テーマ:佐々貴山公系図

佐々貴山公の系譜・序

鎌倉以前の佐々木氏について、古代豪族佐々貴山公と宇多源氏流佐々木氏が同流か別流かという問題がある。ワカタケル大王(雄略)の名が記されているため歴史教科書にも記載されている埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の系譜で、その雄略に杖刀人首(親衛隊長)として仕えた東国豪族ヲワケの上祖とされるオオヒコ(大彦命)は、佐々貴山公の上祖でもある。系譜上ヲワケと…
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大王ワカタケルと佐々貴山公

佐々貴山公は近江国蒲生郡篠笥(ササキ)郷を本拠とする古代豪族であり、記紀で八代人皇と伝わる孝元天皇(オオヤマトネコ・クニクル)の皇子大彦命の子孫という伝承をもつ。大彦命(オオヒコ)は『記紀』で四道将軍の一人として北陸道を進んだと伝えられている人物で、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘の系譜の上祖に「オオヒコ」と記されていたため、実在の人物ではな…
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奈良時代の佐々貴山公

飛鳥時代のササキ山君の動向は今日伝わっていない。飛鳥時代は近江・越前を勢力基盤にした継体に始まる。その継体の皇女には、佐々宜郎女(古事記)/荳角皇女(日本書紀)とササキを名乗る皇族がいる。また継体の擁立を画策した大連大伴金村を支援した大臣巨勢男人は、本姓雀部(ササキベ)臣ともいわれている。それでも飛鳥時代のササキ山君の動向は不明である。…
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平安前期の佐々貴山公

佐々貴山公は平安時代になっても勢力があった。延暦4年(785)正月地方政治の功績を賞されて、蒲生郡大領外従六位上佐々貴山公由気比が、丹波国天田郡大領外従六位下丹波直広麿、豊後国海部郡大領外正六位上海部公常山らとともに外従五位下に叙された(『続日本紀』)。外位は地方官の者が叙される位階で、京官が叙される位階よりも下位である。外官では五位が…
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平安中期の佐々貴山公

平将門と藤原純友が起こした承平・天慶の乱(935-941)の頃に、佐々貴山公興恒が近江追捕使に補任されていたことが、天暦10年(956)6月13日付け太政官符(『朝野群載』)によって確認できる。近江は東海道・東山道・北陸道の三道が集合する要害であったため追捕使が設置されたが、それに佐々貴山公興恒が補任されたのである。その後任は大友兼平で…
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院政期の佐々貴氏(『源行真申詞記』)

鳥羽院政期に近江佐々木氏で内部抗争があった。鳥羽院と美福門院得子のあいだに生まれた近衛天皇が即位して間もない永治二年(一一四二)二月に京都で新六郎友員という武者が殺され、検非違使庁は友員の伯父源行真を容疑者として取り調べた。この使庁の尋問に対する行真の陳述書が『源行真申詞書』(『平安遺文』六巻二四六七号)である。  同文書は、当時検非…
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