城守護。飛騨・出雲・隠岐守護。近江北郡分郡守護(軍事指揮権)。近江守護。嘉吉元年(1441)侍所頭人となり、就任してすぐに起きた嘉吉の土一揆で適切な対応をして鎮圧に成功するとともに、徳政令を発布した。文安3年(1445)六角満綱・持綱父子が、被官に擁立された六角時綱(満綱次男)に自殺に追い込まれるという文安の乱が起きたが、管領畠山持国は静観した。しかし同年に持清の甥細川勝元(妹婿細川持之の子)が... ...続きを見る

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2005/06/09 12:36
中務少輔勝秀
京極勝秀(1433-1468)持清の長男。三郎。中務少輔、従五位下。寛正3年(1462)、翌寛正4年(1463)幕府の命で、妹婿畠山政長らとともに河内畠山義就征討の討手として活躍した。寛正5年(1464)、翌寛正6年(1465)足利義政の勝秀邸への御成があった。京極氏家督として、足利義政から期待されていたことが分かる。応仁・文明の乱では東幕府に属した。応仁元年(1467)近江に下国して西軍の六角高頼と激戦を繰り広げたが、一進一退の状況が続き、翌応仁2年(1468)6月17日近江甲賀郡で六角氏との... ...続きを見る

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2005/06/08 16:18
治部少輔政光
京極政光(1449-1472)持清の次男。四郎、治部少輔。はじめ幕府評定衆を勤めた黒田備前家(佐々木京極流)の黒田清高(備前守)の養子。黒田氏は、京極氏信の三男佐渡守佐々木満信の子孫で、満信の長男が佐渡判官宗氏(導誉の実父)であり、次男が黒田氏の祖四郎左衛門尉宗満である。黒田氏の嫡流は備前守を世襲官途とし、京極氏から自立して幕府奉公衆(将軍直臣)になり、幕府評定衆を勤める名門であった。ところが文明3年(1471)京極氏家督であった兄勝秀の嫡子孫童子丸が没したことから、政光は京極氏に帰家した。 ... ...続きを見る

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2005/06/07 13:58
大膳大夫政経
京極政経(1453-1508)持清三男。本名政高。六郎。従五位下大膳大夫。飛騨・出雲・隠岐守護。近江守護。長兄勝秀が没するとその嫡子・孫童子丸が京極氏家督になり、文明2年(1470)には近江守護に補任され、政経が後見となった。しかし文明3年(1471)孫童子丸が没すると、幕府は政経を京極氏家督にした。これに対して次兄黒田政光は異議を唱えて京極氏に復籍し、父持清に愛されていた末弟高清(乙童子丸、秀綱)とともに西軍に参加した。さらに豊後家と出雲家が対立していた重臣多賀氏でも、多賀高忠(豊後守)に反発... ...続きを見る

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2005/06/06 10:50
中務少輔高清
京極高清(1460-1538)持清末子。あるいは勝秀の子。幼名乙童子丸。六郎。始め秀綱。中務少輔。父持清の没後、京極氏の家督をめぐり兄政経と抗争。文明2年(1470)以降、六角高頼の支援を得た高清が近江北郡を支配し、文明13年(1481)政経と講和した。近江南郡は六角高頼、近江北郡は高清が抑えて、政経は分国出雲に没落した。  しかし幕府は、隣国近江が反幕府的な旧西軍勢力に支配されていることを喜ばず、文明17年(1485)政経の子経秀(治部少輔)を侍所頭人に補任し、さらに多賀高忠を所司代に再任し... ...続きを見る

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2005/06/05 12:54
治部少輔材宗
京極材宗(?-1507)政経の長男。吉童子丸。本名経秀。沙々貴神社所蔵佐々木系図・京極家譜では「高秀」。治部少輔。侍所頭人。文明5年(1473)幕府は父政経を近江守護にしたが、政経は北近江を維持できず、文明13年(1481)高清と講和し、分国出雲に没落した。しかし幕府は、近江が旧西軍勢力に支配されていることを嫌い、文明17年(1485)材宗(経秀、治部少輔)を侍所頭人に補任し、多賀高忠を再び所司代にして、政経・経秀父子による近江奪還を期待した。さらに六角氏征伐(長享・延徳の乱)で、父政経が近江守... ...続きを見る

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2005/06/04 12:31
六郎高広
京極高広(生没年未詳)高清の長男。母は美濃斎藤利国の娘。六郎。本名高延、高明。父高清が次男高慶を愛したため、高広は弟高慶(五郎・中務少輔・長門守)と京極氏の家督をめぐり対立し、大永3年(1523)宿老上坂信光が高清・高慶父子を擁すると、上坂信光の専横を嫌っていた浅井・三田村・今井・堀ら国人衆は高広を擁立した。この家督争いを契機に国人衆の上坂信光に対する不満が爆発し、国人衆は浅見貞則を盟主に立て国人一揆を起こし、支えきれなかった高清・高慶父子は尾張に没落している。  しかし、こんどは高広を自城尾... ...続きを見る

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2005/06/03 00:00
長門守高慶
京極高慶(1504-1581)高清の次男。実父京極材宗(経秀、『京極家譜』では高秀)、実母六角高頼娘。吉童子丸。高佳、高吉と名乗る。中務少輔、長門守。永正5年(1508)祖父政経から飛騨・出雲・隠岐守護を相続した。高清に養われて、始め大原五郎と名乗りました。しかし養父高清から愛されて、大永3年(1523)養父高清・上坂信光に推されて、高清の実子高広(高延・高明)と争った、上坂氏に不満を持つ浅井・三田村・今井・堀など国人衆は浅見貞則を盟主にして高広を擁立し、高清・高慶・上坂信光を婿尾張織田寛広のも... ...続きを見る

