6月京都勉強会

6月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2006年6月11日(日)
 哲学講座:13時~15時
 歴史講座:15時~17時
【演題】
 哲学講座 『科学思想史を学ぶ意義』
 歴史講座 『戦国期佐々木六角氏』   
【会費】
 3、000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都  第1演習室
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

 

2006年東大前期・日本史第1問「藤原的なものと大伴的なもの」

次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令制では、官人は能力に応じて位階が進む仕組みだったが、五位以上は貴族とされて、様々な特権をもち、地方の豪族が五位に昇って中央で活躍することは多くはなかった。
(2) 藤原不比等の長男武智麻呂は、七〇一年に初めての任官で内舎人(天皇に仕える官僚の見習い)となったが、周囲には良家の嫡男として地位が低すぎるという声もあった。彼は学問にも力を注ぎ、右大臣にまで昇った。
(3) 太政官で政治を議する公卿には、同一氏族から一人が出ることが一般的だった。それに対して藤原氏は、武智麻呂・房前など兄弟四人が同時に公卿の地位に昇り、それまでの慣例を破った。
(4) 大伴家持は、七四九年、大伴氏などの天皇への奉仕をたたえた聖武天皇の詔書に感激して長歌を詠み、大伴氏の氏人に、先祖以来の軍事氏族としての伝統を受け継いで、結束して天皇の護衛に励もうと呼びかけた。

設問
奈良時代は、古くからの豪族を代表する「大伴的」なものと新しい「藤原的」なものが対立していたとする見方がある。律令制にはそれ以前の氏族制を継承する面と新しい面があることに注目して、奈良時代の政治と貴族のありかたについて、六行以内で説明しなさい。

【解法】
わたしたちは、藤原氏のことを誤解していたようだ。藤原氏は長屋王・橘諸兄・道鏡との権力闘争で政権を奪取したと習ってきた。しかし資料(2)を読むと、そんな常識は吹っ飛んでしまう。右大臣藤原不比等の長男武智麻呂は、右大臣の息子でありながらきちんと官僚見習いから出発した。たたき上げの官僚だ。そして武智麻呂も父と同じように右大臣に至った。しかも古代の氏姓制度とは異なり律令制度では、優秀であればひとつの氏族から複数の官僚を出すことができた。そのため資料(3)にもあるように、武智麻呂の弟房前・宇合・麻呂もそれぞれ優秀な官僚として活躍し、みな執政官のひとつ参議にまで至った。参議はこのとき新設された令外官で、若手や学者が朝政に参加できるようにしたものだ。藤原氏を見る目が変わる。
 まず藤原氏の祖中臣鎌足は、留学生南淵請安に学んだ中国の律令制度を理想に掲げ、中大兄王とともに大化の改新をおこなった。鎌足の子不比等は大宝律令の実質的な責任者となり律令制度を確立し、その後も補足修正しつづけて養老律令をつくった。藤原氏は律令制度の確立のためには不可欠な存在だった。
 藤原氏には鎌足以前の中臣氏の職掌神祇官に任命された者はいない。氏姓制度にとらわれず、優秀な官僚・学者になっていたのである。そして藤原四兄弟みなが公卿(上流貴族)に列して南家・北家・式家・京家を立てることができ、それぞれの家から貴族が再生産された。多くの特権をもつ貴族をこのように再生産できた藤原氏が、こののち大きく発展したのは当然だ。
 氏姓制度では、資料(4)で大伴家持が主張しているように、それぞれの氏族が氏上(氏長者)のもとに一致団結して先祖以来の職掌で朝廷に奉仕した。しかし律令制度では、出身氏族にかかわりなく適材適所に配置する官位制度を確立された。ひとりひとりが優秀であれば出世できる官僚機構の中で、先祖以来の職掌を守り専門集団にとどまれば、多くの議政官を出すことはできない。ここに藤原氏と大伴氏の差があった。貴族の最低ラインである五位を極位とする地方豪族との差は、さらに広がった

【解答例】
中央集権的な中国の律令制度を移植したことで、中央豪族は官僚と
なったが、地方豪族は官位制度から排除され、中央の有力豪族によ
って貴族層が形成された。しかし氏姓制度的な性格を残した大伴氏
をはじめとする旧豪族は、人材登用を目指した官位制度が機能し始
めると適応できず、律令制度を理解して優秀な官僚を多く輩出し続
けた藤原氏が、貴族の地位を独占することになった。

2003年東大前期・日本史第1問「唐が蕃国 !?」

次の(1)~(4)の八世紀の日本の外交についての文章を読んで、下記の設問に答えなさい。
(1) 律令法を導入した日本では、中国と同じように、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。ただし唐を他と区別して、「隣国」と称することもあった。
(2) 遣唐使大伴古麻呂は、唐の玄宗皇帝の元日朝賀(臣下から祝賀をうける儀式)に参列した時、日本と新羅とが席次を争ったことを報告している。八世紀には、日本は唐に二〇年に一度朝貢する約束を結んでいたと考えられる。
(3) 七四三年、新羅使は、それまでの「調」という貢進物の名称を「土毛」(土地の物産)に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否した。このように両国関係は緊張することもあった。
(4) 八世紀を通じて新羅使は二〇回ほど来日している。長屋王は、新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴をもよおし、使節と漢詩をよみかわしたことが知られる。また、七五二年の新羅使は七〇〇人あまりの大人数で、アジア各地のさまざまな品物をもたらし、貴族たちが競って購入したことが知られる。

設問
この時代の日本にとって、唐との関係と新羅との関係のもつ意味にはどのような違いがあるか。たて前と実際の差に注目しながら、六行以内で説明しなさい。

【解法】
この問題文を見たときに、まず(1)日本が唐のことを蕃国とみていたという記述に驚く。日本は遣唐使を派遣して唐の優れた文化を取り入れたが、その日本が律令で唐のことを蛮夷とみなしていた。やはり常識をくつがえしてくれる。さすが東大の問題だ。
 しかし(1)をよく読むと謎が解ける。中国から律令を導入した日本では、そのまま中国の律令の内容のままに、外国を「外蕃」「蕃国」と呼んだ。律令によれば中華はひとつであり、外国は蕃国になる。例外は許されない。それをそのまま日本に当てはめれば、日本は中華であり、外国はすべて蕃国であり、とうぜん唐も蕃国である。天皇中心の律令制度をつくりたかった律令国家にとってとても理にかなっている。
 つぎに、(2)を見てみよう。遣唐使が唐朝の朝賀で新羅と席次を争ったということは、まちがいなく日本も新羅も唐の臣下ということだ。しかも二〇年に一度は遣唐使を送ることを約束している。これが当時の東アジアの実情だ。(1)と(2)はまさに理想と現実の違いだ。日本は、まさに国内向けと外国向けの二種類の顔を使い分けていた。
 こんどは新羅との関係だ。(3)をみると、新羅使は貢物という意味の「調」を土産という意味の「土毛」に改めたので、日本の朝廷は受けとりを拒否したという。租庸調のうち調を納めていたということは、新羅が日本に服属していたということだ。しかし(2)を見てもわかるように日本も唐に朝貢していた。新羅から見れば、同じく唐に朝貢している隣国だから対等であるはずだ。しかも日本は遣唐使を送りながら、唐の皇帝から日本国王に任命されていなかったから、公式に国王に任命されている新羅が日本より上位だと考えた。しかし日本は、唐から国王に任命されずに独立していることをむしろ誇りに思っている。唐から日本国王に任命されていないことを、日本はプラスに考え、新羅はマイナスに考えていた。このように同じことでも正反対の解釈が成り立つ、しかもどちらも論理的だ。これでは緊張関係になるのは当たり前だ。
 つぎに(4)をみると、長屋王は新羅使の帰国にあたって私邸で饗宴を開いている。ここでは私邸で開いていることが重要だ。長屋王は左大臣という政界のトップだが、国どうしの面子を取り除けば、とても友好的だった。しかも新羅使の来日は頻繁であり、二〇年に一度の遣唐使では手に入らないアジア各国の品物を入手できた。これでは貴族たちが新羅使を歓迎するのは当然だ。だからこののち国交は断絶したが、貿易はさかんだった。

【解答例】
国内的には新羅・渤海・蝦夷など周辺諸国を服属させる大国である
と自負したが、対外的には中国皇帝に臣下の礼をとる朝貢を行い、
遣唐使を二〇年にいちど派遣した。しかし回数が少ないことから、
貴族たちは頻繁に来日する新羅使を歓迎した。ところが日本が新羅
を属国として待遇したので、新羅と緊張が生じて国交は途絶えた。
以後は諸外国と国交を結ばず、民間レベルで交易を行った。

斎藤道三の国盗りは父子2代(六角承禎書状)

天文・弘治年間足利義晴・義輝父子を保護しているあいだ、斎藤道三に追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護。北伊勢で北畠氏と抗争。弘治三年(一五五七)六角氏養女が本願寺に嫁ぎ(『厳助往年記』)、本願寺との連携を強化した。
 永禄三年(一五六〇)浅井長政の自立阻止のため、承禎は北近江に侵攻。しかし野良田合戦では敗北。そこで宿老衆は、承禎の長男義治(当時は四郎義弼)と斎藤義龍の娘との縁談をすすめて同盟。承禎はこの縁談に反対した(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書:七月二十一日付宿老宛六角承禎書状)。
 この書状で六角・土岐・朝倉大名一揆の様子がわかるとともに、斎藤道三の国盗りが父長井新左衛門尉から始まる父子2代によるものだったこともわかる。

一、山上へ義弼取退候子細、何事候哉、各被越候て、被相尋候節、
  以条数四郎存分共申、第一番仁京都之儀、其次濃州、長々
  当国拘置、入国不馳走事、不可然之由、今度之働以外相違事、
一、土岐殿、当家縁篇之儀、慈光院始而、代々重縁儀、京・ゐ中
  無其隠ニ、諸事不遁間事、
一、彼斎治身上之儀、祖父新左衛門尉者、京都妙覚寺法花坊主落
  にて、西村与申、濃州錯乱之砌、心はしをも仕候て、長井同名ニ
  なり、又父左近太夫代々成惣領を討殺、諸職を奪取、彼者斎藤
  同名ニ成あかり、剰次郎殿を聟仁取、彼早世候而後、舎弟八郎
  へ申合、井口へ引寄、事ニ左右をよせ、生害させ申、其外兄弟
  衆、或ハ毒害、或ハ隠害にて、悉相果候、其因果歴然之事、
一、斎治父子及義絶、弟共生害させ、父与及鉾楯、親之頸取候、
  如此代々悪逆之体、恣ニ身上成あかり、可有長久候哉、美濃守
  殿、当国ニ拘置なから、大名なとに昇進候事、当家失面目義、
  不可過之候、日月地ニ不落ハ、天道其罪不可遁之処、縁篇之
  儀、可申合儀者、名利ニなから可相果候、江雲寺殿天下無其隠
  孫にて、右覚語対先祖不忠と云、佐々木家之末代かきん、可有
  分別候、公私共辱同前事、
一、義弼帰城之時、諸事承禎御意次第由、起請文在之事、
一、於佐和山井口与縁篇、可申合誓紙遣之由、申候歟、既対父
  承禎引弓放矢時者、□いか様之儀も可申合候、定而人々跡職
  なとも配当可仕候へ共、令和談、以起請文相果、帰城之上者、
  佐和山間之儀者、一切ニ不可入候、其時々起請文そたつへき
  か、承禎ニ誓紙正ニ可成候歟、各可有分別事、
一、歳寄衆起請文相違之儀在之者、達而可申之、又義弼不可然儀
  者、達而異見可申旨申定、今度対父子是非之異見、不被申届
  儀者、併天罰・神罰をハ被存候哉事、
一、無縁之人、立入頼儀さへ拘置者、諸侍義理、田夫野人迄も、
  其覚語有物にて候、美濃守殿、重縁と云、数年拘置、此時つき
  はなし、彼敵と縁篇可申合儀、天下之嘲、前代未聞口惜無念
  之事、
一、斎治言上儀、不可被成御許容旨、公方様に再三申上、又
  伊勢守与斎治所縁之時、京都に荷物以下当国とらせ、対勢州
  数年不返候、并近衛殿に彼娘可被召置由、内々此方に御届
  之時、以外御比興、沙汰之限候由、申入□□被打置儀候、
  然処ニ、今度此縁之風聞ニ付而、政所殿より以興禅寺、被仰越
  儀、失面目次第共、京都之嘲、無申事儀共候、さてゝゝ右之
  御届者、承禎不存旨可申哉、四郎悪名末代不覚候、義弼は
  若年候之間、宿老衆覚語と申候へハ、自然礼物ニふけり候て、
  仕合もとならてハ、世上ニ不可申候、誠当家は宇治川已来、
  及代々名字之名誉共、于今相残候処ニ、此代ニ至而比興之
  題目、物語・草子なとにも可書留儀、主従共恥ニあらす哉、
  無念至極之事、
一、越前と縁篇申合儀、去年宿老衆長光寺参会之時、
  以興禅寺相尋候処ニ、尤可然旨、一同ニ返事被申間、
  堅申合候、此度違変儀、可申遣様体、如何可在之候哉、
  殊井口儀者、古敵と存候所へ、申合儀、定無念ニ可存候、
  又先年御料人儀、内々雖所望候、能州に義理違候間、
  難成由、再往相断、只今又此縁相違候者、旁以遺恨
  有へく候間、北辺深重入魂と覚に、其時各覚語いかゝ
  有へく候事、
一、内々聞及候斎治申合、北辺へ存分在之由候、井口より
  北之縁篇をハすて、当方へ令同心、可及義絶候哉、其ハ
  自滅候間、とても不可成候処ニ、義弼ニ縁之儀申合度まゝ、
  彼伸人共落着、国之破其身後代恥をもかへり不見儀、
  時刻到来事、
一、越前とハ不通ニなり、斎治申合対様成へからす、殊揖斐
  五郎拘置、入国内談之由候、尾州ニ急与可有馳走由、
  美濃守殿に申談由候、然者、彼両国より濃州へ出張之時、
  当方働可有如何候哉、美濃守殿すてゝさへ有へきニ、
  当国出勢何と被存候哉、越州・尾州其覚語手宛有へく候、
  其上此方働一切不可成事候、旁以天下之ほうへん此時候事、
一、先年北郡出陣の時、自濃州井口、斎山自身矢倉山迄相働候、
  一向手ニもたす、かけ散も、其後足軽一人不出候、義弼自然
  之時、為合力、従井口可有出勢と、各被存候哉、頸ニ綱を
  付而も不可出候、其故ハ越州を左右ニ置、遠山初而東美濃を
  跡ニ置、人数出儀不可成候、さ候へハ、此国用ニ何として
  可立候哉、当方辺依様体、志賀郡なとへ、京都雑説ありけニ
  候、左様之遠慮も有へき処、越前・北郡辺不通ニ成候者、
  弥不思議可出来候、其時各覚語専一候事、
一、慈寿院殿、承禎目前ニ置なから、四郎祝言可仕事、不孝之
  いたり、外聞実儀いかゝ被存候哉、此縁上下儀、次第ニ、
  美濃守殿数年拘置、手前おも指当、迷惑も無之、縁篇も
  更ニをそからさる所ニ、彼国取候被官人と縁篇申合、他国
  より入国させ申、越州・尾州当国へ遺恨必定候、然者、名利共
  相かけ候、此度承禎・義弼并年寄衆、悪名不可有其隠候、
  国之為、家之為、余口惜候間、如此候、江雲寺殿、都鄙之
  名誉共在之処、承禎無器用、依而此仕立成候、其子四郎
  若年無分別を、歳寄衆奉而、異見不仕候て、目くらへ候て、
  永代名をも、徳をも、家をもはなし候とて、下々之人口いかゝ
  被存候哉、一旦及折檻ニ候共、各可被申儀候、右、
  恐申誓紙之上者、相違にてハ不可然候、後悔さきに
  立へからす候、急度被申届、返事可被申事、以上
   永禄三年
    七月廿一日       承禎
         平井兵衛尉殿
         蒲生下野入道殿
         後藤但馬守殿
         布施淡路入道殿
         狛修理亮殿

 この同盟成立で、永禄四年(一五六〇)浅井長政の美濃侵攻の間隙を突いて佐和山城を攻略、浅井氏を屈服させることに成功。後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政と三好包囲網を築き、京都奪還を目指した。

六角・朝倉同盟を示す朝倉教景書状の紹介

天文元年(一五三二)十二月に六角氏と朝倉氏の間で密約。天文元年十二月二十五日付斎藤五郎左衛門尉宛朝倉教景(宗滴)書状(内閣文庫『古今消息案』)にくわしく記されていないが、「末代迄」という文言から重要な内容とわかる。翌年に義景が誕生したことになっているが、『朝倉家録』所収の「朝倉家之系図」には義景が六角氏綱の子という異説が記されている。関係があるだろう。

  就今度御帰国之儀、従六角殿孝景へ被遣候御状之写、并拙者へ
  之御書、末代迄之儀候条、進之間、於度々御高名御面目之至候
  委細一乗寺へ申候間、定而可有御伝達候、恐々謹言、
    十二月廿五日          教景(花押)
     斎藤五郎左衛門尉殿
              御宿所
(ウハ書)
(表) 斎藤五郎左衛門尉殿
             御宿所    教景
(裏)  天文元年     太郎左衛門尉

5月東京勉強会

5月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。
5月20日(土)東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
 18時~19時 来場者の希望に応じた談話
 19時~21時 歴史講座『戦国期佐々木六角氏』
【会場】
東京ウィメンズプラザ
 青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html
【会費】
 3,000円

今後の予定
6月講演会
 6月 3日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 6月10日(土)夜間:東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C
7月講演会
 7月22日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
8月講演会
 8月 6日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 8月22日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室

5月京都勉強会

5月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2006年5月14日(日)
 哲学講座:13時~15時
 歴史講座:15時~17時
【演題】
 哲学講座 『母国語』
 歴史講座 『室町期佐々木六角氏』   
【会費】
 3、000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都  2階和室
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

 
今後の予定
6月11日(日) キャンパスプラザ京都 第1演習室 13時~17時

『佐々木六角氏の系譜』完売間近!

