観音寺騒動と足利義輝殺害事件

 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。
 しかし永禄六年(一五六三)六角氏では、義治(当時は右衛門尉義弼)が重臣後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺したことで、承禎・義治父子と六角近臣団が対立するという観音寺城騒動(後藤騒動)が起きた。六角氏が伊庭氏の乱を契機に守護代を廃止してから、守護代クラスの豪族級家臣に代わって、後藤氏ら新興勢力が六角氏の奉行人・使者として急成長した。その中でも、後藤氏は進藤氏とともに六角氏の両牙と称された。義治はその人望に危機感をもち、後藤父子を謀殺したと考えられる。六角氏の弱体化は決定的になった。
 さらに永禄七年(一五六四)七月四日三好長慶が没した。すると、その重臣松永久秀が暴走した。六角氏が内紛で身動きのとれない間隙を突いて、翌八年(一五六五)五月三日将軍足利義輝とその母慶寿院(元関白近衛尚通の娘)を、将軍邸に襲撃して弑逆したのである。

足利義昭入洛運動

 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶らは早速、甲賀和田城から越後上杉輝虎(のち謙信)や尾張織田信長など諸大名に連絡を取った(19)。
 覚慶らを保護した和田氏は甲賀武士であったが、また将軍御供衆(和田中務少輔)でもあった。一般に甲賀武士というと短絡的に甲賀忍者と思われがちだが、なかには和田氏のように幕府奉公衆(直臣)を勤めた者もいるという、自立した中小領主たちであった。とくに和田氏は、平安中期の前九年合戦(一〇五一-六二)で活躍した出羽守源斉頼(政頼)の子孫である名門武家で、戦国期には六角高頼の四男大蔵大輔高盛(20)の子息景盛(21)が養子入りしていた。彼が覚慶を保護したのである。和田惟政はこの甲賀和田氏の一族である。
 またこの時期、三管領のひとつ河内守護畠山政頼(御屋形様)・守護代遊佐信教(新次郎)・重臣安見宗房(美作守)らも六角氏を頼り、将軍義輝謀殺事件を諸大名に報告して協力を要請している(22)。河内畠山氏は六角氏とともに三好包囲網を築き、また越中守護を兼任していた関係から越後上杉氏とも綿密に連絡を取っていた。その結果、畠山政頼・遊佐信教・安見宗房らの書状が、上杉文書や河田文書に残された。上杉文書などで安見宗房が六角氏家臣とされるのは、彼らが六角氏に保護されていたからだろう。
 このように反三好勢力を結集した六角氏は、すぐ三好氏に対して反撃に出た。その一環として六角承禎は丹波・丹後平定に尽力し、若狭武田氏の重臣白井民部丞に対して、丹後出勢を要請している(23)。

  丹波之儀蘆田越前守・荻野悪右衛門尉以調略過半本意候、此刻
  至丹後表被差急出勢、可被及行段肝要候、丹波之儀無油断才覚
  此節候、猶狛丹後守可申候、恐々謹言、
     正月廿二日  承禎(花押)
       白井民部丞殿

  丹州御出勢之儀、以梅軒申候之処、可被相立由各馳走之験、
  尤珎重候、諸口相調候之条、早速可被及行事肝要候、猶梅軒
  可申候、恐々謹言、
     二月廿日   承禎(花押)
       白井民部丞殿

 永禄八年(一五六五)八月二日荻野悪右衛門尉(直正)が、松永長頼(久秀の弟内藤備前守・蓬雲軒宗勝)を滅ぼしたことで、丹波情勢は一変した(24)。そして承禎書状にあるように、丹波の大半を三好方から奪った。さらに丹後への出勢も進めている。このように六角氏は各地の反三好勢力を結集して、着実に勢力圏を拡大させていった。
 情勢が落ち着き始めると、覚慶は近江国平野部の野洲郡矢島御所に移った。そこで還俗して義秋と名乗るとともに、将軍の前段階である従五位下左馬頭に補任された。矢島御所は、六角氏の重臣進藤山城守(賢盛)の居城木浜城の近くである。
 義秋が、父義晴の庇護されていた六角氏の居城観音寺城には入城できなかったのは、観音寺城騒動で六角氏が二分されていたからである。進藤氏ら六角氏近臣団は義秋を庇護したが、近臣団と対立した六角義治(承禎の嫡子)は、義秋の敵人三好氏と通じた。
 永禄九年(一五六六)八月三日には矢島御所で三好方に内通する者があって、三好軍三千が近江国坂本に侵攻した(『言継卿記』永禄九年八月四日条)。このことで六角義治が三好氏と通じていることが露見した。六角義治が三好氏と通じていたことは、三好三人衆の一人三好康長(山城守入道)に年賀の御礼として太刀一腰を贈っていることでも分かる(25)。
 義秋は近江を脱出して、妹婿である若狭守護武田義統、ついで大国である越前守護朝倉義景を頼った。ただしこの義秋の北国行きは単なる逃避行ではなく、越後上杉輝虎(謙信)の出陣を促すための積極的な行動とも考えられる。

【注】
(19)(永禄八年)八月五日付上杉輝虎(謙信)宛大覚寺門跡義俊副状(『新潟県史』資料編3中世、五〇七号)、および(永禄八年)六月二十四日付河田長親・直江実綱宛安見宗房書状(河田文書。『新潟県史』資料編5中世、三七四〇号。『越佐史料』四巻五三四頁)ほか。
(20)『歴名土代』従五位下の項に「源高盛享禄二年二月二十一日」とあり、さらに天理大学所蔵『大館記』所収の『大館常興日記』天文十一年八月二十六日条に「佐々木大蔵大輔殿」とある。また同じく『大館記』所収の『御内書并私状等案』に、八月一日付佐々木大蔵大輔宛大館晴光書状案がある。
(21)『歴名土代』従五位下の項に「源景盛永禄三年八月二十九日」とある。
(22)(永禄八年)六月二十四日付河田長親・直江実綱宛安見宗房書状(『歴代古案』二巻一〇一号。『越佐史料』四巻五三四頁)、(永禄八年)八月八日付薬師寺九郎左衛門尉宛畠山政頼書状・遊佐信教書状・安見宗房書状(尊経閣文庫)ほか。
(23)『福井県史』資料編2中世、三重県白井文書四一号・四二号。
(24)『お湯殿の上の日記』永禄八年八月四日条、『多聞院日記』永禄八年八月日条、および(永禄八年)八月五日付大覚寺門跡義俊書状(『歴代古案』三巻二八号。『大日本古文書』上杉家文書五〇七号。『新潟県史』資料編3中世、七五九号。『越佐史料』四巻五四三頁)。
(25)(年未詳)正月十六日付三好山城入道宛六角義治礼状(『古今消息集』)。『近江蒲生郡志』七〇一号(二巻、七三九頁)。

江州殿と織田信長の入洛

 足利義秋が北陸を移座している間、永禄十年(一五六七)四月十八日に六角氏式目(義治式目)が制定された。三上越後守(恒安)・後藤喜三郎(高治)・三井新五郎(治秀)・真光寺周揚・蒲生下野守入道(定秀)・青地入道(道徹)・青地駿河守(茂綱)・永田備中守入道(賢弘)・平井加賀守(定武)・馬淵山城守入道(宗綱)・三雲対馬守(定持)・永田刑部少輔(景弘)・進藤山城守(賢盛)・池田孫二郎(景雄)・三雲新左衛門尉(成持)ら六角氏近臣団は、この分国法によって承禎・義治父子の行動を規制し、体制の立て直しを図った。
 しかも動いたのは、上杉輝虎ではなく織田信長だった。同年八月十五日信長は、美濃斎藤竜興の居城稲葉山城を攻略して美濃を平定し、京都への通路を確保した。このとき六角氏は信長方に協力したという伝承がある(26)。もともと甲賀武士佐治・池田・前田・和田らは尾張にも勢力を伸ばしており、六角氏と織田氏の連携は容易であった。こうして信長入洛のための御膳立はできた。
 永禄十一年(一五六八)三月、足利義秋は朝倉邸で公家式の元服式を挙行し、義昭と名乗った。加冠役は前関白二条晴良が勤めている。公家式の元服式にこだわったのは、四位に叙位されるためだった(『言継卿記』永禄十一年三月二十四日条)。これで、征夷大将軍補任こそ阿波公方義栄(義親)に先を越されたものの、位階は従五位下左馬頭の義栄を上回る。このとき、六角氏被官である山内六郎左衛門尉と九里十郎左衛門尉が門を警固しており(内閣文庫蔵『朝倉義景亭御成記』)、義昭に六角氏関係者が同行していたと考えられる。
 永禄十一年(一五六八)七月織田信長は美濃立政寺に義昭を迎え、さらに同年九月には六角承禎・義治父子を近江国から追い、足利義昭を奉じて上洛を果たした。
 しかしこのときの承禎・義治父子の抵抗は激しく、一般に言われるような信長の圧勝ではなかった。『言継卿記』の記述をもとに追っていくと、まず九月十日信長(織田上総介)が近江中郡(近江国の中心である東近江)に出張した。それに対して三好三人衆のひとり石成友通(主税助)も、承禎・義治父子に助勢するため近江坂本まで出張した。十一日近江で合戦があったが双方ともに被害が多く、信長は美濃に帰国し、石成友通も帰京した。それを見計らって信長は翌十二日に再び近江に出張し、こんどは六角軍の前線との正面衝突を避けて迂回し、後方の承禎・義治父子の籠る箕作城を直接攻めた。
 六角氏内部では観音寺騒動以後、後藤・永田・進藤・永原・池田・平井・九里など反承禎・義治父子派があった。このうち九里氏は、義昭の朝倉邸御成にも同行していた九里十郎左衛門尉と関係があろう。彼らは、湖東第一の河川である愛智川をはさんで織田軍と対峙する前線和田山城の守備から外され、後方の本城観音寺城に籠城していた。ところが観音寺城と箕作城は峰続きであるため、彼らが動かなければ箕作城は孤立する。しかも石成友通は帰京してしまった。信長は前線和田山城を避けて迂回し、味方であることが明白な本城観音寺城を見過ごして、孤立した箕作城を集中的に攻めた。
 箕作城の承禎・義治父子は激しく抵抗したが、敗れて甲賀に逃走した。裏をかかれた承禎・義治派の諸城も、十四日までにはすべて降伏した。信長は圧倒的な軍事力で勝利したのではなく、情報と奇策で勝利したといえる。
 実はこの一連の出来事は『言継卿記』には記されているが、『信長公記』には記されていない。これまで六角氏側の視点で資料が読まれることがなかったため、信長が苦戦したことが見落とされ、信長の圧勝のように説明されてきた。このことは実証歴史学とはいっても、先入観をもって資料を読んでいることを象徴していよう。
 信長(上総介)は義昭を観音寺城内の桑実寺に迎えると、九月二十六日江州殿とともに義昭を奉じて京都に入洛を果たした(『お湯殿の上の日記』永禄十一年九月二十二日条)。この江州殿は義秀だろう。ただし義秀が傷病に苦しんでいたことを考えれば、実際に入洛したかどうかは疑問である。『言継卿記』に江州殿の記事がないことからも、彼自身の入洛はなかったと考えられる。この入洛で、朝倉邸で義昭の加冠役を勤めた前関白二条晴良も関白に復帰した。

【注】
(26)『江源武鑑』(永禄七年七月二十五日条から同年八月十三日条まで)ほか。

義秀遠行

 入洛直後に義秀は病没した。やはり義秀は傷病に苦しんでいた。滋賀県和田文書の(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状(27)によれば、信長は義秀が没したとの報に接して言語を絶するとともに、近く起こるであろう六角承禎の帰国に用心するよう浅井長政に求めた。

  義秀遠行之趣絶言語儀候、承禎帰国者近可有之条、各尤油断
  有之間敷候、武田事若州可相催之間寄特候、委細沢田兵部少
  可申述候、謹言、
     五月十一日  信長(花押)
      浅井備前守殿

 この信長書状によって、江州殿の実名が義秀であることが確認できる。また永禄十一年(一五六八)九月の信長上洛戦で承禎・義治父子が没落した後も、義秀が健在だったために近江が静謐だったことが分かる。実際に、滋賀県黒川文書所収の永禄十二年(一五六九)六月二十八日付黒川修理進宛六角氏奉行人奉書(28)が存在する。
 こののち元亀年間(一五七〇-七三年)には、信長が心配していた通り承禎・義治父子が近江に帰国し、浅井長政や朝倉義景と結んで信長に対抗したことで、近江が混乱に陥った。元亀争乱である。義秀逝去の報は、信長にとってまさに言語を絶する出来事となった。
 この信長書状は、永禄十一年(一五六八)九月の六角承禎・義治父子の近江没落から、浅井長政が朝倉義景と結んで信長を裏切る元亀元年(一五七〇)四月までの間のものと推定できる。五月十一日付であることを考えれば、永禄十二年(一五六九)に比定できよう。また、このことから永禄十一年(一五六八)に信長とともに足利義昭を奉じた江州殿が、義秀だったことが確認できる。
 この書状の使者は、六角氏の有力被官沢田兵部少輔である。『福井県史』資料編2中世では信長書状中にある使者を「津田兵部少輔」と読み、信長の被官津田元嘉のこととしているが、彼が兵部少輔と名乗ったことは管見の限り見られない。津田兵部少輔ではなく、沢田兵部少輔である。沢田兵部少輔は、鎌倉初期の佐々木定綱の次男左兵衛尉定重の子孫で、六角氏の有力被官であった。一般に偽系図作者の烙印を押されている沢田源内は、この沢田氏の子孫である。
 同文書は、使者沢田兵部少輔と姻戚関係にあった雄琴城主和田氏に伝えられた。この雄琴和田氏は、前述の甲賀和田景盛の弟和田中務丞(秀純)の子孫である。
 この和田文書には義秀書状(29)と伝わる文書もある。東京大学史料編纂所の影写本には、偽書というメモ書きがある。しかし、それは朝倉義景の署名と花押のある朝倉義景書状である。六角義秀書状の偽物ではなく、朝倉義景書状の本物であった。
 偽書と書き込んだ人物は、自らが義景を義秀と読み間違えた上で、本物の義景書状に偽書と書き込んだ。このことは、義景を義秀と読むという間違いをしただけではなく、さらに文書の真贋を義秀は実在しないという思いこみでしたことになる。紙質や文体・筆跡などで偽書と判断したのではなく、思い込みによって判断したのである。実証的研究とはいっても、このように思いこみに左右されることがよくある。義秀と読み間違えて義秀書状発見と喜んでいる方がまだ救われる。このことでも史料批判の難しさが分かる。

【注】
(27)東京大学史料編纂所影写本滋賀県和田文書。『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書一号。
(28)永禄十二年六月二十八日付黒川修理進宛武藤康明・種村賢仍連署状(黒川文書)。東京大学史料編纂所影写本滋賀県黒川文書。
(29)(元亀元年)十月十五日付和田源内左衛門尉宛朝倉義景書状。『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書二号。

朝倉義景と六角義景

 越前の戦国大名朝倉義景は、六角氏綱の子息であったという異説がある。富山県立図書館所蔵『朝倉家録』所収の『朝倉家之系図』で、義景=六角氏説は異説として紹介されている(30)。六角氏側では、『江源武鑑』はまったく伝えていないものの、沙々貴神社本佐々木系図と『六角佐々木氏系図略』が、六角氏綱の次男として朝倉義景を記述している。
 これまでは、六角氏綱の没年が永正十五年(一五一八)であることから、天文二年(一五三三)誕生の義景の実父とするには年代が合わないとされてきた(31)。しかし氏綱の孫と考えれば生年の問題は解決する。しかも義景生年の前年である天文元年(一五三二)十二月に、六角氏と朝倉氏の間で密約が交わされている(32)。この密談に関する天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状には、密約の内容が記されていないものの、「末代迄」という文言から相当重要な内容だったことが分かる。そして、その翌年に義景(長夜叉丸)が誕生したことになっている。密約の内容は、やはり義景の出生に関することと考えられる。
 実際にこののち、六角氏の重臣山内・九里・河端などの名が義景の近辺に見える。天文七年(一五四八)山内丹後入道が越前から若狭に進入することが、若狭武田氏によって懸念されている(『証如上人日記』天文七年九月二十九日条)。また天文十年(一五四一)朝倉孝景・長夜叉丸(のち義景)父子の気比神宮遷宮に際しては、河端民部少輔が朝倉側の窓口として、幕府側の窓口大館晴光と対面している(33)。
 さらに前述のように、永禄十年(一五六七)の足利義昭の朝倉義景邸御成のとき、山内六郎左衛門尉・九里十郎左衛門尉が門警固役を勤めている。このとき仁木義政が、亭主朝倉義景とともに足利義昭を大門の外まで出迎えるなど、義景の後見者として振る舞い、さらに饗宴でも義昭に相伴している。御相伴衆は管領家に準ずる名誉的格式で、足利将軍の饗膳に相伴するだけではなく、幕政に参画した宿老集団であった。門役の山内・九里両氏は、この御相伴衆仁木義政に従っていたと考えられる。
 六角氏は、天文十一年(一五四二)十月に伊勢国司北畠氏を破り、仁木氏の旧領国北伊勢の朝明・員弁郡を領していた。『江源武鑑』天文十一年十月二十七日条によれば、義久の弟河端義昌が北伊勢・伊賀を領国として、伊勢義昌と名乗ったという。その伊勢の旧守護家仁木氏は馬頭・馬助を世襲官途としていたが、沙々貴神社本などの系譜伝承によれば義昌の官職は左馬頭である。しかも後述するが、元亀四年(一五七三)二月に仁木義政が近江で挙兵したときに、義景は義政を「佐左馬(佐々木左馬)」と呼んでいる(34)。やはり仁木義政と河端義昌は同一人物だろう。そうであれば、気比神宮遷宮で朝倉側の窓口となっていた河端民部少輔も、仁木義政と関係がある。 このように、義景の近辺には六角氏関係者が多くいる。義景に六角氏出身説があるのも肯首できる。
 永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されたとき、弟義昭(一乗院覚慶)は奈良を脱出して近江甲賀郡和田城に逃れたが、このとき奈良脱出を成功させたのは義景の調略である(35)。義景は、確実に近江に地盤を有している。
 義景は織田信長との抗争を開始した元亀元年(一五七〇)に、自らの花押を六角氏様に変更している。六角義秀没後に義景が六角氏様の花押を使用したことは、朝倉義景=六角氏説を考え合わせると象徴的である。義景は六角氏の後継者を自負して、六角氏様の花押に替えたと考えられる。
 同年十二月の織田信長との和議の際に発給された、元亀元年十二月十五日付山門三院執行代宛朝倉義景書状写(36)で、「遺(叡)山之儀、佐々木定頼の時の寺務等の如く」と明記されていることでも、義景が六角氏を意識していたことが分かる。
 滋賀県竹生島宝厳寺文書に花押の異なる義景書状二通が所収されている。一通は十二月十六日付竹生島大聖院宛朝倉義景書状(37)で、足利義輝から諱字を給付されて延景から義景に改名した直後の永禄年間(一五五八-七〇)のものである。もう一通は六角氏様の花押がある六月二日付竹生島大聖院宛朝倉義景書状(38)、織田信長と抗争した元亀年間のものである。元亀年間の義景書状では、去年参詣したときの祈願が成就したため太刀を贈ると記されている。元亀元年(一五七〇)志賀の陣での戦勝を祈願したのだろう。そしてそれが成就したので、太刀を贈ったのである。
 この太刀は、もともとは伊予河野氏の先祖が源頼朝より賜ったものであった。河野氏は祈願成就があったため太刀を比叡山に寄進し、さらに比叡山が義景に贈ったという。比叡山が義景に太刀を贈ったことや、義景が竹生島に参詣していることは、義景が北近江の支配者であったことを象徴していよう。また姉川の合戦以後も、浅井氏が余力をもっていたことが分かる。
 そして滋賀県内には六角義景がいたと思わせるほどに、六角氏様の花押が描かれた朝倉義景書状が多く残ることになった。和田文書採集の際に、歴史学者が義景書状を義秀書状と誤ったほどである。口頭伝承の中にも、義景の伝承を、義秀の伝承として誤り伝えたものが多くあると考えられる。

【注】
(30)白崎昭一郎『郷土史夜話えちぜんわかさ』(北陸通信社、一九七八年)ほか。
(31)水藤真『朝倉義景』(人物叢書、吉川弘文館、一九八一年)ほか。
(32)天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫所蔵文書)。『福井県史』資料編2中世、東京都内閣文庫所蔵文書『古今消息案』四号。この文書が朝倉義景=六角氏説を支持する資料であると、私が注目できたのは、福井市の郷土史家白崎昭一郎氏の御指摘による。
(33)(天文十年)八月二十八日付川端民部少輔宛の大館晴光書状案。『福井県史』資料編2中世、東京都内閣文庫所蔵文書『越前へ書札案文』八五号。朝倉孝景(弾正左衛門入道)宛の大館晴光書状案(『越前へ書札案文』八一号)の文中では「川端」ではなく「河端」としている。
(34)(元亀四年)三月十八日付多胡宗右衛門尉宛朝倉義景書状(尊経閣文庫所蔵文書)。『福井県史』資料編2中世、東京都尊経閣文庫八六号。
(35)(永禄八年)八月五日付上杉輝虎(謙信)宛大覚寺門跡義俊副状(『歴代古案』三巻二八号。『大日本古文書』上杉家文書五〇七号。『新潟県史』資料編3中世、七五九号。『越佐史料』四巻五四三頁)。および同日付直江大和守宛大覚寺門跡義俊書状(『歴代古案』二巻五号。『越佐史料』四巻五四四頁)。
(36)『伏見宮御記録』利七十三所収の「元亀元年山門へ綸旨并信長状」。奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』二六五号。
(37)滋賀県竹生島文書(東京大学史料編纂所影写本)。『福井県史』資料編2中世、滋賀県竹生島文書一号。
(38)『福井県史』資料編2中世、滋賀県竹生島文書二号。

浅井久政・長政父子と六角氏

 『江源武鑑』『浅井日記』では、浅井長政を六角氏の武将と伝えている。また『六角佐々木氏系図略』では、浅井久政は六角氏の庶子だったとも伝えている。もしそうであれば、六角氏と朝倉・浅井両氏は深く結び付いており、元亀争乱で浅井長政が朝倉義景に寝返ったことも理解できる。少なくとも浅井久政の名乗りは、江州宰相六角義久の諱字を給付されたものと考えられる。
 元亀争乱では、前述の和田文書所収(年未詳)五月十一日付浅井長政宛織田信長書状に使者として見える沢田兵部少輔をはじめ、山崎・目賀田・伊達・藤堂など六角氏の有力被官が浅井方に参加している。しかも、滋賀県福田寺文書所収の(年未詳)十二月十七日付和田惟政披露状写(39)によって、六角氏が浅井長政(備前守)と織田信長の妹の婚姻に尽力していたことが確認できる。宛先の三雲対馬守(定持)・新左衛門尉(成持)父子は甲賀を本拠とする六角氏重臣である。
 長政の父久政は親六角路線をとっていたが、長政は永禄二年(一五五九)に六角氏重臣平井定武(加賀守)の娘と離別し、さらにそれまでの実名賢政を捨てた。賢政の名乗りは六角義賢の偏諱(貴人の実名の一字)を給付されたものであった。こうして長政は自立の動きを見せた。六角氏はただちに近江北郡に兵を進めたが、翌三年(一五六〇)野良田合戦で敗れた。そこで六角氏は、義治(四郎・義弼)の正妻に美濃斎藤義龍の娘を迎えて同盟を結び(40)、同四年(一五六一)浅井長政が美濃に侵攻した隙を突いて、浅井氏の属城佐和山城を落して浅井氏を屈服させた。そして長政は、六角氏の仲介で信長の妹と再婚した。
 長政は、(年未詳)九月十五日付市橋伝左衛門尉宛書状で、織田方に寝返っていた斎藤龍興旧被官氏家卜全・安藤守就(伊賀)を通して信長(尾張守)に婚姻の実行を願い出ていることから、実際の婚儀は永禄十年(一五六七)あるいは翌十一年(一五六八)と考えられる(41)。また、このことで長政の実名が婚儀以前からの名乗りであり、信長とは関係ないことが分かる。
 このように六角・朝倉・浅井の三氏の結び付きは強い。やがて三氏は比叡山・本願寺と結んで、信長と対立する。元亀争乱である。

【注】
(39)滋賀県福田寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『東浅井郡志』四巻、福田寺文書一号。
(40)永禄三年七月二十一日付六角宿老衆宛六角承禎条書(春日倬一郎氏所蔵文書)。『岐阜県史』史料編古代・中世四、神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書。
(41)『古文書纂』。奥野高広「織田信長と浅井長政との握手」日本歴史二四八号、一六五-九頁、一九六九年。