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2005/06/02 18:07
大膳大夫晴広
京極晴広(生没年未詳)高広の子。大膳大夫。近江・出雲・隠岐守護。天正元年(1573)に京都を追われた足利義昭に従っていたのだろう。天正9年(1581)朝鮮王から勘合の銅印を給付され、天正12年(1584)謝礼のため京極使が足利義昭の書を持して朝鮮に渡り、朝鮮国王李昭に奉じて、答書を得た(『続善隣国宝記』『古文書纂』)。このとき答書の宛所は「日本国京城住京極江岐雲三州太守佐佐木氏大膳大夫源公足下」となっている。近江・隠岐・出雲守護を称していたことが分かる。  京極晴広の存在は、現在の諸系図では伝... ...続きを見る

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2005/06/01 11:07
若狭宰相高次
京極高次(1563-1609)高慶の長男。母浅井久政娘。小法師。侍従、近衛少将、若狭守。京極八幡侍従。大津宰相。若狭宰相。永禄11年(1568)織田信長上洛により父高慶引退したため、高次が京極氏家督を嗣ぎ、以後江州衆の一員として行動した。元亀4年(1573)7月には江州衆のひとりとして足利義昭が籠城する真木島城攻めに参加し(『信長公記』)、近江奥島5千石を給付されている(『京極家譜』)。天正9年(1581)9月伊賀攻めでは、丹羽長秀とともに名張郡を平定した(『信長公記』)。天正9年(1581)・... ...続きを見る

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2005/05/31 13:27
修理大夫高知
京極高知(1572-1622)高慶次男。母浅井久政娘。幼名長寿。修理亮、修理大夫、丹後守、侍従。始め織田信澄娘婿。次いで毛利秀頼娘婿。始めの舅織田信澄は、信長の弟勘十郎信勝(系図では信行)の子息であったが、信長の厚遇を得て一族衆に列していた。ついで浅井長政の旧臣磯野員昌の養子になり、天正6年(1578)員昌が六角義堯に応じて出奔すると、その跡を継承して近江高島郡の領主になった。しかし明智光秀の娘婿であったため、天正10年(1582)明智光秀の乱では去就を疑われて殺害された。明智光秀の乱で、兄京極... ...続きを見る

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2005/05/30 13:42
宇多源氏の系譜
源氏といえば、武士の棟梁である清和源氏が有名だが、実は公卿源氏が源氏の本来の姿であった。武士の棟梁よりも、『源氏物語』の主人公光源氏が源氏らしい源氏であった。嵯峨源氏の源信(左大臣)・源融(左大臣)・源順(『倭名類聚抄』作者)、宇多源氏の源雅信(左大臣)・源重信(左大臣)・源倫子(藤原道長妻)・源経信(大納言)、醍醐源氏の源高明(左大臣)・源俊賢(大納言)・源隆国(大納言)、村上源氏の源師房(左大臣)・俊房(左大臣)・顕房(右大臣)などである。  源氏は天皇と「源を同じくする」という意味であり... ...続きを見る

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2005/05/29 23:10
式部卿敦実親王
敦実親王(八九三−九六七)宇多天皇の第八皇子。一品式部卿。一条宮、八条宮。母贈皇太后藤原胤子(内大臣藤原高藤娘)。醍醐天皇(諱敦仁)の同母弟である。音曲を名手として有名であり、延喜七年(九〇七)十一月二十二日の自らの元服式でも(『日本紀略』)、拝舞したと伝えられている(『西宮記』『扶桑略記』)。このとき三品に叙され、のち一品式部卿に補任された。翌延喜八年(九〇八)には山城守藤原忠房の作曲した『延喜楽』に舞をつけ(『礼源抄』)、宇多上皇が子供の相撲を見物したときも、山城守藤原忠房が作曲した『胡蝶』... ...続きを見る

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2005/05/28 14:56
左大臣源雅信
源雅信(九二〇−九九三)敦実親王の三男。母藤原時平娘。一条左大臣・鷹司左大臣。朝廷の重鎮として、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条らの皇太子時代に、その東宮傅(皇太子傅)となった。また安和の変(九六九年)で醍醐の皇子左大臣源高明が失脚した後も、雅信は源氏として執政の地位を維持し続けた。貞元二年(九七七)四月二十四日には右大臣に補任され、さらに貞元三年(九七八)十月二日に左大臣に補任されて、一条左大臣/あるいは鷹司左大臣と称された。公卿源氏の中でも、皇子ではなく皇孫で大臣に補任されたのは、実は雅信... ...続きを見る

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2005/05/28 00:06
源宰相扶義
源扶義(九五一−九九八)源雅信の四子。母藤原氏南家流大納言元方娘。文章生、蔵人兼図書助、式部少丞、叙爵、遠江権守、安芸権守、河内守、従五位上、正五位下、蔵人兼右少弁、左少弁、従四位下、左中弁、中宮権亮、播磨権守、蔵人頭(頭中弁)、従四位上、内蔵頭、正四位下、中宮権大夫、参議兼右大弁、美作兼守、左大弁、大蔵卿に至り(『公卿補任』)、一条天皇の九卿のひとりになった(『続本朝往生伝』)。九卿とは、右大臣藤原実資(小野宮流)・大納言藤原斉信・大納言藤原公任・大納言源俊賢・権大納言藤原行成・参議源扶義・中... ...続きを見る