お蔭様で、『佐々木六角氏の系譜』は完売間近です。紀伊国屋書店の在庫もなくなりましたので、現在、確実に購入できるのは三省堂書店、オンライン書店ビーケーワン(BK1)、オリオン書房(ノルテ店)のみとなりました。それぞれ以下のホームページからご注文下さい。

>>BK1

>>オリオン書房

>>著者へメール

 研究書は、一般に学術誌に書評が掲載されてから本格的に売れはじめるので、わずか1か月で品切れになることはとても珍しいことです。これも、皆さんのご支持・ご支援の賜物です。もし、さらに応援していただける方は、思文閣出版に重版希望のメールを送っていただければ幸いです。
 今後の出版予定は、東大入試問題をもとにした『大人の教養本』を長崎出版から公刊予定です。日本史・世界史・現代文(哲学)を予定しています。
 また歴史研究では、戦国期六角氏の系譜を詳しく論じた『偽系図と史実』、佐々貴山公・宇多源氏・佐々木氏・六角氏・京極氏・尼子氏の歴代について記した『佐々木氏の系譜』、一遍聖絵について論じた『一遍聖絵の図像学─絵画資料論をめざして』を来年順次刊行していく予定です。
 

大学受験と少子化-大学二極化の時代

わたしが大学受験指導をしている地元立川の塾は、中学・高校受験が中心であるため、わたしが教えている現役専門大学受験は50名ほどだった。わたしはそのなかの国公立早慶上智文系クラス担当(10名程度)だが、今回の受験結果を延べ人数で表すと、一橋大1名、東京外語大2名、東京学芸大1名、早稲田大11名、慶應義塾大1名、上智3名、以下略という結果だった。河合塾の隣にあって少人数にならざるをえない塾では、毎年東大文系受験者がいるわけではない。それでもほとんどの受験生が第一志望に合格したので、これだけの結果が出た。
 このように毎年大学受験を指導していて思うのは、大学の二極分化だ。少子化でも受験倍率が高い大学と、少子化の影響を受けている大学の格差は年々広がっている。境界は「日東駒専」(日本大・東洋大・駒沢大・専修大)だ。少子化社会であっても人気大学の倍率が下がることはなく、あいかわらず激戦だ。ただし安泰なのは早慶上智であり、明治・立教などは横ばい。法政が新学部を次々と展開させたのは危機意識からだろう。実はこれら上位の大学でも、付属高校からの推薦枠を増やした大学がある。横ばいといっても実質的には易化といえるかもしれない。
 一方「日東駒専」未満の大学は、AO・自己推薦入試で簡単に入れる。なかには大学説明会に参加して、そのままAO入試を受験すれば合格できる大学まである。これらの大学は推薦枠を広げているため、それだけ一般入試の定員が少なくなり、2月入試を受験するよりも、定員の多いAO・自己推薦入試で受験するほうが簡単に合格できる。どこの大学でもいいのであれば、塾に通って2月試験を受ける必要はない。身近に提出書類を添削してくれる人がいれば、簡単に合格できる。実際に、わたしが教えている塾でも、一般入試では大学に入れないだろう受験生が、AO・自己推薦入試で容易に合格できた。大学生の学力低下が叫ばれているが、受験の現場から見れば、大学生の学力低下は大学側の自業自得に見える。
 危機意識を持っている大学がやることは、新学部の設置、カリキュラム変更による専門学校化、女子大の共学化だ。法政の場合は大学のイメージを好転させるのに一時的であれ成功したが、ほとんどの大学では新学部設置は失敗に終わり、既存の学部に比べれば合格しやすく、しかも既存の学部も含めて大学全体を易化させている。また短大から四年制になった女子大学、女子大学から共学になった大学も、ほとんどが失敗だ。女子大学が共学になっても、特色のない平凡な大学がひとつ増えるだけだからだ。かえって、女子大のままで人気が復活している大学もある。
 新学部設立で成功しているのは、医薬看護系学部・こども学部だ。しかし心理学科がそうであったように、大学が就職まできちんと面倒を見られるのか疑問だ。これらの学部の就職先は、東京では飽和状態だからだ。かといって学生は地方での就職を好まない。将来のことを考えず、安易に学生の集まる学部をつくろうとしているだけのように見えてしまう。
 カリキュラムを変更して、専門学校化する大学も多い。わたしが講師を勤めていた芝浦工業大学もそうだ。専門学校が大学を設立しているのと期を同じにして、大学が専門学校化している。大学が社会でも役立つ学問を目指すのはいいが、「いま」役立つ学問は「将来」使い物にならない。大学で「いま」役立つことしか学べなくなったら、時代の変化に対応できない卒業生を大量に社会に送り出すことになる。変化の激しい時代だからこそ基礎が必要だということが忘れ去られているようだ。実際に、基礎学問を重視する大学と、専門学校化を選択する大学で二極分化がおきている。
 大学を選ぶときには、まず自分が「日東駒専」以上の実力か未満の実力か見分けることだ。未満であれば、学校見学にはまめに行き、AO・自己推薦入試で受験することだ。「日東駒専」以上なら、伝統校を選ぶことだ。受験というシステムはもともと、生まれ育ちに関係なく学力だけで判断してくれる平等なシステムなのだから。

4月東京勉強会

4月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。
【日時】
4月16日(日)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A
 13時~15時 哲学講座『解釈学・系譜学・考古学』
 15時~17時 歴史講座『佐々木荘と佐々木氏』
4月30日(日)江戸東京博物館・第二学習室
 13時~15時 哲学講座『母国語』
 15時~17時 歴史講座『鎌倉御家人佐々木氏』

 【会場】
 4月16日(日) : 東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A
 4月30日(日) : 江戸東京博物館・第二学習室
東京ウィメンズプラザ
 青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html
江戸東京博物館
 JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
 都営大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/raikan/kotsu.html
【会費】
 3,000円

今後の予定
5月講演会
 5月20日(土)夜間:東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
6月講演会
 6月 3日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 6月10日(土)夜間:東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C
7月講演会
 7月22日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
8月講演会
 8月 6日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 8月22日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室

4月京都勉強会

4月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2006年4月9日(日)
 哲学講座:13時~15時
 歴史講座:15時~17時
【演題】
 哲学講座 『解釈学・系譜学・考古学』
 歴史講座 『鎌倉御家人佐々木氏』   
【会費】
 3、000円
【会場】
 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
 http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html
 
今後の予定
5月14日(日) キャンパスプラザ京都  和室    13時~17時
6月11日(日) キャンパスプラザ京都 第1演習室 13時~17時

『佐々木六角氏の系譜』ついに公刊 !!

お待ちどうさまでした m( _ " _ )m
ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』が納品されます。流通にのるにはもうしばらく時間がかかるかと存じますが、最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。
すでに研究者・書店・近江佐々木氏の会の方でご注文いただけた方々には、厚く御礼申し上げます。
判型:四六判 200頁
定価:2,310円(税5%込)
初版年月:2006年03月刊行予定
ISBN:4-7842-1290-6

【内容】
入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されている佐々木六角氏系図について、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくる─
これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として用いられなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえ、そのもとになった史実を明らかにする試み。
平安から戦国まで、佐々木六角氏の系譜をたどり、35人について、その事績を明らかにする。佐々木六角氏の人物事典としても有用。
【目次】
はじめに
系譜学の方法
宇多源氏の系譜
一品式部卿敦実親王
左大臣源雅信
源宰相扶義
四位中将成頼
左馬頭良経
蔵人経方
常恵冠者為俊
源行真申詞記
佐々木源三秀義
蔵人尉定綱
山城守広綱
近江守信綱
壱岐大夫判官泰綱
備中守頼綱
備中判官時信
大夫判官氏頼
右兵衛佐義信
左京大夫満高
大膳大夫満綱
兵部大輔持綱
近江守久頼
御屋形様政勝
大膳大夫高頼
近江守氏綱
江州宰相義久
徳川公義秀
左兵衛佐義郷
大本所義堯
左衛門督侍従義康
左馬頭義政
朝倉義景
弾正少弼定頼
左京大夫義賢
右衛門督義治
中務大輔高盛
おわりに
あとがき
参考文献

『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』近日公刊!

いよいよ佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』が刊行されます。最寄りの書店か、出版元の思文閣出版にお問い合わせ下さい。また勉強会でもお分けできるようにいたします。サインをご希望の方はおっしゃってください。
判型:四六判 200頁
定価:2,310円(税5%込)
初版年月:2006年03月刊行予定
ISBN:4-7842-1290-6
【内容】
入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されている佐々木六角氏系図について、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくる─
これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として用いられなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえ、そのもとになった史実を明らかにする試み。
平安から戦国まで、佐々木六角氏の系譜をたどり、35人について、その事績を明らかにする。佐々木六角氏の人物事典としても有用。
【目次】
はじめに
系譜学の方法
宇多源氏の系譜
一品式部卿敦実親王
左大臣源雅信
源宰相扶義
四位中将成頼
左馬頭良経
蔵人経方
常恵冠者為俊
源行真申詞記
佐々木源三秀義
蔵人尉定綱
山城守広綱
近江守信綱
壱岐大夫判官泰綱
備中守頼綱
備中判官時信
大夫判官氏頼
右兵衛佐義信
左京大夫満高
大膳大夫満綱
兵部大輔持綱
近江守久頼
御屋形様政勝
大膳大夫高頼
近江守氏綱
江州宰相義久
徳川公義秀
左兵衛佐義郷
大本所義堯
左衛門督侍従義康
左馬頭義政
朝倉義景
弾正少弼定頼
左京大夫義賢
右衛門督義治
中務大輔高盛
おわりに
あとがき
参考文献

3月京都勉強会

3月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2006年3月12日(日)
 哲学講座:13時~15時
 歴史講座:15時~17時
【演題】
 哲学講座『発想の転換』
 歴史講座 『佐々木六角氏の歴史』   
【会費】
 3、000円
【会場】
 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
 http://www.kcif.or.jp/jp/footer/05.html
 
今後の予定
4月 9日(日) 京都市国際交流会館 第4会議室 13時~17時
5月14日(日) キャンパスプラザ京都  和室    13時~17時
6月11日(日) キャンパスプラザ京都 第1演習室 13時~17時

3月東京勉強会

3月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。
【日時】
3月 5日(日)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A
 13時~15時 『系図伝承論』
 15時~17時 『発想の転換の方法』
3月11日(土)江戸東京博物館・第二学習室
 13時~15時 『発想の転換の方法』
 15時~17時 『佐々木氏の歴史』

 【会場】
 3月 5日(日) : 東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A
 3月11日(土) : 江戸東京博物館・第二学習室
東京ウィメンズプラザ
 青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html
江戸東京博物館
 JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
 都営大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/raikan/kotsu.html
【会費】
 3,000円

今後の予定
4月講演会
 4月16日(日)午後:東京ウィメンズプラザ・視聴覚室A
 4月30日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室
5月講演会
 5月 3日(祝)午後:東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
 5月 5日(祝)午後:東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
 5月20日(土)夜間:東京ウィメンズプラザ・第一会議室A
6月講演会
 6月 3日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 6月10日(土)夜間:東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C
7月講演会
 7月22日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
8月講演会
 8月 6日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 8月22日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室

『系図資料論』序

 わたしたちは似たものに同じ記号を付け、同じカテゴリーに分類する。たとえば系図に作為と錯誤が多いという符号が付けられたことで、すべての系図資料が実証的な歴史研究の資料にはなりえないと思われた。たしかに系図の記述そのままを信じることはできない。佐々木系図で近江国佐々木庄に最初に留住した伝えられる源成頼は、実際には四位中将という殿上人であり、近江国に留住した形跡はない(1)。系譜伝承のまま源成頼が近江に留住したと記述すれば誤りとなる。しかし系図は、本当に実証的研究の役に立たないものなのだろうか。
 たとえば、佐々木氏が宇多源氏(宇多天皇を祖とする源氏)であることはよく知られている。前述の佐々木氏の祖中将源成頼は宇多源氏宰相扶義の長子である。そのため佐々木氏であれば源氏という固定観念を持つ。
 ところが、佐々木一族の山崎系図には「佐々木末流平氏」と記されている(2)。常識で考えれば、佐々木氏が平氏であるはずはない。やはり系譜伝承には誤りが多いという常識的な結論に至って終わる。このように常識と系譜伝承が食い違ったとき、常識が疑われることなく系譜伝承が疑われる。そして、それ以上深く探究されない。
 しかし院政期の宇多源氏流佐々木庄下司季定(本名為俊)は、『中右記』など当時の記録で「平為俊」と記されている(3)。彼は『平家物語』にも登場する白河院の寵臣為俊(左兵衛尉・検非違使)であり、童形のうちから院北面に列していた(4)。北面は、院御所の北面にいて院中を警衛する武士である。佐々木系図では佐々木季定の元服後の名乗りを「常盤恵冠者」と伝えられ、『尊卑分脈』でも「常恵冠者」「本追捕使為俊」と記されており、寵臣為俊に相応しい系譜伝承を伝えていたが、これまで平為俊と同一人物とは見られることはなかった。しかし佐々木氏が源氏であるという常識をひとまず脇に置くことで、佐々木季定(本名為俊)と平為俊が同一人物であることが見えてくる。実は父経方(散位経重)も平氏を名乗っていた(5)。
 佐々木庄の一部は白河院の孫前斎院悰子内親王(堀河天皇の第一皇女)領となり、さらに天承元年(一一三一)白河院の冥福を祈るために神宮御厨となった。佐々木御厨内の神宮神社では、三月五日の祭礼で白河院の歌「さき匂ふ花のけしきを見るからに神の心なよそにしらるゝ」を唱える慣例があった(6)。前斎院領の母体であった佐々木荘全体も、天皇家領であったと推測できる(7)。 このように佐々木庄は白河院と関係が深い。佐々木庄は為俊によって白河院に寄進されたと考えられる。
 のち為俊は村上源氏丹波守季房の養子になり、源家定と名乗った(8)。これで佐々木氏は源氏に復したことになる。永治二年(一一四二)白河院の養子である後三条源氏の左大臣源有仁が佐々木庄領家であり、また清和源氏の源為義が同庄預所であったが、このとき為俊の一族佐々木庄下司行真も源氏を名乗っている(9)。さらに源有仁没後には、後白河院近臣である宇多源氏時中流の権大納言資賢家が、佐々木庄の領家職を獲得したのだろう、その子孫が佐々木(佐々木野)を家名にした。こうして佐々木庄は源氏一色となった。
 佐々木氏に関しては、為俊以前は源氏を名乗っていなかったかもしれないと考えることで、為俊以前の系譜を実証的に研究できるようになる。
 ところで為俊の系譜上の子息源三秀義は、平治の乱後に東下したが、それ以前の秀義の事跡で明らかなのは佐々木庄領家・預所であったことだけである。預所職は系譜伝承にもあるように、同庄預所源為義の娘婿になったからだろう。では同庄領家職を獲得したのは、どうしてだろうか。『尊卑分脈』によれば、後白河院近臣源資賢の三弟資長が有事によって遁世し東下している(10)。佐々木庄領家であり、有事で東下したという点で、秀義と資長の事跡は一致する。このことは、『尊卑分脈』の記述に注目することで気づくことのできたことである。
 『吾妻鏡』治承四年八月九日・十日条によれば、秀義は平治の乱後に叔母の夫奥州藤原秀衡を頼るために東下したが、途中東国武士に引き留められて、秀義・定綱父子はそれぞれ相模国渋谷重国と下野国宇都宮朝綱に寄食していたという。しかし秀義の養父為俊は、検非違使の功績で叙爵(叙従五位下)されると、仮に宿官として下総介(下総国司次官)に補任されたのち、正式に駿河守(駿河国司長官)を受領している(11)。さらに秀義(資長)の実兄源資賢は、上総国の知行国主であった。『公卿補任』で、資賢が近親者を上総介に推挙していたことが確認できる。佐々木氏は、頼朝挙兵以前にすでに東国豪族と交流があったのである。また実兄が後白河院近臣であれば、秀義の東下は単なる逃避行ではなく、密命を帯びていたとも考えられる。その後、佐々木氏は定綱・経高・盛綱・高綱・義清ら兄弟の活躍で鎌倉幕府創建に大きく貢献し、有力御家人として数カ国の守護や幕府要職を歴任したほか、京武者として検非違使を世襲官途にした。
 このように山崎系図や『尊卑分脈』の記述に注目することで、多くの史実が見えてくる。系譜伝承は、実証歴史学に仮説を提供することができる。系譜伝承と常識が異なっていたとき、系譜伝承を作業仮説に立てることで常識を揺さぶることができる。そのことで、それまで見えてこなかったものが見えて来る。
 常識では考えられなかったものと出会ったとき、ありえないと言って無視するのではなく、面白いと思って探求することが大切だろう。そのことで新しい事実が見えてくる。系譜伝承には誤りが多くて資料として使用できないという常識も、疑わなければならない。系譜伝承も歴史の中から生まれて来たものであり、系譜伝承を資料から排除すれば、当然抜け落ちる史実がある。系譜伝承を資料として使用すれば、これまで無視されてきた史実をすくい出せるだろう。
 歴史学において常識を疑うという作業は、この歴史の多様性を記述するためには必要な作業であり、歴史学を活性化させる重要な作業である。ひとつの見方と確実な資料だけで歴史を再構成すると、堅実な歴史像が構築できるどころか、かえって歴史を歪めてしまうことになる。

【注】
(1)『権記』長保三年八月四日条、および同五年八月七日条。
(2)寛永十五年九月日付佐々木末流平氏山崎系図。近江佐々木氏の会山崎正美氏のご指摘による。
(3)『為房卿記』寛治六年正月二十五日条、『中右記』寛治七年三月二十日条、『中右記』寛治八年三月八日条、『中右記』嘉保三年七月十日条、『殿暦』康和二年正月五日条、『中右記』嘉承三年正月二十四日条、『殿暦』天永二年十月十七日条ほか。
(4)『平家物語』俊寛沙汰・鵜川軍。
(5)(『康平記』康平三年七月十七日条、同月十九日条。『帥記』康平八年七月七日条)
(6)『蒲生郡志』巻六、二四四-五頁。
(7)西岡虎之助『荘園史の研究』下巻の一(岩波書店、一九五六年)四四二-三頁。
(8)(『長秋記』長承三年(一一三四)五月十五日条の賀茂行幸の記事で、舞人のひとりとして四位陪従家定が見える。「舞人左中将公隆、右少将公能、侍従公通、政範、為通、光忠、右大臣孫、蔵人二人泰友、ゝゝ、四位陪従忠盛、家定」という記事である。殿上人ではない地下の四位・五位で、行幸に随従する者を陪従という。このとき忠盛は鳥羽院北面であったが舞人として随従した。忠盛とともに四位陪従と記されている家定も、舞人として随従した鳥羽院北面であろう。忠盛とともに鳥羽院北面に列した為俊の改名後の実名と考えられる。さらに同記保延元年(一一三五)四月二十一日条に「家主季房朝臣、家定朝臣以下、一家人々十二人也」とあることで、季房の養子になることで源氏を名乗ったことが分かる)
(9)『平安遺文』〇二四六七号。
(10)『尊卑分脈』宇多源氏流、源資長の項。
(11)『殿暦』康和二年正月五日条。『魚魯』七。『中右記』嘉承三年正月二十四日条。

