テーマ:系譜伝承論

江州入替合戦

 天正十年(一五八二)六月二日に本能寺の変が起きた。一般に光秀は、近江平定に時間を浪費したために十分に体勢を整える暇もなく、同月十三日の山崎の戦いで秀吉に敗れたと考えられている。『江源武鑑』によれば、この間に江州入替合戦があったという。本能寺の変で信長が倒れると、六角氏は天下に号令する機会と見て、琵琶湖を水路にして光秀の居城坂本城を攻め…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角義郷の研究・序

 系図では実名(諱)の真下から血筋・伝承を意味するが系線が引かれているが、沙沙貴神社所蔵佐々木系図では系線の右脇に官位や通称・幼名などが列記され、左脇に母が記されている。母親が明記されているのは、同系図が女系を重視した西日本型系図だからである。その母親の記述の後に、本人の事績が記述されている。  同系図によれば六角義秀の嫡子義郷は、位…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角義郷の母織田氏

 義郷の経歴と同じ人物が『太閤記』に登場する。左衛門侍従豊臣義康である。沙沙貴神社本では義康という本名(前名)を伝えていないが、『六角佐々木氏系図略』では義郷の本名を義康と伝えている。しかも義康の官職は左衛門督・右近衛少将と伝えられており、実名義康と官職左衛門督という事跡は、まさに左衛門侍従豊臣義康の事跡と一致する。  また『六角佐々…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

犬山之伊勢守息女

 『六角佐々木氏系図略』でいう信康に相当する人物としては、信長の叔父で犬山織田氏を継いだ織田信康(与次郎)と、伊勢守系織田氏の直系であった岩倉織田信安が考えられる。しかし続群書類従本をはじめ織田系図に、六角義郷の母に相当する女性を見つけることができない。義郷(義康)の母が織田氏であるというのは、六角氏側にのみ伝えられている。佐々木系図の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

左衛門侍従義康による六角氏再興

 『太閤記』の「関白職并家臣之面々任官之事」で、任官した人々の最後に左衛門侍従豊臣義康が名を連ねている。沙沙貴神社本でも、義郷の豊臣賜姓と侍従任官の記事がある。この任官は天正十三年(一五八五)のことだが、沙沙貴神社本では天正十四年(一五八六)としている。実は『歴名土代』でも、天正十四年に従四位下に叙位された五辻元仲に続けて、義康ら公家成…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

聚楽第行幸

 天正十六年(一五八八)四月には後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第に行幸したが、『聚楽亭行幸記』に公家成り大名のひとりとして左衛門侍従義康が記されている。   加賀少将利家朝臣 穴津侍従信兼朝臣 丹波少将秀勝朝臣   三河少将秀康朝臣 三郎侍従秀信朝臣 金吾侍従    御虎侍従      左衛門侍従義康朝臣 東郷侍従秀一朝臣   …
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

武衛義康

 『天正記』では、聚楽第に供奉した公家成り大名の一人に武衛義康がいる。『聚楽第行幸記』や『太閤記』と比較することで、武衛義康が左衛門侍従義康と同一人物であることが確認できる。沙々貴神社本にあるように六角義郷の前官は右兵衛佐であり、武衛と呼ばれるに相応しい。  六角氏では、元亀年間に比叡山再興に尽力した氏郷が左兵衛佐であったほか、義郷の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

豊臣義康と津川義近

 天正十八年(一五九〇)の小田原の陣には六角氏も参陣し、近江六角殿が秀吉陣中の茶会に出席している(『天王寺屋会記』宗凡他会記)。このとき六角殿に足利義昭側近の真木島昭光(玄蕃頭)が供奉していることから、この六角殿は足利義昭の備後下向に随行した義堯(六角殿)本人か/足利義昭の養子と伝わる義郷(義康)と考えられる。  この小田原の陣では、…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

豊臣秀次と左衛門督殿

 金吾殿は名護屋から帰京すると、秀次の与力大名になったと考えられ、『駒井日記』文禄三年(一五九四)二月二十日条に左衛門督殿が見える。このとき左衛門督殿は、豊臣秀吉・秀次の吉野花見で御供衆が帯びる金太刀・金脇差のうち城預り分を、秀次から渡されている。  ところで沙々貴神社本によれば、義郷は文禄元年(一五九二)に秀次の命令によって近江永原…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

佐々貴少将宛徳川家康書状

 文禄四年(一五九五)関白豊臣秀次の謀反事件直後の諸大名血判状(木下文書) に、左衛門侍従義康の署名血判がない。同連判状に署名血判している安房侍従義康は、小田原の陣以後に豊臣氏に臣従した安房の大名里見義康のことである。もちろん江州八幡侍従・左京大夫父子も見られない。沙々貴神社本や『江源武鑑』によれば、六角義郷(義康)は秀次に連座して没落…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

江家中将

 その後の義康の行動を知る手がかりが、『鹿苑日録』に記されている。『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)正月二十九日条に登場する「カウケ中将殿」が、義康の後身と考えられる。  この「カウケ中将殿」の「カウケ」は、近江家(あるいは江州家)を意味する江家と考えられる。(元亀元年)六月十九日付近江修理大夫宛織田信長書状写(17)でも、六角氏を指…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

『江源武鑑』刊行

 沙沙貴神社所蔵佐々木氏系図や明暦二年(一六五六)版『江源武鑑』、さらに『六角佐々木氏系図略』によれば義康(伝承では義郷)が没したのは元和九年(一六二三)である。そして『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)である。このとき義康はまだ生存していた。信長の弟織田有楽斎(長益)もこの年に没しており、関係者の多くはまだ生存していた。六角承禎の…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