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2005/05/27 01:05
四位中将源成頼
源成頼(九七六−一〇〇三)参議源扶義の長男。兵庫助、式部丞(『尊卑分脈』)。兵部大輔、式部大輔、鎮守府将軍(沙々貴神社所蔵佐々木系図)、近衛中将(『権記』)。  一般には『尊卑分脈』の記述により扶義子息の兄弟順は経頼・成頼の順とされ、兄経頼の近江守受領にともない、弟成頼が近江佐々木庄に下向したと考えられている。しかし当時の資料『権記』によれば、長保三年(一〇〇一)八月四日当時成頼は四位中将であり(『権記』)、このとき経頼は従五位下であった。さらに『公卿補任』でも、経頼を扶義の次男とする。資料に... ...続きを見る

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2005/05/26 23:01
左馬頭良経
藤原良経(一〇〇〇−一〇五八)中将源成頼の末子。母後朱雀天皇御乳母(『尊卑分脈』などでは朱雀天皇御乳母)。実名良経。始め冷泉院皇子為尊親王養子(『権記』長保三年十月九日条)、のち権大納言藤原行成の実子となる(『春記』長暦二年十二月十四日条)。そのため同時代資料では「藤原良経」と見える。  童殿上(『権記』寛弘八年六月十一日条、および沙々貴神社佐々木系図に「童形時常有帝王傍□生育」)、少納言(『権記』寛仁元年八月九日条)、尾張権守、左馬頭、殿上人、後一条天皇側近(『左経記』長元五年二月十九日条・... ...続きを見る

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2005/05/25 21:15
蔵人経方
平経方(生没年未詳)左馬頭良経の子孫か。兵庫助、従五位下(『尊卑分脈』宇多源氏流)。昇殿、兵庫助、兵部大輔(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。式部大輔(『西讃府志』)。『作者部類』の祐子内親王家紀伊の記事では、経方を散位平経重とする。叙爵後に経重(重経)と改名したのだろう。  経方は、『帥記』康平八年(一〇六五)七月七日条に後冷泉天皇(後一条皇子・後朱雀兄)の蔵人として登場する。記事の内容は、蔵人経方が記主である源経信に消息(手紙)を送ったというものである。記主経信は宇多源氏六条... ...続きを見る

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2005/05/24 23:42
常盤恵冠者為俊
平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条では「四位陪従家定」とある。  『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治二年(一〇八八)の『白河上皇高野御幸記』(寛... ...続きを見る

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2005/05/20 00:20
『源行真申詞記』
鳥羽院政期に近江佐々木氏で内部抗争があった。鳥羽院と美福門院得子のあいだに生まれた近衛天皇が即位して間もない永治二年(一一四二)二月に京都で新六郎友員という武者が殺され、検非違使庁は友員の伯父源行真を容疑者として取り調べた。この使庁の尋問に対する行真の陳述書が『源行真申詞書』(『平安遺文』六巻二四六七号)である。  同文書は、当時検非違使別当(検非違使庁長官)であった閑院流藤原氏の内大臣三条公教の子息左大臣実房の日記『愚昧記』の紙背文書として、偶然に伝わったものである。子息実房が、用済みとなっ... ...続きを見る

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2005/05/19 15:07
佐々木源三秀義
源秀義(生年未詳−一一八四)本名源資長。実父源有賢。始め左大臣藤原頼長の家礼、のち近衛天皇蔵人(『台記』)、叙爵、鳥羽院殿上人、宮内卿大夫(『兵範記』)、上総介(『尊卑分脈』宇多源氏時中流資長の項)。源為義の猶子(『尊卑分脈』『続群書類従』)、為義の娘婿(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。佐々木三郎(『尊卑分脈』)、佐々木源三秀義(『吾妻鏡』)。  平治の乱後、秀義は近江佐々木庄領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼ろうと東下したが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた相模渋谷庄司重国に引き留められて... ...続きを見る

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2005/05/18 23:59
蔵人の尉定綱
佐々木定綱(生年未詳−一二〇五)秀義の長男。母源為義娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。佐々木太郎、佐々木左衛門尉、佐々木判官(『吾妻鏡』)。  父秀義に従い東下して、はじめ下野宇都宮朝綱の許に寄寓するが、のち父秀義の指示で弟盛綱とともに伊豆配流中の源頼朝に近侍した。治承四年(一一八〇)八月の源頼朝の挙兵では、弟経高・高綱とともに伊豆目代山木兼隆の後見堤信遠を討った。弟盛綱は始め加藤景廉とともに頼朝の側近に仕えていたが、頼朝の命で追討軍に加わり加藤景廉とともに兼隆の首を獲った。... ...続きを見る

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2005/05/17 16:23
山城守広綱
佐々木広綱(生年未詳−一二二一)定綱の長男。小太郎。左兵衛尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、山城守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。広綱の諱字から、母は宇都宮朝綱の娘(定綱の本妻)で、大江広元が烏帽子親あるいは舅であったと推定できる。源平合戦で活躍した叔父経高・盛綱より早く任官し、建久二年(一一九一)当時すでに左兵衛尉に補任されていた。  建久二年(一一九一)比叡山の抗争では隠岐に流されたが、後白河院の仏事による恩赦で建久四年(一一九三)に帰京し、左衛門尉に昇進し、父定綱についで近江・隠岐... ...続きを見る

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2005/05/16 14:21
近江守信綱
佐々木信綱(一一八一−一二四二)定綱の四男。母は新田義重娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。本妻は川崎為重娘(『尊卑分脈』)。正妻は北条義時の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。左近衛将監、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、従五位上(『吾妻鏡』『尊卑分脈』)。沙々貴神社所蔵佐々木系図では左衛門佐とするが、検非違使叙留を左衛門佐任官と誤り伝えたものであろう。  正治二年(一二〇〇)十月後鳥羽院が近江柏原庄地頭弥三郎為永の討伐を宣下したものの、柏原為永... ...続きを見る