系図研究史

 家系・系図の研究でまず思い出されるのは、太田亮氏である。太田氏は系譜学会を組織して、機関誌『系譜と伝記』(のち『国史と系譜』)を発行し、各地の愛好家から多くの論考が寄せられた。『姓氏家系大辞典』はそのような広大な基盤の上に完成したものである。太田氏は家系に関する資料を集めて整理し、歴史資料としての系図の価値を高めようとしたと評価できる。
 その一方で史実探究を急いだために、同一地域に古代豪族と中世豪族があった場合には、中・近世の系図を疑って中世豪族を古代豪族の直系の子孫とした。たとえば宇多源氏流左大臣源雅信の子孫という佐々木氏の系譜伝承も、平安時代後期の貴姓を称する風潮の中で、古代豪族佐々貴山公の子孫が公卿源氏の子孫を詐称したと断定した。太田氏は系図の資料価値を高めるために、疑わしいものはまず否定したのである。宇多源氏登場以前、平安時代中期の土地売買に関する田券(12)で、近江蒲生郡の郡司佐々貴山公房雄とともにその一族として佐々貴氏が登場すれば、後世の佐々木氏は宇多源氏ではなく佐々貴山公の子孫と考えたのも無理はない。中世佐々木氏の宇多源氏という系譜伝承は疑われ、佐々木氏は全て古代佐々貴山公に結び付けられた。
 古代氏族の系図研究では佐伯有清氏の『新撰姓氏録』研究が著名であり(13)、記紀の記述を裏付ける/あるいは相対化する一級資料としての系図の重要性が注目された。「海部氏系図」「和気(円珍)系図」などの古い形の竪系図や、「下鴨系図」「上賀茂社家系図」「出雲国造系図」など中・近世の系図の中に書写されている古系図が著名である。しかも古系図は一般的に資料的価値が高いとされている。そのため中・近世の系図を疑い、中世豪族を古代豪族に結びつけることが学問的と考えられたのである。
 たしかに多くの中・近世の系図は、系図の先端が源氏や平氏・藤原氏など貴種に安易に結び付けられている。しかし中世では、天皇家も特定の職掌を相伝するひとつのイエであり、武家や寺社と並ぶ権門のひとつにであった。中・近世系図は自らの家系を直接天皇に結び付けたものではなく、自らが属する/あるいは属していた中世の権門に結び付けたものといえる。清和天皇に結び付けたのでなく、武家の棟梁清和源氏に結び付けたのである。そこでは擬制的親子関係・同族関係が築かれたのであり、単なる作為とはいえない。また中央貴族の子孫が国司の任期を終えたのち、古代豪族が継承していた職掌を、擬制的親子関係を結ぶことで継承して留住することもあった。そうであるにもかかわらず中世のイエをただちに古代のウジに結び付けるならば、中世を古代の単なる延長と見なすことになり、天皇を相対化した中世のイエを、天皇中心の古代の氏姓のなかに組み込み序列化していくことになる。これでは中世のあり方の特異性を考察できず、かえって歴史を歪める。やはり中・近世系図独自の研究を進める必要がある。
 古代氏姓に重点が置かれていたことを除けば、『姓氏家系大辞典』は今日でも十分に家系・系図研究に資する大辞典である。ただし私の研究に役立っているのは、そこにおける考察ではなく、むしろ無批判に採集された系図資料である。史料批判も真に価値自由なものではなく、つねに批判する側の主観が入り込んでいる。そのため学問環境が変われば採用基準も変わる。従来採用されていなかった資料が、やがて採用されるようになる。それが、無批判に集積された系図資料が今日役立っている理由である。
 義江明子氏が指摘しているように(14)、現在の系譜資料論には、家族・親族研究の流れと系図を視覚的に把握する記号論・象徴論の流れの二つの潮流がある。
家族・親族論研究の流れでは、網野善彦氏の研究が先駆けとなった。網野氏は歴史資料としての系図の意義に注目し、女系の記述が豊富な西日本型系図について論じた論文「若狭一二宮社務系図」(15)では、一九七〇年代後半から八〇年代にかけて展開した古代・中世家族史研究の先駆けをなした。このように系図から、名前に見られる家族史的視点や婚姻関係を明らかにすることができる。
 また義江明子氏は、竪系図と横系図の違い、系線の引き方・曲げ方、人名の形式、省略記号の有無、押印の場所、空間のとり方など、微細な表記形式がそれぞれ意味をもつことを主張した。内容の書き換え・造作も無意識のうちにその時代の系図様式に則って行われるという。系図の様式がそれぞれの時代で変化するものであれば、まちがいなくそこには時代の意識と無意識が反映する。このように系図は紛れもなく、かけがえのない一級資料である。系図の様式に注目することで新たな研究方法も確立されよう。
 この方法は中・近世系図にも応用できる。例えば中世系図には視覚的に上位世代では単線的であり、下位世代になるほど増大する正三角形状になるという特徴がある。これまで上位世代の単線の部分は、貴種につなげるための架空の人物と見なされてきた。たしかに、そのようなものもあろう。しかし、全てがそのような作為とは言えない。中世前期には職継承を中心とする非血縁の相伝系図が多く、それらが単線的な系図だからである。上位世代が単線的で下位世代が三角形という形の系図は、視覚的に単線に見える上位世代の部分は相伝系図で、視覚的に正三角形状に増大していく下位世代の部分は血縁優先のイエ系図と考えられる。そのような系図の形は、中世前期=職継承を中心とする非血縁の相伝系図から、中世後期=血縁優先のイエ系図へと系譜意識が変遷したことを示している。
 さらに黒田日出男氏は『若狭国鎮守神人絵系図』の研究で、絵系図がもっている時間の向き、肖像画の顔の向きや視線の位置などにも注目して、文字だけではなく肖像画も含めて総合的に絵系図を解釈した(16)。絵系図の場合は、その美術的価値だけではなく、視覚化されたものを探究することがきわめて重要である。その系図が何の相伝を記述したものか、それをどのように表現しているか、それぞれの文脈の中で研究する必要がある。
 このような傾向は従来の文字資料偏重の傾向に対する反省から、絵画をはじめとする文字以外の資料が今日注目されていることと関係がある。人間の生活は文字だけで成立しているのでない。そのため文字資料だけで歴史を再構成すれば、文字を残さなかった人々についての史実は抜け落ちる。それでは、政治史から社会史、さらに生活史に移行してきた現在の歴史学がもつ現代的課題に応えられない。そこで文字以外の資料を使いこなす技法が必要になった。その方法の開発はまだ端緒に着いたばかりだが、系図でも文字だけではなく、全体の構成や系線のとり方も注目されるようになった。文字資料だけでは読み取られなかった史実も、絵画資料から読み取れられた。しかし系図の視覚を重視するあまり、言葉を排除しては片手落ちだろう。文字と図形の両方があってはじめて、ひとつの系図として成立しているからだ。やはり文字と視覚の両者を総合して研究する必要がある。
 網野善彦氏は「系譜・伝承資料学の課題」(17)で、系図・系譜は集団や個人による自らの関わった歴史叙述の一形態であり、神話・伝承と正確な史実との狭間にあると指摘した。これは、系譜資料の特質を言い当てている。しかし今日の中・近世系図研究は、内容が信用できる中世の古系図が中心である。それでは旧家に残るほとんどの系図を資料として活かせない。
 現在の系図研究に求められるものは、単に史実と作為との区別にとどまるのではなく、その作為の意味を積極的に読み解く史料批判の方法の確立である。しかし実は、それだけでは系図研究は十分ではない。史実ではない虚偽の内容の中には作為だけではなく、錯誤も含まれている。錯誤は意図して作られたものではなく、史実が誤り伝えられたものである。そのため錯誤を読み解くことは、新しい史実の発見につながる可能性がある。そこで、私は錯誤を隠喩として読み解くことを目指す。
 系譜記述にある隠喩性を解明することで、虚偽と分類されたものの中から、もういちど真実を取り出すことができる。まず虚偽を作為と錯誤に区別して、錯誤に注目する。錯誤は無意識のうちに出て来た真実の吐露といえる。新しい形式を学ぶとき、人は誰でも誤る。旧来の形式をそのまま当てはめるからである。そのため本人がどのような間違いをしたかで、彼が元々もっていた旧来の形式を知ることができる。旧来の形式はまさに本人にとっては思考の枠組みになっていたものであり、無意識のうちに対象に当てはめる。その枠組みを明らかにすることも歴史学の研究対象であり、さらにその思考の枠組みを取りはずしたのちに残る沈殿物も研究対象である。絵画に当時の意識と無意識が反映しているように、文字資料にも当時の意識と無意識が反映している。私の試みは、文字資料の中の無意識を明らかにする試みである。
 これまで系図は資料としてはまったく信用されなかった。たしかに系図には誤りが多い。その点で常識は正しい。しかし系図が提供する情報のすべてが、資料価値がないわけではない。それにもかかわらず系図を無視しては、系図の中に隠喩として含まれている史実も無視することになる。系図の誤りを作為と錯誤に区別し、作為からは当時の人々の意図や意識を、また錯誤からは無意識や史実を見つけ出すことができる。系図に女性が記されているかどうかだけでも、当時の人々の心性を見出せる。しかも系図は図形化されているから、空間のとり方や系線の引き方にも当時の人々の意識/無意識が現われる。それを規定することで、記憶の中でぽっかりと空いた穴の中に埋没していた史実をすくい出すことができよう。

【注】
(12)承平二年正月安吉郷上田庄田券(東寺百合文書):『蒲生郡志』三一九号(巻二、八-一五頁)に掲載。
(13)佐伯有清『新撰姓氏録の研究』本文編・研究編、吉川弘文館、一九六二-三年。
(14)『日本古代系譜様式論』吉川弘文館、二〇〇〇年。
(15)『日本中世史料学の課題◆系図・偽文書・文書』弘文堂、一九九九年。初出は「中世における婚姻関係の一考察」地方史研究一〇七号、一九七〇年。
(16)黒田日出男「若狭国鎮守神人絵系図の世界」(『朝日百科日本の歴史』別冊歴史の読み方八、名前と系図・花押と印章、朝日新聞社、一九八九年三月)。
(17)網野善彦「系譜・伝承資料学の課題」古文書研究五〇号、五-一五頁、一九九九年。

資料としての系譜伝承

 系図は、実証的研究ではまず無視される資料である。しかし系図・由緒書は、それが作成された時代の歴史叙述の一形態であり、時代の思潮や社会の動向をとらえるための絶好の資料である。歴史学だけではなく社会学・民俗学・文化人類学など学際的研究を通して人類史的視点から姓名・系譜のあり方を解明すれば、日本社会の特質を捉えることもできる。このように系図は貴重な資料であり、その調査・収集・保存・整理を体系的に進めることが急がれる。しかし、そのための基礎的な前提となる系譜学を資料学として確立するには、まだまだ未解決の課題が膨大に残されている。研究の空白はあまり広大である。
系図の使用法のひとつに、系図上の人物の業績内容を捨象して系図の形式に注目する方法がある。形式はそれぞれの時代ごとに不変である。それは、それぞれの時代にとって普遍的と思われているものを表象しているからである。そのような形式を研究することで、系図作成者の意図を越えて彼の思想を制約する歴史性を知ることができる。その歴史性は、歴史学が明らかにしようとする歴史的事実のひとつである。また形式の研究が進めば、形式を見ただけでどの時代の系図なのかも分かる。そうすれば年代同定のための基準にもなろう。
もうひとつ系図の内容に注目する方法もある。そのひとつとして、すっかり出来上がっている系図の記述をいちど解体し、そこからあらためて過去の破片を一つ一つ選り分けて整理し、新たな歴史像をつくり上げる方法がある。系図作者の解釈をいったん壊して、系図記述の内容をその属性まで分解する。人間の想像力はけっして無限定なものではなく、既存のものを延長させるものでしかない。もとになった史実を探究するために、内容を属性にまで分解して抽出する。そして、そこから作業仮説を立てて資料によって検証していく。
例えば沙々貴神社所蔵佐々木系図によれば、鎌倉後期の近江守護六角頼綱(佐々木備中守)の娘に参議左大弁俊雅の母という女性がいる。しかし頼綱と同時代の公卿に俊雅という人物はいない。『尊卑分脈』によれば、参議俊雅は平安後期の醍醐源氏流(醍醐天皇を始祖とする源氏)の人物である。もちろん鎌倉後期の人物六角頼綱と時代が一致しない。
同系図によれば、俊雅の母は平安後期の清和源氏頼光流である摂津源氏頼綱(三河守頼綱)の娘である。六角氏は宇多源氏流佐々木氏の惣領家であり、六角頼綱も公文書では「源頼綱」となる。そのため後世の人物が二人の源頼綱を混同してしまったのである。
通常ならば、この段階で沙々貴神社本の誤りを指摘して検証を終える。これでは系譜伝承は誤りが多いものだと結論づけるしかない。しかし、これでは系図研究はいつまで経っても確立されない。系譜伝承は口頭伝承と同様、多くの比喩に富んでいる。錯誤を何かしらの歴史的事実の象徴あるいは比喩として考察すれば、もとの事実にたどり着くことができる。「俊雅母」もそのような錯誤である。そこで「俊雅母」を隠喩と考え、そこから事実を選り分けていく。
まず「俊雅」から公卿という属性を探り当てる。そして六角頼綱の娘の一人が公卿に嫁いだという作業仮説をつくり、公卿の系図に当たる。すると『中山家譜』(18)で、中山定宗(権中納言)の母が「備中守源頼綱女」であることが分かる。中山家は白河院政期の摂政・関白藤原師実(頼通の嫡子)の子孫である花山院流藤原氏の分流で、公達だけが補任された近衛少将・中将(唐名羽林次将)を経て大納言に至る家格羽林家の一つである。六角氏にはもともと頼綱の娘が公卿に嫁いだという系譜伝承があったと考えられる。系図を作成する段階で『尊卑分脈』醍醐源氏流にある源俊雅の記事を見た系図作者が、「源頼綱女」をそのまま六角頼綱の娘と判断して、佐々木系図の六角頼綱の娘の項に「俊雅母」の記事を書き加えたと推定できる。このことはまた、沙々貴神社本の作者が『尊卑分脈』を参照していた歴史的事実を浮かび上がらせる。系図の錯誤から、1.六角頼綱の娘が公卿中山定宗の母であったという歴史的事実と、2.系図作者が『尊卑分脈』を参照していたという歴史的事実を明らかにできた。
このように系図記述の虚偽には作為と錯誤があるが、錯誤は史実の誤伝であり、そこには隠喩として史実が含まれている。そこで系図記述の誤りを作為と錯誤に区別して、錯誤が隠喩している史実を探究する。そのことで、これまで無視されてきた新たな史実を発見できる。系図を考察するには、錯誤を錯誤と判断したところで考察を停止するのではなく、さらに考察を続けて、錯誤の源流にある歴史的事実を注意深く選り分けていく作業が必要である。
実践に応用しやすいように、もう一つ実例を挙げておこう。沙々貴神社本や『寛政重修諸家譜』では、前述の鎌倉後期の頼綱の子息宗綱が左京大夫(従四位下相当)・備中守(従五位上相当)で、九カ国守護だったと伝える。しかし、これは南北朝期の氏頼の子息義信(法名崇綱)・満高(本名満綱、法名崇寿)兄弟の事跡を宗綱のものと混同したものである。実は義信の法名は崇綱であり、宗綱と間違われやすい。宗綱の事跡とされている左京大夫・備中守は、義信の弟満高のものであった(19)。『寛政重修諸家譜』宇多源氏佐々木系図(第四百之一)で宗綱の項に九カ国守護とあるのは、六角氏の所領が分布していた国の数と考えられる。このような錯誤は系図ではよくある。だから宗綱の事跡を一次資料によって否定しただけでは十分ではない。それを何かの隠喩と判断する必要がある。
これまで系図を資料価値がないと見なしてきた実証歴史学は、系図の錯誤を否定するにとどまり、せっかく歴史的事実の隠喩があるにもかかわらず無視してきた。実にもったいない話である。
また沙々貴神社本で父氏頼の晩年の事跡とされる右兵衛佐は、実は義信のものと考えられる。しかも沙々貴神社本では氏頼が補任された守護国を近江・若狭・丹波・但馬・伊賀と伝えているが、このうち丹波は義信の事跡と考えられる。義信は、貞治元年(一三六二)十二月二日に将軍足利義詮の加冠で元服しており(20)、その直後の貞治二年(一三六三)から翌三年(一三六四)のあいだ右兵衛佐が丹波・丹後守護であった。この右兵衛佐は、貞治二年(一三六三)十二月二十四日材木を石清水八幡宮造営のために送ることが命じられているが(21)、当時氏頼が禅律方引付頭人として石清水八幡宮造営を担当している(22)。この右兵衛佐が義信の可能性が高い。氏頼を右兵衛佐や丹波守護であったとする系譜伝承は、これらの事実を隠喩していよう。父子の事跡を混同することは系図ではよく見られる。
このように系図にある宗綱や氏頼の事跡を見て誤りだと指摘して、偽系図の烙印を捺すだけでは、資料としての系図を論じたことにはならない。これでは自分の想像力の無さを系図の所為にしているだけである。系図作者の意図や錯誤を明らかにするだけではなく、錯誤のもとの事実にまで到達しなければ、系図を研究したとはいえない。今までの資料論では、この視点が抜けていた。これまでの系図論は系譜叙述の作為や錯誤を指摘するものであり、系図を資料として評価する場合でも系図の形式に注目するだけに留まっていた。これまで歴史学は主観性を排除していたのだから、系図作者の主観性を研究しようという視点が抜けても当然である。私の立場はむしろこの主観性を読み解くことで、錯誤さえも資料にしてしまおうという欲張りな方法である。いや、無駄をしない節約的な方法といえる。

【注】
(18)東京大学史料編纂所写本『中山家譜』(原題『中山家系』)中山忠能差出、一八七五(明治八)年。
(19)左京大夫については、『花営三代記』応永三十一年十二月二十七日条。
(20)『花営三代記』貞治元年十二月二日条。
(21)『大日本古文書』石清水文書之六、菊大路家文書一五一号。
(22)『師守記』貞治三年四月十九日条。

資料としての家紋

 上杉本洛中洛外図は、誰が上杉謙信に贈ったものかが問題になっている。今谷明氏は屏風に描かれている景観を綿密に考察し、とくに変転の激しい武家邸宅に注目して年代比定を試みた(23)。そして公方様(将軍邸)・細川殿(管領細川邸)・典厩(細川典厩邸)・武衛(旧斯波邸、将軍家別邸)・伊勢守(政所執事伊勢邸)・畠山図子上臈(旧畠山邸)・和泉守護殿(和泉守護細川邸)・薬師寺備後(摂津守護代薬師寺邸)・三好筑前(三好長慶邸)・高畠甚九郎(山城郡代高畠邸)・松永弾正(松永久秀邸)の存在や規模・位置・名称に注目して、天文十六年(一五四七)の京都を描いたものと結論づけた。しかし、公方邸に四つ目結紋の陣幕が張られていることには注目しなかった。四つ目結紋は近江守護佐々木六角氏の正紋であり、公方邸に四つ目結紋の陣幕があることは、六角氏が将軍の保護者であったことを象徴している。描かれたものには、何かしら作者の意図がある。公方邸に四つ目結の陣幕が張られている意味はきわめて大きい。
 戦国時代の室町将軍のうち十一代義澄・十二代義晴・十三代義輝(義藤)の歴代は、六角氏に保護されて近江に滞在していたために、近江武家(大樹)と呼ばれた。天文十六年(一五四七)当時の大御所・将軍はまさにその足利義晴・義輝父子であった。足利義晴・義輝が帰洛したことで、保護者六角氏も京都政界で活躍した。上杉謙信(当時は長尾景虎)は、永禄二年(一五五九)上洛して将軍義輝に謁見したときに、近江守護六角氏の被官河田長親(豊前守)を引き抜いて自らの執政にしている。河田氏は、管領細川氏や六角氏の使者を勤める六角氏有力被官であった(24)。
 そののちも六角氏と上杉氏の間には交流があった。天正元年(一五七三)足利義昭が信長によって京都を追放され、さらに六角氏と共同戦線を築いていた浅井・朝倉氏が相次いで滅亡した。しかし六角氏は、上杉謙信と武田勝頼の同盟を画策して上杉氏を信長包囲網に取り込むことに成功している。このときの交渉に関する六角義堯書状が、上杉文書・河田文書に伝えられている。
 上杉本洛中洛外図は、公方邸に張られた陣幕に六角氏の四目結紋が描かれていることから、六角氏から贈られたものと考えられる。このように家紋は歴史資料になる。
 ところで近江守護佐々木氏の系譜伝承では、四目結紋(寄懸目結紋)は菊紋・桐紋とともに後鳥羽院より給付されたものと伝えられている。後鳥羽院は新古今和歌集の勅撰に象徴されるように院政の権威復活を目指して、承久三年(一二二一)北条義時追討の宣旨を発給して承久の乱を起こし、隠岐に配流された人物である。このとき佐々木広綱(山城守)・経高(中務入道経蓮)ら幕府元老ともいうべき多くの佐々木氏が京都方であった。
 もともと佐々木定綱(左衛門尉・検非違使)は後鳥羽天皇の元服奉行も勤めた蔵人であり、長男広綱は後鳥羽院の北面に補任され、娘大進は後鳥羽院の愛娘春華門院昇子内親王(順徳院准母)の女房となっていた。この定綱が蔵人在職中に後鳥羽天皇から賜った御服(袍)に、菊・桐の文様があったと考えられる。菊・桐紋を後鳥羽院より賜ったという系譜伝承は、定綱が蔵人に補任されていたことを隠喩している。しかし四目結紋は後鳥羽院由縁のものではない。
 定綱は後鳥羽天皇の六位蔵人であるとともに、摂関家九条家と交流があった。九条兼実は源頼朝と結ぶことで摂政・関白の地位を獲得して朝幕間で権力を掌握し、その子孫が九条・二条・一条ら九条流摂関家となっている。また源氏将軍が三代で断絶したときに鎌倉に迎えられた摂家将軍藤原頼経・頼嗣父子も、九条家出身である。その九条兼実の日記『玉葉』には、佐々木定綱(六位蔵人)が九条家に付属した殿上人(家礼)として登場している(25)。
 定綱の四男信綱も、九条兼実の孫道家が左近衛大将(長官)に補任されたとき左近衛将監(三等官)に推挙されて直任し、また道家の娘/後堀河天皇中宮竴子の御産のときには絹三万五千疋を御産祈料として献じて、近江守を受領した(26)。これで信綱は近江守護職と近江守を兼任して、実質的な近江太守となった。さらに信綱の三男泰綱も、道家の子息鎌倉将軍頼経の側近になっている(27)。実は道家が子息一条実経に譲った所領の中には、佐々木女房から伝来した摂津国富島荘・美濃国古橋荘・越前国河和田新荘・同国東郷荘など佐々木領が含まれていた(28)。この佐々木女房が誰なのか今のところ特定できないが、九条家と佐々木氏の間で閨閥が築かれていたことは確認できる。
 この九条家の有紋冠の文様が、四目結紋であった。五摂家の冠の紋様は、近衛流は四つ俵菱紋で近衛家が俵菱の中に一引両、鷹司家が俵菱の中に割り二引両があるものを使用し、九条流は四目結紋で九条家が四目結紋(七割り四目結紋)、二条家が四目結紋、一条家が四菱紋であった(29)。九条流は四目結紋を基本形として、九条家では真ん中の穴が大きく、二条家では小さく、一条家では穴が無いというように変形された。九条家の家礼であった定綱や信綱は、四目結紋の冠を着けて朝廷に出仕したのである。四目結紋は後鳥羽院由縁ではなく、九条家由縁の紋であった。四目結紋を後鳥羽院より賜ったという系譜伝承は、後鳥羽院のとき九条流家礼の殿上人であったことを隠喩していた。このことから、四目結紋は平四目結紋ではなく隅立て四目結紋(寄懸目結紋)が正しいことも分かる。上杉本洛中洛外図でも、やはり隅立て四目結紋が描かれている。
 近江守護佐々木氏の本文四目結紋は冠、副紋菊・桐紋は袍というように、定綱が殿上人として朝廷に出仕したときの衣冠の文様から生まれたものだった。このように、使い方によって家紋の図柄や伝承も歴史資料になる。

【注】
(23)今谷明『京都・一五四七年--描かれた中世都市』平凡社、一九八八年。
(24)『経尋記』大永元年九月四日条。『大日本史料』大永元年九月四日条(第九編之十三、二三一-四頁)に掲載。
(25)『玉葉』文治三年正月三日条、および建久四年四月十六日条ほか。
(26)『関東評定衆伝』群書類従四輯。
(27)『玉蘂』嘉禎三年二月七日条。
(28)九条道家惣処分状(九条家文書)。
(29)鈴木敬三『有職故実図典』吉川弘文館、一九九五年、一六-七頁。