元亀争乱と近江修理大夫

 『言継卿記』元亀元年(一五七〇)四月二十九日条に、「江州へ六角出張云々、方々放火云々、北郡浅井申合、信長に別心せしむ云々」とある。当時は、浅井氏が信長に反旗を翻したのは、六角氏と示し合わせたためと考えられていたことが分かる。また(元亀元年)七月十六日付益田藤兼宛朝山日乗書状(42)に「江州北之郡浅井別心候、則ち六角殿も六千計りにて取り出でられ候」とあり、このときの六角軍の兵力が六千であったことが分かる。けっして少なくない。
 続けて『言継卿記』同年五月九日条に「巳刻織田出陣、二万計りこれ有り、江州六角入道以下出張、北郡浅井同心云々、大儀の至りに候」とあり、やはり浅井の挙兵が六角氏と申合せたものであることが確認できる。この六角・浅井連合軍に対して、信長は二万の兵で出陣した。これは信長にとって苦境の始まりであった。それは「大儀の至りに候」という言葉で分かる。
 さらに同月十二日条で「信長今日勢多の山岡城へ入れらる云々、六角入道紹貞を拘ふこれ有り云々」とあって、六角承禎が捕縛されたという伝聞の記事がある。しかし、これは虚説だった。
 実際には捕縛されたのではなく、信長方と六角方の和平交渉が始まったのである。ところが同月十九日条で「江州より日乗上人・村井民部少輔上洛云々、六角和与の事相調はず云々、仍つて今日弾正忠濃州へ下向云々」と記されているように、六角方との和平交渉は不調に終わった。六角方はあくまで強気だった。
 『言継卿記』同月二十二日条に「六角入道、同右衛門督等、一昨日歟甲賀石部城へ出でらる云々、二万計り云々」とあり、六角承禎の軍勢が二万の大軍であったことを伝えている。実働の軍事力は、信長と対等である。さらにこのとき信長は、命中しなかったものの甲賀山中で鉄砲で狙撃された。六角承禎の軍事活動はけっして抵抗程度のものではなく、本格的なものだった。二万の兵力を有していれば、承禎父子が信長からの和平交渉を断ることも理解できる。
 このような情勢の中で、義秀の縁者と考えられる近江修理大夫に宛てた織田信長書状の写しが、『士林證文』に収められている。(元亀元年)六月十九日付近江修理大夫宛織田信長書状写(43)である。

    今十八日、浅井郡へ令着陣候、貴国も早々彼表在陣尤候、
  一、当四日承禎父子、諸牢人ヲとりあつめ候而、野次(洲)郡へ
   うち出、相働候所ニ、柴田・佐久間所ニありあい候よしニ而
   馳向、得勝利候て、くひ数岐阜へ到来、不斜候事、
  一、十日所々一揆共ヲ催、貴国の居城近辺へ逆徒相働候所、
   早速跡敷、その上承禎父子いけ取ニ被致事、誠ニ是ハ江家
   の御手柄共候事、
  一、承禎父子事、宮の御聞候て、助命あり度の事、これも
   貴国ノ御心次第候、
   くはしくは織田金左衛門口上申含候、恐々謹言、
      六月十九日    信長(花押)
       近江修理大夫殿
             人々御中

 信長書状写によれば、近江修理大夫は信長と同心しており、元亀元年(一五七〇)六月四日佐久間信盛・柴田勝家が承禎・義治父子を破った。さらに十日近江修理大夫が承禎父子を捕縛した。しかし宮(天台座主覚恕法親王か)が、承禎父子の助命・釈放を嘆願したという。
 『言継卿記』六月四日条に、「江州小浜合戦午時にこれ有り云々、六角左京大夫紹貞・同右衛門督義ヽ以上、二三千人討死、敗軍云々、申刻武家へ方々より注進これ有り云々、織田弾正忠信長の内佐久間右衛門尉、柴田修理亮、江州衆進藤、永原等勝軍云々、珍重々々」と記されている。この合戦は、江州殿の重臣進藤山城守(賢盛)の居城木浜城をめぐる攻防戦と考えられる。この木浜合戦(『信長公記』では野洲川合戦)で、織田・江州連合軍が六角承禎軍を破った。『言継卿記』と近江修理大夫宛織田信長書状写の内容が一致する。ただし『言継卿記』『信長公記』に承禎父子捕縛の記事はない。『言継卿記』五月二十一日条で和平交渉を捕縛と誤り伝えていたが、今回も近江修理大夫と承禎・義治父子が接触したというものかもしれない。
 さらに信長は追而書(追伸)で、「今十八日、浅井郡へ着陣せしめ候、貴国も早々彼の表に在陣尤もに候」と述べ、近江修理大夫に浅井郡への着陣を促している。
 そして同月二十八日に姉川の合戦があった。織田方の文書を読む限りでは、姉川の合戦は織田・連合軍の大勝であった。しかし、朝倉・浅井連合軍の反撃はすぐに始まっている。織田方の資料は、割り引いて読んだ方がいいだろう。
 九月二十日には朝倉・近江高島衆・一揆衆が、織田方の属城近江宇佐山城を攻めて、織田信治・森可成らを討死させた。さらに二十一日には先鋒が逢坂山を越えて山科に進駐した。ここに、織田信長が反信長勢に包囲されて窮地に立たされた志賀の陣が始まった。
 『言継卿記』はつねに信長方の勝利と記し続けており、信長方の情報に基づいていることは明白だ。それでも『言継卿記』の記事は、六角承禎の軍事力の大きさを記している。それに対して『信長公記』は、元亀元年十月二十日条に「江南表の儀、佐々木左京大夫承禎父子、甲賀口三雲居城菩提寺城と云ふ城まで罷出でられ候へども、人数これなく候て、手合せの躰ならず候」とあるように、敵人六角承禎を過小に述べている。これでは『信長公記』をもとに歴史像を構築していては、偏った歴史像になる。姉川の合戦も、織田側が宣伝したほど重要な戦いではなかったか、あるいは織田側の資料に書かれたような織田方の大勝ではなかったと考えられる。実際に、こののち元亀年間に朝倉義景は竹生島に二度参詣し、太刀を奉納している。浅井氏が依然として北近江で勢力を維持していたことが分かる。『信長公記』から脱した歴史観が求められよう。
 六角氏の軍事力がけっして弱小ではなかったことは、『言継卿記』同年十一月二十一日条で「江州六角と織田弾正忠和睦云々、今日三雲・三上両人、起請請取りに志賀へ越す云々」とあるように、信長と六角氏の和睦が重大関心事になっていたことでも分かる。
 そして一カ月後の同年十二月十五日には、織田信長と朝倉義景の和睦も成立した。その同日付けで発給された山岡対馬守宛織田信長朱印状写(44)では、「国主還附候とも、右の領知に於ては別条あるべからず候」と述べられている。信長が山岡対馬守に新規に給付した領地について、国主が旧領主に還付したとしても、領知高については本知・新知分ともに保証するというものである。この文言を見る限り、国主江州殿はいずれかの時点で反信長方に転じていたことになる。近江修理大夫が承禎・義治父子を捕縛したと伝えられたときだろう。
 もちろん、この国主を承禎と見る考えもあろう。しかし、こののち承禎が国主として行動した形跡はない。むしろ江州殿に連なる人物が国主として行動している。翌二年(一五七一)九月信長によって焼打ちされた比叡山を、翌々三年(一五七二)佐々木氏郷(義郷)が自領蒲生郡に再興している。このことから江州殿が国主であり、しかも信長から自立した存在であったことが確認できる。

【注】
(42)『大日本古文書』益田家文書二九九号。
(43)肥前島原松平忠和蔵本『士林證文』三巻(東京大学史料編纂所謄写本)所収。奥野高広『増訂織田信長文書の研究』上巻、二三八号。
(44)奥野高広『増訂織田信長文書の研究』上巻、二六六号。

比叡山再興と佐々木氏郷

 元亀二年(一五七一)信長によって焼き打ちされた比叡山延暦寺を、佐々木氏郷(義郷)が元亀三年(一五七二)蒲生郡中荘山に再興したという伝承がある(45)。氏郷が七百石を寄進したことで、近江蒲生郡中荘山を新比叡山として延暦寺が再建された。坊舎は七十二坊を数えたという。この七百石はその土地の収穫高ではなく、年貢高である。現在の長命寺の建物はそのときの坊舎のひとつと伝えられている。氏郷が延暦寺を蒲生郡に再建していることは、彼が信長から自立した勢力であったことを示している。
 この江州殿による延暦寺再建によって、信長がまだ近江国の中心部である蒲生郡を支配できず、江州殿が独自の行動をとっていたことが分かる。しかも元亀三年(一五七二)江州殿は本願寺と結んで、反信長的態度を明らかにしている。同年のものと考えられる九月十日付の十ケ寺惣衆中宛下間正秀書状によれば、御屋形様は一向一揆を観音寺城(御城)に入城させていた(46)。また同年に六角義治も近江愛智郡鯰江城に入っており、江州殿が蒲生郡だけではなく広く近江中郡(東近江地域)に勢力を有していたことが確認できる。
 武田信玄が足利義昭の側近上野秀政(中務大輔)に宛てた書状案(47)で、信長を倒して比叡山を再興する決意を述べた。この信玄書状案が甲賀武士山中氏に伝わるのは、氏郷による比叡山再興運動に連動していたからだろう。
 この交渉と関係があると考えられる(年未詳)九月七日付興聖寺宛氏郷書状(48)が、内閣文庫所蔵『朽木家古文書』に収められている。

  就今度山之儀被仰結間、乍指出地走仕候處ニ相調、一段面目之
  至候、此度之儀者、当院与我等御同縁ニ付如此候間、更以後之
  山之引懸ニ不可成之候、為其一筆令啓候、恐々謹言、
     九月七日  氏郷(花押)
    興聖寺
      参侍者御中

 氏郷は同書状で、鎌倉期の近江守護佐々木信綱(四郎・近江守)によって創建された興聖寺に対して、我らと同縁と述べていることから、彼が佐々木信綱の直系であったことが確認できる。また同書状によって彼が比叡山と和を結んだことも分かる。
 この氏郷は、同じく『朽木家古文書』に所収されている中氏郷書状案(49)で自ら「中左氏郷」と署名し、蓮乗坊快秀書状案(50)では「中左兵衛佐殿」と呼ばれている。
 兵衛佐は殿上人の官途であり、源頼朝も帯びていた。さらに室町期では鎌倉公方足利氏や管領斯波氏の世襲官途であり、武家での格式はたいへん高かった。そのような左兵衛佐という官職を帯びる氏郷は、当然大名の格式をもつ人物である。しかも六角氏には「中」と名乗った者がいた。
 『お湯殿の上の日記』天文六年(一五三七)十二月二十一日条に「かめこまん、中御たるしん上申」とあり、六角亀寿とともに中が音物を進上している。中氏郷が、亀寿義秀の連枝であったことが確認できる。
 氏郷は「御屋形様」「殿様」ではなく「中左兵衛佐殿」と称されていることから、有力連枝・後見人という立場と考えられる。義秀が没した後の江州家の家督を預かっていた人物であろう。まもなく江州殿の家督(大本所)が登場する。

【注】
(45)『全国寺院名鑑』近畿編(一九六九年)、および村山修一『比叡山史』(東京美術、一九九四年)。
(46)滋賀県誓願寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『東浅井郡志』四巻、誓願寺文書七号。井上鋭夫『一向一揆の研究』(吉川弘文館、一九六八年)五六八-九頁。
(47)正月日付上野中務大輔宛武田信玄書状案。神宮文庫所蔵『山中文書』二九五号。
(48)『朽木家古文書』二三三号。
(49)『朽木家古文書』六二八号。
(50)『朽木家古文書』六二九号。

六角義堯と佐々木左馬頭

 元亀三年(一五七二)九月御屋形様が一向一揆を観音寺城に入城させた。この御屋形様は六角義堯と考えられる。義堯は、山中文書所収の(年未詳)十月二日付六角承禎書状(51)に登場する。
 夜前に義堯の許を訪れた者があり、そのことについて義堯が夜中に池田氏を使者として承禎・義治父子に相談したという。その相談内容は書中に書けないとするものの、1.三河方面のこと、2.三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、3.出座のことなどが記されている。このうち三河方面のことは、同書状の日付け十月二日に注目すれば、元亀三年(一五七二)十月三日に出陣した甲斐武田信玄の上洛軍のことを指していよう。そうであるならば、たしかに書中には書けない極秘事項である。しかも義堯は決断に迫られていた。出座は、義堯自身の挙兵と考えられる。
 義堯の意思を承禎・義治父子に伝えた使者は、『信長公記』で織田方として記されている池田景雄(孫二郎)である。彼は六角氏式目の連署人であり、六角氏重臣のひとりであった。信長入洛後は、信長方として行動していた。その景雄が義堯の使者を勤めている。信長方として行動していた江州衆は、義堯の旗下にあったことが確認できる。
 また承禎・義治父子が、義堯から相談を受ける立場にあったことが分かる。実は承禎は、天正年間に足利義昭と行動をともにしていた義堯のことを「大本所」と呼んでいる(52)。義堯は承禎から見て大本家に当たる人物であった。このように元亀三年(一五七二)から、大本所義堯の動きが見られるようになる。
 翌四年(一五七三)二月明智光秀の与力山本・渡辺・磯谷らが、光秀から離反した(『兼見卿記』元亀四年二月十七日条)。将軍足利義昭は、二条城の堀普請を始めた(『兼見卿記』元亀四年二月十七日条)。さらに、仁木義政・上野陸奥守(信秀)・荒川掃部助・山岡光浄院(暹慶)・杉原淡路守が、甲賀衆・伊賀衆らとともに近江石山城や堅田城に籠城して挙兵した(53)。
 三月足利義昭と織田信長の間について雑説があり、信長から義昭に和談を申し入れたが、義昭は信長と絶交した(『兼見卿記』)。朝倉義景は、三月十八日付けで近江武士多胡宗右衛門尉に宛てて書状を送り、(六角)佐々木左馬に合力することを約束している(54)。義景は仁木義政を佐々木左馬と呼んでいる。やはり仁木義政は、佐々木義昌(河端義昌)と同一人物である。
 四月四日信長が二条城の義昭を囲むと、五日正親町天皇が信長に勅使を遣わし、義昭との和約を勧めた。そして信長は庶兄織田信広(三郎五郎)を二条城に遣わして、和平の礼を述べた(『兼見卿記』)。
 しかし七月義昭は二条城を側近三淵藤英に守らせ、自らは真木島城に立て籠って再び挙兵した。真木島への移座は、信長と徹底抗戦するための積極的な行動と考えられる。しかし七月十二日二条城は開城、十八日には義昭が子息(のち大乗院門跡義尋)を人質に出して退城した(『兼見卿記』)。二十八日には兵革を理由に、朝廷が天正と改元した。実は、朝廷は前年三月から改元を希望しており、信長は承諾したものの、義昭は承服しなかった(『お湯殿の上の日記』元亀三年三月二十九日条)。そして義昭が失脚したことで、改元反対者がいなくなった。天正改元は信長が積極的に進めたものではなく、むしろ朝廷が山門滅亡など戦乱を憂い静謐安穏を願って進めていた改元作業を、信長が認めたものである(55)。
 義昭挙兵のとき、朝倉・浅井軍がどのような行動を取ったのかは判然とはしない。『江源武鑑』は、義昭追放では六角・朝倉・浅井陣営と織田陣営が共同歩調をとったと伝えている。そして追放後に雌雄を決するために対立したという。仮説のひとつとして取り上げることはできる。
 八月二十日に朝倉義景が滅亡、同月二十七日には浅井久政・長政父子が滅亡した。そして九月四日信長は六角氏と和睦した。

【注】
(51)神宮文庫所蔵『山中文書』三七四号。
(52)(天正四年)十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状(坂内文書)。兵庫県坂内文書(東京大学史料編纂所影写本)。『三重県史』資料編近世1、一章-二三号。
(53)『明智軍記』五巻の「将軍被擬誅信長事、付堅田城攻落事」。
(54)(元亀四年)三月十八日付多胡宗右衛門尉宛朝倉義景書状(尊経閣文庫所蔵文書)。『福井県史』資料編2中世、東京都尊経閣文庫八六号。
(55)神田裕理『織豊期における改元--「朝廷政治」と公家の役割』戦国史研究会、月例会発表、二〇〇二年八月一〇日。

足利義昭政権と元亀争乱

 実は元亀争乱は、朝倉義景が足利義昭の上洛命令を拒否したことで始まっている。足利義昭は単なる傀儡ではなく、畿内政権の実質的主体として将軍権力の再生を目指し、『多聞院日記』永禄十一年(一五六八)十月六日条でも「山城・摂津・河内・丹波・江州悉落居、昔モ此ノ如ク一時ニ将軍御存分ハコレ無キ事」といわれている。義昭は畿内を幕府系の諸将に配分することで彼らへの軍事動員権を確保し、奉公衆など直属軍を編成している。実際にこの直属軍によって、本圀寺を宿所としていた義昭を襲撃した三好三人衆勢を撃退した。義昭の軍事力は、畿内での通常戦闘では十分だった(56)。さらに強大な軍事力を有していた織田信長を取り込んだ。義昭は、将軍固有の権限にもとづいて、戦国大名に対する和平工作を直ちに開始しているが、将軍が畿内政権の実権を握り、強制力を備えれば、全国政権再建のための惣無事の論理に発展しうる(57)。義昭は早速、近国に対する統制強化を図り、近国の地域権力に対して入洛をもとめた。しかし朝倉義景は拒否した。これが元亀争乱の始まりである。
 義昭は朝廷に対しても強硬であった。前述のように、元亀三年朝廷が山門滅亡など戦乱を憂い静謐安穏を願って改元を希望し、信長は承服したが、義昭は承服しなかったということがあった。朝廷が進めていた改元作業を、義昭は拒否したのである。さらに義昭は、それまで天皇が任命して将軍が承認する形式だった武家伝奏を、武家政権が任命して天皇が承認する形式に変更し、将軍家に奉仕していた公卿飛鳥井雅教を武家伝奏に任命した(58)。それに対して信長は、天皇により近い人物を、武家伝奏にした。このように義昭政権は短期間に終わったものの、将軍権力の再生を目指したと評価できる。
 このように将軍権力の絶対化を目指した義昭は、自らの権限として畿内近国の諸大名に上洛命令を発し、それを拒否する者に実力で制裁を加えようとした。それに対抗した六角・朝倉・浅井陣営は、義昭の和平工作を拒絶し続けた。本願寺も義昭の動きに対して、元亀元年(一五七〇)九月門徒に蜂起命令を出した。その停止のための勅書には、本願寺は将軍・信長に敵対しているとされているが、それは決して形式的な文言ではない。顕如は、義昭が信長と一味になって本願寺と義絶したとして、加賀四郡中の将軍御料所の公用分を留め置くよう命じている(59)。このように畿内近国の諸勢力は地方分権の維持を目指し、それを否定する義昭に対抗した。同年十二月の和平は、信長が天皇を持ち出すことによってようやくと成立している。
 このような仮説にもとづいて、もう一度資料を読み直す必要がある。実証歴史学といっても、純粋に資料に書かれていることだけをもとに歴史を再構築しているわけではない。無意識のうちに自分が有している歴史像を当てはめながら資料を読んでいる。そのため客観的に資料を読んでいると思い込んでいるとき、もっとも無反省に、自分が無意識のうちに有している歴史像を当てはめて資料を読んでいる。物語論が歴史像の相対性を主張しているのは、そのことに注意を呼びかけるためだと考えれば、むしろ実証歴史学に役立つものである。従来の歴史像はややもすれば、『信長公記』『太閤記』の視点から歴史像を再構築してきた。しかし異なる視点からでなければ読めない内容が、必ず資料には含まれている。実証歴史学では必ず対立仮説が必要である。
 朝倉義景・浅井長政が義昭に対抗するために、足利将軍の猶子六角氏を奉じたことは十分に考えられる。当初信長と行動をともにしていた近江修理大夫/御屋形様が、途中で朝倉・浅井方に転じた理由はここにあろう。元亀三年(一五七二)六角氏郷(義郷)は、その前年信長によって焼き打ちされた比叡山を再興した。また朝倉義景は、近江武士多胡宗右衛門尉に対して、六角佐々木左馬頭の要害に援軍を送ることを約束をしている。今後、義昭・信長に対抗する六角・朝倉・浅井連合軍という作業仮説を立て、当時の資料を読んでいくことが求められる。
 しかし元亀三年(一五七二)に義昭と信長が対立した。このとき江州殿の後継者である六角義堯は動揺し、承禎・義治父子に相談を持ちかけた。義景が信長と対抗しつつも軍事行動が消極的だったのも、彼らがもとともと反義昭を旗印にして挙兵したからだとも考えられる。中央集権志向である義昭と信長のどちらにも味方することができなかった。そして、その揺らぎの中で、朝倉氏と浅井氏は相次いで滅亡していく。そのあいだの動向はもう一度、資料を読み直しながら再構築していく必要がある。

【注】
(56)脇田修『近世封建制成立史論』織豊政権の分析Ⅱ、東京大学出版会、一九七七年。
(57)池享「大名領国制の展開と将軍・天皇」講座日本歴史4(中世2)、東京大学出版会、一九八五年。
(58)伊藤真昭「織豊期伝奏に関する一考察」史学雑誌一〇七編二号、一九九八年。
(59)『勧修寺文書』證念書状(東京大学史料編纂所影写本『勧修寺文書』七)。『大日本史料』第十編之四、元亀元年九月十二日条(八六三-四頁)。

六角義堯の研究・序

 義堯は発給文書が多く残っていることから、その事跡はかなり明らかである。元亀元年(一五七〇)六角氏は越前朝倉義景や北近江浅井長政・比叡山延暦寺・本願寺と連携を取っていたが、義堯は元亀三年(一五七二)に秘密裡に将軍足利義昭や甲斐武田信玄・阿波三好甚五郎らと連絡を取って(山中文書)、信長包囲網を強固にした。この信長包囲網は翌元亀四年/天正元年(一五七三)四月に信玄が急死したことで崩壊し、同年七月信長によって足利義昭は京都を追放され、さらに八月には朝倉義景や浅井久政・長政父子が相次いで滅亡した。
 しかし天正二年(一五七四)頃には、甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟をつくり上げることに成功した(上杉文書・黒川文書)。天正三年(一五七五)織田信長の石山本願寺攻撃が始まると、本願寺顕如の外戚であった義堯は旗色を鮮明にして(本善寺文書)、それまでに築いていた六角・武田・上杉同盟をもとに信長包囲網を築いた。
 さらに天正四年(一五七六)足利義昭の備後下向では、義堯は吉川元春を介して安芸毛利輝元を味方につけることに成功した(吉川文書)。
 義堯は近江甲賀郡および伊賀・伊勢で反信長戦線を築いていた六角承禎(義賢)からは「大本所」と呼ばれており(坂内文書)、彼が六角氏当主であったことが分かる。直属軍を率いていた義堯は、天正六年(一五七八)正月には自ら足利義昭の先鋒として阿波・淡路の兵を率いて堺に着岸し、多武峰衆徒にも挙兵を催促している(談山神社文書)。義堯は以前から阿波三好氏とも綿密に連絡を取りあっており(山中文書)、阿波・淡路の兵は三好軍を中心としたものと考えられる。これらの義堯の軍事行動は、すべて石山本願寺と連携したものであった。
 六角義堯書状は、滋賀県内の木村文書(個人蔵)や黒川文書(東大史料編纂所影写本)に伝えられ、さらに滋賀県外でも上杉文書(山形)・河田文書(福島)・本善寺文書(奈良)・談山神社文書(奈良)・吉川文書(山口)・小早川文書(山口)など全国各地に伝わっている。しかし、佐々木氏/六角氏研究の古典的教科書である『近江蒲生郡志』では取り上げられていない。同書は六角氏の偽系図問題で義実・義秀・義郷らの実在を否定しているが、否定するのであれば、彼らの実名が系図上のものと異なる可能性も考慮して議論すべきだろう。そのためにも六角一族であることが明らかな人物ならば、系図上の位置が分からないまでも記憶にとどめる必要がある。
 しかし、これまでも義堯書状がまったく取り上げられてこなかったわけではない。たとえば奥野高廣氏は、その著作『織田信長文書の研究』『足利義昭』で、本善寺文書・談山神社文書・上杉文書に収められている義堯書状を紹介している(1)。奥野氏は義堯を六角承禎(義賢)の一族と推定されている。
 また『新潟県史 資料編』でも、上杉文書所収の義堯書状が「六角義堯書状」として紹介されている。同じ『新潟県史 資料編』で、河田文書所収の義堯書状を「里見義堯書状」としているのは、翻刻の担当者が異なったために生じた粗齬であろう。河田文書のものは、花押から六角義堯のものであることは確実である。また『歴代古案』の三宝院義堯書状は正文が伝えられていないため花押を確認できないが、内容から六角義堯の書状であることが明らかである。
 さらに滋賀県で中世城郭調査が進められた過程で、木村文書『六角氏書状巻物』所収の義堯書状が注目された。
 これまで義堯花押と義治(義弼)花押が近似することから、義堯と義治を同一人物と考える意見があった(2)。たしかに木村文書所収の義堯書状には、義堯と義治が別人であることを積極的に示す内容がない。花押が近似していれば同一人物と見なすのは当然である。しかも、これまで六角氏の一族は承禎(義賢)とその長男義治・次男高盛(高定)しか知られていなかったのだから、義堯と義治を同一人物と見なさざるを得ない。
 しかし兵庫県坂内文書所収の十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎(義賢)書状で、承禎は義堯を「大本所」と呼んでおり、義堯が承禎の上位者であったことは確実である。また山中文書所収の十月二日付山中大和守宛六角承禎書状では、承禎・義治父子が義堯から相談を持ちかけられた事実が述べられている。これでは、義堯と義治が同一人物であるとはいえない。しかも河田文書や吉川文書には、これまで知られていたものとは別様の義堯花押があった。やはり義堯と義治は別人である。

【注】
(1)奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)二二頁。同著『足利義昭』(人物叢書、吉川弘文館、一九六〇年)二四七頁、および二五七頁。
(2)小島道裕「六角義堯について」近江の城三七号、一九九一年二月。