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2005/05/14 01:29
壱岐大夫判官泰綱
佐々木泰綱(一二一三−一二七六)佐々木信綱の三男。母北条義時娘。三郎、佐々木判官三郎、近江三郎兵衛尉、近江三郎左衛門尉、検非違使、叙留、近江大夫判官、従五位上、壱岐守、壱岐大夫判官(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。  父信綱が近江守護在職中にすでに左兵衛尉、左衛門尉を歴任し、嘉禎二年(一二三六)九月五日父信綱が評定衆を辞職して遁世すると、その年十一月二十二日には検非違使に補任された(二十三歳)。さらに叙爵(従五位下に叙位)されても検非違使にとどまることは叙留といい大変名誉なこととされたが、泰綱は... ...続きを見る

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2005/05/12 23:04
備中守頼綱
佐々木頼綱(一二四二−一三一〇)泰綱の次男。母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。  建長二年(一二五〇)十二月三日北条時頼邸で元服して「三郎頼綱」と名乗った。このとき九歳であった(『吾妻鏡』)。翌建長三年(一二五一)十一月十三日将軍藤原頼嗣に供奉している(『吾妻鏡』)。正嘉元年(一二... ...続きを見る

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2005/05/11 15:04
備中判官時信
佐々木時信(一三〇六−一三四六)頼綱の末子。母は後伏見院女房(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。三郎、左兵衛尉、右衛門尉、左衛門尉、検非違使、叙留、大夫判官、従五位上、備中守、近江入道(『園太暦』貞和二年十二月二十四日条)、芝田原殿(『比牟礼八幡宮領条々』)。正和三年(一三一四)十二月十四日に九歳で元服し、幼少のまま近江守護を勤めた。そのため、広定(信綱弟)流佐々木氏の青地冬綱(常楽院文書:正和二年九月十六日付檜物庄預所宛守護書下案)・馬淵範綱(東大寺文書:元享四年五月二日付馬淵範... ...続きを見る

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2005/05/08 19:32
大夫判官氏頼(入道崇永)
六角氏頼(一三二六−一三七〇)佐々木時信の長男。母は長井時千娘。孫三郎(山中文書)、近江三郎(小佐治文書)、左衛門尉、検非違使、大夫判官、近江守、大夫判官入道。建武二年(一三三五)父時信の辞職にともない近江守護を継ぐものの幼少のため、一族馬淵義綱が守護代になった。暦応元年(一三三八)足利尊氏の加冠で元服した。このとき尊氏の猶子になったのだろう、康永二年(一三四三)に十八歳で検非違使補任に補任された。これは異例の早さである。しかも康永四年(一三四五)二十歳で叙爵されて従五位下大夫判官となった。さら... ...続きを見る

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2005/05/07 01:32
右兵衛佐義信
六角義信(一三四九−一三六五)氏頼の長男。母は佐々木道誉娘(『祇園執行日記』貞和六年三月五日条で氏頼を「大法師婿」とする)。幼名千手(千寿)。観応の擾乱で足利尊氏・直義両派の誘いに窮して出家した父氏頼の譲りを受けて、観応二年(一三五一)六月二十五日六角氏の家督を継承した。ただし幼少のため、叔父山内信詮(定詮)が近江守護を預かった(『太平記』二十九巻八重山蒲生野合戦事)。山内信詮(五郎左衛門尉・備中大夫判官)が守護正員ではなく守護を預かる立場であったことは、『園太暦』で信詮(五郎左衛門尉)を「江州... ...続きを見る

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2005/05/06 00:37
左京大夫満高
六角満高(一三六五−一四一六)氏頼の子。母藤原氏。実は足利義満の同母弟(『足利治乱記』、沙々貴神社本佐々木系図、六角佐々木氏系図略、徳源院本佐々木系図)。幼名亀寿。本名満綱(『迎陽記』)。大夫判官。備中守。備中入道。左京大夫(『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条、沙々貴神社本佐々木系図)。右京大夫(『足利治乱記』、徳源院本佐々木系図)。正妻は足利基氏娘(『足利治乱記』)。法号は大慈院宝山崇寿。  貞治四年(一三六五)四月将軍義詮の妾紀良子が、京都六角邸で男子を出産した。「男子卒」と噂され... ...続きを見る

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2005/05/05 01:14
大膳大夫満綱
六角満綱(一四〇一−一四四五)満高の長男。母は足利基氏の娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。四郎右兵衛尉、大膳大夫、従四位下、近江守護。正妻は足利義満娘(『系図纂要』足利系図)。法号は龍雲寺殿貞山宗岱。  応永十八年(一四一一)将軍足利義持による飛騨国司姉小路尹綱追討の命を拒否したため、満高・満綱父子は近江守護を解任されたが、まもなく父満高は近江守護に復職した。応永二十二年(一四一五)伊勢北畠満雅追討では満綱が出陣している(『勢州軍記』『満済准后日記』応永二十二年四月十日条)。... ...続きを見る

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2005/05/02 11:49
兵部大輔持綱
六角持綱(生年未詳−一四四五)満綱の長男。四郎右兵衛尉、兵部大輔、従四位上、近江守護。法号は西蓮寺殿瑞岳宗勝。常善寺過去帳では、法号西蓮寺前兵部宗勝。  父満綱が在京したため、早くから近江守護の政務を任され、『花営三代記』応永二十八年(一四二一)二月十八日条と翌二十九年(一四二二)九月十八日条に、将軍義持の伊勢神宮御参宮で、持綱が草津での御昼休を沙汰したことが記されている。また同記応永三十一年(一四二四)十二月二十七日条の貢馬の記事で、貢馬注文の写しに「六、佐々木左京大夫入道跡、今は六角四郎兵... ...続きを見る