系譜記号論

 系譜記号論の契機になったのは、ひとりの歴史的人物の実在をめぐる問題に興味をもったことである。その人物は、京都の隣国近江国の戦国大名六角義実である。彼は近江守護職を世襲した宇多源氏佐々木氏の嫡流で、足利将軍の養子となり、参議兼近江守に補任されたという。
 六角義実は、従来、近世初頭の系図作者沢田源内によって作り上げられた架空の人物と考えられてきた。家系・系図研究の入門書である太田亮『家系系図の合理的研究法』(30)をはじめ、一般読者向けの家系・系図関連の書物のほとんどで、沢田源内は偽系図作者の代表者とされている。しかし近江八幡市の郷土史家田中政三氏(故人)が義実実在説(31)を主張した。
 義実がこれまで架空の人物と見なされてきたのは、江戸中期の高名な和算学者建部賢明の著作『大系図評判遮中抄』で沢田源内が偽系図作者と激しく断罪され、しかも良質な資料を隈なく見ても義実という名の人物は見当たらないからである。実在しないと思いながら良質な資料を読めば、たしかに義実は実在しない。そして従来の歴史研究は、義実ぬきで合理的で自己完結的な歴史叙述をしてきた。そこに義実が入る隙間などなかった。義実に対してよほどの思い入れがなければ、彼の実在を信じることなどできない。
 このような中で田中政三氏は、義実の実在を信じて研究活動を続けた。その彼の研究も、旧家に残る家系図や編纂物など二次資料中心であった。いくら二次資料を集めても良質な資料で確認できなければ、歴史学者集団は実在を認めない。
 ところが義実は実在すると信じて資料を読み込んでいくと、すでに研究に使用されている良質な資料に、義実の実在を示す痕跡が多くあることが分かった。たしかに義実という名の歴史的人物は見つけられなかったが、義実と同じ事跡をもつ人物を発見できた。
 近江守護職は鎌倉時代以来、宇多源氏佐々木氏の嫡流六角氏が世襲していた。しかし六角氏綱が永正十五年(一五一八)に没してから弟定頼が天文六年(一五三七)に近江守護職に補任されるまで(32)、十九年にわたる空白期間がある。その間、定頼とはまったくの別人であり、六角氏家督の仮名「六角四郎」を称した者がいた。
 天文三年(一五三四)六月八日室町幕府十二代将軍足利義晴の婚礼の様子を記録した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫)に、「四郎殿父子」が登場する。その直後の足利義晴上洛に関する『厳助大僧正記』(『厳助往年記』)同年六月二十九日条では、足利義晴の上洛に「六角四郎并小原」が供奉したと記されている。四郎殿が六角四郎であることが確認できる。さらに六角氏の菩提寺のひとつ長命寺の金銭出納帳『長命寺結解』(33)でも、天文三年(一五三四)十月から同四年(一五三五)七月にかけて、定頼(「御屋形様」)・義賢(「御曹司様」)父子とは別に「四郎殿様」が登場している。このうち同三年十月のものは、六角四郎が足利義晴に供奉して在京した際の滞在費としての支出であった。『長命寺結解』の四郎殿様が、『厳助大僧正記』に登場する六角四郎であることは間違いない。そして沙々貴神社所蔵佐々木系図や『六角佐々木氏系図略』(34)によれば、六角氏綱の嫡子義実の仮名(官途名を名乗る前の通称)はまさに四郎である。
 さらに義実は「近江守兼参議」という上流貴族/公卿(三位以上あるいは参議以上)に列する官職を有していたと伝えられている。そして実際に「江州宰相」という官途名をもつ人物が、『鹿苑日録』に天文五年(一五三六)五月から同八年(一五三九)五月にかけて登場する。江州は近江国を意味し、宰相は参議の中国風の官職名(唐名)である。江州は近江守か、近江に在国していた貴人を指しており、当時は近江守護六角氏が「江州」と称されていた。また参議は、政治を議論する役職で大臣・納言につぐ重職であった。借字を用いて「三木」と書くこともあった。定員が八人であったため「八座」とも呼ばれた。参議は、公的文書に署名するとき以外は唐名「宰相」「相公」で呼ばれた。『鹿苑日録』でも、江州宰相のことを「宰相」「相公」と呼んでいる(35)。ただし同書では、「相公」は足利将軍を意味していた。僧の中には官職名を通称とする者もいたが、『鹿苑日録』で「相公」と呼ばれている人物は僧ではない。「相公」と呼ばれている江州宰相は、将軍連枝か幕府有力者である。系譜伝承によれば義実は、母が十一代将軍足利義澄の妹であり、義澄の猶子になっていたという。まさに『鹿苑日録』で「相公」と呼ばれるに相応しい人物である。しかも当時「江州」と呼ばれていた六角氏である。
 この『鹿苑日録』は足利義満の菩提所鹿苑院の院主が書き継いだ日記である。しかも鹿苑院主は、官寺の住職の任免や/僧侶の取り締まりをする僧録を兼任していた。その鹿苑院主が書き継いだ日記『鹿苑日録』で、義実と同じ事跡を持つ江州宰相を発見したことの意義は大きい。
 さらに『鹿苑日録』を読み込んでいくと、天文八年(一五三九)三月の十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になった人物「義久」を発見することができた。彼は法事のために五千疋を納めている。越前守護朝倉孝景が天文九年(一五四〇)六代将軍足利義教百回忌で納めたのが三千疋であった(36)ことと比較しても、義久の財力は大国の国主に相応しい。また彼の代理として法事に参加した五郎次郎には、十二代将軍足利義晴の御供衆が相伴した。御供衆は将軍の側近で、中には守護クラスの者もいた。このとき五郎次郎に相伴したのは細川右馬頭晴賢・大館左衛門佐晴光・伊勢守貞親であり、いずれも有力御供衆であった。このことでも義久と五郎次郎の格式の高さがわかる。この義久が、沙々貴神社本で足利将軍の猶子と伝わる義実の実名であることは確実である。そのことでまた同系図で十一代将軍義澄の猶子とするのは、十代将軍義稙の猶子の誤りと分かる。足利義澄の猶子という系譜伝承は、作為ではなく錯誤であった。将軍義澄の猶子を誤りと捨て去るのではなく、そこから足利将軍の猶子という属性を抽出すれば、十代将軍義稙の法事を主催した人物義久につながる。属性を抽出する方法が、錯誤を読み解くのには必要である。
 このように実名が異なっていたのでは、いくら義実を資料で見つけようとしても無理である。義実が実在するに違いないという主観性から出発したからこそ、結果として義実と同じ事跡をもつ義久に行き着くことができた。義実がいないという立場で読めば、義久には行き着かない。義久を見つけても六角義実と同一人物とは思わないだろう。結局、義実は実在しなかったと結論づけられる。このように、確実な資料を一つ一つ積み重ねていったとしても、確実に真実には至るとは限らない。ここでは、義実が実在するという自分の主観から出発したことで、義久という歴史的事実にたどり着くことができた。
 一般的には主観性と客観性は対立していると思われている。そのため、主観性から出発したことでかえって客観性にたどり着いたことは、哲学的にとても興味深い。
 義実が存在するという主観から出発して義久に行き着いたことは、資料がけっして主観の思いのままに解釈できるわけではないことを示している。認識主観が自らの概念を疑えば、資料も問いかけに答えてくれる。このように資料を読むときに認識主観を制約するものとして実在化するものが、歴史叙述の根拠である史実である。義実の実名が義久であったことの発見の意義は、歴史的事実が何であるかを考えるに当たっても重要な意義を有している。
 さらに滋賀県和田文書には義秀の死を悼む信長書状(37)が収められている。滋賀県山中文書(神宮文庫)では、織田信長包囲網を築いた六角承禎書状の文中に六角氏当主(大本所)として「義堯」が登場する(38)。義堯は、滋賀県内の木村文書・黒川文書のほか、上杉文書・河田文書・本善寺文書・吉川文書・小早川文書・山内文書など全国に書状を残している。
 『聚楽亭行幸記』『太閤記』では、後陽成天皇の聚楽第行幸に供奉した公家成り大名の一人として「義康」の名を見つけることができる。さらに『太閤記』では名護屋御留守在陣衆の中に、「江州八幡侍従・同息左京大夫」を見つけることができる。義康は秀次後の近江八幡山城主になっていたのである。左京大夫(三郎殿)は、佐々木系図で義康(義郷)の弟とされる八幡山秀綱(三郎・上総介)のことだろう。
 義実・義秀・義郷の三代は、義久(義実に相当)・義秀・義堯(義秀の弟義頼に相当)・義康(義郷に相当)の四代であった。実名が異なっていたのでは、いくら資料で探しても見つからないはずである。このようにして今度は義実が実在するものとして、合理的で自己完結的な歴史像が記述できるようになった。
 ちょっと待ってほしい、義実が実在しても/しなくても、どちらにしても合理的な歴史像が記述できることは何を意味しているのだろうか。従来の学説では義実を排除しても合理的な記述ができたため、義実の実在は否定されていた。そして今度は義実を考慮に入れても合理的に記述できるようになった。事実がひとつというのなら、これはまったくおかしな話である。実在の人物を実在していなかったものと主張していたのなら、合理的で自己完結的な歴史像が記述できるはずがない。しかし記述していた。
 実は理屈が通っているからといって、必ずしも正しいとはいえない。合理性は説得力を持たせるには必要だが、合理的に推論しても新発見はない。新発見が失敗からなされることからも分かるように、既存の合理性を打ち破るものである。発見のためには、むしろ非合理性を本質とみなす主観の力が必要である。
 義実の実在を示す資料はこれまでも読まれていた。ところが同じ資料でも異なった視点で読んだことで、異なる結果が導かれた。やはり資料を読むときに主観が大きく関わっている。資料を読んでいくうちに、自分の常識を打ち破るものが現れる。それが、主観性を超えた客観性が眼前に現れたということであり、資料が語る瞬間である。
 もちろん、そこに現れるものは歴史的個別性であり、ほかの似たものに当てはまるわけではない。それにもかかわらず、それとよく似たものにも当てはめていけば、学説と歴史との間は乖離していく。
 どの視点も必ず限界を有している。そして既存の学説の適用範囲を限定する新しい学説は、主観性を制約する根拠を体現した客観性と評価できる。ただしここで注意してほしいのは、既存の学説も完全に否定されたのではないことである。むしろ適用範囲を限定されたことで、自らの内容と一致して客観性を確保できる。もちろん新しい学説も適用範囲をもっている。しかし適用範囲をあらかじめ知ることはできない。そのため、どうしても適用範囲を越えて使用してしまう。
 このように主観性と客観性は二律背反的なものではない。一致することがあるからこそ、乖離しても気づかれない。そのため、主観が矛盾の存在に気づくかどうかが分かれ目となる。そのような矛盾は、まさに主観性と客観性が乖離したことを知らせる客観性の現われである。それに気づくことが、新発見となる。
 実は残そうと思わないで日常的に書かれた事務書類にも、作成者の主観性が入っている。人が物事を見るときには、必ず自分が使っている言葉のイメージを対象に当てはめながら見ている。主観から完全に離れた客観的な物の見方はない。そのため一次資料を読むときにも、作成者の主観性を考慮する必要がある。
 歴史学で重要視する一次資料では、人物が官職や通称で書かれていることが非常に多い。前述の『長命寺結解』でも「御屋形様」「四郎殿様」「御曹司様」の三人が登場した。資料作成者にとっては、官職や通称で誰を指しているのか特定できる。これは立派に作成者の主観性である。しかし当事者ではないわたしたちが見ると、誰のことなのかさっぱり分からない。実証歴史学でも人物を特定するのに意見が分かれるのは、このためである。確実な資料に基づいているからといって、歴史的事実が明らかにされるとは限らない。作成者の主観性を排除するのではなく、むしろその主観性を探究する必要がある。
 近江国内に義実・義秀・義郷の名を記した系図や編纂物が多くあるのは、彼らが実在していたことを記憶にとどめたいという近江人の心性のためである。全国の佐々木氏関係者の系図に義実・義秀・義郷を記されるという形式が定着したことを、ひとりの偽系図作者の意図に帰すことはできない。その実在を固く信じていた近江人によって、義実らを記した系図が受け入れられたのである。旧家に伝わる佐々木系図を形式と内容に分解するならば、義実らの記載は当時の人々が意識/無意識のうちに不変なものと信じた形式・書式といえる。義実らの実在を伝えたいという当時の人々の心性が明らかになる。
 義実らの実在を否定する見解では、定頼・義賢父子の二人を『長命寺結解』に登場する「御屋形様」「四郎殿様」「御曹司様」の三人の表記に振り分けながら当てざるを得ない。無難に歴史的事実を叙述することは、むしろ歪曲でしかない。この場合でも、実在が確認できる二人だけで三人分を理解していては、明らかに歪曲である。確実な資料に基づいていても、その結論が確実とはいえない。義実の実在を肯定する立場ならば、それぞれ定頼・義実・義賢に当てることができ、三人をそのまま三人として理解できる。
 歴史学では主観を排除することによってではなく、発想を逆転して、むしろ作成者の主観を明らかにしていく必要がある。このような観点に立てば、偽文書や偽系図・家紋も当時の人々の主観性を知るための資料である。またそのように主観性を知ることから始めることで、作為や錯誤が歴史的事実を隠喩していることを発見できる。
 日常的に書かれた事務的な書類にしても、彼らにとって必要なことを書き留めているため、そこには当然彼らの主観が入っている。歴史学が明らかにできる歴史は、そこに生きた人々が関係した歴史的事実である。そのような歴史的事実は主観性を排除することによってではなく、むしろ主観性を通してのみ明らかにされる。

【注】
(30)太田亮『家系系図の合理的研究法』立命館出版、一九三〇年。復刻版『家系系図の入門』新人物往来社、一九七七年。
(31)田中政三「巨大近江観音寺城二七の謎」(『戦国乱世武将城郭百科』歴史読本臨時増刊号、二二巻八号、一九七七年六月)。田中政三『近江源氏』(全三巻、弘文堂書店、一九七九-八二年)ほか。
(32)御内書案(『近江蒲生郡志』五八二号(巻二、五五六頁)。
(33)滋賀県長命寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『近江蒲生郡志』二五二二-三三号(巻七、一九九-二三七頁)に掲載されているが、誤植が多い。
(34)丸亀藩主京極家旧蔵『六角佐々木氏系図略』東京大学史料編纂所謄写本。
(35)『鹿苑日録』天文五年五月十四日条、同六年二月一日条、同八年五月十九日条、同八年五月二十日条、および同八年(『日用三昧七』)表紙の頭書。
(36)(天文九年)六月二十四日付朝倉入道宛大館晴光書状案(『福井県史』資料編2
中世・東京二六・内閣文庫所蔵文書『越前へ書札案文』二一号)。
(37)『福井県史』資料編2中世・滋賀県和田文書一号。
(38)十月二日付山中大和守宛六角承禎書状(神宮文庫所蔵『山中文書』三七四号)に、「義堯」の名が見える。

資料は語る

 歴史的事実を、その痕跡から他者として顕在化することができる。歴史叙述をフィクション物語と同じだと批判する物語論は、このことを見逃している。同一資料を意図的に別の見方で見ることで、それまで排除されてきた歴史的事実を浮かび上がらせることができる。
 たとえば偽文書である。従来の史料批判では、偽文書は歴史的事実を歪曲するものとして排除されていた。しかし、偽文書も歴史の中で生み出されたものである。偽文書を排除することで、偽文書に含まれている史実も排除することになる。偽文書から読み取ることのできる史実があるという見方をすることで、新たに知ることのできる史実がある。そのため、偽文書を排除するのではなく、偽文書を資料として扱う方法を築く必要がある(39)。
 これまで資料と見なされなかったものは偽文書だけではない。絵画や神話、民間伝承の中にも多くの事実が含まれている。絵画に描かれている記号をていねいに読み解くことで、絵画が資料として扱うことができる(40)。文化人類学でもアフリカの無文字社会を研究し、太鼓の演奏によって歴史が正確に伝えられていたことを明らかにされてきている(41)。
 私の歴史研究も、この流れの中にある。偽系図作者が作品と考えられていた系図や編纂物だけに名が記載されているため、架空の人物というレッテルを貼られていた戦国大名六角義実・義秀・義郷の実在を実証したものだ。最初にその人物が実在したと仮定し、そのような視点から資料を読み込んだ。一次資料の中に彼らの名前を見つけることができないという経験は、彼らの非実在を意味するのではなく、実名が異なることを意味していると考えることにした。彼らの実在を疑うのではなく、むしろ彼らの実名を疑った。その結果、彼らの事跡とほぼ一致する人物を見つけることができた。やはり系図や編纂物で伝えられていた実名は異なっていた。これではいくら彼らの名前を資料で探しても見つからないはずだ。資料に実名が無いのは、実在しなかったからではなく、実名が異なっていたからだった。彼らの実名は義久(六角四郎、江州宰相)・義秀(亀寿丸、修理大夫)・義堯(大本所)・義康(左衛門督侍従)の四代だった。このことは、私も意図していなかった。資料が自ら語り出すというのは、このような意図していなかった結果に導かれた時の率直な実感である。
 一般に系図は資料的価値がないと考えられているため、系図や編纂物にのみ名前が記載されている人物の実在が、歴史学で疑われるのは当然である。しかし、系図に記されている名と実際の名が異なることはよくある。実は一次資料の世界では「北条早雲」という人物は存在しない。では北条早雲は実在しなかったのだろうか。いやそうではない。伊勢宗瑞が一般に「北条早雲」の名で知られている人物である。実は宗瑞自身は伊勢氏のままであり、しかも早雲とも名乗っていない。早雲は早雲寺殿という宗瑞の法号であった。
 また織田信長の弟信行の名も一次資料には見られない。信行は信長の同母弟であり、うつけ者と呼ばれた青年時代の信長に代わって、家臣林秀貞や柴田勝家らによって織田氏の家督に擁立された人物である。一次資料に名が見られない信行は架空の人物だろうか。実は、一次資料でみるかぎり彼の名は「信成」「達成」「信勝」である(42)。実名は違うが実在の人物だった。系図上の名が発見できないからといって、その人物が実在しないと判断するのは早計である。
 丹後(現京都府丹後地方)の戦国守護一色義道の名も一次資料には見られない。しかし、丹後を本国とする「修理大夫義辰」という人物が一色昭辰書状(43)や一色昭国書状(44)などの一次史料に見られる。一色昭辰と一色昭国の花押は近似しており、同一人物と考えられる。一色昭国(昭辰)は、京都追放後に毛利氏を頼って備後国鞆の浦に下向した足利義昭に仕えて側近となっており、その書状の文中にある一色義辰が反織田信長包囲網の一員だったことが分かる。このことから系図類で「義道」と伝えられている人物が、実は一色義辰であったことが分かる。
 さらに能登の戦国守護畠山氏(匠作家)の当主の実名も、やはり軍記物や系図類のとおりではない。義統-義則-義綱と伝えられていた畠山氏歴代は、実は義総(徳祐)-義続-義綱-義隆であった。しかも資料で確認できる畠山氏重臣長氏の実名も総連-続連-綱連と続き、当主の実名が義総-義続-義綱-義隆であったことを裏づけている。系図どおりの名が一次資料に無かったとしても、架空の人物とは即断できない。むしろ系図や編纂物に書かれている人物の事跡を史実と仮定して、名を疑う必要がある。そのことで系図上の人物の実在を示すことができる。
 六角氏系図の義実・義秀・義郷もそうである。彼らの名が一次資料に見られないからといって、彼らの実在を否定することはできない。実際に良質な資料によって実際の名は異なったものの、彼らの実在を実証できる。それにもかかわらず、これまで彼らの実在が否定され続けてきたのは、江戸中期の和算学者建部賢明が著した『大系図評判遮中抄』という二次資料を信用して、六角義実らの実在を示す資料を排除し続けてきたからである。それがどんなに高名な学者によって書かれたものでも、後世に書かれた二次資料を無条件に信じてはいけない。
 資料を記した人物から見て身分の高い人物の場合、実名を記さないことが多い。それは実名で呼ぶことが失礼に当たり、また実名を記さなくても誰の行動か特定できたからである。六角義実も「四郎殿」「四郎殿様」「江州宰相」「相公」と記されている。そのため後世の者が読むと、別人の行動としても/当の人物が実在しないものとしても、資料を読むことができてしまう。そのため、読み方によって同一の一次資料から異なった解釈が簡単にできる。
 このように読み方によって同一の資料から異なった解釈ができる。系図に書かれている内容は史実ではないだろうという目で一次資料を読んでしまうと、系図の内容を支持する内容が含まれていても読み取ることができない。それに対して偽系図の記述にも史実が含まれているだろうと思いながら、それを確認するように一次資料を読んでいくと、その内容が一次資料によって確認できる。歴史研究では、既存の概念の適用範囲を限定する現象を本質と認識する主観の力が重要である。
 既存の概念の適用範囲を限定するものとして現われた現象を本質と規定できれば、そのときに初めて「資料の方から語り出す」のである。私も六角義実は実在しないという既成概念を疑って、義実が実在するという主観から始めたことで、義久の実在という史実に行き着いた。義実と同じ事跡を持つ義久を発見できたのである。そのように見てくると、六角氏の重臣に進藤新介久治(45)・深尾次郎右衛門尉久吉(46)・山中橘左衛門尉久俊(47)がいることも、重要なこととして眼前に浮かび上がってくる。当時、主君が自らの実名の一字を重臣に給付する慣行があったからである。さらに当時六角氏の旗下にあった北近江の戦国大名浅井久政(左兵衛尉、下野守)の名乗りも注目できる。このとき資料の方から、義実ではなという名であることを語ったといえよう。私はという名を意図していなかったからである。
 これまで六角義実らが関係していた歴史的事実を記述するのに、彼らを抜きにしても合理的に記述できた。しかし合理性は集団の承認を獲得するためには必要だが、真であることの保証にはならない。ひとつの集団における統一的見解は主観性の集合であって、無条件で客観性と一致するものではない。そのため、脱構築の考えを受け入れないならば、実証的研究も真に実証的なものにはならない。主観が常識を疑うならば、本当に資料の方から語り出す。