甲賀武士と六角義堯

 甲賀武士というとすぐに甲賀忍者を想像してしまうが、実は自立した中小領主による一揆(地域連合)であり、中には朝廷・公家や幕府に直仕する者もいた。この甲賀武士と六角氏の関係は深く、山中文書や黒川文書には義堯に関する文書が伝わる。その甲賀郡中惣が全国的に注目されたのは、応仁・文明の乱後に起こされた六角氏征伐のときである。
 近江守護六角高頼(行高)は応仁・文明の乱で西軍にあって反幕府的行動をとり、乱後も混乱に乗じて寺社本所領を押領し続けた。そのため九代将軍足利義尚は、高頼を討つため長享元年(一四八七)近江に出陣した。このとき高頼は美濃土岐氏や越前朝倉氏と大名一揆を結ぶとともに、幕府軍との正規軍での正面衝突を避けて、自らは近江国甲賀郡に隠れて甲賀武士団によるゲリラ戦で応戦した。
 近江甲賀郡・伊賀・伊勢・大和は比較的中小領主が自立していた地域であり、最後まで南朝勢力が抵抗活動し続けた地域でもある。応仁・文明の乱のとき、高頼は近江守護職を剥奪されて敗走したことがあったが、そのときこれらの地域を逃走している。そして将軍親征では、高頼は積極的に近江甲賀郡に逃走して一揆勢力を糾合し、ゲリラ戦で幕府正規軍に応戦した。
 このように高頼は地域一揆と結んで幕府軍と対抗したため、義尚は戦果を挙げられないまま、長享三年(一四八九)に近江鈎の陣で病没した。長享の乱である。また十代将軍足利義材(義稙)も延徳三年(一四九一)に六角氏討伐軍を起こしたが、やはり甲賀武士団によるゲリラ戦に苦戦して、誘降に応じた近江守護代山内政綱(六角政綱)をだまし討ちするにとどまった。延徳の乱である。その直後、義材は明応二年(一四九三)に細川晴元のクーデター(明応の政変)によって将軍職を剥奪され、流れ公方となった。
 この後も六角氏と甲賀武士団の結び付きは強く、承禎・義治父子も永禄十一年(一五六八)織田信長の近江侵攻で甲賀郡に逃走して、甲賀武士団(甲賀郡中惣)や伊賀武士団(伊賀惣国一揆衆)の支持を受けながら信長に激しく抵抗した。そして六角氏は甲賀郡から、甲斐武田勝頼・越後上杉謙信・伊勢北畠朝親(具親)らと連絡を取り合って、信長包囲網を築き上げた。そのため承禎・義治父子の甲賀敗走は、高頼と同様積極的な逃走と考えられる。『言継卿記』元亀元年五月二十二日条によれば、甲賀郡石部城に居た承禎・義治父子の軍事力は二万の大軍であった。信長軍と互角である。実際に信長は甲賀・伊賀鎮圧に苦労し、武田信玄と上杉謙信のどちらかの急死が無ければ信長包囲網は成功していた。

山中文書と六角義堯

 元亀・天正年間に六角承禎・義治父子とは別に六角氏当主がいたことを示す六角承禎書状が、滋賀県山中文書(3)に収められている。それは、義堯書状の内容を山中大和守(俊好)に知らせた(年未詳)十月二日付六角承禎書状である(4)。

  先度被申候、池田使昨夕来候、上文候所も無之候、申談之候間、
  然處義堯之文申旨候者、夜前申来候者事、申□□能□候、何共
  難計躰之条、昨夕父子迄相談候、夜中ニ人被越候、子細事、
  一途於覚之可申候、書中ニハ難申置候、□□具不申、相申次第、
  是有間敷候、乍□其□候、申子細共候、□□□□三州表之儀
  候、可寄候、又四国衆等え者、渡海之事申遣候、三好甚五郎
  罷上など申候、二□□□□、以上申来候、猶京都相聞候、出座
  之儀者、態可申候、此砌弥郡中之儀、才覚可為肝要候得、
  猶青可申候、恐々謹言、
     十月二日   承禎(花押)
    (切封)
     山中大和守殿 承禎

 義堯は六角氏重臣池田景雄(次郎左衛門尉)を使者とし、承禎・義治父子に相談を持ちかけていた。承禎父子以外にも六角氏がいたことが確認できる。
 まず義堯の使者となった池田景雄は、京極流佐々木道誉(高氏)の庶兄定信が養子に入ったことで京極佐々木流となった甲賀武士で、戦国期にはその分流が蒲生郡浅小井城主となり、六角氏重臣のひとりとなった。六角氏式目連署人では周隣軒と池田景雄の二人が池田氏であり、永禄十一年(一五六八)九月信長の近江侵攻で承禎・義治父子が没落してからは、景雄が信長に仕えていた。景雄はのちに秀雄(伊予守)と改名し、豊臣秀吉政権下で伊予大洲城主となっている。しかしこの文書から、景雄が義堯に従っていたことが分かる。織田信長に仕えていた「江州衆」は、実は信長に直仕していたのではなく、義堯に従っていたと考えられる。義堯は当初織田陣営にいたのである。
 内容は、①夜前に義堯所を訪れた者があり、そのことについて夜中に義堯が池田氏を使者として承禎・義治父子に相談してきたというものである。次に②三河方面のこと、③三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じたこと、④出座のことなどが記されている。
 まず①で義堯が承禎・義治父子に相談している事実から、義堯と義治が別人であることが分かる。ただし相談内容については、書中に書けないとある。②三河方面のことは、甲斐武田氏の三河への軍事行動を指していると考えられる。承禎書状の日付である十月二日に注目すれば、元亀三年(一五七二)十月三日に武田信玄が上洛軍を起こして甲斐を出発したことと関係があろう。六角氏が甲斐武田氏の動きを事前に知っていたということである。こののち武田信玄軍の本隊は遠江に進入し、また秋山信友(伯耆守)を大将とする別動隊は東美濃に進入して岩村城を攻めた。遠江に進入した武田本隊は、十月下旬から徳川方の遠江二俣城を攻めて十二月十九日に落とし、十二月二十二日には三方ケ原の戦いで徳川家康軍本隊を撃破、翌四年(一五七三)正月十一日から三河野田城を攻めて二月十日には落とした。ところが信玄は同年四月十二日に病没してしまった。これで元亀信長包囲網には大きな穴が開いてしまった。しかし六角氏は、その後も信玄の子息勝頼(四郎)と綿密に連絡を取り合いながら、六角-武田連合を軸に反信長連合を形成していく。
 さらに③義堯が三好甚五郎ら四国衆に渡海を命じていることから、義堯が三好氏と綿密に連絡を取り合っていたことも分かる。後述するが天正六年(一五七八)正月に義堯は阿波・淡路の兵を従えて堺に上陸している(談山神社文書)。阿波・淡路の兵は三好軍であろう。義堯と三好氏の関係は深い。
 もうひとつ注目できるのは、承禎が付け加えて述べている「出座の儀」は、義堯自身の挙兵だろうか。そして将軍義昭も挙兵へと動く。六角氏は義昭と手を組んだのである。
 また義堯の活動時期を考えると、『お湯殿の上の日記』天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条に髪置の記事がある亀千代と同一人物と考えられる。髪置は二歳で行うため、亀千代の生年は天文二〇年(一五五一)である。そうであれば義堯は、元亀三年(一五七二)には二十二歳である。
 この山中文書所収の承禎書状で、承禎が六角義堯と甲賀武士との連絡役を勤めていたことが分かる。実際に承禎(義賢入道)が義堯の使者を勤めていたことが、後述する黒川文書所収の義堯書状で確認できる。当時承禎は甲賀郡石部城に籠城しており(『信長公記』)、義堯はその承禎を通して甲賀武士と連絡をとっていた。
 さらに坂内文書で、承禎は義堯のことを「大本所」と呼んでいる(5)。義堯は、承禎にとっては大本所(大本家)に当たる人物であった。それに対して義治は、父承禎を「御屋形」(6)「大御屋形」(7)と呼んでいる。承禎は義治にとって大御屋形であった。つまり義堯-承禎-義治という格づけができる。義堯は、承禎・義治にとって大本所であり、また織田方の池田景雄を使者としていた。義堯は、永禄十一年(一五六八)九月に信長とともに上洛した江州殿の後継者と考えられる。

【注】
(3)神宮文庫所蔵山中文書、および東京大学史料編纂所影写本滋賀県山中文書。
(4)『山中文書』三七四号。
(5)天正四年十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状(坂内文書)。兵庫県坂内文書(東京大学史料編纂所影写本)。『三重県』資料編近世1、一章-二三号。
(6)(永禄九年)三月二十八日付進藤山城守宛六角義治書状(蘆浦観音寺文書)。『近江蒲生郡志』六七五号(二巻、七一三-四頁)。
(7)(元亀元年)十月二十四日付長束東仏坊宛六角義治書状。『大日本史料』十編之四、元亀元年六月四日条。

武田勝頼と六角義堯

 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義景と北近江浅井久政・長政父子は相次いで滅亡した。そして元号も元亀から天正に改元された。
 しかし義堯は、信玄の後継者四郎勝頼と連絡を取り合った。この交渉では承禎自らが、義堯の使者として活動している(黒川文書)。承禎は、天正二年(一五七四)武田勝頼に使者辻和泉守を派遣して交渉を進めた(黒川文書)。さらに義堯は越後上杉謙信に使者大館藤安(兵部少輔)を送り、武田勝頼と上杉謙信の同盟を作り上げた(河田文書・上杉文書)。これで武田勝頼は背後を気にすることなく、上洛軍を起こすことができるようになった。そして翌三年(一五七五)武田勝頼が長篠の戦いに至る軍事行動を起こすと、承禎は次男高盛(中務大輔)を派遣している(東京都本堂平四郎氏所蔵文書)。この武田軍の正確な情報は、義堯によって一向一揆にも知らされた。このようにして六角-武田連合を軸に天正の信長包囲網が結成されていった。

武田勝頼との同盟

 甲賀武士の子孫に伝えられた滋賀県黒川文書(11)に、義堯書状が収められている。それは、天正二年(一五七四)頃に義堯が甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を画策していたことを示す、六角義堯書状である。

  狛修迄之内、存聞届候、尤神妙候、東北此通候間、馳走肝要候、
  猶賢可申候、謹言、
     二月廿日   義堯(花押)
       黒川修理進殿

 義堯が黒川修理進に宛てた内容は、次のようなものである。狛修理亮まで報告した旨は確かに聞き届けた。神妙である。東北のことはこの通りであるから、忠義に励むことが肝要である。なお義賢入道(承禎)が詳しく述べるであろう。
 この書状から、①六角氏の重臣狛修理亮が義堯と甲賀武士の連絡役をしていたこと、②義堯が東国や北国と連絡を取っていたこと、さらに3.義堯が承禎(義賢)を使者としていたことが分かる。
 文中に見える狛修理亮は六角氏重臣であり、布施淡路守(公雄)とともに六角氏式目の宛所となった狛丹後守の弟である。狛修理亮は義治書状でも使者として見え、承禎・義治父子の使者であった。このときも狛修理亮が承禎の使者となって黒川氏を訪問し、そこでの黒川氏の言葉を、義堯の許に行って口上した。それに答えて義堯は書状を簡潔に書き、承禎(義賢)が詳しい内容を書いた副状を添えて、狛修理亮が黒川修理進へ持参した。狛修理亮は六角氏重臣であり、六角氏の言葉を正確に伝えるだけではなく、交渉もしたと考えられる。
 ここで義堯は、承禎の行動に敬語を使わずに「なお賢申すべく候」と述べている。もし義堯が承禎の子息であれば、敬語表現で「なお賢申されべく候」と述べるだろう。このことでも義堯が承禎の上位者であることが確認できる。
 ところで黒川文書には、承禎(義賢)が使者辻和泉守を甲斐武田勝頼へ派遣したことを伝える七月十五日付承禎書状がある(12)。その承禎書状では、伊勢長島の一向一揆に対する信長進発の情報を立ち聞きするよう、黒川修理進に命令しているため、天正二年(一五七四)のものと特定できる。このことから義堯書状の文中にある「東北」のうち、東国が甲斐武田勝頼であることは確実である。甲斐武田氏との交渉が調ったことを黒川修理進に伝えた義堯書状は、天正二年(一五七四)以降のものである。では北国は誰を指しているのだろうか。
 実は、天正元年(一五七三)に京都を追われた足利義昭は上杉謙信に援助を求めており、吉川元春に宛てた(天正元年)十月十日付足利義昭御内書(13)、(天正四年)十一月十五日付真木島昭光書状(14)、(天正四年)十一月二十八日付真木島昭光書状(15)に「東北国」という文言がある。義堯が武田勝頼と上杉謙信の和約に係っていたことは、後述する上杉文書・河田文書所収の義堯書状で確認できる。黒川文書所収の義堯書状にある「東北この通り」というのは、武田氏と上杉氏の同盟が成立したことを述べていよう。

【注】
(11)滋賀県黒川文書(東京大学史料編纂所影写本)。
(12)東大史料編纂所影写本滋賀県黒川文書。『甲賀郡志』下巻、一二五〇頁。
(13)『大日本古文書』吉川家文書四八七号・足利義昭御内書。
(14)同四九四号・真木島昭光奉書。
(15)同四九六号・真木島昭光奉書。

一向一揆との連携

 天正三年(一五七五)四月織田軍が大坂本願寺に向かったことを聞いた六角義堯は、大和国吉野郡飯貝に所在する浄土真宗寺院本善寺に宛て書状を発給し、何か承ることがないか尋ねるとともに、上洛のため軍事行動を起こした武田勝頼軍の動きを今後報告することを約束している(本善寺文書)。

  大坂表江織田及行之由、其聞候、御手前彼此為可承、差越本次
  候、様躰具示給候者本望候、仍東国之人数至三州相働旨、追々
  注進候、自此方使僧差下候条、慥之儀候者可申候、委曲口上仁
  申含間、不能詳候、恐々謹言、
     卯月廿一日   義堯(花押)
      本善寺
         進覧之候

 この義堯書状にも書いてあるように、天正三年(一五七五)四月に織田軍は一向一揆の本拠である石山本願寺に対する攻撃を開始している(『信長公記』)。また「東国之人数」の三河への発向は、同年五月二十一日の長篠の合戦に至る武田勝頼軍の一連の行動を指していよう(16)。甲斐武田氏の情報は逐次義堯の許にもたらされていた。足利義昭京都追放後の天正年間に結成される反信長陣営は、六角-甲斐武田連合を軸にしている。
 そして今、義堯は一向一揆勢力と連絡を取っている。使者として派遣された「本次」は六角氏被官だろうが、いまのところ誰なのか人物を特定できない。
 内容は、つぎのようなものである。織田軍が石山本願寺に対して軍事行動を起こしたことを聞いた。何か承ることがあれば、使者を差し下すので使者に具体的に指示してもらえれば本望である。東国の武田軍が三河に発向したので、その動向は逐次報告する。こちらより派遣する使僧が報告するので確かである。詳しことは使者本次が口上で伝える。
 黒川文書でみたように、義堯は六角承禎を介して武田勝頼と連絡を取り合っている。義堯は本願寺側に対して、何か自分にできることがないか尋ねるとともに、甲斐武田氏の情報を知らせることを約束している。しかも六角氏側の使僧が報告すると述べており、情報の精確さを保証している。
 実際に六角承禎は、武田勝頼の出馬に当たって次男高盛(中務大輔)を派遣している(17)。六角氏の一族が武田軍に同行しており、義堯の許にもたらされた武田軍の情報はたしかに正確である。情報伝達で苦労の多かった当時、確かな情報は何よりも欲しいものであった。
 本願寺顕如の正妻は六角氏猶子であり、六角氏は本願寺の外戚である。信長が石山本願寺に対して軍事行動を起こしたことで、義堯も旗色を鮮明にして本願寺側に協力することを伝えた。
 さらに後述の上杉文書によって知られるように、義堯は武田勝頼と上杉謙信の和約も企図していた。義堯は着々と信長包囲網を形成していた。

【注】
(16)奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)二三頁。
(17)(天正三年)五月四日付武田玄蕃頭宛六角承禎書状(本堂平四郎氏所蔵文書)。東京都本堂平四郎氏所蔵文書(東京大学史料編纂所影写本)。『増訂織田信長文書の研究』下巻、二八-九頁。

上杉謙信と六角義堯

 上杉謙信は六角義堯の要請を受けて織田信長包囲網に加わった。それまでの謙信は、武田信玄との対抗上、信長と友好な関係を保っていた。足利義昭と信長が対立しても、謙信は信長と結び信玄の背後を脅かした。謙信は十三代将軍義輝には心服していたが、その実弟義昭に対しては異なっていたようだ。しかし義堯が協力を要請したことで、それまでの態度を一転させて反信長陣営に加わった。謙信が義堯に全幅の信頼を寄せていたことが分かる。続群書類従本伊勢系図別本(巻百四十一)の伊勢貞孝の項にあるように、足利義輝の男子が六角氏の養子になっていた可能性も否定できない。
 まず最初に、謙信の奉行人河田長親の子孫河田文子氏(福島県福島市)に伝えられた義堯書状(18)を見てみよう。この義堯書状は、義堯と上杉氏の初期の交渉を伺わせる。

  其以後不得便風候間、無音非本意候、其地雖為変化、誠ニ堅固
  之由、無比類儀、於義堯大慶候、連々如申、向後弥御入魂頼入
  候、内意之趣、大兵少道院江申越候、当表様体、松田左兵衛尉
  為上使被相越候条、不及申候、恐々謹言、
     七月廿三日   義堯(花押)
      河田豊前守殿
           進之候

 『新潟県史 資料編』では「里見義堯書状」とするが、花押は六角義堯のものである。宛所は直接相手に宛てた直状(じきじょう)ではなく、相手の家臣の名前を書いて主人に披露を請う形の付状(つけじょう)となっている。これは最も厚礼のものである。しかも宛名「河田豊前守殿」には、脇付「進之候」が付けられている。交渉当初の書状と考えられる。
 この義堯書状の花押は、前述の木村文書や黒川文書のものとは異なり、書止めが跳ねる。これに対して、天正三年(一五七五)四月の義堯書状の花押の書き止めは跳ねない(本善寺文書)。また翌四年十月に備後に下向した時のものも跳ねない(吉川文書)。さらに天正五年(一五七七)末に足利義昭上洛の先鋒として軍事行動を起こし、翌六年(一五七八)正月七日に和泉堺に着津したときも、花押の書き止めは跳ねない(談山神社文書)。このことから書き止めが跳ねる花押は、少なくとも天正三年(一五七五)四月から同六年(一五七八)正月かけての時期のものではない。この義堯書状は天正三年(一五七五)四月以前/あるいは天正六年(一五七八)正月以後のものである。前者であれば木村文書の義堯書状に「東北この通り」とあるように、義堯が上杉謙信(弾正少弼入道)と綿密に連絡を取りあっていた期間のものであり、後者であれば天正七年(一五七九)以降に御館の乱で上杉景虎(三郎)に勝利した上杉景勝(弾正少弼)に宛てたものである。
 ところで義堯書状の宛所河田豊前守は、上杉謙信の奏者河田長親である。河田長親(豊前守)は山吉豊守・直江景綱(実綱)らとともに謙信の執政であったが、永禄十二年(一五六九)からは越中経営に当たり、天正六年(一五七八)に謙信が没すると出家して「禅忠」と名乗っている。景勝時代は直江兼続を執政首脳とし、景勝(もと上田城主)の譜代直臣団である上田衆が景勝政権の中枢を占めた(19)。長親は「魚津地仕置之事」を報告するに当たっても、春日山城将黒金景信(上田衆)に景勝への披露を依頼しているほどである(20)。このように長親が執政の地位にあったのは永禄十二年(一五六九)までであり、元亀・天正年間には越中経営に当たり、天正九年(一五八一)に没した。
 これらのことを考えると、義堯書状は、河田豊前守が執政を勤めた謙信時代のものである可能性が高い。厚例であることからも、交渉初期のものと考えられる。やはり天正三年四月以前のものであろう。
 実は河田長親は近江出身で六角氏旧臣であった。河田氏は近江野洲郡川田郷を本拠とする土豪で近江守山なども領し、六角氏や管領細川氏の使者となっていたが、さらに薬師寺別当領近江豊浦荘代官ともなっていた(21)。長親はこの近江河田氏の出身であり(22)、永禄二年(一五五九)に上洛した上杉謙信(当時は長尾輝虎)に請われてその家臣となった。そのため義堯と長親は旧知であった可能性が高く、義堯書状で「それ以後便風を得ず候の間、無音本意にあらず候」とあるのは、長親の近江在国以来のことだと考えられる。
 義堯の内意を伝えた使者は、大館藤安(兵部少輔)である。六角義堯の使者大館藤安は室町幕府奉公衆大館氏の出身で、十三代将軍足利義輝の奏者として活躍した。実名藤安の片諱字「藤」は義輝(初名義藤)から給付されたものである。足利義晴・義輝の御供衆大館晴光は藤安の兄だが、足利義栄の十四代将軍就任に際して松永久秀に協力したために足利義昭政権では失脚した。それに対して弟藤安は、義昭政権でも北陸方面の奏者として活躍しており、とくに義堯や承禎の奏者を勤めるなど六角氏との関係が深い。義昭備後下向に同行した一行の中に藤安の名が見えないのは、義堯とともに備後に下向したためとも考えられる。
 足利義昭の使者松田左兵衛尉は室町幕府奉行人松田氏の一族で、(年未詳)七月二十三日付上杉弾正少弼宛足利義昭御内書(23)や同日付同宛一色昭国書状(24)でも上使としてその名が見えており、主に北陸方面の上使になっていた。義堯書状と月日は同じであるため関連があるかもしれないが、宛所が異なる。宛所に注目すれば、義堯書状と同じく河田豊前守宛の七月七日付足利義昭御内書(25)が義堯書状と関連しているだろう。この松田左兵衛尉も、足利義昭備後下向に同行した一行の中にその名が見えない。しかしこのときには義昭の上使として上杉氏に派遣されており、義昭の側近にいたことが分かる。
 義堯書状の内容は、①義堯と河田長親の間での連絡がしばらく途絶えていたこと、②上杉氏が堅固であることを喜ぶとともに協力を要請していること、③「内意之趣」とあるように義堯と上杉氏の間で秘密裏に話が進められていることである。

【注】
(18)七月廿三日付河田長親宛六角義堯書状(河田文書)。『新潟県史』資料編中世5、三七四一号。
(19)藤木久志「家臣団の編成」(『上杉氏の研究』吉川弘文館、一九八四年)。
(20)天正七年十二月二十六日付黒金兵部少輔宛河田禅忠書状(河田文書)。『越佐史料』五巻七二四頁。
(21)『経尋記』大永元年九月四日条。『大日本史料』大永元年九月四日条(九編之十三、二三一-四頁)。また天理大学所蔵『大館記』所収の『披露事記録 天文八年』六月二十三日条に「河田弥太郎宿事」が見え、政所執事伊勢氏の敷地内に宿所を間借りしていた河田氏が、空き家を求めていたことが分かる。空き家は無事見つかり、河田弥太郎と幕府奉行人諏訪神左衛門尉(晴長)に伝えられた。京都に宿所を求めていた事実は、河田氏が六角氏や細川氏の使者であったことを傍証していよう。また『永禄七年諸役人附』には、御末之男の一人として河田与左衛門尉の名が見えるが、一族と考えられる。
(22)広井進「河田長親と中世の長岡」長岡市立科学博物館研究報告三〇号、一九九五年三月。
(23)『歴代古案』七巻一号・足利義昭御内書。『大日本古文書』上杉家文書一一二一号。『新潟県史』資料編3中世、九四六号。
(24)『歴代古案』八巻六八号・一色昭国書状:『大日本古文書』上杉家文書六七七号。『新潟県史』資料編3中世、七六〇号。
(25)『歴代古案』七巻六号・足利義昭御内書。『越佐史料』四巻六〇八-九頁。『新潟県史』資料編5中世、三七三五号。

織田信長包囲網の形成

 上杉謙信が要請を受け入れたことに対する義堯の礼状が、『歴代古案』に収められている。同文書の三宝院義堯書状がそれである(26)。この義堯書状は『越佐史料』に掲載されているが、原本がないために花押を確認できない。しかし上杉謙信が援軍の要請を受けたこと対する礼状であることから、三宝院義堯ではなく六角義堯の書状と分かる。

  旧冬差越富蔵院候処、種々入魂之由、尤快然候、則至東国可
  被移 御座処、海路難合期故、御延引、非御油断通、得其意
  可申越旨被仰出候、越・甲・相三和之儀、謙信於被応 上意者、
  御入洛可為眼前候、然者、謙信以御覚悟、御当家御再興之条、
  年来被止宿意、入眼候様可被取成儀、併被対公儀御忠切不可
  過之候、馳走之段内々達 上聞候、尚河伊可申候、恐々謹言、
     五月十六日  義堯(花押)
        長殿

 内容が越後上杉・甲斐武田・相模北条の三和を講じるものであることから、天正四年(一五七六)のものと考えられる。また「旧冬富蔵院を差し越し候処、種々入魂の由に候」とあることから、天正三年(一五七五)末には上杉氏が援助要請を承諾していたことも分かる。さらに、実現しなかったものの義昭が東国に移るという案があったことも分かる。
 宛所が河田豊前守ではないのは、このときすでに彼が越中経営に専念していたためだろう。宛所となった長景連は、能登畠山氏の重臣長氏の一族である。長続連・綱連父子が織田信長に内通して、主君畠山義隆(義慶)を毒殺するという事件があったが、景連は続連・綱連父子と袂を分かって上杉謙信に頼っていたのだろう。六角氏は能登畠山氏と姻戚関係にあり、能登畠山氏旧臣である長景連に披露を依頼することは十分に考えられる。ただし宛所の長景連に脇付「進之候」がないため、前述の河田長親宛書状よりは薄礼である。上杉氏との交渉が進んできたためと考えられる。
 使者の「河伊」は、前述の河田長親の父河田元親(伊豆守)と考えられる。信長は天正六年以降佐々長穐(権左衛門尉)を通じて、越中経営に当たっていた長親に対して寝返りを奨めているが、そのとき信長が長親に提示した条件が本国近江の地の給付である(27)。これは、近江河田氏が天正年間も六角氏に仕えていたために、河田氏領が欠所扱いとなっていたからだろう。長親の父元親をはじめとする近江河田氏が、六角氏と上杉氏の連絡役になっていた。義堯は、上杉謙信に援助を要請するにあたって、六角氏旧臣河田長親や能登畠山氏旧臣長景連に謙信への披露を依頼したのである。
 上杉文書には原本の残っている義堯書状(28)もある。花押から六角義堯書状と特定できるもので、『新潟県史』資料編でも「六角義堯書状」とする。

