東京講演会のお知らせ

2月東京講演会は、下記の日程で実施いたします。
【日時】
 2月 5日(日)午後 : 14時~17時 『系譜伝承論』序
 2月19日(日)午後 : 14時~17時 『発想転換の方法』序
                      『東大入試で哲学』序
 2月25日(土)夜間 : 18時~21時 『佐々木六角氏の歴史』序
【会場】
 2月 5日(日) : 東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
 2月19日(日) : 東京ウィメンズプラザ・第二会議室B
 2月25日(土) : 東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
東京ウィメンズプラザ
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html
【会費】
 3,000円

今後の予定
3月5日(日)午後 東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A
3月11日(土)午後 江戸東京博物館・第二学習室
4月16日(日)午後 東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A

内容
歴史講演会「系譜伝承論」
哲学講演会「発想転換の方法」「弱者の進化論」
「東大入試で哲学」

※参加者の人数は、会場設定の関係上あらかじめ確認しておきたいので、事前にメールで連絡してください。その際、氏名・住所・電話番号・メールアドレスなど連絡先も明記していただければ幸いです。

京都講演会のお知らせ

2月京都講演会は、下記のとおり実施いたします。
ただし会場が前回とは異なりますので、ご注意下さい。
【演題】
 第一部「系譜資料論序説」
 第二部「東大入試で哲学」   
【日時】
 2005年2月12日(日)
 歴史講座:13時~15時
 哲学講座:15時~17時
【会費】
 3、000円
【会場】
 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
 http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html
 ※会場が変更されていますので、ご注意下さい。

【今後の日程】
2月12日(日) 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
3月12日(日) 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
4月 9日(日) 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
5月14日(日) キャンパスプラザ京都  和室    13時~17時
6月11日(日) キャンパスプラザ京都 第1演習室 13時~17時

1996年東大前期・国語第五問「身体論・人間の記憶」

三善晃「指の骨に宿る人間の記憶」より出典
【問題文】
 谷川俊太郎さんの詩《ポール・クレーの絵による「絵本」のために》のなかの一編〈死と炎〉は、「かわりにしんでくれるひとがいないので わたしはじぶんねしなねばならない」で始まる。それで、「わたしはわたしのほねになる」。そのとき私の骨は、この世のなにものも携えてゆくことができない。「せめてすきなうただけは きこえていてはくれないだろうか わたしのほねのみみに」
 この十年ほど、時々右腕が使えなくなる。細かい五線紙に音譜を書き揃える仕事のためか、頚椎が変形か磨耗かして、痺れと痛みが何ヵ月か続く。その間、右手はピアノも弾けない。鍵盤のうえに指を置いて触れるだけだ。
 しかし、そうすると、ピアノの音が指の骨を伝って聴こえてくる。もちろん、物理的な音が出るわけではない。だが、それはまぎれもなくピアノの音、というよりもピアノの声であり、私の百兆の細胞は、指先を通してピアノの歌に共振する。こうして、例えばバッハを〝弾く〟。すると、子どものとき習い覚えたバッハの曲は、誰が弾くのでもない、大気がずっと歌い続けてきている韻律のように〝聴こえて〟くる。
 骨の記憶のようなものなのだろう。それは日常の意識や欲求とは違って、むしろ私とはかかわりなく自立的に作動するイメージである。多分、子どものときから腕や指先に蓄積された運動イメージが、鍵盤の手触りに条件反射して聴覚イメージを喚起するということなのだろう。だが、そうして私に響いてくる韻律は、私の指の運動を超えている。それは私の指が弾くバッハではなく、また、かつて聞いた誰かの演奏というものでもない。バッハの曲ではあるが、そのバッハも韻律の中に溶解してしまっている。
 日常の時空を読み取る五感と意識の領域でなら、私は絶えず「自分」と出会っている。改めて振り返るまでもない日常の小さな起伏と循環……そこに出会い続ける「自分」は、丸山圭三郎さんの言われた「言分け」(言葉で理解する)と「身分け」(身体で理解する)を借りて言えば、最終的にはいつも「見分け」る自分だった。
 私は、私が他者のなかに生き、私の言葉が他者のためにしかなく、私の仕草が他者にしか見えないことを「身分け」ている。蝙蝠が自ら発する音波の反響で自分の位置を知るように、私は自分では決してなることのできない他者の鏡を借りて、絶えず自分を見続けていることも、私は「身分け」ている。そのような生き方をどのように「言分け」ても、その「言分け」は、「身分け」られる生き方超えることはできない。例えば、どんなに死を「言分け」ても、それは私自身の生の「身分け」を超えることができない。それでもなお私は、その「身分け」を「言分け」し続けなければならない。
 だから私は、自分との出会いのなかに、自分を見失い続けてきた。しかし、「わたしのほね」になるほかない私の指が、私の内部で私にだけ響かせるものは、他者を介在させることなく私を凝視める「自分という他者」の声なのだ。
 私のなかに、「分け」ようとする私と絶縁した私がいる。それは私の指の骨にも宿っている〈人間の記憶〉でもあるだろうか。
 私が音を書こうとするのは、その人間の記憶のためであり、また、その記憶に操られてのことなのかもしれない。それならば、いつか私が「わたしのほね」になるときに、私は「自分という他者」として自分と出会い、人間の記憶に還ることができもしようか。

【設問】
(一)「私とはかかわりなく自立的に作動するイメージ」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。
(二)「自分との出会いのなかに、自分を見失い続けてきた」(傍線部イ)とあるが、なぜか、説明せよ。
(三)「私の骨にも宿っている〈人間の記憶〉」(傍線部ウ)とは、どういうことか、説明せよ。

【解答例】
(一)自我が死ぬことで感じることのできる感覚は、わたしの身体が受け継いできた人間全体の記憶であるということ。
(二)わたしたちは本当の自分を知るためにも、言葉を超えたものを言葉で説明する必要があるが、それはいつも言葉をすりぬけてしまうから。
(三)ひとは死ぬことで人間の記憶という大きな流れに還るが、その人間の記憶は実はわたしの身体にも宿っているということ。

【解答のコツ】
 この文章を、散文詩として読むと味わい深い。ただし解答を書こうとすると、なかなか言葉にならない。これが、この問題の狙いである。東大国語・現代文は、自分の言葉に置き換えて説明のできる学生がほしいのである。自分の言葉に置き換えられるということは、きちんと理解しているということだからだ。
 前半で、十年ほど前からときどき使えなくなった右手の「指の骨」から、ピアノの音が伝わって聞こえてくる述べているが、それはそのピアノの音が意識を超えたものであることを表している。意識を超えたもの自我を超えたものであるから、第一段落で谷川俊太郎の詩の一編「死と炎」を引用して、「死」のイメージを高めていたのである。そのピアノの音は「大気がずっと歌い続けてきている韻律」であり、意識的には聴こえてこないが、無意識的には聴こえてくる(傍線部ア)。
 筆者は音楽家であるため、自分の体験のなかで「ピアノの音」と表現しているが、それを一般論に高めた後半では「人間の記憶」と言い換えている。自我を超えた「人間の記憶」は言葉で表そうとしても表すことができないが(傍線部イ)、実は指先に宿っている(傍線部ウ)。この全体の内容を把握した上で、しっかりと自分の言葉で表せるかという問題である。
(一)傍線部アは、当段落の最初の文のなかにあり、前段落の筆者の体験を受けながら、当段落のテーマを述べた記述であることが分かる。前段落の内容をまとめても、当段落の内容をまとめてもいいが、前段落を使うと、筆者の体験に引きずられて、音楽の話に限定されてしまう。青本の模範解答は、見事に引っかかっている。やはり、一般論に高められている当段落を使用した方がいい。実は傍線部アは、前半の筆者の体験を受けて、文章全体のテーマを述べている個所なので、文章全体をまとめれば傍線部アの説明になる。このことに気づけば、簡単に自分の言葉に直せるはずだ。
(二)傍線部イは、「だから私は」に続く文章であり、前段落の内容を受けていることは確実である。前段落の後半で述べられている内容をまとめればいい。それは、どんなに言葉で表そうとしても表すことができないが、それでも言葉で表し続かなければならない、という内容である。あとは、傍線部イに即して、言葉で表せないということに重点を置けばいい。
(三)傍線部ウの直前に「それは」があるため、直前の文「私のなかに、『分け』ようとする私と絶縁した私がいる」を受けていることが分かる。それは、まさに言葉で表せないものである。それが、「私の指の骨にも宿っている」のである。

1996年東大前期・国語第二問「教育論」

中原俊『子どもの謎-神様が降りてくるまで』より出典。
【問題】
 次の文章は、ある映画監督が書いた文章である。これを読み、傍線部ア・イ・ウのいずれかを選び、それを手掛かりとして、感じたこと、考えたことを、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、手掛かりとして選んだ傍線部の記号を記入せよ。
 注意 採点に際しては、表記についても考慮する。
【問題文】
 どうして子どもの頃の映画のなんか作りたいと思ったのだろうか? やっぱり年のせいかな、40越えた頃からだもんな……。折り返し点を過ぎると、人間、ノスタルジーに走るのかな。それとも自分の子どもが引き金かな。
 「子を持って初めてわかる親の愛」なんていうけど、俺あんまり子どもに愛情注いでないから、親の愛いまだによくわかんないし、かえって親ってつくづく自分勝手だと思う。自分が遊びたいときはあの手この手で連れ出すくせに、ちょっとうるさいと「あっち行けー」だもんね。でも、確かに少年らしくなってきた息子が目の前チョロチョロしていると、俺がこいつの頃、いったい何考えていたんだろう、と思うことはあるから、要因の一つではあるんだろうけど。
 自分の子どもの頃をつらつら思い出してみると……。これがすごーく退屈だった。漫画があった、テレビも始まった。野球もメンコもしたし、友達と遊ぶのはまあ、楽しかったんだけど、学校はほんとにつまんなかった。
 あの授業時間の長さ、内容のおもしろくないこと! なんでこんなことしなきゃいけないんだろうと思ってた。今はなんでだか知っている。あれは、わざとそうしていたに違いない。つまんない時間を逃げ出したりしないで、じっとがまんして耐えることこそ、授業の大事な狙いだったのだ。大人の世界はつまらないからこそそれに耐えられる能力のある人間を選別していく方法であり、選別された人間は、役所や会社を基盤とした社会に適し、国の経済を支える、まさしくこれから始まる日本の(それは今の日本だけど)求める大人だったわけ。子どもの時間は、そういう大人になるための訓練期間だったのだ
 僕らの時代はそれでよかった。ルール違反じゃなかった。あんまり大して意味のない問題でも、解ければ合格、進学できたし、いい大学に入るといい就職ができ、そうなることが大方の日本人の希望だったのだから。
 でも、これからはそのことに全然意味がなくなっていく。選別された人間を受け入れる会社がなくなっていくんだから、システムだけが残っててもしょうがない。
 じゃ、いったいどうすりゃいいんだ! というと、僕らが子どもの頃に持っていた不満、こんなことを覚えてどうするの、っていうことを、いったん全部やめてみるっていうのがいいんじゃないないだろうか。
 三角関数だってログだって習ったけど、一度たりとも使ったことなんてないわけで、ま、算数なんかはルールを使っていろんな計算の方法を覚えていく知識遊びみたいなものだから、好きな子はいいけど、嫌いな子にとっては耐え難かったと思う。
 ほんとにいちばん大事なのは、ものを知るときにどういう方法で知るか。たとえば図書館を使って、とか、辞書や事典を使って物事を自分で調べて知っていく方法なんか、もっとちゃんと教えたっていいと思うし、あるいは、ものの名前とか仕組みみたいな、具体的な実学の知識なんかをこれから教えるようにしたほうがいいと思うけどなあ。
 草木の名前とか、魚屋さんで売っている魚の名前なんか、今こそまさしく学校で教えなきゃ、誰も教えてくれない、お父さんとお母さんが知らないわけだから。純粋な意味で自然を大切にする子どもが育つ可能性のある最後の機会は今しかない。
 面白くてためになるのが学校なんだから、生きていくうえで実際的に必要なこと、仲間とのつきあい方、子どもの世界の中でのリーダーシップのとり方とか、子どもたちだけで、あるいはひとりでも生きていける方法を教えるほうがいい。
 小刀の名人に、学校で小刀の使い方を習う。家庭じゃ鉛筆削り使ってもいいが、学校でちゃんと習ってるから小刀扱えるんだ、というほうがいいんじゃないないかな。
 これからは、人間が作ったものや、もともと地球が持ってたものを、どう活用して生きていくかを教えるために、学校という組織は存在することになる。僕ら世代が変革するときが来たんだけど、それは子どもたちのためにではなく、僕ら自身のためにするべきだという気がする。
 我々の世代とあわせるかのように成長肥大してきた戦後日本社会は、考える余裕を奪うように、次々に新しい刺激を生み続け、時を加速し続け、そして今、泡のように崩壊した。考えてみればこれは幸運なことかもしれない。円高や株価の下落に頭を悩ませるより、いったいこの50年、何が欲しくって、何を夢みて生きてきたのかを思い起こすときが来たのだ。
 この50年間に生まれた自己矛盾を解決したい我々自身のために、子どものことを考えるのであって、子どものためを思って子どものことを考えるのは余計なお世話。子どもはどんなところだって順応していくものだからね

【解説】
 筆者は、戦後高度経済成長のモレーツ時代の教育を批判している。自分の受けた教育を、詰め込み教育だと言って批判しているのだ。たしかに学校の勉強は面白くない。一見何の役にも立たないように思える。これが常識的な教育論だろう。しかし、評論文の基本は常識を疑うだ。常識的な大人の教育論に惑わされるのはやめよう。まずは筆者の意見に賛成しながら読む。そうでなければ、筆者の意見を勘違いしたうえで批判してしまうからだ。しかし筆者が縛られている常識に気づいたら、その常識をとことん疑うことだ。
 筆者が述べている環境問題や社会問題を解決していくには、実は基礎力が必要だ。基礎力がなければ、応用力はつかない。自分の将来に直接関係のないものでも、他の子どもには役立っている。子どもの将来が幅広い可能性があると信じれば信じるほど、それだけ幅広い勉強をしなければならない。それだけ自分に関係ない勉強もすることになる。しかし、そんな役に立たないと思っていたものが役に立つことがある。環境が変わったときだ。
 実用的な勉強といっても、それは現時点で実用的なものであり、将来も役に立ち続けるという保証はない。環境が変われば、役に立たなくなる可能性が大きい。環境が変われば、それまで役立たなかった知識が役に立つものだ。実用性だけを基準にしたのなら、融通のきかない大人になるだけだ。だから安易に実用性をもとめる教育が、いい教育だとはいえない。基礎教育が必要なのは、環境が変わっても柔軟に対応できるからだ。
 筆者の主張を読んでいると、小学校レベルの勉強、中学校レベルの勉強、高校レベルの勉強、大学レベルの勉強をごちゃ混ぜにしているように思える。覚えるのが得意なときには覚える勉強をする。なんでもいいから覚えればいい。そんなことを覚えても役に立たないと大人が言ってはダメだ。どこでどんな知識が役立つかは分からないからだ。物事を考えるようになったら、考える勉強をする。これが無理なく効率的な勉強だ。

【解答例】
(ア)子どもの頃は授業がつまらなかったはずなのに、社会人入試は人気がある。しかも、そんな大人は授業が楽しそうだ。じっと耐えることこそが授業の狙いだという筆者の主張は的外れのようだ。授業がつまらなかったのは、何の役に立つのかが分からないからだろう。どんな知識もどこかで何かにつながっている。そのことを大人も分かっていないから、学校がつまらないという。今は役立たなくても、きっと何かの役に立つ。
(イ)勉強では自分で調べることが大切だ。しかし興味のないものを調べるほど苦痛なものはない。夏休みの宿題でも調べ物はつらかった。調べるにはまず基礎知識が必要だから、基礎力のない者に調べろというのは残酷だ。筆者の言うように自分で調べる力をつけるには、実は基礎知識が必要だ。英語も単語力がなければ話せない。今の基準で役立たないものも、環境が変われば役に立つ。
(ウ)教育が問題になるとすぐに制度が変わる。しかし、どんな勉強でも強制される限りはつまらない。制度が変わっても、勉強が強制されるものであるかぎりつまらない。基礎がつまらないのは強制されるからだが、応用には必ず必要なものだから努力するしかない。でも不思議に子どものうちは覚えるのが好きだ。単語だってどんどん覚えてしまう。覚えるのがつらいというのは、大人の先入観なのではないだろうか。

【解答のコツ】
(ア)傍線部アで、筆者は学校の勉強がつまらないものだと極めつけている。それは本当だろうか。そんなところから、自分の考えを広げていけばいい。
(イ)傍線部イで、筆者は自分で勉強することの大切さを言っている。自分で調べるということは、自分から勉強するということだ。でも何もないところから始めることはできない。自分で勉強するにも、まずは基礎がないといけない。筆者は基礎と応用を分けて考えているようだが、このように基礎があってこその応用だ。この基礎と応用の関係を述べれば、筆者の主張に沿いながら、筆者の主張を超えた内容になる。
(ウ)傍線部ウでは、制度はどうであっても子どもには順応力があると述べられている。それは、それまで教育はこうあるべきだと力説していた筆者の主張と矛盾する。実はどんな勉強も強制であれば面白くない。大切なのは制度を変えることではない。この点では筆者も正しい。さらにそこから、自分の子ども時代や身近な子どものことを思い出してみよう。就学以前の子どものを見れば分かるように、小さい子どもは覚えるのが好きだ。「なぜ」「なぜ」と大人をあきれさせるほどの探究心もある。そんな身近な例に気づけば、そこを出発点にして書けるはずだ。論理を破るのは自分の経験だ。具体例が重要なのは、それで常識を疑うことができるからだ。

1996年東大前期・国語第一問「科学思想」

坂本賢三『科学思想史』より出典。
【問題文】
 科学研究にあたっては、科学者は常にある一定の前提のもとに対象に立ち向かっている。それは必ずしも研究者自身に意識されているとは言えないが、それでも事情は変らない。たとえば、現在の大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの「法則」を発見しようとしている。この場合、「法則」が存在するかどうかは科学の問題ではない。それは現代の科学者にとっては自明の前提なのであって、つまり前提なのである。
 しかし、対象の中に法則があるかどうかは必ずしも自明であるわけではない。つい四百年前までは、法則を発見しようなどという人は存在しなかったのであって、研究結果を法則として定式化しようという態度は歴史的に形成されてきたのである。しかし大多数の科学者は、先輩たちが大昔からそのような態度で自然を研究してきたと思い、現在にくらべてaミジュクで不完全であったと思っている。一体に科学者は科学の歴史にあまり関心を持たないのであるが、このような見方で科学の歴史を見れば、科学史は現在の研究に役立たない過去のbイブツに見えるのは当然である。しかしその場合、彼は、実は歴史を見ているのではなく、現代科学に通用するものを拾い出しているだけなのである。
 科学研究にあたって前提とされているのは、一つには、対象はこのようにできているはずだという自然観(社会観)と、第二に、このようにアプローチすれば対象を把握することができるという研究方法である。研究方法はいうまでもなく、自然観からくる。対象が要素から成り立っているとする自然観を採れば、できるだけ分解・分析して要素を見出し、要素間の関係を発見しようとするアプローチの仕方が方法となる。もし対象が何かある超越的存在によってすべて左右されているとする自然観を採れば、そのような超越的存在を把握することが課題である。このように、研究方法は対象をどのようなのものとしてとらえるかによってきまるのである。
 しかし、このような自然観および研究方法は、通常、科学者には意識されていない。その理由にはいろいろあるが、もっとも大きいのは、科学者としての訓練を受ける間に、無意識的に自明なものとして受容するからである。それができなければ、科学者の世界において科学者と認められない。その場合、自分の抱いている自然観にすら意識が及ばないのは、科学者の訓練がもっぱら問題の解き方に始まり解き方に終るからである。
 科学者が科学研究の仕方を身につけ、無意識的にある自然観を身につける場合、大体は指導者と教科書によっている。しかし実を言えば、講義を聞いたり教科書を学習するだけでは研究の仕方は身につかない。それは研究の結果を要領よくまとめてあるだけで、研究の過程を示してはいない。「要領よく」というのは、研究過程に必ずつきものの失敗や脇道へのcイツダツを切り捨て、過去の成功例だけを取り出して体系化しているからである。そして必ず解ける問題だけが問題として取り上げられている。このような抗議や教科書だけで学んだ科学者が、解ける問題だけを取り上げ、一定の手続きに従って行けば研究になると思い込むのは異とするに足りない。
 いずれにせよ科学者は講義と教科書によって、一定の自然観と方法を無意識に身に付けるのであって、すべては自明のこととして受けとられる。小学校のときからそのように育てられているのである。そういうわけで、この前提は、問いの立て方をも決めるものである。
 科学者にとってこの前提が意識されないもう一つの主な理由は、科学には前提を前提とみなさない無反省の態度が結びついているからである。科学および科学者と称する立場では、昔から自分たちは「ありのまま」にみているのだ、という態度をとってきた。前提つまり「色眼鏡」を通して見るから間違いを犯すのであって、前提なしに「ありのまま」に見れば真理が獲得でき、それが科学だと信じられてきたのである。科学の歴史を見ると、新しい見方の提唱の場合、かならず「ありのまま」に見ることが強調され、以前は偏見によってdクモらされ、歪められ、真実が見えなくさせられていたのだと主張される。しかし、この主張が何度も繰り返されてきたこと自体が「ありのまま」に見ることなぞありえないことを示している。つまり、人々はつねに「ありのまま」に見ていると確信してきたのであって、現在「ありのまま」にとらえていると思い込んでいても、いずれはそれも偏見であったと見なされる時がくるに違いない。「自分の見方がつねに正しくて、他人はすべて間違っている」と思っていることを科学者の特質として挙げた人がいるが、まさにその通りなのであって、過去の科学者もその当時において本人は「ありのままに見ている」と思っていたのである。
 科学者をしてそのように思わせているものこそ科学思想なのである。それは地域によって異なり、時代によって異なっている。そして、それぞれの地域と時代における科学研究の前提となってきたのである。

【設問】
(一)「このような見方」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「この前提は、問いの立て方をも決める」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「『ありのままに見ている』と思っていた」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)筆者の考える「科学史」(傍線部イ)の課題について、簡潔に説明せよ。
(五) a ミジュク  b イブツ  c イツダツ  d クモ 

【解答例】
(一)科学は対象に内在する「法則」を発見してきた歴史であり、現在にくらべれば過去は未熟で不完全であったという見方。
(二)科学者は学校や教科書で成功例だけを学んでいるため、既存の自然観を疑うことなく、既存の研究方法で解ける問題だけを解くということ。
(三)実際には既存の自然観という「色眼鏡」を通して見ているにもかかわらず、科学者は「ありのまま」に見ていると信じ込んでいるということ。
(四)科学者が無意識のうちに持っている「前提」を明らかにすることで、現在の科学の現場に資することができる。
(五) a=未熟 b=遺物 c=逸脱 d=曇 

【解答のコツ】
設問の立て方が、傍線部ア・イ・ウ・エの順番ではなく、ア・ウ・エ・イの順番になっているのは、その通りに解答していくと、問題文のあらすじになるようにしたからである。このことに気づけば、解答作成が簡単になる。見直しも簡単だ。
(一)傍線部ア「このような見方」の内容は、指示語「このような」が指している直前の文「大多数の科学者は、先輩たちが大昔からそのような態度で自然を研究してきたと思い、現在にくらべて未熟で不完全であったと思っている」である。さらに、「そのような態度」の内容は、第一段落の「大部分の科学者は、対象の中に法則性があることを疑っては居らず、対象に内在するはずの『法則』を発見しようとしている」である。これら二つの文章をまとめればいい。傍線部アの直後に「過去の遺物」と記されていることからも、現在の科学者が、過去は「現在にくらべて未熟で不完全」と考えていることを含めて解答するといいことが分かる。
(二)傍線部ウ「この前提は、問いの立て方をも決める」は、「そういうわけで」という接続詞に続く文節であるから、その直前に傍線部ウといえる理由が記されていることが分かる。前段落の内容を参照しながら、直前の文を自分の言葉でまとめればいい。
(三)傍線部エ「『ありのままに見ている』と思っていた」は段落最後の文中にあるのだから、この段落の内容をまとめればいい。とくに「前提」を「色眼鏡」と言い換えている文があるのだから、それを使うとわかりやすい解答になる。
(四)傍線部イ「科学史」を含む文「このような見方で科学の歴史を見れば、科学史は現在の研究に役立たない過去の遺物に見えるのは当然である」に続けて、「しかし…」と記しているのだから、筆者は「科学史」が現在の科学に役立つと思っていることは確実である。

今後の京都講演会について

昨日12月23日に予備講演会を実施しました。滋賀・岐阜・愛知が大雪で、私が乗車した新幹線も1時間6分遅れました。そのため参加者も少なかったのですが、連載『東大入試で哲学』の読者が参加されたことは有意義でした。そのため、京都講演会でも哲学講演会を実施することにしました。第1部(13時~15時)を歴史講演会、第2部(15時~17時)を哲学講演会にいたします。
 テキストは、歴史講演では現在印刷中の『佐々木六角氏の系譜』を、哲学講演では東大現代文を使用します。最初のうちは参加者が少ないでしょうから、ゼミ形式にして参加者の皆さんの質問に多く答えるというスタイルにしたいと思います。
 日程は、毎月第2日曜日に開催することにします。まずは2月12日に実施し、3月12日、4月9日、5月14日、6月11日と続きます。


12月京都講演会

【演題】
 第一部「系譜資料論序説」
 第二部「発想の転換の哲学」   
【日時】
 2005年12月23日(祝)
 時間:3講時~5講時(12:20~17:10)
 講演会開始:13時
 講演会終了:16時半
【会費】
 3、000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都 5階 第4演習室
 〒600-8216
 京都市下京区西洞院通塩小路下ル
 (JR京都駅ビル駐車場西側・京都中央郵便局西側)
 TEL(075)353-9111
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

東京講演会の予定

東京講演会は来春2月から始まります。
歴史学と哲学・教養について、それぞれ毎月1回講演予定です。
【歴史学】系図研究・系譜伝承論
【哲学】①発想転換の方法②弱者の進化論
【教養】東大入試で哲学
    ※大学受験者が受講した場合には、受験指導もします。
講演会会場は、学士会館を予定しています。
http://www.gakushikai.or.jp/facilities/index.html
【本館】東京都千代田区神田錦町3-28
    最寄り駅:地下鉄神保町駅
【分館】東京都文京区本郷7-3-1(東京大学構内赤門隣り)
    最寄り駅:地下鉄本郷三丁目、地下鉄東大前
日曜日の場合は、江戸東京博物館を利用する予定です。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/raikan/kotsu.html