【注】
(39)網野善彦、前掲『日本中世史料学の課題◆系図・偽文書・文書』弘文堂、一九九六年。
(40)五味文彦『中世のことばと絵』中公新書、一九九〇年。
(41)川田順造『無文字社会の歴史』(岩波書店、一九九〇年)、および同著『口頭伝承論』(河出書房新社、一九九二年)。
(42)新井喜久夫「織田系譜に関する覚書」(『清洲町史』四八三-五四〇頁)、高木昭作・谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、一九九五年)。
(43)『大日本古文書』吉川家文書四九三号。
(44)『大日本古文書』上杉家文書六七七号。『新潟県史』資料編3中世、七六〇号。
(45)『福井県史』資料編2中世、京都府真珠庵文書八〇号。
(46)「長命寺本堂鰐口銘文」(『近江蒲生郡志』巻七、一四四頁)。
(47)天文七年九月十七日付橘兵衛尉・美濃部六右衛門尉宛山中橘左衛門尉久俊起請文(神宮文庫所蔵『山中文書』二〇七号)。

歴史学における科学革命

 発想の転換は、確実な資料を一つ一つ積み重ねてもできない。異なる視点を持ち込む必要がある。異なる視点で作り上げた作業仮説を、良質な資料によって実証するのである。実証できれば、同一資料を使って通説とは反対の結論を導き出すことができたことになる。これは、実証的研究も研究者の見方に束縛されていることを示すとともに、歴史像を転換するという歴史学における科学革命の方法を示している。
 しかし歴史像の転換は既存の歴史像の全てを否定するものではなく、既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、既成概念では明らかにできなかった史実も史実として認めるものである。
 例えば、六角氏歴代のうち義久・義秀・義堯・義康らの実在が認められたからといって、これまでの六角氏研究のすべてが否定されるわけではない。後世に書かれた『大系図評判遮中抄』の記述のみを信じて義久(系図では「義実」)らの実在を否定した見解は否定されるが、定頼・義賢・義治権力に関する実証的な研究については、近江在国権力と規定し直すというように適用範囲を限定することで妥当性を獲得する。このように室町時代の六角氏の守護権力に関する研究(48)を全面否定するものではない。義久が近江守護職にあった天文五年(一五三六)までの間も、定頼が義久を後見しており、義久の守護在任期間を含めて実質的には定頼が守護だったと考えられる。義久(系図では義実)は存在しないという前提は変更されるが、義久と定頼の関係をきちんと規定すれば、定頼に関する研究は妥当性を獲得する。つまり適用範囲は限定されるが、否定はされない。
 天文期における定頼の政治的位置の重要性を強調した研究(49)や、天文六年(一五三七)以降に定頼が口入者として幕政に関与したことを明らかにした研究(50)、さらに足利義晴を擁立して幕府を後見した定頼が京兆専制の主体細川晴元と対等に対峙・両立していたことなどを明らかにした研究(51)は、義久らの実在と矛盾するどころか、むしろ義久が天文五年(一五三六)以降「江州宰相」として登場する事実を支持していよう。
 ところで信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条は「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也」と伝えている。当時、信長が近江殿になり、信長の子息北畠信雄(茶箋)が将軍になるという噂があったことが知られる。この信長がなると噂された近江殿は、まさしく近江殿であり参議であった江州宰相義久の立場であろう。
 実際に天正四年(一五七六)には近江国蒲生郡の安土城に移っている。このことは信長が近江殿になるという噂が単なる噂ではなかったことを示している。
 信長がなると噂された近江殿の地位にあった義久・義秀・義堯は、単なる守護ではない。沙々貴神社本佐々木系図でもいうように、将軍後見ともいうべき地位と考えられる。実際に『親俊日記』天文十一年九月四日条では、義久・義秀(亀寿、公能)父子を「御内書父子」と記している。彼らは、在地権力義賢・義治が六角氏家臣団と対立すれば、家臣団によって担がれる潜在力を有していた。しかも定頼・義賢・義治三代で正式に近江守護職に補任されたことが確認できるのは定頼のみである。そのような義賢・義治の権力基盤の脆弱さを示すものが、六角氏式目(義治式目)の性格に反映していよう。家臣団が定めた分国法を主君義賢・義治が承認する形になっていることを指摘した研究は、そのことを支持する。戦国期六角氏の直状に代わって発給された六角氏奉行人奉書の研究(52)や、六角氏式目の所務立法に関する研究(53)は、義賢・義治権力基盤の弱さを説明する実証的研究として、むしろ価値は高まろう。
 このように定頼・義賢・義治の系統が六角氏当主という前提で進められた研究は、破棄されない。むしろ大本所義久・義秀・義堯と在地政権定頼・義賢・義治の関係が規定されれば、大本所を奉じた六角近臣団と対立する在地政権という構図が浮かび上がるため、そのような在地権力の限界を実証する研究として再評価されることになる。
 歴史像の転換によって既存のもの全てが否定されるわけではない。既存の研究方法で明らかになった史実を認めた上で、それまで明らかにできなかった史実を史実として認めるものである。新説と旧説の関係は、新説が旧説の適用範囲を限定することで、両説ともに自らの内容に一致するというものである。そのことで歴史の多様性を記述できるようになる。

【注】
(48)下坂守「近江守護六角氏の研究」(古文書研究一二号、一九七八年)。今谷明「近江の守護領国機構」『守護領国支配機構の研究』(法政大学出版局、一九八六年)。細溝典彦「六角氏領国支配機構の変遷について」(年報中世史五号、一九八〇年)。
(49)今岡典和「六角氏式目の歴史的位置」(有光友学編『戦国期権力と地域社会』吉川弘文館、一九八六年)。同氏書評「今谷明著『室町幕府解体過程の研究』」(史林六九-四、一九八六年七月)。
(50)奥村徹也「天文期の室町幕府と六角定頼」(『米原正義先生古稀記念論集 戦国織豊期の政治と文化』所収、一一九-五一頁)。
(51)西島太郎「足利義晴期の政治構造-六角定頼『意見』の考察」(日本史研究四五三号(二〇〇〇年五月)、一-二八頁)。
(52)宮島敬一「戦国期における六角氏権力の性格-発給文書の性格を中心にして」(史潮新五号、一九七九年)。勝俣鎮夫編『中部大名の研究』(戦国大名論集4、吉川弘文館、一九八三年)に再録。
(53)勝俣鎮夫「六角氏式目における所務立法の考察」(岐阜大学教育学部研究報告・人文科学一七号、一九六八年)。同著『戦国法成立史論』(東京大学出版会、一九七九年)に再録。

史料批判と系譜伝承

 『江源武鑑』は、系図作者沢田源内の著作として偽書のレッテルを貼り続けられてきた。沢田源内は自らを鎌倉草創期以来の近江守護佐々木六角氏につなげるために、戦国期六角氏歴代に義実-義秀-義郷の三代を加筆して、自ら義郷の嫡子氏郷(義綱)と名乗ったという。しかし『江源武鑑』の初版は元和七年(一六二一)であり、氏郷はちょうどその年に生まれている。『江源武鑑』を彼の著作とすることはできない。しかも氏郷と同時代の記録『京極家臣某覚書抜萃』(54)によれば、氏郷は同じく近江守護佐々木氏の子孫である讃岐丸亀藩主京極高豊と親交があり、高豊の子息を養子に迎えている。また相国寺九九代愚渓等厚や一〇〇代住持如舟妙恕も氏郷と親交があり、とくに如舟妙恕は氏郷が著した天竜寺所蔵『夢想国師俗譜』(55)の奥書を記している。当時の人々は氏郷を佐々木六角氏の子孫と認めていた。
 これまでの歴史学の言説は、江戸中期の和算学者建部賢明の『大系図評判遮中抄』を判断基準にして、『江源武鑑』を排除していた。『大系図評判遮中抄』は、宝永五年(一七〇八)五月二十七日付の佐々木定賢著『佐々木氏偽宗弁附』(56)がもとになっている。江戸初期の元和七年(一六二一)に初版が出た『江源武鑑』を、後世に書かれた二次資料『佐々木氏偽宗弁附』『大系図評判遮中抄』を判断材料にして否定したのでは本末転倒だろう。資料的価値の判断には、このように歴史学者の主観が入っている。
 沢田源内は、沙々貴神社所蔵佐々木系図の定重流沢田氏では「郷重」と記され、万治三年(一六六〇)に没したという。彼が源内と特定できたのは、皮肉にも『大系図評判遮中抄』で源内の母が和田氏だと記されていたからである。沙々貴神社本で郷重の弟重秀の項に、母が和田氏だと記されている。『大系図評判遮中抄』を信じることで、逆説的にも源内が万治三年(一六六〇)に没したことが確認できた。源内は承応年間(一六五二-五)に仕官活動をしており、その直後に没した。仕官失敗と関係があろう。『大系図評判遮中抄』は、万治三年(一六六〇)に没した沢田源内と、その後も活動して元禄七年(一六九四)に没した佐々木氏郷を同一人物と見なす誤りをしてしまった。
 このように見てくると沢田源内の「源内」という名乗りも、『大系図評判遮中抄』の誤りである可能性がある。「源内」という名にこだわらないことで、むしろ沢田源内の事跡を知ることができると考えられる。彼の実家が老中阿部忠秋に仕官していたことに注目すれば、彼の本当の行動を跡づけることができるだろう。
 武蔵国忍藩主阿部家の記録『公餘録』(57)によれば、阿部家の重臣に沢田氏がいる。延宝三年(一六七五)六月二十三日条・同年十二月二十二日条(五〇石加増)に沢田杢之丞が登場し、天和二年(一六八二)八月二十一日条にも沢田杢之丞と茂兵衛が登場する。さらに同年十一月十六日条によれば、沢田杢之丞は藩主阿部正武の息女於亀と会津藩主保科正容(肥後守)の結納で名代を勤めている。また翌々十八日の能の次第にも沢田勘右衛門と杢之丞が登場する。その後も貞享四年(一六八七)二月十八日条に沢田杢之丞が登場している。元禄四年(一六九一)二月十八日条では阿部正武の京都上洛の御供の一人として沢田忠与が登場する。それだけではなく沢田氏の母方和田氏についても、元禄十一年(一六九八)二月五日条(第一巻末)で「和田権太夫と申儒者弐拾扶持ニ而被 召出候」とあり、和田氏が儒学者として阿部家に仕えたことが分かる。この沢田杢之丞(忠与)が源内の弟であろう。
 これまでは『大系図評判遮中抄』を信用できる二次資料と判断した上で、一次資料に義実-義秀-義郷の実名が見られないことも手伝って、彼らに架空の人物というレッテルを貼っていた。しかしそれだけに留まらず、彼らの名の記された資料をすべて偽文書と判断した。さらに本物の一次資料に彼らの名があるならば、学説を疑わなければならないのに、その一次資料に偽文書というレッテルを貼っていた。
 実際に、六角義秀死去の報に接した織田信長によって書かれた浅井長政宛織田信長書状(58)を含む滋賀県和田文書は、近年まで、偽文書の扱いを受けてきた。東大史料編纂所にある滋賀県和田文書の影写本には、余白に「偽文書」というメモ書きが残されている。また滋賀県百済寺文書にも同様のメモが記されている。しかし近年、和田文書に収められている明智光秀書状が比叡山焼打ちに関する詳細な資料として再評価されたことで、『新修大津市史』でも明智光秀書状が紹介されているほか(59)、『福井県史』では前述の織田信長文書をはじめいくつかの文書が紹介されている(60)。
 さらに和田文書には本物の朝倉義景書状(61)があるが、調査官は署名「義景」を「義秀」と読み誤った上で、偽物の六角義秀書状との烙印を捺した(62)。厳しい史料批判の基準が、紙の材質・書式・筆跡ではなく、六角義秀は実在しないという思い込みであったことが分かる。従来の史料批判の基準が疑われる。同書状は偽文書ではなく、朝倉義景書状であった。いちどレッテルを貼ってしまうことで、真実が真実と見なされないことがよく起こるが、和田文書はその好例であろう。
 もちろん系図の記述をそのまま信じることはできない。しかし系図には虚偽が多いことを認めた上で、虚偽を作為と錯誤に区別するならば、そこから多くの史実を明らかにできる。
 まず作為には、それが作成された意図や背景を知ることで当時の人々の心性を知ることができる。さらに錯誤にはもとになった史実が確実に存在する。そのため錯誤を史実の隠喩として読み解くことで、もとの歴史的事実にたどり着くことができる。
 そのような資料を排除すれば、その内容も排除され続ける。しかし資料として認めるならば、これまで認められなかった歴史的事実を汲むことができる。確実な資料によってだけ歴史像を構築しようとする試みは、実は歴史を矮小化する。歴史に忠実であろうとして、むしろ歴史を歪めてしまうのである。

【注】
(54)『六角佐々木氏系図略』(東京大学史料編纂所謄写本)に所収。
(55)東京大学史料編纂所影写本。
(56)『系図綜覧』上巻(名著刊行会、一九七四年)に所収。
(57)児玉幸多校訂『阿部家史料集』一、吉川弘文館、一九七六年。
(58)『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書一号。
(59)『新修大津市史』3近世前期、第一章「天下への道」、第三節「山門焼き打ち」九五頁。
(60)『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書。
(61)(元亀元年)十月十五日付和田源内左衛門尉宛朝倉義景書状(『福井県史』資料編2中世、滋賀県和田文書二号)。
(62)東京大学史料編纂所影写本の滋賀県『和田文書』に、「偽書」とメモ書きされている。

江州宰相の研究・序

 『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に、江州宰相という人物が登場する。天文八年(一五三九)五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛および下向した記事がある。この記事に関する頭書が、『鹿苑日録』十六巻(『日用三昧』七巻)の表紙にあり、この人物は「相公」と記されている。宰相も相公も参議の唐名であり、一般的には宰相を相公と言い換えても当たり前だと思われる。このように何でも当然だと言って受け流しては、そこで探究は終わってしまう。しかし同書で、ただ「相公」とのみ記す場合は現職の将軍を指す。つまり当時の『鹿苑日録』の用語法からすれば、江州宰相は現職の将軍か/将軍候補者である。これでは、この人物がこれまで注目されなかったことが不思議だ。当然という言葉で片付けていては、気付かない。これが、常識を疑うことが大切な理由である。しかも当時、足利氏で近江(つまり江州)に逃亡していた人物はいない。ますます探求心をくすぐる。『鹿苑日録』でもそうだが、近江守護を江州太守と呼ぶように国名で当国の守護を指すことが多い。この用語法によれば、江州宰相は近江守護六角氏で参議という人物を指す。
 実は『六角佐々木氏系図略』(1)や沙々貴神社所蔵佐々木系図を探せば、従三位参議兼近江守の六角義実がすぐに見つかる。彼は幕府から近江守護に補任され、朝廷からも官職近江守(国司)に補任された。父氏綱も近江守に補任されており、近江守護六角氏にとって、近江守は単なる名誉職的な王朝官職ではなく実利的官職であった。
 祖父高頼は応仁・文明の乱で西軍として反幕府的行動をとり、その後も九代将軍足利義尚(義熙)・十代将軍義稙(義材、義尹)と二代にわたる将軍親征を受けた。しかし十一代将軍義澄(義高)に許されて近江守護に復職すると、今度は一転して幕府の保護者となった。
 明応七年(一四九八)正月今川氏によって養われていた義澄妹が上洛して(2)、氏綱に嫁した(3)。そのため、明応八年(一四九九)に「流れ公方」義稙が再起を図って北陸より上洛を目指したときには、高頼・氏綱父子は義稙の呼びかけを拒否して、義稙の上洛軍を近江坂本で破った(4)。そして氏綱は近江守に補任されて、朝廷からも六角氏が近江国主の実権を持つことを認められた。
 氏綱の嫡子義実は近江/江州と呼ばれるに相応しい。しかも参議の唐名は宰相である。系図で参議と伝わる義実のほかに、江州宰相にぴったりな人物はいない。さらに義実は、十一代将軍足利義澄の猶子であったと伝わる。足利将軍の猶子であれば、将軍の別称「相公」で呼ばれても不思議ではない。
 ところが佐々木氏/六角氏研究の古典的教科書『近江蒲生郡志』では、氏綱には子息がなく、弟定頼が六角氏家督を継承したとされている。もちろん義実の実在を主張する立場もあったが(5)、義実は実在しなかったという立場が通説である。義実が偽系図作者沢田源内の著作と考えられている古典籍にのみ登場し、良質な資料に登場しないからだという。しかし、そのような先入観を抜きに『鹿苑日録』を読めば、江州宰相は義実にこそ相応しい。『鹿苑日録』にきちんと登場している。義実を架空の人物とする常識こそ、疑う必要がありそうだ。

【注】
(1)丸亀藩主京極氏旧蔵(東京大学史料編纂所謄写本)。同書には六角佐々木家系略のほかに、(年未詳)十二月九日付京極高豊宛六角氏照(氏郷)書状写、京極氏家臣某覚書抜萃などが含まれている。
(2)『公隆公記』明応七年正月九日条、および同月二十四日条。
(3)沙々貴神社本佐々木系図では、氏綱の母を堀越公方足利政知娘とし、正妻を古河公方足利政氏娘としている。しかし年代的にも、明応七年に上洛した足利政知娘が氏綱正妻と考えられる。
(4)『鹿苑日録』明応八年十一月二十二日条。
(5)ただし『野洲郡史』(上巻、二五二-四頁)は義実は実在の人物であると明言している。近年でも、『五箇荘町史』(一巻古代・中世、四三五-四〇頁)で、六角義実の実在を主張した拙論「天文期六角氏の系譜の研究」戦国史研究三〇号(一九九五年)の内容が取り上げられている。

六角隆頼

 これまで、六角氏綱の跡はただちに弟定頼が継承したと考えられてきた。しかし氏綱(佐々木四郎、近江守)の没年は永正十五年(一五一八)であるにもかかわらず、定頼(弾正少弼)の近江守護職補任は天文六年(一五三七)である(6)。ここに十九年間の空白がある。これをどう理解すればいいだろうか。
 実は、山津照神社文書に、大永六年(一五二六)五月二十八日付青木社家中宛六角隆頼願状がある(7)。内容は、祈願が成就したときには近江甲賀郡内で所領を寄進するというものである。

   願状
  右意趣者心中之祈願、為成就之上者、於江州甲賀郡可加社領
  候、以此旨可抽丹誠者也、仍如件、
   大永六丙戌
    五月廿八日  隆頼(花押)
     青木社家中

 近江国甲賀郡内で所領を自由に寄進できる地位にあったのは六角氏当主であり、『坂田郡志』で六角氏としているのは妥当だろう。この人物は誰だろうか。
 実は『朝倉始末記』巻三のうち「宗滴敷地陣取、附金吾昔年発向諸国之事」で、大永五年(一五二五)五月上旬に、江州佐々木六角高頼が浅井退治の軍を起こしたことが記されている(8)。北近江で北郡守護京極氏から自立する動きを見せた浅井亮政を、六角氏が牽制したのである。しかし先々代六角高頼(行高、大膳大夫)は五年前の永正十七年(一五二〇)に没しているため、『朝倉始末記』の記述は一般的には単なる誤りだと考えられる。しかし大永年間(一五二一-二八)に六角隆頼という人物が実在したのであれば、誤りではない。むしろ事実である。六角隆頼願状も浅井退治に関するものと考えられる。
 そして、ほどなく資料に六角四郎という人物が現われる。この六角四郎が、六角隆頼と同一人物と考えられる。