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2005/05/01 23:51
近江守久頼
六角久頼(生年未詳−一四五六)満綱の末子。母は足利直冬娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。始め相国寺僧周恩。四郎、近江守、従四位上、近江守護。法号は詳光寺殿融山周恩。  文安元年(一四四四)七月六角氏被官が、近江守護六角持綱(四郎、兵部大輔)の無道を訴え、持綱の弟時綱(五郎、民部少輔)を奉じて一揆を起こした(『康富記』文安元年七月一日条)。そして文安二年(一四四五)正月満綱・持綱父子は自殺した(『東寺執行日記』『師郷記』)。文安の乱である。管領細川勝元は時綱の近江守護補任を認め... ...続きを見る

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2005/04/28 20:35
大膳大夫政勝
六角政勝(生没年未詳)久頼の長男。『甲賀二十一家之由来』では「政頼」。六角亀寿、四郎、治部少輔、大膳大夫、近江守護。  康正二年(一四五六)父久頼が憤死すると、遺児亀寿が近江守護職を継承した。しかし亀寿が幼少だったため、文安の乱で被官に支持されながらも敗死した六角時綱(五郎、民部少輔)の遺児政堯(四郎)が後見になった。ところが長禄二年(一四五八)五月十四日亀寿は突然近江守護を解任され、後見の政堯が近江守護に補任された(『尋尊大僧上記』長禄二年六月八日条)。幕府が六角氏の内政に干渉したのである。... ...続きを見る

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2005/04/27 23:46
大膳大夫高頼
六角高頼(一四六二−一五二〇)政勝の長男。幼名亀寿、本名行高、四郎、大膳大夫、右兵衛入道(『御内書案』)、近江守護。法号は龍光寺殿嘉山宗椿。  応仁・文明の乱で東幕府は六角政堯を近江守護に補任し、西軍の高頼に対抗させたが、政堯は戦没した。替わって東軍の重鎮京極持清が近江守護に補任された。しかし持清・勝秀父子が相次いで没すると、持清の三男政経が東軍に、末子高清が西軍に分かれて京極氏は弱体化した。そのため高頼は領国支配を着実に進めることができ、京都の隣国近江は西軍一色になった。  また西軍と古河... ...続きを見る

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2005/04/26 23:38
近江守氏綱
六角氏綱(一四九二−一五一八)高頼の長男。母足利成氏娘(実は近衛政家娘か)。亀寿、四郎、近江守、従四位上。法号は雲光寺殿日山宗佐。  永正元年(一五〇四)上洛し、近衛政家から太刀を贈られた。さらに飛鳥井雅俊の仲介で近衛政家・尚通父子に対面し、太刀を進上している。このとき政家は、氏綱の成長ぶりを記しています(後法興院記)。この記事から氏綱が近衛家の縁者だったと推定できる。さらに『重編応仁記』などで先天的に身体に障害があったとする記述が誤りだと分かる。著名な学者が書いたからといって正しいわけではな... ...続きを見る

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2005/04/25 13:13
江州宰相義久(義実)
六角義久(一五一〇−一五五七)氏綱の長男。母堀越公方足利政知娘(足利義澄妹)。六角四郎。大膳大夫、近江守、参議、権中納言。諸系図では「義実」。『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に「江州宰相」が登場し、天文八年(一五三九)五月十九日条と二十日条に宰相上洛と下向の記事がある。この記事がある『鹿苑日録』十六巻表紙の頭書では、この宰相のことを「相公」と記している。「宰相」も「相公」も参議の唐名だが、『鹿苑日録』では「相公」は将軍を意味する。同書の用語法に従えば、「江州宰相」は将軍もしくは将軍連... ...続きを見る

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2005/04/24 17:22
宰相義秀(徳川公)
六角義秀(一五三二−一五六九)義久の長男。母は後奈良院典侍。幼名亀寿、本名公能。足利義晴養子。修理大夫、参議。『お湯殿の上の日記』に六角氏の幼名亀寿が頻出する。それは、天文十四年(一五四五)十二月五日典侍が亀寿元服の御礼に音物を進上しているように、亀寿の母が後奈良院典侍だからだ。  『お湯殿の上の日記』は、天皇常住の常御殿のお湯殿の間で、天皇近侍の女官典侍が記した当番日記である。その内容は天皇の動静が主で、恒例・臨時の行事、任官・叙位・下賜・進献、および将軍以下の参内の様子も記している。また女... ...続きを見る

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2005/04/23 00:11
左兵衛佐義郷
六角義郷(生年未詳−一五八二)義秀の子、あるいは弟。左兵衛佐。沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木系図略などの諸系図や、『江源武鑑』『佐々木軍記』など編纂物では、義秀の子息とする。しかし朽木文書で「中左兵衛佐氏郷」と署名していることから、『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月十二日条で、亀寿(義秀)とともに音物を進上した「中」と同一人物と推定できる。そうであれば義秀の弟だろう。  永禄十一年(一五六八)九月義秀は足利義昭を観音寺城に迎え、二十二日織田信長とともに上洛軍を起こして(『お湯... ...続きを見る

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2005/04/22 00:01
大本所義堯
六角義堯(一五五一−一五八二)義秀の子。足利義輝実子(続群書類従本伊勢系図)。亀千代(『お湯殿の上の日記』『親俊日記』)。本名実頼(『山中文書』)。系図では実名義頼、官職は右京大夫(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)、あるいは左京大夫(続群書類従本伊勢系図)。和田山城主(『江源武鑑』)。六角承禎(義賢)からは「大本所」(『坂内文書』)と呼ばれた。  沙々貴神社所蔵佐々木系図では、義堯に相当する義頼について、始め若狭武田義統の養子となり、のち帰家したと伝える。しかし若狭武田氏の養子に... ...続きを見る

