テーマ:系譜伝承論

六角義秀と小倉良秀

 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そうであれば、こののち義秀が早世した理由も分かる。  当時、六角氏は京都政界から遠ざかっている。そのため徳川公の動向はまったく分からない。…
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桶狭間の戦いと六角氏

 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するようになっても、六角氏に関する記事は少なくなる。 永禄元年(一五五八)五月三日将軍義輝は六角氏の援助で近江坂本に移り、さらに六角氏が将軍義…
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修理大夫書状

 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と見ることができる。修理大夫は参議が兼職することのできる官職であることも、徳川公義秀が修理大夫であったことと矛盾しない。     又三…
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観音寺騒動と足利義輝殺害事件

 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。  しかし永禄六年(一…
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足利義昭入洛運動

 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶ら…
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江州殿と織田信長の入洛

 足利義秋が北陸を移座している間、永禄十年(一五六七)四月十八日に六角氏式目(義治式目)が制定された。三上越後守(恒安)・後藤喜三郎(高治)・三井新五郎(治秀)・真光寺周揚・蒲生下野守入道(定秀)・青地入道(道徹)・青地駿河守(茂綱)・永田備中守入道(賢弘)・平井加賀守(定武)・馬淵山城守入道(宗綱)・三雲対馬守(定持)・永田刑部少輔(…
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義秀遠行

 入洛直後に義秀は病没した。やはり義秀は傷病に苦しんでいた。滋賀県和田文書の(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状(27)によれば、信長は義秀が没したとの報に接して言語を絶するとともに、近く起こるであろう六角承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めた。   義秀遠行之趣絶言語儀候、承禎帰国者近可有之条、各尤油断   有之間敷…
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朝倉義景と六角義景

 越前の戦国大名朝倉義景は、六角氏綱の子息であったという異説がある。富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』で、義景=六角氏説は異説として紹介されている(30)。六角氏側では、『江源武鑑』はまったく伝えていないものの、沙々貴神社本佐々木系図と『六角佐々木氏系図略』が、六角氏綱の次男として朝倉義景を記述している。  これまで…
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浅井久政・長政父子と六角氏

 『江源武鑑』『浅井日記』では、浅井長政を六角氏の武将と伝えている。また『六角佐々木氏系図略』では、浅井久政は六角氏の庶子だったとも伝えている。もしそうであれば、六角氏と朝倉・浅井両氏は深く結び付いており、元亀争乱で浅井長政が朝倉義景に寝返ったことも理解できる。少なくとも浅井久政の名乗りは、江州宰相六角義久の諱字を給付されたものと考えら…
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元亀争乱と近江修理大夫

 『言継卿記』元亀元年(一五七〇)四月二十九日条に、「江州へ六角出張云々、方々放火云々、北郡浅井申合、信長に別心せしむ云々」とある。当時は、浅井氏が信長に反旗を翻したのは、六角氏と示し合わせたためと考えられていたことが分かる。また(元亀元年)七月十六日付益田藤兼宛朝山日乗書状(42)に「江州北之郡浅井別心候、則ち六角殿も六千計りにて取り…
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比叡山再興と佐々木氏郷

 元亀二年(一五七一)信長によって焼き打ちされた比叡山延暦寺を、佐々木氏郷(義郷)が元亀三年(一五七二)蒲生郡中荘山に再興したという伝承がある(45)。氏郷が七百石を寄進したことで、近江蒲生郡中荘山を新比叡山として延暦寺が再建された。坊舎は七十二坊を数えたという。この七百石はその土地の収穫高ではなく、年貢高である。現在の長命寺の建物はそ…
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六角義堯と佐々木左馬頭

 元亀三年(一五七二)九月御屋形様が一向一揆を観音寺城に入城させた。この御屋形様は六角義堯と考えられる。義堯は、山中文書所収の(年未詳)十月二日付六角承禎書状(51)に登場する。  夜前に義堯の許を訪れた者があり、そのことについて義堯が夜中に池田氏を使者として承禎・義治父子に相談したという。その相談内容は書中に書けないとするものの、1…
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足利義昭政権と元亀争乱