【注】
(6)御内書案。『近江蒲生郡志』五八二号(二巻、五五六頁)に掲載。
(7)山津照神社文書(東京大学史料編纂所影写本)。『坂田郡志』二一七号。
(8)『福井市史』資料編2古代・中世、八六〇頁。

足利義晴祝言と四郎殿父子

 管領細川氏(細川京兆家)内部における高国と晴元の抗争によって、十二代将軍足利義晴は近江への逃亡生活を余儀なくされ、六角氏の居城観音寺場内にあった桑実寺に仮幕府を開いた。そのような中での天文三年(一五三四)六月に、六角氏の仲介で将軍義晴と前関白近衛尚通の娘が婚礼を挙げた。場所は桑実寺であった。そのときの模様を記した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)に、「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参、十合十荷御進上之、御一献参」とある。この記事によれば義晴の婚礼に六角定頼が参上し、御色直しには六角四郎父子が参上している。定頼と六角四郎は別人として記述されており、同一人物ではありえない。
 では定頼の子息義賢はどうだろう。彼の仮名はたしかに四郎である。しかし義賢が四郎として初めて登場するのは、『鹿苑日録』天文六年(一五三七)正月二十七日条である。しかも後述する近江国内の一級資料『長命寺結解』では、定頼(「御屋形様」)・義賢(「御曹司様」)父子とは明らかに別人物である「四郎殿様」が登場する。実は天文三年(一五三四)当時義賢はまだ元服前の十四歳であり、当時すでに元服して子息もいた四郎殿とは明らかに別人物である。このように見てくると、四郎殿は、定頼以前の近江守護であった人物と考えられる。前述の浅井退治の六角隆頼と同一人物であろう。
 義晴は婚礼を挙げた天文三年(一五三四)に帰京した。『厳助往年記』(『厳助大僧正記』)天文三年六月二十九日条に「大樹坂本御滞留。六角四郎并小原等供奉仕云々」とあり、桑実寺から坂本に移った将軍義晴に六角四郎と大原高保が供奉したことが分かる。大原高保は氏綱・定頼の実弟で、幕府奉公衆の佐々木大原氏を継いでいた人物である。六角四郎は、前述の『御台様むかへニ御祝目六』に登場した四郎殿と同一人物である。定頼とも義賢とも別人である六角四郎は、沙々貴神社所蔵佐々木系図で四郎と明記されている六角義実である可能性が高い。
 同じ『厳助往年記』天文八年(一五三九)十月条に、定頼の子息義賢が上洛する記事があるが、そこで「六角上洛。子息―上洛。今度左京大夫云々」と記されている。上洛した義賢は、従五位下左京大夫に叙任された。このとき義賢は十九歳であった。この記事で厳助は義賢の仮名を記していない。知らなかったのだろう。厳助にとっての六角四郎は、前述の『御台様むかへニ御祝目六』に登場した四郎殿であり、義賢ではなかったことが分かる。やはり浅井退治の隆頼であり、系図上の義実である。

長命寺結解と四郎殿様

 六角四郎と義賢を明確に区別している例は、六角氏の本国近江国内の資料にもある。それが『長命寺結解』(9)である。長命寺は、六角氏の祖佐々木秀義の菩提寺である。秀義(源三)は鎌倉幕府草創期に源頼朝の挙兵を助けて近江守護(惣追捕使)の初代となり、以後佐々木氏が近江守護を保持し続けた。六角氏はその佐々木氏の嫡流である。当然、長命寺と六角氏の結び付きは強い。そのため長命寺文書で六角四郎と義賢が明確に区別されていることの意義は大きい。
 私がこの長命寺の出納記録である結解(けちげ)を発見したときは、『鹿苑日録』に江州宰相を発見した時に匹敵するほどうれしかった。江州宰相だけではやはり不安であった。『鹿苑日録』の記事だけでは通説をひっくり返すことは困難と思っていたからである。しかしこの『長命寺結解』で御屋形様・四郎殿様・御曹司様の三人が区別されていたことで、四郎殿様と江州宰相が一気に結び付いた。もちろんこの四郎殿様に注目できたのは、あらかじめ『御台様むかへニ御祝目六』で四郎殿父子の存在を知っていたからである。そうでなければ『近江蒲生郡志』の編著者と同様、見ていても見落としていただろう。はじめから存在しないという目で見ていたら、見つからない。これは認識論の問題でもある。実は有るのに、無いと思って見ていたら、無いようにしか見えない。
 『長命寺結解』の「天文三年十月結解米下用」に、「四郎殿様御在京之時」とある。この記事の四郎殿様が、『厳助往年記』同年十月条にある将軍義晴の入洛に供奉した六角四郎と同一人物である。これに対して同年の「注進天文三年十二月結解米下用」で「五月十五日御曹司様伊崎へ御参ノ時」とあるように、定頼の子息義賢は御曹司様と記され、四郎殿様と書き分けられている。
 翌年の「注進天文四年乙未七月結解米下用」にも、四郎殿様の記事がある。それに対して「注進天文四年五月結解米下用」「注進天文四年十二月結解米下用」「注進天文五年夏結解米下用」に、やはり御曹司様の記事がある。記主が四郎殿様と御曹司様(義賢)を書き分けていたことは、明らかである。
 「天文六年五月結解米下用」で、定頼娘と管領細川晴元の婚儀を「御屋形様御祝言」と記していることから、『長命寺結解』に頻出する御屋形様は定頼と分かる。これで御屋形様の嫡子を意味する御曹司様が、定頼の嫡子義賢であることは確実だ。四郎殿様は、『御台様むかへニ御祝目六』の四郎殿であり、さらに『厳助往年記』の六角四郎である。やはり四郎殿様は隆頼であり、系図上の義実である。
 このように定頼就任以前に近江守護にあった人物として、六角四郎が実在したことは確実である。氏綱は永正十五年(一五一八)七月九日に没した。翌十六年(一五一九)十二月二十八日に十代将軍足利義稙から御内書を受領した佐々木四郎は(10)、この六角四郎のことである。

【注】
(9)『長命寺結解』は、滋賀県長命寺文書(東京大学史料編纂所影写本)に含まれている。『近江蒲生郡志』(七巻、一九九-二三七頁)にも翻刻が掲載されているが、誤りが多い。
(10)御内書案(『続群書類従』二十三輯下)。『近江蒲生郡志』五五八号(二巻、五一〇頁)に掲載。

佐々木四郎公能

 四郎殿様と義賢が別人であったことをダメ押しする決定的な資料がある。それが『証如上人日記』(11)天文十年(一五四一)十月五日条である。本願寺証如が将軍足利義晴(室町殿)に馬を進上したが、その返礼として将軍の私信である御内書と太刀(祐光)が給付された。その太刀は佐々木四郎公能に進上させたものである。このとき佐々木四郎を名乗る人物の実名は公能であった。

  自室町殿就馬進上之儀、被御内書并御太刀(秋光、佐々木四郎
  公能を申て令進上たるよし候)拝領候(彼太刀秋光と雖被載面候、
  祐光也、身代五貫金壱両三分)、使三淵殿原之

 この記事によって定頼・義賢父子とは別に、実名が公能という六角氏嫡子がいたことが分かる。天文十年(一五四一)十月といえば、義賢が従五位下左京大夫に叙任された天文八年(一五三九)十月のちょうど二年後である。すでに官途名左京大夫を名乗っていた義賢は、佐々木四郎とは名乗らない。もちろん義賢が公能と名乗ったこともない。時期を考えれば、公能は天文三年(一五三四)の『御台様むかへニ御祝目六』に登場した四郎殿父子のうちの子息である。定頼・義賢父子とは別に、佐々木四郎という六角氏嫡子の仮名を名乗る父子がいたことが確認できる。

【注】
(11)『石山本願寺日記』所収。

義久という人物

 『鹿苑日録』に義久という人物が登場する。彼は鹿苑院主梅叔法霖と交流があり、十代将軍足利義稙十七回忌の主催者になるなど幕府内の有力者でもあった。しかし辻善之助編『鹿苑日録総索引』(12)でも氏姓が記されず、これまで注目されてこなかった。
 義久の記事は、『鹿苑日録』に三カ所ある。まず天文六年(一五三七)六月十五日条に、義久が法霖に書を送った記事である。その前日の六月十四日条に、近江国内の鹿苑院領四ケ郷の差出検地についての記事がある。

  安楽寺来、-会跡之事指出申付也、松崎郷等事も上意江可申上
  之儀肝要云々、今日四ケ郷為指出、九里源兵衛、井口清左衛門
  出ル也、松崎事可入魂、

 六角氏被官の九里源兵衛と井口清左衛門が差出検地に尽力している。そして六月十五日条に、義久書状の記事がある。

  興禅有斎、天龍和尚・浄光・松雲・九里源兵・光岳・安楽寺在座、
  九里源兵仁大梅敷地事申合也、義久有状、玉帷子・百銭・雑紙
  一束京上之云々、未来也、興禅軒来、礼謝云々、

 興禅軒で斎と呼ばれる朝食会があって、法霖は天龍和尚や九里源兵衛尉らと同座した。法霖は九里源兵衛尉と大梅敷地のことについて申し合わせをしている。その記事に続いて義久書状の記事がある。この義久書状は九里源兵衛によって手渡されたのだろうか。義久が法霖に玉帷子・百銭・雑紙一束を送付したという。しかも京上とあることから、義久は在国していた。しかし、このときはまだ法霖の許に贈物は到着していなかったようだ。つぎに義久が六角氏であることを確認しておこう。
 六角氏被官には、実は義久の一字書出を給付されたと考えられる者がいる。今のところ確認できる者は、進藤新介久治(13)と深尾次郎右衛門尉久吉(14)、山中橘左衛門尉久俊(15)である。このうち進藤氏は後藤氏とともに六角の両牙とされた重臣であり、しかも久治の仮名「新介」は進藤氏嫡子のものである。深尾氏は本佐々木氏(古代豪族佐々貴山公の子孫で、紀氏を称する佐々貴氏)の流れで、近世には沙沙貴神社神職を勤めた家柄である。また山中氏は甲賀武士の最有力者であり、六角義賢・義治父子が織田信長に敗れて甲賀に没落した後も六角氏を支持し続けている。さらに、朝廷御倉職立入宗継の舅磯谷新右衛門尉久次を挙げることもできよう。このように、六角氏関係者に〈久〉の字を使用する者は多い。
 さらに、天文年間六角氏の旗下にあった北近江の戦国大名浅井久政(左兵衛尉、下野守)が、その名乗りに〈久〉の字を用いていることも注目できる。松永久秀が近江出身だったという伝説もあるが、それが事実ならば、久秀の名乗りも義久の一字書出を給付されたものと考えられる。
 義久は在国しており、しかも六角氏の有力被官の一字書出に久の字が見られる。さらに『鹿苑日録』天文六年(一五三七)六月十五日条にある義久書状は、興禅軒の斎で九里源兵衛尉によって法霖に手渡されている。
 同記天文六年九月二十一日条には「義久返事遣之、光岳来」という記事があり、法霖が義久に返事を送ったことが確認できる。義久と法霖の交流の様子が分かろう。また光岳が登場しているが、彼は法霖の弟子であり、法霖と六角氏の交流の中でよく使者となっている。義久という人物にますます注目できる。

【注】
(12)辻善之助編『鹿苑日録索引』続群書類従完成会、一九六二年、一九九二年。
(13)(天文八年カ)十二月十五日付□首座宛進藤新介書状(真珠庵文書)。『福井県史』資料編2中世、京都府真珠庵文書八〇号。
(14)『長命寺本堂鰐口銘文』(『近江蒲生郡志』七巻、一四四頁)。
(15)天文七年九月十七日付美濃部六郎右衛門尉宛山中久俊起証文案(神宮文庫所蔵『山中文書』二〇七号)。滋賀県山中文書(東京大学史料編纂所影写本)。『甲賀郡志』三一七頁。『水口町志』下巻にも所収。

義久と恵林院殿十七回忌

 『鹿苑日録』天文八年(一五三九)二月二十九日条に、六角定頼(霜台)が鹿苑院主の法霖に書状を遣わした記事があり、さらに続けて法霖が恵林院殿(十代将軍足利義稙)十七回忌料について大館晴光(左衛門佐)に問い合わせた記事がある。六角定頼の記事と足利義稙十七回忌料の記事は関連しているように読むことができるが、この記事だけでは即断できない。やはり前後の記事を丹念に読み込んでいく必要がある。
 まず三月九日条に、五千疋を寄進するとの大館晴光の返事が記載されている。

  来四月九日、恵林院殿御十七年忌料事、蒙仰候趣、致披露候、
  然間、以公帖五千疋分可被寄之候条、先為彼院可有馳走之旨、
  可被仰調之由、被仰出候、於面向以奉行被仰出候、可得御意
  候、恐惶謹言、
    三月八日   晴光在判
      鹿苑院
         参侍者御中

 公帖を以て五千疋分を寄せるとあるが、その主体は誰だろうか。「公帖を以て」と書かれており、しかも足利義晴の内談衆大館晴光が主体を記さずに敬語を用いていることを考えれば、将軍足利義晴と読むのが自然である。しかし、まもなく義久と分かる。
 同月十六日条に義久の使者五郎次郎大夫が京都に上るとともに、細川高久(伊豆守)・飯尾堯連(大和守)らが鹿苑院主法霖を訪れて、仏事料五千疋を寄せたという記事がある。この記事によって、公帖をもって五千疋分を寄せた人物が義久であることが確認できた。
 このように義久は幕府の文書である公帖を発給できる立場にあったが、他の資料によっても将軍本人以外に公帖を発給していた人物がいたことが確認できる。当時は将軍の私信である御内書が公的文書となっていたが、『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に「御内書父子へ御剱二振」という記事がある。御内書父子は将軍義晴から剱二振を給付されている。将軍義晴父子とは明らかに別人である。御内書を称号としていた人物が将軍本人でないとすれば、それは公帖を発給できる立場にあった義久のほかはない。
 仏事料五千疋というのも多額である。天文九年(一五四〇)六月、大国である越前の守護朝倉孝景が、普広院殿(六代将軍足利義教)百年忌で寄せたのが三千疋である(16)。これと比較しても、義久の財力の程が分かる。やはり義久は大国守護である。
 また四月四日条には「五郎次郎恵林へ御焼香御成、三番走有之、御供大館左衛門佐・典厩・伊勢守殿・同朋祐阿弥」と、義久の使者五郎次郎が焼香した記事がある。
 この記事では、五郎次郎が焼香のため恵林院に赴いたことを、鹿苑院主法霖は「御焼香御成」と記している。禅院の管轄や人事管掌を勤める僧録の鹿苑院主が、義久の使者五郎次郎を「御成」の主体として記していることは、義久の幕府内での地位が将軍に准じることを示している。地方であれば地元の戦国大名が御成の主体になることもあるが、鹿苑院主にとって「御成」の主体は将軍である。義久が将軍に准じる地位にあったことは明らかだ。彼が御内書と称される人物であったことは間違いあるまい。
 また義久の使者五郎次郎の御供をしている内談衆大館晴光(左衛門佐)・細川典厩家細川晴賢(右馬頭)・政所執事伊勢貞孝(伊勢守)ら三人は、将軍足利義晴の有力側近であり、同日の将軍義晴(公府)の鹿苑院御成でも御供衆として伺候している。五郎次郎は、将軍御供衆に伴われて、焼香のため恵林院に御成になった。義久と使者五郎次郎の格式の高さが分かる。義久が将軍に準じる地位にあったのは確かだ。五郎次郎は義久の連枝であろう。しかも三月十六日条で「五郎次郎大夫」と記されているように、五郎次郎はすでに五位に叙爵されていた。五郎次郎自身の格式も高かったことが確認できる。
 これら一連の記事で、公帖をもって仏事料五千疋を寄せると約束した人物が、義久であったことが確認できた。しかも大館晴光書状では、主語が省略された敬語の文で記され、受け取った法霖の側でもそれで人物が特定できた。さらに義久は御成の主体となり、将軍御供衆が御供をする地位にあった。これらのことから、義久の地位の高さが十分に理解できる。しかし当時義久は京都にはなく、すでに五位に叙爵されていた五郎次郎が名代として上洛し、恵林院での焼香をすませた。
 ところで『鹿苑日録』の同年五月十九日条および二十日条には、宰相が上洛・下向したという記事がある。この宰相の記事ついては表紙に頭書があり、そこで彼は相公と記されている。前述のように『鹿苑日録』で相公といえば普通は将軍を指すことから、この宰相が将軍に准じる地位にあったことが確認できる。この宰相の記事は、同書の天文五年(一五三六)五月十四日条にもあり、そこでは「江州宰相」と記されている。宰相が近江に在国していたことが確認できる。
 義久も御成の主体になっていたように将軍に準ずる地位にあり、足利義稙法事のときに在京せず、五郎次郎を名代としていた。しかも近江守護六角氏の有力被官に一字書出で久の字を用いる者がいた。近江に在国していた江州宰相と、近江の実力者義久は同一人物だろう。義久は六角四郎であり/江州宰相である。

【注】
(16)(天文九年)六月二十四日付朝倉孝景宛大館晴光書状案(内閣文庫)。『福井県史』資料編2中世、東京都内閣文庫所蔵文書『越前へ書札案文』二一号。

足利将軍の猶子

 義久が足利義稙十七回忌の法事の主催者であり、しかも僧録鹿苑院主にとって「御成」の主体になることは、義久が足利氏の連枝と目されていたことを示していよう。たしかに沙々貴神社本では、義久に当たる人物「義実」が十一代将軍足利義澄の猶子であったと記されている。
 義澄は、周防・長門・筑前守護大内義興に擁立された前将軍義稙(西国御所・西国大樹)の巻き返しによって、永正五年(一五〇八)に近江に出奔した。こうして義稙は前例のない将軍再任を果たした。江州公方義澄は近江守護六角氏に保護されたが、義稙派による包囲網に六角氏も抗しきれなかった。永正八年(一五一一)六角氏綱(佐々木四郎)は現将軍義稙の御内書を受け入れて、前将軍義澄派から離反していった。同年八月十四日、義澄は孤立したなか近江岡山城で没した。同月十六日に江州公方義澄派の細川澄元軍の反撃があって、将軍義稙・細川高国・大内義興らは丹波国に逃亡した。しかし二十四日義稙派が再び入京して舟岡山合戦があり、義澄派は敗れた。このとき六角氏被官でも山中遠江守父子が、義澄派の細川澄元軍に参加した(17)。山中氏は牢人衆として参加した可能性があり、六角氏内部が義澄派と義稙派の間で揺れ動いていたことが分かる。
 沙々貴神社本によれば、氏綱の嫡子義久(系図では義実)の生年は永正七年(一五一〇)である。義久は、1.近江御所義澄が在国中に生まれたこと、2.義澄が有していた足利氏伝来の小袖の鎧を所有していたことなどから、義澄の猶子という系譜伝承が生まれたと考えられる。しかし義久が義稙法事を主催したことを考えれば、義稙猶子とも考えられる。生後間もなく前将軍(義澄)猶子となったのではなく、六角氏が義稙派に転じたのちに現将軍(義稙)猶子になったのだろう。
 義稙は将軍に復職したが、実子がなかった。そのため、敵人義澄の長男義維(義賢・義冬)を養子とした。義維の母は武衛の娘であるが、この武衛の娘は、『御内書案』で右兵衛入道と呼ばれた六角高頼の娘と考えられる。そして義稙は、高頼の孫義久も猶子としたのである。このようにして六角氏を懐柔したと考えられる。
 永正十八年(一五二一)三月に足利義稙が管領細川高国と対立して淡路に出奔したとき、義稙を支持していた河内・越中守護畠山尚慶(尚順・卜山)は、六角氏使者である九里伊賀守を通して、甲賀武士佐治氏に忠節をもとめている(18)。それは、六角氏と義稙の間に密接な関係があったためだろう。しかし義稙出奔を契機に、六角氏は前将軍義澄の遺児義晴を支持した。そして義澄が伝領していた足利氏伝来の小袖の鎧を、九里伊賀守が義晴に献上した。(19)
 このように六角氏が足利氏伝来の小袖の鎧を所持し続けたことは、義久が足利氏連枝であったことを裏づける。小袖の鎧を献上した九里伊賀守は、最後まで義澄を匿い続けた九里備前守(員秀)の滅亡後に九里氏家督を継承した人物で、当時六角氏使者を勤めていた。そのため九里伊賀守が、六角氏の意志と関係なく小袖の鎧を義晴に献上したとは考えにくい。義久が足利氏猶子という資格で小袖の鎧を所持し、それを義晴の十二代将軍就任に際して献上したのだろう。『鹿苑日録』に登場する義久の使者九里源兵衛も、九里伊賀守の一族と考えられる。
 大永七年(一五二七)義稙の養子阿波公方足利義維が、細川晴元(澄元の子)と阿波衆に擁立されて堺に着岸し、将軍の前段階である従五位下左馬頭に補任されると、六角氏はそれに対抗して将軍足利義晴と管領細川高国を近江に保護した。六角氏が足利氏伝来の小袖の鎧を義晴に献上したことは、六角氏が義晴を足利氏後継者と目したという政治的意味をもっていたと考えられる。
 享禄四年(一五三一)細川高国が敗死すると、六角氏は細川晴元と和睦して、定頼の娘と晴元との間に婚約が成立している。そして細川晴元の支持を失った足利義維は阿波に亡命し、天文三年(一五三四)将軍義晴が帰京した。天文六年(一五三七)五月には、六角定頼の娘と細川晴元が祝言を挙げている(20)。
 天文八年(一五三九)に義久が義稙十七回忌の主催者になったことは、義久が義稙の後継者と目されたことを意味している。しかもその義久は足利義晴を支持している。義稙の養子足利義維にとっては、義稙仏事は、将軍就任の可能性の芽を摘む致命的な出来事であった。
 このように見てくると、義久が江州宰相(相公)という高い官職を得ていたことも理解できる。義久が近江守護職を叔父六角定頼に譲って前将軍義稙猶子/足利氏連枝として行動したことで、義晴政権は前将軍義稙の養子阿波公方義維を牽制することができた。
 こののち細川晴元と対立した阿波衆三好長慶(範長)も阿波公方を擁立することはなく、しばらく阿波公方義維(義冬)・義親(義栄)父子の動きは見られない。つぎに阿波公方の活動が見られるようになるには、永禄八年(一五六五)五月三日に松永久秀が十三代将軍足利義輝(義晴の子息)を殺害したのちの三好氏内部の権力抗争の中で、阿波公方足利義親(義栄)が十四代将軍として擁立されるまで待たなければならない。義稙十七回忌の法事には、阿波公方父子の牽制という政治的意味があったと考えられる。