1997年東大前期・国語第五問「時の流れ」

長田弘『自分の時間へ』より出典。
【問題文】
 川の流れを見るのが好きだ。たとえどんな小さな流れであろうと、川のうえにあるのは、いつだって空だ。川の流れをじっと見つめていると、わたしは川の流れがつくる川面を見つめているのだが、わたしが見つめているのは、同時に川面がうつしている空であるということに気づく。ふしぎだ。川は川であって、じつは川面にうつる空でもあるということ。すなわち川は、みずからのうちに、自らの空をもっているということ。
 川の流れをずっと見ていて、いつも覚えるのはそのふしぎな感覚だ。川の流れの絶えることのない動きがうつしているのは、いつだってじっとして動かない空だ。川の流れについてそういう感じ方をもちつづけてきて、なじめないのは、流れという比喩の言葉だ。時の流れ、歴史の流れといったふうに、流れという言葉が比喩として語られると、ちがうと思う
 川の流れは、流れさってゆくと同時に、みずからうつすものをそこにのこしていくからだ。流れさるものは流れさる。のこるのは、流されるものがそこにうつす影像だ。時や歴史についていえば、流れとしての時や歴史ではなく、流される時や歴史がそこにのこす影像こそ、いつだって流される時や歴史についてよりいっそう多く語りかけてくるように、わたしには思える。
 桃の花の咲きはじめる季節に、生まれそだった東北の街の郊外にひろがる桃畑をたずねる機会があり、引っ越してから四十五年経って、かつて短いあいだ暮らしたことのあるサクランボ畑や桃畑のある風景のあいだをあるいたが、たたずまいをいまはすっかり変えた街並みには、記憶の入り口となるべきものがまったくない。にもかかわらず、幼い日の記憶が変わらずにそこにのこっていたのは、川だ。
 そこに暮らしていた一学期のあいだだけ通ったそこの小学校のことは、一枚の記念写真もなく、何も覚えていない。ただ通学した小道は覚えていた。小道にそって小川が流れていた。その小川がいまも流れていた。春の日差しをうつす小川は、細かく光りの粒を散らし、小さな流れがこっちにぶつかり、そっちにぶつかって、小道にならんでつづく。その川面のかがやきに、幼い日の記憶がそのままのこっていた。
 あとにのこるのは、或る時の、或る状景の、或る一場面だけだ。こころのそこだけあざやかにのこっている或る一場面があって、その一場面をとおして、そのときの日々の記憶が確かなものとしてのこっている。そこだけこころに明るくのこっているものだけが手がかりというしかたでしか、過ぎさったものはのこらない。日々に流されるもののかなたではなく、日々にとどまるもののうえに、自分の時間としての人生というものの秘密はさりげなく顕われると思う。
 木下杢太郎の、とどまる色としての青についての詩を思いだす。

  ただ自分の本当の楽しみの為めに本を読め、
  生きろ、恨むな、悲しむな。
  空の上に空を建てるな。
  思い煩ふな。
  かの昔の青い陶の器の
  地の底に埋もれながら青い色で居る--
  楽しめ、その陶の器の
  青い「無名」、青い「沈黙」。 (「それが一体になる」)

 人生とよばれるものは、わたしには、過ぎていった時間が無数の欠落のうえにうつしている、或る状景の集積だ。親しいのは、そうした状景のなかにいる人たちの記憶だ。自分の時間としての人生というのは、人生という川の川面に影像としてのこる、他の人びとによって明るくされているのだと思う。人生の中じきりとして、『自分の時間へ』という本を書いた。本という器にわたしがとどめたかったのは、他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い「無名」、青い「沈黙」だ

【設問】
(一)「なじめないのは、流れという比喩の言葉だ。時の流れ、歴史の流れといったふうに、流れという言葉が比喩として語られると、ちがうと思う」(傍線部ア)とあるが、「ちがうと思う」のはなぜか。その理由を述べよ。
(二)「日々に流されるもののかなたではなく、日々にとどまるもののうえに、自分の時間としての人生というものの秘密はさりげなく顕われる」(傍線部イ)とあるが、どういうことか。説明せよ。
(三)「他の人びとが自分の時間のうえにのこしてくれた、青い『無名』、青い『沈黙』だ」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか。説明せよ。

【解答例】
(一)川の流れはただ流れ去っていくものではなく、川面にうつす影像を残していくものであり、時も歴史も多くの影像を残していくから。
(二)人生は流れ去っていく時間ではなく、心の中に鮮やかに残っている一場面をとおして、たしかに記憶に残っているものであるということ。
(三)歴史上の無名の人々が遺跡・遺物として現在に痕跡を残したように、記憶の中に痕跡を残した多くの親しい人たちということ。

【解答のコツ】
(一)傍線部アは段落の最後にある。ということは当段落のまとめであると同時に、次の段落の最初の文につながる。実際に、次の段落の最初の文は、「…からだ」で終わる。つまり、次の段落は傍線部アの理由を述べている。だから、次の段落の内容を自分の言葉でまとめればいい。
(二)傍線部イも段落の最後にある。当然問う段落のまとめであると同時に、次の段落にもつながっている。ここでは、傍線部イのある段落の内容をまとめればいいだろう。
(三)傍線部ウは、木下杢太郎の詩をうけた段落のまとめである。だから傍線部ウのある当段落の内容をまとめればいい。注意点は、「青い『無名』」と「青い『沈黙』」だ。木下杢太郎の詩に登場する「青」は遺跡発掘の現場で発見される青磁器・青銅器などの鮮やかな青色のイメージだろう。筆者は、それを川面にうつる空の青色と重ね合わせたのである。「青い」と形容された「無名」と「沈黙」は、遺跡から発掘された遺物をつくり使用していた無名の人々のことである。このイメージを、筆者は、自分の記憶に登場する親しい人々に重ね合わせた。このことを理解したうえで、最後の段落をまとめればいい。

1997年東大前期・国語第二問「見る」

多田智満子『鏡のテオーリア』より出典。
【問題文】
 見るためには対象と自分との間に距離をおかなければならない。これは明白な事実である。
 しかし、見るという行為が、対象との間の物理的距離を心理的にゼロにする場合がある。他者のまなざしが私に向けられ、そのまなざしが私をとらえたときがそれだ。
 私が或る人の眼を美しいと思ったり、眼の表情に注意したりすることができるのは、その人が私にまなざしを向けているまさにそのときではない。私が彼にまなざしを向け、彼が私にまなざしを向けていないとき、私は距離をおいて彼の眼を知覚することができる。ところが彼が私にまなざしを向けた刹那に、彼のまなざしは彼の眼をおおいかくしてしまう。彼の眼と私の目との間の距離が消え失せ、文字通り二つの眼がかち合うのだ。その刹那には私は彼の眼を知覚することができない。ただまざまざとまなざしを意識するばかりである。この瞬間、他者は私にとって、ことばのラディカルな意味において、現前するのであり、サルトルの表現を借りるならば、そのとき私は「他者と一対になった存在」となる。サルトルはこれを、「いわば双生児的出現」と呼んでいる。
 見られているということは「まなざしを向けられている」ということだ。誰かにまなざしを向けられているということは、とりもなおさず、私が何かしら彼の価値評価の対象になっているということだ。そのときの私の反応は、まず羞恥心か自負であろうが、他者のまなざしは即座に私の内部に組み込まれ、私が私自身に向けるまなざしと同化するかあるいは少なくとも共存する。手っ取り早く言えば、見られていると意識すると同時に私は否応なしに自分を見てしまう。他者は私を映す鏡として現前するのである
 私を見ている他者の価値評価を受け入れるにせよ否定するにせよ、ひたとまなざしを向けられた刹那には、私はまったく無防備で傷つきやすい存在でしかありえない。私は自分が現にそれを生きつつあるところの、流動的な内受容性の現場をとりおさえられ、一瞬周章狼狽し、あるいは少なくともたじろがざるをえない。相手のまなざしに当てるために、私の流動的な存在の表面には大急ぎで透明なかさぶたのようなものができあがる。私が彼の評価を評価できるようになるのは、そのかさぶたが張った後でである。そして相手の評価を評価するためには、彼のまなざしが私のかさぶたの密度に応じた屈折率で私の内部に侵入し、私が私自身に向けるまなざしと共存しなくてはならない。そのときはじめて、私は「他者にとって見える私」と「私にとって見える私」との相違もしくは合致を認めることができる。

【設問】
 次の文章を読んで、傍線部ア・イ・ウのいずれかを選び、それについての解釈、意見を、160字以上200字以内で記せ(句読点も一字として数える)。なお、解答用紙の指定欄に、選んだ傍線部の記号を記入せよ。
 注意1 この文章全体についての理解にもとづいて記述すること。
     単なる個人的な体験の記述を求めているのではない。
 注意2 採点に際しては、表記についても考慮する。

【解答例】
(ア)相手のことを客観的に見ることができるのは、相手との間に距離があるときであり、自分が見る主体になっているからだ。ところが相手のまなざしが自分に向けられた途端、私は相手のことを客観的に見ることができなくなるばかりか、自分が見られる対象になる。このとき、自分は世界の中心にいるのではなく、世界の中に存在する者のひとりだと気づく。これが、他者を意識する瞬間なのだろう。
(イ)誰かが私を見ているということは、私が相手の評価対象になっているということだ。そのとき私は見られていると意識するとともに、自分がどのように見られているのかが気になる。相手に見られることで、私ははじめて自分が何者であるのかを意識するのである。このように、私は他者が存在することで始めて、自分を意識することができる。自分探しという言葉をよく聞くが、実は相手との関係の中でつくられ見つけられるものである。
(ウ)相手から一方的に見られることは、私が相手の評価対象になっていることであり、私が支配する者ではなく、支配される者になっているということである。しかし、そのような従属的な立場から私を解放することができる。見られることを意識し余裕をもつことで、私は相手の視線を客観的に観察できるようになり、相手が見ている私と、私が思っている私の差に気づく。このことで、私はアイデンティティを獲得できるようになる。

【解答のコツ】
(ア)傍線部アは直前の文から「ところが」という逆接の接続詞でつながっていることから、第一段落から逆接の接続詞「しかし」で続く第二段落と対応していることは明白だ。第一段落から第三段落までがひとまとまりとなっているのである。だから傍線部アの内容を理解するには、傍線部アのある第三段落だけではなく、第一段落から第三段落までの内容を踏まえるといい。その内容は、一般に見るという行為が、対象との距離をおいて客観的に見るということであり、自分が主体となっている。しかし相手に見られるということは、自分が相手の対象になるということであり、自分が従属する立場になるということだ。
(イ)傍線部イは段落最後の文であり、当段落の内容をまとめた文である。自分が相手の評価対象になることで、はじめて自分のことが気になるという内容である。「他者は私を映す鏡」を「他人の振り見て我が振り直せ」という意味ではないということに気づかなければならない。
(ウ)傍線部ウは最後の段落の半ばにあり、この段落の内容をまとめれば、傍線部イの内容は分かる。傍線部ウの文中の「かさぶたの密度に応じた屈折率」をどのように言い換えるかが勝負である。「透明なかさぶた」はレンズをイメージしているが、そのレンズによって相手の視線を屈折させることで、相手の視線を客観的に見ることができるようになる。そのことで相手の自分に対する評価を、逆に評価できるようになるということだ。

1997年東大前期・国語第一問「歴史と物語」

坂本多加雄『象徴天皇制度と日本の来歴』より出典。
【内容】
 ある人物についての物語が、なによりも当の本人を満足させなければならない場合とは、どのような場合であろうか。それは、自分が不確かな未来や危機的状況を前にして、何らかの選択あるいは決断をしなければならない場合である。このような場合、ひとはその選択や決断が自分にいい結果をもたらすかどうか判断するために、過去の事例を探り、自分の能力や資質を確認しようとするだろう。そして、その決断が自分にふさわしいものか確認しようとするのではないだろうか。
 高校野球で活躍した生徒がプロ野球入りを進められた場合を考えよう。まず自分の実力について過去の実績を勘案しながら、それと並行してプロ生活が真に自分の願望するものかも確認しようとするだろう。このとき過去の自分にまつわるさまざまな出来事や思い出が、プロ野球に入る決断に向けて、まさしく自分自身で納得しうるような「筋」の中に位置づけられていく。この場合「筋」は、すでに成功している野球選手の物語を借用するわけにはいかない。あくまで本人にとって、その決断が自然と思われるような「筋」でなければならない。すなわち物語が語られることで、それはおのずから決断の理由を構成する。その際、プロに入るという決断が、そうした物語を要請したということも可能であろう。ということは、逆に、プロに入ることを断念する決断がくだされたとしたら、別の物語が語られたであろうことを意味する。すなわち、「来歴」は固定したものではなく、現在の決断との関連でさまざまに語られうる可能性を持つのである。
 このように、ひとは決断の内容にもとづいて自分の資質や過去の出来事を選択し解釈した上で、自らの物語の「筋」をもとめ、決断をくだす。その際、過去の事実に対して当時とは異なった意味づけをする場合もあるだろう。また、当時は意味がないと思われていた事実が重要な意味を持つ場合もあるだろう。このようにして、物語は現在を解して過去と未来を媒介する。すなわち、さまざまな「筋」を秘めた物語の中で、過去と現在が未来を規定し、また、未来と現在が過去を規定するのである
 当人が「何者」であるのかをもっともよく明らかにするものは、なによりも当人にとって切実な自己理解の要求に基づいて語られた物語である。もっとも、このような「理解」を通して得られた「何者」も、他の「何者」でもないという意味で真に独自なものであるとは限らない。そもそも、ひとが自らについて語る物語にとって重要なことは、「独自性」というよりも、むしろ「真実性」ではないかと思われるからである
 切実な自己理解の要求から語られた物語は、「真実性」を有する。ここでの真実性とは、まず当人の物語を構成しているここの出来事や思い出が、当人にとってまさに実在したものと考えられており、かつ他人もその実在を何らかの形で承認できるものであることを意味する。このように、ひとびとが自らについて語る物語では真実性が問題になるのであり、フィクション物語とは区別して、「来歴」という言葉で呼ぶ方が適切であろう。

【設問】
(一)「おのずから決断の理由を構成する」(傍線部ア)とあるが、なぜ「おのずから」というのか。その理由を述べよ。
(二)「過去と現在が未来を規定し、また、未来と現在が過去を規定するのである」(傍線部イ)とあるが、どういうことか。説明せよ。
(三)「他の『何者』でもないという意味で真に独自のものであるとは限らない」(傍線部ウ)とあるが、「真に独自のものであるとは限らない」といっているのはなぜか。説明せよ。
(四)「ひとが…と思われるからである」(傍線部エ)とあるが、「重要なことは」「むしろ『真実性』ではないか」というのはなぜか。筆者のいう「真実性」の意味に留意して説明せよ。
(五) a=カンアン b=ゾクセイ c=タンサク d=ボウキャク e=ネントウ


【解答例】
(一)自分の物語とは、未来に対して適切な決断をするために、過去における自分の事例を引き出し、自分の資質を確認するものであるから。
(二)現在の自分の問題解決のために過去の出来事を選択し、その解釈にもとづいて自らの未来に対して決断をくだすということ。
(三)自分の未来に対して適切な決断をくだすためであり、そこでは個性的であることよりも確かなものであることが求められるから。
(四)適切な決断のためには、その根拠となる出来事が当人にとって実在したもので、他人からも実在を承認できるもでなければならないから。
(五) a=勘案 b=属性 c=探索 d=忘却 e=念頭

【解答のコツ】
問題文は、歴史叙述をフィクション物語と同じだとみなす現在流行の物語論に対する批判にもなっている文章であり、とてもいい内容になっている。歴史学を学ぼうとするものは、この文章の内容をしっかりと自分のものにして、理不尽な(笑)現代思想からの批判に備えるといいだろう。
 しかし設問の立て方が必ずしもうまくいっているとはいえない。この設問の立て方では、設問(一)から(四)まで同じ内容になってしまう。問題作成者もそのことは自覚していたのだろう、設問(四)で「筆者のいう『真実性』の意味に留意して説明せよ」とあるのは、設問(三)の解答と重複した内容にならないようにするために、問題作成者がヒントとして書き加えたものと考えられる。
(一)傍線部アは、「来歴」としての物語を問題提起した第一段落を受けて、具体例を挙げながら詳細に説明した第二段落中の一文にあるので、第一段落の内容をまとめればいい。
(二)傍線部イは、段落最後の文中にあるので、段落最初の文の内容を自分の言葉で記せばいい。また傍線部イを含む一文は「すなわち」という言い換えの接続詞で始まるため、前文「物語は、現在を通して過去と未来を媒介する」の言い換えである。しかもその一文が「このようして」で始まるのだから、段落の内容のまとめであることは明らかだ。さらに直前の二文は、「その際」で始まる但書きなのだから、やはり段落最初の文に注目すればいい。あとは自分の言葉で記すだけだ。
(三)傍線部ウは、「もっとも」で始まるため、段落最初の文に対する但書きである。そのため傍線部ウの理由は後続の文で述べられれている。実は、段落最後の文である傍線部エがその理由である。傍線部エが「…と思われるからである」で終わっていることでも、そのことが理解できる。ということは、傍線部エを自分の言葉でまとめればいいということだ。
(四)傍線部エは、段落最後の文であるため、段落のまとめの文であると同時に次の段落に続く内容でもある。実際に、次の段落で「真実性」の内容について詳しく説明されている。設問(四)で「筆者の言う『真実性』の意味に留意して説明せよ」とあるのだから、次の段落の最初の二文をまとめればいい。そのとき「ここでの真実性とは…」で始まる二文めの内容に留意すれば、設問の条件を満たす。

12月京都講演会のお知らせ

【演題】
 第一部「系譜資料論序説」
 第二部「発想の転換の哲学」
【日時】
 2005年12月23日(祝)
 講演時間:13時~16時半
【会費】
 3,000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都 5階 第4演習室
 〒600-8216
 京都市下京区西洞院通塩小路下ル
 (JR京都駅ビル駐車場西側・京都中央郵便局西側)
 TEL(075)353-9111
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

【内容】
 わたしたちは似たものに同じ記号を付け、同じカテゴリーに分類する。たとえば系図に作為と錯誤が多いという符号が付けられたことで、すべての系図資料が実証的な歴史研究の資料にはなりえないと思われてきました。たしかに系図の記述そのままを信じることはできません。しかし系図は、本当に実証的研究の役に立たないものなのでしょうか。
 一般的には、常識と系譜伝承が食い違ったとき、常識が疑われずに系譜伝承が疑われます。そして、それ以上深く探究しようとはしません。しかし、系譜伝承も歴史が残した痕跡です。系譜伝承を資料とみなすことではじめて明らかになる歴史もあるでしょう。系譜伝承と常識が異なっていたとき、系譜伝承を作業仮説に立てることで常識を揺さぶることができます。そのことで、それまで見えてこなかったものも見えて来るでしょう。
 常識では考えられなかったものと出会ったとき、ありえないと言って無視するのではなく、面白いと思って探求することが大切です。そのことで新しい事実が見えてきます。実はこれが発想の転換の方法であり、哲学の基本です。そこで、第一部で系譜学資料論入門講座を開くとともに、第二部では簡単な哲学入門講座も開きます。 
     

12月京都講演会予定

12月23日(祝)に京都で佐々木哲学校準備講演会を開く予定です。
 来春2月に著書出版を記念して佐々木哲学校講演会を開始いたしますが、今回12月23日にそのための準備講演会を開きたいと思います。準備講演会では、今後の講演会の中心テーマである「系図研究の研究」(歴史分野)と「発想の転換の方法」(哲学分野)の序論を講義いたします。また講演後に、参加者の皆さんの都合をお伺いしながら、今後のスケジュールを決めていきますので、参加予定の皆さんが多く集まっていただければ幸いです。12月準備講演会の日程・会場が正式に決まりましたら、あらためて告知いたしますので、よろしくお願いいたします。
 また希望者がいらっしゃれば、東京でも実施いたします。希望の方はメールでご連絡下さい。

※12月京都講演会の日時・会場
http://blog.sasakitoru.com/200512/article_6.html

1998年東大前期・国語第五問「時間」

檜山哲彦『時の巨人』より出典。
【内容】
 さして用があるわけでもないのに、なにやら腰の落ち着かない年の瀬になると、毎年きまって思い出す句がある。
  年を以て巨人としたり歩み去る
 作者は高浜虚子だ。心そぞろなわが身に比べ、大股で歩む巨人の姿が大きく感じられ、その悠然としたさまに心を傾けたくなるせいだろうか。
 「年歩む・去ぬる年」は冬・歳末の季語だが、年末年始の虚子の句なら、
  去年今年貫く棒の如きもの
の方がむしろ人口に膾炙しているかもしれない。
 じっさい「時」の姿をこれほど生々しく、しかも簡潔に捉えた言語表現には、めったに出会えるものではない。
 そもそも「去年今年」という季語は、暦の上での断絶と時間の流れの連続を同時に言い表そうとしたものだ。見ようによっては、時間を計測し区別立てしようという、じつに人間臭い言葉である
 そこに、日常ありふれた棒という事物が組合わされる。「貫く」という押しとどめがたい動感、「棒」のもつ直接的で飾りのないイメージ、しかも「ボー」という野太く突き抜けるような音感が重なりあったのち、とどめは「如きもの」という捻り技だ。
 このうっちゃり技で、棒が棒という実体でありながら棒を超えたものとなり、「貫く」動きそのものと化して、ニュウッと姿を現してくる。これにもし名前を与えるとするなら、「時そのもの」を措いてほかにはない。
 それは、「われ在って在るもの」と自ら定義するユダヤの神エホヴァにも似ている。だが、ときには怒り、ときには妬む者として表情の見えるエホヴァにひきかえ、この「時」なるものは茫洋としてつかみどころがなく、のっぺらぼうだ。「時」はただただ貫くエネルギーでありつづけ、強いて人間に力を及ぼさないがゆえに、かえって得体の知れない薄気味の悪いものにすら感じられる。人間の尺度をはるかに越えたものがもつ気味悪さである。
 これに比べ、冒頭に掲げた句の「年」には、同じく「時」の姿が捉えられているが、それが巨人に喩えられているため、物語のなかにいるような手触りとぬくもりが感じられる。大きな背を向け、もしかしたら肩を落としているかもしれない大男の後姿に、なにかしら悲しみを宿るせいかもしれない。
 とはいえ、この句を幾度も読み返していると、不思議な逆転を感じることがある。「行く年」という季語によるのであれば、巨人はとうぜん過ぎ来し方へ歩み去り、こちらは振り返って見ているはずなのに、ややもすると、我が前を巨人が歩いてゆき、距りがしだいに大きくなるように思えてくるのだ。過ぎゆく年を見送るのではなく、むしろ時に置いてけぼりを食うような感覚である。
 そうなると、「時」の背中には悲しみの影など微塵もなくなる。あれは単に人間の勝手な感慨であり、センチメンタルな思い込みだったのだ。あるいはこう考えてもいいのかもしれない。じじつ年の巨人は次なる年の巨人にバトンを渡したのであり、やはり目の前を歩いているのは時の巨人。人間といえば、それら背を向けて遠離りゆくふたつの「時」の狭間に取り残された卑小な存在に過ぎない…
 などと曲解めいた読み方はさておき、虚子はこの「年の巨人」というイメージをどこから得たのだろうか。大晦日の別名「大年」からとも思えるが、そう単純ではあるまい。大正2年という年を考えれば、前年に崩御した明治天皇の面影もあるだろう。少しのちには「天の川おもとに天智天皇と虚子と」となる句もあるくらいだ。あるいは「去年今年」の句から逆に考えて、『荘子』に出てくる茫洋とした「渾沌」なる生き物も思い浮かぶ。さらに想像をひろげるなら、ギリシア神話の巨人(タイターン)族の首領クロノス。これはまさしくギリシャ語の「時(クロノス)」と混同されたというからには、かえって平仄が合いすぎるかもしれない。
 この句によって、時の流れはおおどかな巨人の姿を得た。ちんまりと手触りのいいこの時代、ときにはこんな句を呟いてみれば、心と身体の風通しがよくなろう。

設問(一)「じつに人間くさい言葉である」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
設問(二)「棒という実体でありながら棒を超えたものとなり」(傍線部イ)とあるが、どいうことか、説明せよ。
設問(三)「不思議な逆転を感じる」(傍線部ウ)とはどういうことか、筆者の「感じる」順序に沿って説明せよ。

※解答欄は三問とも十三・七センチメートル×二行

【解答例】
(一)人間は言葉で区切ることで自然を認識するが、時間についても計測し「去年今年」と区切ってしまうところがいかにも人間的であるということ。
(二)「如く」ということで、棒のイメージと時間のイメージを重ね合わせ、時間の「貫く」という動きそのものをうまく表現しているということ。
(三)初め遠ざかる時の巨人の背中に悲しみを見ていたが、読み返すうちに、広がり続ける時間の大きさを見るようになったということ。

【解答のコツ】
(一)傍線部ア「じつに人間臭い言葉である」は段落の最後の文であり、当段落のまとめに当る文中にある。しかも直前に「時間を計測し区別立てようしようという」とあるのだから、評論文でよく主張されているように、本来連続的な自然を言葉や数によって区切り割り切ってしまうという人間の概念的思考のことを批判した文であることが分かる。
(二)傍線部イ「棒という実体でありながら棒を超えたものとなり」は段落最初の文中にあり、前段落の内容を受けながら、これから述べられる当段落の内容を指示しているはずである。しかも傍線部の直前で「このうっちゃりめいた技によって、棒が」といっているのだから、前段落を受けているのは明らかだ。前段落と当段落の内容を、自分の言葉でまとめればいい。
(三)傍線部ウ「不思議な逆転」は段落の最初の文中にあり、前段落の内容が、当段落でひっくり返されることを指示している。設問で「筆者の『感じる』順序に沿って説明せよ」とあるので、前段落の内容を述べたあと、当段落の内容を書けばいい。

1998年東大前期・国語第二問「社会人」

赤瀬川原平『社会人原論』より出典。
【内容】
 社会人は領収書をもらう。社会人がなぜ領収書をもらうのかというと、税金を払っているからである。領収書がないと仕事上の必要経費として認めてもらえず、自分の出費になる。
 ところが食事などの場合、仕事なのかプライベートなのか、ちょっと曖昧なことがある。またプライベートの場合でもとりあえず領収書をもらっておけば、いざというとき仕事上の経費として落とせるかもしれないと考えたりもする。その複雑な谷間を歩いていくのが社会人だ。
 社会人どうしが食事をして、レジで支払いを済ませて、
 「あのう領収書を…」
というのは難しい問題である。それをいうと相手は、
 (ああ、ご馳走になったと思ったら、あれは会社の経費なんだな…)
ということになる。その一方、領収書をもらわないと、
 (あれま、経費かと思ったらご馳走になっちゃったんだ、わるかったな…)
ということになる。
 だからレジでの支払いをめぐっては社会人パワーの複雑な絡み合いが渦巻いているのであって、青二才にはそれが分からない。
 しかも領収書の前に、支払いをめぐっても社会人としての暗闘がある。
 「ここは私が」
 「いやいや、私が」
とかいろいろあって、ここが社会人としての見せ場というか、その証しとなる場面である。
 「いえいえ」
というのも社会人用語である。君の奥さん綺麗だね。
 「いえいえ」
という具合にすぐ反応できるのが社会人である。
 「とんでもありません」
というのも社会人用語にある。君の英語はうまいね。
 「とんでもありません」
 それからまた社会人用語としては、
 「おっしゃる通りです」
がある。
 「しかしジャイアンツの選手の取り方というのは、、どうも計画性がないというか」
 「おっしゃる通りで、だから選手が全部つぶれていって…」
 「ぼくはサード仁志でいってほしかったんだけど」
 「おっしゃる通りで…」
 これはぼくが都内のタクシーに乗ったときの会話。運転手の口から、「おっしゃる通り」がぽんぽん出てきて、ちょっと「いえいえ」という感じになってしまった。「とんでもありません」である。
 社会人というのは、ふつうに、人に合わせて、ほどほどやっていると、それでもうとりあえず社会人だ。ふつうじゃなくて、もっと自己を主張して、常識なんかにとらわれないで、ということを表面ではいうけど、それはテレビのマイクを向けられた時だけで、ふつうはみんな社会人だ。

