テーマ:系譜伝承論

『系図資料論』序

 わたしたちは似たものに同じ記号を付け、同じカテゴリーに分類する。たとえば系図に作為と錯誤が多いという符号が付けられたことで、すべての系図資料が実証的な歴史研究の資料にはなりえないと思われた。たしかに系図の記述そのままを信じることはできない。佐々木系図で近江国佐々木庄に最初に留住した伝えられる源成頼は、実際には四位中将という殿上人であり…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

系図研究史

 家系・系図の研究でまず思い出されるのは、太田亮氏である。太田氏は系譜学会を組織して、機関誌『系譜と伝記』(のち『国史と系譜』)を発行し、各地の愛好家から多くの論考が寄せられた。『姓氏家系大辞典』はそのような広大な基盤の上に完成したものである。太田氏は家系に関する資料を集めて整理し、歴史資料としての系図の価値を高めようとしたと評価できる…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

資料としての系譜伝承

 系図は、実証的研究ではまず無視される資料である。しかし系図・由緒書は、それが作成された時代の歴史叙述の一形態であり、時代の思潮や社会の動向をとらえるための絶好の資料である。歴史学だけではなく社会学・民俗学・文化人類学など学際的研究を通して人類史的視点から姓名・系譜のあり方を解明すれば、日本社会の特質を捉えることもできる。このように系図…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

資料としての家紋

 上杉本洛中洛外図は、誰が上杉謙信に贈ったものかが問題になっている。今谷明氏は屏風に描かれている景観を綿密に考察し、とくに変転の激しい武家邸宅に注目して年代比定を試みた(23)。そして公方様(将軍邸)・細川殿(管領細川邸)・典厩(細川典厩邸)・武衛(旧斯波邸、将軍家別邸)・伊勢守(政所執事伊勢邸)・畠山図子上臈(旧畠山邸)・和泉守護殿(…
トラックバック:0
コメント:5

続きを読むread more

系譜記号論

 系譜記号論の契機になったのは、ひとりの歴史的人物の実在をめぐる問題に興味をもったことである。その人物は、京都の隣国近江国の戦国大名六角義実である。彼は近江守護職を世襲した宇多源氏佐々木氏の嫡流で、足利将軍の養子となり、参議兼近江守に補任されたという。  六角義実は、従来、近世初頭の系図作者沢田源内によって作り上げられた架空の人物と考…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

資料は語る

 歴史的事実を、その痕跡から他者として顕在化することができる。歴史叙述をフィクション物語と同じだと批判する物語論は、このことを見逃している。同一資料を意図的に別の見方で見ることで、それまで排除されてきた歴史的事実を浮かび上がらせることができる。  たとえば偽文書である。従来の史料批判では、偽文書は歴史的事実を歪曲するものとして排除され…
トラックバック:0
コメント:9

続きを読むread more

歴史学における科学革命

 発想の転換は、確実な資料を一つ一つ積み重ねてもできない。異なる視点を持ち込む必要がある。異なる視点で作り上げた作業仮説を、良質な資料によって実証するのである。実証できれば、同一資料を使って通説とは反対の結論を導き出すことができたことになる。これは、実証的研究も研究者の見方に束縛されていることを示すとともに、歴史像を転換するという歴史学…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

史料批判と系譜伝承

 『江源武鑑』は、系図作者沢田源内の著作として偽書のレッテルを貼り続けられてきた。沢田源内は自らを鎌倉草創期以来の近江守護佐々木六角氏につなげるために、戦国期六角氏歴代に義実-義秀-義郷の三代を加筆して、自ら義郷の嫡子氏郷(義綱)と名乗ったという。しかし『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)であり、氏郷はちょうどその年に生まれている。…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

江州宰相の研究・序

 『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に、江州宰相という人物が登場する。天文八年(一五三九)五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛および下向した記事がある。この記事に関する頭書が、『鹿苑日録』十六巻(『日用三昧』七巻)の表紙にあり、この人物は「相公」と記されている。宰相も相公も参議の唐名であり、一般的には宰相を相公と言い換え…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角隆頼

 これまで、六角氏綱の跡はただちに弟定頼が継承したと考えられてきた。しかし氏綱(佐々木四郎、近江守)の没年は永正十五年(一五一八)であるにもかかわらず、定頼(弾正少弼)の近江守護職補任は天文六年(一五三七)である(6)。ここに十九年間の空白がある。これをどう理解すればいいだろうか。  実は、山津照神社文書に、大永六年(一五二六)五月二…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

足利義晴祝言と四郎殿父子

 管領細川氏(細川京兆家)内部における高国と晴元の抗争によって、十二代将軍足利義晴は近江への逃亡生活を余儀なくされ、六角氏の居城観音寺場内にあった桑実寺に仮幕府を開いた。そのような中での天文三年(一五三四)六月に、六角氏の仲介で将軍義晴と前関白近衛尚通の娘が婚礼を挙げた。場所は桑実寺であった。そのときの模様を記した『天文三年甲午六月八日…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

長命寺結解と四郎殿様

 六角四郎と義賢を明確に区別している例は、六角氏の本国近江国内の資料にもある。それが『長命寺結解』(9)である。長命寺は、六角氏の祖佐々木秀義の菩提寺である。秀義(源三)は鎌倉幕府草創期に源頼朝の挙兵を助けて近江守護(惣追捕使)の初代となり、以後佐々木氏が近江守護を保持し続けた。六角氏はその佐々木氏の嫡流である。当然、長命寺と六角氏の結…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佐々木四郎公能