【注】
(17)『後法成寺尚通公記』永正八年八月十六日条・二十三日条。
(18)(永正十八年)五月三日付佐治某宛畠山尚慶書状(小佐治文書)。滋賀県小佐治文書(東京大学史料編纂所影写本)。
(19)大永四年六月八日付九里伊賀守宛足利義晴御内書および伊勢貞忠書状(『室町幕府御内書引付』)。『近江蒲生郡志』三三四七-八号(九巻、四六〇頁)。
(20)『長命寺結解』『厳助往年記』。

義久の出家

 実は足利義稙法事の記事で、義久は「義久入道」と記されている。しかし沙々貴神社本によれば、義久(系図では義実)は永正七年(一五一〇)の生まれである。義久の父氏綱は永正十五年(一五一八)に享年二十七歳で没している。父死去の時点で義久は九歳である。『御台様むかへニ御祝目六』で「四郎殿父子」、『厳助往年記』で「六角四郎」、そして『長命寺結解』でも「四郎殿様」として登場した天文三年(一五三四)に、義久は二十五歳である。また江州宰相として登場する天文五年(一五三六)に、義久は二十七歳である。そして義久入道として登場する天文八年(一五三九)でも、まだ三十歳である。出家するには若すぎよう。
 義久の子息亀寿の元服は、『お湯殿の上の日記』によれば天文十四年(一五四五)十二月五日であり、子息に家督を譲るために出家したわけではない。実際に天文六年(一五三七)に近江守護職に就任したのは、義久の子息亀寿ではなく叔父定頼であった。
 義久が若く出家したのは、まず義稙猶子であり/義稙法事の主催者である彼が、義晴に対して野心のないことを示すためと考えられる。そしてもう一つの理由は、彼が病気がちだったためと考えられる。『鹿苑日録』天文十八年二月二日条に、義久一周忌の記事がある。天文十七年(一五四八)に没したのであれば、享年は三十九歳である。そうであれば、天文八年(一五三九)四月足利義稙十七回忌の法事に出席することができなかったのも、病気のためだろう。翌五月に上洛したのは、病気が平癒したためと考えられるが、またすぐに下向している(21)。定頼が天文六年(一五三七)に近江守護職に補任されたのは、前年に江州相公になっていた義久が、守護の兼務を停めて相公の職務に専念するためと考えられる。

【注】
(21)『鹿苑日録』天文八年五月十九日条、同月二十日条。

義久入道と宗能

 義久が天文六年(一五三七)以降に「宗能」と名乗っていたことは、『続群書類従』所収の三上系図に付けられている三上文書によって知ることができる。義久が「義久入道」と呼ばれる時期と重なる。この文書の原本は確認できないが、もし明らかな偽文書ならば一般に流布している「義実」と記したと考えられる。わざわざ「宗能」とはしないだろう。この文書は信用できる。
 同文書には六角宗能安堵状写一通、六角宗能一字書出状写一通、秀書状写一通がある。まず天文六年(一五三七)正月十六日付六角宗能安堵状写は、三上三郎次郎宛に三上美作守の跡の相続を認めた直状形式のものである。六角氏被官三上氏に対して安堵状を発給していることから、宗能が六角氏であることは明らかだ。『鹿苑日録』天文八年(一五三九)三月十八日条に「義久入道」とあるが、その義久の出家後の法名が「宗能」であろう。六角氏直状の存在は、六角氏当主の直状はないとする従来の見解を否定する。

  美作守一跡之事、如此旨之、諸職不相替申付者也、仍下知
  如件、
   天文六年
    正月十六日  宗能花押
     三上三郎次郎殿

 直状は大名本人が発給した命令書であり、直状の存在は大名権力の強さを示していると考えられている。それに対して奉行人が大名の意志を奉った命令書である奉書では、大名の命令が直接伝えられない。定頼以降六角氏当主の直状が見られないことから、六角氏の在地権力は有力家臣団による連合政権であり、六角氏当主の権力基盤が脆弱であったと見られがちである。しかし直状がないと見られていたのは、直状を発給する立場にあった義久(宗能)の存在を否定し続けてきたからにほかならない。無いのではなく、無視してきたのである。そのため宗能直状写の発見は、六角氏在地権力のあり方を考察する上で大きな意味をもつ。しかも義久の父氏綱(近江守)も直状を発給していた(22)。氏綱-義久の系統が直状を発給したのに対して、定頼-義賢-義治の系統は直状を発給しなかったという作業仮説を立てることができる。六角氏の権力機構を考察するにあたっては、そのような目をもつことが必要であろう。
 また宗能は、六角家中における着座のことについても裁決している。私信である書状形式であるため年未詳だが、宗能が近江在国政権でも実権を有していたことを確認できる。

  同名七郎与着座之儀、名字中任異見、老次第ニ末代可被申合
  之旨同心之由、尤可然候、猶向後別而無等閑被相談候者、
  忝存候、恐々謹言、
    十二月晦日  宗能判
     三上道祖菊丸殿

 この事案では三上氏内部では、長幼の順で着座の順が決まっていたことが分かる。宗能はこの慣習を支持したようだ。
 また同文書には六角宗能による一字書出状写があり、三上八郎次郎が「能」の字を給付されて「能忠」と名乗っている。

      能忠
   宗能花押
    三上八郎次郎殿

 この三上八郎次郎宛の一字書出状写の年代は判明しないが、やはり義久出家後であろう。三上能忠は、のちに出家して栖雲軒士忠と名乗った人物と同一人物と考えられる。彼は六角氏の有力被官であり、永禄十年(一五六七)に定められた六角氏式目の連署人となった人物である。
 同じく六角氏被官で六角氏式目連署人である馬淵宗綱(山城入道)は、宗能の「宗」の字を一字書出として給付されたと考えられる。沙々貴神社本で「義実」の法号を「東禅寺殿仁山崇義大居士」とするが、「崇義」と「宗能」は訓読みが同じであり、誤記・誤写の範囲内にある。同一人物と考えるに十分である。滋賀県山中文書でも、南北朝期の六角氏頼の法名「崇永」が「宗水」と誤写されている例が見られる。系図や物語で「義実」とされる人物が義久(宗能)であったことは間違いない。
 前述のように『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に、「御内書父子へ御剱二振」と将軍発給文書を別称とする人物が幕府に出仕した記事がある。その三日後の『お湯殿の上の日記』同年九月七日条に、「かめこきく。かき一ふたしん上申」と六角亀寿が天皇家女房衆に菊と柿を進上した記事がある。このことで御内書父子が六角義久・亀寿父子であり、当時在京していたことが分かる。また足利義稙十七回忌で公帖を発給した人物が、将軍発給文書「御内書」を別称とする義久であることも確認できる。出家後の天文十一年(一五四二)にも、将軍の別称相公や将軍発給文書である御内書で呼ばれるに相応しい地位に、義久が在職していたことが確認できる。

【注】
(22)永正十三年九月二十六日付永源寺侍衣禅師宛六角氏綱(近江守)直状(永源寺文書)。滋賀県永源寺文書(東京大学史料編纂所影写本)。『近江蒲生郡志』五五二号(二巻、四九八-九頁)。

六角定頼の近江守護補任

 叔父定頼の近江守護職補任は、義久が出家したと考えられる天文六年(一五三七)である。しかも、定頼は近江守護のまま幕政にも大きく関与した。江州宰相を補佐するための近江守護職と考えられる。
 ところで六角定頼は五位で弾正少弼に任官していたが、弾正少弼は京都を巡察して非違を糾す弾正台の次官で、公家を弾劾することもできた。そのため長官の尹には親王が補任され、次官のうち上級次官の大弼は参議が兼任、下級次官の少弼には四位・五位の殿上人が補任された。三等官の忠には実務官僚である侍身分の者がなった。律令制度ではそれほどの重職であった。
 しかも定頼は弾正少弼の官職を帯びて、幕政にも大きく関与した。定頼にとって弾正少弼は、名誉職的な王朝官職ではなく、実利的なものであった。さらに定頼は、天文十五年(一五四六)の十三代将軍義輝(当時は義藤)の元服式で、四位に叙位された上で管領代に任じて加冠役を務めた。定頼は弾正台の唐名が霜台であったことから六角霜台と呼ばれたが、その定頼が幕政を支えたことで、霜台は幕府で実権を握る者が補任される官職となった観がある。例えば、松永久秀が弾正忠(三等官)・弾正少弼(次官)に任官し、織田信長も足利義昭政権下では顕官への任官を拒否して弾正忠であり続けた。
 弾正台は、令外官の検非違使庁が設置されてからは有名無実の職となっていた。さらに室町幕府が京都に開かれて侍所が京都の治安維持に勤めると、その検非違使も有名無実となった。しかし幕府の無力化が進むと、実力者が王朝官職である弾正台の次官・三等官に補任されるようになった。幕府と朝廷に睨みを利かせようとする者にとって、弾正台の職はうってつけの役職だったといえる。京都を支配する者にとって、霜台はきわめて実利的な官職であった。
 こののち永禄十一年(一五六八)九月信長は上洛のときに、定頼の子息義賢(当時は出家して承禎)と会談して「天下所司代申付けらるべし」(23)と提案している。当時すでに侍所所司(頭人)に任ずべき四職(山名・赤松・一色・京極)に実力はなく、替わって義賢を所司代に任ずるというのである。この信長の提案は、定頼の弾正少弼の地位を十分に理解してのことだろう。しかも義賢の王朝官職は左京大夫であり、京都行政を勤める京職の長官であった。信長の提案は、ときの弾正少弼松永久秀に替わって前左京大夫義賢に京都行政を任せるということである。京都支配者にとって、弾正少弼や左京大夫という王朝官職が実利的なものであった。
 しかし義賢はこの提案を一蹴して信長と対決し、近江を追われた。そして信長自身が弾正忠として京都支配を進めた。王朝官職の虚飾化が進められて地方大名に官位の乱発が行なわれた一方で、このように王朝官職にもとづいて京都支配を進める動きもあった。

【注】
(23)『信長公記』巻一、永禄十一年八月七日条。

義久一周忌

 江州宰相の没年について系譜伝承に混乱があり、特定できない。沙々貴神社所蔵佐々木系図では没年月日を天文十五年(一五四六)九月十四日とし、法号を東禅寺殿仁山崇義大居士とするが、『江源武鑑』では没年月日を弘治三年(一五五七)十一月二十二日とし、法号を東光院殿贈権中納言三品崇山大居士とする。系譜伝承によって生没年に多少の異同があるものの、おおまかにこの二つの時期に絞られる。これは二人の人物の没年を混同しているものと考えられるが、どちらにも決定打がない。
 ところが、『鹿苑日録』天文十八年(一五四九)二月二日条に「玉子為義久一周忌営斎、招湖月・江春・彦材・等昌・能韶・寿鑑也」と、義久一周忌の記事がある。このとき法事を営んだ法玉(字智岳)は近江出身者である。法玉の父は六角氏被官の饗庭対馬守入道であり、北近江で自立した浅井亮政を牽制するため近江国梅津に在陣していた(24)。
 法玉自身は名門尼寺の宝鏡寺尼長老の猶子になっており(25)、天文十八年(一五四九)三月八日に前将軍足利義晴の娘(理源)が宝鏡寺に入室したときには、法玉が相伴している(26)。法玉は六角氏とも足利義晴とも深く関係していた人物であった。
 このような法玉が一周忌の法事を営んだ義久は、江州宰相義久と同一人物とも考えられる。この記事が江州宰相の法事の記事であれば、沙沙貴神社所蔵佐々木系図で伝える没年が近いことになる。しかし将軍連枝の法事の記事としては、あまりに簡潔である。六角氏が京都から退転している時期だからかもしれないが、記事が簡素であることが気になる。義久の葬礼に関する資料を発掘することも、今後の課題となろう。

【注】
(24)『鹿苑日録』天文五年五月二十六日条ほか。
(25)『鹿苑日録』天文五年六月十八日条。
(26)『鹿苑日録』天文十八年三月八日条。

江州宰相の贈官

 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に「ふけよりとて。□うくわん事にりんしのさいそく申さるゝ。てん文九年の御ゆとのゝ日記にも。せんくわう御心しるしのにもなきよしおほせらるゝ。御かへり事かさねとあり」と足利義輝が贈官の催促をしているという記事があるが、前将軍義晴の左大臣贈官は薨去直後の天文十九年(一五五〇)五月四日にすでに行なわれており、義晴の贈官のことではない。江州宰相の贈官の記事だろう。
 このことによって、永禄二年(一五五九)までに江州宰相が薨じていたことが分かる。『鹿苑日録』天文十八年(一五四九)二月二日条の義久一周忌の記事は、やはり江州宰相の一周忌の記事だろうか。永禄元年(一五五八)に六角氏と三好長慶が和睦して将軍義輝が帰京を果たしており、その翌年に六角氏が名誉回復したと考えられる。『公卿補任』に義実(義久)任官の記事がなかったことが、これまで義実の実在が否定されてきた理由の一つとなってきた。しかしこの記事によって『公卿補任』や記録類に義久(系図では義実)任官の記事がない理由が分かる。この記事が発見できたことの価値は高い。ただし天文五年(一五三六)にはすでに参議(江州宰相)になっているため、天文九年(一五四〇)の補任は参議より上位の官職でなければならない。沙々貴神社本や『江源武鑑』には義実への従二位権中納言の贈官が記されており、この義久への贈官は権中納言の贈官と考えられる。
 諸侯が公卿に補任されるというのは大内義隆の例もあるが、やはり当時では希代のことであった。しかも大内義隆は位階こそ従二位で公卿に列していたが、補任された官職は兵部卿であり、議政官ではない。将軍ではない義久が、議政官である参議に補任されたことは特記に値する。(慶長七年)二月二十日付近衛信尹宛近衛前久書状(27)に「近代ハ雖無由緒候、以権門悉公家ニ成申候。其比ハ一切無先例事ハ不成候、飛騨三木、是も先例無之間ハ、無勅許候。広橋内府ニ旧例被択出候て勅許候」とある。永禄五年(一五六二)に飛騨三木良頼(嗣頼)は飛騨守から従三位参議に直任された。その先例とされたのは江州宰相であろう。室町幕府と関係が深かった広橋兼秀が旧例を捜し出したという事実もこのことを物語っている。

【注】
(27)将軍家准摂家徳川家系図事東求院殿御書(陽明文庫)。

織田信長と近江殿

 信長は、天正二年(一五七四)三月十八日付けで信長が従三位参議に補任されている。それにともない信長は上洛しているが、『尋憲記』同年三月二十四日条に「一、京都者奈良見物ニ罷下、雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤせンハ将軍罷成候、悉皆二条殿へ申、如此候て、一段京都ニテ二条殿御ヲボヘノ由候、関白も信長へ被相渡候て可被下由、申トノ沙汰也」と記されている。当時、信長が近江殿になり、信長の子息信雄(茶箋)が将軍になるという噂があったことが知られる。この信長がなると噂された近江殿は、まさしく近江殿であり参議でもあった江州宰相の立場であろう。
 『大日本史料』では近江殿を近衛殿の誤りではないかとしている(28)。たしかに資料にはよく錯誤が見られるが、自分の常識に合わないからといって資料が誤りだと即断することは実証主義とはいえない。まず自分の常識を疑う必要があろう。この場合も、まず資料のままに「近江殿」と読む必要がある。実際に、信長は天正四年(一五七六)近江国蒲生郡の安土城に移っている。このことは信長が近江殿になるという噂が単なる噂ではなかったことを示している。やはり信長がなったのは、近衛殿ではなく近江殿である。

【注】
(28)『大日本史料』第十編之十八、天正二年三月十八日条(一九七頁)。

『江源武鑑』の錯誤

 『江源武鑑』では、義久に当たる人物を一貫して「義実」と記述している。しかし義実の実名が義久と分かった後で同書を読むと、永禄十年(一五六七)十一月九日条に「義久」という実名が登場していることに気づく。これは、義賢(承禎)の次男中務大輔が「義久」と改名したが、屋形義秀の勘気を受けて「賢永」と改名したという記事である。

  箕作ノ二男中務大夫義久ト実名ヲ改メツク、此ノ事屋形聞テ大キニ
  怒テ曰、当家義ノ字ヲツク事、将軍家ノ諱字ナリ、何ソ御免ナクシ
  テ乱リニツカンコト、甚家門ノ無礼ナリ、改替スヘキノヨシ、目賀田
  摂津守ヲ以テ父承禎ヘ被仰遣、承禎其ノ事ヲ不知ノヨシヲ被申、
  依之中務大夫改カヘテ賢永ト号ス、是ハ舎兄右衛門督ノ所行也
  ト云、

 六角氏が実名に「義」の字を用いるのは、この記事にある通り足利将軍家から諱字を給付された場合に限られていた。永禄十年(一五六七)当時、足利義昭(義秋)が三好・松永氏の兵乱を避けて奈良興福寺一乗院を無事に脱出して、近江六角氏に保護されていた時期である。しかし義賢(承禎)・義治(右衛門尉)父子は三好・松永氏と結び、足利義昭の矢島御所の襲撃を企てていた。六角氏内部で義昭派と反義昭派が対立していた時期である。このようなときに反義昭派の義賢の次男が、足利義昭の許可もなく「義」の字を用いたとすれば、確かに僣越である。
 この『江源武鑑』の記事が真実かどうか、今のところ判断できない。『近江蒲生郡志』では、義賢の次男中務大輔の実名を「義定」とするが、資料で確認できる彼の実名は高定や高盛である(29)。『断家譜』など系図類に「義定」と記すものがあるだけで、彼が「義定」と名乗った確証はない。このことでも、『近江蒲生郡志』が実は実証に徹していなかったことが分かる。
 しかし、この記事によって六角氏に「義久」と名乗った人物がいたという伝承が当時あったことが確認できる。義久の実名を「義実」としてしまった『江源武鑑』編者は、それが義実の実名であると気づかなかったのだろう。そこで実名に関する伝承が混乱している義賢の次男高盛(中務大輔)のことであると考えてしまい、この記事を作ったものと考えられる。