沢田源内と六角氏郷

 谷春散人「沢田源内偽撰書由来」(1)では、沢田源内の偽作と考えられる編纂物(史書)や系図を列挙して、従来の口碑や村記にはこれらの作為を真に受けたものが多いと主張した。また『近江蒲生郡志』も、建部賢明の『大系図評判遮中抄』を信用して、義実-義秀-義郷は沢田源内によって作り上げられた架空の人物とした。  賢明は兄賢之・弟賢弘(一六六四-…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』

 『夢窓国師俗譜』は、六角氏郷によって書かれたものであるが、その奥書は相国寺百代住持汝舟妙恕によって書かれているので、ここに紹介しよう。  寛文三年(一六六三)九月晦日に「佐々貴管領氏郷朝臣」がたまたま相国寺を訪れ、愚渓等厚禅師(同寺九九代住持)と対談した。そのとき禅師が、当山の開山である夢窓国師は、公(氏郷)の先祖宇多天皇の九代の後…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角氏郷と庭田重条

 佐々木氏と同じく宇多源氏雅信流の公家庭田重条(右中将雅純次男)が、万治三年(一六六〇)に六角氏を称して従五位下大膳権大夫に叙任され(十一歳)、伏見宮家殿上人になっている。ところが、重条の兄で庭田家を継いでいた侍従雅秀は病気がちであった。重条は寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家し、その二年後の寛文七年(一六六七)に兄雅秀が二十歳で没した…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

『京極氏家臣某覚書抜萃』

 『京極氏家臣某覚書抜萃』には、後継者のいない氏郷の消息が伝えられるとともに、讃岐丸亀藩主京極高豊の子息が氏郷の養子になったことが記されている。  天和年間(一六八一-八四)、京都に佐々木六角氏の末孫である六角中務少輔という人物がいたが、浪人にもかかわらず、白小袖の下着を着用していた。そのため、それを不審に思った京都所司代稲葉正則(丹…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

六角氏再興運動

 沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田郷重という人物が万治三年(一六六〇)に没している。同系図によれば郷重の弟重秀の母は和田氏であり、源内の母が和田氏であったとする『大系図評判遮中抄』の記述と一致する。源内と同一人物と見て間違いあるまい。源内が水戸家に仕官活動したのが承応二年(一六五三)頃であるから、彼はその八年後に没していることにな…
トラックバック:0
コメント:4

続きを読むread more

江戸時代における『江源武鑑』の評判

 一般に偽書とされている『江源武鑑』には元和七年(一六二一)版があり、同書がその頃に生れた源内の著作でないことは明らかである。そのことだけでも、『江源武鑑』を源内の著作とする『大系図評判遮中抄』の記述が信用できないことが分かる。完全に事実を誤認している。六角義賢(承禎)の次男高定が没したのは初版刊行の前年/元和六年(一六二〇)年であり、…
トラックバック:0
コメント:1

続きを読むread more

『大系図評判遮中抄』

凡大系図(卅巻)ハ佐々木本家ノ姦賊六角中務氏郷カ古伝ニ偽補スル所也。蓋此者ハ、本近江国ニテ種姓モ知サル凡下ノ土民也。父ハ沢田喜右衛門トテ坂本雄琴村ニ手ツカラ鋤鍬ヲ執テ纔ノ地ニ耕作シテ世ヲ渡シ農夫ナリ。武州忍ノ城主阿部豊後守忠秋ニ正保四年ノ比カトヨ加恩ノ地ヲ江州ニ賜リシ時、喜右衛門其家ノ吏官某カ下司ト成テ名ヲ武兵衛ト改メ租税ノ事ヲ司リシニ…
トラックバック:0
コメント:2

続きを読むread more

『大系図評判遮中抄』批評

 『大系図評判遮中抄』を読むかぎり、沢田源内の華麗な経歴に驚かされる。まず青蓮院門跡尊純法親王に稚児として仕えたという。源内が単なる貧農(文中では「土民」)の子ではないことは明らかだ。さらに二代将軍徳川秀忠の息女で、後水尾院中宮となった東福門院和子の家司天野豊前守長信や、名門公家の師実流藤原氏権大納言飛鳥井雅章に仕えている。どうしたら身…
トラックバック:0
コメント:8

続きを読むread more

佐々木氏の嫡庶争い

 旗本佐々木高重が自らを佐々木氏嫡流とする系図を幕府に提出したことを、実は同じく六角義賢(承禎)の子孫であった佐々木定賢が、『佐々木氏系譜序例』(11)で批判している。同書によれば、義賢には長男義治と次男高定があった。さらに高定には二人の男子があって、長男が高賢で、次男が幕府旗本となった高和である。このうち高賢は伯父義治の娘を娶り、その…
トラックバック:0
コメント:0

続きを読むread more

おわりに

 これまでの歴史研究では、戦国期の近江守護六角義実(参議兼近江守)抜きで合理的で自己完結的な歴史叙述をしてきた。たしかに良質な資料を隈なく見ても、義実という名の人物は見当たらない。実在しないと思いながら良質な資料を読めば、義実は存在しない。しかも、それで辻褄が合っていた。義実に対してよほど思い入れがなければ、彼の実在を信じられなかった。…
トラックバック:0
コメント:7

続きを読むread more