 実は元亀争乱は、朝倉義景が足利義昭の上洛命令を拒否したことで始まっている。足利義昭は単なる傀儡ではなく、畿内政権の実質的主体として将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年(一五六八)十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」といわれている。義昭は畿内を幕府系の諸将に配分するこ…
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六角義堯の研究・序

 義堯は発給文書が多く残っていることから、その事跡はかなり明らかである。元亀元年(一五七〇)六角氏は越前朝倉義景や北近江浅井長政・比叡山延暦寺・本願寺と連携を取っていたが、義堯は元亀三年(一五七二)に秘密裡に将軍足利義昭や甲斐武田信玄・阿波三好甚五郎らと連絡を取って(山中文書)、信長包囲網を強固にした。この信長包囲網は翌元亀四年/天正元…
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甲賀武士と六角義堯

 甲賀武士というとすぐに甲賀忍者を想像してしまうが、実は自立した中小領主による一揆(地域連合)であり、中には朝廷・公家や幕府に直仕する者もいた。この甲賀武士と六角氏の関係は深く、山中文書や黒川文書には義堯に関する文書が伝わる。その甲賀郡中惣が全国的に注目されたのは、応仁・文明の乱後に起こされた六角氏征伐のときである。  近江守護六角高…
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山中文書と六角義堯

 元亀・天正年間に六角承禎・義治父子とは別に六角氏当主がいたことを示す六角承禎書状が、滋賀県山中文書(3)に収められている。それは、義堯書状の内容を山中大和守(俊好)に知らせた(年未詳)十月二日付六角承禎書状である(4)。   先度被申候、池田使昨夕来候、上文候所も無之候、申談之候間、   然處義堯之文申旨候者、夜前申来候者事、…
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武田勝頼と六角義堯

 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義景と北近江浅井久政・長政父子は相次いで滅亡した。そして元号も元亀から天正に改元された。  しかし義堯は、信玄の後継者四郎勝頼と連絡を取り…
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武田勝頼との同盟

 甲賀武士の子孫に伝えられた滋賀県黒川文書(11)に、義堯書状が収められている。それは、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す、六角義堯書状である。   狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、   猶賢可申候、謹言、      二月廿日   義堯(花押)  …
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一向一揆との連携

 天正三年(一五七五)四月織田軍が大坂本願寺に向かったことを聞いた六角義堯は、大和国吉野郡飯貝に所在する浄土真宗寺院本善寺に宛て書状を発給し、何か承ることがないか尋ねるとともに、上洛のため軍事行動を起こした武田勝頼軍の動きを今後報告することを約束している(本善寺文書)。   大坂表江織田及行之由、其聞候、御手前彼此為可承、差越本次…
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上杉謙信と六角義堯

 上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は十三代将軍義輝には心服していたが、その実弟義昭に対しては異なっていたようだ。しかし義堯が協力を要請したことで、それまでの態度を一転させて反…
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織田信長包囲網の形成

 上杉謙信が要請を受け入れたことに対する義堯の礼状が、『歴代古案』に収められている。同文書の三宝院義堯書状がそれである(26)。この義堯書状は『越佐史料』に掲載されているが、原本がないために花押を確認できない。しかし上杉謙信が援軍の要請を受けたこと対する礼状であることから、三宝院義堯ではなく六角義堯の書状と分かる。   旧冬差越富…
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毛利氏と六角義堯

 吉川文書には、六角義堯書状が多く含まれている。それは、天正四年(一五七六)の足利義昭の備後下向を実現させたのが義堯だからである。もともと義堯は吉川元春から年頭や歳暮の祝儀を贈られるなど交流があった。実は毛利氏側は初め足利義昭の備後下向を迷惑がっており、足利義昭本人が依頼しても承諾しなかった。義堯が交渉に乗り出したことではじめて、吉川元…
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吉川元春と六角義堯