【解答例】
(ア)「いえいえ」には謙遜の意味が意味がこめられている。自分が一番だと思い込んでいると、自分を越えたものが出てきても、それを認められないだろう。謙遜する気持ちを持たなければ、他者を認められない尊大な人間になる。しかし現在「いえいえ」が安易に使用されている。「いえいえ」と言いながら本音では舌を出している。それはそれで賢い対処法なのだろうが、他者を認めないという点ではやはり尊大な態度である。
(イ)目上の人物に褒められたときに、後ずさりしながら「とんでもありません」とよく言う。出る杭は打たれる社会では、能ある鷹は爪を隠した方がいいようだ。しかし相手が本当に自分を引き立てようとしているなら、断り続けることの方が失礼だ。最初は「とんでもありません」と言いながらも相手の話をよく聞いて、もし本気であることが確かめられたら喜んで話を受ける。それが、相手のことを本当に立てたことになるだろう。
(ウ)「おっしゃる通りです」という言葉は、相手には逆らわないという服従の意味を持つ。しかし目上の人物がいつも正しいわけではない。本当に相手を思っているなら、間違いは指摘した方がいい。イエスマンばかりでは事態は悪くなる一方だ。それでも相手が間違っていることを真正面から指摘したら、相手も意固地になるだろう。そこで、「さらに…をすれば万全です」と付け加えて、相手を否定せずに自分の意見を言うといい。

【解答のコツ】
おそらく多くの解答が、オヤジ批判になっていたのではないかと思う。しかし、それでは面白くない。社会人の実態を知らずに社会人批判をしても、それは表面的な批判になる。実際に課題文がそうなっている。東大の採点官は、つねに自分たちが用意した模範解答よりもいい出来の解答を望んでいる。それなら、オヤジ批判で終わらせずに、オヤジ批判を越えた解答を作成しよう。
 実はどのような物事にも長所と短所がある。現実の世界は、合理的に成り立っている頭の中の世界と違って、対立しあうものが実は互いに補い合う関係にあるという相補性の関係で成り立っている。本文で取り上げられている社会人用語「いえいえ」(傍線部ア)、「とんでもありません」(傍線部イ)、「おっしゃる通りです」(傍線部ウ)にも長所と短所がある。それにもかかわらず、短所だけ挙げているから表面的な批判になっている。
 ここで評論文の重要な構文を思い出してほしい。「たしかに…しかし…」である。反対意見を一部認めた上で自分の意見を主張するという構文である。この構文が評論文で有効であるということは、物事には必ず長所と短所があり、現実世界では対立し合っているものが実は相互に補い合っていることを端的に示している。みんなもこの構文を利用すれば、深い内容の議論ができる。
 「いえいえ」「とんでもありません」「おっしゃる通りです」のいずれも、もともとは謙遜の意味で使われていた。だから、それぞれの言葉にもきちんと長所がある。短所を指摘しながらも、相手を思いやるという長所に立ち返った議論をすることで、前向きな解答ができるはずだ。このような作文・小論文形式の問題では、批判で終わるのではなく、解決策を提示して前向きに終わる解答がいい。
(ア)「いえいえ」も「とんでもありません」も「おっしゃる通りです」も謙遜の意味で使われるため、どれを選んでも同じ解答になるが、「いえいえ」が対等な関係にある者に対する謙遜であることに気づけば、それだけでも他の受験生とは異なる内容が書けるだろう。
(イ)「とんでもありません」も謙遜の意味で用いるが、「いえいえ」に比べて謙遜の度合いが強く、自分が相手よりも優れていることを強く否定する。相手が目上のときに用いることが多いことに注目するといい。
(ウ)「おっしゃる通りです」には、相手の意見には絶対に逆らわないという意味がある。このことに気づけば、本当に逆らわないことが相手のためになるのか、というように議論を進めていくことができるので、深い内容で書けるだろう。

1998年東大前期・国語第一問「脳死」

西谷修「問われる『身体』の生命」(『朝日新聞』1992年1月28日夕刊〈変わるか死生観「脳死臨調」答申に思う〉)より出典。
【内容】
 ふつう死は、心臓が停止して血流がとだえ、それに続く全身の生命活動の停止として起こる。ところが脳が先に機能停止に陥ることがある。この場合、中枢神経をまとめる脳の死によって全身もやがて死ぬことになるが、人工呼吸器の力でしばらく脳死状態の身体を「生かして」おくことができる。つまり死を抑制するテクノロジーの介入によって、死を中断された中間的身体が作り出されるのである。
 脳死が心臓死と決定的に違うのは、このきわめて現代的な「死」が、「中間的身体」を生み出すからである。脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格としての発現をいっさい欠いて、いわば誰でもない身体として横たわっている。
 脳死が、現在の医学水準に照らして死の不可逆的な進行を示すものであるなら、臓器摘出で違法性を問われることはないだろう。だがそのことと、脳死を「人の死」と規定することはまったく違う問題である。脳死をめぐる議論で問われているのは、実は脳死と心臓死のいずれが厳密な意味での「人の死」かということではない。それは向こうから訪れる死を「みなしの死」と置き換えるということなのだ。
 移植治療では、訪れる死を確認していたのでは遅いのだ。そこで脳死を人の死とみなし、その段階で身体を人格性の拘束から解放することにする。だが、この「みなしの死」によって、脳死身体の「資材」化への道が開けることになる。役立たない自明の死を、人間の利益にそくして「役立つ死」へと転化することである。
 人間はこれまでありのままの世界を否定し、それを人間にとっての世界へと転化して、自己の可能性の領域を拡張してきた。その人間にとっても、死は最近まで無意味な喪失だった。だがテクノロジーは、死の領分から生に回収できる部分を取り戻すことができるようになった。喪失としての死が、生産的な死になったのである。
 だがこの論理は事態の「不気味さ」に目をつむっている。医療テクノロジーがもたらしたのは、人間を「非人間的」なものにする可能性だ。人間はテクノロジーの主人ではなく、テクノロジーによって変えられていくもののひとつになっているのだ。だから人間は、この「不気味」な状況から逃げるのではなく、この問題に真正面から取り組まなければならない。それが「非人間化」する世界の中で、われわれが取りうる「人間的」態度だろう。
 あの身体には、もはやそれを「私だ」と主張する人はいない。では、それは「人」ではないのだろうか。ここで本当に問われているのはそのことである。移植治療によって人が生きられるのは、人間が身体的存在だからである。つまり、死ぬべき臓器が他者において復活するのだ。それに、移植される臓器が生きているからである。その「生きている」身体から、それでも臓器が取り出されるのが許されるのは、その臓器が他者の身体に引き取られることでしか生きられないからである。一方それを引き受けた身体も、その臓器を完全に自分に同化することはできない。免疫抑制剤によって、自己の固有性を弱めなければならない。そのようなリレーによって、身体的生命はそれ自身の論理を貫いており、部分身体の受容と復活によって、不老長寿とは別の「不死性」に成功しようとしている。

【解答例】
(一)心臓死とは異なり、脳死では人格が失われているのに身体的には生きているという中間的身体を作り出さているから。
(二)心臓死による身体は利用できないため、脳死を「人の死」とみなして死にゆく中間的身体がもつ臓器を資材化するということ。
(三)現代のテクノロジーが人間に役立つ道具であることを越えて、逆に移植治療に見られるように人間を資材化しているという怖さ。
(四)不老長寿は人間の夢だったが、現在の医療技術は人格とは区別された身体を資材の交換によって永続させようとしているということ。
(五) a=厳密 b=拘束 c=拡張 d=悲惨 e=鍛(えて)

【解答のコツ】
わたしは、この文章に納得できないなと思いながら読んだ。脳死状態の者にとって、「わたしとあなた」という二人称的関係にある人間の欠如感に触れていないからだ。愛している者にとっては、脳死を不可逆的に死にゆく相手を「中間的身体」と認めることはできない。柳田邦男も『犠牲』のなかで主張しているように、現代医療に必要なのは「二人称の死」を迎えた者に対するケアである。また臓器を受け取った者が免疫抑制剤を使用しなければならないことについても、個人のアイデンティティの座が脳ではなく身体にあるのではないかという興味深い学説があるのに、そのことに触れていないから、わたしからみたら突込みが足りないなと思ってしまう。
 しかし最初から反抗的な目で文章を読むと、作者の意図を読みそこなう。東大国語・現代文では、作者の意図を正確に読み取ることが求められているのだから、まずは反論をやめて、相手の意見に耳を傾けなければならない。だから東大現代文のコツは、〈賛成しながら読む〉である。反論は問題を解いてからすればいい。実は正確に反論するには、正確に相手の言い分を聞く必要がある。東大は、正確に反論できる人物がほしいのである。だから東大入試では正確に読むことのできる能力を求めているのである。
(一)傍線部アは段落の最初の文であり、前段落の内容を受けている文であり、同時に当段落の内容の導入である。実際に傍線部ア「脳死が心臓死と決定的に違う」に続けて、「このきわめて近代的な『死』が、上に述べた『中間的身体』を生み出すからである」とあり、前段落で述べられている「中間的身体」の受けていることが分かる。同時に傍線部アのある段落の後半で、「中間的身体」のことを「脳の機能を失ったこの身体は、もはや人格的としての発現をいっさい欠いて、いわば誰でもない身体として横たわっている」と述べられている。これらをもとに「中間的身体」の説明を中心に、心臓死と脳死の違いを述べればいい。
(二)傍線部イ「向こうから訪れる死を『みなしの死』と置き換えるということ」は、段落の最後の文であり、当段落のまとめであると同時に次の段落につながる文である。この場合も、「みなしの死」の説明が、次の段落でされている。評論文では初登場の文言がある場合には、かならず後段で説明されている。
(三)傍線部ウ「事態の不気味さ」を含む一文が最初の文にあり、しかも逆説の接続詞「だが」で始まることから、「事態の不気味さ」については当段落で述べられていることが分かる。この段落では医療テクノロジーだけではなく、現代テクノロジー全般のことが述べられているので、医療テクノロジーに絞ることはない。あくまで現代テクノロジーの怖さを表す一例として述べればいい。
(四)傍線部エ「身体的生命はそれ自身の論理を貫いて」を含む一文は、最後の段落の最後の文であり、文章全体のまとめであることが分かる。しかし難しく考えることはない。最後の段落自身が文章全体のまとめなのだから、文章全体を踏まえた上で当段落をまとめれば、文章全体をまとめたことになる。

1999年東大前期・国語第五問「短型詩」

柳沢桂子『生と死が創るもの』より出典。
【内容】
 俳句や短歌は不思議な詩型である。短い言葉のなかに、長い言葉よりも広い世界を表現することができる。長い詩型が言葉によってすべてを限定するのに対して、短い詩型は読者のイマジネーションに頼るために、表出される世界が広がるからだ。
 そういえば、短歌では小さいものを詠うのはやさしいが、大きなものを詠うのが難しいとされる。たとえば、海に浮かぶ小舟を詠うことはできるが、ただ広い海だけを詠うのは難しい。
 これは人間の神経系の構造と関係があろうと私は考えている。鮮明なイメージを持つ言葉で、特定の神経細胞が興奮する。その結果、その言葉に関連するイメージを記憶している神経細胞が興奮して、そこに広々とした世界が開けてくる。

  散る花は数かぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも

 上田三四二のこの歌は、桜の花びらという小さいものの視覚イメージを印象づけることで、谷の深さまで表現している。
 人間の心はまた、自然に敏感に反応する。これはおそらく、生命の歴史と深くかかわっているのだろう。そのため自然を詠った歌の方が、ひとびとの心に訴える可能性は高い。
 時代が進むと、そのような歌に飽き足りないひとびとも出てくる。そのような歌人のひとり土屋文明は生活を詠った。生活を詠うといっても、単に日常の雑事を歌にすればいいというのではない。人間の生理、心理とはかけ離れたところから出発することで、かえって感動をあたえようというのである。

  地下道を上がり来たりて雨のふる薄明の街に時の感じなし

 この歌は、地下道や街というイメージ喚起力の弱い言葉に「時の感じなし」と突き放す。しかし一見ぶっきらぼうなこの歌のそこには、言い知れぬ寂しさがただよう。
 昼間のように明るい地下道から地上に出ると、そこには夕闇が迫り、細い雨が降っていた。アスファルトの湿る匂い。一瞬の時間間隔の落差に、自己の存在感が揺らぐ。時が消えた。人生のエア・ポケットに落ち込んだような底知れぬ寂寥感。しかも「時の感じなし」という突き放した言葉で、無骨な「男の寂しさ」を感じさせる。
 文明は人間の神経系の働きに反する方法で、かえって人の心に訴えることに成功した数少ない歌人だろう。彼は、それまでの自然観照を主とする短歌の世界から離れて、人間の生活を通して人間そのものを詠おうとした。そこには生と死、人間であることの寂しさ、孤独が通奏低音として流れている。

【解答例】
(一)短詩は読者のイメージに頼る部分が大きい分、小さいが鮮明なイメージをもつものを詠うことで、それに関連したイメージが次々と想像されるから。
(二)まず桜の花びら一枚一枚を思い出させ、それが数かぎりなく光を浴びながら落ちていく様子を想像させることで、谷の深さを表現したということ。
(三)人間が生理的に快いと感じる言葉ではなく、むしろ逆なでする表現を使うことで、従来の短歌では表現できなかった現代人の寂しさを表現したと考えている。

【解答のコツ】
(一)傍線部ア「表出される世界が広がる」は最初の段落の最後の文であるため、この段落のまとめの文であることは明らかである。しかも傍線部アの直前に「読む人のイマジネーションに頼る部分が大きくなるため」とあるのだから、そこが理由である。さらに段落の最後の文であるということは、次の段落ともつながっている。この文章の場合は、次の第二段落が「短歌は」で始まり、さらに第三段落が「これは」で始まることから、第三段落で短歌で「表出される世界が広がる」理由が書かれていることが分かる。しかも第三段落の最後の文が「そこに広々とした世界が開けてくる」と終わるのだから、そこも「表出される世界が広がる」理由になっている。これらをまとめるといい。
(二)傍線部イは上田三四二の歌を、筆者の主張に即して解釈するという設問である。文才も多少必要だが、前段落である第三段落の具体例として引用している歌なのだから、設問(一)で応えた内容に、歌の言葉を当てはめていけば、きちんとした解釈になるはずだ。こわがる必要はない。
(三)傍線部ウ「時の感じなし」は、引用歌である土屋文明の歌の結句である。この歌は、「人間の生理、心理とはかけ離れたところから出発して、なおかつ感動をあたえようという」歌の一例として引用されている。そのため、人間の自然な感覚で心地よいとされるものとは逆の事物を詠うことで、むしろ感動を与える試みの歌である。あとは、それがどういう感情を詠ったものなか分かればいい。この歌に関する筆者の解釈は後段で述べられているが、そこで傍線部ウ「時の感じなし」は、都市の雑踏のなかでの寂しさを感じさせると言っている。土屋文明は、人間が生理的には快くないと感じる無機質的なものを題材にすることで、逆に現代人の寂しさを表現するのに成功したとまとめればいい。

1999年東大前期・国語第二問「青春論」

安部公房『砂漠の思想』より出典。
【内容】
これまで日本では青春は不当に買いかぶられるか、不当に抑圧を強いられてきたと思う。しかし、よく考えてみれば、どちらも青春は清純なものだという固定観念のうえに成り立っていたのだ。どちらも、青年をひとつの青春概念の中に閉じ込めているのである。
 だが、本当の青春は、自分が青春であることに決して甘んじたりしない自己否定の精神のことである。現状を認めないことが未完成な魂の特質であり、だからこそ完成に向かうたくましさもある。青虫も、現状否定によって初めてチョウになれる。青春だといって喜んでいるような青春は本当の青春ではない。
 だから青春には、現状を否定してたえず未来に進もうとするエネルギーと同時に、すべて過渡的なものにつきまとっている未完成で矛盾に満ちた青虫的いやらしさが充満している。
 もし大人たちが、本当に青春の味方になってやろうとするなら、「成人の日」のお祝いもいいが、半面いたずらに清純や素直さを押し付けたりせず、そのいやらしさを愛してやるべきだろう。なにも青春に限らず、一見いやらしく見えるものこそ、実は真に美しいものである。

【解答例】
(ア)筆者は、向上心を持つことの大切さを言っているのだろう。思春期に自我に目覚める時期であり、与えられた状況に従順であることに満足できない時期でもある。だから本当の自分を求めて、「自分探し」をする。しかし、本当の自分がどこか別のところにあると考えるのは間違っていないだろうか。本当の自分は今の自分から離れたところあるのではなく、向上心をもって自分の現状を反省することで見えてくるものだと思う。
(イ)青春は、自分の現状を否定して目標を目指すと時期であると同時に、社会の現状にも批判的な時期である。わたしたちは固定観念に縛られていないからこそ、社会の矛盾点に気づくことができる。しかし、これは大人にとっても大切なことだろう。社会の矛盾に気づいたら、正面から立ち向かうべきだろう。逆に常識を疑うことができる柔軟さを持っている限り、年齢に関係なく青春といえるのではないだろうか。
(ウ)大人が若者の味方になろうと思うのであれば、青春の素晴らしさを言うだけではだめだ。むしろ、そんな大人の表向きの言葉に反発するのが青春である。自らの価値観を押し付けるのではなく、若者の批判に耳を傾ける大人こそ、若者の味方といえる。もちろん、それは若者の傍若無人な行動を認めろということではない。若者が社会の矛盾点を指摘したときに、押さえつけるのではなく、真正面から受け止めてほしいということである。

【解答のコツ】
(注意)で、「文章全体の趣旨の理解とそれに基づく意見を求めているのであって、単なる個人的な体験や感想の記述を求めているのではない」と記されているように、筆者の意見を正確に理解することが強く求められている。この課題文のテーマが「青春」であるため、また大人のお説教が始まったと、多くの受験生が思っただろう。わたしもこの文章を読み始めたときには、正直そう思った。しかし東大国語の現代文で、そんなにヤワな文章を出すことはない。これは東大現代文に限らず、受験現代文全体にいえることだ。それにもかかわらず、最初の反発の目をもったまま文章を読むと、そのように反発の目をもつことが大切だと言っている筆者の主張を理解しないまま、解答することになる。味方であるはずの筆者を批判することになる。
 東大で求めているのは、大学の教科書・副教材を正確に読む力である。しかし、正確に読む力があるということと従順であるということは違う。実は正確に読むことができなければ、正しい批判もできないのである。トンチンカンな批判をしてもだれも耳を傾けてはくれない。東大は正しく批判できる人物がほしいのである。
 また、このような問題では傍線部アでも傍線部イでも傍線部ウでも同じ内容になりやすい。それぞれの傍線部の強調点がどこにあるのか正確に読むことが大切だ。以下で、それぞれの傍線部の強調点を見ていくことにしよう。
(ア)傍線部アで言われている「自己批判の精神」が向上心であることに気づくことができれば、あとは向上心の大切さを書くだけだ。
(イ)傍線部イで言われている「過渡的なものにつきまとっているあの未完成で矛盾に満ちた青虫的いやらしさ」が、思春期によくみられる社会批判のことだと気づくことだ。筆者は、自分の常識を疑うと同時に社会の常識を疑うことも大切だと主張している。「同時に」という言葉は、対立するものどちらも大切であることを言うときに使う接続詞である。ただし後者に重点があることが多い。ここでも前者が自分の常識を疑うことの大切さであり、傍線部アの内容と同じであり、後者が傍線部イ独自の内容である。だから社会批判を中心に解答するといい。
(ウ)傍線部ウは大人に対する意見である。社会批判をする若者の意見を無視したり抑圧したりするのではなく、真正面から受け止めるのが大人の役割であると、筆者は述べている。若者の立場から、自分たちが社会批判をしたときに、大人にどう対応してほしいのかを書けばいい。そうすれば、傍線部アとも傍線部イとも異なる内容を書くことができる。

1999年東大前期・国語第一問「身体論」

鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』より出典。
【内容】
身体はひとつの物質体であることは間違いないが、他の物質体とは異質な現われ方をする。
 たとえば、身体が正常に機能しているとき、ほとんど意識のなかに現われない。歩くとき、脚の存在はほとんど意識されない。意識することで、かえって脚がもつれてしまう。つまり、わたしたちにとって身体は、普通は素通りされる透明なものであって、その存在はいわば消えている。しかし、その同じ身体が、たとえば疲れているとき、病気のとき、にわかに不透明なものとして、あるいは腫れぼったい厚みをもったものとして、私たちの意識のなかに浮上してくる。そして、わたしの意識に一定のバイヤスをかけてくる。あるいは、わたしの意識をこれまでとは別色に染め上げる。ときには、わたしの世界との間にまるで壁のように立ちはだかる。わたしが馴染んでいたこの身体が、よそよそしい異物として迫ってきさえする。
 あるときは、わたしたちの行為を支えながらも、わたしたちの視野から消えている。あるときは、わたしたちの行為を押しとどめる。こうした身体の現われ方は、別の局面でも見出される。それはたとえば、わたしたちが何かを自分のものとして「もつ」という局面だ。何かを所有するということは、何かを自分のものとして、意のままにするということだ。そのとき身体は、行為の媒体として働いている。つまり身体は、わたしが随意に使用しうる「器官」である。しかし、その身体をわたしは自由にすることができない。身体は痛み、あるいは倦怠を感じる。
 こういう「神秘」を感じるのは、つねにわたしである。痛みは、つねにわたしの痛みであって、その痛みを誰か他人に代わってもらうことはできない。そのとき、痛みはわたしの痛みというより、わたしそのものであり、わたしの存在と痛みの経験を区別することは難しい。身体にはたしかに「わたしは身体をもつ」と言うのが相応しい局面もあるが、同時に「わたしは身体である」と言った方がぴったりくる局面もある。わたしと身体の関係は、対立や齟齬といった乖離状態もあれば、密着したり埋没したりするときもあるというように、極端から極端へと揺れ動く。
 身体は皮膚に包まれている肉の塊であることは、自明のことのように思われる。しかし、それはどうもあやしい。たとえば怪我をして、一時期杖をついて歩かなければならなくなったとき、はじめは持ちなれない杖の感触が気になる。しかし持ちなれてくると、掌の感覚は杖の先まで伸びて、杖の先で地面の形状や固さを感知できる。感覚の起こる場所が掌から杖の先まで伸びたのだ。身体の占める空間はさらに、わたしのテリトリーにまで拡張される。見ず知らずのひとが、自分の家族なら抵抗のない至近距離に入ってきたとき、皮膚がじかに接触していなくても不快感を感じる。公共の場所でも、いつも自分が座っている座席に、別の人間が座っていると苛立たしい。このようにわたしの身体の限界は、物体としての身体の表面にあるわけではない。わたしの身体は、その皮膚を超えて伸びたり縮んだりする。気分が縮こまっているときには、身体も収縮する。身体空間は、物体としての身体が占めるのと同じ空間を構成するのではない。

【解答例】
(一)身体が正常に機能しないときには、わたしとわたしの身体が分離して、身体が意のままにならないものに感じるから。
(二)事物を意のままにしようとするとき、身体を使って対象に働きかけ、自分の意思を実現しているということ。
(三)前者は身体を心と切り離して客観視しているのに対して、後者は心と身体を一体のものとして主体の側のものとして見ているという違い。
(四)道具を使いこなすことは、道具がわたしの一部になることであり、道具を使うことでわたしの可能性を身体を超えて広げることができるから。
(五) a=染(め上げる) b=襲(う) c=埋没 d=自明

【解答のコツ】
設問(三)(四)に「筆者の論旨にしたがって」とあるように、筆者の意図を正確に読むことが求められている。議論をするとき、相手の意図を曲解して批判してしまうことが多い。せっかく相手が自分と同じことを言っているにも、相手の意図を曲解して、自分の味方になるはずの人を批判してしまう。こんなことは学界でも社会人でもよくある。だから東大にかぎらず大学入試では、相手の主張を正確に読みとれる学生がほしい。現代文はそのためにあると思ってほしい。
(一)傍線部アは段落最後の文であるため、段落の内容をまとめるといい。とくに傍線部アは、わたしにとって身体が異物に感じられるといっている個所なのだから、段落の四行目にある逆接の接続詞「が」の後をまとめるといい。やはり、逆接の接続詞の後が重要だと分かる問題だ。
(二)傍線部イの後に、言い換えの接続詞「つまり」があるので、後の文章「つまり身体は、わたしが随意に使用しうる『器官』である」を自分の言葉に直せばいい。このとき、何を「随意に使用しうる」のか、傍線部イの前文を見ればいい。
(三)傍線部ウは段落の半ばにある文である。しかも接続詞もなく前文から続いている文章だから、前文の言い換えであることは明らかだ。前文が分かりやすい言葉で、具体的に書いている文であり、傍線部ウは抽象的な言葉でまとめている文である。また自分の言葉で説明するときに、段落前半で使用されている「身体一般」がどう意味で使われているのか考えること。医者から見た「身体一般」というのは、患者の身体ということだから、対象としての身体だと分かる。それに対して「だれかの身体」というのは、患者にとっての自分の身体である。つまり客観的に対象としてみている身体と、痛みを感じているわたし自身としての身体である。
(四)傍線部エも、段落半ばにある文である。しかも、前文から接続詞もなく続いている文である。やさしい言葉で具体的に記されている前文のを内容を、傍線部エは抽象的な言葉でまとめているのである。だから前文を自分の言葉でまとめるといい。本文は心身二元論から身体一元論、そして道具も自分の一部であるという主張というように、段階的に進んできているのであるから、それを踏まえて解答すればいい。しかも傍線部エは前向きな内容であり、限界が広がることを、可能性が広がることと言い換えてもいいだろう。一歩抜き出た内容になる。

東大現代文・受験現代文での出題者の意図

東大国語の現代文を読むときに注意してほしいことは、どんなに反発したい内容であっても反発しないで、賛成しながら読むということである。これは東大現代文に限らず、どの大学の現代文にもいえることだが、受験生でも反論できるほどヤワな評論文が、受験現代文で使用されることはない。反発を感じたとしたら、むしろ読み方が浅いということだ。出題者は、その評論文を読んで何かを感じてほしいと思って出題しているのである。
 しかし大学は、従順な学生を欲しがっているわけではない。正しく理解できなければ、正しく批判することもできないのだ。東大がほしがっているのは、実は正しく批判できる人物である。正しく批判するためにも、まず筆者の主張を正しく理解しなければならない。そして正しく読むためには、最初から批判の眼を向けるのではなく、まずは賛成しながら読むということである。そうすれば、読む価値のある文章であることに気づけるはずだ。それが出題者の意図に応えるということにつながる。
 たとえば、2001年東京大学前期試験・国語第四問である。ここでは若者文化としての「携帯電話」が論じられているが、前半部は携帯電話を使用しない人が携帯電話のことをよく知らずに批判しているので、携帯電話を使用している者にとっては読む気にもなれないものだ。しかし、後半部の筆者の持論はいい内容になっている。前半部で反発して、そのまま反発した目で後半部を読むと筆者の意見を汲み取ることができなくなる。筆者の主張をまとめると、次のようになる。
 文体があるということは自分なりの見方があるということであり、自分らしさを持っているということである。だから文体を必要ないということは自分らしさを放棄することにもなる。もちろん、自分なりの見方を持つということは、自分なりの見方しかできないという限界にもなるが、それは逆に自分なりの切り口をもつという個性にもなる。文体を持たないオシャベリしかできないということは、つまり文体がないということ、個性がないということになる。
 筆者の主張は的外れではない。実際、現代においてアイデンティティの喪失は深刻な問題でもある。占いブームにも見られる「自分探し」は、そのことをよく示している。
 出題者が、課題文を賛成しながら読んでほしいと思っていることは、1999年東京大学前期試験・国語第二問の(注意)で、「文章全体の趣旨の理解とそれに基づく意見を求めているのであって、単なる個人的な体験や感想の記述を求めているのではない」と記されていることで理解できる。このときの課題文のテーマが「青春」であったから、よけいに受験生には注意してほしかったのだろう。翌年から東大前期試験・国語第二問で出題されていた200字以内の論述問題がなくなったことは、もしかしたらこの注意にもかかわらず「文章全体の趣旨の理解とそれに基づく意見」が少なかったことを象徴しているのかもしれない。
 この問題に関しては、青本よりは赤本のほうがいい模範解答だ。青本の解答は、「文章全体の趣旨の理解とそれに基づく意見を求めているのであって、単なる個人的な体験や感想の記述を求めているのではない」という(注意)に注目するよう呼びかけているにもかかわらず、出題者の意図を無視している。ひとつの模範解答に頼ってはダメだということが分かる。そのような意味で、わたしが公表している解答例についても同じだ。わたしは、受験生でも練習によって書けるようになるレベルで解答例を書いているので、当然わたしよりいい内容の解答があるはずだ。わたしが「模範解答」としないで、「解答例」としているのもそのためだ。ぜひ、読者の皆さんには模範解答を超えるような解答を目指してほしい。

