テーマ:六角義実研究

江州宰相の研究・序

 『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に、江州宰相という人物が登場する。天文八年(一五三九)五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛および下向した記事がある。この記事に関する頭書が、『鹿苑日録』十六巻(『日用三昧』七巻)の表紙にあり、この人物は「相公」と記されている。宰相も相公も参議の唐名であり、一般的には宰相を相公と言い換え…
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六角隆頼

 これまで、六角氏綱の跡はただちに弟定頼が継承したと考えられてきた。しかし氏綱(佐々木四郎、近江守)の没年は永正十五年(一五一八)であるにもかかわらず、定頼(弾正少弼)の近江守護職補任は天文六年(一五三七)である(6)。ここに十九年間の空白がある。これをどう理解すればいいだろうか。  実は、山津照神社文書に、大永六年(一五二六)五月二…
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足利義晴祝言と四郎殿父子

 管領細川氏(細川京兆家)内部における高国と晴元の抗争によって、十二代将軍足利義晴は近江への逃亡生活を余儀なくされ、六角氏の居城観音寺場内にあった桑実寺に仮幕府を開いた。そのような中での天文三年(一五三四)六月に、六角氏の仲介で将軍義晴と前関白近衛尚通の娘が婚礼を挙げた。場所は桑実寺であった。そのときの模様を記した『天文三年甲午六月八日…
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長命寺結解と四郎殿様

 六角四郎と義賢を明確に区別している例は、六角氏の本国近江国内の資料にもある。それが『長命寺結解』(9)である。長命寺は、六角氏の祖佐々木秀義の菩提寺である。秀義(源三)は鎌倉幕府草創期に源頼朝の挙兵を助けて近江守護(惣追捕使)の初代となり、以後佐々木氏が近江守護を保持し続けた。六角氏はその佐々木氏の嫡流である。当然、長命寺と六角氏の結…
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佐々木四郎公能

 四郎殿様と義賢が別人であったことをダメ押しする決定的な資料がある。それが『証如上人日記』(11)天文十年(一五四一)十月五日条である。本願寺証如が将軍足利義晴(室町殿)に馬を進上したが、その返礼として将軍の私信である御内書と太刀(祐光)が給付された。その太刀は佐々木四郎公能に進上させたものである。このとき佐々木四郎を名乗る人物の実名は…
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義久という人物

 『鹿苑日録』に義久という人物が登場する。彼は鹿苑院主梅叔法霖と交流があり、十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になるなど幕府内の有力者でもあった。しかし辻善之助編『鹿苑日録総索引』(12)でも氏姓が記されず、これまで注目されてこなかった。  義久の記事は、『鹿苑日録』に三カ所ある。まず天文六年(一五三七)六月十五日条に、義久が法霖に書を…
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義久と恵林院殿十七回忌

 『鹿苑日録』天文八年(一五三九)二月二十九日条に、六角定頼(霜台)が鹿苑院主の法霖に書状を遣わした記事があり、さらに続けて法霖が恵林院殿(十代将軍足利義稙)十七回忌料について大館晴光(左衛門佐)に問い合わせた記事がある。六角定頼の記事と足利義稙十七回忌料の記事は関連しているように読むことができるが、この記事だけでは即断できない。やはり…
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足利将軍の猶子

 義久が足利義稙十七回忌の法事の主催者であり、しかも僧録鹿苑院主にとって「御成」の主体になることは、義久が足利氏の連枝と目されていたことを示していよう。たしかに沙々貴神社本では、義久に当たる人物「義実」が十一代将軍足利義澄の猶子であったと記されている。  義澄は、周防・長門・筑前守護大内義興に擁立された前将軍義稙(西国御所・西国大樹)…
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義久の出家

 実は足利義稙法事の記事で、義久は「義久入道」と記されている。しかし沙々貴神社本によれば、義久(系図では義実)は永正七年(一五一〇)の生まれである。義久の父氏綱は永正十五年(一五一八)に享年二十七歳で没している。父死去の時点で義久は九歳である。『御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」、『厳助往年記』で「六角四郎」、そして『長命寺結解』…
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義久入道と宗能

 義久が天文六年(一五三七)以降に「宗能」と名乗っていたことは、『続群書類従』所収の三上系図に付けられている三上文書によって知ることができる。義久が「義久入道」と呼ばれる時期と重なる。この文書の原本は確認できないが、もし明らかな偽文書ならば一般に流布している「義実」と記したと考えられる。わざわざ「宗能」とはしないだろう。この文書は信用で…
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六角定頼の近江守護補任

 叔父定頼の近江守護職補任は、義久が出家したと考えられる天文六年(一五三七)である。しかも、定頼は近江守護のまま幕政にも大きく関与した。江州宰相を補佐するための近江守護職と考えられる。  ところで六角定頼は五位で弾正少弼に任官していたが、弾正少弼は京都を巡察して非違を糾す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。そのため長官の尹には…
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義久一周忌

 江州宰相の没年について系譜伝承に混乱があり、特定できない。沙々貴神社所蔵佐々木系図では没年月日を天文十五年(一五四六)九月十四日とし、法号を東禅寺殿仁山崇義大居士とするが、『江源武鑑』では没年月日を弘治三年(一五五七)十一月二十二日とし、法号を東光院殿贈権中納言三品崇山大居士とする。系譜伝承によって生没年に多少の異同があるものの、おお…
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江州宰相の贈官

 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に「ふけよりとて。□うくわん事にりんしのさいそく申さるゝ。てん文九年の御ゆとのゝ日記にも。せんくわう御心しるしのにもなきよしおほせらるゝ。御かへり事かさねとあり」と足利義輝が贈官の催促をしているという記事があるが、前将軍義晴の左大臣贈官は薨去直後の天文十九年(一五五〇)五月四日にす…
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織田信長と近江殿

 信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条に「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也…
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『江源武鑑』の錯誤

 『江源武鑑』では、義久に当たる人物を一貫して「義実」と記述している。しかし義実の実名が義久と分かった後で同書を読むと、永禄十年(一五六七)十一月九日条に「義久」という実名が登場していることに気づく。これは、義賢(承禎)の次男中務大輔が「義久」と改名したが、屋形義秀の勘気を受けて「賢永」と改名したという記事である。   箕作ノ二男…
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