 『大日本古文書』吉川家文書では、一連の義堯書状を畠山義堯書状とする。しかし義堯花押が近江国内の木村文書・黒川文書に収められている六角義堯書状の花押と一致し、また『大日本古文書』小早川文書所収の『礼銭遣方注文写』に「六角殿」が見えるとともに、同じく小早川文書所収の六角義堯書状案で義堯の署名の下に当時の注記で「六角殿これ也」と記されている…
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足利義昭・六角義堯の備後鞆津下向

 毛利氏は天正四年二・三月に足利義昭と真木島昭光が備後下向の援助を求めても承諾しなかったが(36)、同年四月に六角義堯が要請すると受け入れている。足利義昭の備後鞆津への移座は、義堯が交渉に乗り出したことで実現した。このことは吉川元春が六角義堯を重く見ていたことを示していよう。  まず吉川元春に毛利輝元への取り成しをもとめた義堯書状(3…
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細川昭賢と毛利氏

 吉川元春は使者今田経忠を立てて備後鞆に着津した足利義昭一行を訪れて祝儀を贈ったが、その際の(天正四年)十月二日および三日付の一連の文書が吉川文書に収められている。  まず十月二日付のものは、足利義昭御内書(41)、真木島昭光(玄蕃頭)奉書(42)、真木島昭光書状(43)、小林家孝(民部少輔)書状(44)であり、また翌三日付けのものは…
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小早川隆景と六角義堯

 足利義昭亡命政権が備後鞆津に到着したときに、義昭らが吉川元春に宛てた(天正四年)十月二日・三日付の一連の礼状の中に六角義堯礼状がない。このことは、『礼銭遣方注文写』の宛所に「六角殿取次」と「同厩方」があるものの、「六角殿」本人がないことと関連があろう。義堯本人の到着は遅れたのだろうか。  実は『大日本古文書』では、これら十月二日・三…
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備後国人山内氏と六角義堯

 また毛利氏に属していた地元備後の有力国人山内隆通(新左衛門尉)・元通(刑部少輔)父子も、足利義昭一行や六角義堯に祝儀を贈っており、山内首藤家文書に義堯礼状(58)が収められている。それを見てみよう。   就下国之儀、以同名兵庫助、太刀一腰金覆輪、馬一疋給之候、   尤喜悦候、猶重而可申候、恐々謹言、      十月三日   …
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北畠・朝倉両氏の再興運動

 天正四年(一五七六)十一月二十五日に伊勢国司北畠氏の本所北畠具教を始め北畠一族が、織田信長の密命によって滅ぼされた。足利義昭や義堯らが備後国鞆津に下向した翌月である。しかし北畠氏の有力庶子家・坂内御所の坂内亀寿(亀千代)は逃亡に成功し、北畠具教の弟朝親(具親)も奈良興福寺東門院を出て還俗し挙兵した。朝親はさっそく同年十二月六日付で坂内…
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六角義堯の堺上陸

 天正六年(一五七八)正月七日、義堯が足利義昭の先方として阿波・淡路両国の兵を従えて和泉堺に着岸するとともに、大和多武峰の衆徒に出陣を求めたことを、談山神社文書所収の義堯書状(67)で知ることができる。   今度御入洛、為御先勢、阿淡両国之衆相供、至堺津着岸候、   然者此砌、励戦功被抽忠節者、別而可有御褒美之由被仰出条、  …
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佐々木義高伝承と六角義堯

 天正六年(一五七八)正月義堯は堺に上陸した。その後、反信長連合は攻勢を強めたが、同年十一月六日毛利水軍が摂津国木津川口で織田水軍に敗れたことで石山本願寺は孤立し、形勢は逆転していく。それ以後の義堯の動向は、義堯書状もなく古文書で正確に跡づけることができない。  ところが但馬国浅間佐々木家系図(70)によれば、天正年間に浅間城(養父郡…
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