※2001年東京大学前期試験・国語第四問・解答例
http://blog.sasakitoru.com/200511/article_18.html

※1999年東京大学前期試験・国語第二問・解答例
http://blog.sasakitoru.com/200511/article_30.html

※1998年東京大学前期試験・国語第一問・解答例
http://blog.sasakitoru.com/200511/article_38.html

※1996年東京大学前期試験・国語第二問・解答例
http://blog.sasakitoru.com/200512/article_42.html

2000年東大前期・国語第四問「言葉」

三木卓『海辺の博物館』より出典。
【内容要約】
 窓の向こうには丘がある。この数年、この丘をながめながら仕事をしていたから、この丘の変化は分かったつもりでいた。それでも見落としているものを発見したり、知っているものでもあらためて感銘したりする。
 去年、わたしは自分にしては長い時間を書けた小説を発表した。今わたしは次の、時間のかかる小説に着手しようとしている。それは、わたし自身も変化していると、感じるからだ。
 小説は、自分をからめとる世界をひとつ自分なりに書くということだ。そのときは、これが自分のみえた最高の世界だと思ったから発表したわけだが、いざ発表してしまうと、つぎの試みができなくなってしまう。自分によって書かれた言葉は、その行手行手で心得顔に待っていて、〈おまちどうさま〉と皮肉をいうばかりだ。いちどつくられた自分の網から出ることは難しい。
 だから、わたしは待っているよりほかはなかった。わたしは、掘立小屋をひとつ建てたにすぎない。いちどそれを壊してしまい、しばらく知らぬ振りをする。それにしても、わたしたちは言葉を信じすぎる。わたしたちは言葉と現実をとりちがえる。あるいは現実を完全に把握していると思い込んでいる。しかし現実のわたしは、言葉以上の知覚体である。そしてまた言葉は限界を持っているがゆえに、表現や認識の媒体たりうる。
 言葉と言葉のあいだには大きな隙間がある。言葉はポイントしか示さないデジタル表示のようなものである。しかしアナログの秒針が、デジタルで表示されるポイントとポイントのあいだを均質に動く保障はまったくない。
 世界が自分がつくった掘立小屋におさまっているように見えるのは、世界がデジタル表示のように見えてしまっているということである。言葉の呪縛にひっかかってしまったというだ。しかし、今わたしはそこから脱しつつある。言葉と言葉のあいだに広がっている闇がしだいに深さを増しつつある。まだあるべきものまでにはかなり遠いが、それでも言葉の背後の領土をもういちどつかみなおしたいという気持ちがおこってきている。
 振りかえってみると、いつもわたしは自分の変化を願っていたと思う。それは、わたしなりの現実への尊敬の仕方なのだと思う。私が変れば、現実はもっともっと深いものを見せてくれると思っている。
 この五月でわたしはまたひとつ年齢を重ねた。これから、さらに意外性ある未知の視角を体験する可能性もあるだろう。これからどう変化していくのか。活力ある初夏の丘の変化をながめながら、そんなことを思ったりする。

【解答例】
(一)いちど言葉で表してしまうと、世界が固定されてしまい、新しい試みをしようとしてもなかなか抜け出せないということ。
(二)言葉をデジタル時計で世界をアナログ時計で喩えたが、世界は針の動きのように均質的に連続するものではないということ。
(三)わたしたちは言葉を超えた現実を知覚できるので、言葉の限界を認識することで現実を把握できるようになるということ。
(四)年齢をひとつ重ねたが、まだまだ新しい視点を獲得して未知の世界を見ることができるだろうという期待に胸を膨らませている気持ち。

【解答のコツ】
(一)傍線部アのある段落の内容だけでまとめようとすると、東大の過去問集の模範解答にあるような間違いをしやすい。この段落は表現が難しいので、それに惑わされて一字一句にこだわった解答になってしまう。
 あらためて傍線部アのある段落の位置を見ると、前半部の内容をまとめる段落にある。そのため、まず前半部の内容をまとめるといい。前半部の内容は、自分は分かっているつもりでも、まだまだ見落としているものがあり、自分自身も少しずつ変化していると感じるということだ。
 さらに傍線部アの次の文が段落最後の文であり、しかも傍線部アと接続詞なしでつながっているため、前半部のまとめであり、傍線部アの言い換えであると分かる。いちど言葉で表してしまうと、そのイメージから抜け出ることが難しいという内容だ。だから、前半部の内容と次の文の内容を合わせまとめるといい。
(二)傍線部イは、アナログ時計のたとえに対する但し書きであることに気づこう。言葉はデジタル時計のようなもので世界を分節するのに対して、世界はアナログ時計のようだと述べた後に、筆者は「もっとも」と述べて但し書きを書き加えた。アナログ時計の針は均質に動くが、現実の世界は均質ではない。そのことを述べたかったのである。だから、均質ではないということに重点を置いて書けばいい。
(三)傍線部ウは、言葉の限界について述べた前段落の内容を受けて、そのような思いに達した自分の感慨を述べた段落にある文だ。わたしたちは「知覚体」として、言葉を超えたものを感じることができる。だから、言葉ではなく現実を尊重しようという文脈である。答えを作成するときには、前段落の後半、逆接の接続詞「しかし」の後の内容を理解し、さらに傍線部ウの直後の文が「だから」で終わり、傍線部ウの理由を述べていることが明らかなので、その文を参考にするといい。
 このように東大現代文における傍線部は、同じ内容について述べられている複数の段落のまとめの文であることが多い。だから傍線部の内容を要約するには、前後の段落の内容も踏まえて解答するといい。
(四)傍線部エは、文章全体のまとめであり、いま筆者が言葉の呪縛から逃れて新しい世界を見たいという気持ちに溢れていることが述べられている段落の最後の文である。文全体の内容を踏まえて、この段落の内容を自分の言葉でまとめるといい。この問題の設問のなかでは、もっともまとめやすいものだ。

2000年東大前期・国語第一問「環境問題」

加茂直樹『社会哲学の現代的展開』の中の「環境保護は何を意味するか」より出典。 
【内容要約】
環境問題を取り上げるとき、環境保護は当然のことと考えられている。しかし「環境の保護」という言葉を、みんなが同じ意味でつかっているわけではない。そしてその微妙な差異が、実践の上では重大な差異になりうる。
 そのうえ環境保護の対象として「環境」「自然」「生態系」が挙げられるが、これらの間にはニュアンスの違いがあり、場合によってはその違いが大きなものになる。
 まず自然は、近代自然科学的な見方によれば、それ自体としては価値や目的を含まず、因果的・機械的に把握される世界である。人間はもちろん自然の一部であるから、人為と自然の対立はない。すべての事象は等しく自然的である。 
 だから「自然を守れ」というスローガンに実質的意味が与えるには、人為を特別なものとして位置づけ、人為によってどれだけ改変されているかで自然の価値評価をする必要がある。もっとも極端な立場は、人為的改変をまったく受けない自然が最善である。しかし、人間は自然に人為を加えることなしには生存できない。人類が自らの生存を否定するのでもない限り、人間が守るべき自然は、手付かずの自然ではなく、人為が加えられて人間が生存しやすくなった自然である。
 このように自然は元来没価値的な概念であり、人間との関連付けによって初めて守るべき価値を付与される。では生態系という概念はどうだろうか。
 生態系とは、生物群とその生物群に影響を与える気象、土壌、地形など非生物的環境を包括したものである。そして食物連鎖が平衡状態であれば、生物群集の個体数は変わらず安定している。しかし人為が過度に加わると、そのなかの生物種を絶滅させたり、さらには生物が生存できない環境を作り出してしまう。また、生物種がすくないほど生態系の安定度が低くなるので、生物種の多様生を保つことが重要とされる。
 この生態系の概念には、機械論的自然とは異なり、価値が含まれてる。生態系は生物共同体であり、その安定が乱されると多くの生物種の生存が脅かされる。だから共同体の一員である人間は、この安定を維持する義務があるというのである。では、このように共同体の概念から倫理規範を導き出すことは妥当であろうか。
 この議論に際して、まず重要なことは、生物共同体と人間共同体の道徳とは異なっているということである。生物共同体を構成する他の生物たちには権利や義務の意識はない。だから、ある種が生態系を乱したとしても、その種に責任を問うことはできない。それに対して人間は、他の種よりも生態系を乱す可能性が高いという点で特異だが、そのことを反省するという点でも特異な存在である。
 第二に、生態系の安定で守られるのは種であって、個体ではないということだ。生態系を種のレベルで見れば種の共存といえるが、個体のレベルで見れば弱肉強食の食物連鎖である。個人の生命を尊重するという人間社会の倫理を、動物の個体にも適用するならば、かえってその種全体の破滅を招ねかねない。
 生態系の概念は、機械論的な自然の概念よりも豊かな内容を持っているといえる。しかし、生態系を守ることが人間の義務だということはできない。その理由の一つは、生態系の安定した状態は一つではなく、多くありうるということだ。ある状態が乱されても、やがて生態系は別の状態で安定するだろう。この場合、前の状態の方が望ましいという根拠はない。また、比較的少数の生物種から構成される生態系もあり、それが多数の生物種からなる生態系より劣るともいえない。だから、生態系にとっては、ある特定の安定状態に価値があるとはいえない。しかし人間にとっては、自らが快適に生存できる状態こそが貴重であるといえるだけだ。
 環境という概念は、自然や生態系とは異なり、ある主体を前提とする。いうまでもなく、環境は人間にとっての環境である。保護されるべき環境は、人間が健康に生存できる環境である。だから環境保護とは、まちがいなく人間のためのものである。
 以上の考察が正しいのであれば、「地球を救え」「自然にやさしく」といったスローガンが不適切であることが分かる。このように表現することで、人類が自らのためではなく、地球や自然のために利他的に努力するという意味合いが含まれるからである。人類が滅んでも、地球や自然は何かしらの形で存続しうる。実は、われわれが守っているのは、人類の生存を可能にしている地球環境条件である。だから、われわれの努力を動機付けているのは人類の利己主義であり、まずそのことの自覚が必要である。

【解答例】
(一)自然にとってはどの状態も自然であることに変わりはなく、どの状態が最善の状態であるか問うことはできないということ。
(二)われわれが守ろうとしている自然は、実は人間にとって都合のいい自然であり、けっして自明のものではないということ。
(三)個体の生命を守ることで、食物連鎖で成り立つ生態系の安定が崩れ、その安定よって守られている種も滅ぶことになるから。
(四)生態系の概念には機械論的な自然と異なり、多様な生物種による生物共同体の安定という意味が付与されている。
(五)環境保護運動で保護すべきと言われているものは、実は人間が健康に生存するための環境であり、意識的であれ無意識的であれ、保護運動は人間の利己心から出発している。このことを理解することで、環境保護での意見の相違を乗り越えることができよう。
(六) (a)微妙 (b)局地 (c)脅(かされる) (d)維持 (e)犠牲

【解答のコツ】
(一)傍線部アは段落の最後の文であり、段落の内容をまとめればいい。
(二)傍線部イの直前に「以上見てきたように」とあるため、前段落の内容を受けていることは明らかだ。しかも段落最初の文は、前段落の最後の文と対応していることが多く、この場合もそうである。だから、前段落の最後の文をうまく使うといい。
(三)傍線部ウは段落の最後のまとめの文であるのだから、この段落の内容をまとめればいい。
(四)傍線部エの次の文が、逆接の接続詞「しかし」で始まることに注目するならば、「しかし」以降の文で否定されていることが、傍線部エの内容である。そこで否定されているのが「生態系の安定」と「生物種の多様性」である。この二つをキーワードにしてまとめるといい。
(五) 傍線部オは文章全体の最後の文であり、設問でも「この文章の論旨を踏まえ」とあるので、環境問題のところをまとめただけでは不十分だ。ただし難しく考える必要はない。傍線部オのある段落が、「以上の考察が正しいとすれば…」とあるように文章全体のまとめになっている。だから、この段落の内容をまとめればいい。このとき注意すべきことが、筆者の意図である。筆者はけっして環境保護運動を完全否定しているわけではない。「地球のため」「自然のため」と美名のもとで環境保護運動をすることを否定しているのである。意識的であれ無意識的であれ人類生存という利己的な目的のために運動をしている、ということを自覚するよう求めているのだ。このことで過激な運動を諌めるとともに、環境保護に消極的な人たちの参加を呼びかけることができ、意見の一致も可能になる。筆者の主張が意見の相違を乗り越えることにあることは、第一段落で分かることだ。文章全体を見る必要があるのは、そのためだ。

2001年東大前期・国語第四問「携帯電話」

岡部隆志『言葉の重力』より出典。
【内容要約】
携帯電話を通した会話は、独り言の掛け合いではないだろうか。会話の中に特に伝えたいことを強調するポイントがなく、ただ自分のことをとりとめもなくしゃべっている。そこにあるのは、自分の独り言を一方的に話すという関係である。
 インターネットで飛び交う声も、独り言に近い。だから私はそこに私的な文章を載せる気になれない。文は自分に向って書くもの、他者へ伝達するものと、私は思っているからである。
 独り言には、何かを伝えようというメッセージ性がない。かといって、友人との楽しいおしゃべりのように、相手の反応を確かめるものでもない。独り言はとにかく感じたことを文字にすればいいので、誰も読んでくれなくてもかまわないというものである。言い換えれば、文体がない。文体には、相手に自分が伝えがたいものを伝えようとする工夫であるが、インターネットでの文章は、とにかくしゃべってしまおうという文章なのだ。
 インターネットで飛び交う文章は、携帯電話で自分のことをとりとめもなくしゃべる言葉と基本的には同じだと思われる。独り言のやりとりといえる。
 独り言的な言葉の氾濫を目の当りにして、私は正直とまどっている。私の文には自分なりの文体がある。文体とは、私が他者に関わる態度であり、私の世界を他者に伝える方法である。私の思想といってもいい。しかし、それは私の世界を他者に無理強いするものであり、多義的で流動的な現在の世界に対して私を閉じてしまうことでもある。言い換えれば、私を不自由なものへと縛り付けているのも文体でもある。
 携帯電話やインターネットというコミュニケーション文化がなかった頃、自分のことをすべて聞いてくれるような関係を作ることは大変だった。だから、誰もが自分なりの文体を作ろうとした。小説や詩もそのような文体の一つだ。独り言のニュアンスを持ちながらも、他者に関わる一つの方法だった。だが、自分という存在を丸ごと聞いてくれる関係が可能なら、文体など必要ないといわれれば、確かに必要ないと答えてしまいそうになる。これは困った。文体など必要ないと言ってしまうことは、私が私をいらないといっていることと同じようなものだからだ。
 われわれの文学的な言葉が抱え込む共通の価値を一言で言えというなら、それは「孤独」である。そのように考えるならば、携帯電話のやりとりやインターネットでの膨大なおしゃべり群は、実に「孤独」である。文体という抽象力を持たないがゆえに、その「孤独」はより生々しく現実的である。しかも社会的である。

【解答例】
(一)何か伝えたい内容があるわけでもなく、また相手の反応を気にするでもなく、ただ一方的に自分のことを話しているだけだから。
(二)文体は自分らしさの表出だが、そのために多義的で流動的な世界を自分の視点で固定してしまうという欠点もあるから。
(三)文体を必要ないと言ってしまうことは、自らのアイデンティティの放棄を意味しているのと同じことになるから。
(四)携帯やインターネットでのおしゃべりは、自分らしさの喪失をともなっているため、そこで抱えられている孤独は深刻であるということ。

【解答のコツ】
東大国語の現代文を読むときに注意してほしいことは、どんなに反発したい内容であっても反発しないで、賛成しながら読むということである。本文では携帯電話について論じられているが、前半部は携帯電話を使用しない人が携帯電話のことをよく知らずに批判しているので、携帯電話をしている使用している人からは読むのもイヤになる。しかし、後半部の筆者の持論はいい内容になっている。前半部で反発して、そのまま反発した目で後半部を読むと筆者の意見を汲み取ることができなくなる。
 文体があるということは自分なりの見方があるということであり、自分らしさを持っているということである。だから文体を必要ないということは自分らしさを放棄することにもなる。もちろん、自分なりの見方を持つということは、自分なりの見方しかできないという限界にもなるが、それは逆に自分なりの切り口をもつという個性にもなる。文体を持たないオシャベリしかできないということは、つまり文体がないということ、個性がないということになる。実際、現代においてアイデンティティの喪失は深刻な問題でもある。占いブームにも見られる「自分探し」は、そのことをよく示している。
 これは東大現代文に限らず、受験現代文全体にいえることだが、受験生が反論できるほどヤワな評論文を出題することはない。出題者は、その評論文を読んで何かを感じてほしいと思って出題しているのである。これが出題者の意図だ。まず反論をやめて、筆者の言いたいことに耳を傾けることだ。それが出題者の意図に応えるということになる。
(一)傍線部アは、それまでのエピソードをまとめた段落の最初の文であり、この段落の内容をまとめればいい。
(二)傍線部イの直前に「言い換えれば」とあるので、直前の文を自分の言葉で書けばいい。その直前の文は「だが」で始まっており、やはり逆接の接続詞の後の文は、筆者が主張したい文だと分かる設問になっている。ただし「…も私の文体である」と言っていることは、文体の長所を認めた上で短所を述べているということだから、解答でも長所に短く触れた後で、「だが」以下の短所をまとめると、さらにいい解答になる。
(三)傍線部イのある前段落で、「文体」がアイデンティティを意味していることを理解できていれば、この設問は簡単である。傍線部ウを自分の言葉に言い換えるだけである。「文体」をいらないということは、とりもなおさず「自分らしさ」をいらないと言っていることと同じである。筆者が「これは困った」と言った気持ちが分かるはずだ。
(四)傍線部エは文全体の結語だが、「孤独」についての結語であるため、「孤独」について書かれている最後の段落の内容をまとめればいい。携帯やインターネットでのおしゃべりのことを、筆者はそれまで理解できないといっていたが、傍線部エの直前から理解を示している。どうして理解できたのか、その理由が傍線部エで書かれていることである。傍線部エの直後に「しかも、社会的である」と述べていることから、筆者が社会問題として捉えていることが分かる。自分の言葉で書けるかどうかの分かれ目は、「文体」が「自分」という意味だと分かっているかどうかだろう。「文体という抽象力をもたない」というのは、自分を持たないという意味である。

2001年東大前期・国語第一問「母国語」

リービ英雄「ぼくの日本語遍歴」(『新潮』2000年5月号)より出典。
【内容要約】
ぼくが「星条旗の聞こえない部屋」を発表してから、なぜ母国語の英語ではなく日本語で書いたのか聞かれた。その質問の中には、英語で書いた方が楽だろうし、近代でもポスト近代でも英語が支配的な言語であるのにという意味合いが含まれていた。
 ぼくが日本語で書きたくなったのは、日本語が美しいからだ。しかし、もっと大きな理由は、外国人にとっては壁であり潜戸でもある日本語について、小説を書きたくなったからだ。西洋から日本へ「越境」した内容を英語で書いたら、それは日本語の小説の英訳にすぎなくなる。それだったら最初から日本語で原作として書いた方がいい。
 ぼくにとっての日本語の美しさは、多くの日本人が口にしていた「美しい日本語」とは異なるものだった。ぼくはあくまで外国人にすぎなかった。ぼくが初めて日本に渡った昭和四十年代には、外国人はいくら努力しても、「内部」の人間からは外国人にしか見られず、永久に「読み手」であることが運命づけられていた。
 日本語の作家としてデビューして間もない頃に、在日韓国人作家の李良枝から電話があった。「韓国人」の日本文学の先輩が、「アメリカ人」の日本文学の新人を激励するという電話だったが、話が弾むうちに、李の『由煕』の主題でもあった、日本語の感性を運命のようにもったために、「母国語」にならなかった韓国語について尋ねてみた。
 すると動詞の感覚が違うという話になった。韓国では、「漢語+する」という言い方をして、日本の大和言葉に相当する動詞を使わないという。李良枝は、「母国語」であるはずの韓国語の感覚に違和感を感じたのである。
 その会話から一ヶ月経って、李良枝は急死した。在日韓国人として生まれたために、母国語であるはずの韓国語に違和感を感じるほど、日本語の感性で育った李良枝の言葉を思い出すたびに、「母国語」と「外国語」とは何か、ひとつの言葉の「美しさ」とは何か、そのわずか一部を勝ち取るために自分は何を裏切ったのか、今でもよく考えさせられる。そして日本と西洋だけでは、日本語で世界を感知して日本語で世界を書いたことにはならない、という事実にも気づき始めた。
 日本から中国大陸に渡り、はじめて天安門広場を歩いたとき、あまりにも巨大な「公」の場所で、逆に私小説を書きたくなった。アメリカとは異なった形で、自らの言語を「普遍性」を持った言葉と信じている多民族的大陸の都市を歩くほど、民族の特殊性を強く主張する島国の言葉日本語で、そこでの実感を書きたくなった。そして、アメリカ大陸と中国大陸の二つの言葉を媒介にした感情が記憶の中で響く一人の主人公の物語を、わたしは構想した。
 古代のロマンではなく、同時代の中国を書こうという試みは、すでに武田泰淳や安部公房にもあった。その半世紀後に中国に渡ったわたしは、まずその半世紀の間になされていた漢字の簡略化の異質性を目の当たりにした。わたしはすでに日本語の感覚で受け止めていたのである。また、いま構想している私小説の中で、わたしの母国語であるはずの英語は、ストーリーの一部として使われているだけであった。わたしにとって日本語がメイン・ストーリーになっていた。
 東京に戻り、新宿の部屋で中国語と英語の二つの大陸の言葉で聞いた声を思い出しているうちに、外から眺めていた「Japanese-literature」すら記憶に変り、日本語で世界を認識し表現するようになっていた。

【解答例】
(一)西洋出身者が日本に来た体験を書くのであれば、壁であると同時に扉でもあった日本語で書く必要があると思ったから。
(二)日本に生まれ育った日本人だけが理解できると認識されていた、日本人のアイデンティティとしての日本語。
(三)日本語を外国語として読み、日本を内部から見るのではなく、あくまで外部から客観的に見るということ。
(四)在日韓国人として生まれたため、母国語韓国語に違和感を感じるほど、日本語の感性を持った者の声ということ。
(五)筆者は天安門広場に私を圧する公を見るように、世界共通語である英語・中国語よりも特殊な日本語を美しいと思っている。そんな筆者にとって日本語は、現代中国語の簡略体に違和感を感じ、母国語英語さえも過去のものになるほど、母国語化しているということ。
(六) (a)激励 (b)排除 (c)普遍 (d)媒体 (e)崩壊

【解答のコツ】
(一)傍線部アは、筆者が作品「星条旗の聞こえない部屋」を日本語で書いた理由を述べている文の中にある。しかも二つの理由のうち、「しかし」の後に書かれた内容の中に傍線部アがある。だから「しかし」の後をまとめるといい。評論文では、逆接の接続詞の後に筆者の主張がくるという原則にもとづいている設問である。
(二)傍線部イは段落の最初の文であり、この段落の内容をまとめればいい。この段落は、小説を日本語で書いた理由を述べている前段落の内容をひとまず脇に置いて、外国人が日本語をいくらうまく使えても外部の人間と見られてしまうことを述べているからだ。
(三)傍線部ウの直後の文は、接続詞なしでつながっているため、言い換えの関係になっている。しかも直後の文は段落最後の文でもあり、段落の内容をまとめた文でもある。だから、傍線部ウの直後の文を、自分の言葉でまとめればいい。
(四)傍線部エの直前に「彼女は若々しい声として残っている」とあるのだから、傍線部エの内容は李良枝のことだと分かる。あとは李良枝の経験の意味をまとめればいい。
(五)最後の文だから、文全体の内容をまとめればいいが、本文は大きく三部構成になっているのだから、とくに天安門広場の筆者の体験以後をまとめるといい。傍線部オを素直に読んで、「日本語ですべてを認識し表現するようになった」と書けば、標準点はもらえるだろう。ただし、この文にはもう一つ大きなテーマがある。それが世界標準語英語・中国語とその対極にある特殊言語日本語の対立である。筆者はその対立を、天安門という個性をつぶした「公」と私小説という「私」の対立で表している。私小説家である筆者が、日本語を美しいといった深い理由は、実は日本語の特殊性にある。そのことも踏まえて書くと標準点を越えた模範解答を書くことができる。

