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宇多源氏の近江進出と秀郷流藤原氏―蒲生氏の源流【改訂2版】
摂関家と秀郷流藤原氏  藤原道長の日記『御堂関白記』寛弘三年(1006)六月十六日条に、秀郷流藤原氏文行(秀郷の曾孫)と伊勢平氏正輔(平貞盛の孫)の闘争事件が記されている。左衛門尉文行は検非違使別当藤原斉信の召しによって法住寺に参仕していたが、帯刀正輔に打擲された。難を逃れようと文行は寺から逃走したが、このとき検非違使に射返してしまった。文行は道長に保護を求めて土御門邸に逃げ込んだ。しかし検非違使に弓を引くのは重罪であり、身柄は引き渡された。ところが本来は縄で縛られて徒歩で連行されるところを、... ...続きを見る

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2012/10/17 00:06
宇多源氏の系譜
源氏といえば、武士の棟梁である清和源氏が有名だが、実は公卿源氏が源氏の本来の姿であった。武士の棟梁よりも、『源氏物語』の主人公光源氏が源氏らしい源氏であった。嵯峨源氏の源信(左大臣)・源融(左大臣)・源順(『倭名類聚抄』作者)、宇多源氏の源雅信(左大臣)・源重信(左大臣)・源倫子(藤原道長妻)・源経信(大納言)、醍醐源氏の源高明(左大臣)・源俊賢(大納言)・源隆国(大納言)、村上源氏の源師房(左大臣)・俊房(左大臣)・顕房(右大臣)などである。  源氏は天皇と「源を同じくする」という意味であり... ...続きを見る

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2005/05/29 23:10
式部卿敦実親王
敦実親王(八九三−九六七)宇多天皇の第八皇子。一品式部卿。一条宮、八条宮。母贈皇太后藤原胤子(内大臣藤原高藤娘)。醍醐天皇(諱敦仁)の同母弟である。音曲を名手として有名であり、延喜七年(九〇七)十一月二十二日の自らの元服式でも(『日本紀略』)、拝舞したと伝えられている(『西宮記』『扶桑略記』)。このとき三品に叙され、のち一品式部卿に補任された。翌延喜八年(九〇八)には山城守藤原忠房の作曲した『延喜楽』に舞をつけ(『礼源抄』)、宇多上皇が子供の相撲を見物したときも、山城守藤原忠房が作曲した『胡蝶』... ...続きを見る

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2005/05/28 14:56
左大臣源雅信
源雅信(九二〇−九九三)敦実親王の三男。母藤原時平娘。一条左大臣・鷹司左大臣。朝廷の重鎮として、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条らの皇太子時代に、その東宮傅(皇太子傅)となった。また安和の変(九六九年)で醍醐の皇子左大臣源高明が失脚した後も、雅信は源氏として執政の地位を維持し続けた。貞元二年(九七七)四月二十四日には右大臣に補任され、さらに貞元三年(九七八)十月二日に左大臣に補任されて、一条左大臣/あるいは鷹司左大臣と称された。公卿源氏の中でも、皇子ではなく皇孫で大臣に補任されたのは、実は雅信... ...続きを見る

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2005/05/28 00:06
源宰相扶義
源扶義(九五一−九九八)源雅信の四子。母藤原氏南家流大納言元方娘。文章生、蔵人兼図書助、式部少丞、叙爵、遠江権守、安芸権守、河内守、従五位上、正五位下、蔵人兼右少弁、左少弁、従四位下、左中弁、中宮権亮、播磨権守、蔵人頭(頭中弁)、従四位上、内蔵頭、正四位下、中宮権大夫、参議兼右大弁、美作兼守、左大弁、大蔵卿に至り(『公卿補任』)、一条天皇の九卿のひとりになった(『続本朝往生伝』)。九卿とは、右大臣藤原実資(小野宮流)・大納言藤原斉信・大納言藤原公任・大納言源俊賢・権大納言藤原行成・参議源扶義・中... ...続きを見る

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2005/05/27 01:05
四位中将源成頼
源成頼(九七六−一〇〇三)参議源扶義の長男。兵庫助、式部丞(『尊卑分脈』)。兵部大輔、式部大輔、鎮守府将軍(沙々貴神社所蔵佐々木系図)、近衛中将(『権記』)。  一般には『尊卑分脈』の記述により扶義子息の兄弟順は経頼・成頼の順とされ、兄経頼の近江守受領にともない、弟成頼が近江佐々木庄に下向したと考えられている。しかし当時の資料『権記』によれば、長保三年(一〇〇一)八月四日当時成頼は四位中将であり(『権記』)、このとき経頼は従五位下であった。さらに『公卿補任』でも、経頼を扶義の次男とする。資料に... ...続きを見る

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2005/05/26 23:01
左馬頭良経
藤原良経(一〇〇〇−一〇五八)中将源成頼の末子。母後朱雀天皇御乳母(『尊卑分脈』などでは朱雀天皇御乳母)。実名良経。始め冷泉院皇子為尊親王養子(『権記』長保三年十月九日条)、のち権大納言藤原行成の実子となる(『春記』長暦二年十二月十四日条)。そのため同時代資料では「藤原良経」と見える。  童殿上(『権記』寛弘八年六月十一日条、および沙々貴神社佐々木系図に「童形時常有帝王傍□生育」)、少納言(『権記』寛仁元年八月九日条)、尾張権守、左馬頭、殿上人、後一条天皇側近(『左経記』長元五年二月十九日条・... ...続きを見る

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2005/05/25 21:15
蔵人経方
平経方(生没年未詳)左馬頭良経の子孫か。兵庫助、従五位下(『尊卑分脈』宇多源氏流)。昇殿、兵庫助、兵部大輔(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略)。式部大輔(『西讃府志』)。『作者部類』の祐子内親王家紀伊の記事では、経方を散位平経重とする。叙爵後に経重(重経)と改名したのだろう。  経方は、『帥記』康平八年(一〇六五)七月七日条に後冷泉天皇(後一条皇子・後朱雀兄)の蔵人として登場する。記事の内容は、蔵人経方が記主である源経信に消息(手紙)を送ったというものである。記主経信は宇多源氏六条... ...続きを見る

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2005/05/24 23:42
常盤恵冠者為俊
平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条では「四位陪従家定」とある。  『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治二年(一〇八八)の『白河上皇高野御幸記』(寛... ...続きを見る

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2005/05/20 00:20
佐々木源三秀義
源秀義(生年未詳−一一八四)本名源資長。実父源有賢。始め左大臣藤原頼長の家礼、のち近衛天皇蔵人(『台記』)、叙爵、鳥羽院殿上人、宮内卿大夫(『兵範記』)、上総介(『尊卑分脈』宇多源氏時中流資長の項)。源為義の猶子(『尊卑分脈』『続群書類従』)、為義の娘婿(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。佐々木三郎(『尊卑分脈』)、佐々木源三秀義(『吾妻鏡』)。  平治の乱後、秀義は近江佐々木庄領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼ろうと東下したが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた相模渋谷庄司重国に引き留められて... ...続きを見る

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2005/05/18 23:59

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