  今度条々被加 上意之処、以朱印早速被及 御請段、 
  御感不斜候、 御本意眼前候、弥火急御入洛之儀、
  御馳走頼被 思召之由、以 御内書被仰出候、当表
  之様体、今村猪介仁申含候、期来信候、恐々謹言、
     八月五日  義堯(花押)
     不識庵
        玉床下

 義堯花押は書き止めの跳ねないものであり、天正三年四月以後のものであることが分かる。使者の今村猪介は近江国神崎郡今村を本拠とする土豪で、六角氏被官である。義堯に同行した「六角殿取次」の一人と考えられる。この書状の宛所は上杉謙信本人である。宛所に相手の家臣の名前を書いて主人に披露を請う形の付状ではなく、直接相手に宛てた直状である。このように河田長親宛書状・長景連宛書状・上杉謙信宛書状と段々と薄礼になっているのは、交渉がうまく進むにつれて上杉謙信本人に親しみを込めるようになったと考えられる。
 内容は、謙信に対して急ぎ上洛軍を起こすよう要請したものである。義堯は上杉謙信を反信長陣営に取り込み、信長包囲網をつくることに成功した。
 またこの時期のものと考えられる六角承禎書状が、『歴代古案』に収められている(29)。

  従公方様御内書、為御使大館兵部少輔被指越候、御呉服并
  御袖細御拝領候、尤御面目之至候、被応 上意御帰洛御才覚、
  偏御当家可為御再興候、様体者委藤安可在口上之条、不能詳
  候、恐惶謹言、
     十二月二日   沙弥承禎
    謹上 上杉弾正大弼入道殿

 六角承禎の書状であるため、『越佐史料』では、足利義輝暗殺事件によって弟義昭(一乗院覚慶/義秋)が奈良を逃れて近江に在国していた時期のものと判断して、永禄八年(一五六五)のものとした。しかし宛所は「上杉弾正大弼入道殿」であり、上杉謙信が出家した元亀二年(一五七一)以後のものである。義堯と上杉謙信との交渉の中で発給されたものだろう。この承禎書状では、宛所の上所に「謹上」と付けた丁重なものである。この承禎の書札礼は、上所のない義堯書状よりも厚礼であり、このことでも義堯が承禎の上位者であったことが分かる。やはり義堯が当時の六角氏当主であり、承禎・義治父子はその補佐である。

【注】
(26)『歴代古案』七巻五九号・三宝院義堯書状。『越佐史料』五巻三三二-三頁。奥野高廣『足利義昭』(人物叢書、吉川弘文館、一九六〇)二四七頁でも、三宝院義堯書状としている。
(27)(天正六年)四月末日付若林助左衛門尉宛佐々権左衛門尉長穐書状。『大日本古文書』上杉家文書六七四号。『越佐史料』五巻四六九-七〇頁。『新潟県史』資料編3中世、五七一号。
(28)『大日本古文書』上杉家文書六四九号・六角義堯書状。『新潟県史』資料編3中世、七六五号。
(29)『歴代古案』五巻四五号・六角承禎書状。『越佐史料』四巻五五一-二頁。

毛利氏と六角義堯

 吉川文書には、六角義堯書状が多く含まれている。それは、天正四年(一五七六)の足利義昭の備後下向を実現させたのが義堯だからである。もともと義堯は吉川元春から年頭や歳暮の祝儀を贈られるなど交流があった。実は毛利氏側は初め足利義昭の備後下向を迷惑がっており、足利義昭本人が依頼しても承諾しなかった。義堯が交渉に乗り出したことではじめて、吉川元春も毛利輝元へ取り成した(吉川文書)。そのため吉川文書に多くの義堯書状が残された。毛利氏も上杉氏と同様、足利義昭の要請は断っても義堯の要請に応えている。このことで義堯に全幅の信用を寄せていたことが分かる。
 義堯は、信長を挟み撃ちにするために東日本を視野に入れて、越後上杉謙信と甲斐武田勝頼・小田原北条氏政の三和を図り(上杉文書)、さらに加賀一向一揆や越前朝倉義景の遺児宮増丸とも連絡を取って(吉川文書)、織田信長包囲網を築き上げるのに成功した。上杉謙信と加賀一向一揆の和睦も、この一連の動きの中で実現したものだろう。
 また足利義昭に同行していた義堯のことを、承禎は「大本所」と呼んでおり、義堯が六角氏の嫡流であったことが確認できる(坂内文書)。義堯は江州宰相義久や徳川公義秀の後継者であることは間違いない。
 天正六年(一五七八)正月には、義堯自らが阿波・淡路衆を従えて和泉堺に着岸し、多武峰衆徒に援軍を要請している(談山神社文書)。翌二月三日には、織田信長によって近江国高島郡の支配を任されていた有力武将磯野員昌(丹波守)が突然出奔した(『信長公記』)。さらに同年には播磨三木の別所長治や摂津有岡の荒木村重らも立て続けに挙兵しており、それらの動きも義堯らの動きに応じたものと考えられる。

吉川元春と六角義堯

 『大日本古文書』吉川家文書では、一連の義堯書状を畠山義堯書状とする。しかし義堯花押が近江国内の木村文書・黒川文書に収められている六角義堯書状の花押と一致し、また『大日本古文書』小早川文書所収の『礼銭遣方注文写』に「六角殿」が見えるとともに、同じく小早川文書所収の六角義堯書状案で義堯の署名の下に当時の注記で「六角殿これ也」と記されていることから、六角義堯書状と分かる。そのため『大日本古文書』も小早川家文書や山内首藤家文書では、義堯書状を六角義堯書状としている。また『吉川文書花押藪』(東京大学史料編纂所謄写本)では義堯を正しく「近江佐々木」と注記している。
 まず年頭の祝儀に対する礼状が二通(30)、歳暮に対する礼状が一通(31)ある。

  一札令披見候、当春之為嘉慶、太刀一腰、馬一疋給之候、
  尤喜悦候、先度自是祝儀申趣、委細彼者共可申候、
  恐々謹言、
     二月三日   義堯(花押)
      吉川駿河守殿

  為当春之祝儀、太刀一腰、馬一疋給之候、尤快然候、
  猶期後喜候、恐々謹言、
     二月八日    義堯(花押)
       吉川駿河守殿
            進之候

  一札披見候、為歳暮之儀、太刀一腰、馬一疋給之儀、
  尤喜悦之至候、尚重而可申候、恐々謹言、
     十二月廿二日  義堯(花押)
       吉川駿河守殿

 二月三日付義堯礼状で「先度これより祝儀を申す趣」とあるように、これに先立って六角義堯と吉川氏の間で連絡のやり取りがあり、今後年頭・歳暮に祝儀することを吉川氏側が申し入れたことが分かる。
 これら三通の義堯礼状の花押は、上杉氏との交渉で河田豊前守に宛てた書状と同様、書止めが跳ねる型である。義堯が書止めの跳ねない花押を使用していたのは、天正三年(一五七五)四月から同六年(一五七八)正月までであり、これら義堯礼状はそれ以前か以後のものである。二月三日付義堯書状の「これより祝儀を申す趣」という文言から、六角氏と吉川氏の交渉の初期段階のものと考えられる。
 さらに二月八日付義堯書状では宛所「吉川駿河守殿」に脇付「進之候」が付けられており、他の義堯書状に比べて厚礼である。上杉氏との交渉初期に発給された河田長親宛の義堯書状と同様である。これがもっとも初期のものである可能性がある。これら三通の義堯礼状は交渉初期のもので、天正三年(一五七五)四月以前のものと考えられる。
 このように早い時期から義堯と吉川氏と交流があったことが、足利義昭の備後下向を可能にしたと考えられる。
 一連の義堯礼状と同じ二月三日付と八日付の真木島昭光(玄蕃頭)奉書が、吉川文書に所収されている。年頭の祝儀に対する礼状として二月三日付昭光奉書二通(32)および二月八日付昭光奉書五通(33)があり、また歳暮に対する礼状として十二月二十二日付け昭光奉書二通(34)がある。永禄・元亀年間に足利義昭の奉書を発給したのは、主に一色藤長(式部少輔)や上野信恵(信秀、佐渡守)であり、真木島昭光が足利義昭の奉書を発給するようになるのは元亀年間からである。とくに義昭が京都から追放された天正元年(一五七三)からは、真木島昭光が主に奉書を発給した(35)。
 このうち二月三日付昭光奉書によれば、吉川氏の使者は吉川経家(式部少輔)である。経家は天正九年(一五八一)鳥取城守将となり、羽柴秀吉に兵糧攻めされて城兵の助命と引き替えに自決した人物である。このことからも、二月三日付昭光奉書は天正年間初期のものと考えられる。
 しかし義堯礼状では足利義昭に関する文言がまったくないため、偶然同日付であった可能性も否定できない。そのため、義堯礼状と昭光奉書が関連があるかどうかは今後の課題となろう。

【注】
(30)二月三日付吉川元春宛畠山義堯書状(『大日本古文書』吉川家文書六二五号)、および二月八日付吉川元春宛畠山義堯書状(『大日本古文書』吉川家文書六二六号)。
(31)十二月二十二日付吉川元春宛畠山義堯書状(『大日本古文書』吉川家文書六三一号)。
(32)『大日本古文書』吉川家文書五三五号、五三六号・真木島昭光奉書。
(33)同五三七号、五三八号、五三九号、五四〇号(春日局への祝儀に対する返礼)、五四一号(松雲院殿への祝儀に対する返礼)。
(34)同五四六号、五四七号。
(35)同四八六号・(天正元年)十月二日付け真木島昭光奉書ほか。

足利義昭・六角義堯の備後鞆津下向

 毛利氏は天正四年二・三月に足利義昭と真木島昭光が備後下向の援助を求めても承諾しなかったが(36)、同年四月に六角義堯が要請すると受け入れている。足利義昭の備後鞆津への移座は、義堯が交渉に乗り出したことで実現した。このことは吉川元春が六角義堯を重く見ていたことを示していよう。
 まず吉川元春に毛利輝元への取り成しをもとめた義堯書状(37)がある。

  至当津令渡海刻、早々雖可及案内儀候、御忍付而可致遠慮旨
  上意之条、無其儀候、輝元可得指南所存候間、取成頼入候、
  以直書申入条、別而入魂可為喜悦候、猶期対談之時候、
  恐々謹言、
     卯月廿一日  義堯(花押)
      吉川駿河守殿

 義堯は、鞆津へ渡るのはお忍びであるため案内は遠慮するという義昭の内意を伝えるとともに、吉川元春に毛利輝元への取り成しを求めている。宛所「吉川駿河守」は日付よりも一・二段下げられた位置に記され、しかも宛所に「進之候」「御宿所」などの脇付がない。前述の年頭の祝儀に対する二月八日付義堯礼状よりも薄礼である。以後の義堯書状も同様であり、交渉が進む中で、義堯が元春に対して親しみを込めていたことが分かる。しかも花押の書き止めも跳ねない。時期が同じと考えられる木村文書・黒川文書・本善寺文書・上杉文書のものと一致する。
 また元春が輝元に取り成したことに対する義堯礼状(38)がある。

  今度吉田被付置両使被帰参、御請之趣言上候、 公私大慶
  不是非候、先書如申身上之儀、輝元取成頼入候条、指南
  可為喜悦候、猶彼者共可申候、恐々謹言、
     五月廿四日  義堯(花押)
       吉川駿河守殿

 輝元の居城吉田城に遣わされた使者が帰り、義堯の要請を受け入れるとの輝元の返事が伝えられた。義堯は足利義昭とともに大いに喜び、また元春の取り成しに感謝の気持ちを伝えている。詳細は使者が言うだろうとのことだが、使者を「彼者共」と呼んでいることからも義堯の地位の高さが分かる。
 さらに、毛利氏が義昭・義堯の招きに応じたことに対する義堯礼状(39)がある。

  返書令被見候、諸事不可有疎略之由、尤珍重候、随而従輝元
  捻之儀、送給候、本望之至候、併入魂故候、弥可然様取成
  可為喜悦候、猶彼者共可申候、恐々謹言、
     七月廿日   義堯(花押)
       吉川駿河守殿

 諸事に粗略のないように心掛けるという輝元の返書に喜ぶとともに、やはり元春の取り成しに感謝している。
 このように毛利氏側から連絡があったことに喜んだ義堯は、吉川氏に太刀一腰(金覆輪)と馬一疋を進物として贈っている(40)。

  就今度者着津之儀、一札殊懇意喜悦候、仍太刀一腰金覆輪、
  馬一疋進之候、併祝儀計候、為其以使僧申候、猶期来音候、
  恐々謹言、
     十月五日   義堯(花押)
       吉川駿河守殿

 これら一連の義堯書状から、義堯が足利義昭の備後下向に大きく貢献したことが分かる。足利義昭と真木島昭光による備後下向援助の要請には応じなかった毛利氏が、義堯の要請には応じていることでも、毛利氏側が義堯を厚く信頼していたことが分かる。前述の年頭の祝儀に対する二月三日付義堯礼状の文言に「先度これより祝儀を申す趣」とあるように、義堯は以前から綿密に連絡を取り合っていた。年頭・歳暮の祝儀に対する礼状での義堯の態度は尊大であり、また備後下向に関する一連の義堯書状でも使者を「彼者共」と記しており義堯の地位の高さが分かる。『吉川正統叙目』で一連の六角義堯書状七通がまとめて所収されていることも、義堯の地位の高さや吉川氏との関係の深さを示している。
 毛利氏が義堯を信頼した理由としては、①江州宰相以来の六角氏(江州殿)の地位の高さと、②六角氏と本願寺の同盟関係という、二つの理由が考えられる。
 永禄十一年九月に足利義昭を奉じて織田信長が上洛したことに関連する『お湯殿の上の日記』同年九月二十二日条で、六角義秀(江州殿)が信長(上総)よりも上位に記されている。この六角氏の地位の高さが、毛利氏との交渉に反映したと考えられる。そしてもうひとつの理由が、六角氏と本願寺の同盟関係である。本願寺顕如の正妻は六角氏養女であり、六角氏と本願寺は同盟関係にあった。義堯の挙兵は、前述のように天正三年(一五七五)織田信長による石山本願寺攻撃が契機となっている。毛利氏が義堯を信頼した理由もここにあろう。

【注】
(36)『大日本古文書』吉川家文書四八九号・(天正四年)二月八日付足利義昭御内書、四九〇号・同日付真木島昭光奉書、および四九一号・(同年)三月二十八日付真木島昭光奉書。
(37)同六二七号・畠山義堯書状。
(38)同六二八号・畠山義堯書状。
(39)同六二九号・畠山義堯書状。
(40)同六三〇号・畠山義堯書状。

細川昭賢と毛利氏

 吉川元春は使者今田経忠を立てて備後鞆に着津した足利義昭一行を訪れて祝儀を贈ったが、その際の(天正四年)十月二日および三日付の一連の文書が吉川文書に収められている。
 まず十月二日付のものは、足利義昭御内書(41)、真木島昭光(玄蕃頭)奉書(42)、真木島昭光書状(43)、小林家孝(民部少輔)書状(44)であり、また翌三日付けのものは上野秀政(大和守)書状(45)、昭賢書状(46)・畠山昭清(上野介)書状(47)・武田信景(右衛門佐)書状(48)である。
 このとき小早川隆景も祝儀を贈っており、そのときの目録である『礼銭遣方注文写』(49)と、これら吉川文書に収められている一連の礼状を比較することで、義堯が六角氏で、昭賢が細川氏であることが確認できる。
 『礼銭遣方注文写』に記載されている人物は、公方様・御局様・細川殿・同取次・上野殿・畠山殿・同取次・真木島殿・同取次・武田殿・小林殿・曽我殿・六角殿取次・同厩方・春阿弥・高五郎次郎・勝浦二人・千若・御厩方・柳沢殿である。
 この中でこれまで人物が特定できなかったのは、「細川殿」である。また吉川元春宛の礼状があって『礼銭遣方注文写』で人物が特定できなかったのは、昭賢である。両者を比較すれば、細川殿と昭賢が同一人物であるとすぐに理解できる。これまで特定できなかったのは、『大日本古文書』で昭賢を「畠山昭賢」と記したからだろう。目の前にある事実が先入観によって見えなくなることはよくある。これもその一例である。
 この昭賢書状では宛所に「進之候」という脇付があるのに対して、ほかの書状の脇付は「御宿所」である。脇付には「参人々御中」「人々御中」「進覧之候」「御宿所」「進之候」があり、この中では「進之候」がもっとも薄礼である。このときの足利義昭一行の中で昭賢がもっとも薄礼で済ませていたのは、昭賢の格式が高かったからである。この足利義昭亡命政権の中での序列は、将軍足利義昭、宛所に脇付を記さない六角義堯、脇付「進之候」を記す細川昭賢、脇付「御宿所」を記す幕府奉公衆という順になる。
 このような序列は、六角義堯が取次(事務方)と厩方(直属軍)を有し、細川昭賢と畠山昭清・真木島昭光が取次(事務方)を有していたことでも理解できる。
 実は毛利輝元が昭賢の身上の不如意を毎事心配し、そのことが本願寺より昭賢本人に伝えられるということがあった。それに対して昭賢が吉川元春宛に礼状を発給している(50)。『吉川正統叙目』で昭賢書状五通がまとめて収められていることでも(51)、昭賢の身分が高く、その動向が注目されていたことが分かる。
 まず二月三日付昭賢礼状(52)を見てみよう。

  為年甫祝儀、太刀一腰、馬一疋送給候、尤目出度候、
  猶慶賀従是重畳可令申候条、不能一二候、恐々謹言、
     二月三日    昭賢(花押)
     吉川駿河守殿
           進之候

 二月三日付というと、真木島昭光奉書や義堯礼状にも二月三日付のものがあった。義堯礼状と昭賢礼状は同日付であろうか。しかし昭賢礼状に足利義昭や六角義堯に関する文言がない。義堯礼状にも足利義昭や細川昭賢に関する文言がない。そのため真木島昭光奉書と義堯礼状・昭賢礼状はそれぞれ独立した文書である可能性があり、無理に関連づける必要はないかもしれない。
 さらに歳暮の祝儀に対する昭賢礼状(53)もある。

  為歳暮祝儀、太刀一腰、馬一疋給之候、御懇之至候、
  猶明春慶詞可申述、恐々謹言、
     十二月廿二日   昭賢(花押)
     吉川駿河守殿
           御返報

 十二月廿二日付というと、やはり義堯礼状も十二月廿二日付である。しかし昭賢礼状に義堯に関する文言が無いことから、関連づけて考える必要はないかもしれない。昭賢書状では、これ以後も宛名「吉川駿河守殿」に必ず脇付「進之候」「御返報」が付けられる。これは、脇付がなくなる義堯書状よりも厚礼である。この書札礼から、昭賢は義堯よりは下位であったことが分かる。
 このように六角義堯・細川昭賢はもともと吉川元春から祝儀を受ける立場にあり、しかも昭賢は毛利氏によってその身上が心配されるほどの人物であった。細川庶流出身ではなく管領家出身と考えられる。しかし義堯より下位であった。なぜだろうか。
 『細川両家記』によれば、細川晴元の次男が六角氏に保護されていた。当時足利義昭に同行していた細川氏有力被官薬師寺弼長(九郎左衛門尉)(54)の一字書出が、六角義弼(義治)の片諱字である。このことから、細川昭賢は六角氏に保護されていた細川晴元の子息と考えられる。昭賢の片諱字「賢」は、細川典厩家(管領家につぐ有力庶子家)の通字とも考えられるが、六角義賢(承禎)の片諱字の可能性もある。

【注】
(41)『大日本古文書』吉川家文書四八五号・足利義昭御内書。
(42)同四八六号・真木島昭光奉書。
(43)同五四四号・真木島昭光書状。
(44)同五五六号・小林家孝書状。
(45)同五四九号・上野秀政書状。
(46)同五五三号・畠山昭賢書状。
(47)同五五七号・畠山昭清書状。
(48)同五五八号・武田信景書状。
(49)『大日本古文書』小早川家文書二七一号『礼銭遣方注文写』。
(50)『大日本古文書』吉川家文書五五二号・畠山昭賢書状。
(51)同五五一-五号・畠山昭賢書状。
(52)同五五一号・畠山昭賢書状。
(53)同五五五号・畠山昭賢書状。
(54)四月十二日付河田長親宛薬師寺弼長書状(『歴代古案』三巻三四号)。『越佐史料』五巻三八一頁。

小早川隆景と六角義堯

 足利義昭亡命政権が備後鞆津に到着したときに、義昭らが吉川元春に宛てた(天正四年)十月二日・三日付の一連の礼状の中に六角義堯礼状がない。このことは、『礼銭遣方注文写』の宛所に「六角殿取次」と「同厩方」があるものの、「六角殿」本人がないことと関連があろう。義堯本人の到着は遅れたのだろうか。
 実は『大日本古文書』では、これら十月二日・三日付の一連の礼状を、天正元年(一五七三)足利義昭が河内若江城に在城していたときのものとしている。しかし、小早川家文書(椋橋家什書第七巻)に、天正四年(一五七六)のものと特定することのできる十月二日付足利義昭御内書案(55)・六角義堯書状案(56)・武田信景書状案(57)があり、これら十月二日・三日付の一連の書状案が天正四年(一五七六)のものであったことが分かる。

  今度当国移座付而、早々為御礼、差越同名治部少輔段、
  尤悦喜候、殊分国中諸侯輩同前之儀、併馳走故候、次
  帰洛事、弥忠勤被頼思食候、委曲輝元可申遣候也、
     十月二日      御判
       小早川左衛門佐とのへ

  一札令披見候、下国之儀付而、椋橋治部少輔、太刀一腰、
  金覆輪、馬一疋、糟毛、給之候、尤快然候、猶重而可申候、
  恐々謹言、
     十月二日      義堯(六角殿之也)
      小早川左衛門佐殿
              進之候

  至此表就被多 公儀御座候、被差越御名代、御礼御申段、
  尤珍重存候、仍太刀一腰、馬一疋送給候、喜悦至極候、
  何様自是可申入候、猶弘平可被申候、恐々謹言、
     十月二日       信景(うら付け 武田右衛門佐)
     小早川左衛門佐殿
             御宿所

 これら三通の書状案は一枚の紙に書き継がれ、義堯は義昭御内書案に続けて自らの書状案を書いている。また義堯書状案の内容は尊大であり、その中に義昭に関する文言がなく、自らの下国を言っているだけである。小早川隆景の使者椋橋治部少輔(弘平)は、足利義昭下向に対する御礼だけではなく、別に義堯下向に対する御礼も述べたのだろう。さらにこの書状案から、義堯が自らの名字と官職を書き示す裏書を免除されていたことが分かる。裏書の免除は地位の高さを示している。小早川氏側でも「六角殿これなり」と敬称で注書を添えている。それに加え、義堯書状案の宛所「小早川左衛門佐殿」に脇付「進之候」が記されていることも注目できる。吉川元春とは以前から交渉があったが、小早川隆景とはこのときが初めてだったのだろう。あらたまって脇付を付けたと考えられる。ただし脇付「進之候」は格下の者に対して使用する脇付であり、義堯が上位者であることは間違いない。
 義堯書状案で「なお重ねて申すべく候」と述べられているものに相当するのが、前出の吉川文書に収められている(天正四年)十月五日付六角義堯書状であろう。その文中の「今度着津の儀につき、一札殊に懇意喜悦候」とある文言が、吉川元春・小早川隆景の両者が、義堯に御礼を述べたことを指していると考えられる。義堯が十月五日に贈った太刀一腰と馬一疋が、返礼の祝儀であったことが分かる。

【注】
(55)『大日本古文書』小早川家文書一五九号・足利義昭御内書案。
(56)同一六〇号・六角義堯書状案。
(57)同一六一号・武田信景書状案。

備後国人山内氏と六角義堯

 また毛利氏に属していた地元備後の有力国人山内隆通(新左衛門尉)・元通(刑部少輔)父子も、足利義昭一行や六角義堯に祝儀を贈っており、山内首藤家文書に義堯礼状(58)が収められている。それを見てみよう。

  就下国之儀、以同名兵庫助、太刀一腰金覆輪、馬一疋給之候、
  尤喜悦候、猶重而可申候、恐々謹言、
     十月三日   義堯(花押)
      山内刑部少輔殿

 これは、山内元通が一族の山内兵庫助通泰をもって祝儀を贈ったことに対する義堯の礼状である。この書状でも、足利義昭に関わる文言がない。義堯は足利義昭一行の一員ではなく、自らの直属軍を率いて足利義昭を擁護する後見という立場にあったことが確認できる。