2002年東大前期・国語第四問「解釈学・系譜学・考古学」

永井均『転校生とブラック・ジャック』の中の「解釈学・系譜学・考古学」より出典。

【問題文】
幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた青い鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提のもとで展開していくことだろう。それは彼らにとって間違いなく幸福なことだ。自分の生を最初から肯定できるということこそが、すべての真の幸福の根拠だからだ。だからわれわれは、そういう物語を、つまり『青い鳥』を、いつも追い求めている。だが、この物語は、同時に、それとは別のことも教えてくれる。つまり、──その鳥は本当にもともと青かったのだろうか? それは歴史の偽造なのではないか? 彼らはいま、鳥がもともと青かったという前提のもとで生きている。過去のさまざまな思い出、現在のさまざまな出来事は、その観点のもとで理解されるだろう。そして逆に、その理解が、鳥がもともと青かったという事実のもつ真の意味を、つまり真の幸福とは何であるかを、いっそう明確に定義することになるだろう。このとき、彼らは解釈学的な生を生きているのである。
 青い鳥と共にすごした楽しい幼児期の記憶は、確かな実在性をもつ。なぜなら、それが現在の彼らの生を成り立たせているからだ。たとえ、何らかの別の視点からはそれが虚構だといえるとしても、彼ら自身にとっては、彼ら自身を成り立たせている当のものであるその記憶が虚構のものであるはずはない。それが虚構であるなら、自分自身の生、そのものが、つまり自分自身が虚構ということになるからだ。解釈学的探求は自分の人生を成り立たせているといま信じられているものの探求である。だから、もし彼らに自己解釈の変更が起こるとしても、それは常に記憶の変更と一体化している。アここでは、記憶が誤っていることは、ことの本質からして、ありえないからだ。
 だが他の視点から見れば、記憶は後から作られたものであり、その記憶に基づく彼らの人生も虚構でありうる。鳥がほんとうはもともと青くはなかったかもしれない。そして、もともと青くはなかったというまさにその事実こそが、彼らの人生に、彼らに気づかれない形で、実はもっとも決定的な影響を与えているのかもしれない。もともと青かったという記憶自体が、そして、そう信じ込んで生きる彼らの生それ自体が、ほんとうは青くなかったというその事実によって作り出されたものなのかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作にすぎないかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。系譜学は、現在の生を成り立たせていると現在信じられてはいないが、実はそうである過去を明らかにしようとする。
 時間経過というものを素朴なかたちで表象すると、いま鳥がたしかに青いとして、もともと青かったか、ある時点で青く変わったか、どちらかしかないことになるだろう。それ以外にどんな可能性があるだろうか? しかし解釈学と系譜学の対立が問題になるような場面では、そういう素朴な見方はもはや成り立たない。もともと青かったのでもなければ、ある時点で青くなったのでもなく、ある時点でもともと青かったということになったという視点を導入することが、系譜学的視点の導入なのである。それは、鳥がいつから青くなったかを探求することでも、いつから青く見えるようになったかを探求することでも、ない。そういう探求はすべて、解釈学的思考の枠内にあるからだ。それに対して系譜学は、いつから、どのようにして、鳥がもともと青かったということになったのか、を問う。それは、これまで区別されていなかった実在と解釈も間に楔を打ち込み、解釈の成り立ちそのものを問うのであり、記憶の内容として残ってはいないが、おのれを内容としては残さなかったその記憶を成り立たせた当のものであるような、そういう過去を問うのだ。だからそれは、現在の自己を自明の前提として過去を問うのではなく、現在の自己そのものを疑い、その成り立ちを問うのであり、イいまそう問う自己そのものを疑うゆえに、それを問うのである。
 だが、「ある時点でもともと青かったということになった」という表現には、本来共存不可能なはずの二つの時間系列が強引に共存させられている。「もともと青かった」と信じている者は「ある時点で……になった」と信じる者ではありえず、「ある時点で……になった」と信じる者は、もはや「もともと青かった」と信じるものではない。だから、「ある時点でもともと青かったということになった」と信じるものの意識は、解釈学的意識と系譜学的認識の間に引き裂かれている。統合が可能だとすれば、それはウ系譜学的認識の解釈学化によってしかなされない。系譜学的探索が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、そのとき系譜学は解釈学に転じる。青くない鳥とともにすごしたチルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶は、確かな実在性をもつにいたる。
 それなら、けっして解釈学に転じないような、過去への視線はありえないのだろうか? 他人たちがただ私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた、現在のためにだけ存在しているのではない。過去は、本来、われわれがそこから何かを学ぶために存在していたのではないはずだ。それは、現在との関係ぬきに、それ自体として、存在したはずではないか? 過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史といった概念に頼らざるをえないが、ほんとうはそういう概念こそが、過去の過去性を殺しているのではないか? だから、記憶されない過去、歴史とならない過去が、考えられねばならない。このとき、考古学的な視点が必要となるのである。
 そのとき、鳥がもともと青かったか、ある時点で青く変わったか、という単純な時系列が拒否されるだけではなく、どの時点でもともと青かったことにされたか、という複合的時間系列もまた、拒否されねばならない。いま存在している視点がいつどのような事情のもとで作られたかという観点から過去を見る視線そのものが、つまり、エ過去がいま存在している視点との関係のなかで問題にされることそのものが、否定されねばならない。
 そうなればもはや、鳥はある時点でもともと青かったことにされたとはいえ、ほんとうはもともと青くはなかった、などとはいえない。もともとというなら、鳥は青くも青くなくもなかった。そんな観点はもともとなかったのだ。そういうことを問題にする観点そのものがなかった。だがもはや、それがある時点で作られたという意味での過去が問題なのではない。ただそんな観点がなかったことだけが問題なのだ。ほんとうは幸福であったか不孝であったか(あるいは中間であったか)といった問題視点そのものがなかった。彼らはそんな生を生きてはいなかった。鳥はいたが色が意識されたことは一度もなく、したがって当時は色はなかったというべきなのである。

【内容要約】
幸福の青い鳥を探す長い旅から帰ったとき、チルチルとミチルは、もともと家にいた青い鳥が青いことに気づく。チルチルとミチルの以後の人生は、その鳥がもともと青かったという前提で展開していくだろう。このとき、彼らは解釈学的に生きているといえる。解釈学的探求は、自分の人生を成り立たせていると信じられているものを探求するものである。ここでは、記憶が誤っているということはありえない。
 だが他の視点から見れば、記憶は後から作られたものであり、その記憶に基づく彼らの人生も虚構であると見ることもできる。鳥がもともと青かったと信じている彼らの人生そのものが、実は本当は青くなかったという事実によって作られたものかもしれない。記憶は、真実を彼らの目から隠すための工作に過ぎないかもしれないからだ。これが、過去に対する系譜学的な視線である。
 系譜学的視点とは、「もともと青かったということになった」という視点を導入することである。それは、実在と解釈を区別して解釈の成り立ちそのものを問うことであり、現在の自己そのものを疑い、現在の自己の成り立ちを問うものである。
 だが、系譜学的探求が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、そのとき系譜学は解釈学に転じる。青くない鳥とともに過ごしたチルチルとミチルの悲しい幼児期の記憶が、今度は確かな実在性を持つことになる。
 それなら、けっして解釈学に転じない視線はありえないのだろうか。他人が私のためにだけ存在しているのではないように、過去もまた現在のためにだけ存在しているのではない。過去を考えるとき、われわれは記憶とか歴史に頼らざるを得ないが、本当はそれこそが過去の過去性を殺しているのではないだろうか。記憶されない過去、歴史とならない過去が考えられなければならない。このとき考古学的な視点が必要になる。
 現在の視点がいつどのような事情のもとで作られたのかと問う、そういう観点から過去を見る視線も否定する必要がある。現在の視点との関係の中で過去が問題にされることそのものを否定しなければならない。鳥はいたが、鳥の色が意識されたことは一度もなかったといえるだけである。

【解答例】
(一)現在の自己を成り立たせている記憶が虚構であれば、自分自身が虚構であるという論理矛盾に行き着いてしまうから。
(二)現在の視点を疑う自分も、やはり現在の視点から出発点にしているからこそ、その成り立ちを問う必要があるということ。
(三)系譜学的探求が、新たに納得のいく自己解釈を作り出したとき、系譜学もやはり解釈学に転じてしまうということ。
(四)現在の視点がいつどのように作られたのかと問うことがすでに現在の視点であり、やはり否定する必要があるということ。

【解答のコツ】
(一)傍線部アは段落の最後の文であるから、段落の内容をまとめればいい。とくに段落最初の文とは呼応した関係にあることに注目できれば、自動的に答えを導き出せる。ます二つ目の文は「なぜなら」であるから、理由を述べた文であることは明らかだ。さらにそれに続く三つ目の文が「たとえ」で始まり、四つ目の文が「からだ」で終わることから、その部分がその理由を詳しく述べて強調している個所であることが分かる。最初の文と傍線部ウは呼応しているのだから、そこが傍線部ウの理由でもある。あとは自分の言葉でまとめればいい。
(二)傍線部イは回りくどい表現となっているが、段落最後の文であり、段落の内容のまとめであることは間違いない。そのため段落の内容をまとめれば、標準的な点がつく。しかし傍線部イを含む文の中では、筆者の感情が段階的に高揚していることに気づけば、「いまそう問う自己そのものを疑うがゆえに」をどう言い換えるかが重要であることが分かるはずだ。これに相当する言い換えの文はないので、自分の言葉で言い換える必要がある。設問の中で、もっとも難問である。
(三)接続詞もなく続いている文は、言い換えの文と考えていい。この場合もそうであり、傍線部ウの次の文に注目するといい。
(四)傍線部エの直前に「つまり」とあるのだから、傍線部エ「過去が存在している視点との関係の中で問題にされることそのもの」は、「いま存在している視点がいつどのような事情のもとで作られたいう観点から過去を見る視点そのもの」の言い換えである。つまり系譜学的視点そのものが「否定されねばならない」のである。筆者は解釈学的視点だけではなく、系譜学的視点もありのままの過去を見ていないと主張しているのである。

2002年東大前期・国語第一問「生と死」

村上陽一郎『生と死への眼差し』の中の「死すべきものとしての人間」より出典。
【内容要約】
一人称の死は、生きているかぎり決して体験されることのない、未知のものである。それは論理的には知りえないものである。では、知りえないものに対しての恐怖はどのような形をとるのだろうか。おそらく死への恐怖は、人が人間であることの証明であるといえるだろう。
 まず消極的な面から考察してみよう。第三人称の死は、私にとっては単なる客観的な事物の消滅であり、本当の意味での「死」ではない。自分の前に立ちはだかる未知の深淵としての死を考えるにあって、何の糧にもならない。それに対して第一人称の死は、「私」は誰からも手助けされることなく、完全な孤絶のなかで、それを体験することになる。
 この「私」の死がもつ徹底的孤絶さゆえに、人は迎えるべき死への恐怖を増幅して感じる。つねに人どうしの関係性のなかで生きてきたわれわれは、死において、かかる一切の関係性を喪い、ただ一人で死を引き受けなければならない。このことへの恐怖が、逆説的に人が人間として生きてきたことへの証明となるだろう。
 他方、積極的な意味でも、死は人の人間たることの証明になる。そこに二人称が介在するからである。西欧近代思想は、自我を強調してきた。しかし私は「私」として外界から隔絶された存在としてあるのではない。母親と幼児や、愛し合う二人のように、私たちは生まれてからずうっと「われわれ」の中にいたのであり、「われわれ」が「私」を造り上げたということができる。
 この観点から見るとき、個我の孤絶性は抽象的に過ぎないものである。それゆえにこそ、第一人称が迎えようとする死は、人間にとって極限の孤絶性を照射する唯一のものかもしれない。

【解答例】
(一)自分の死はいずれ必ず訪れるものではあるが、体験されていないため、語るとしても推測でしか語れないということ。
(二)自分から見て、他人の死は単に客観的な事物の消滅に過ぎないものであり、主観的に捉えることができないから。
(三)完全な孤独の中で死ぬという恐怖を感じるということが、逆に自分がこれまでさまざまな関係の中で生きてきたことを証明するということ。
(四)人は孤立した自我として生きてきたのではなく、母親・友人・配偶者との関係の中で生き、形成されてきたということ。
(五)人は人との関係の中で生きており、知性によって理解された自我は抽象的な思考が生み出したものにすぎない。そのため人は自分の死を迎えることで初めて、自分が人との関係の中にいたことを知るとともに、それを失うことの恐怖に直面することになるから。
(六) (a)空疎 (b)錯覚 (c)模倣 (d)抱擁

【解答のコツ】
この問題のテーマである「死」は、誰でも一度は考えたことがあるだろう。自分の死を考えたときに、その絶対的孤独さに恐怖した経験があれば、本文の内容に沿いながら自分が思った恐怖をまとめていけばいい。東大は、本を読んで得た知識しか持たない者ではなく、普段から自分なりに物事を考えている者をほしがっているということが分かる問題である。
(一)傍線部ア「第一人称の死、つねに未来形でしかありえないもの」は、段落の最初にあるため前の内容を受けていることは明らかであり、さらに「未来形」とあることから第一段落の「決して体験されることのない、未知の何ものか」とあることに注目するといい。あとは、うまく自分の言葉に直せばといい。解答例では、「推測するしかない」とした。
(二)傍線部イ「陳腐だった三人称の死」は、段落の最初にあり、しかも「このとき、それまで陳腐だった…」となっている文であるため、やはり前の内容を受けている。しかし前段落というよりも、前々段落の「第三人称の死は、私にとって、消滅であり、消失であった」(最初の文)や「それで自分の死について何か感ずるところあったとは言えまい」の言いかえと考えればいい。あとは、一人称=主観的、三人称=客観的、ということに気づくかどうかだ。一般的には客観的の方がいい意味だが、ここでは客観的に見るということは冷ややかに見るということを意味し、主観的に見ることがいい意味をもち、自分のこととして真剣に考えることを意味する。評論文は常識を疑うだから、このような発想の転換がある。
(三)傍線部ウ「この逆説性」が段落の最後にあるため、この段落をまとめればいい。「死」が「生きてきた」ことの明証となるから、「逆説性」であることに気づいていれば書けるはずだ。
(四)傍線部エ「『われわれ』が『私』を造りあげた」は、具体例が述べられている段落の最後の文であり、しかも次の段落が「このような状況は、幼児においても…」と始まるので、前後の内容をまとめればいい。
(五)傍線部オは、後半部の内容〈死への恐怖の積極的意味〉の最後の決めの文であり、しかも西欧近代思想の「個我の孤絶性」を「抽象的構成」と批判した文に続いているから、〈人は人との関係の中で生きている〉をテーマに、西欧近代思想の「個我」批判をすればいい。けっして難問ではない。むしろ筆者村上陽一郎が科学批判を得意とする科学哲学者であることを知っていれば、やさしい問題だ。

東大国語・現代文対策

 東大現代文を受験テクニックで解くことができないことは、予備校・青本・赤本の模範解答に誤りが多いことでも分かる。それを正しいと信じている受験生があまりりにかわいそうだと思い、佐々木哲学校ブログ版で東大前期・国語第一問・第四問の解答例を連載している。
 東大現代文で高得点を挙げたいのであれば、受験テクニックを磨くより、むしろ教養を身に付けた方が早い。教養はすぐに身につかないと思われがちだが、そうでもない。実は大学入試問題で使用されている評論文の多くは、大学教科書や副教材である。大学入学後に、大学教科書や副教材を正確に読むことのできる学生がほしいからだ。だから、大学入試問題で使用されている評論文を読めば、自然に大学程度の教養が身につく。現代文・英語長文を解くときに機械的に読むのではなく、内容を理解しながら読むといい。
 もちろん自分勝手な解釈で理解していると、教養を身に付けたことにはならない。できれば評論文の内容を正確に解釈できる人物から内容の説明をうけるといい。しかし評論文の内容は多岐に及ぶため、全ての問題について正確に説明できる人物はほとんどいない。わたしが佐々木哲学校レアル版として、来春から定期的に勉強会を開こうとしているのは、予備校では不可能な評論文の正確な解釈を受験生に聴いてもらいたいからだ。
 つぎに記述力を自分で身に付けるいい方法は、センター試験を記述試験と見立てて解くことである。大学入試センター発表の正解が、そのまま模範解答になる。また早稲田大学をはじめ私立大学の問題も、ほとんどが選択問題である。それを記述試験問題と見立てて解くのである。そうすれば問題を解きながら教養が身につき、記述力も身につく。一石二鳥だ。おまけに選択問題を解くときに迷わなくなる。一石三鳥だ。さらに英語長文の問題で同じことをすれば、英文読解力もつく。
 もちろん東大現代文を正確に読むためのテクニックがないわけではない。しかし、これは受験テクニックというよりも、評論文を読み書くときの最低限の基礎知識である。そのため、評論文の読み方を理解していれば、東大後期試験の小論文対策にもなる。小論文とは、受験生自らが評論文を書くということである。
 ①逆接の接続詞に注目。評論文に共通するテーマは「常識を疑え」だ。そのため、対比として常識的見解を紹介した上で、「しかし」など逆接の接続詞につづけて自分の主張を書く。多くの場合は、「もちろん」+「しかし」の形をとり、「もちろん」のあとに常識的見解を書き、「しかし」のあとに自分の主張を書く。このことが分かっていれば、筆者の主張を探すのに苦労しない。
 ②対比に注目。逆接の接続詞が使われていなくても、ふたつの事物を比較させていれば、そこに筆者の主張がある。何と何を対比させているのか、注目するといい。
 ③言い換えの接続詞に注目。筆者はわざと難しい文章を書いているわけではなく、筆者なりに分かりやすく書こうと努力している。そのため、重要なことは必ず繰り返される。「つまり」「すなわち」など言い換えの接続詞の前後に、筆者が強調したいものが必ず書かれている。言い換えの接続詞がない場合でも、繰り返されていることは、間違いなく重要である。現代文の問題で、言い換えの語句を探させる問題が多いのは、言い換えていることが重要だからだ。
 このことを知っていれば、読む速度も早くなる。理解できない文章があっても、それが重要なことであれば必ずどこかで言い換えているはずだから、飛ばして読んでいいのである。
 ④段落ごとの内容を理解する。段落は勝手に区切られているのではなく。段落ごとにひとつの話がまとめられている。だから論述問題で多く見られる傍線部分の内容説明では、その段落の内容をまとめてしまえば、多くの場合は正解になる。
 ただし、ひとつひとつの段落がばらばらに独立しているわけではなく、前の段落の内容を受け、さらに次の段落につながっている。そのため前後の段落の内容を理解していると、段落の内容をまとめやすい。とくに傍線部が段落の最後の文である場合には、次の段落の最初の文につながっているので、かならず次の段落にも注目しておく必要がある。
 ⑤一字一句にこだわらない。模範解答でも陥りやすい間違いが、傍線箇所の一字一句を訳そうとすることである。一字一句の意味にこだわっていると、全体の文脈を無視して解釈してしまうことが多い。一字一句を解釈すれば正確な解釈ができるというわけでない。かえって全体の文脈を無視した自己流の解釈に陥る。
 同じ言葉でも文脈によって意味が異なる。まず文脈を知らなければ、正しい解釈などできるはずがない。いちばん重要なのは全体の意味であり、部分はそれを構成するものだ。全体と部分は決して対立するものでなく、全体の中に部分があり、また部分を通して全体が見える。全体の中での段落の位置を把握し、段落の要約をまとめることだ。与えられている解答欄は二行だから、これで十分だ。一字一句にこだわらない方が、簡潔にまとめてあると評価されるはずだ。
 ⑥自分の言葉に直す。自分の言葉に直せるということは、文章の内容を深いところで理解しているということであり、自分のものにしているということだからだ。文中の言葉を抜き出しただけでは、ただ受験テクニックで重要そうなところを抽出して機械的にまとめただけと思われてしまう。それでは、書いた本人さえ理解できない文章になっているはずだ。予備校・青本・赤本の模範解答にも、そのような解答例が多い。東大は、普段から本を読み、自分の力で考えている受験生がほしいのだから、きちんと自分で読んで理解のできる文章を自分の言葉で書くこと。
 ⑦解答を読めば全体の内容が分かるように書く。問題は、内容が理解できているかどうか確認するためのものだから、問題はそれぞれ重要な個所について正確に理解できていることと、全体の内容を理解していることの両方を見ることができるように作成されている。そのため、解答を読めば、それが全体の要約にもなっていなければならない。時間があるときには、そのようにして確認するといいだろう。

※東京大学二次試験前期・国語現代文解答例
 http://blog.sasakitoru.com/theme/a0472e5eb9.html
※東京大学現代文・受験現代文での出題者の意図
 http://blog.sasakitoru.com/200511/article_28.html

2003年東大前期・国語第四問「詩作と引用」

篠原資明『言の葉の交通論』の中の「Ⅰ詩的言語への交通論 詩と痕跡過剰性」より出典。
【内容要約】
 作品の背後には過去の無数の作品がある。それだけでも十分に痕跡の過剰について語ることができる。しかし、痕跡の過剰とはそれだけを意味するのではない。実は、過去の作品には別様でありえたかもしれないという可能性がある。そのような可能性があふれているということを、痕跡の過剰ということができる。そして引用とは、まさに別様でありえたかもしれないという可能性を、自分のコンテクストに引用しながら提示して見せることにほかならない。
 ところで、詩人が過去の作品から引用を行うときはもちろん、読者に引用であることを認知してほしいときにも、当然現在から過去へのベクトルが存在している。その一方で、過去のものを現在のものに引用するときには、過去から現在へのベクトルも存在する。そのため引用では双交通が語られることになる。しかし双交通は両者に独自性があって初めて可能であり、引用する側に独自性がなければ、過去の作品の独自性に打ち負けて、無数の作品群の中に埋没してしまうことになる。
 だからこそ、本歌取りを得意とした藤原定家は、本歌からの引用を五七五七七の全句のうち二句プラス数文字までとした。また定家は、本歌の属する時期をある程度以上昔のもでる必要があるとした。このように定家は、引用の基準を設定した。
 引用に成功した例を挙げるならば、たとえば草野心平の「古池や蛙とびこむ水の音」(『第百階級』所収)がある。すでにタイトルに芭蕉の有名な句が掲げられており、さらに詩の中で「芭蕉」と名指ししているので、容易に引用と認めることができる。ここで読者は過去へのベクトルを持つことになる。さらに作者は「蛙とびこむ水の音」の一点から、芭蕉とは逆向きに波紋を宇宙大にまで拡げることで、芭蕉に対抗しうる独自の世界を築いた。
 また南川周三の「蕪村考」(『幻月記』所収)も、タイトルと文中で「蕪村」と名指していることから容易に引用と認められる。しかし作者南川はあえて原作者蕪村と逆向きのベクトルをとらずに、むしろ芭蕉が過去志向であったように自らも過去志向にすることで目線を重ね合わせた。そのことで芭蕉の目線と作者の幻想的な目線の重奏の効果が生まれ、作者南川の独自性が生まれた。
 さらに終わり近くで、天明三年に没した蕪村が天明の飢饉の町を通っていくと設定したことで、作者南川の引用によって、蕪村がその死を通り抜けて再び新しい姿で現在によみがえったことを、うまく示している。

【解答例】
(一)引用する側に独自性がなければ、過去の作品の独自性に負けて、価値のない駄作になるということ。
(二)「蛙とびこむ水の音」の一点から、芭蕉とは逆向きに波紋を宇宙大に拡げることで、芭蕉に対抗しうる独自の世界を開いたということ。
(三)蕪村に対抗するのではなく、あえて蕪村と目線を重ねて間主観性を築くことで、独自性を打ち出すのに成功したということ。
(四)過去の人物である蕪村と時間を越えて間主観性を築くことで、蕪村を理解することができ、蕪村も現在に蘇るということ。

【解答のコツ】
(一)次の段落を見るといい。評論文では、前の段落の最後の文と次の段落の最初の文は同じ内容であることが多く、この場合も次の段落文が「だからこそ、まさしく」で始まるのであるから、そこが傍線部アの内容を具体的に述べていることは明らかだ。
(二)傍線部イは、段落のまとめの文である。そのため、この段落の内容をまとめればいい。あとは傍線部イの「拮抗しうる」が、第二段落で述べていた独自性と同じ意味であることに気づくことだ。草野心平は、「蛙とびこむ水の音」の一点から波紋を宇宙大に拡げたことで、芭蕉に対抗して独自の世界を築いたのである。
(三)傍線部ウのある文は、「つまり」から始まる文であり、前の文章の言い換えであることは明らかだ。だから段落全体の内容ではなく、直前の文章に注目すればいい。南川周三は草野心平とは逆に、あえて原作者蕪村と同じ過去志向のベクトルをとり、目線を重ね合わせることで、かえって独自の世界を開いたのである。このことを、二行にまとめればいい。ここで過去の人物との「間主観性」が裏テーマになっていることが分かる。
(四)傍線部エは、前文を受けて、「…のように」で終わっている文であり、前文の内容を補って、「作者のところまで来るかのように」「蕪村がその死を通り抜けて、ひとり歩いていく」と読めばいい。あとは、過去の人物が現在に復活するということが、どういう意味をもつのか考えればいい。

2003年東大前期・国語第一問「民俗宗教・靖国問題」

小松和彦「ノロイ・タタリ・イワイ」(山折哲雄・川村邦光編『民俗宗教を学ぶ人たちのために』)より出典。
【内容要約】
 民俗宗教において、祟りの信仰は大きな比重を占めている。それは広い意味での「世間の目」「霊の目」に対する恐怖・配慮の象徴的表現であるかもしれない。しかし日本人は、死者が家族や親族、それに共同体のために犠牲になった者であっても、彼らに対して「負い目」「後ろめたさ」を感じ、その霊を慰め、祠を建て、神に祀り上げてきた。言い換えれば、日本人は生きているというだけで、霊に対して「負い目」を感じる立場に置かれているといえる。このように日本人は「霊の目」を無意識のうちに気にし続けており、その「霊の目」が安らかになるよう祀ることが、日本人の「祝い祭り」の本質である。
 たとえばミクロネシアなど戦地での遺骨収集団や慰霊団の現地での慰霊行為について、日本人である私は十分理解できるが、アメリカ人や現地人には異様なものに見えるらしい。この光景の受け取り方の違いに、日本文化の特徴、とくに日本人の「霊」への信仰の特徴が示されている。
 物言わぬ「戦友の霊の目」を背負って生きてきた者の「思い」、つまり死んだ者が可哀想だ、生き残って申し訳ないという「思い」が、元兵士たちの慰霊行為を導き出している。それらの「思い」によって、元兵士たちの時間は止まり続けているのである。私たちは、そこに日本人の民俗的な信仰伝統を見出すことができる。
 しかし近代以前には、異郷の地で命を落とした者の遺骨を拾って、故郷に返すという習俗はなかった。それが民衆の間で定着したのは、山折哲雄によれば日中戦争開始以後だという。当時の国家が、戦死者の遺骨を戦地に赴いて収集し、故郷に持ち帰って霊を慰め、「英霊」として靖国神社や地方の忠魂社で祀り上げたのである。これは民俗的信仰を変形させて作ったものである。
 ところが、このような国家的行事を生み出して運営していた国家が敗戦によって倒れたのだから、この擬似的宗教的行事も廃止されて当然であった。しかし、この遺骨収集の儀礼的行為は、わずか二十年足らずの間に日本人の心性に深く入り込み、むしろ逆にこの国家主義的儀礼行為を自分たちの信仰に組み込んでしまったのである。
 遺骨をより代にして帰国する霊を迎えたいという「思い」は、国家だけではなく、民衆のなかにもあったと見るべきであろう。その心性は、近代国家成立以前から成立していた、「霊の目」を意識した「後ろめたさ」に由来するものであった。現在でも、日光ジャンボ機の墜落現場である御巣鷹山、阪神・淡路大震災の被災地にも見出すことができる。

【解答例】
(一)日本人は怨念を恐れただけではなく、自分と親しい者に対しても「負い目」「後ろめたさ」を感じ続けているということ。
(二)「霊の目」を無意識のうちに気にし、「霊の目」がやすらかになるように祈るのが、日本人にとっての「祝い祀り」の本質であるから。
(三)元兵士たちは年取った今も、戦友が可哀想だという感情や、自分だけが生き残ったことの負い目を持ち続けているから。
(四)異郷の地で死んだ者の遺骨を収集する習俗は、実は近代の軍国主義国家が民俗的信仰を変形して作り出したものであるから。
(五)遺骨をより代にして霊を迎えたいという思いは、実は近代国家成立以前からあった「霊の目」を意識した「後ろめたさ」に由来したものであり、現在でも日光ジャンボ機の墜落現場である御巣鷹山、阪神・淡路大震災の被災地にも見出すことができる。
(六) (a)未練(b)停泊(c)託宣(d)墜落(e)被災