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2005/04/21 00:18
左衛門督侍従豊臣義康
六角義康(生年未詳−一六二三)義堯の子息。母は織田信長養女(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。六角氏と岩倉・犬山織田氏が行動をともにし(『織田信長文書の研究』:『武家事記』二十九所収松井友閑宛織田信長黒印状写)、六角佐々木氏系図略で義康母を「信康女」とすることから、義康母は犬山之伊勢守息女(『織田信長文書の研究』:『南陽堂楠林氏文書』所収天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状)と推定できる。官位は、右兵衛佐・左衛門督・侍従・左近衛中将・近江守と累進した。近江八幡山城主。系図... ...続きを見る

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2005/04/19 23:52
左馬頭義政
仁木義政(生年未詳−一五七三)六角氏綱の次男。五郎次郎。佐々木左馬頭。実名は義信であろうか(『安養寺文書』)。系譜伝承では「河端義昌」「八幡山義昌」とする。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されると、弟義昭(覚慶)は近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏を頼った。永禄十年(一五六七)には足利義昭の朝倉義景邸御成があり、このとき六角氏被官山内六郎左衛門尉と九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、亭主朝倉義景と義政(仁木殿)が義昭を大門の外で出迎えている(『朝倉義景亭御成記』)。このとき義政は迎えられる側では... ...続きを見る

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2005/04/18 01:34
朝倉義景
朝倉義景(一五三三−一五七三)六角氏綱の孫。義久あるいは義政(仁木殿)の子。 朝倉孝景の養嗣子。幼名長夜叉丸。本名延景。従四位下、左衛門督。越前国主。  『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」では、義景が六角氏綱の子息だという異説が記されている。しかし、これまでは氏綱の没年が永正十五年(一五一八)で、義景の生年が天文二年(一五三三)であることから、年代が一致しないと否定されてきた。しかし義景誕生の前年・天文元年(一五三二)十二月に、六角氏と朝倉氏の間で密約が交わされている。これに関連する天文元年十... ...続きを見る

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2005/04/17 21:41
弾正少弼定頼
六角定頼(一四九五−一五五二)高頼の次男。始め相国寺僧承亀。永正十三年(一五一六)九月戦傷で病床にあった兄氏綱の陣代になった(永源寺文書)。翌永正十五年(一五一八)に氏綱が病没すると、氏綱の嫡子義久(四郎)が家督を相続した。さらに永正十七年(一五二〇)父高頼も病没すると、定頼が還俗して甥義久の後見になった。  大永元年(一五二一)足利義稙が管領細川高国と不和になり、淡路に出奔すると、替わって足利義晴(義澄の子)が高国を支持して入京し、将軍に就任した。翌二年(一五二二)三月定頼も入京し、六角氏は... ...続きを見る

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2005/04/16 14:19
左京大夫義賢(入道承禎)
六角義賢(一五二一−一五九八)定頼の長男。四郎。天文八年(一五三九)閏六月能登畠山義総の娘と祝言(『大館日記』『鹿苑日録』)、同年十月には従五位下左京大夫に補任された(『歴名土代』)。天文十一年(一五四二)には従兄弟義政(六角氏綱の次男)とともに伊勢出兵し、伊勢北畠氏を破った。これによって六角氏は北伊勢員弁・朝明両郡を獲得している。しかし義賢が単独で行動をとるのは、もうすこし後のことである。  天文十七年(一五四八)には細川晴元政権の内部で三好長慶と三好政長が対立すると、晴元は政長を支持して長... ...続きを見る

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2005/04/15 00:08
右衛門督義治
六角義治(一五四四−一六一二)義賢の長男。母能登畠山義総娘。幼名亀松丸(朽木文書:十一月二十八日付佐々木民部少輔宛亀松丸書状、同日付同宛水原氏家書状)。本名義弼。四郎、右衛門尉(木村文書『六角氏書状巻物』)、右衛門督(『顕如上人書状案』)。法名玄雄。  永禄三年(一五六〇)宿老衆が義弼(四郎)と美濃斎藤義龍の娘との縁談を進めた。それに反対した父六角承禎の同年七月二十一日付書状(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)によって、斎藤道三の国盗りが、実は父長井新左衛門尉との二代にわたるものであったことが分か... ...続きを見る

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2005/04/14 00:15
中務大輔高盛
大原高盛(一五四七−一六二〇)義賢の次男。母は土岐頼芸妹。大原高保(氏綱弟)の養子。次郎左衛門尉・中務大輔。本名は高定。『近江蒲生郡志』では「義定」とするが、「義定」と自署する文書はない(『龍太夫文書』ほか)。佐々木六角氏で「義」の字を使用するのは、将軍から給付されたときであり、高盛が兄義治から家督を継承したように見せるため、「義定」という名乗りが創作された可能性が高い。高盛の孫で江戸幕府旗本の源兵衛高重が「義定」という名乗りを創作したと考えられる。実際、宝永五年(一七〇八)に、兄義治の子孫であ... ...続きを見る

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2005/04/13 00:06
高島高信
佐々木高信(生没年未詳)佐々木信綱の次男。母川崎為重の娘。左衛門尉。父信綱から近江国高島郡田中郷を相続して、高島七頭の祖。嘉禎元年(1235)7月勢多橋の修理のとき、日吉社神人に負役を課したところ神人が拒否。負役に応じるよう強要したことから、延暦寺衆徒との闘争。地頭代多胡兵衛尉が山王社僧を殺害したため、延暦寺衆徒が強訴。高信は豊後に配流されました。  高信の長男泰信は、佐々木四郎(信綱)の孫の四郎左衛門尉を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」の名で、『吾妻鏡』弘長3年(1263)正月条に登場します... ...続きを見る