 四郎殿様と義賢が別人であったことをダメ押しする決定的な資料がある。それが『証如上人日記』(11)天文十年(一五四一)十月五日条である。本願寺証如が将軍足利義晴(室町殿)に馬を進上したが、その返礼として将軍の私信である御内書と太刀(祐光)が給付された。その太刀は佐々木四郎公能に進上させたものである。このとき佐々木四郎を名乗る人物の実名は…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義久という人物

 『鹿苑日録』に義久という人物が登場する。彼は鹿苑院主梅叔法霖と交流があり、十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になるなど幕府内の有力者でもあった。しかし辻善之助編『鹿苑日録総索引』(12)でも氏姓が記されず、これまで注目されてこなかった。  義久の記事は、『鹿苑日録』に三カ所ある。まず天文六年(一五三七)六月十五日条に、義久が法霖に書を…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義久と恵林院殿十七回忌

 『鹿苑日録』天文八年(一五三九)二月二十九日条に、六角定頼(霜台)が鹿苑院主の法霖に書状を遣わした記事があり、さらに続けて法霖が恵林院殿(十代将軍足利義稙)十七回忌料について大館晴光(左衛門佐)に問い合わせた記事がある。六角定頼の記事と足利義稙十七回忌料の記事は関連しているように読むことができるが、この記事だけでは即断できない。やはり…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

足利将軍の猶子

 義久が足利義稙十七回忌の法事の主催者であり、しかも僧録鹿苑院主にとって「御成」の主体になることは、義久が足利氏の連枝と目されていたことを示していよう。たしかに沙々貴神社本では、義久に当たる人物「義実」が十一代将軍足利義澄の猶子であったと記されている。  義澄は、周防・長門・筑前守護大内義興に擁立された前将軍義稙(西国御所・西国大樹)…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義久の出家

 実は足利義稙法事の記事で、義久は「義久入道」と記されている。しかし沙々貴神社本によれば、義久(系図では義実)は永正七年(一五一〇)の生まれである。義久の父氏綱は永正十五年(一五一八)に享年二十七歳で没している。父死去の時点で義久は九歳である。『御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」、『厳助往年記』で「六角四郎」、そして『長命寺結解』…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義久入道と宗能

 義久が天文六年(一五三七)以降に「宗能」と名乗っていたことは、『続群書類従』所収の三上系図に付けられている三上文書によって知ることができる。義久が「義久入道」と呼ばれる時期と重なる。この文書の原本は確認できないが、もし明らかな偽文書ならば一般に流布している「義実」と記したと考えられる。わざわざ「宗能」とはしないだろう。この文書は信用で…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角定頼の近江守護補任

 叔父定頼の近江守護職補任は、義久が出家したと考えられる天文六年(一五三七)である。しかも、定頼は近江守護のまま幕政にも大きく関与した。江州宰相を補佐するための近江守護職と考えられる。  ところで六角定頼は五位で弾正少弼に任官していたが、弾正少弼は京都を巡察して非違を糾す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。そのため長官の尹には…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

義久一周忌

 江州宰相の没年について系譜伝承に混乱があり、特定できない。沙々貴神社所蔵佐々木系図では没年月日を天文十五年(一五四六)九月十四日とし、法号を東禅寺殿仁山崇義大居士とするが、『江源武鑑』では没年月日を弘治三年(一五五七)十一月二十二日とし、法号を東光院殿贈権中納言三品崇山大居士とする。系譜伝承によって生没年に多少の異同があるものの、おお…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

江州宰相の贈官

 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に「ふけよりとて。□うくわん事にりんしのさいそく申さるゝ。てん文九年の御ゆとのゝ日記にも。せんくわう御心しるしのにもなきよしおほせらるゝ。御かへり事かさねとあり」と足利義輝が贈官の催促をしているという記事があるが、前将軍義晴の左大臣贈官は薨去直後の天文十九年(一五五〇)五月四日にす…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

織田信長と近江殿

 信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条に「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也…
トラックバック:0
コメント:3

続きを読むread more

『江源武鑑』の錯誤

 『江源武鑑』では、義久に当たる人物を一貫して「義実」と記述している。しかし義実の実名が義久と分かった後で同書を読むと、永禄十年(一五六七)十一月九日条に「義久」という実名が登場していることに気づく。これは、義賢(承禎)の次男中務大輔が「義久」と改名したが、屋形義秀の勘気を受けて「賢永」と改名したという記事である。   箕作ノ二男…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角義秀の研究・序

 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿より二色二かまいる」とあり、亀寿の元服で、典侍(ないしのすけ)が天皇家に御礼を進上している。また同書の天文二十一年(一五五二)十一月二十七…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

『お湯殿の上の日記』と六角亀寿

 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期に六角高頼は『碧山日録』で「亀」「亀子」「亀寿子」などと呼ばれている(1)。『碧山日録』の記主太極は、近江北郡守護京極氏の一族である佐々木…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

足利義晴政権と六角亀寿

 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するようになる。  天文六年四月三十日条「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。これ以後、日常的な物を進上するようになる。まず…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角亀寿の元服

 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をしていることから、典侍が亀寿の母であったことが分かる。天文九年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」という新大典侍の子が参上した記事は、亀…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角亀寿の実名

 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、同書によっては、知ることができない。それだけ同書を書き継いだ人々にとっては、六角亀寿は親近な存在であったことが分かる。そこで、六角亀寿の実…
トラックバック:0
コメント:3

続きを読むread more

『万松院殿穴太記』作者と六角氏

 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年(一五五四)七月九日条に「内侍所へ罷向、穴太記読之、盞有之」とあるように、同書は天皇家の内侍司に収められていた。この記事から同書が天文二十…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角亀千代

 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には京都の東寺に入った(『言継卿記』『厳助大僧正記』)。細川氏綱が細川氏家督となり、晴元は若狭に出奔した(『言継卿記』)。また三好長慶は将軍御…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more