【解答のコツ】
(一)傍線部アが「言い換えれば」で始まるということは、その前で主張されていた内容を言い換えているということ。
(二)第一段落で日本人の「祝い祀り」の本質が述べられた後に、第二段落で筆者のミクロネシアでの体験談が記され、第三段落の最初の文である傍線部イに続く。だから、慰霊行為が日本人の「祝い祀り」の本質だからと述べればいい。
(三)傍線部ウは、この段落で述べられている年老いた元兵士の心情を、抽象的な表現でまとめた文であるため、元兵士の心情を具体的な表現でまとめればいい。
(四)傍線部エは、前段落の最後の文から「ところが」「したがって」と続いている文章であるため、前段落の内容をまとめればいい。
(五)傍線部オはこの文章全体のまとめであるため、民衆の宗教心を中心に述べればいい。本文のテーマは民俗宗教であって、靖国論ではないので、けっして国家主義的儀礼の説明を中心に記したりしないこと。靖国論にしてしまうと、内容が浅くなり、せっかくの深い内容が台無しになってしまう。

東大現代文・解答例の連載について

予備校・赤本・青本の模範解答が不十分であるため、今後も『東大入試で哲学』の連載を続けていきます。今年度の受験生がアクセスしているのであれば、急がれるでしょうから、間をあけずに連載していくことにします。
 また携帯電話からのアクセスが多いようですので、今後は内容要約・解説を短くまとめて、解答例を中心に記述していきます。そうすれば携帯電話からアクセスしたときに見やすいでしょう。東大入試の場合は、解答を読んだだけで本文の内容が分かるというのが好い解答ですから、内容要約・解説を短めにしても十分なのです。
 東大入試は機械的なテクニックでは解けません。予備校・赤本・青本の模範解答の出来が良くないのは、テクニックで解こうとするからでしょう。『ドラゴン桜』にしても、半分は当っていますが、半分は外れています。『ドラゴン桜』はあくまで予備校講師側の視点であり、大学入試問題作成者側の視点ではありません。
 東大現代文にテクニックがあるとしたら、①最低限の評論文読解法を理解していることと、②よく出る内容をあらかじめ学んでおくということです。まず①評論文読解法ですが、これは英文解釈にも通用するものですから、英文解釈で磨くこともできます。また②内容の先取りについてですが、受験生の場合は本を読んでいる時間がありませんから、最近の評論文で主張されている内容を理解しているものから、内容中心の授業を受けることです。この『東大入試で哲学』はそれを目指しています。ですから、短くなっても、教養のために読む大人の需要にも応えられる内容にしていきますので、ご安心下さい。

※東京大学二次試験前期・国語現代文解答例
http://blog.sasakitoru.com/theme/a0472e5eb9.html

※携帯電話サイト
http://webrytimes.biglobe.ne.jp/cgi-bin/mbgw/webryblog.cgi?cmd=blog_list&url_val=blog.sasakitoru.com
 

絶望と希望

2004年東大入試前期国語第四問は、多木浩二の『写真論集成』より出典。「世界は存在し、かつ人間も存在している」と述べているように、世界と人間の実在を認めたうえで、世界と人間のズレに注目している。評論文ではよく「差異」と記されているものだ。しかも世界のことを「超人間的」と述べている。この多木浩二の主張を発展させて、その超人間的な世界が客観性だと主張することができる。
 わたしたちは、現実に対して何もできないという無力感を感じることがある。この目の前に現れた壁は、まさに主観を超えた客観性である。それを壁と感じてしまうのは、わたしたちが固定観念に縛られているからである。壁を目の前にして感じる無力感を越えたところに、これまでの固定観念を打ち砕く新たな可能性がある。絶望は、実は既成概念を打ち破り、未知の世界に入っていくには必要不可欠なものなある。
 わたしたちが行動すると、必ず自らの意図を超えたものが現れる。私たちの行為の対象は、それが人であれ物であれ、自分の外にあるものである。しかし、そのような対象との間に生じたズレに、私はひかれる。多くの場合、それが壁と感じられるものだが、その壁はまさに自己を越えた世界の表出である。世界は人間によって構成されたものではなく、また人間の意識によって構成されたものでもない。世界は存在し、人間も存在している。そして世界は反人間的なわけではなく、ただ超人間的な全体である。それが反人間的なものと思えてしまうのは、わたしたちが固定観念に縛られているからである。
 わたしたちが固定観念に縛られてしまうのは、実は主観性と客観性が一致する瞬間があるからである。壁を乗り越えた瞬間が、まさに主観性と客観性が一致した瞬間である。このとき、ほんらい異なるはずの主観性と客観性が一致することに驚く。当初は客観性を壁と感じていたため、その客観性を獲得したときには、それが驚きとなり、感動となるのである。このように主観性と客観性が一致する瞬間があるからこそ、一致した瞬間を固定してしまう。成功例と同じことをすれば、成功し続けると考えてしまうのである。
 世界は自己を越えた全体である。ひとつの方法で世界を支配しようとしても、必ずはみ出てしまう。このように主観性と客観性の間にズレが生じたとき、そのズレは例外・失敗として無視されてしまう。そのズレは最初は無視できるほど小さいものだが、無視し続けることで主観性と客観性は乖離し続け、ズレは拡大していく。そして壁となる。わたしたちは成功例を真似し続けることで危機に陥る。わたしたちにとって有益なのは成功例ではなく、実は失敗例なのである。
 失敗はケアレス・ミスだけはなく、未知との遭遇も含まれる。失敗を失敗として受け流すのではなく、失敗の結果できたものに興味を持つことで、失敗は失敗ではなくなる。成功は失敗の母であり、失敗は成功の母である。
 わたしたちは現実を前に絶望するが、その絶望が希望の契機になる。それが、自分を超えた全体としての世界との出会いだからである。わたしたちが変わらなければ、絶望は絶望のままだが、わたしたちが変われば、絶望は希望になる。わたしたちが頑なだから、相手も頑なになる。わたしたちが変われば、相手も変わる。
 

2004年東大前期・国語第四問「写真」

多木浩二『写真論集成』より出典。
【内容要約】
「写真になにが可能か」と自問すると、質疑応答に見られるような答えというよりも、ほとんど肉体的反応ともいえる二通りの答えが生じてくる。
 ひとつは、現実に対して「写真にはなにもできない」という一種の無力感である。しかし、その無力感を乗り越えたところから、「写真に可能ななにものかがある」という認識が生まれてくる。実は、私たちは日々こうした二通りの答えの間を揺れ動いており、どちらか一方ではけっしてありえない。このようなことは、なにも写真だけのことではない。すべての表現芸術についていえる。
 たしかに私たちは現実を前に無力感に陥らざるを得ない。しかし「写真にはなにもできない」と言い切っってしまうこともできない。むしろその無力感を契機にして、私たちは既成に価値観を粉砕し、未知の世界に立ち入っていくことができるからである。私たちは、写真に対して有している常識をひとつひとつはがしていく必要がある。
 写真が、私たちに衝撃を与える機会は明らかに存在する。たとえばベトナム戦争で報道写真家が撮った「路上の処刑」という写真を例に挙げることができる。その写真は、南ベトナムの国警長官ロアンが、捕らえた解放軍兵士の射殺する場面を撮った二枚の写真である。一枚は、一人の男がもう一人の男にピストルを向けている写真であり、もう一枚は、次の瞬間にイモ虫のように解放軍兵士がころがっている写真である。この兵士の死は写真には移されていないが、二つの写真のあいだに兵士の死という事実があったということを、私たちは感じることができる。
 このことは、言葉であらわせない私たちの存在の深いところに衝撃を与える。しかもこの写真家は、戦争を告発する意図を持って撮影したわけではない。私たちが不気味さを感じることのできた消失した世界は、写真家の思想や意識を越えたものである。写真には、つねに主体の意図を超えたものが現われてくる。写真は、自分の内部の思想を表現するものだという常識は、いつも写真によって裏切られている。
 写真家は、心の内なる世界をあらわそうとしても、写真に写るものは自分の外にある対象である。だが、そのような世界とのズレに、私はひかれる。写真は、世界が自己をこえていることを明らかにする。世界は人間によって構成されるものではなく、また人間の意識によって構成されたものでもない。世界は存在し、かつ人間も存在している。世界とは反人間的な、あるいは超人間的な全体であるといえる。

【解答例】
(一)写真に何ができるのか考えたとき、写真には何もできないという無力感と、写真に可能な何かがあるという認識を繰り返すということ。
(二)写真は真実を写すと一般的には考えられているように、写真に関してはさまざまな誤解があるということ。
(三)二枚の写真の間に兵士の死という事実があるのが明らかなように、写真家の意図を超えたものを私たちは感じ取ることができるということ。
(四)一般的に写真には写真家の思想が表現されると考えられているが、実は写真家が意図していないものも必ず現れているということ。

【解答のコツ】
この文章も小洒落た表現で小難しい文章だから、慣れていないと読みづらく、文意を正確に読むことができない。内容は、流行の相対主義に流れることなく、「世界は存在し、かつ人間も存在している」と述べたものだ。世界と人間の実在を認めたうえで、世界と人間のズレに注目している。評論文ではよく「差異」と記されているものだ。しかも世界のことを「超人間的」と述べていることから、彼の思想が、ズレが生じたときには人間主観を越えた客観性を重視する立場に発展していくことは明らかだ。やはり、この文章も哲学的思想に慣れていれば読みやすい。
 解答するにあたっては、段落の最初と最後に注目し、さらに段落の最後の文章は次の段落の最初の文章とつながっていることに留意して読んでいけば、素直に全体の内容を読み取ることができる。しかも最後の段落で、きちんとまとめてくれているので、全体の内容を把握するのは、意外と簡単だ。さらに傍線の意味を知るには、全体の内容を考慮に入れながら、傍線の前後を見ればいい。このようにオーソドックスに読んでいけば解答できるという点で、易しい問題だといえる。第四問という、残り時間がない中でこの問題を解かせれば、いかに日頃から哲学的思考に慣れているのかどうかが分かる。そのような意味で良問である。
(一)傍線部アが「このような事情」であるのだから、この段落をまとめればいい。さらに次の段落が「たとえば」で始まり、具体的に書いてくれているのだから、その内容も参考にすると、さらにまとめやすくなる。
(二)傍線部イが「いわば」で始まるのだから、直前の文章を読むことで、傍線部イの「擬制」が直前の文章の「既成の価値」の言い換えであること分かる。しかも評論文では既成概念や常識はいい意味では使用しないのであるから、ここで述べられている「既成の価値」「擬制」が打破しなければならないものだと分かれば、あとは簡単にまとめられるはずだ。
(三)傍線部ウは、直前の文章を感傷的に言い換えたものであるから、直前の文章をまとめればいいのだが、実は次の段落が「この醜悪さ」で始まり、さらに最後に「ゼロ化」という言葉があるため、この段落を参考にすると書きやすくなる。
(四)傍線部エで「俗流の考え方は…裏切られる」と述べられているので、筆者が写真表現に関する常識を疑おうとしていることは明らかである。さらに傍線部エは段落の最初にあるのだから、前の段落を受けていることも明らかだ。そこで、筆者が常識を疑おうとしていることに留意しながら、傍線部ウの直後から傍線部エの直前にかけて書かれている内容をまとめればいい。
 また設問(四)に「わかりやくすく説明せよ」とある通り、東大現代文では自分の言葉に直すことが強く求められる。自分の言葉に直せるということは、文章の内容を深いところで理解しているということであり、自分のものにしているということだからだ。文中の言葉を抜き出しただけでは、ただ受験テクニックで重要そうなところを抑えて機械的に書いているだけだろうと思われてしまう。東大は、普段から本を読み、自分の力で考えているような受験生がほしいのである。

個性

2004年東大入試・国語第一問の問題文の内容は、「個の没落」という言葉でも分かるように、悲観的な相対主義である。しかし、確固たる個がないということを積極的に評価することもできる。
 個性とはいっても、実は自分の内側から生じたものではない。他者との関係の中で自分はつくられている。本当の自分はどこか遠くにあるものではなく、自分が日々の生活の中でつくっていくものだ。占いをしても、心理テストをしても、自分の部屋にこもっても、本当の自分は見えてこない。自分探しをしても、自分を見つけることはできない。自分を知りたければ、積極的に他者と関わればいい。こんなとき、自分なら、どう思うだろう。自分なら、どう判断するのだろう。自分なら、どう行動するのだろう。そのときの自分の思いが、自分の判断が、そして自分の行動が個性だ。
 もちろん、自分で判断すると入っても、いつも同じ判断をするとは限らない。しかしそのことは逆に、個性が自分の内側にある確固たるものではなく、けっして固定されたものではないことを証明している。
 自分が自分でないと思うのは、自分が思っている自分と他人が思っている自分が食い違っているときだ。それが自己同一性の危機である。ただ、ここで注意しなければならないのは、自分が思っている自分も、他人が思っている自分も、本当の自分だということである。どんなに性格の明るい人間でも、気に食わない人間というときは暗い性格になる。どんなに暗い性格のものでも、気の合うものといるときは明るい。しかし、どちらも自分である。そう、ひとの性格というのはそういうもので、他者との関係の中で規定されていくものである。そのような複数の自分が相互に関わりながら、ひとりの人格が形成されている。
  それは他者も同じことだ。他者もそれ自身として確固たる者として存在しているわけではなく、わたしとの関係の中で存在し、日々変わっている。そのため他者を過大評価することもできない。自分も他者も相互関係の中で存在し、存立している。そこに転がっている石ころだって、地球規模の地殻変動のなかで生成され、川に流されながら小さくなって、誰かによって運ばれてきたものだ。そして石ころも用途によって有益なものにも、無益なものにもなる。
 現実の世界の中に、単独で成立し、存立しているものはない。すべてのもが何かしらの関係の中にあり、わたしもそのような関係の中にいる。わたしたちは生きていることで、すでに真理と関わっている。それを真正面から受け入れることができるかどうかだと思う。もちろん、このことは運命に従順であれということまでは意味しない。運命に逆らうということも、運命の受けとめ方のひとつだ。まず自分に与えられた事実から逃げずに、真正面から向い、そこから出発するということだ。自分探しは自分を探しているといいつつ、目の前に壁として現れた真実から逃避するということにほかならない。自分とは逃避することによってではなく、受けとめ向っていくことで見つかるものである。
 このように考えるわたしにとって、哲学とは机に向って本を読むことでも、難しい言葉を駆使して哲学の素人を翻弄するものでもない。現実の壁を目の前にしたときに、自分が持っていた固定観念を打ち破ることである。どんなに優れた考え方も一面的であり、万能ではない。だから現実の世界の中では、必ず壁にぶつかる。そのとき自分の考えが一面的であったことを認める勇気を持つことができるかどうかである。このとき、本当の自分の判断力が試される。自分の個性を試されるときである。自我を通すことは必ずしも個性とはいえない。自分の筋が通っているときには自分を主張し、自分が誤っているときには素直に誤る者が、本当の判断力を持つ者である。自分を知りたくなったら、自分のうちに籠もるのではなく、他者との関係の中に飛び込むといい。そして自分なりの判断をするのである。自分とは日々の生活の中で判断するものであり、その判断の仕方がまぎれもない自分の個性である。自分の性格を直したければ、つぎは違う判断をすることである。

2004年東大前期・国語第一問「個の没落」

伊藤徹の『柳宗悦 手としての人間』より出典。
【内容要約】
判断の基盤としての個人の没落は、環境問題を例に挙げると分かりやすい。未来の世代の権利を侵害していると考えて、現在の個人の欲望を制限することは、今日において当然のことと受け止められている。人間以外の生物はもちろん、山や川さえ尊重さしようと考えることは、もはや珍しいことではない。現在では、人間主義を排除して、個人はもちろん、人類も越えて、「地球という同一の生命維持システム」を行動規範の基盤とすることが試みられている。
 だが、私たちは日常生活の中で、すでに個が希薄化していることに気づいている。今日ほど個性的でありたいという欲望が高まっている時代はなく、それに応じた様々なものが生み出されている。しかし欲望の多様化は、奇妙なことに画一化と矛盾せず進行している。「あなただけの…」という広告コピーにもかかわらず、その商品は既製品である。個性とは、大量生産された既製品の中のひとつを選ぶことで表現されるものに過ぎず、私たちの外部で作られたものを、いつのまにか私たち内部から生じたかのように信じてしまっている。もちろん、そのような大きな欲望の流れを特定の個人がつくり出しているということもできない。彼もまた大衆の周りをまわっているにすぎないからだ。だれもが情報が行きかう交差点にすぎないのである。そのため「責任」の所在はおろか、その概念の意味さえも曖昧化している。携帯電話の普及でひとりの時間がなくなったことで、私たちはますます情報の網目の中に取り込まれていく。
 このような時代の流れの中で、解体されていく個を救済しようという試みもあるが、そこにリアリティはない。そもそも個が解体するのは、個そのものが集団の中で作られていく作りものにすぎないからであり、個の解体はまさに個の虚偽性が暴露されたということにすぎないからである。
 しかし、個が集団の中に解消されていくことが進行しているといっても、個に代わって集団が新たな実体として登場したというわけではない。環境問題でも繰り返される「社会的合意」の社会が、いかに捉えどころのないもかは、「合意」の確認がなかなかできないことでも分かる。そもそも合意達成の要求があるということが、いかに合意が困難なものかを示している。多様な価値観が存在しているのである。合意は決して普遍的価値に基づいてなされたものではなく、「合意した」という事実だけが、合意を合意として機能させているにすぎない。そのような意味で、「合意」とはまさにつくられたものといえる。
 環境問題では、倫理学説が、感情移入をもって、あるいは権利の均等性という想定に基づいて、世代間の距離を乗り越えて未来の世代と共同体をつくろうとする。しかし未来と関わろうとする行為が、すでに虚構的性格をもっている。人間と自然の共感も、まちがいなく人間の創作である。このように非人間中心主義であるはずのもからは、つくりもの特有の人間臭さが漂ってくる。情報の網目も、相互に依存し絶えず組みかえられていくものである。個が集団の中に解体したとしても、それは個にとって新たな安住の地を見つけたということではなく、ひとときの仮の宿を見つけたにすぎない。

【解答例】
(一)人間や人間以外の生物、さらに山や川を含めた地球全体をひとつの生態系として維持することを、人間の判断価値の基盤にするということ。
(二)個性は多様化しているように見えるが、現在個性といわれているのは大量生産された既製品の中のひとつを選ぶことだから。
(三)私たちが個性と呼んでいるものは、自分の内側から生じたものではなく、実は外部で作られたものすぎないから。
(四)社会的合意といっても実際に合意されているわけではなく、合意されたとみんなが信じるているだけであるということ。
(五)環境問題に対する倫理的取り組みは非人間中心主義的に見えるが、実は未来の世代や自然に対して自分たちと同等の価値を認めることで、相手も喜ぶに違いないと私たちが勝手に信じているだけで、絶対的価値を持つものではないということ。
(六) a=侵害 b=匿名 c=抗争 d=源泉 e=促進

【解答のコツ】
解き方はいつもの通り、全体の内容を把握した上で、それぞれの段落の意味と意図を正確に読み解き、自分の言葉で表現するということだ。文中の言葉をつなぎ合わせた答案は、どれも同じものに見えて、採点官には退屈なものでしかない。やはり自分の言葉に直してある答案の方が、理解が深いと判断され、実際に理解が深い。
(一)傍線部アは段落最後の文であるため、傍線部アのある第一段落の内容をまとめればいい。とくに直前の文章を使うと書きやすいだろう。次の段落は「だが」で始まるため、参照にしなくていい。
(二)傍線部イの「けれども」で始まる文にあるため、傍線部イ以降に説明があると考えるといい。あとは自分の言葉に直して書くだけだ。
(三)傍線部ウが「このように」で始まる段落にあるため、前段落の後半部分を要約するといい。次の段落は「しかしながら」で始まるので参考にしなくていい。
(四)傍線部エの直前に「からではなく」とあるので、直前の文章を参照する必要はない。次の文章が「そういう意味で言えば」で始まるので、次の文章を参照にして自分の言葉に直そう。
(五)傍線部オは最後の段落の真ん中にあり、文章全体のまとめというわけではない。「生態系」について書かれているのであるから、直前の文章を第一段落を参考にしながら、自分の言葉に直すといい。

哲学講義概要2

哲学といえば、科学批判が定番です。しかし哲学は、もともと自らの固定観念を疑うことで新発見を促すものであり、けっして批判ばかりするものではありません。むしろ科学の現場で自らの固定観念を疑い、新発見や技術革新ができれば、それは立派に哲学です。このように私の哲学は、現場で役立つ哲学を目指しています。

1.【常識を疑う】
常識を疑うことで、新しい発見がある。
2.【主観と客観】
わたしたちは本当に客観性に到達できないのだろうか?
本当に主観性と客観性はいつも対立しているのだろうか?
3.【存在と無】
物事は変化し続けている。だから固定観念を使い続ければ、主観性と客観性の差異は拡大し続ける。
4.【数について】
いちど物事の性質を数で表すと、数で表された性質だけが本質と思われてしまう。
5.【アイズ・ワイド・シャット論】
本当の幸せはすぐ足許にある。本質は隠れていない。すでに現象として現れている。
6.【天空の城ラピュタ論】
頭の中の合理性だけでは、地に足の着いた考えはできない。目の前の本質に気づくことで、真実に気づく。
7.【言葉の限界を言葉で超える】
概念は主観的なものだと批判される。しかし概念を通して、概念を否定するものが本質だと認識できる。
8.【ニュートン力学と科学革命】
合理的説明と経験が一致しないとき、どちらが真実だろうか?ニュートンは経験を重視した。
9.【相対性理論と古典力学】
アインシュタイン革命後も、古典力学は科学の現場で使われている。古典力学は相対性理論によって適用範囲を限定されて、適用範囲の中の絶対性を獲得したのである。
10.【量子力学と科学革命】
対立する2つの考えがどちらも正しいとき、どうすれば対立を乗り越えられるのだろうか?
11.【カオス論】
混沌には混沌なりの秩序がある。
12.【認識進化論】
人間の認識は、どのように進化してきたのだろうか?科学革命の構造を明らかにする。
13.【弱者の進化論】
常識では、進化は生存競争の結果と思われている。しかし生存競争ではみんな同じものを求めるから、全体としては何も変わらない。実は環境の変化で弱者が強者になるのが、進化だ。
14.【失敗学のすすめ】
未知との遭遇は失敗という形で現れる。失敗を失敗と決めつけては、新発見はできない。
15.【参考にした哲学者の紹介】
ソクラテス、カント、ヘーゲル、フッサール、ヴィトゲンシュタイン、アドルノ、ドゥルーズ、デリダなど、講義で取り上げてきた哲学者を紹介する。

哲学講義概要1

私の哲学講義のテーマは、「自分の常識を疑う」です。自らの常識を脱構築することで、今まで見えていなかった他者の本質を見つけ出し、他者との本来的な関係を取り戻して、新たな自分を再構築していくことができます。授業では、みんなに馴染みのあるGAPやユニクロ、マクドナルド、無印良品、ダイエーなどを例に挙げて授業を進めています。大哲学者の学説をただ列挙するだけの哲学史講義には終わらない授業は、哲学の講義らしくない授業ですが、実はこれが本来の哲学です。

1.【哲学の役割】
工学系の学生に、どうして哲学が必要なのか?
本当に哲学は役に立つのか?
2.【哲学の基礎知識】
常識を疑い、自分で考える。
3.【マクドナルドと認識論】
東大宮にマクドナルドがあるの知ってる?新発見は合理的に考えていてもできない。いつもと違う道を歩くといい。
4.【見える星と見えない星】
プラネタリウムは、肉眼では見えない星まで映し出すことで星空のリアリティを再現できた。
5.【ユニクロ論】
誰にも似合う服は、実は誰にも似合わない。一般論はあくまで一般論にすぎず、決して真実とは一致しない。
6.【職人技と普遍性】
1つものを探究すればするほど、色々なものが関わってくる。普遍性は、実は具体的なものの中にある。
7.【ダイエーとパラダイム論】
成功者ほど過去の栄光に縛られて、新しい考えを受けつけない。しかし、どんな理論も必ず限界を持っている。
8.【マクドナルド化する社会】
現代社会は、全てのものをマニュアル化している。しかし、それでは新しいものを発見できない。
9.【科学の限界】
科学的に説明できないものは否定されがちだ。しかし、それでは科学は進歩しない。
10.【科学の可能性】
科学批判が流行している。しかし、批判だけでは何も解決しない。
11.【合理性はただの後知恵】
いくら論理をひとつひとつ積み上げても、新発見はできない。真理はむしろ論理を破る非合理性の中にある。
12.【他者認識の方法】
科学で認識できないものを、科学の力で認識していく方法。
13.【裸の王様と哲学】
みんなが同じことを言っているからといって、正しいとは限らない。まずは主観を大切にしよう。
14.【幸福の青い鳥と哲学】
本質は隠れていない。本当は目の前にある。
15.【悲観的にならない方法】
1つの方法では限界がある。多くの視点を持てば、それまで見えなかったものが見えてくる。


佐々木哲学校・開校準備中

来春から勉強会を開きたいと考えています。内容は単なる教養講座ではなく、受講生のみなさんの研究や仕事に役立てることを目指す実践的なものを考えています。歴史学であれば、受講生の皆さんがご自分で新しい発見ができるように、哲学であれば、受講生の皆さんが仕事や日常生活で発想の転換ができるようにしていきます。分野は歴史学と哲学に分けます。歴史学はこのブログを訪問される方の多くの方が期待されている系図学講義です。哲学講義は、まず「東大入試で哲学」を考えています。実は、大学入試問題を読むということは、短時間で新しい考えを獲得できる方法のひとつなのです。ですから①東大を目指す受験生だけではなく、②実践哲学を学びたい大人にも最適な講座です。
 歴史分野では、実証歴史学に社会経済史・文化人類学・記号論の見方を入れた新しい歴史学方法論を用いての、系図研究講座を考えています。もちろん系譜伝承を研究するための歴史学基礎、家紋研究、絵画資料論の授業も予定しています。系図を持ち込んでの質問もできるようにいたします。系図・家紋に興味を持っている方、新しい歴史学の手法を知りたい方、歴史学が実は暗記科目ではなく刺激的な学問であることを知りたい方には、とても興味深い内容になるはずです。考え方中心に授業を進めますので、入門レベルから論文作成レベルまで対応できます。また受講生が研究発表できるように機関誌をつくることも計画しています。
 哲学分野では、はじめは「東大入試で哲学」から始めますが、大人の受講生が増えれば、仕事や生活に役立つ実践哲学も講義します。哲学はもともと、常識を疑い新しい発想を促すための学問であり、大哲学者の学説を読む文献学とは異なります。ここでは、本来の哲学に戻り、身近なものに驚くこと・常識を疑うことから始めます。具体的には、広告・マーケティングや科学技術を題材にした発想の転換の方法、社会問題を考える臨床哲学について論じます。仕事・研究で発想の転換をしたい方に最適です。
 現在開校する場所を探している最中です。大学の教室が使えるようでしたら大学を会場にしますし、提供者がいらっしゃればお言葉に甘えます。
 最初は東京で開催しますが、私が近江(現滋賀県)の守護大名佐々木氏・六角氏の研究をしている関係で、歴史分野では関西にも希望者がいらっしゃると思われますので、場所が確保できれば京都でも開校したいと考えています。
 ご意見ご要望がありましたら、お知らせ下さい。また希望者の方は、問い合わせ先にご連絡ください。