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2005/04/11 13:59
大原重綱
佐々木重綱(1207-1268)佐々木信綱の長男。母川崎為重の娘。近江太郎左衛門尉。承久の乱では父信綱に従い、宇治川の先陣を徒歩で駆けて戦功。そののち左衛門尉に補任され、将軍藤原頼経の近臣となり、有力御家人として幕府の諸行事にも参列。ところが遺産相続では、外祖父川崎為重(中山五郎)が比企能員の乱で滅亡していたため、所領を与えられず出家しました。しかし寛元元年(1243)重綱は幕府に弟泰綱を訴え、泰綱から坂田郡大原荘を獲得。ここから佐々木大原氏が始まりました。  重綱の長男長綱は、近江守の長男左... ...続きを見る

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2005/04/10 23:11
盛綱流佐々木氏
盛綱流佐々木氏では、承久の乱で北陸道の副将となった信実の子孫加地氏が、越後国加地荘を本拠として越後守護職を世襲した北条得宗家を支援するとともに、備前守護職を世襲しました。盛綱流佐々木氏は北越地方で大きく発展し越後・出羽地方の一大勢力になるとともに、備前守護職を基盤にして備前国児島を中心に瀬戸内海でも一大勢力にもなったのです。  備前守護は信実の次男実秀(大友二郎・加地二郎左兵衛尉・左衛門尉)、孫実綱(加地太郎左衛門尉)によって継承されました。実綱の子息長綱(加地源太左衛門尉・筑前守)は、嘉元の... ...続きを見る

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2005/04/09 01:31
隠岐流佐々木氏
佐々木兄弟の五男義清(五郎左衛門尉・出雲守・隠岐守)の子孫は、隠岐・出雲の守護職を世襲して有力御家人として地歩を固めました。両国守護職は義清の長男政義(太郎左衛門尉)が継承しましたが、無断出家により所職・所領を没収。替わって次男泰清(隠岐次郎・隠岐判官・信濃守)によって継承されました。泰清は奥州惣奉行葛西清親(左衛門尉・伯耆守)の娘婿となり(尊卑分脈・続群書類従・沙々貴神社本)、有力御家人と閨閥を形成して自らも六波羅評定衆に列しました。官位も検非違使に補任され、さらに従五位下に叙爵されて大夫判官... ...続きを見る

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2005/04/07 22:26
隠岐守義清
佐々木義清(生没年未詳)秀義の五男。母渋谷重国の娘。佐々木五郎。左衛門尉、出雲守、隠岐守。出雲・隠岐守護。紋は輪違い。平治の乱で敗れた父秀義は、近江佐々木荘領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼り東下しましたが、途中相模で秀義の武勇に惚れ込んでいた渋谷荘司重国に引き留められて娘婿になりました。その重国の娘との間に生まれたのが五郎義清です。義清は成長すると、大庭景親の娘婿になりました。治承4年(1180)頼朝挙兵に定綱・経高・盛綱・高綱ら兄たちは参陣しましたが、父秀義と義清は渋谷重国の恩に応える... ...続きを見る

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2005/04/06 23:57
四郎左衛門尉高綱
佐々木高綱(1160-1214)秀義の四男。母源為義の娘。佐々木四郎。左衛門尉。父秀義東下のときはまだ幼かったため、京都吉田の叔母の下で育てられた。しかし成長しても平氏には従わず、治承4年(1180)には東下して、兄定綱・経高・盛綱とともに源頼朝の挙兵に参加。元暦元年(1184)宇治川の戦いでの梶原景季と先陣争いは有名(25歳)。文治元年(1185)守護地頭の設置では長門守護。『尊卑分脈』では因幡・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・日向等の守護になったとも伝えます。さらに同年には兄定綱とともに左衛門... ...続きを見る

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2005/04/05 22:53
三郎兵衛尉盛綱
佐々木盛綱(?-1216)秀義の三男。母源為義の娘。本名秀綱。佐々木三郎。左兵衛尉。父秀義とともに東下。はじめ相模波多野義常の許に寄寓しましたが、父秀義の命で長兄定綱とともに源頼朝に近侍。頼朝の乳母子安達盛長を烏帽子親に元服。盛綱と名乗りました。  治承4年(1180)源頼朝の挙兵では、はじめ加藤次景廉・堀藤次親家らとともに頼朝の側近にありましたが、頼朝の命で伊豆目代山木兼隆攻めに加わり、加藤景廉とともに兼隆の首を獲りました。石橋山合戦でも活躍。元暦元年(1184)備前藤戸合戦で馬では、備前国... ...続きを見る

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2005/04/04 15:58
中務丞経高
佐々木経高(?-1221)秀義の次男。母宇都宮宗綱娘。佐々木次郎。中務丞。中務入道経蓮。父秀義とともに東下。相模渋谷荘司重国の娘婿になる。治承4年(1180)源頼朝の挙兵で、佐々木兄弟は堤信遠を討伐しましたが、このとき経高が堤邸に放った矢が源氏挙兵の一番矢になりました。石橋山合戦でも活躍。以後も頼朝の側近として活躍し、寿永2年(1183)12月22日には源頼朝の命をうけて弟高綱とともに御前で上総介広常を刺殺しました。  文治元年(1185)の守護・地頭設置で、淡路・阿波・土佐守護に補任、京都の... ...続きを見る

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2005/04/03 14:24
四つ目結紋の歴史
佐々木氏の紋というと四つ目結紋と考えられていますが、実はもともとは三つ星でした。そのため源平合戦で活躍した佐々木兄弟の子孫のなかで、四つ目結紋を使用したのは長男の定綱流であり、盛綱流は三つ星、義清流は輪違いを使用していました。四つ目結紋が佐々木氏の代表紋になったのは、定綱の子孫が佐々木氏の主流になったことと、江戸時代に歌舞伎などで佐々木盛綱・高綱兄弟の役が四目結紋の衣装を着けて登場していたからでしょう。  沙々貴神社所蔵佐々木系図や六角佐々木氏系図略によれば、四つ目結紋は定綱の子息信綱のときに... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 30 / トラックバック 0 / コメント 129