【注】
(58)『大日本古文書』山内首藤家文書三一五号・六角義堯書状。

北畠・朝倉両氏の再興運動

 天正四年(一五七六)十一月二十五日に伊勢国司北畠氏の本所北畠具教を始め北畠一族が、織田信長の密命によって滅ぼされた。足利義昭や義堯らが備後国鞆津に下向した翌月である。しかし北畠氏の有力庶子家・坂内御所の坂内亀寿(亀千代)は逃亡に成功し、北畠具教の弟朝親(具親)も奈良興福寺東門院を出て還俗し挙兵した。朝親はさっそく同年十二月六日付で坂内亀千代(亀寿)に書状を送り、協力を期待している(59)。また坂内亀寿から支援を求められた六角承禎も、天下静謐のためにも援助を惜しまないと伝えるとともに、北畠殿を相続する適当な人物がいなければ坂内亀寿本人が相続するよう勧めている(60)。

  国司御一類御生涯付、此方被頼入上者、天下静謐砌、
  随分馳走可申候、北畠殿可有御相続仁体於無之者、
  御家督御存知様、達 上聞、并大本所江異見可申候、
  勢州之儀御 調略此節候、恐々謹言、
     十二月十八日  沙弥承禎(花押)
     謹上 坂内亀寿殿

 六角承禎は北畠具教正妻の兄であり、しかも反信長陣営の中心人物として近江・伊賀で転戦していた。坂内亀寿が援助を求めるのに相応しい人物である。実は坂内亀寿の祖父坂内具祐は、このとき滅亡した北畠具教の叔父であり、従四位下参議まで昇進した人物である。坂内家は庶子家とはいえ公卿に列していた。しかも坂内亀寿の母は具教の娘であった。具教の正妻は承禎の妹であるから、坂内亀寿は承禎にとっては妹の孫に当たる。北畠一族の滅亡に直面して、承禎が坂内亀寿に北畠殿相続を勧めたのは当然であった。承禎は、このことを足利義昭と大本所に進言すると約束している。北畠氏は族滅の直後であり、大本所と呼ばれうる人物はいない。また大本所が北畠氏であれば、彼こそが北畠殿にふさわしい人物であり、あらためて坂内亀寿に北畠殿相続を勧めるはずはない。この大本所は北畠氏ではなく、承禎にとっての大本所であり、義昭と行動をともにしていた義堯である。
 こののち北畠朝親は承禎の娘を娶って六角氏と共同戦線を形成し、伊賀を本拠に伊勢各地で挙兵した。坂内亀寿も朝親と結び、御師実宝院を通じて熊野那智社に祈願している(61)。さらに坂内亀寿は反信長陣営の有力者武田勝頼にも支援をもとめた(62)。これも承禎の勧めによるものだろう。
 この時期、佐々木源兵衛尉が越前朝倉宮増丸(義景の遺児)や加賀の一向一揆と連絡を取っていたことが、吉川文書所収の(年未詳)十二月七日付武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状(63)で分かる。承禎の正妻が能登畠山義総の娘であり、承禎の娘が能登畠山義綱に嫁いだというように、六角氏と能登畠山氏は重縁を結んでいた。前述のように義堯が能登畠山氏旧臣長景連を通して上杉謙信に書状を披露したのも、このような六角氏と能登畠山氏の関係による。承禎と正室畠山氏との間には義治(四郎、右衛門尉)・高盛(次郎左衛門尉、中務大輔)・高賢(次郎左衛門尉)が生まれた。また加賀一向一揆の本所である本願寺顕如の正妻は、六角氏猶子であった(64)。
 このように六角氏は越前朝倉氏、能登畠山氏、越後上杉氏など北陸道の諸大名と結び付きが強く、北陸道管領という系譜伝承(65)も有している。そのため佐々木六角一族が北陸方面で活躍することは容易であった。承禎が晩年のある時期に能登に在国したのも(66)、この佐々木源兵衛尉の動向と関連があろう。

【注】
(59)(天正四年)十二月六日付坂内亀千代宛北畠朝親書状(坂内文書)。兵庫県坂内文書(東大史料編纂所影写本)。『三重県史』資料編近世1、一章-二二号。
(60)(天正四年)十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎書状(同文書)。『三重県史』資料編近世1、一章-二三号。
(61)(天正五年)八月二十七日付実宝院宛北畠朝親立願状(和歌山県熊野那智大社文書)。『三重県史』資料編近世1、一章-二五号。(天正五年)九月二日付実宝院宛坂内亀寿書状(同文書)。『三重県史』資料編近世1、一章-二六号。
(62)(天正五年)九月十二日付坂内亀寿宛武田勝頼書状(坂内文書)。『三重県史』資料編近世1、一章-二七号。
(63)『大日本古文書』吉川家文書一三〇三号・朝倉宮増丸書状。
(64)『厳助往年記』弘治三年四月十七日条。
(65)沙沙貴神社所蔵佐々木系図、『寛政重修諸家譜』山岡系図ほか。
(66)石川県裏本友之氏所蔵佐々木義賢入道自画像。

六角義堯の堺上陸

 天正六年(一五七八)正月七日、義堯が足利義昭の先方として阿波・淡路両国の兵を従えて和泉堺に着岸するとともに、大和多武峰の衆徒に出陣を求めたことを、談山神社文書所収の義堯書状(67)で知ることができる。

  今度御入洛、為御先勢、阿淡両国之衆相供、至堺津着岸候、
  然者此砌、励戦功被抽忠節者、別而可有御褒美之由被仰出条、
  満寺之申事於在之者、達上聞可申遂其望候、猶遊佐弾正左衛門
  可申候也、恐々謹言、
     正月七日   義堯(花押)
      多武峰衆徒御中

 河内守護畠山氏の旧臣遊佐弾正左衛門を使者としているのは、もともと大和国と河内畠山氏の関係が深かったことによろう。畠山昭高滅亡後、義堯が畠山氏旧臣をも統合していたことが分かる。これが義堯が畠山氏と間違われる理由にもなったと考えられる。永禄六年(一五六三)足利義昭(当時一乗院覚慶)が六角氏に保護を求めた当時、畠山昭高(政頼)・守護代遊佐信教(新次郎)・有力被官安見宗房(美作守)ら河内守護畠山氏一行も六角氏に保護されていた。その縁で義堯のもとに畠山旧臣が集まったと考えられる。
 同じく天正六年(一五七八)には、浅井氏旧臣で信長の有力武将となっていた磯野員昌(丹後守)が突然出奔した(『信長公記』)。 沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、磯野氏は佐々木大原氏の子孫で、幕府奉公衆大原
(白井)民部少輔持泰の弟左近衛将監信泰が伊香郡磯野山城主となったことに始まるという。磯野氏は京極氏の有力被官であったが、浅井亮政と激しい抗争を繰り広げたのち浅井氏に従属してその重臣になった。磯野員昌は、姉川の合戦後も要塞佐和山城にあって対信長戦線の最前線にいたが、元亀二年(一五七一)ついに窮して城兵を小谷城に戻すことを条件に信長に降りている。信長は員昌を優遇して、近江国高島郡を与えるとともに、弟織田信勝(系図では信行)の嫡子信澄(七兵衛)をその養子とした。沙々貴神社本の六角義郷の項には、員昌が六角氏嫡子(系図では義郷)を預かっていたという記事がある。浅井氏滅亡後に、員昌が江州殿の嫡子を預かっていた可能性は十分にある。天正六年の員昌の出奔は、義堯の動きに応じたものと考えられる。
 播磨三木の別所長治や摂津の荒木村重らの挙兵は、足利義昭を通して毛利氏に伝わっており、やはり彼らも義堯の動きに応じて兵を挙げたと考えられる。
 まず足利義昭は播磨三木城主別所長治の挙兵を毛利氏側に伝えるとともに、毛利氏に播磨への出陣を促している(68)。このことは、別所長治の挙兵が義堯の動きに呼応したものであることを示している。しかし上杉謙信が三月十三日京都に向かい出発する前日に没したことは、信長包囲網に大きな穴を開けることになった。
 それでも同年十月摂津で荒木村重が挙兵した。そのことも足利義昭側から毛利氏側に伝えられており(69)、荒木村重の挙兵が義堯の動きに呼応したものであることが分かる。

【注】
(67)『談山神社文書』六号・六角義堯書状。
(68)『大日本古文書』吉川家文書九二号・(天正六年)三月十九日付吉川元春宛足利義昭御内書、および同四九九号・同日付同宛真木島昭光奉書。
(69)同五〇三号・(天正六年)十一月二十四日付吉川元春宛足利義昭御内書。

佐々木義高伝承と六角義堯

 天正六年(一五七八)正月義堯は堺に上陸した。その後、反信長連合は攻勢を強めたが、同年十一月六日毛利水軍が摂津国木津川口で織田水軍に敗れたことで石山本願寺は孤立し、形勢は逆転していく。それ以後の義堯の動向は、義堯書状もなく古文書で正確に跡づけることができない。
 ところが但馬国浅間佐々木家系図(70)によれば、天正年間に浅間城(養父郡八鹿町浅間)に入っていた佐々木義高(近江守)が、天正八年(一五八〇)羽柴秀長の但馬侵攻の際、織田方に降伏したという。同系図では、義高を六角義秀の子息と伝えている。この系譜伝承を信じれば、義堯は天文二十一年(一五五二)に髪置きをした六角亀千代(71)と同一人物と考えられる。
 また浅間城から二キロメートルほど離れて共同作戦を取る位置にあった坂本城(養父郡八鹿町坂本)には、三好政長(甚五郎)の子孫が入り、義高とともに羽柴秀長に降伏したという系譜伝承がある(72)。前述のように義堯と三好甚五郎は行動をともにしており(滋賀県山中文書)、これらの系譜伝承が、ある程度事実を伝えている可能性がある。
 実は文明六年-同十年(一四七四-七八年)山名政豊が山城守護に在任したときの郡代・奉行人の一人として佐々木近江入道の名が見え(73)、浅間佐々木氏はその子孫である可能性が高い。浅間佐々木家系図は、山名氏の郡代・奉行人佐々木近江入道家が、中国地方を転戦していた六角義堯に自らの系譜をつなげたものとも考えられる。
 しかし義秀の子息に義堯(義高)を記すのは、管見の限り浅間佐々木家系図のみであり、同系図は比較的正確である。同系図によれば、義堯は天正八年(一五八〇)に降伏している。同年正月十七日に別所長治が自殺し、閏三月七日には本願寺顕如が信長と和睦していることを考えれば、義堯がこの流れのなかで信長方に降りたと考えることはできる。前述のように義堯の行動は本願寺と連動したものであり(奈良県本善寺文書)、本願寺と信長の和睦を契機に義堯が停戦したとも考えられるからである。
 『宗及他会記』(天王寺屋会記)天正八年(一五八〇)二月二十二日条では、御脇指十四腰のうち国行の所持者として「佐々木殿」が見える。国行は天王寺屋津田宗達(宗及の父)から三好三人衆の一人三好政康(下野守)に渡り、さらに佐々木殿が所持するようになったという。前述のように義堯は三好氏と共同作戦をとっており、三好政康の所持物が六角氏に渡ることは十分に考えられる。また同記で〈殿〉と敬称されているのは、佐久間信盛父子と明智光秀など限られた人物であり、羽柴秀吉には〈殿〉の敬称がない。佐々木殿は織田政権で格式の高い人物であった。
 実際に『信長公記』天正十年(一五八二)正月一日条で「江雲寺御殿を見物仕候へと上意にて、拝見申候なり」とあり、信長は馬廻衆や甲賀衆に、安土城内にあった六角定頼(法号江雲寺殿光宝承亀)の菩提所江雲寺御殿を拝観させた記事がある。江雲寺御殿は、定頼の菩提寺である江雲寺を安土城内に移築したものだが、そこを拝観させたことは信長が六角氏に配慮したものとも考えられる。信長政権での佐々木殿の地位の高さを物語っていよう。江雲寺御殿というように定頼の法名をそのまま建物名にしていることからも、信長が六角氏に配慮したことが伺える。もちろん、この佐々木殿を義堯と同一人物と考える必要もない。義堯と別行動をとって織田陣営にいた人物と考えることもできる。『江源武鑑』や沙沙貴神社本によれば、織田陣営に六角氏がいたことになる。それが義郷である。

【注】
(70)養父郡八鹿町浅間佐々木孝司氏所蔵。兵庫県教育委員会『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』但馬地区抜粋、一九八五年。児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭体系』十二巻大坂・兵庫、新人物往来社、一九八一年。
(71)『お湯殿の上の日記』天文二十一年十一月二十七日条。
(72)但馬養父郡八鹿町坂本中島喜右衛門氏所蔵中島家系図。兵庫県教育委員会『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』但馬地区抜粋、一九八五年。児玉幸多・坪井清足監修『日本城郭体系』十二巻大坂・兵庫、新人物往来社、一九八一年。
(73)『山科家礼記』文明九年十月二十七日条所収の同年十月二十五日付(姓未詳)豊道奉書案の宛先に、守護使太田垣新四郎・塩谷周防守・佐々木近江入道・田公肥後守豊職・塩谷四郎次郎らの名が見える。以上詳細は、今谷明『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局、一九八六年)五二頁。

江州入替合戦

 天正十年(一五八二)六月二日に本能寺の変が起きた。一般に光秀は、近江平定に時間を浪費したために十分に体勢を整える暇もなく、同月十三日の山崎の戦いで秀吉に敗れたと考えられている。『江源武鑑』によれば、この間に江州入替合戦があったという。本能寺の変で信長が倒れると、六角氏は天下に号令する機会と見て、琵琶湖を水路にして光秀の居城坂本城を攻めたが、明智軍は陸路で六角氏の居城観音寺城と安土城を攻めた。これを江州入替合戦といい、観音寺城と安土城が落ちるを見た六角軍は戦意を喪失して散り散りに落去していったという。たしかに近江国で合戦があったことは『兼見卿記』にも見える。けっして小競り合いではなかった。光秀の近江侵攻は決して無駄な軍事行動ではなかったことが分かる。むしろ六角氏の抵抗が、細川藤孝(幽斉)・忠興父子や筒井順慶ら与力大名の光秀離反を招き、その後の山崎の戦いでの光秀の敗軍につながったと考えることもできる。このとき六角軍の指揮をとった人物が分からないが、おそらく『宗及他会記』天正八年(一五八〇)二月二十二日条に登場する佐々木殿であろう。
 その後の六角氏の動向は、津田宗及の子息宗凡によって記された『宗凡他会記』(天王寺屋会記)によって知ることができる。同記によれば、天正十八年(一五九〇)五月二十九日小田原陣中で豊臣秀吉が津田宗及を招いた茶会で、「江州六角殿、マキノシマケンハ」が侍した。この江州六角殿は、足利義昭の近臣真木島昭光(玄蕃頭)を伴っていることから、義堯かその後継者である可能性が高い。承禎の嫡子義治が豊臣政権に取り立てられるのは、『鹿苑日録』文禄元年(一五九二)九月関白豊臣秀次によって犬追物稽古のために召し出されたことによる(74)。やはり江州六角殿は、義治ではない。小早川文書で六角殿と呼ばれている義堯かその近親者であろう。
 沙沙貴神社本では、義堯に相当する人物義頼(実綱)が天正十年(一五八〇)六月に没したと伝えられている。この系譜伝承が事実であれば、義堯は前述の江州入替合戦のときに没したことになる。そうであれば小田原の陣に参加した江州六角殿は、足利義昭の養子と伝わる六角義康(沙沙貴神社本では義郷)であろう。

【注】
(74)『鹿苑日録』文禄元年九月六日条。

1995年東大前期・国語第一問「他者への眼差し」

市村弘正『小さなものの諸形態』より出典。
【問題文】
 物との結びつきを根本的に変質させ、社会との結びつきを根底的に変化させつつある私たちにとって、そこでの出来事の生成と着床のあり方は、経験におけるそれとは正反対である。正反対であるような変質であり、変化なのである。その「結びつき」が含んでいた物事のあらゆる局面は、時間とともに結晶するのではなく、反対に一つ一つその aリンカクと形状と特性とを曖昧にし消失していく。それはくっきりと刻まれ印づけられるということがない。この限りで現代の私たちを貫く「自然過程」は、見かけのどのような装いにもかかわらず、衰弱であり減退である。私たちが何を失くし何を忘れ去ったのかさえ bハンゼンとしない「忘却の忘却」は、その端的な現れにほかならない。
 ささやかでも全力を振りしぼってこの時代傾性に抵抗しようとするなら、少なくとも私たちには、喪失したものに対する鎮魂と消滅しつつあるものに対する敬意とを含むような認識が欠かせないだろう。失われて過去に深く埋もれたままの物事に、それが待ちうけているであろう新たな眼差しを注ぎ、現に消滅しつつある物事には、それが充分にかけがえのない「働き」をなしとげたのかを見届けねばならない。事物一つ一つの身の上に投じられる鎮魂的認識と物質的想像力とが、私たちには肝要なのである。そうして事物の伝記を形づくる。その物事の来し方と行く末とを貫く運動に対して注意深くなければならない。
 かつてホッブスは、その感覚の解剖学において、物事の中断された運動や消失ないし除去された対象が、そのあとに残す感覚的映像のせめぎあいについて考え、それを「衰えゆく感覚」(decaying sense)として把えた。人間が目にした事物の印象や耳にした物音の行方に注意を向けて、それが消滅したり遠ざけられたあとに、衰退しながら「なおも残る」感覚的な経験を力学的な運動として捉えようとしたのである。それを借りて言えば、私たちの経験世界は、激烈な「衰えゆく感覚」運動のなかにあるのではないか。いわば感覚は定着すべき基礎をもたず、ただちに映像化の過程に移行してしまうのではないか。感覚の対象との結びつきが弱ければ弱いほど、その衰退の過程は加速され、交替のサイクルは短縮されるだろう。物事との cコウショウが希薄であれば、ホッブスが言うように、私たちの感覚映像は、「日中の騒音における人の声」程度にしか刻印されないからである。
 「衰えゆく感覚」の与件そのものがすさまじいことは言うまでもないだろう。たとえば「人間について大地は万巻の書より多くを教える。大地が人間に抵抗するがゆえに。」(サン=テグジュペリ)という生の基礎としての大地自体がいまや決定的な変貌をとげつつある。地表を隈なく覆おうとする開発の全精力は、「抵抗」すなわち自然が帯びる「不快さ」の除去に集中しているように見える。削られ均され整えられた土地という名の物件は、種々様々の抵抗を孕んだ大地の形姿そのものを「衰えゆく」ものとするだろう。曲がりくねり凸凹があり障害物を含むからこそ大地なのだとすれば、その映像を後退させ衰弱させて、直線や平面という幾何学的図形の印象が取って代わるのである。こうして私たちの「内面」は幾何学化されていくのだ。しかも、万巻の書にまさるという「抵抗」を排除する一方で、ますます学習と教育に熱を上げている。どこで何を学ぼうというのだろうか。
 そうであるなら、私たちは、消滅して「もはやない」と「まだなお」とのそれに注目すべきではないか。私たちにとって「もはやない」は、「まだない」を対項として予想することができるのだろうか。あるいは不可欠の dケイキとしてそれと切り結ぶことがないのではないか。つまり、「もはやない」はそれとして成立しえず、したがって「まだない」を着床させることができずに、いわば繰りかえして流産してしまうのではないか。そうであるとすれば、むしろ「もはやない」を成り立たしめ、忘却の忘却からそれを救い出すためにも、私たちは「まだなお」に対してこそ注意深くなければならないだろう。ここで「まだなお」とは、ホッブスの「なおも残る」映像すなわち残像である。少なくとも「もはやない」ものの危機的事態からすれば、それは残像であるほかないだろう。私たちが身を置いているのは、そのような「残像」文化なのではないか

【設問】 
(一)「その端的な現れ」(傍線部ア)とはどのようなことか、「その」の内容を明らかにしつつ説明せよ。
(二)「鎮魂的認識と物質的想像力」(傍線部イ)とはそれぞれどのようなことか、わかりやすく説明せよ。
(三)「『抵抗』を排除する」(傍線部ウ)とはどのようなことか、「抵抗」の内容を明らかにしつつ説明せよ。
(四)「私たちは『まだなお』に対してこそ注意深くなければならない」(傍線部エ)はなぜか、その理由を「まだなお」の内容を明らかにしつつ説明せよ。
(五)「私たちが身を置いているのは、そのような『残像』文化なのではないか」(傍線部オ)とあるが、筆者は現代の文化についてどのように考えているか、分かりやすく説明せよ。
(六) a リンカク   b ハンゼン   c コウショウ   d ケイキ

解答枠は(一)~(三)が1行、(四)(五)が2行

【解答例】
(一)ものやひととのリアルな関係を失いつつある現代の傾向。
(二)消えゆくものへの眼差しとまだ見ぬものへの眼差し。
(三)私たちの理解を超えた自然を「不快」なものとして排除するとこと。
(四)「残像」としての思い込みが、今の私たちにとって真に目の前にある大切なものを見えなくさせてしまっていることに気づくべきだということ。
(五)筆者は現代文化をヴァーチャル・リアリティ的なものと捉えており、人間理性を越えた真理とは関係をもてなくなっていると考えている。
(六) a=輪郭  b=判然  c=交渉  d=契機

【解答のコツ】
(一)段落最後の文は段落のまとめの文であると同時に、次の段落への橋渡しをする文でもある。傍線部アを含む文も段落の最後の文であるので、次の段落を見てみると、「この時代の傾性」とある。これが傍線部アの言い換えだ。
(二)傍線部イを含む文は、前文の内容の言い換えであることに気づこう。接続詞なしに続く文は、言い換えの文だと思っていい。あとは自分の言葉に代えるだけだ。
(三)傍線部ウも段落の最後の文だ。傍線部ウの「抵抗」という言葉に注目すれば、これはこの段落のキーワードであり、次の段落には見えないから、この段落の内容をまとめるといい。とくに「大地」という言葉で、人間理性を超えた自然の驚異を表現している。人間はそれを邪魔なもの・不快なものとして排除しようとしているのだ。
(四)傍線部エをふくむ文は、「そうであるならば」という言葉で始まるのだから、前文の内容を受けていることは明らかだ。「まだなお」が何を意味しているのかを自分の言葉で簡潔に言い表した上で、説明すればいい。過去において真実であったものを、今でも真実だと思っている「思い込み」と考えると簡単に答えられる。
(五)傍線部オは文章全体の最後だから、文章全体をまとめるといい。ここで、傍線部オで言われている「残像」が、ヴァーチャル・リアリティティのことだと気づくと簡単だ。しかも筆者は、私たちが見ているものが物そのものではなく、物そのものの影だといっている。これは、ギリシア哲学者プラトンの「洞窟の比喩」で主張されている影の世界と同じだ。わたしたちは思い込みに縛られて、目の前の真実が見えなくなってしまっているのである。

六角義郷の研究・序

 系図では実名(諱)の真下から血筋・伝承を意味するが系線が引かれているが、沙沙貴神社所蔵佐々木系図では系線の右脇に官位や通称・幼名などが列記され、左脇に母が記されている。母親が明記されているのは、同系図が女系を重視した西日本型系図だからである。その母親の記述の後に、本人の事績が記述されている。
 同系図によれば六角義秀の嫡子義郷は、位階は従五位上・従四位下・従四位上・正四位下を経て、官職は右兵衛佐・左衛門督・左近衛中将・近江守を歴任している。また義郷の母は、織田信長の娘と伝えられている。つぎに彼の事績を見てみよう。
 義郷は、父義秀が没した当時まだ幼少だったため、北近江の戦国大名浅井長政に擁立されたと伝えられている。天正元年(一五七三)に浅井久政・長政父子が滅亡すると、羽柴秀吉に預けられ、さらに信長によって近江高島郡を与えられていた浅井氏旧臣磯野員昌に預けられたという。天正十年(一五八二)本能寺の変に始まる明智光秀の乱では、光秀の安土城攻撃以前に蒲生賢秀によって救い出されて、室町幕府最後の将軍足利義昭の養子となっていたが、天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の命令で生家六角氏に復したと伝えられている。そして義郷は、この年に近江八幡山城主となったばかりの豊臣秀次の与力大名となり、近江国愛智・野洲郡内で十二万石を領して従四位上左衛門督に補任されたという。翌十四年(一五八六)に義郷は豊臣姓を与えられるとともに、侍従に補任されたと伝えられている。
 豊臣秀吉が関白に補任されたことで、武家でも、有力大名は侍従・近衛少将・近衛中将・参議・中納言・大納言という公達型の昇進をした。このように天皇に近侍する侍従・近衛次将(近衛府の次官)を経て昇進していくことは、公家でも摂関家・精華家・大臣家・羽林(近衛府の唐名)家などの公達に限られ、勧修寺家や日野家などの名家は近衛次将ではなく事務官僚である弁官の功績によって参議以上に至った。そのため侍従・近衛次将を経て出世することはたいへん名誉であり、「公家成り」と呼ばれた。侍従に補任された義郷はその第一歩を踏み出したことになる。
 義郷は同十六年(一五八八)四月聚楽第行幸に供奉して和歌会にも出席、その直後に右近衛少将に補任され、文禄元年(一五九二)にも聚楽第行幸に供奉して正四位下中将に補任されたという。同年に始まった文禄の役に義郷も従軍したが、秀次の命令によって近江永原城主に取り立てられて帰京したと伝えられている。ところが義郷は同四年(一五九五)の秀次謀反事件で失脚し、近江大津城主京極高次に預けられたという。慶長五年(一六〇〇)関ケ原の戦いでは西軍に参陣しなかったため徳川家康から感状を与えられ、元和九年(一六二三)に没したと伝えられている。