秋の蝉と『江源武鑑』

昨日の10月14日天気予報が外れて、関東地方は気持ちのいい晴天になった。風邪をひいてしまってブログの更新もできないほど辛い私には、気温の上がったことが何よりもうれしかった。しかも大学で、つくつく法師が鳴いていた。いまごろ地上に出てきてかわいそうだなとも思ったが、晴れて気温が上がれば、まだ蝉も出てくるんだなと、季語どおりの蝉の声に少しうれしかった。
 しかも大学に行っている間に、今週の火曜日10月11日神田神保町大屋書店で購入した『江源武鑑』(明暦2年版本)がゆうパックで家に届いた。まさに天晴れな日だった。

『佐々木六角氏の系譜』出稿

著書『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』を今日出稿しました。来春には刊行できると思います。内容はブログで発表したものに少し修正を加えたものです。
 私がブログを始めたのは、私の研究論文を学術誌に掲載するにはあまりに多くの壁があるため、学術誌にこだわらずインターネットで公表しようと以前から考えていたためです。とくにブログという形を選んだのは、連載という形で公表できるので、少しずつまとめていくのにとても便利で、しかも修正を小まめにできることからです。ホームページだとある程度まとめてから公開するので、手間がかかると思ったのです。
 もちろん、インターネットで公表するにも度胸がいります。私は実名を出して自分の意見を書くわけですが、コメントは匿名であることが多く、それこそ匿名の批判を覚悟しなければならないからです。しかし、こつこつと資料を見て実証的に研究を進めていたためでしょう、大きな困難はありませんでした。むしろ応援、あるいは有益な指摘ばかりで、議論を通して内容を充実させることができました。案ずるよりも、生むがやすしです。
 このようにしてブログとして世に問うたことで理解者をつくることができ、世に認められやすい素地をつくることができました。新説を主張するには、まず理解者をつくるといいのです。個人と集団の対決から、集団と集団の対決にもっていくことができ、で認められやすくなるのです。
 さらに出版というかたちにしたのは、わたしの研究を引用してもらうためです。インターネットが普及したとはいえ、まだまだ全ての人たちがインターネットの検索を利用しているわけではなく、また検索結果を研究論文に引用するということは一般的ではないからです。それに学術的研究の引用にたえるだけの情報の質と量をもったページはまだまだ少ないのが現状です。情報量に関しては圧倒的に出版物の方が上です。どの分野に限らず、もっと専門的なページが増えてほしいと願っています。私のブログがそこそこ人気があるのは、専門的に実証的な内容を掲載しているからでしょう。
 今後は京極氏をはじめ佐々木氏諸流の系譜を充実させるとともに、『系図と史実』をタイトルにして、戦国期六角氏の系譜を詳しく見ていくことにします。

『佐々木六角氏の系譜』執筆ほぼ終わる

昨日9月25日に、『佐々木六角氏の系譜』序論と結語、それに戦国期六角氏の記事内容の見直しが終わりました。あとは掲載写真の選定と掲載系図の作成です。これからもちょっとした修正はあるでしょうが、今週中には筆了になる予定です。いよいよ出版社に出稿します。来春には公刊されるでしょう。
 『佐々木六角氏の系譜』の連載を始めた頃は、平安・鎌倉期の原稿をきちんと書くことができるかどうか不安もありましたが、ブログで連載しながら内容を深めることができ、もう平安・鎌倉期を専門外と言う必要がなくなりました。
 来春には公刊できると思いますので、楽しみにしてください。公刊の日程などが決まりましたら、ブログ上で予約の受付開始をうたいます。
 つぎは戦国期六角氏の系譜の実証的研究を公刊したいと思っています。『系図と史実』という分かりやすいタイトルで、系図研究の方法論の確立を目指すことになります。またブログで連載しながら原稿をまとめていくことになります。

『佐々木六角氏の系譜』結語

 佐々木六角氏研究は面白い。とくに系図については、入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されているものの、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくるからだ。では、どうして否定されていたのだろうかという素朴な疑問が生まれる。
 理由は多くあるが、実証歴史学であるにもかかわらず認められない理由は、まず先人の言うことを疑うのは難しいということだ。先人の意見を否定するのは気が引けるというだけの問題ではない。研究は先人の業績の上に積み重ねられていく。いちいち前提を疑っていては研究がすすまないため、前提は正しいものとして研究をすすめる。前提を疑うということは、その前提の上に築かれてきた多くの研究を否定するか、あるいはそれら研究に修正をもとめることになる。当然、それ相当の批判が出ることを覚悟しなければならない。意地の張り合いになることもある。それに対応できるだけの論拠を蓄えることはあまりに困難だ。たとえ従来の学説の根拠がいい加減であっても、新しいことを主張する側に説明義務が課されるため、新説を発表することには相当の覚悟が必要だ。さらに新説を認める側にも、それ相当の勇気が必要だ。そのため集団内においては、前提を疑うような研究は好まれず、前提の上に築いていくような〈少し新しい〉研究が好まれる。とくに研究業績の数で研究職への就職が決まる今日では、労力を使うにもかかわらず投稿と落選を繰り返して、数をこなすことのできない〈大きく新しい〉研究をしたがる者はいない。
 もうひとつの考えられる理由は、実証歴史学にも必ず主観が入るというものだ。いくら良質な資料を読んでも、義実の名を見つけることができない。義実の実在に懐疑的であれば、ここで探究は止まってしまう。しかし義実は実在するかもしれないという立場で資料を読むと、義実という名ではないが、義実と同じ事跡をもつ義久という人物を発見できる。系図上の名前と実際の名前が違うことは、実はよくあることだ。たとえば織田信長の弟信行も、良質な資料では達成・信成・信勝という名で登場する。もしかしたら違うかもしれないという視点がなければ、新事実を発見することはできない。実証的研究といっても、かならず研究者の視点が入る。これが実証的研究の限界だ。この限界を乗り越えるためには、つねに違う見方をする必要がある。
 そのため、わたしは実証的研究でも見方が変われば結論も変わることをまず明示し、そして徹底的に資料を積み重ねた。そうすることで論争は、実証歴史学と系譜学の対立ではなく、どちらが実証的かという論争になるからである。研究者の間であれば、資料を積み重ねていけば認められる可能性は高い。一般の方からは意外と思われるかもしれないが、実証を重んじる者ほど頭は柔らかい。実証歴史学を唱えながら頭の固い者がいたとしたら、それは自ら考えることを放棄して、既存の学説に依存する者である。本物の実証歴史学者はそのような権威主義的言説を疑い、資料を大切にする。だから本当の実証歴史学者であれば、実は新説に対しても理解はある。わたしが実証的研究に重点を置いているのはそのためだ。
 また審査を経なければ研究を公表できない学術誌にこだわらず、インターネットと出版という方法を採ることにした。とにかく公表しなければ世に問うこともできないからだ。まずインターネットにおけるブログという日記型ホームページで研究成果を連載して、研究成果を世に問う。日記という形式は連載に最適である。もちろん、これも度胸がいる。それこそ匿名の批判を覚悟しなければならないからである。しかし指摘を受け入れ、資料を積み重ねることで、研究内容をさらに充実させることができる。このようにして理解者をつくることで、世に認められやすい素地をつくることができる。新説を主張するには、理解者をつくるといい。個人と集団の対決を、集団と集団の対決にすることで認められやすくなるからである。
 さらに出版というかたちにしたのは、わたしの研究を引用してもらうためである。インターネットが普及したとはいえ、まだまだ全ての人たちがインターネットの検索を利用しているわけではなく、また検索結果を研究論文に引用するということは一般的ではないからである。それに学術的研究の引用にたえるだけの情報の質と量をもったページはまだまだ少ないのが現状だ。情報量に関しては圧倒的に出版物の方が上である。
 わたしが実証歴史学の中で系図研究を続けるという困難な仕事を続けられたのは、哲学教員として大学に席をおくことができたこと、近江佐々木氏の会事務局の山嵜正美氏をはじめ多くの日曜歴史家の方々の支援や協力があったこと、そして母三枝の献身的な協力があったことが大きい。
 また今日わたしが本書を公刊できたのは、実証歴史学の出版社として定評がある思文閣出版が勇気ある判断をされたからだ。心から感謝する。
 実は六角氏研究で面白いのは、系図だけではない。これまで研究されてこなかった分、研究材料の宝庫だ。守護権力体制や六角氏式目の研究はこれまでも多かったが、まだまだ六角氏の体系的な研究はない。戦国期の室町幕府が注目されるようになれば、それを支えていた六角氏も当然注目される。六角定頼の研究をする若手が登場してきたのは喜ばしいことだ。今後、ますます六角氏研究が進むことを願う。そして、わたしの研究成果がそれらの研究に引用されれば幸いである。

『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」3

 もうひとつ系譜伝承を資料として用いた実践例を挙げておこう。沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、鎌倉期の近江守護六角流佐々木頼綱(佐々木備中守)の娘に参議左大弁俊雅の母という人物がいる。しかし頼綱と同時代の公卿に俊雅という人物はいない。実は俊雅は平安後期の醍醐源氏流の公卿であり、鎌倉期の佐々木頼綱とは年代が一致しない。しかも俊雅の母は、清和源氏頼光流の三河守頼綱の娘である。佐々木氏は宇多源氏流であるため、公的文書では源頼綱と名乗る。そのため系図作成者が二人の源頼綱を混同してしまったのである。通常ならば、ここで沙々貴神社本の誤りを指摘して考察が終わる。
 しかし「俊雅母」を隠喩と考えて、そこから公卿という属性を選り分ける。すると『中山家譜』(東京大学史料編纂所写本)で六代中山定宗の母が「備前守頼綱女」であることを発見できる。備中と備前の違いがあるが同一人物であろう。もともと佐々木氏には頼綱の娘が公卿に嫁いだという系譜伝承があったと考えられる。そこで系図作成者は、『尊卑分脈』醍醐源氏流の源俊雅の母「三河守頼綱」の記事を見つけ、頼綱の娘を参議左大弁俊雅の母と記してしまったのである。
 これまでは、作為や錯誤が多いことから系図を歴史資料として用いなかった。しかし作為や錯誤を隠喩ととらえるならば、そのもとになった史実を明らかにすることもできよう。
 作為や錯誤の背後に隠れている史実を見つけ出すためには、まず対象となる記述を分解して、いくつかの属性に選り分ける。つぎに取り出した属性を記号と見なして、歴史資料の中から符合するものを探す。見つけ出すことができたら、それが作為や錯誤の背後にある史実と考えられる。そこで、それをもとに作業仮説をつくり、資料と照らし合わせる。無矛盾であれば、その作業仮説を歴史叙述として採用する。
 この方法は歴史的事実を見つけるために、属性を記号化するが、けっして歴史叙述の類型化を目指すものではない。記号化された属性は、あくまで背後にある史実を見つけやすくするための手段である。何も手がかりのない混沌の状態からは、何も見つけ出すことができない。多様性は単なる混沌ではなく、類型化を否定するものとして視界の中に立ち現れるものであり、差異あるものは類型化から外れたものとして発見される。差異を見つけ出すには、逆説的にも類型化が必要だ。わたしが用いる方法は、あくまで発見法としての類型化である。歴史の類型化を否定して歴史的個別性を資料から見つけ出す作業を、実証歴史学の営みというのであれば、わたしが提唱する系図学はまさに実証歴史学である。
 また、ひとつの歴史的事実はひとつの歴史叙述の中で自己完結するものではなく、必ず複数の歴史叙述に登場する。歴史的事実とは、そのように複数の歴史叙述の根拠となる多面的なものである。新しい学説が既存の学説に取って代わるということは、その一面が入れ替わるということである。そのため新しい学説が史実と一致しているのであれば、他の側面を記述した歴史叙述とは整合するはずだ。そこで新しい学説を、関連するであろう複数の歴史叙述と照らし合わせる。整合性があれば、史実と一致している可能性が高い。
 系図学は、系図の作為や錯誤を隠喩として読み解くことで、これまで気づくことのできなかった歴史的事実にたどり着こうというものである。たしかに系図には作為と錯誤が多い。系図をそのまま歴史資料として用いようとすれば、たしかに系図は作為と錯誤に満ちている。しかし作為と錯誤を読み解く方法があれば、作為や錯誤は有力な歴史資料になる。  

『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」2

系譜学の試み
 わたしの研究方法は、まず系譜伝承には錯誤・隠喩という形で史実が含まれているという前提から出発する。そのため系図の記述をそのまま使用するのではなく、錯誤・隠喩のもとになる史実を探し出すため、まず系譜伝承をさまざまな要素に分解する。つぎに抽出した要素をもとに作業仮説を立てる。そしてその作業仮説を資料に照らし合わせ、矛盾があれば修正し、無矛盾なものにして仮説(学説)として採用する。後一条・後朱雀朝で乳母子として活躍した左馬頭良経(系図上の宇多源氏義経)の事跡も、この方法を用いて明らかにした。
 『尊卑分脈』宇多源氏流では、宇多源氏義経の本名を章経とし、官位は兵部丞・式部丞・兵部大夫であったと伝える。本名と官位に注目すると、『小右記』長元四年(一〇三一)二月七日条の「内大臣(藤原教通)使兵部丞章経」という記事に注目できる。しかし、有職故実では兵部丞から式部丞へ遷任されて叙爵されたのちに兵部大輔に至ることはあっても、兵部丞から直接叙爵されることはありえないため、『尊卑分脈』の兵部大夫という記述は明らかに誤りである。実際に兵部丞章経は、六年後の長暦元年(一〇三七)に後朱雀天皇の六位蔵人藤原章経として記録に見える(『平記』長暦元年十月二十日条、『春記』長暦二年十月二十九日条)。兵部丞から蔵人兼左衛門尉を経て叙爵されたのである。しかも彼は藤原氏真夏流(日野流)家業の子息甲斐守藤原章経であった。宇多源氏義経とは別人である。また『中右記』大治五年(一一三〇)四月三日条に「兵部丞藤義経」、同記保延四年(一一三八)正月二十二日条に「式部丞藤原義経」が登場するが、年代が一致しない。やはり宇多源氏義経とは別人である。
 官職から宇多源氏義経を探すのをあきらめ、今度は『尊卑分脈』で、義経の母を朱雀天皇御乳母菅野敦頼とすることに注目した。もちろん朱雀天皇の乳母では年代が合わない。しかし当時の私家集では後朱雀院を「朱雀院」と記すものもあり(『範永集』など)、当時の表記法でも後朱雀天皇を指すと考えていいことが分かる。
 つぎに後朱雀天皇乳母と菅野敦頼娘を分けて、後朱雀天皇乳母に注目する。そうすると、『左経記』寛仁元年(一〇一七)八月十日条の敦良親王(のち後朱雀天皇)の東宮坊除目の記事で、当時六位大膳進であった源成経が東宮殿上人に列していることに注目できる。源成経を見つけたときは、正直興奮した。この人物は、沙々貴神社系図にのみ記されている人物で、『尊卑分脈』にも記載がないからだ。それが当時の日記で確認できたのである。しかも記載していたのは、義経・成経兄弟の叔父源経頼(参議左大弁)であった。
 このように義経の兄弟成経が、後朱雀天皇東宮時代の東宮蔵人であれば、義経・成経兄弟が後朱雀天皇乳母子である可能性が高い。この成経という人物を記載していた沙々貴神社系図の資料的価値は高い。
 兄弟成経が後朱雀天皇に親いことを『左経記』で確認できたため、次に義経を探す。すると『左経記』長元五年(一〇三二)二月十九日条に面白い記事があることを見つけた。経頼が参内したところ、仰せがあり、前日一八日左馬頭良経朝臣の従者が、右大将藤原実資の随身を打ったため、今日十九日下手人を奉るよう宣旨があり、検非違使が良経邸に派遣されたという。さらに一日上達部が言うには、看監長・放免らが邸内に入り乱行したという。このことについて何か聞いているか尋ねられた源経頼は、検非違使が到来したことは伝え聞いているものの、看監長の乱行は聞いていないと答えた。そこで、確かめるよう仰せがあった。五位以上の家は宣旨で指示がなければ入ることはできず、しかも良経は上達部であり、龍顔(後一条天皇)に親しく、検非違使の所行はたいへん非常なものであるとも仰せであった。経頼は退出して、良経に問うたところ事実と分かった。そこで経頼はその旨を、夜に参内して言上している。
 この記事で、左馬頭良経が源経頼の親族であることが確認できるとともに、殿上人であったこと、さらに後一条天皇に親い存在であったことも分かる。良経は後朱雀天皇乳母子ではなく、後一条天皇乳母子の可能性が出てくる。後朱雀天皇乳母子という系譜伝承から「後朱雀」を抜いて、広く天皇乳母子と捉える必要があるかもしれないと考えてみる。
 その後の良経について知りたいと思い、『左経記』に続く時期について記されている『春記』を読む。すると、まず良経の記事の多さに驚く、これまで注目されてこなかったのが不思議なくらいだ。またこの記事の多さから、良経が小野宮流の人々と交流があったことが分かる。
 その『春記』長暦二年(一〇三八)十二月十四日条に良経が皇后給で正四位下に叙位されたという記事がある。そこに良経の素性が分かる「良経為世後子也」という記述を見つけた。おそらく略して書いてあるのだろう。最初は何を意味するのか分からなかった。このときは後朱雀天皇の時代であり、皇后は三条天皇女禎子内親王である。さらに『平行親記』長暦元年(一〇三七)二月十三日条で、良経が皇后宮亮であったことが確認できる。良経は後朱雀皇后禎子内親王に親く仕えていたのである。しかも『春記』長暦2年(一〇三八)十一月二十五日条に後朱雀天皇の第二親王(のち後三条天皇)着袴の儀の様子が記されており、良経は第二親王を抱いているのである。良経が皇后禎子内親王・第二親王母子に親い存在であることが分かる。良経の父成頼は、皇后宮禎子内親王の父三条天皇東宮時代の東宮殿上人である。成頼・良経父子は、三条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇・皇后宮禎子内親王・後三条天皇に親い存在だったのである。まさに歴代の乳母の家系である。
 ところが、ここで問題が起きた。『平行親記』に良経は「藤原良経」と記されているのである。そうであれば良経は源成頼の子ではない。『尊卑分脈』によれば、成頼・経頼の縁者権大納言藤原行成の次男である。しかし『春記』長暦二年(一〇三八)十二月十四日条の「良経為世後子也」という記述に再び注目した。そしたら、この記事は「良経は世尊寺(藤原行成)後子となるなり」と読めたのである。行成の次男藤原良経は、行成の実子ではなく、行成の次男になった人物だったのである。実子ではなく、養子を実子として育てたのであった。藤原良経(権大納言行成の子)と源良経(中将源成頼の子)は同一人物だったのである。
 「良経為世後子也」というわずか7語の解釈に数日かかったが、それだけの価値はあった。この記事の解釈ができたのは、系譜伝承に見られる宇多源氏義経の事跡を仮説に立てて資料を読み、左馬頭良経の事跡(天皇乳母子という源義経の事跡)と氏姓(藤原朝臣という藤原良経の氏姓)の矛盾点に気づいていたからである。そうでなければ、「藤原良経」と記されているのを見て、藤原行成の次男良経だと判断して終わり、その先に進まなかったはずである。宇多源氏の系譜伝承を知っていたため、実は行成の実子ではなかったことにたどり着いたのである。
 また沙々貴神社系図では、良経(義経)を追捕使・兵部大輔であった伝えるが、これは良経が前九年合戦のとき陸奥守を更迭された源頼義に替わって陸奥守に補任され(『扶桑略記』『百錬抄』)、源頼義が陸奥守再任後に兵部大輔に遷任されたことと一致する(『百錬抄』)。『尊卑分脈』では兵部大夫とするが、沙々貴神社系図でいう兵部大輔が正しいことが確認できた。
 ただし、このことは沙々貴神社系図の系譜伝承がそのまま正しいということまでは意味しない。同系図は良経の官位左馬頭を、兄弟源成経の官位として記するなど錯誤が見られるからである。そのため系譜に書かれていることをそのまま信じるのではなく、まずは分解してみることが必要になる。 

『佐々木六角氏の系譜』序「系譜学の試み」1

 これまで江戸初期の学者沢田源内は、旧近江守護家佐々木六角氏の子孫と名乗るため、戦国期の近江守護六角氏綱に義実-義秀-義郷という架空の人物をつなげ、自らを義郷の子息氏郷を記す系図を創作したと考えられてきた。しかし氏郷と同時代の人々には、氏郷はまさに佐々木六角氏の直系と認められていた。さらに幕府編集の『寛政重修諸家譜』でも、氏綱の弟の系統である定頼-義賢-義治を「佐々木庶流」としている。どうやら学者沢田某は事実にもとづいた佐々木系図を記しただけで、しかも佐々木六角氏直系の氏郷とは別人のようだ。
 まず天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』奥書によって、相国寺住持と氏郷のあいだに親交があったことが分かる。寛文三年(一六六三)九月晦日たまたま氏郷が相国寺を訪れ、愚渓等厚禅師(九九代住持)と対談した。禅師は氏郷に対して、当山の開山である夢窓国師は、公(氏郷)の先祖宇多天皇の九代の後胤であり、国師の父親が長谷観音に祈り生まれたと話した。これに氏郷は、つぎのように答えた。夢窓国師は建治二年(一二七六)十一月一日生まれで、観応二年(一三五一)九月晦日に化している。ところが、わが家の九代はちょうど保元・平治の乱のときに当り、夢窓国師の生まれた建治年間とは二〇〇年の開きがある。わが家の中興の祖六角氏頼(一三二六-一三七〇)は夢窓国師とほぼ同世代であるが、その氏頼は宇多天皇の十八代の嫡孫である。これらのことから、夢窓国師を宇多天皇九代の後胤とするのは誤りであると述べた。しかし禅師は、このことを記しているのが後小松天皇の宸翰であり、誤りであるはずがないと反論している。それに対して氏郷はさらに答えて、宸翰であろうと誤りはあるものだと切り替えした。禅師はなおも納得しなかったが、諸老はこれを聞き、氏郷の言っていることがもっともであるとし、年代を改めるべきであろうとした。禅師もこれら諸言を聞くことで納得し、氏郷に謝礼を述べている。その日の夜、氏郷の夢に紫衣老僧が現れ、降誕の年代の誤りを正してくれたことに礼を述べたという。目を覚ますとすでに空は白んでいた。氏郷がその旨を愚渓禅師に話すと、その日はまさに夢窓国師の忌辰であり、深く感嘆したという。汝舟妙恕(一〇〇代住持)も感慨に堪えがたく禿毫を染めた。それが『夢窓国師俗譜』の奥書である。
 ひとはどうしても権威があるものを正しいと思ってしまう。しかし氏郷は、天皇の宸翰であろうと誤りは誤りであると主張した。この氏郷の態度は、まさに実証を重んじる学者にふさわしい態度である。わたしたちも見習わなければならない。
 ところで氏郷は相国寺では氏郷朝臣と呼ばれていた。朝臣と敬称で呼ばれるのは四位の者である。実は宇多氏流の公家庭田重条が、万治三年(一六六〇)十一歳のとき六角氏を称して従五位下大膳権大夫に補任され、伏見宮殿上人に列していた。氏郷が相国寺を訪れたのが、その三年後の寛文三年(一六六三)である。しかし実兄雅秀が病気がちであったため、重条は寛文五年(一六六五)庭田家に帰家してしまった。こののち重条は従一位権大納言に至り、武家伝奏も勤めている。重条は氏郷の養子として六角氏を称したのかもしれない。実際に氏郷には男子がいなかった。
 『京極家家臣某覚書抜萃』によれば、氏郷は丸亀藩主京極家と親交があり、藩主高豊の子息を養子にしていたという。やはり氏郷に男子はなかったのである。つぎに同書によって氏郷の事跡を追ってみよう。
 天和年間(一六八一-一六八四)京都に佐々木六角氏の末孫六角中務少輔という人物がいた。中務少輔は浪人であるにもかかわらず、白小袖の下着を着用していた。それを不審に思った京都所司代稲葉正則(丹後守)は二人の与力と申し談じて中務少輔宅に赴き、貴殿にては何の官位昇進があって白小袖の下着を着用しているのかと、対面のうえ尋ねた。すると中務は少しも驚かず返答している。佐々木氏には往古より永補任御免許があり、わたしも家伝定式のとおりにしているだけだと答えたのである。丹後守はなおも不審に思ったが、中務が永補任の書付を持参して委細を述べたため、その後は不問とされた。
 この事件に関して、『覚書抜萃』には稲葉丹後守宛京極高豊書状の写しが掲載されている。その書状は稲葉丹後守の質問に丸亀藩主京極高豊が答えるというものであり、六角中務について聞かれた高豊は六角兵部なら知っていると述べている。兵部は中務の前名であろう。
 その後について、『覚書抜萃』には次のように記されている。天和末から貞享初めのころ六角兵部殿という御方が京都に住んでいたが、その家臣阿閉内蔵丞が丸亀藩の役人に対面をもとめ、大目付伴孫次兵衛が対応した。やはり京極家側では六角兵部と認識していたようだ。このとき阿閉が伝えた内容は、六角兵部には相続の子がないため、佐々木六角氏に伝わる家宝七品を京極家に譲渡したいというものであった。幸い高豊が在城していたため、すぐに受納することを承諾し、阿閉を饗応した。兵部に対する藩主高豊の返書は、これまで疎遠であったが毎年銀を三十枚進ずるというものであった。これに関して六角中務大輔の礼状も掲載されている。やはり中務と兵部は同一人物であった。
 その三年後には兵部殿が丸亀を訪れている。そのとき京極家中では、兵部六角御相続は高豊の御子様であるため、合力銀を停めて、丸亀に招いて二千石か三千石を進めるのがいいだろうと話が持ち上がっている。この記事で高豊の子息が氏郷の養子になっていたことが分かる。やはり六角氏郷と沢田源内は別人である。
 元禄年間(一六八八-一七〇四)に記されたと推定される沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田源内と同一人物と考えられる沢田郷重(母和田氏)は、万治三年(一六六〇)に没している。元禄六年(一六九三)に没した氏郷とは別人であることが、このことでも分かる。実は沢田氏は佐々木一族で、戦国期には沢田兵部少輔(思文閣所蔵文書:年未詳八月二十九日付籾井名主百姓中宛沢田秀忠書状、および和田文書:年未詳五月十一日付浅井長政宛織田信長書状)が活躍している。このように見てくると、後世の沢田源内像は、水戸藩仕官を目指した学者沢田某と六角氏郷を同一人物と見立てた想像上の人物だと分かる。
 沢田源内を偽系図作者とする通説は、実は江戸中期に書かれた小林正甫の『重編応仁記』や建部賢明の『大系図評判遮中抄』の記述を鵜呑みにしたものであった。実は彼らは誤解をしていた。それが今日の沢田源内批判の源流である。
 宝永五年(一七〇八)加賀藩士佐々木定賢が幕府旗本佐々木高重を訴えるという事件があった。加賀藩士佐々木定賢は六角承禎(義賢)の長男義治の曾孫である。また幕府旗本佐々木高重は次男高盛(高定)の孫である。
 定賢の主張は、幕府旗本高重は自らを佐々木嫡流とする系図を幕府に提出したが、義治の直系である自分こそが佐々木嫡流というものである。さらに義実-義秀-義郷の実在も否定して、沢田源内批判を展開した(「佐々木氏偽宗弁」系図綜覧所収)。実は『重編応仁記』『大系図評判遮中抄』は、この定賢の一方的な主張をもとに書かれたものである。しかも定賢を高重の子と勘違いしたうえで、定賢が高重を幕府に訴えたのが事実であるにもかかわらず、高重・定賢が沢田源内を幕府に訴えたと誤解してしまった。小林正甫・建部賢明は自分たちできちんと実証したわけではなく、一方の言い分を鵜呑みにしていただけであった。しかも建部賢明は幕府旗本高重の縁者である。決して中正の立場にはない。ところが彼らが高名な学者だったため、彼らの著作の内容は今日まで疑われなかった。これが沢田源内批判の源流である。これでは、沢田源内批判はけっして実証的とはいえない。
 歴史学の基本は、後世に書かれた2次資料ではなく当時の資料であるはずだ。しかも、わたしが今回使用した天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』も京極家所蔵『京極家家臣某覚書抜萃』も、どちらも東大史料編纂所に写本がある。問題意識さえ持っていれば、すぐに見つけ出せるところに資料はあった。それにもかかわらず従来の沢田源内批判は、当時の資料で確認しようともせず、ただ先人の言葉を鵜呑みにしていたのである。
 沢田源内が創作したと考えられていた義実-義秀-義郷の三代の実在も、当時の資料で確認できる。義実は参議(唐名宰相)と伝えられているが、『鹿苑日録』には江州宰相と呼ばれる人物が記載されていた。しかも江州宰相の実名は、義久であった。実名が異なっていたのでは、いくら義実という名で資料を探しても見つかるはずがない。実在しなかったではなく、探し方が間違っていたのである。『鹿苑日録』は、足利義満の菩提寺相国寺鹿苑院住職である鹿苑僧録が書き継いだ日記であり、資料的価値はとても高い。義秀の名は、宮廷絵所預の土佐光茂の名画『犬追物図』に見える。義郷は、本名義康で『太閤記』『聚楽亭御成記』などに登場している。
 系図研究に関する著書のほとんどで、沢田源内批判がされている。しかし、そのどれもが自分で実際に資料で確かめたものではなく、ただ先人の主張を鵜呑みにしたものばかりだ。それは歴史研究では決してしてはならないことである。実際に当時の資料に当たれば、義実-義秀-義郷の実在は確認できる。はじめから実在しないと決め付けていたから、見つからなかったのである。実在するという視点から出発すれば、実名は異なるかもしれないと考えることができ、そして見つけることができる。これは、系図の記述をそのまま信じるのではなく、系図をもとに仮説を立て、資料に拠りながら仮説を修正していくという方法だ。このように用いれば、系譜伝承も立派に歴史学の資料となる。