2005/04/02 15:32
上杉本洛中洛外図
現在の歴史学では、絵画を歴史資料として使用する試みがなされています。そこで注目できるのが上杉本洛中洛外図で、公方邸に四目結紋の陣幕が張られていることです。  上杉氏の伝承では、この屏風絵の作者を狩野永徳と伝え、織田信長が天正元年(1573)頃に贈ったとしています。本当にそうでしょうか。そこに描かれているものから、いろいろなことを読み取って見ましょう。  今谷明氏は、屏風に描かれている景観を綿密に考察し、とくに変転の激しい武家邸宅に注目して年代同定を試みています(今谷明『京都・一五四七』平凡社... ...続きを見る

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2005/04/01 12:51
「京極系図」連載完結
「京極系図」を連載して思ったことは、やはり京極氏は鎌倉幕府で引付衆も評定衆を歴任し、室町幕府でも侍所頭人に補任される四職に列しただけあって優等生ということです。京極氏は南北朝期に「ばさら大名」佐々木道誉(京極高氏)を出したため、常識を打ち破り新しい価値観を築いた婆裟羅大名という印象が強いのですが、その道誉にしても実際には武家政権に対しては忠実です。  元弘の変で、道誉が討幕派に転じたのは従来言われているよりも遅く、後醍醐天皇が隠岐を脱出した後でした。これは、佐々木同族である塩谷高貞や富士名義綱... ...続きを見る

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2005/03/31 22:14
「六角系図」連載完結
 佐々木六角氏研究は面白い。とくに系図については、入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されているものの、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくるからだ。では、どうして否定されていたのだろうかという素朴な疑問が生まれる。  理由は多くあるが、実証歴史学であるにもかかわらず認められない理由は、まず先人の言うことを疑うのは難しいということだ。先人の意見を否定するのは気が引けるというだけの問題ではない。研... ...続きを見る

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2005/03/11 18:25
日本系譜塾・御礼
20日日本系譜塾が行われました。ネットを見て参加された方もいらっしゃったこと、有難く存じます。今回は場所が分かりにくかったため、不便をおかけいたしました。今後、日曜日に大学で教室が借りられるようであれば、大学を会場にして定期的に勉強会を開くつもりです。そのときには、またお知らせいたしますので、宜しくお願いいたします。 ...続きを見る

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2005/02/21 12:46
蔵人の尉定綱
佐々木定綱(生年未詳−一二〇五)秀義の長男。母源為義娘(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。佐々木太郎、佐々木左衛門尉、佐々木判官(『吾妻鏡』)。  父秀義に従い東下して、はじめ下野宇都宮朝綱の許に寄寓するが、のち父秀義の指示で弟盛綱とともに伊豆配流中の源頼朝に近侍した。治承四年(一一八〇)八月の源頼朝の挙兵では、弟経高・高綱とともに伊豆目代山木兼隆の後見堤信遠を討った。弟盛綱は始め加藤景廉とともに頼朝の側近に仕えていたが、頼朝の命で追討軍に加わり加藤景廉とともに兼隆の首を獲った。... ...続きを見る

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2005/02/16 00:09
沢田源内論3
系図研究に関する本のほとんどで、沢田源内批判がされています。しかし、そのどれもが自分で実際に資料で確かめたものではなく、ただ先人の主張を鵜呑みにしたものばかりでした。それは歴史研究では決してしてはならないことです。実際に当時の資料に当たれば、義実・義秀・義郷の実在は確認できます。はじめから実在しないと決め付けていたから見つからなかったのです。実在するという視点から出発すれば、実名は異なるかもしれないと思うことができ、そして見つけることができるのです。これは、系図の記述をそのまま信じるのではなく、... ...続きを見る

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2005/02/09 02:42
沢田源内論2
佐々木氏郷が創作したと考えられていた義実-義秀-義郷の3代の実在も、当時の資料で確認できました。義実は参議(唐名宰相)と伝えられていますが、『鹿苑日録』には江州宰相と呼ばれる人物が記載されていたのです。しかも江州宰相の実名は、義久でした。実名が異なっていたのでは、いくら義実という名で資料を探しても見つかるはずがありません。実在しないのではなく、探し方が間違っていたのです。『鹿苑日録』は、足利義満の菩提寺相国寺鹿苑院住職である鹿苑僧録が書き継いだ日記です。資料的価値はとても高いものです。義秀の名は... ...続きを見る

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2005/02/08 02:40
沢田源内論1
江戸初期の学者沢田源内は、自ら名門武家で旧近江守護の佐々木六角氏の子孫佐々木氏郷と名乗る系図を創作した偽系図作者とされています。しかし当時の資料『京極家家臣某覚書抜萃』によると、氏郷は丸亀藩主京極高豊の子息を養子にするなど親交があったことが分ります。また天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』奥書によれば、相国寺住持とも親交がありました。しかも沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田源内と同一人物と考えられる沢田郷重(母和田氏)は、万治3年(1660)に没しています。元禄6年(1693)に没した氏郷とは別人です... ...続きを見る

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2005/02/07 12:38
日本系譜塾開催のお知らせ
系図をテーマにした勉強会を開催します。系図や系譜伝承を歴史資料として活用する方法を学ぶことで、系図研究の面白さと奥深さに触れます。 ...続きを見る

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2005/02/05 12:53
開校予定
4月開校予定。 ...続きを見る

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2005/02/02 01:14

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