六角義郷の母織田氏

 義郷の経歴と同じ人物が『太閤記』に登場する。左衛門侍従豊臣義康である。沙沙貴神社本では義康という本名(前名)を伝えていないが、『六角佐々木氏系図略』では義郷の本名を義康と伝えている。しかも義康の官職は左衛門督・右近衛少将と伝えられており、実名義康と官職左衛門督という事跡は、まさに左衛門侍従豊臣義康の事跡と一致する。
 また『六角佐々木氏系図略』では、義康(のち義郷)の母が織田信康の娘であったと伝えている。義康の名乗りも外祖父信康の一字を用いたものと考えられる。ただし『江源武鑑』では信康ではなく、信広の娘と伝えている。
 織田氏はもともと越前織田剱神社の神官の家柄だったが、三管領のひとり越前守護斯波氏に登用されて、斯波氏の分国のひとつ尾張国の守護代になった。
 八代将軍足利義政のとき斯波義敏と越前守護代甲斐将久(常治)が対立し、幕府は義敏を解任した。さらに甲斐将久が没すると朝倉敏景(孝景)が台頭し、義敏の子息義良を廃して渋川義廉を斯波氏家督とした。渋川氏は足利尊氏の弟直義の正妻や、二代将軍義詮の正妻源幸子の実家であり、室町期には九州探題を勤める足利一門の名門であった。幕府は、その渋川氏出身の義廉を斯波氏家督としたのである。しかし義敏・義良父子の復帰運動もあって、幕府の判断は二転三転して義敏が守護に復帰することもあった。これが応仁・文明の乱の原因の一つとなった。
 山名宗全のクーデタで守護に復職することができた義廉は、応仁・文明の乱で西軍に走り、在京の尾張守護代織田敏広(伊勢守)も義廉を支持した。ところが乱の最中、朝倉敏景は義敏と不和のまま東軍に引き抜かれ、斯波氏に代わって越前守護に補任された。斯波氏は分国のうち越前を失い、以後越前は朝倉氏の分国になった。斯波氏に残された分国は尾張・遠江であるが、遠江守護はこののち今川氏に取って替わられる。
 尾張では、在京の尾張守護代織田敏広が守護義廉に従い西軍となっていたが、実際に在地支配に当たっていた尾張守護代の又代織田敏定(大和守)は、守護代敏広に対抗して東軍の義敏・義良(義寛)を支持して急速に台頭した。しかし隣国の美濃守護代斎藤妙椿が、娘婿である敏広(伊勢守)を支援した。
 その結果、守護代の地位は大和守系織田氏に移ったが、織田氏の嫡流である伊勢守系織田氏は岩倉城に拠って尾張上四郡を領した。岩倉織田氏である。その老臣が犬上城主織田氏である。
 それに対して守護代を獲得した大和守系織田氏は、斯波氏の守護所清洲城に拠って尾張下四郡を領した。清洲織田氏である。その老臣が清洲三奉行織田弾正忠・織田筑前守・織田九郎である。信長の家系は清洲三奉行のひとり織田弾正忠家の出身であり、父信秀のときに海部郡勝幡城主として尾張・伊勢を結ぶ要所尾張西南部の津島一帯を支配して財力をつけて急速に台頭した。その財力は、京都御所修理の献金や伊勢神宮造営の奉納によって知ることができる。信秀のときに、すでに尾張統一が狙える位置にいた。

犬山之伊勢守息女

 『六角佐々木氏系図略』でいう信康に相当する人物としては、信長の叔父で犬山織田氏を継いだ織田信康(与次郎)と、伊勢守系織田氏の直系であった岩倉織田信安が考えられる。しかし続群書類従本をはじめ織田系図に、六角義郷の母に相当する女性を見つけることができない。義郷(義康)の母が織田氏であるというのは、六角氏側にのみ伝えられている。佐々木系図の系譜伝承は、やはり誤伝であろうか。
 天正十年(一五八二)に発給された三月七日付松井友閑宛織田信長黒印状写によれば、甲斐武田勝頼が滅亡したとき、岩倉織田氏と犬山織田氏(犬山銕斎)が武田氏の許にいた(1)。両織田氏は信長に対抗して、甲斐武田氏のもとにいたのである。しかも当時、甲斐武田氏と六角氏は同盟関係にあった。
 このとき甲斐に滞在していたのは、武田勝頼養女(実は武田義信娘)の婿六角次郎と若狭武田五郎、そして六角承禎の妹婿・旧美濃守護土岐頼芸であった。このうち六角次郎は、名刹恵林寺が彼を匿ったという理由で焼き打ちにされているように、信長の憎しみを一身に負っていた。前述の信長黒印状写によれば、土岐頼芸と岩倉・犬山両織田氏が助命されたにもかかわらず、六角次郎と若狭武田五郎は潜伏先で見つけ出されて切腹させられたという。
 この六角次郎は、承禎の次男中務大輔高盛と考えられる。しかし高盛は生き延びて、のちに徳川家康に仕えて江戸幕府旗本となっている。六角次郎・若狭武田五郎両人の切腹は未確認情報であったか、六角次郎と六角高盛は別人だったと考えられる。
 六角氏と若狭武田氏の組み合わせに注目すると、天正四年(一五七六)備後に下向した将軍足利義昭に同行した六角義堯(大本所)と若狭武田信景(右衛門佐)がいる。義昭・義堯・信景は、三人揃った書状案を小早川家文書に残している。六角次郎・若狭武田五郎の二人が切腹を命じられたという情報も、決していい加減なものではない。六角次郎と若狭武田五郎は、義堯と信景かもしれない。
 沙々貴神社本の系譜伝承では、義秀の弟義頼は、はじめ若狭武田氏の養子になったが六角氏に帰家して、天正十年(一五八二)本能寺の変に始まる明智光秀の乱で六月に没したと伝えられている。この系譜伝承は、六角氏と若狭武田氏の関係の深さを隠喩していよう。実際に六角定頼の娘が、若狭武田信豊に嫁いで義統(義元)・信景らを生んでいる。
 また義堯は、甲斐武田勝頼と同盟を結んで天正年間の織田信長包囲網を築いた当の本人であり、上杉謙信や毛利輝元が包囲網に加わったのも義堯の力による。天正六年(一五七八)正月義堯は淡路・阿波の兵を従えて和泉堺に上陸しているが、その後の動向は不明である。包囲網の中心人物義堯は信長をもっとも苦しめた人物である。義堯本人やその一族であれば、当然のこと信長の憎悪の的である。
 岩倉織田氏や犬山織田氏が、そのような六角氏と行動を共にしていたことは注目できる。彼らと六角氏の接点が、義郷の母と考えられるからだ。
 実は犬山織田信康の子息与康の娘に、続群書類従本の織田系図では「浅井」という注記がある。信康は信長の叔父であり、与康は信長と従兄弟の関係にある。江戸時代に成立した『以貴小伝』は、浅井長政の正妻お市の方が信長の従兄弟の娘であったという異説を伝えており、まさに信長の従兄弟である与康の娘がお市であった可能性もある(2)。もちろんお市と同一人物であると即断はできないが、織田与康の娘が浅井氏と関係があることは認めていいだろう。
 犬山織田氏が、元亀年間の信長包囲網の一角浅井氏と関係が深ければ、包囲網の盟主六角氏にもつながってくる。しかも浅井長政とお市の縁談をすすめて浅井・織田連合の成立に尽力したのは、六角氏である(3)。長政が六角氏の家臣であり/六角義郷を擁立したという沙沙貴神社本の系譜伝承は、これらの事実を踏まえたものと考えられる。
 この与康は、永禄四年(一五六一)三月日付禁制状(黒田剣光寺・籠守勝手神社・黒田白山社)を残した織田勘解由左衛門尉広良と同一人物と考えられる(4)。織田広良は、永禄五年(一五六二)美濃斎藤竜興との合戦によって軽海で戦死している。
 系図や編纂物で実名が正しく伝わらないことは多い。実際に信長の弟信行の実名は、発給文書を見るかぎり信勝(勘十郎)・達成(勘十郎、弾正忠)・信成(武蔵守)である(5)。与康も広良であった。
 実は岩倉織田氏歴代当主の通字は〈広〉である。明徳四年(一三九三)六月十七日付けの置文を越前織田剱神社に残している織田信昌・将広(兵庫助)父子以後、織田氏嫡流である伊勢守系織田氏は、淳広・久広・郷広・敏広・寛広・広高など諱字に〈広〉の字を使い続けている。そして広良も〈広〉を使用している。このように代々に共通する諱字を通字という。さらに広良の官途名「勘解由左衛門尉」は、かつて永享年間(一四二九-四〇)頃の尾張守護代織田教長の名乗りと同じである。織田氏にとっては勘解由左衛門尉という官途名には重みがある。その勘解由左衛門尉を称して、岩倉織田氏の通字〈広〉を使用した織田広良は、岩倉織田氏の養子になっていた可能性さえある。
 このように見て来ると、義郷(義康)の母が、信康の娘とも信広の娘とも伝えられていることが理解できる。『信長公記』で信安と伝えられている岩倉織田氏の実名には、実際には〈広〉の字が使用されていたと考えられるからである。織田系図で与康と伝えられる人物の実名が広良であったことは、この仮説を支持している。義郷の外祖父「信広」を、必ずしも信長の庶兄信広(三郎五郎・大隅守)と考える必要はなく、岩倉織田氏や犬山織田氏の関係者と考えればいい。『江源武鑑』で信広の娘と伝えられている義郷の母は、織田伊勢守息女であった可能性が高い。
 実は、義郷の母と考えられる女性の資料がある。信長は天正三年(一五七五)正月十一日に、美濃斎藤道三の子息利堯(玄蕃助)に美濃福光郷ならびに牛洞野村月成方を支給するとともに、その福光郷のうち五〇貫文を犬山之伊勢守息女に相渡すように命じている(6)。利堯は、天正十年(一五八二)六月の清洲会議後に織田信孝(信長三男)に仕えているが(7)、それまでの動向は不明である。この伊勢守息女は義郷(義康)の母と考えられるが、利堯は彼女の女佐の臣であった可能性もある。もともと岩倉・犬山織田氏は美濃守護代斎藤氏と連携して尾張上四郡を維持しており、美濃斎藤氏との関係は強い。信長が織田伊勢守息女を養女にして、六角氏に嫁がせたと考えられる。彼女が義郷の母であろう。

【注】
(1)(天正十年)三月七日付松井友閑宛織田信長黒印状写。奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)九七八号。
(2)『東浅井郡志』二巻、三〇六-七頁。
(3)和田惟政披露状写(福田寺文書)。滋賀県福田寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『東浅井郡志』四巻、福田寺文書一号。
(4)『木曽川町史』。『清洲町史』では、この織田広良を清洲織田達勝(大和守)の弟監物尉広孝の子息勘解由左衛門尉(『言継卿記』天文二年八月四日条)と同一人物と見なしているが、年代が合わないように思われる。
(5)新井喜久夫「織田系譜に関する覚書」(『清洲町史』四八三-五四〇頁)。
(6)天正三年正月十一日付斎藤玄蕃助宛織田信長朱印状(南陽堂楠林氏文書)。『織田信長文書の研究』下巻、四九四号。
(7)岡本良勝・斎藤利堯宛羽柴秀吉披露状写(『大日本古文書』浅野家文書一〇号)。

左衛門侍従義康による六角氏再興

 『太閤記』の「関白職并家臣之面々任官之事」で、任官した人々の最後に左衛門侍従豊臣義康が名を連ねている。沙沙貴神社本でも、義郷の豊臣賜姓と侍従任官の記事がある。この任官は天正十三年(一五八五)のことだが、沙沙貴神社本では天正十四年(一五八六)としている。実は『歴名土代』でも、天正十四年に従四位下に叙位された五辻元仲に続けて、義康ら公家成り大名がまとめて記されており、この一年のズレは十分に許容範囲である。
 また『兼見卿記』天正十三年(一五八五)十月六日条では、丹羽長重(五郎左衛門尉侍従)・細川忠興(越中守侍従)・織田信秀(三吉侍従)につづいて武衛侍従義康が記されている。『太閤記』と比較することで、左衛門侍従義康と武衛侍従義康が同一人物と分かる。沙沙貴神社本では義郷の初官を右兵衛佐としており、その兵衛の官の唐名が武衛であることを考慮すれば、『兼見卿記』の武衛侍従義康は義郷と同一人物である。義郷は右兵衛佐・左衛門督を歴任しており、まさに武衛侍従であると同時に左衛門侍従であった豊臣義康と同一人物である。
 室町期には三管領のひとり斯波氏が、兵衛佐を世襲官途として「武衛」と称されていた。六角義郷(義康)の存在を知らなければ、旧尾張守護斯波氏の出身である津川義近を武衛侍従義康と同一人物と見るだろう。しかし義近は天正十三年(一五八五)正月十日の津田宗及の茶会に出席したとき、「ふゑい三松様」と入道名で呼ばれている(『天王寺屋会記』宗及他会記)。すでに出家していた義近(三松)を、義康と同一人物と考えることは難しい。
 左衛門侍従義康は、『当代記』によれば前年/天正十五年(一五八七)の九州征伐の記事で四百人の軍勢を動員している。自らの軍事力を有する大名であった。六角義郷の系譜伝承と一致する。ただし義康と義郷が同一人物であれば、石高については沙沙貴神社本の記述に錯誤がある。四百人という動員兵力は、当時一万石を領していた池田長吉(備中守)と同人数であり、義康も一万石の大名と考えられる。沙々貴神社本で十二万石と伝えるのは、義郷が大名に取り立てられた天正十三年(一五八五)に近江八幡山城主となった豊臣秀次の石高を、誤って義郷の記事に混入したものと考えられる。
 錯誤の存在を指摘するだけではなく、このように錯誤の根源を探究することで、錯誤の中に含まれている史実を探し出せる。わたしたちは新しいことを学ぶとき、初めは従来の規則を当てはめる。そして失敗することで、他にも規則があることを学ぶ。そのため、人がどのような誤りをしたかを見れば、その人がもともと無意識のうちに有していた規則を知ることができる。これが、錯誤を学的探究に用いる方法である。系図作者が義郷の石高と秀次の石高を誤ったことで、義郷の大名取り立てが天正十三年(一五八五)であったという系譜伝承が先にあり、そこから同年に近江八幡山城主になった秀次の十二万石という石高を混入させたことが分かる。ここからさらに、義郷が近江八幡山城主になったことがあるのではないかと、仮説を立てることもできる。

聚楽第行幸

 天正十六年(一五八八)四月には後陽成天皇が豊臣秀吉の聚楽第に行幸したが、『聚楽亭行幸記』に公家成り大名のひとりとして左衛門侍従義康が記されている。

  加賀少将利家朝臣 穴津侍従信兼朝臣 丹波少将秀勝朝臣
  三河少将秀康朝臣 三郎侍従秀信朝臣 金吾侍従 
  御虎侍従      左衛門侍従義康朝臣 東郷侍従秀一朝臣 
  北庄侍従秀政朝臣 松島侍従氏郷朝臣 丹後侍従忠興朝臣
  三吉侍従信秀朝臣 河内侍従秀頼朝臣 源五侍従長益朝臣
  越中侍従利長朝臣 敦賀侍従頼隆朝臣 松任侍従長重朝臣 
  岐阜侍従照政朝臣 曽根侍従貞道朝臣 豊後侍従義統朝臣
  伊賀侍従定次朝臣 金山侍従忠政朝臣 井伊侍従直政朝臣
  京極侍従高次朝臣 立野侍従勝俊朝臣 土佐侍従元親朝臣

 義康の席次は、前田利家・織田信包(信長弟)・豊臣秀勝(秀吉養子、秀吉甥)・豊臣秀康(秀吉養子、徳川家康次男)・織田秀信(信長嫡孫)・豊臣秀俊(秀吉養子、木下家定五男)・御虎侍従に次いでおり、豊臣政権下で高い地位にある。左衛門侍従義康は天正十三年(一五八五)の侍従任官のときには、丹羽長重・細川忠興・織田信秀よりも下位であった。聚楽第行幸までの間に、左衛門侍従義康の序列が飛躍的に上昇している。
 また実名の下に氏姓制度の姓〈朝臣〉が記されている者は四位以上であり、〈朝臣〉が記されていない金吾侍従・御虎侍従は五位である。すでに参議・三位以上に補任されていた織田信雄(内大臣、信長次男)や徳川家康(駿河大納言)・豊臣秀長(大和中納言、秀吉弟)・豊臣秀次(近江中納言、秀吉甥)・宇喜多秀家(備前宰相、秀吉養子)は、扈従の公卿に列している。ここで昇殿を許されている朝臣は四位であり、その中にいる義康朝臣はもちろん四位の殿上人である。
 行幸での歌会でも義康は和歌を詠じており、そこでは左衛門督と注記されている。沙沙貴神社本で、義郷が従四位上左衛門督兼侍従とすることと一致する。実名が異なって伝えられているのに、官位が一致していることは注目できる。
 義郷の官職は、沙々貴神社本では右兵衛佐・左衛門督・侍従・右近衛少将・左近衛中将・近江守と伝え、『江源武鑑』では右兵衛督兼左衛門佐と伝えている。佐(次官)/督(長官)が逆になっているものの、どちらも義郷が右兵衛(唐名武衛)であり、左衛門(唐名金吾)であったと伝えている。これは義康が武衛侍従とも左衛門侍従とも称されたことと一致する。沙々貴神社本と『江源武鑑』の根本資料が、義郷のことを武衛侍従や左衛門侍従と伝えていたことが分かる。
 このように六角義郷の系譜伝承は、左衛門侍従義康の事跡にまさに一致する。しかも沙沙貴神社本と『江源武鑑』は義康という本名を伝えていない。それにもかかわらず左衛門侍従義康の事跡を正確に伝えている。このことは系譜伝承の情報源が『太閤記』ではなく、独自の資料だったことを物語っている。同名であれば、『太閤記』を情報源にして同名異人の事跡を混入したと意地悪く考えることもできる。しかし沙沙貴神社本も『江源武鑑』も始めから終わりまで義郷で通している。義康という名前はまったく出てこない。同名異人の事跡を混入したわけではない。名前が異なっていることで、かえって両者が同一人物であったことが確認できる。そして義郷の実在が分かる。
 沙々貴神社本と『江源武鑑』が、義康ではなく「義郷」としたのは、義秀没後の元亀三年(一五七二)に比叡山を再興した左兵衛佐氏郷(8)と混同したためと考えられる。沙沙貴神社本も『江源武鑑』も、義郷が慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いの恩賞として給付された所領を、比叡山再興のために資したという伝承を伝えていることからも、義康と氏郷を混同していたことは確実である。しかも義康も氏郷も官職が兵衛佐であり、両者が混同される要素はある。
 このことを確認した上で、『江源武鑑』よりも後世の元禄以後に書かれた『六角佐々木氏系図略』を見ると、義郷の本名が義康であったことが伝えられ、官職も左衛門督であったことが伝えられている。系図伝承の義郷と豊臣義康は、やはり同一人物だろう。
 義康という実名を伝えなかったことを除けば、沙々貴神社本の情報は歴史的事実に合致している。佐々木氏/六角氏の氏神沙々貴神社に伝わる系図に相応しい系図といえよう。
 この行幸で公家成り大名たちは、①この聚楽第行幸で昇殿を許されたことを有り難く思うこと、②朝廷に疎意のないこと、③関白豊臣秀吉に違背のないことを誓約した起請文に署名している。その起請文の宛所は、秀吉の養子であった金吾侍従豊臣秀俊である。当時は、秀俊(のちの小早川秀秋)が秀吉の後継者と目されていたからである。実はこの連署人の中に御虎侍従の名がない。御虎侍従については幼名で呼ばれており若年だったと考えられる。『太閤記』では左衛門侍従義康の名も見えないが、『聚楽第行幸記』では連署人の一人に見える。
 ところで群書類従本『聚楽第行幸記』では御虎侍従に「義康」と注記されている。この注書に注目すれば、御虎侍従の実名が義康か/御虎侍従は義康の近親者のどちらかと考えられる。御虎侍従の実名が義康ならば、ふたりの豊臣義康がいたことになる。その可能性についても考えていく必要があるかもしれない。

【注】
(8)内閣文庫蔵『朽木家古文書』二三三号(氏郷書状)・六二八号(氏郷書状)・六二九号(蓮乗坊快秀書状)。

武衛義康

 『天正記』では、聚楽第に供奉した公家成り大名の一人に武衛義康がいる。『聚楽第行幸記』や『太閤記』と比較することで、武衛義康が左衛門侍従義康と同一人物であることが確認できる。沙々貴神社本にあるように六角義郷の前官は右兵衛佐であり、武衛と呼ばれるに相応しい。
 六角氏では、元亀年間に比叡山再興に尽力した氏郷が左兵衛佐であったほか、義郷の高祖父六角高頼が右兵衛入道と称されていた(続群書類従本『御内書案』)。そのため十一代将軍足利義澄妻である高頼の娘は、武衛娘と呼ばれている。戦国期の公家権中納言鷲尾隆康の日記『二水記』で、阿波公方足利義親(義維)は「法住院殿御息武衛腹、江州武家御舎弟也」と記している。故前将軍義澄(法住院殿)の子息で、母は武衛娘であり、近江逃亡中の将軍義晴の弟に当たるという意味である。実は前将軍義澄の妹は、高頼の嫡子氏綱の妻である。武衛娘と結婚していた前将軍義澄と六角氏は重縁で結ばれていた。このように戦国期には六角氏が武衛と称されていた可能性が高い。さらに遡って南北朝期にも六角氏頼(近江守護)の子息義信(足利義詮養子、丹波・丹後守護)が右兵衛佐となっている。室町期でも、満綱(大膳大夫・弾正少弼)や持綱(兵部大輔)も元服直後は四郎右兵衛尉を通称としていた。
 上杉本洛中洛外図に武衛邸があるが、この屏風が描かれたと考えられる天文十六年(一五四七)頃(9)には斯波氏はすでに没落している。将軍邸(公方様)に六角氏の定紋四目結のある幕が張られており、さらに天文十五年(一五四六)将軍足利義輝(当時は義藤)の元服式では六角定頼(弾正少弼)が管領代を勤めていることに注目すれば、当時武衛邸に入っていたのは管領六角氏であろう。この洛中洛外図を上杉輝虎(謙信)に贈ったのも、上杉氏と交流があった六角氏と考えられる。永禄年間(一五五八-一五六九)に六角氏被官河田長親(豊前守)が上杉氏執政になっていたことでも交流の様子が分かる。
 義郷の官職は、武衛侍従とも/左衛門侍従とも呼ばれている豊臣義康の事跡と一致する。義郷は実在しないという先入観を捨てれば、六角義郷(初名義康)と武衛侍従義康/左衛門侍従義康はまちがいなく同一人物である。

【注】
(9)今谷明『京都・一五四七年』平凡社、一九八八年。

豊臣義康と津川義近

 天正十八年(一五九〇)の小田原の陣には六角氏も参陣し、近江六角殿が秀吉陣中の茶会に出席している(『天王寺屋会記』宗凡他会記)。このとき六角殿に足利義昭側近の真木島昭光(玄蕃頭)が供奉していることから、この六角殿は足利義昭の備後下向に随行した義堯(六角殿)本人か/足利義昭の養子と伝わる義郷(義康)と考えられる。
 この小田原の陣では、義郷(義康)と同じく武衛と呼ばれうる津川義近(三松)が、東国大名との外交に奔走して伊達文書に多くの書状を残している。まず(天文十六年)九月八日付伊達政宗宛津川義近書状(10)で、津川義近は自ら「義近」と署名している。また天正十八年(一五九〇)の小田原の陣に係わる文書でも、「義近」(11)「三松」(12)と記している。義康と同一人物と見ることは難しい。しかも義近は天正十三年(一五八五)正月十日の津田宗及の茶会ですでに「ふゑい三松様」と入道名で呼ばれている(『天王寺屋会記』宗及他会記)。このあいだ「義康」と名乗り続けている左衛門侍従義康とは、明らかに別人であろう。
 義近と弟蜂屋謙入(大膳大夫)は小田原の陣の外交面で活躍したことで、自らの力を過信し、後北条氏政・氏直父子の助命を秀吉に嘆願した。この嘆願で、二人は秀吉の勘気を被って隠遁してしまった。
 しかし左衛門侍従義康はその後も活躍し続ける。文禄の役での秀吉自身の出陣に関する『鹿宛日録』文禄元年(一五九二)三月二十六日条で、「第一金吾殿、先駆山伏之体也、人々个々吹貝也。第二商山公、騎馬数人。第三黄 衆廿人。第四浅井少弼・武衛・医者衆・堺衆・近侍衆也。第五太閤公」と記されている。ここで「金吾殿」に注目しよう。『聚楽亭行幸記』で「金吾侍従」と呼ばれた豊臣秀俊(当時は丹波中納言)は、その翌年/文禄二年(一五九三)に宮部継潤とともに名護屋に着陣しているので、この金吾殿とは明らかに別人である。金吾は衛門の官の唐名であることから、この金吾殿は左衛門侍従義康と考えられる。
 ここで金吾殿と武衛が区別されていることも注目できよう。殿と敬称されている金吾殿は大名であり、武衛は大名ではない。また武衛が独自の軍勢を有していた様子もない。自らの軍勢を有していた左衛門侍従義康とは明らかに別人である。秀吉の出陣に同行していることを考えると、津川義近(三松)はこのときまでに赦免されていたのだろう。室町幕府と関係の深かった鹿苑院主が、斯波氏の子孫義近を武衛と呼んだことは十分に理解できる。そしてその『鹿苑日録』記主は、左衛門侍従義康と義近を明らかに区別している。
 しかし津川義近の名誉回復は、こののちも果たされなかった。文禄二年閏九月に弟蜂屋謙入が没したときも跡目は立てられなかった。同じく閏九月十七日に弟毛利秀頼(河内侍従)が没しても、遺領信濃飯田一〇万石のうち実子秀政(河内守)が継いだのは一万石のみで、九万石は秀頼の娘婿京極高知(修理大夫)が継いだ(13)。秀吉の愛妾京極殿(松の丸殿)の実弟高知に遺領のほとんどが渡されたことは、義近が嫌われていたことをよく示している。
 文禄三年(一五九四)六月二十八日秀吉の異形の姿での遊興で、義近(三松)は御咄衆に列している。勘当は解けていたが、もはや実力はなかった。この記事では、義近(三松)のことを「或曰、三松は尾州武衛家より、津川玄蕃允の舎兄にておわせしなり」と説明している。津川玄蕃允は織田信雄(信長次男)の家老で伊勢松島城主であったが、天正十二年(一五八四)三月秀吉に通じたとして、同じく家老であった岡田長門守・浅井田宮丸らとともに信雄に謀殺されている。こうして秀吉と絶った信雄は徳川家康と盟約を結び、翌四月の小牧・長久手の戦いに突入した。義近はその玄蕃允の舎兄と説明されている。『太閤記』は、左衛門侍従義康と義近を別人としている。左衛門侍従義康は、『駒井日記』文禄三年(一五九四)二月二十日条に見えるように、当時秀次の与力大名左衛門督殿として活動している。
 このように武衛をすべて斯波氏と考える必要はない。概念がいちどうまく対象に当てはまると、別のものにも同じ概念を当ててしまう。人間は新しいものに出会っても、まず既存の概念を当てはめる。本来は異なるものにまで、適用範囲を越えて使用する。同一律の恐さがここにある。
 武衛はあるときは六角義郷(左衛門侍従義康)であり、またあるときは津川義近であった。すべての武衛を津川義近と考える必要はない。文脈の中で考えるべきである。