『佐々木六角氏の系譜』執筆中

ただいま執筆中の『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』(仮題)がいよいよ書きあがります。内容はブログで紹介している記事をまとめたものなので、ブログを更新していないように見えて実は記事をこまめに修正していました。注目している記事があれば、内容が更新されているかどうか確認してみてください。大幅に内容が変わっているかもしれません。出版社は思文閣出版を予定しています。

見ているものと見ていないもの

これは、2005年東大入試前期の問題で引用された小池昌代「背・背なか・背後」を、わたしの経験・研究と照らし合わせて解釈+拡張したものだ。
 だれも自分の背中を見ることはできない。だから自分の後ろで他人が笑っていると気になる。もしかしたら、汚れているのかもしれない。あるいは、だれかイタズラで張り紙を貼ったかもしれない。しかも自分だけが見ることができない。見ようとすれば、鏡のあるところまでいかなくてはならない。背中には、そんな怖さ・もどかしさ・難しさがある。
 このように視線は届かないが、わたしたちの背後にも空間がある。自分の背後で、何が起きているのか知ることはできないが、たしかに背後にも世界が広がっている。そして、自分だけがそこから排除されている。ひとの数だけ眼前があり、ひとの数だけ背後がある。
 もちろん背後という空間から、自分が排除されているとはいっても、自分と背後の空間が無関係なわけではない。振り向けば、いつでも自分の背後がそこにある。しかし振り向いた瞬間、今度はいままで見ていたものが背後になる。全方角を同時に見ることはできない。意識はつねに現前の世界に向けられており、まっすぐ前を見たまま背後の世界を見ることはできない。だから、よけいにもどかしい。
 もし背後の世界を知らないまま、目の前の現象だけを見て、自分は世界の全てを知っていると主張したならば、わたしたちは必ず誤りを犯すことになる。背後の世界が、自分の前面の世界から類推できるものとは限らないからである。いくら合理的に考えても、わたしたちは未知のものを類推することはできない。合理性はあくまで後付けだ。視点の数だけ、盲点がある。自分の視点にこだわる限り、背後を見ることはできず、自分勝手な類推を背後に押し付けることになる。そして、わたしたちは判断を誤り、大きなしっぺ返しを食らうことになる。
 もし前を見たまま背後を知ろうとするならば、目を閉じて、全感覚を研ぎ澄ますといい。他の感覚を活用するのである。あるいは視点を多く集めるといい。そのことで盲点を補うのである。

2005年東大前期・国語第四問「背・背なか・背後」

小池昌代「背・背なか・背後」(岩波書店『図書』二〇〇四年七月号)より出典。
【内容要約】
待ち合わせ場所で待っている相手に近づくとき、そのひとが後ろ向きだったら、どんなふうに声をかけようか迷う。ひとの無防備な背中を前にすると、なぜか言葉を失ってしまう。これまで付き合ってきたのは、いつも相手の正面ばかりだからだ。そもそも背中は、ひとの無意識があふれている場所だ。だから、ひとの後ろ姿を見るとき、見てはならないものを見たようで、後ろめたく感じる。
 背中の周りに広がっているものは、そのひとの「背後」と呼ばれる空間だ。そこは視線がまったく届かないところだ。ひとは自分の背後の世界で、何が起きているのか知ることができない。背後は広がっているのに、自分だけは排除されている。
 もちろん背後という空間から、自分が排除されているとはいっても、自分と背後が無関係なわけではない。振り向けば、いつでも自分の背後がそこにある。しかし意識はつねに現前の世界に向けられている。だから、目を開けたまま背後を考えるということは、開いている目をただの「穴」にするということであり、頭をがらんどうの頭蓋骨にするということだ。
 ところで、人と大切な話している途中で、相手の背後にふと視線が向くことがある。そのとき、不思議な感じがする。こちらの世界とは触れ合わない、もうひとつの世界が同時進行で存在しているからだ。背後はまるで、彼岸のようだ。
 わたしたちは自分の背後を見ることができないのと同じように、自分の死を見ることができない。それどころか自分の背後も、そして自分の死も、考えることなく暮らしている。もちろん鏡で自分の後姿を確認することはできる。しかし背なかを見るには、鏡を二つ使用しなければならない。このことでも、背後を見ることの恐ろしさと難しさが分かる。
 だから背後はどうしても死角になる。意識がおよんでいないところだ。だから、突然後ろから声をかけられたら、誰でも驚く。後ろからどう声をかけようか迷うのは、相手を驚かせないためでもある。
 そもそも身体に触れないで、声だけでそのひとを振り向かせることはできるのだろうか。もっとも簡単なのは、名前を呼ぶことだ。名前を呼ぶことなく、相手が確実に振り向くかどうか分からない。だから、そういうとき、やはり相手の肩をポンと叩く。あるいは、相手の正面にまわる。背後の世界を入ろうとするとき、一瞬にしろ、言葉の無力さを感じる。

【解答例】
(一)本人が意識していない背中には、自分の知らない相手の無意識がさらけだされているため、なかなか近づけないということ。
(二)意識は目によってつねに眼前に向けられているため、目を開けたまま背後に集中すると、意識が消えて視覚以外の感覚が研ぎ澄まされるということ。
(三)だれもが背後をもつということは、だれもが自分では認識できないが確かにつながっている別世界をもつということ。
(四)無意識の世界への入ろうとするならば、意識の世界のものである言葉は頼りなく、身体的な行為が必要になるということ。

【解答のコツ】
評論文ではなく、散文であるため、ひとつの表現に多くの意味がこめられており、文意を正確に解釈するのは難しい。そのような場合、傍線部だけを見るのではなく、段落全体の要約を書くように心がけると、要点をつかんだ解答を作成できる。
 とくに文意が通じにくいときにしてしまいがちなのが、傍線箇所の一字一句を訳そうとすることである。しかし一字一句の意味にこだわっていると、全体の文脈を無視して解釈してしまうことが多い。一字一句を解釈すれば正確な解釈ができるというわけでない。同じ言葉でも文脈が異なれば、当然意味も異なってくる。これは国語でも英語長文でも同じことである。もっとも重要なのは全体の意味であり、部分はそれを構成するものだ。全体と部分は決して対立するものでなく、全体の中に部分があり、また部分を通して全体が見える。まずは全体の中での段落の位置を把握し、段落全体の要約をまとめる。そのあとに一字一句に注意していく。時間がなければ、段落の内容をまとめればいい。
(一)接続詞もなく、つながっている場合は、言い換えの文章が続いていると思えばいい。この場合は、傍線部アの直後の文章を参照にするとまとめやすい。
(二)傍線部イは段落の最後の文章であり、段落の内容をまとめればいい。通常、段落の最後の文は次の段落につながっているが、この場合は、次の段落から内容が変わっているため、次の段落を参照する必要はない。
(三)傍線部ウのある段落は短い。このような場合は、前後どちらの内容も参照するといい。とくに傍線部ウは段落の最後の文章であり、次の段落の最初の文章が「そして」で始まるので、やはりつながっている。前後の段落の内容を要約しよう。
(四)傍線部エは本文最後のまとめの文章であるため、直前の文章に注目するだけでは足りない。文章全体の内容を要約するといい。とくに「言葉というものを、放棄しなければならない」と述べているのであるから、「自分が、がらんどうの頭蓋骨になった気がする」(傍線部イ)と述べている個所の前後に注目だ。
 最後に、解答を読めば全体の内容が分かるようになっているかどうか確認すること。全体の内容が分かるようになっていれば、それでいい。

「偽善」という言葉は嫌いだ。

これは、2005年東大入試前期の問題で引用された三木清の文を読んで思ったことだ。もちろん三木清は、引用文の中で偽善のことについて述べているわけではない。しかし、他人のことを「偽善者」と言っている人たちに対して私が持っていた違和感と、三木の道徳観と結びついた。
 道徳という言葉があると、道徳が行動とは離れて単独にあるように錯覚してしまうが、実は道徳は行動と切っても切れない関係にある。人は行動することによって反省し、そして今度はこれまでとは異なる行動をしようと思う。徳は必ず行動に表れるものだし、また表れるものこそが本当の徳だ。
 ひとはよく「偽善」という言葉を使うが、私は偽善という言葉が嫌いだ。他人を「偽善者」と批判して自分は何も行動しない人よりも、「偽善者」と言われながらも行動した人の方が、よほど徳のある行動をしたことになる。ひとを「偽善者」と呼び、自らは何もしない者も、けっして徳ある者とはいえない。行動に表れないのであれば、それこそニセモノだ。
 道徳は道徳として単独で存在するのではない。行動には必ず相手があるものであり、どのような行動でも徳は求められている。また徳ある行動をすることで、私たちは相手のことを知ることができ、逆説的にも得をする。成功するにはまず相手を知ることが大切だからだ。
 相手に自分を押し付けては、けっして相手を知ることはできない。相手が人間でも物でも同じだ。相手をいたわり良く知ることで、人間関係であれば相手を活かすと同時に自分を活かすことができ、相手が物であれば相手の特質を活かした自分の作品をつくり上げることができる。そして道具は、そのような徳ある行為を実現するものである。
 このように相手を活かす行為をいつでもすることができれば、どのような相手に対しても自分は平静でいられる。そのような心を教科書によって学び取ろうとしても、それはできない。相手を知ることは、日々の関係の中で実際に相手を知ろうとするところから始めなければならない。

2005年東大前期・国語第一問「道徳と技術」

三木清『哲学入門』より出典。
【内容要約】
すべての道徳は、ひとが徳ある人間になることを要求している。それは、徳のある行為をする者になれということである。たとえの徳のある人であっても、行動をしていないうちは、潜在的に徳のある人であるにすぎない。徳のある行動することで初めて、徳のある人といえる。
 ところで人間は常に環境の中で生活している。われわれの行為は単にわれわれ自身の内から自発的に出てくるものではなく、環境との関係から出てくるものである。単に能動的でなく、また単に受動的なものでもない。能動的であると同時に受動的なものであり、主観的であると同時に客観的なものである。そして、この主体と環境の間を媒介するものが技術である。技術とは、徳ある行為を実現させるものといえる。徳は単に意識的なものではなく、有能性の問題と結びつくものなのである。
 もちろんすべての技術的行為が道徳的行為というわけではない。技術は物を生産することであって、技術的行為がそれ自身として道徳的あるわけではない。それに対して道徳は、人間に関するものといえる。しかし、いかなる人間の行為も物に関係している。われわれ自身もひとつの物であり、また人と人の行為的連関ではつねに物を媒介にしている。そのため、人間の徳を有能性から離れて考えることは、実は抽象的な議論といえる。
 技術の意味をひろく捉えることで、徳と有能性との関係が明らかになる。これまで技術と呼ばれてきたものは経済的技術であった。技術というとただちに物質的生産の技術を考えるのは、近代における科学技術の飛躍的発達、それが人間の生活にもたらした多大な効果の影響による。しかし古代ギリシアでは芸術と技術がひとつと考えられていたように、すべての文化は技術として形成される。実は言葉も礼儀作法も技術といえ、独立した主体と主体は、文化という表現技術によって結び付けられているのである。すべての文化は技術としてつくられ、社会を構成する個人と個人を媒介している。経済はもとより、社会の諸組織・諸制度も技術といえる。さらに自然に対する技術と社会に対する技術が、相互に連関している。人間は自然的・社会的環境において、技術を用いて適応し生活しているのである。
 しかし道徳を心の問題と考えても、それを心の技術ということができる。人間の心が理性的な部分と非理性的な部分からなっているとすれば、理性を十分に活かすには非理性を支配する技術が必要である。また人間生活の目的が非理性的なものを圧殺することではなく、理性と非理性を調和させて美しい魂をつくることであるとすれば、なおさら技術が必要だ。このような心の技術も、実は環境に関係している。心の技術は、いかなる環境の変化に対しても自己の平静を保ち、自己を維持する能力といえる。このような自己は、修業というひとつの技術によって養われる。しかし修業とはいっても、けっして社会から逃避してなされるものではない。心の技術は社会の中で生きていくための技術であり、修業は社会の中で行われるものである。われわれは環境である社会を形成していくことで、真の自己を形成することができる。心の技術は個人的なものに留まるものではなく、物の技術と結びつくことによって意味をもつものなのである。

【解答例】
(一)人間の行為は環境との相互関係の中で生まれるものであり、技術はその行為を実現させるための媒介であるから。
(二)徳は対象を有する行為では必ず求められるものであり、技術は徳ある行為を実現させるためのものでなければならないということ。
(三)言葉や礼儀作法などすべての文化は技術的であり、個人と個人はそれらの表現手段をとおして結びついているということ。
(四)人間をつくるということは、いかなる環境の変化に対しても、冷静に適切に対応できる自己を形成するということ。
(五)人間をつくるという心の技術は実は社会の中で生きていくための技術であり、けっして社会から逃避することで獲得できるものでなく、むしろ自らの環境である社会の中で、社会と関わりながら、社会を変えていくことで自らも形成されるものだから。
(六) a=卓越 b=飛躍 c=顕著 d=帽子 e=魂

【解答のコツ】
東大二次試験の第一問は、設問で問われている文章の前後に、言い換えている文章があることが多い。傍線部が段落の真ん中にある場合は段落の内容をまとめ、最初にあるときは前段落の内容、最後にあるときは次の段落の内容も見るといい。
(一)傍線部の直後に「言い換えると」とあるので、受験テクニックだと「言い換えると」のあとを参考にすることになる。しかし傍線部アは段落の最初にあり、しかも「かくて」で始まるため、前の段落の内容を参考にして書くといい。
(二)傍線部イが段落中央にあり、しかも直前に「かようなものとして」とあるので、段落前半部にある具体的説明を参考にすると、自分の言葉に直しやすいだろう。
(三)傍線部ウが段落中央にあり、接続詞がなく、前後の文章とつながっている。接続詞がない場合には、言い換えながら文章がつながっていると思えばいい。そのため段落前半部の内容を参考にしながら、段落の内容をまとめればいい。
(四)傍線部エの直前に「かくして」とあり、やはり直前の文章の内容を受けている。段落前半部の内容を参考にしながら、前後の内容をまとめればいい。
(五)傍線部オはまとめの言葉であり、文章全体の内容をまとめればいい。その際、筆者がもっとも強調したかったことを明確に記すこと。
 設問は、解答を読んだだけで内容が分かるようになっているといい。見直すときには、設問(一)から(五)の解答を読んだだけで、自ずと全体の内容が分かることになっているかどうか確認すること。通じないところがあれば、それが誤りである。 

常盤恵冠者為俊(再改訂版)

平為俊(生没年未詳)経方の長子。幼名千手丸。童より白河院北面、左兵衛少尉、検非違使、従五位下、下総介、駿河守、鳥羽院北面。「常恵冠者」(『尊卑分脈』宇多源氏流)、「常盤恵冠者」(佐々木系図)。のち源季定と改名(『尊卑分脈』宇多源氏流季定で「本追捕使為俊」)。しかし、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条では「四位陪従家定」とある。
 『平家物語』巻一の「俊寛の沙汰・鵜川軍」で、為俊は「童より」白河院の北面に伺候した切れ者と記されている。実際に寛治2年(1088)の『白河上皇高野御幸記』(寛治二年高野行幸記)では「童子平千手丸」と童名で見えており、童形で院北面であったことが確認できる。このとき藤原盛重や橘頼里らは実名(成人名)で見える。
 『中右記』寛治4年(1090)4月9日条では「左兵衛少尉平為俊」とある。実名(成人名)を名乗るのは一般的には元服と同時であるが、平安中期以降には皇子女の親王宣下、上級貴族の童昇殿、女性の宮仕え、叙爵などが改名の契機となっていた。公的身分に就くためには名簿を公的機関に提出しなければならないため、たとえ元服以前であっても公的身分標識として実名が不可欠になったのである。藤原頼長の場合も童殿上を契機に実名を名乗っている。為俊の場合も、左兵衛少尉補任とともに実名が必要とされたのだろう。
 ここで初官として、権官ではなく正員の左兵衛少尉に補任されていることにも注目できる。一般に衛門尉・兵衛尉とある場合は権少尉である。それにもかかわらず、元服前後の少年が初官として正員の左兵衛少尉に直任されている。これも、やはり白河院の鍾愛によるものだろう。実は舞童に選定された童たちが左兵衛府で舞の教習をうけるということが行われており(『三代実録』元慶6年3月27日条、『伏見宮御記録』代々御賀記・女御賀例)、為俊は左兵衛少尉に補任されることで、左兵衛府で実践的に行儀見習いを受けていたと考えられる。
 さらに、『為房卿記』寛治6年(1092)正月25日には左兵衛尉為俊が「院辺追捕賞と称して」検非違使に補任された記事がある。記主藤原為房は為俊の検非違使補任を「他府希代例云々」と記して驚いている。これは、検非違使は衛門尉が兼任するのが通例であるためだ。しかし、驚いた理由はそれだけではないだろう。『官職秘鈔』では兵衛尉で検非違使を兼任した例として源斉頼とともに為俊を挙げている。元服前後の少年が、前九年合戦のときの出羽守源斉頼と同じく、兵衛尉から検非違使に補任されたのである。斉頼は、禁中に籠もる犯人を捕進して使宣旨を蒙ったため(『百錬抄』『扶桑略記』)、それを前例に為俊も「院辺追捕賞と称して」使宣旨を蒙ったのである。ところが、為俊に「院辺追捕賞」が実体をともなったものか不明である。
 実は、『中右記』寛治6年4月18日条に「左兵衛尉平為俊、為検非違使、是千手丸也」とある。元服前の童が任官した場合は、公的には実名で呼ばれても私的には幼名で呼ばれ、藤原頼長も童殿上を契機に実名を名乗ったが、その後も父藤原忠実は幼名で呼び続けている。為俊も白河院からは幼名で呼ばれていたのだろう。それに対して記主藤原宗忠がことさら「是千手丸也」と私的な幼名で呼んだのは、実態が童であるにもかかわらず、白河院の鍾愛という私的理由で検非違使に補任されたことを好ましく思っていなかったからと考えられる。童が左兵衛少尉に直任し、しかも2年後には検非違使という重職に補任されたのである。宗忠でなくても驚く。
 しかし為俊は左衛門尉に遷任されることなく、左兵衛少尉のまま検非違使を兼官した。このことでも、彼が武者として期待されていたわけではないことが分かる。白河院は、為俊を行幸の花とするために検非違使に補任しただけであろう。そうであれば、警固を任とする左衛門尉に遷任させる必要はない。『尊卑分脈』宇多源氏流では「常恵冠者」、また佐々木系図では「常盤恵冠者」と称されたと伝えているが、この冠者名でも為俊が花ある人物であったことが分かる。
 その後も検非違使に在職していたことは確認でき(『中右記』寛治7年8月20日条・寛治8年3月8日条・嘉保3年7月10日条)、康和2年(1100)正月5日には従五位下に叙爵されて(『殿暦』)、宿官として下総介に補任された(『魚魯愚抄』巻七)。宿官とは、蔵人・式部丞・民部丞・検非違使などが従五位下に叙爵されたとき、適当な官職がないときに仮に補任される官職のことである。このとき為俊は叙爵されたのである。叙爵されれば五位の陪従として行幸には参列できる。武者ではない者が検非違使である必要はない。
 同じく白河院の寵童として知られる藤原盛重は、為俊より早く寛治2年(1088)にはすでに実名(成人名)で呼ばれていたが(『白河上皇高野御幸記』)、その盛重の検非違使在職が確認できるのが康和4年(1102)4月25日(『中右記』)以降であることを考えると、その2年前康和2年(1100)に叙爵されていた為俊の昇進は速い。為俊に対する白河院の鍾愛ぶりと、為俊の出自の高さが分かる。小舎人(殿上童)であった可能性が高い。嘉承3年(1108)正月24日には、検非違使の功績で駿河守に補任された(『中右記』)。天永2年(1111)10月17日には任国から馬十疋・牛十頭を献上しており、駿河守に在職していたことが確認できる(『殿暦』)。しかし重任は叶わなかった。白河院は一日も早い帰京を願っていたのだろう。そのため為俊は二度と国司に補任されることはなかった。
 『中右記』大治4年(1129)閏7月25日条にも駿河守として見えるが、このときは前駿河守であったと考えられる。この記事は、白河院没後もひきつづき平忠盛・為俊らが鳥羽院並びに女院北面に列したというものであり、忠盛に続けて為俊が記され、依然として北面の有力者であったことが分かる。
 ところで『尊卑分脈』『続群書類従』をはじめとする佐々木系図で、為俊は源季定に改名したとされるが、『長秋記』長承3年(1134)5月15日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ゝゝ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。陪従とは賀茂神社・石清水八幡宮などの祭儀や行幸で、神楽の管弦・舞・歌などに従事する四位・五位の地下である。そのため位階は四位であっても殿上人に続けて四位陪従として記されている。しかし実は平忠盛も源家定もすでに昇殿を許されている。忠盛は長承元年(1132)3月13日に(『中右記』)、家定は長承3年(1134)4月9日に(『長秋記』)それぞれ昇殿を許されているのである。そのため、この記事の「陪従」は院北面(下北面)を意味していたと考えられる。賀茂行幸で忠盛とともに舞人を勤めた四位陪従家定は、白河院没後に忠盛とともに鳥羽院北面に列した為俊の改名後の姿だろう。これで、これまで為俊の晩年が不明であった理由が分かる。改名していたのである。諸系図では「季定」と見えるが、実際には「家定」と名乗っていたことも分かる。草書体が似ていたために誤って伝えられたのであろう。やはり為俊は武者ではなく陪従として期待されていたのである。
 実は、この時期もうひとり「家定」と名乗った人物がいる。それは村上源氏右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅である。信雅ははじめ「家定」と名乗り、寛治7年(1093)3月6日には昇殿を許されて殿上人に列し、左馬権頭、右近衛少将、加賀介を経て陸奥守に補任され(『中右記』『長秋記』)、天承元年(1131)8月9日まで「家定」と名乗っていたことが確認でき(『長秋記』)、長承3年(1134)3月19日に皇后宮亮に補任されたときには「信雅」と名乗っていた(『中右記』『長秋記』)。翌4月9日に昇殿を許された院北面家定とは明らかに別人である。
 さらに『長秋記』保延元年(1135)4月21日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある。この記事をそのまま読めば、院北面家定が村上源氏に列していたことになる。『尊卑分脈』村上源氏流で、六条右大臣顕房の子息皇后宮亮信雅の子に季定が記されて、「実者顕房公子云々」とあるのはこのためだろう。さらに信雅の子息近江中将成雅の記事に「或季定子也云々」とある。実際に『長秋記』の記事で、為俊が改名後に村上源氏の養子になっていたことが分かる。また家主季房に続けて家定が記されており、家定は季房の養子として村上源氏に列したことも分かる。
 私がこのような結論に至ったのは、『尊卑分脈』村上源氏流で、右大臣顕房の子息信雅に注目していたからである。信雅の子息成雅が「或季定子也云々」と記され、さらに信雅の子息に季定があって「実者顕房公子云々」と記されている。ここで二つの作業仮説を立てた。ひとつは、季定(本為俊)が村上源氏の養子になり、さらに村上源氏の公達成雅を養子にしたとういう作業仮説である。もうひとつが、村上源氏信雅(本家定)と季定(本為俊)が混同されて、信雅の子息成雅に季定の子息と誤り伝える系譜伝承が生まれたという作業仮説である。混同される要因としては、季定が同名「家定」を名乗っていたということが考えられる。この作業仮説をもとに当時の記録を読み、村上源氏信雅とは別人の四位陪従家定を見つけることができた。そして為俊の改名後の実名は「季定」ではなく、「家定」であったと結論づけたのである。さらに『長秋記』保延元年(1135)4月21日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とある記事を見つけ、為俊が改名後に村上源氏に列していたことを明らかにした。ただし今後も研究を続けていく必要があるだろう。
 為俊には、右兵衛尉為兼という弟がいたことが当時の記録で分かる(『中右記』寛治7年10月3日条・康和5年4月17日条)。寛治7年(1093)3月の『白河上皇春日社御幸記』で「為利弟也」との割注が付される小舎人童「袈裟牛丸」は為兼の前身であろう。同年3月に袈裟牛丸と呼ばれ、10月には右兵衛尉為兼として登場するため、兄為俊と同様、元服前後に兵衛尉に任官したことが分かる。白河院の取り計らいであろう。弟為兼も院殿上童であった。この為兼は、為俊(家定)の弟行定と同一人物と考えられる。この行定の子孫が、近江佐々木荘下司として現地管理に当たった源行真である(『源行真申詞記』)。その一族である山崎氏は、平為兼と源行定が同一人物であることを裏付けるように、「佐々木末流平氏」と称している(『山崎家譜』)。
 『平家物語』長門本では為俊を三浦氏とし、続群書類従本三浦系図では為俊を三浦義明の祖父為次の弟とする。しかし三浦義明が生まれた寛治6年(1092)には、為俊もまだ元服まもない少年であり、兄弟ほどの年齢差しかない。しかも為俊には、弟右兵衛尉為兼までいる。この為俊・為兼兄弟を三浦義明の大叔父とするには年代が合わない。 また『尊卑分脈』藤原氏良門流では藤原章俊の養子としているが、管見の限り藤原氏を称した形跡はない。『尊卑分脈』宇多源氏流にあるように、為俊は宇多源氏流であろう。