【注】
(10)『大日本古文書』伊達家文書三八五号。
(11)(天文十七年)正月二十日付伊達政宗宛津川義近書状(『大日本古文書』伊達家文書四〇四号)。
(12)(天文十七年)正月二十日付伊達政宗宛津川三松書状(『大日本古文書』伊達家文書四五九号)。
(13)『駒井日記』文禄二年閏九月二十三日条。

豊臣秀次と左衛門督殿

 金吾殿は名護屋から帰京すると、秀次の与力大名になったと考えられ、『駒井日記』文禄三年(一五九四)二月二十日条に左衛門督殿が見える。このとき左衛門督殿は、豊臣秀吉・秀次の吉野花見で御供衆が帯びる金太刀・金脇差のうち城預り分を、秀次から渡されている。
 ところで沙々貴神社本によれば、義郷は文禄元年(一五九二)に秀次の命令によって近江永原山城主に取り立てられ、高麗征伐の陣から帰京したという。左衛門督殿(金吾殿)が実際どこの城主であったかは確認できないが、彼の動向と沙々貴神社本の記事はやはり一致する。秀次の城預り分の金太刀・金脇差を受け取っていることから、秀次が去った後の近江八幡山城主となっていた可能性が高い。
 文禄の役(一五九二-九六)では金吾殿が秀吉の出陣で第一陣を勤めているが、名護屋御留守在陣衆には金吾殿ではなく、江州八幡侍従・左京大夫父子がいる(『太閤記』秀吉公就御母堂御異例御上之事)。同じ時期、同じく佐々木一族で豊臣閨閥に属していた京極高次が、八幡山京極侍従と称されている(『太閤記』朝鮮国御進発之人数帳)。しかし高次は文禄二年(一五九三)には「大津殿」と呼ばれており(14)、ほどなく大津城主になったことが分かる。
 また江州八幡侍従の子息左京大夫に注目しても、同時期に左京大夫と呼ばれた浅野幸長は朝鮮国都表出勢之衆として渡海しており、名護屋御留守在陣衆の左京大夫とは明らかに別人である。実は京都府宇治市の一休寺所蔵佐々木六角氏位牌の中に、左京大夫の位牌がある。慶長六年十一月二十九日に没した泰雲院殿前左京兆順翁宗曲居士の位牌である。一休寺は、「一休さん」と親しまれている一休宗純ゆかりの禅寺である。ここには戦国期の六角定頼・義賢(承禎)・義治(玄雄)三代を始め、江戸中期までの六角一族の位牌が伝えられている。そのなかに前左京大夫(唐名左京兆)であった泰雲院殿の位牌がある。江州八幡侍従の子息左京大夫と同一人物と考えられる。
 名護屋に在陣した江州八幡侍従・左京大夫父子は、秀次の城預り分の金太刀・金脇差を受け取った左衛門督殿と同一人物と考えられる。天正十九年(一五九一)豊臣秀次が関白に就任して聚楽第に入った後に、近江八幡山城主になったのだろう。そのことで左衛門侍従ではなく、江州八幡侍従と呼ばれるようになったと考えられる。
 秀次が八幡山城主になった当初は十二万石であった。沙々貴神社本で義郷を十二万石の大名と伝えるのは、実際に十二万石であったかどうかは別にして、彼が秀次後の近江八幡山城主であったことを隠喩していると考えられる。このように秀次の近江八幡山城主就任と同年に大名に取り立てられ、秀次後に近江八幡山城主になったのであれば、義郷が秀次と同様十二万石であったと誤り伝えることは十分にあり得る。
 ところで沙々貴神社本によれば、六角義郷の弟に八幡山秀綱がいる。八幡山と伝えられていることから江州八幡侍従と関係があると考えられる。同系図では秀綱は豊臣秀次や織田秀信の養子であったという。秀次の養子であったという系譜伝承は、秀綱が八幡山城主の後継者であったことを隠喩していると考えられる。そうであれば秀綱は江州八幡侍従の子息左京大夫と同一人物であろう。しかし、そうであれば秀次の養子ではなく、義郷(義康)の養子ということになる。当時実子のいなかった兄義郷の養子になったと考えられる。
 また沙沙貴神社本では、秀綱が三郎と称されていたという系譜伝承を伝えている。これと関連して、『駒井日記』文禄二年閏九月二十八日条の「一 山田又右衛門知行半分被召上候、是ハ名護やにて大和中納言様銀子宰相殿被預置候を、私ニ而取与、三郎殿江進之候事、御折檻之由」という記事に注目できる。名護屋の陣で宰相殿に預けられていた豊臣秀保(大和中納言)の銀を、山田吉成(又右衛門)が勝手に三郎殿に進上してしまったという。この記事の宰相殿が誰かも興味があるが、三郎殿も殿と敬称されており格式の高い大名である。聚楽第行幸のときに三郎侍従と呼ばれていた織田秀信(信長嫡孫)は、すでに文禄二年当時「岐阜中納言」と呼ばれている(15)。秀綱が秀信の養子と伝わることは、実際に養子であったかどうかは別にして、秀信後に同じく三郎殿と呼ばれたことを隠喩していると考えられる。この三郎殿は、江州八幡侍従(義郷)とともに名護屋に在陣した左京大夫(秀綱)だろう。

【注】
(14)『駒井日記』文禄二年閏九月二十八日条。
(15)『駒井日記』文禄二年十月五日条ほか。

佐々貴少将宛徳川家康書状

 文禄四年(一五九五)関白豊臣秀次の謀反事件直後の諸大名血判状(木下文書) に、左衛門侍従義康の署名血判がない。同連判状に署名血判している安房侍従義康は、小田原の陣以後に豊臣氏に臣従した安房の大名里見義康のことである。もちろん江州八幡侍従・左京大夫父子も見られない。沙々貴神社本や『江源武鑑』によれば、六角義郷(義康)は秀次に連座して没落したと記されている。この連判状は秀次謀反事件に関わるものであり、秀次に連座して失脚していれば、署名・血判がないのは当然である。ここでも六角義郷(義康)と左衛門侍従義康の事跡は一致するが、津川義近(三松)にはここで名が見えなくなる理由がない。やはり六角義郷(義康)が左衛門侍従義康であろう。
 慶長五年(一六〇〇)関が原の戦いでは、義康は石田三成の誘いを断り西軍に属さなかったことを家康から賞されたという(16)。しかし義康は戦功がないとして取立てを丁重に断り、その領地を比叡山の再興に資してほしいと願い出たという(『江源武鑑』『関原軍記大成』『難波戦記』『石田軍記』など)。義康が比叡山を再興に資したのであれば、元亀三年(一五七二)に比叡山を蒲生郡中荘山に再興した六角義郷(『朽木文書』では氏郷)の事績と混同される素地がある。『江源武鑑』や沙沙貴神社本が、義康の実名を「義郷」とするのは、このためだろう。

【注】
(16)『佐々木京極氏古文書』九月廿八日付佐々貴少将宛徳川家康書状。

江家中将

 その後の義康の行動を知る手がかりが、『鹿苑日録』に記されている。『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)正月二十九日条に登場する「カウケ中将殿」が、義康の後身と考えられる。
 この「カウケ中将殿」の「カウケ」は、近江家(あるいは江州家)を意味する江家と考えられる。(元亀元年)六月十九日付近江修理大夫宛織田信長書状写(17)でも、六角氏を指して「江家」という表現がされているように、六角氏が「江家」と呼ばれることがあった。また沙々貴神社本佐々木系図で、義康(同系図では義郷)の官職の一つに近衛中将を挙げている。カウケ中将は義康と考えられる。
 この『鹿苑日録』の記事は、中将や鹿苑院主らが豊臣秀頼に歳首を賀したというものだが、このとき中将は六角承禎の次男高盛(高定、佐々木中務殿)と初対面だった。そのため中将から声をかけて、中将と高盛は今後の入魂を誓い杯を酌み交わしている。実は、この記事はまさに高盛が『鹿苑日録』に初めて登場した記事である。以後高盛の記事が頻出する。
 また『鹿苑日録』慶長十一年(一六〇六)四月二十六日条に中豊後守と河毛中将が鹿苑院を訪れている記事がある。河毛氏は北近江守護京極氏旧臣であり、秀吉の馬廻衆にも河毛次郎左衛門尉や河毛源三郎・河毛勝次郎がいる(『太閤記』名護屋御留守在陣衆)。そして慶長年間には六角氏の周辺に河毛氏が現われる。『鹿苑日録』慶長十二年(一六〇七)十月および十一月の条に佐々木高盛の周辺に河毛左京が登場する。彼は前述の一休寺所蔵六角氏位牌にある一人、寛永二十年(一六四三)二月二十二日に没した香徳院殿前左京兆葦林栄大禅定門と同一人物と考えられる。また『鹿苑日録』慶長十七年(一六一二)十二月四日条に六角義治の養子定治(佐々木兵庫)の従臣として河毛が登場する。ただし河毛中将は近衛中将(従四位下相当)という公家成りの官職を帯びており、六角氏従臣ではない。一族であろう。しかも官職は高盛の中務大輔(正五位上相当)や定治の兵庫頭(従五位上相当)よりも高い。中将が六角氏家督であることは間違いない。高盛と対面した前述のカウケ中将と同一人物と考えられる。また中豊後守は、比叡山を再興した中左兵衛佐氏郷の子孫だろうか。
 さらに『鹿苑日録』慶長十二年(一六〇七)十月七日条には前述の中豊後守とともに近江守が登場する。沙々貴神社本によれば、義康(同系図では義郷)は近衛中将補任後に近江守を受領している。そうであれば前述のカウケ中将と近江守は同一人物と考えられる。

【注】
(17)『士林証文』三。『織田信長文書の研究』二三八号。

『江源武鑑』刊行

 沙沙貴神社所蔵佐々木氏系図や明暦二年(一六五六)版『江源武鑑』、さらに『六角佐々木氏系図略』によれば義康(伝承では義郷)が没したのは元和九年(一六二三)である。そして『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)である。このとき義康はまだ生存していた。信長の弟織田有楽斎(長益)もこの年に没しており、関係者の多くはまだ生存していた。六角承禎の次男佐々木高盛(高定)が没したのも、まだ前年の元和六年(一六二〇)である。まったくの虚偽が書けるような時期ではない。しかも『江源武鑑』はその後も版を重ねており、当時大きな批判が出なかったことも注目できる。『江源武鑑』をまったくの偽書として排除するのは難しい。
 『江源武鑑』に対する批判は、関係者がまったく生存していない江戸時代中頃に和算学者建部賢明によって始められている。たしかに江戸時代の学問は儒学の伝統の中で実証主義を重んじた。しかし実証主義はその基本的な考え方は正しいが、確実性に急ぐあまり、自分の意図に反する不確実なものを虚偽として排除しがちである。しかし確実な資料も読み方によって解釈は変わる。そのことは、武衛義康や左衛門侍従義康が一通りに解釈できなかったことでも分かる。それとは反対に、口頭伝承や系譜伝承であっても、隠喩に隠されている事実を丁寧に読み解けば資料になる。そのような曖昧なものに含まれている事実を排除した歴史像が実像ではなく、小さく歪曲された虚像にすぎないのは当然だろう。
 『江源武鑑』は一次資料ではなく物語だが、成立時期を考慮すれば史実と無関係なものと見なすことはできない。たしかに記述は曖昧なものだが、資料と付き合わせて慎重に扱えば多くの史実を比喩的な記述の中から引き出すことができる。『江源武鑑』で義郷と記されている人物は、武衛義康であり、左衛門侍従義康である。

沢田源内と六角氏郷

 谷春散人「沢田源内偽撰書由来」(1)では、沢田源内の偽作と考えられる編纂物(史書)や系図を列挙して、従来の口碑や村記にはこれらの作為を真に受けたものが多いと主張した。また『近江蒲生郡志』も、建部賢明の『大系図評判遮中抄』を信用して、義実-義秀-義郷は沢田源内によって作り上げられた架空の人物とした。
 賢明は兄賢之・弟賢弘(一六六四-一七三九)らとともに関孝和の門人であった和算の学者であり、八代将軍徳川吉宗に仕えた人物である。その賢明が著した『大系図評判遮中抄』によれば、偽系図作者沢田源内が自ら六角氏の直系の子孫氏郷と名乗るために、義実-義秀-義郷を創作したという。そして、賢明はこれら三代の記述のある資料を信頼のおけないものだと断じた。その影響は大きく、六角氏を中心に記述された古記録や伝記の多くも沢田源内によって創作された偽書と見なされ、今日に至っている。
 しかし沢田源内と同時代人である讃岐丸亀藩士のメモ書きである『京極氏家臣某覚書抜萃』(2)によれば、丸亀藩主京極高豊と六角氏郷(一六二一-九三)は親交厚く、高豊は男子を六角氏郷の家督としていた。また京都・天竜寺所蔵『夢窓疎石俗譜』(3)の奥書は相国寺百代住持汝舟妙恕によって書かれたものだが、その奥書には六角氏郷と相国寺僧の交流の中で同系譜が書かれたことが記されている。当時の記録によるかぎり、氏郷は偽系図作者どころか、丸亀藩主京極高豊や相国寺住持愚渓等厚・汝舟妙恕らと交流があった。

【注】
(1)『歴史地理』第八巻、一九〇六年(前編は一号五〇-五四頁、後編は二号一四四-一五一頁)。
(2)丸亀藩主京極家所蔵。東京大学史料編纂所謄写本『六角佐々木氏系図略』所収。
(3)東京大学史料編纂所謄写本。

天竜寺所蔵『夢窓国師俗譜』

 『夢窓国師俗譜』は、六角氏郷によって書かれたものであるが、その奥書は相国寺百代住持汝舟妙恕によって書かれているので、ここに紹介しよう。
 寛文三年(一六六三)九月晦日に「佐々貴管領氏郷朝臣」がたまたま相国寺を訪れ、愚渓等厚禅師(同寺九九代住持)と対談した。そのとき禅師が、当山の開山である夢窓国師は、公(氏郷)の先祖宇多天皇の九代の後胤であり、国師の父が長谷観音に祈り生まれたことを話した。それに対して、氏郷は次のように答えている。わが家の九代は、ちょうど保元・平治の乱の頃(一一五六-六〇)に当たる。しかし足利尊氏の帰依を受けた夢窓国師は建治二年(一二七六)十一月朔日に生まれて、観応二年(一三五一)九月晦日に化している。わが家の中興の祖で、夢窓国師とほぼ同世代の六角氏頼(一三二六-一三七〇)は宇多天皇十八代の嫡孫であり、建治年間は保元・平治年間とはおよそ二百年の開きがある。これらのことから、夢窓国師を宇多天皇九代の後胤とするのは誤りであると述べている。しかし禅師は、このことを記しているのは後小松天皇の宸翰であり、誤りであるはずがないと反論している。氏郷はさらに答えて、宸翰であろうと誤りはあるものだと述べている。禅師はなおも納得しなかったが、諸老はこれを聞き、氏郷の言っている事が尤もであるとし、年代を改めるべきであろうとした。禅師もそれら諸言を聞いてやっと納得することができ、氏郷に謝礼を述べている。その日の夜、氏郷が寝ていると夢に紫衣老僧が忽然と現われ、降誕の年代の誤りを正してくれた事に礼を述べたという。目を覚ますとすでに夜は白んでいた。氏郷はその旨を愚渓禅師に話すと、その日はまさに夢窓国師の忌辰であり、深く感嘆したという。妙恕も感慨に堪えがたく禿毫を染めた。最後に「万年山相国寺光源院主妙恕志之」とある。このことで氏郷が相国寺の住持らと交遊があったことが分かる。
 実は夢窓疎石は鎌倉御家人佐々木朝綱(左衛門尉)の嫡子で、母は北条政村の娘であり、佐々木氏惣領の六角氏頼とは再従兄弟に当たる。たしかに氏郷が正しい。
 天皇の真筆宸翰であろうと誤りはあるものだと主張している氏郷の態度は、まさに歴史学者に相応しいものである。権威があるから正しいという意見は、実証を重んじる歴史学者にはあってはならない。どのような学説も仮説と見なし、過去の痕跡である資料に照らして歴史像を再構築していくのが歴史研究の意味である。
 また同系譜の奥書で氏郷を「佐々貴管領氏郷朝臣」と呼んでいるが、実名の下に氏姓制度の姓「朝臣」を記すのは四位の者に対する敬称であり、氏郷が四位であったろうことが推測できる。滋賀県・沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、氏郷は院昇殿を許されており、その官位も従四位下中務大輔・左衛門督であったという。この記述が正しければ氏郷は院参の殿上人であった可能性がある。たしかに『夢窓疎石俗譜』奥書と一致する。すくなくとも相国寺住持はそのように認識していたということである。

六角氏郷と庭田重条

 佐々木氏と同じく宇多源氏雅信流の公家庭田重条(右中将雅純次男)が、万治三年(一六六〇)に六角氏を称して従五位下大膳権大夫に叙任され(十一歳)、伏見宮家殿上人になっている。ところが、重条の兄で庭田家を継いでいた侍従雅秀は病気がちであった。重条は寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家し、その二年後の寛文七年(一六六七)に兄雅秀が二十歳で没した。庭田家を継いだ重条は、のちに従一位権大納言に至り、武家伝奏も勤めた。
 実は庭田家からは葛岡・大原・見雲(三雲)、勧修寺流藤原氏の万里小路家からは高島など佐々木一流の家名が江戸初期に復興されている。六角家もそのひとつと考えられる。重条が始め六角氏を称したのは、氏郷の名跡を継承してのことだろう。
 『夢窓国師俗譜』の奥書で、氏郷は「佐々貴管領氏郷朝臣」と呼ばれていることから、四位であったろうことが推測できる。しかも滋賀県・沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、氏郷は院昇殿を許され、従四位下中務大輔・左衛門督であったと伝えられている。氏郷が相国寺を訪れたのは、寛文三年(一六六三)九月晦日であり、まさに重条が六角氏を称していた時期である。
 しかし重条が寛文五年(一六六五)に庭田家に帰家したため、氏郷には後継者がいなくなった。ここから『京極氏家臣某覚書抜萃』の内容が始まる。

『京極氏家臣某覚書抜萃』

 『京極氏家臣某覚書抜萃』には、後継者のいない氏郷の消息が伝えられるとともに、讃岐丸亀藩主京極高豊の子息が氏郷の養子になったことが記されている。
 天和年間(一六八一-八四)、京都に佐々木六角氏の末孫である六角中務少輔という人物がいたが、浪人にもかかわらず、白小袖の下着を着用していた。そのため、それを不審に思った京都所司代稲葉正則(丹後守)は二人の与力と申し談じて中務少輔宅に赴き、貴殿にては何の官位昇進があって白小袖の下着を着用しているのかと、対面の上尋ねたところ、中務は少しも驚かず返答した。われらの「先祖佐々木氏は往古より永付任御免許に付、御男子誕生七夜の内より五位の諸大夫になり、初官といへは四品に任」じるため、私も家伝定式のとおりにしているだけであると述べた。丹後守はなおも不審に思ったが、中務が永補任の書付けを持参して申し直し、それを見せて委細を述べたため、その後は何の沙汰もなかった。
 この事件に関して、同書には稲葉正則宛の京極高豊書状の写しが掲載されている。その書状の内容は、稲葉の質問に対して高豊が答えるという形のものであり、稲葉が六角中務少輔を取り調べた際に、その裏付けを取るために高豊に質問状を送ったものと見られる。同書状の中で、高豊は「中務儀、私も可存と御書中に被仰に候得共、江州浪人に六角兵部と申者有之候とは前方家来共風説及承候」と述べていることから、この書状が書かれた時点で、高豊が六角兵部という人物を知っていたことが分かる。ただし中務少輔については知らなかったようである。六角兵部というのは、中務少輔の前名であろう。
 また同書によれば、天和年間(一六八一-八四)末から貞享年間(一六八四-八八)初めにかけての頃、六角兵部殿といふ御方が京都に住んでいたが、その家臣阿閉内蔵丞が、丸亀藩の役人に出会い物語を致すべき旨を兵部殿から仰せ付けられて、丸亀を訪れたという記事が見え、「内蔵丞着船後申述候ニ付、大目付伴孫次兵衛被出条々云」とある。この六角兵部は、もともと高豊が聞き知っていた人物である。京極家側では、六角氏郷のことを「六角兵部」と認識していたようだ。
 このとき阿閉内蔵丞が伝えた内容は、「兵部次第に年寄候得共、相続の子も無御座候ニ付、佐々木六角に相続可申置家宝七品有之、他家へ相渡へき物に曽て無之、御当家へ御渡し申度」というものであった。兵部には相続すべき後継者がいないため、六角家に伝わる家宝七品を京極家に譲渡したいというのである。すでに筑前福岡藩(藩主黒田氏)や石見津和野藩(藩主亀井氏)のもとに七品持参の上で申し述べたが心得ず、京極・黒田・亀井の「三家の外佐々木の別れ可相渡方決て無付之、三家不得心ならは存生之内、焼捨可申との儀にて七品持参」したという。さいわい「高豊公御在城故、右之趣孫次兵衛登城申上けれは、高豊公御受納可被成とて、御受納内蔵丞御馳走被仰付帰り候時分、御目録被下」とある。「兵部殿へ御返書」の内容は、内蔵丞演説の趣は承知したこと、七品はまさに受け取ったこと、今まで疎遠であったが、今後は毎年銀三十枚を進ずるというものであった。
 これに関して、高豊宛の六角中務大輔礼状の写しも掲載されている。この中務大輔と兵部は同一人物であろう。同書状に「先日進申目録之趣家来申付置候」とあり、また「年来御懇意之段恭不浅候」と礼が述べられている。その中で中務大輔は、数年来痛風のために病床にあり、本復は難しく、執筆さえも思うようにならないと述べている。
 同書には、その三年後に兵部殿が丸亀に遠出したことが記されている。そのときであろう、「丸亀家中にて何も申候ハ、御合力銀は被差止、兵部六角御相続高豊御子様にて候儀、丸亀へ御招二千石か三千石か進られ候ハ可然と申由也」という話が持ち上がっている。当時、藩主京極高豊の子が六角兵部の養子になっていたのである。やはり六角氏郷と沢田源内は別人である。
 『大系図評判遮中抄』を記述した建部賢明は後世の人物であり、氏郷と同時代人である丸亀藩主京極高豊や相国寺住持汝舟妙恕の方が信用できる。これらの影写本は東大史料編纂所にあるにもかかわらず、どうしてこれまで無視されてきたのか不思議である。私が東大史料編纂所で『京極氏家臣某覚書抜萃』を含む『六角佐々木氏系図略』を見ようとした時、所員が使用していたため閲覧できないということがあった。ということは、人知れず埃をかぶっていたわけではない。それにもかかわらず、日の目を見なかったというのは不思議でならない。

六角氏再興運動

 沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、沢田郷重という人物が万治三年(一六六〇)に没している。同系図によれば郷重の弟重秀の母は和田氏であり、源内の母が和田氏であったとする『大系図評判遮中抄』の記述と一致する。源内と同一人物と見て間違いあるまい。源内が水戸家に仕官活動したのが承応二年(一六五三)頃であるから、彼はその八年後に没していることになる。元禄六年(一六九三)に七十三歳で没した氏郷とは、明らかに別人である。
 また『大系図評判遮中抄』では源内の父と弟が老中阿部豊後守忠秋に仕えたとしているが、実は忠秋は新田岩松氏の家名復興運動を支援している(4)。
 戦国期に上野新田金山城主として近隣に勢力をもっていた由良氏は、江戸期に旗本になり、さらに寛文元年(一六六一)火災で焼失した内裏の造営奉行として功績があり、女院東福門院徳川和子の推挙によって同五年(一六六五)に高家衆に列した。その根拠は、新田氏の末流に属することを示す由良氏所蔵の系図と、新田義重(新田氏初代)を新田荘下司職に補任する左衛門督家政所下文を所持していたからである。高家衆とは名門武家の子孫が列したもので、石高は一万石未満で旗本であったが、格式は高く大大名と同じく四位侍従・少将に任じた。その役割は京都朝廷への使者、伊勢・日光への社参のほか、江戸殿中における勅使の応接・接待に当たる大名の後見などである(5)。
 由良氏が新田の子孫であると称して高家衆に列した事実を知って、新田岩松氏の子孫秀純が怒った。岩松氏は由良氏の主筋に当たり、新田惣領家が南北朝期に滅亡してからは、新田一族の惣領職を獲得して新田荘を支配してきた。徳川家康の関東入部以来、再三あった仕官の機会を逸して、寛文三年(一六六三)になってようやくと秀純が新田郡に一二〇石の知行地を給付されて御家人に列したばかりであった。岩松氏にとって、家臣筋の由良氏が新田氏嫡流を称して高家衆に加えられたことは耐えがたい屈辱であった。秀純は上訴しようとしたが、庇護者の阿部忠秋に抑止されている。承応二年(一六五三)沢田源内が水戸家に仕官できず、失意のうちに万治三年(一六六〇)に没したことが、忠秋の脳裏をよぎったのではないだろうか。源内の没後わずか五年後の出来事であった。秀純の憤りは、彼を家系を明らかにしてそれを子孫に残すという歴史研究に向かわせた。秀純は延宝四年(一六七六)に没したが、その事業は子孫に継承されて念願は成就している。
 『京極氏家臣某覚書抜萃』に引用されている京極高豊宛の氏郷書状で使用された氏郷印には「江源明流」とあり、彼の活動が近江源氏佐々木氏の嫡流六角氏の再興にあったことは明らかである。沢田源内、さらに氏郷らによってなされた著作活動は、実は六角氏再興運動だったと評価できよう。
 こののち氏郷の子孫六角敦周は明和五年(一七六八)に四十一歳で朝廷から滝口に補任され、のちに佐渡守に至っている(『地下家伝』)。この滝口の六角家は幕末まで続いている。滝口といえば天皇の警固をする職であり、『大系図評判遮中抄』でいうような「種姓モ知サル凡下ノ土民」の子孫では補任される職ではない。織田氏の子孫津田氏や、豊臣姓木下氏などの名門の子孫も列している。また敦周の孫敦義は『御遷幸供奉色目抄』を著している学者でもあった(6)。
 これらのことを考え合わせると、義実・義秀・義郷を切り捨てた従来の説は、後世に書かれた『大系図評判遮中抄』を参照し、そして義実・義秀・義郷の三代の実名が一次資料に見られないことを根拠としている。しかし義実の実名は、『鹿苑日録』によって「義久」であったことが確認できる。六角氏重臣には進藤山城守(久治)や山中大和守(久俊)など実名に「久」の字を使用する者が多いことも、そのことを裏付けている。六角氏に従属していた浅井久政の名乗りも、義久の諱字を給付されたものであろう。義実・義秀・義郷らの実名を資料に探しても、実名が異なっていては見つからないのは当然であり、『近江蒲生郡志』など従来の説は根拠を失ったことになる。

【注】
(4)峰岸純夫「長楽寺文書と正木文書」(『中世の東国-地域と権力』東京大学出版会、一九八九年)。
(5)新見吉治『旗本』二版、日本歴史叢書一六、吉川弘文館、一九七三年。
(6)『国書総目録』。

江戸時代における『江源武鑑』の評判

 一般に偽書とされている『江源武鑑』には元和七年(一六二一)版があり、同書がその頃に生れた源内の著作でないことは明らかである。そのことだけでも、『江源武鑑』を源内の著作とする『大系図評判遮中抄』の記述が信用できないことが分かる。完全に事実を誤認している。六角義賢(承禎)の次男高定が没したのは初版刊行の前年/元和六年(一六二〇)年であり、同書初版が刊行された当時六角氏関係者で生存していた者も当然いた。とうてい荒唐無稽なことを書くことのできるような時期ではない。
 義実・義秀・義郷の実在を主張する異説は、六角氏関係の寺社・旧家のほか、讃岐丸亀藩主京極家をはじめ、山崎・黒田・上杉家などの近世大名家に伝わる家記・系譜類にも記載されており、さらに「柳営婦女伝系」巻之一の伝通院殿之伝系并華陽院殿之伝の青木氏系図にも義実の事績が記されている。また『寛政重修諸家譜』巻四百二の佐々木氏系図では、『近江蒲生郡志』が義治のあとに六角氏の家督を継いだと主張した弟高定とその子孫のことを、あっさりと「庶流」と記している。この『寛政重修諸家譜』に収められている山岡氏を始め六角氏旧臣の系図には、やはり義実・義秀などが登場する。寛政年間には、義実などの記述が復権していたのである。
 しかし『近江蒲生郡志』以後、義実・義秀・義郷の実在は無批判に否定され続けた。そのような中で近年、近江八幡市の郷土史家・故田中政三氏によって義実らの実在が声高に提唱されたが(7)、田中氏の論拠が軍記物・家記・系譜類であったことは惜しまれる。実は、義実・義秀・義郷という名に固執しなければ、彼らの実名が異なることを知ることができ、彼らの実在を一次資料によって実証的に裏付けることができるからである。
『大系図評判遮中抄』を、『京極家家臣某覚書抜萃』と比較しながら読むと、同書に多くの事実誤認があることが確認できる。つぎに『大系図評判遮中抄』を引用してみよう。

【注】
(7)田中政三『近江源氏』一-三巻、一九七九-八二年。

『大系図評判遮中抄』

凡大系図(卅巻)ハ佐々木本家ノ姦賊六角中務氏郷カ古伝ニ偽補スル所也。蓋此者ハ、本近江国ニテ種姓モ知サル凡下ノ土民也。父ハ沢田喜右衛門トテ坂本雄琴村ニ手ツカラ鋤鍬ヲ執テ纔ノ地ニ耕作シテ世ヲ渡シ農夫ナリ。武州忍ノ城主阿部豊後守忠秋ニ正保四年ノ比カトヨ加恩ノ地ヲ江州ニ賜リシ時、喜右衛門其家ノ吏官某カ下司ト成テ名ヲ武兵衛ト改メ租税ノ事ヲ司リシニ、万才覚アレハ後ニ忠秋ヨリ忍ノ県令ト成サル。是ヨリ先本国ニ在シ時、同邑ノ百性和田勘兵衛カ娘ニ成トイヘル女ヲ娶テ子ヲ生ス、其名ヲ喜太郎ト云。下種ノ子タリト云トモ、容貌自然ニ優ナリシカハ、雅ヨリ是ヲ青蓮院尊純法親王ニ奉テ禿童トナル。門主之ヲ愛シテ常ニ御傍ヲ離サス召仕レシニ、天姓強記ニシテ書籍ヲ誦シ又筆法ニ敏フシテ詩文ヲモ学ヒ得タリ。然レトモ其生質奸侫ニシテ又貪欲ナリ。親王ノ家ニアル銀ノ建盞ヲ盗テ竊ニ市廛ノ贅トス。是ニ因テ忽ニ追却セラレ旧里ニ帰テ深ク此事ヲ秘シ、山伏ノ姿ト成テ偽テ諱ノ字ヲ賜レリト云テ、名ヲ尊覚ト号ス。父甚是ヲ責テ速ニ其名ヲ改シム。是ニ於テ還俗シテ沢田源内ト号シ、天野豊前守長信(東福門院御家司)ニ仕ヘ、又飛鳥井一位雅章卿ニモ仕ヘシカ、皆其命ニ背テ家ヲ黜ラレ牢浪ノ身ト成テ拠ナキマゝニ己カ才智ヲ以テ卑賎ヲ蔽ヒ隠シ、貴族ト号シテ身ヲ立ント欲シ、竊ニ六角佐々木ノ正統ト称シ、名ヲ近江右衛門義綱ト改メ、偽テ定頼朝臣ノ長子ニ大膳大夫義実ト云フ名ヲ作リ、其子修理大夫義秀、其子右兵衛督義郷三世ヲ、新ニ佐々木ノ系中ニ建テゝ己カ父祖トシ、義賢朝臣(承禎)ヲシテ義秀カ後見ナリトス。父武兵衛此事ヲ聞テ大ニ驚キ後難ヲ恐レテ固ク源内ヲ禁メ是ヲ叔父和田カ家ニ執ヘ置、其身ハ忍ノ地ニ下リヌ。是ニ依テ潜ニ爰ヲ逃出テ彼カ従弟ニ畑源左衛門ト云ヘル遊民ノ許ニ隠レ居テ彼義実等カ事迹ヲ造リ、或ハ旧記ニ是ヲ増補シ、或ハ新ニ偽書ヲ編作シテ其虚伝ヲ世ニ広メシム。父是ヲ悪ミ恐ルト云ヘトモ国郡ヲ隔テゝ如何トモスル事ヲ得ス遂ニ父子ノ恩儀ヲ絶テ其後忍ニ病死ス。二男沢田権之丞父カ跡ヲ継テ阿部氏ニ仕ヘリ。承応二年ノ比、源内江府ニ来リ佐々木正統近江右衛門義綱ト名乗、中山市正正信ニ属シテ水戸侯頼房卿ニ奉仕セン事ヲ請ヒ、彼偽譜ヲ献ス。卿即東叡山宿坊吉祥院ノ沙門某ヲ以テ其系図ヲ真ノ六角正嫡佐々木源兵衛尉義忠ニ賜テ虚実ヲ御尋有ケルニ、悉偽作姦操タル由被申シニ依テ其奸曲忽ニ顕ルゝノミナラス、義忠又正統ヲ乱ス事ヲ怒テ其酋本多美作守忠相ヲ以、具ニ此事ヲ上啓シ、彼カ身ヲ賜テ禁遏ヲ加フヘキ由、久世大和守広之ニ訴ヘ申レケレハ、此由ヲ聞テ大ニ驚キ狼狽シテ夜中ニ江州ヘ逃上リ、名ヲ六角兵部氏郷ト改、暫クハ世ノ変ヲ窺ヒ居ケルカ、遠国ニシテサノミ咎ル人モ無リケレハ、猶奸謀未タ止マス、彼偽名三世ヲ実トセンカ為ニ阿党数輩ヲ集メ、寺僧神人等ヲ語ラヒテ、天文六年ヨリ元和七年マテ八十余年カ間佐々木家ノ日記ヲ偽作シテ廿巻トナシ、江源武鑑ト名ケテ刊行ス。其記ス所半ハ詭譎、半ハ他家ノ事ニシテ実ニ用ナシ(是モ義忠ノ咎ニ遭テ印板ヲ打砕トイヘリ)。此書ニハ右ノ義実ヲ引替テ近綱朝臣ノ子ト称シ定頼朝臣ヲ以義実カ後見トナス。其後源内 帝都ニ至リテ又名ヲ中務ト改メ(按ルニ右衛門・中務ハ皆近世義治・義定ノ官名タルニ依テ如此)、件ノ虚系ヲ以テ諸人ヲ誑カシテ家嫡也ト自称シ、剰ヘ吾生レナカラ五品ノ官(兵部丞)タリ、昔年 後鳥羽帝代々永補任ノ勅許アルニ依テ也。今度朝廷ヨリ四品中務大輔ニ任叙セリト荒唐ノ妄言ヲ吐テ朦昧ノ輩ヲ惑ハセリ。是ヨリ猶其矯ヲ蔽ヒ隠ンカ為、昔将軍義満公ノ世、応永年中ニ特進亜三台藤原公定卿ノ撰セラレシ尊卑分脈系図ノ中、要ヲ摘テ諸家大系図(十四巻)ト号シテ世ニ行ハルゝヲ本トシ、佐々木ノ譜中ニ新ニ多クノ名諱ヲ偽作シ、己カ本姓沢田氏、外祖和田氏、従弟ノ畑氏、及ヒ此奸謀ニ与スル者ハ、皆私ニ其一流トナシ、又織田、朝倉、武田、豊臣ノ系中ニモ、彼虚名ニ妄説ヲ書添、其余諸氏ノ家伝ヲ拾ヒ集テ、真偽ヲモ正サス、悉ク書載セテ全部卅巻ト作シ、更ニ大系図ト名ケテ梓ニ鏤ム。此外和論語、足利治乱記、浅井日記、異本関原軍記、異本勢州軍記等、皆彼カ一世ニ奸シク虚説ヲ註スル所也。如此偽書世ニ流布シテ後、智アル人ハ更ニ是ヲ信セストイヘトモ言ヲ巧ニシテ詐ルカ故、読ム者半ハ惑ハサレテ、実ニ其人(義実、義秀、義郷)アリト思ヘリ。是ニ依リテ定頼朝臣ノ子孫ハ皆庶流也ト思ヒ、或ハ其家二ツニ分レタリト云。其外種々ノ誤説出来レリ。是ヨリ後、其悪徒等相続テ彼事迹ヲ真シク旧記ニ補入、又其偽ヲ知サル浅智ノ輩ハ、編纂ノ書毎ニ往々ニ採テ篇中ニ引ク。是故ニ近年ハ彼偽名漸ク諸書ニ広マレリ。所謂中古国家治乱記、異本難波戦記、三河後風土記、武家高名記、倭州諸将軍伝、浅井始末記、同三代記、東国太平記、日本将軍伝、諸家興亡記、武家盛衰記、東海道駅路鈴、此外猶多シ。一年京都ニ於テ官職ヲ矯リ冒ス輩ヲハ、悉ク捕テ死刑ニ処セラレシカハ、源内大ニ驚き、忽ニ太輔ノ号ヲ停テ其身ヲ隠シ、密ニ人ノ家譜ヲ造テ渡世ノ営トナス。蓋世系ノ詳ナラサル人ハ、彼ニ賄シテ家伝ヲ求ルニ、己カ小智ヲ以テ妄ニ名諱ヲ偽作シ、虚説ヲ註シテ是ニ与ル。多ハ正史実録ニ背ク、若其事ヲ二次議スルニ及テハ、前後相矛盾スル事多シ。乃余カ従弟同氏昌孝(十郎左衛門)在京ノ序ニ家伝ヲ記サシメ、是ヲ火災ニ失シテ再ヒ書セシムルニ、其事蹟悉ク相違セリ。又幕下ノ士井戸甚助ト云人モ始家系ヲ註セシメ、後ニ東海寺和尚某ニ拠テ、又同ク譜ヲ書セテ是ヲ試ルニ、其記ス所皆以テ前ト符合セス、如何トナレハ己カ記憶ノ壮ナルニ任テ、写本ヲ設ケス、徒ニ虚記スルニ依テ年月ヲ隔刻ハ、先ニ書スル所ヲ悉遺忘スルユヘ也。如此恐懼ノ中ニモ諸人ヲ誑カシテ、其口ヲ餬ヒ、遂ニ元禄戊辰年ニ至テ七十歳ニテ病死ス。男子モナク、娘一人草医ノ妻ト成テ、今洛陽ニアリナン。抑源内漫リニ官名ヲ佯冐シテ朝憲ヲ蔑ニシ、恣ニ六角ノ姓ヲ誣テ正統ノ真系ヲ乱シ、当時衆ヲ欺クノミニ非ス、後世ノ人ヲ惑ハシムル事、天ニ滔タル罪刑戮逃ルヘカラスイヘトモ、白刃ノ侵ス所ヲ免レテ徒ニ其命ヲ終ルハ豈大成幸ナラズヤ。愚(賢明)其頃(承安二年)世ニ在ハ速ニ彼ヲ謀誅シテ義忠ノ怒ヲ休ムヘキニ、卅許年遅ク生シテ席上ニ死ヲ遂シムル事悔ムニ余アリ。余数歳幕府ニ奉仕シテ官吏暇ナシトイヘトモ其憤ヲ忍フニ勝ヘス、彼カ一世ノ行迹ヲ記シテ、其狡奸ヲ顕シ、又佐々木系中ノ虚妄ヲ挙テ逐段ニ訂評ヲ加ヘ悉ク真偽ヲ決ス。是併邪説ヲ斥ケテ正統ヲ存センカ為ナリ。

『大系図評判遮中抄』批評

 『大系図評判遮中抄』を読むかぎり、沢田源内の華麗な経歴に驚かされる。まず青蓮院門跡尊純法親王に稚児として仕えたという。源内が単なる貧農(文中では「土民」)の子ではないことは明らかだ。さらに二代将軍徳川秀忠の息女で、後水尾院中宮となった東福門院和子の家司天野豊前守長信や、名門公家の師実流藤原氏権大納言飛鳥井雅章に仕えている。どうしたら身分社会である江戸時代に、貧農の子がこのような経歴をもつことができるのだろうか。しかも源内の父は阿部忠秋の重臣になっている。
 実は江戸初期にはまだ身分は流動的であり、階層間移動も多く見られる。とくに豪農のほとんどは地方豪族の子孫であり、彼らが近世初期の開墾事業を指導していた(8)。彼らは郷士と呼ばれる存在であった。実際にそのような郷士から朝廷や公家・門跡に仕える者もあった。その実例として、聖護院門跡に仕えた諸大夫佐々木氏が摂津武庫郡西宮の郷士出身であったことを挙げることができよう(『地下家伝』)。諸大夫とは天皇の住居に昇ることを意味する昇殿は許されないが、四位・五位に至る家柄を意味している。幕臣であれば諸大名と同じ官位である。
 沢田氏も郷士の出身であった。だからこそ源内の父は老中阿部忠秋に重臣として仕えることができ、源内自身も華麗な経歴をもつことができたのである。源内が父の跡を継がなかったのは、手癖が悪かったからではなく、彼が学者を目指していたからである。郷士を「種姓モ知サル凡下ノ土民」としたのは、建部賢明が身分社会がほぼ確立した江戸中期の人物であり、自分の時代の常識を過去に投影してしまったためである。自分の時代の常識を過去に投影することは、歴史学ではよくしてしまう過ちであり、実証歴史学者であればその過ちを犯さないためにも慎重にならなければならない。
 また同書では、源内の母を「同邑ノ百性(姓)和田勘兵衛カ娘」としているが、実は和田氏も六角氏旧臣で郷士であり、その子孫に伝わる和田文書には織田信長書状や明智光秀書状・朝倉義景書状など良質な一次資料が含まれており、とくに光秀書状は信長の比叡山焼打ちの実態を知る貴重な資料として注目されている(9)。和田氏はそれだけの文書を有するほどの名門武家の子孫であり、やはり有力な郷士であった。
 和田文書の影写本は東大史料編纂所にあるが、その多くには偽文書という書き込みがある。とくに朝倉義景書状については、それが本物の義景書状であるにもかかわらず、義景の署名が義秀と読み間違われた上で偽文書と書き込まれている。これは実証歴史学が自信を持っているはずの史料批判の基準が、資料そのものの真贋性ではなく、義秀は実在しないはずだという思い込みによってなされたことを示している。このような基準で選ばれた資料で歴史を再構成しても、それは歪んだものになる。史料批判は、偽文書の排除という美名の下で行われていたものの、結局は自分に都合のいい資料を選択していたことが分かる。
 『大系図評判遮中抄』が義実・義秀・義郷の名のある資料をすべて源内あるいは源内一味の著作と見なしていることは、『江源武鑑』の初版が源内誕生前後の元和七年(一六二一)であることを知らなかったためである。これも重大な事実誤認である。その後も『江源武鑑』は版を重ねて、寛永四年(一六二七)、明暦二年(一六五六)に公刊された。好評だったようである。しかも『大系図評判遮中抄』刊行後の延享五年(一七四八)にも、『江源武鑑』は刊行されている。『大系図評判遮中抄』が相手にされなかったか、『江源武鑑』が復権したかのどちらかであろう。けっして版は破壊されてない。
 また同書で「一年京都ニ於テ官職ヲ矯リ冒ス輩ヲハ、悉ク捕テ死刑ニ処セラレシカハ、源内大ニ驚き、忽ニ太輔ノ号ヲ停テ其身ヲ隠シ」とあるのも事実を誤認している。源内と氏郷は別人であり、前述の『京極氏家臣覚書抜萃』によれば、氏郷が京都所司代の取り調べを受けたことは間違いないが、丸亀藩主京極高豊の証言もあって嫌疑は晴れている。さらに氏郷と藩主高豊の交流が始まり、高豊の子息が氏郷の養子となっている。賢明はこの事実を知らない。賢明の情報源は明らかに偏っている。
 さらに氏郷の娘婿を草医(町医者)としているが、京極氏の中興の祖佐々木導誉の菩提寺である勝楽寺所蔵の佐々木系図(10)によれば、その人物は有馬重雅(主計介)である。彼が氏郷の痛風を治療した人物であろう。天明年間(一七八一-八九)に『古方便覧』『疾医新話』を著した六角重任は、実名(諱)の一字である偏諱「重」の字が共通であり、また通称が「主計」であることから、有馬重雅の子孫と考えられる。『大系図評判遮中抄』で述べられているような草医ではなかったようだ。
 『大系図評判遮中抄』後に幕府によって編集された公認の武家系図集『寛政重修諸家譜』では、沢田源内を糾弾した幕府旗本佐々木高重は佐々木庶流に分類されている。幕府も高重を庶流と見なしたのである。
 一見、江戸幕府に仕えた者がその一族の嫡流に見えてしまう。しかし幕府出仕者が嫡流とは限らない。戦国時代に多くの名門武家が没落し、多くの下剋上があった。幕府も公認系図集『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』を編集するに当たっては綿密に調査しており、けっして諸家が提出した系図を鵜呑みにしなかった。『寛政重修諸家譜』で、高重が佐々木庶流とされたのはその代表例である。近世系図も、実は実証歴史学を重んじた儒学の伝統のもとで作成されている。系図だからといって、一概に粉飾や錯誤だらけとは思わない方がいい。
 それに対して建部賢明は、高重が提出した系図を鵜呑みにしている。賢明の『大系図評判遮中抄』は、自分が正しいと信じていることを前提に推論を進めたものである。しかし前提が誤っていたのでは、いくら理屈を並べても結果が正しいはずはない。合理主義の限界がここにある。少なくとも実証主義ならば、ある一つの前提から出発したとしても、それを否定する資料が見つかれば前提を疑う必要があろう。しかも『大系図評判遮中抄』は冷静に議論を展開させたものではない。むしろ直情的でもある。

【注】
(8)佐々木哲「一七世紀日本の人口増加と階層間移動」(大塚勝夫編『経済史・経営史研究の現状』三嶺書房、七九-九五頁)。
(9)今谷明「比叡山焼き打ち」(『新修大津市史』三巻・近世前期、一九八〇年)九五頁。
(10)『六角佐々木氏系図略』所収。

佐々木氏の嫡庶争い

 旗本佐々木高重が自らを佐々木氏嫡流とする系図を幕府に提出したことを、実は同じく六角義賢(承禎)の子孫であった佐々木定賢が、『佐々木氏系譜序例』(11)で批判している。同書によれば、義賢には長男義治と次男高定があった。さらに高定には二人の男子があって、長男が高賢で、次男が幕府旗本となった高和である。このうち高賢は伯父義治の娘を娶り、その長男定治が外祖父義治の養子になって大坂城主豊臣秀頼に仕えた。定治は大坂落城後に会津藩主蒲生家に寄食し、蒲生家改易後には加賀金沢藩主前田家に仕えていた。その定治の嫡子が定之で、嫡孫が定賢である。つまり定賢は義賢の嫡子義治の正統であり、佐々木氏嫡流だというのである。たしかに義賢の後継者は義治であり、義治から高定に家督が移された痕跡は一次資料を見るかぎり存在しない。そうであるならば、義治の後継者こそ佐々木氏嫡流ということになる。定賢の主張は正しい。
 ただし定賢が正しいのは、義賢が佐々木氏嫡流ならばという限定付きである。沢田源内が主張したように義実が嫡流ならば、定賢の主張も誤りとなる。そのため定賢も『佐々木氏偽宗弁』では沢田源内を偽系図作者として批判した。『大系図評判遮中抄』は同書を参考にしている。もちろん定賢も後世の人物であり、源内と同時代人ではない。ここに限界がある。私は源内と同時代のメモである『京極氏家臣某覚書抜萃』の内容を信じる。少なくとも、これが実証歴史学の原則であろう。そしてそこから出発して、義実の実名が義久であったことを、『鹿苑日録』で確認した。
 まさに氏郷が相国寺住持愚渓禅師に指摘したように、権威があるから正しいという見方は捨てなければならない。そのことで歴史研究の第一歩を踏み出すことができる。

【注】
(11)『系図綜覧』上巻(名著刊行会、一九七四年)に所収。

おわりに

 これまでの歴史研究では、戦国期の近江守護六角義実(参議兼近江守)抜きで合理的で自己完結的な歴史叙述をしてきた。たしかに良質な資料を隈なく見ても、義実という名の人物は見当たらない。実在しないと思いながら良質な資料を読めば、義実は存在しない。しかも、それで辻褄が合っていた。義実に対してよほど思い入れがなければ、彼の実在を信じられなかった。しかし義実は実在したと信じて資料を読み込んでいくと、義実と同じ事跡を持つ人物義久(江州宰相)を発見することができた。しかも偽系図作者と考えられていた沢田源内も、実は偽系図作者ではなかった。このように六角義実の実在を信じるという主観性から始めたことで、六角義久の実在という客観性にたどり着いた。
 このように主観から出発することで客観性に至ることができるが、多くの場合は客観性に至らない。それは、わたしたちが固定観念を持っているからである。わたしも義実という実名にこだわっていたら、義久の存在にたどり着くことはできなかった。固定観念にこだわり続ければ、感覚の中に現われている真実に気づかないままである。対象と固定観念が対立したときに対象を選ぶことができれば、そのときが資料が語り出す瞬間である。
 一般に客観的と考えられている第三者は、実は自分が無関心なことについては無難な意見しか言わない。関心がなければ、あえて常識を覆すという冒険はしないからだ。ところが思い入れがあれば、常識を否定するものが現われたとき、それを真実と受けとめられる。このように本当に客観性を獲得できるのは主観である。