【注】
(29)三重県龍大夫文書(東京大学史料編纂所影写本)。『三重県史』資料編中世1(下)。

六角義秀の研究・序

 『お湯殿の上の日記』の天文年間の記事には、「かめ」「かめこ」「かめしゆ」「かめちよ」と六角氏嫡子の幼名亀寿や亀千代が頻出する。とくに天文十四年(一五四五)十二月五日条に「かめしゆけんふくにて。すけ殿より二色二かまいる」とあり、亀寿の元服で、典侍(ないしのすけ)が天皇家に御礼を進上している。また同書の天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条では「かめちよかみおきとて、二色一かしん上申」とあり、亀千代が髪置の御礼に音物を進上した記事がある。 
 『お湯殿の上の日記』は宮廷記録のひとつで、天皇常住の常御殿の御湯殿上の間で、天皇近侍の女官が記した当番日記で、後土御門天皇の文明九年(一四七七)から霊元天皇の貞享四年(一六八七)までの記録である。その内容は天皇の動静を主とし、恒例・臨時の行事、任官・叙位・下賜・進献、および将軍以下の参内の様子などを記した。また女官の動静も記され、御湯の当番、移動・新任なども記した。ときには戯れに天皇自ら書くこともあった。室町時代以降の資料としてはもちろん、天皇家の資料としても第一級のものである。
 天皇の私生活の場である後宮の職員は、女性であった。その中で内侍司は天皇に常侍し、天皇への上奏を取り次ぎ/天皇の命を伝えるという奏請宣伝を行なった。その長官尚侍(ないしのかみ)は定員が二人で奏請宣伝を行なうとともに、平安時代には天皇の配偶者となることもあり、多くは摂関家の娘が補任された。しかし後世になると尚侍に補任される者はほとんどなく、室町・戦国時代には次官典侍(ないしのすけ)が天皇の配偶者候補となった。典侍の定員は四人で、大納言・中納言の娘が多く補任された。ただし実務は三等官掌侍(ないしのじょう)が執り行ない、とくに首席の勾当内侍(こうとうのないし)は奏請宣伝を勤め長橋殿と呼ばれた。
 『お湯殿の上の日記』を書き継いだ典侍たちは、戦国期には主に勧修寺流の万里小路家・勧修寺家や日野流の広橋家、さらに宇多源氏流の庭田家出身の女性たちが補任された。とくに室町・戦国時代の天皇の母たちは彼女ら典侍出身の女性たちであった。
 『お湯殿の上の日記』に亀寿や亀千代の記事が多いことは、彼らがそのような天皇家女房衆にとって身近な存在だったことを示している。しかも亀寿元服の御礼で、典侍(すけ殿)が音物を進上している。彼女が亀寿の母であることは確実だろう。
 亀寿の元服が天文十四年(一五四五)十二月であることから考えると、亀寿の生年は天文初年の頃と思われる。その頃に誕生した六角氏嫡子の存在は、天文三年(一五三四)の十二代将軍足利義晴の婚礼の様子を記録した『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』(内閣文庫所蔵)で知ることができる。当時、将軍足利義晴は近江で逃亡生活を送っていたが、六角氏の仲介で前関白近衛尚通の娘と祝言を挙げることができた。婚礼の場所は、当時仮幕府が置かれていた六角氏の居城観音寺城内の桑実寺であった。同書には「六角殿ゑほしにて御参、御色直ニハ四郎殿父子御参、十合十荷御進上之、御一献参」とあり、婚礼に六角定頼(「六角殿」)が烏帽子姿で参上し、さらに御色直しには六角四郎(「四郎殿」)父子が参上したことが分かる。四郎父子は多くの贈物を足利義晴に進上しているが、この四郎は『鹿苑日録』に登場する江州宰相義久(系図上の義実)であり、その子息は亀寿(系図上の義秀)と考えられる。
 この年の六月に義晴は帰京を果たしており、『厳助往年記』天文三年(一五三四)六月二十九日条でも「大樹坂本御滞留。六角四郎并小原等供奉仕云々」とある。将軍義晴の帰洛で、六角四郎は大原高保とともに供奉している。

『お湯殿の上の日記』と六角亀寿

 六角氏が足利義晴の保護者として京都で活躍する天文年間に、『お湯殿の上の日記』に「かめ」「かめこ」「かめしゆ」の記事が頻出する。「亀寿」「亀千代」は六角氏嫡子の幼名として有名であり、応仁・文明の内乱期に六角高頼は『碧山日録』で「亀」「亀子」「亀寿子」などと呼ばれている(1)。『碧山日録』の記主太極は、近江北郡守護京極氏の一族である佐々木流鞍智氏の出身であり、当時の幕政に翻弄されて孤軍奮闘していた佐々木惣領家の六角亀寿に同情し、親しみを込めて「亀」「亀子」「亀寿子」と記した。そして『お湯殿の上の日記』にも「かめ」「かめこ」「かめしゆ」が登場する。彼も六角氏の嫡子と考えられる。
 初出は天文二年(一五三三)九月十三日条で、この年に六角氏と本願寺が和睦して京都情勢が安定し、翌年の足利義晴の帰京を可能とした。また最後の記事は天文十九年(一五五〇)六月二十六日条で、この年の五月四日に足利義晴が逃亡先の近江国穴太で没している。まさに六角氏の京都での活動時期と亀寿の記事の頻度が重なる。
 六角氏嫡子の幼名が亀寿であり、しかも六角氏と亀寿の京都での活動時期がちょうど重なることを考えれば、『お湯殿の上の日記』に登場する亀寿は六角氏の嫡子と考えられる。『御台様むかへニ御祝目六』に登場する(六角)四郎殿の子息が、この亀寿であろう。このことを裏付けるために、『お湯殿の上の日記』の記事を見てみよう。
 まず天文二年(一五三三)九月十三日条に「かめ御すゝりのふたしん上、この二事は十四日の事也」とある。亀が硯蓋を進上したという記事である。硯蓋は、硯箱の蓋のことだが、それを花・果物・肴などを載せるのに用いた。そのような工芸品を亀は進上していたのである。これが亀の初出の記事であり、以後、亀寿が天皇家に音物を進める記事が頻出する。
 同年九月十六日条に「かめ物まいりの御みやけしん上申」とある。硯蓋を進上した後、寺社詣をしたのだろう。これ以後も、亀は寺社詣をするたびに天皇家に土産を進上している。天文十二年(一五四三)正月二十一日条や天文十三年(一五四三)正月三日条に亀寿の鞍馬山参詣の記事があるように、とくに鞍馬詣が多かったようだ。洛北の鞍馬山の中腹にある鞍馬寺は、鑑真の高弟鑑禎が毘沙門天を安置したのが始まりで、京都の北方鎮護の寺である。また都人の福徳を祈る寺でもあり、正月初寅の参詣が多かった。『江源武鑑』ではこの亀寿に当たる人物義秀に愛宕詣の記事がよくあるが、それはこの鞍馬詣のことを隠喩していよう。
 鞍馬寺の本尊毘沙門天は北方の守護神であるため、京都からみて北国である越後上杉謙信も毘沙門天を信仰していた。六角氏は北陸道管領であったという系譜伝承があり(2)、実際六角氏は越後上杉・能登畠山・越前朝倉・若狭武田ら北陸諸大名と同盟関係にあった。北国の盟主である北陸道管領という系譜伝承は、亀寿の毘沙門天信仰/鞍馬詣とも関係があろう。
 この天文二年(一五三三)六月に細川晴元と一向一揆が和睦している。このことで六角氏が庇護していた足利義晴の帰京が現実味あるものになった。
 前年である享禄五年/天文元年(一五三二)六月に山城守護細川晴元と河内半国守護代木沢長政が、山城守護代三好元長と河内守護畠山義堯を一向一揆の力を借りて滅ぼした。木沢長政はもともと畠山義堯の被官であったが、細川晴元に鞍替えしていた。そのため旧主義堯は、木沢長政を憎んでいた。また細川氏内部でも晴元が新参者木沢長政を贔屓したため、阿波時代からの晴元の譜代であった三好元長が長政を排除しようとした。これが細川晴元・木沢長政と三好元長・畠山義堯の対立へと発展した。この内部分裂によって、将軍義晴の近江亡命政権のライバル堺公方足利義維-管領細川晴元-山城守護代三好元長・河内守護代木沢長政という堺武家は崩壊した。そして元長を贔屓していた足利義維は自刃を止められて阿波に逃亡し、その政治生命を絶たれた。
 この兵乱を契機に畿内の一向一揆は勢いづき、翌七月には奈良で一向一揆が蜂起した。法主証如も静止できない状態になっていた。そこで八月細川晴元は六角氏・法華一揆の援軍を得て、一向一揆の本拠山科本願寺を焼き打ちにした。これに対して一向一揆も反撃し、翌年天文二年(一五三三)二月に細川晴元は敗れて淡路に出奔した。ところが三月には木沢長政と法華一揆の連合軍が反撃して、一向一揆を破った。このように完全に膠着状態に陥り、六月に晴元と本願寺は和睦した。このとき三好元長の子息長慶(範長)が仲介という重要な役割を果たしている。長慶が歴史の表舞台に登場した。
 六角氏はこののち天文五年(一五三六)十二月に本願寺と同盟を結んでいる。この六角氏と本願寺の和睦は単なる名目的なものではなく、これ以後近江国内では実際に浄土真宗に帰依する者が多かった。さらに弘治三年(一五五七)には六角氏の養女が本願寺顕如に嫁ぎ、同盟関係を強固なものにしている(『厳助往年記』弘治三年四月十七日条)。そのため一向一揆の勢力の強かった地域の諸大名は、六角氏と同盟関係を積極的に築いている。
 こうして京都の政情は安定し、亀も安心して鞍馬山参詣をしたと考えられる。亀の初出の記事は六角氏の動向と連動している。
 天文三年(一五三四)三月二十六日条に「かめ御みやしん上申、ほりの事につきてふけへ文いつる」とあるが、亀が御土産を進上した記事は、武家に文書を出した記事と関連していると考えられる。当時、武家である足利義晴は六角氏の居城観音寺城内にある桑実寺を仮幕府としており、近江に在国していた。さらに同年五月二十一日条に「かめこ、御うり一ふたしん上」とあるように、亀子が近江名物の瓜を進上している。もちろんこの記事だけで亀子を近江人と決めつけることはできないが、実は近江より毎年瓜が進上されていたことが天文十年(一五四一)七月十一日条に見え、その翌年の天文十一年(一五四二)七月二十四日条では亀寿が近江瓜を進上した記事がある。これらの記事を総合すれば、亀子と亀寿は同一人物であり、毎年近江瓜を進上していた。しかも亀寿は、近江守護六角氏嫡子の幼名である。亀寿が六角氏であることはほぼ確実だ。やはり亀の御土産進上の記事は、近江仮幕府への文書発給の記事と関係があろう。
 同年六月八日には四郎殿父子が義晴の婚儀で、御色直に参加した。『御台様むかへニ御祝目六』に登場する「四郎殿父子」の子息の方が、この亀と考えられる。
 さらに同年九月三日、将軍義晴は近江坂本から入京している。このとき六角義久(四郎)が、叔父大原高保(小原)とともに義晴に供奉している(『厳助往年記』)。
天文四-五年(一五三五-六)のあいだ亀/亀子の記事が見られないが、『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に江州宰相が登場し、以後将軍の別称である相公と称される近江在国の人物が登場する。義久である。このときまでに参議に補任されて、公卿に列したものと考えられる。その直後に京都の法華一揆と比叡山の対立が表面化した。
 六角氏は和平調停を試み、五月二十九日に九里源兵衛を上京させた(『鹿苑日録』)。しかし斡旋が不調に終わると、六角氏は山門側に着いている。そして七月に天文法華の乱が起きた。七月二十日六角氏は大原高保(中務大輔)を総大将に、後藤・三雲・蒲生・青地・進藤・永原ら六角氏有力被官が参陣し、二十九日には六角氏と山門の連合軍によって京都の法華一揆が壊滅した(『鹿苑日録』)。一向一揆を倒すために法華一揆を使った細川晴元は、今度は法華一揆が壊滅状態になったことを見計らったように、その年の九月に摂津芥川城を出て入京を果たした。

【注】
(1)『碧山日録』応仁二年四月一日条「亀寿」、四月二十六日条「亀寿子」、十一月十日条「亀子」、十一月十七日条「亀寿子」。
(2)沙々貴神社所蔵佐々木系図や『江源武鑑』、『寛政重修諸家譜』山岡(伴氏)系図の景之の項。

足利義晴政権と六角亀寿

 幕府の正常化が進められると、それを契機に六角氏が京都政界に積極的に関与するようになった。天文六年(一五三七)には六角定頼が近江守護正員に就任している(3)。それとともに亀/亀子の記事も頻出するようになる。
 天文六年四月三十日条「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。これ以後、日常的な物を進上するようになる。まず同年十月十一日条で「かめこ、みつかんしん上申」と亀子が蜜柑を進上し、同年十二月六日条でも「かめこ、まん一ふたしん上申」と亀子が饅頭を進上した記事がある。さらに同年十二月廿一日条で「かめこまん、中御たるしん上申」と、亀子が饅頭、中が樽酒を進上したいう記事がある。亀寿とともに音物を進上した中は、亀寿の近親者であろう。中は、元亀三年(一五七二)に比叡山を自領蒲生郡に再興した中左兵衛佐氏郷(4)と同一人物と考えられる。
 天文七年(一五三八)には亀/亀子の記事が見られなくなり、翌八年(一五三九)に再び亀/亀子が天皇家に音物を進上した記事が見られる。
 天文八年六月七日条「かめこ、まきしん上申」と亀子が真木を進上した記事があるが、この直後、閏六月に足利義晴の御台と若君が近江八瀬に移座した。細川晴元とその被官三好長慶の対立が表面化したのである。しかし、このときは小競り合いですんだ。同年十二月二十七日条には「かめ、あをのもし・かやしん上申」と、亀が青物と萱を進上したという記事が見られる。萱は近江の名産であり、やはり亀寿は近江人である。
 そういえば『鹿苑日録』天文八年五月十九日条・二十日条に、宰相上洛と下向の記事がある。この記事に関する頭書で、この宰相は相公とされている。前述の江州宰相(六角義久)と同一人物である。そして翌六月七日に亀子が真木を進上している。宰相と亀/亀子の動きは連動していよう。
 天文九年(一五四〇)十一月二十九日条「かめこ、はましん上申」とあり、この年はこの蛤進上の記事が見えるだけである。しかし同年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」とある。このさ文字の子というのは、佐々木六角氏の嫡子亀寿のことであろうか。これは今後確認する必要があるだろう。
 天文十年(一五四一)正月廿七日条に「かめ、ところしん上申」と、亀がところてんを進上した記事がある。また同年七月十一日条の「あふみより、としゝゝの御うりまいる」とある記事で、近江国から毎年瓜が進上されていることが分かる。ここでは亀寿とは記されていないが、翌十一年(一五四二)七月二十四日条に亀子が近江瓜を進上したという記事があり、さらに天文十三年(一五四四)六月二十日条に亀寿が近江瓜を進上した記事があるため、毎年近江瓜を進上していたのが亀寿であることが分かる。
 この天文十年(一五四一)十一月に山城・河内守護代木沢長政が京都に迫り、将軍足利義晴が近江に逃れている。長政は細川晴元政権のもとで権力を掌握して専横を極めていた。しかし翌十一年(一五四二)三月十七日長政が三好長慶のために敗死したことで、
再び幕府は正常化した。義晴は二十八日に帰京を果たし、さらに新築の今出川御所に入った。この義晴帰京後に亀寿の記事が再び見られるようになる。
 天文十一年(一五四二)七月五日条に「かめ、はなしん上申」とあり、亀が花を進上している。同年七月十三日条には「かめこ、てんかいしん上申」と、亀子が天蓋花(彼岸花)を進上した記事がある。さらに同年七月二十四日条に「かめこ、かうのうりしん上申」と、亀子が近江瓜を進上した記事がある。このように、七月に亀/亀子の記事が集中する。このうち七月二十四日条で亀子が近江瓜を進上していることは、前述のように注目に値する。前年の天文十年(一五四一)七月十一日条では近江より毎年近江瓜を進上していると記されており、この天文十一年(一五四二)七月二十四日条で亀子が近江瓜を進上している。このことで亀が近江関係者であることが確認できる。やはり六角氏嫡子という仮説を裏づけている。
 さらに同年九月七日条に「かめこ、きく・かき一ふたしん上申」と亀子が菊と柿を進上した記事がある。ところで『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条には、「御内書父子へ御剱二振」という記事がある。御内書父子が幕府に出仕して御剱二振を賜わった三日後、九月七日に亀子が内侍司に菊と柿を進上した。「御内書」と将軍発給文書で称された人物は、将軍の別称「相公」で呼ばれた江州宰相六角義久で間違いない。亀子が天皇家に進物をしたことと、義久父子が幕府に出仕したことは連動していよう。
 天文十二年(一五四三)正月二十一日条「かめしゆ、くらむまの御みや・御とひかきしん上申」とあり、亀寿が鞍馬山に参詣して御土産を進上した記事がある。これまでは亀/亀子と呼ばれていたが、この記事では亀寿と呼ばれている。この記事で、正しくは亀寿であったことが確認できた。同年七月二十日条にも「かめしゆ、御ふたしん上申」と、亀寿が硯箱の蓋を進上した記事がある。この記事でも亀寿と記されている。これ以後は亀寿と呼ばれることが多い。もちろんこの記事以後でも亀/亀子と記されているものがある。同年十月九日条では「かめこ、きくしん上申」と、亀子が菊を進上した記事がある。記主によって呼び方が異なっていたのだろう。
 天文十三年(一五四四)には亀寿の記事内容が豊富で、これまでの解釈を裏づける記事が多くある。まず正月三日条に「かめしゆ、くらむまへまいりて、御とひかき・御みやけしん上申」とあり、亀寿が鞍馬参をして、その御土産を天皇家に進上している。亀寿が鞍馬詣をしていることは前年正月二十一日条の記事にも見える。
 三月十五日条に「かめこ、す[     ]」とある。主語である亀子の後は「す」しか読めないが、そこには「すもししん上申」と入ると考えられる。つまり亀子が鮨(す文字)を進上した記事である。この鮨は、近江名産の鮒鮨であろうか。
 六月二十日条「かめしゆ、御うりしん上申」と、亀寿が近江瓜を進上している記事がある。これは、前述のように近江から毎年進上されている近江瓜のことである。この記事で毎年近江瓜を進上している人物が亀寿であり、彼が近江人であることが再確認できる。
 八月二十日条に「かめ、御下くさしん上申」とあるが、やはり天文六年(一五三七)四月三十日条にも亀が下草を進上している記事があった。

【注】
(3)御内書案。『近江蒲生郡志』五八二号(巻二、五五六頁)。
(4)内閣文庫『朽木家古文書』二三三号・六二八号・六二九号。

六角亀寿の元服

 天文十四年(一五四五)には進物の記事は見られないが、亀寿元服の記事がある。それは十二月五日条の「かめしゆ、けんふくにて、すけ殿より二色二かまいる」という記事である。亀寿元服の御礼として典侍が進物をしていることから、典侍が亀寿の母であったことが分かる。天文九年九月八日条に「新大すけさもしの子まいる」という新大典侍の子が参上した記事は、亀寿の記事である可能性もある。これで亀寿の記事が『お湯殿の上の日記』に頻出する理由が理解できる。
 しかし元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。それに対して亀寿と記す記事はなくなる。正式の幼名で呼んでいた者は、亀寿とは関係が疎遠な人物と考えられ、元服後は当然正式の呼び名で呼ぶようになり、幼名では呼ばなくなる。親近な関係にある者のみが、幼名のままで呼ぶことになる。
 天文十五年(一五四六)二月二十七日条に「かめこ、下くさしん上申」、同年十月三日条にも「かめ、御下くさしん上申」と、亀が下草を進上した記事がある。このように元服後も実名ではなく幼名で呼ばれているのは、それだけ亀寿が『お湯殿の上の日記』を書き継いだ典侍たちにとって、身近な人物だったことが分かる。それは何よりも母親が典侍仲間であったためである。
 この天文十五年(一五四六)夏頃から将軍足利義晴は細川晴元と対立した。これは、義晴が細川晴元に替えて細川氏綱を管領にしようとしたためであった。氏綱(高国の妻の甥)は高国の跡目と称して旧高国被官を結集し、さらに河内守護畠山氏とその守護代遊佐長教、紀伊の根来寺衆らが氏綱側に加わった。細川晴元が阿波公方足利義維を支持して堺武家を主催していたとき、近江に逃れていた義晴を支持していたのは管領細川高国であった。義晴は、その高国の後継者氏綱を支持した。
 晴元の被官三好氏の軍勢がつぎつぎと上洛すると、義晴は十一月には勝軍地蔵山に北白川城の築城を始めた。さらに十二月十八日に近江国坂本の日吉神社神官樹下氏邸に入り、翌十九日には嫡子義輝(義藤)の元服式を挙行して、二十日に将軍職を譲った。このとき六角定頼が従四位下に叙位された上で管領代に補任され、加冠役を勤めている(『光源院殿御元服記』)。管領細川氏の分裂の結果、六角氏が管領に列したのである。
 天文十六年(一五四七)三月二十二日条に「かめ、はなの枝しん上申」と、亀が花の枝を進上した記事があり、さらに同年五月三日条「かめ、しやくやくしん上申」と、亀が芍薬の花を進上している記事がある。これ以後、亀は花を進上することが多くなる。
 この年三月義晴は北白川城に入城した。このことは義晴が細川氏綱支持の意思を鮮明にしたことを意味している。これに対して細川晴元は舅六角定頼を説得し、七月に義晴・義輝父子が籠る北白川城を攻めた。同月十九日義晴父子は支えきれず近江坂本に敗走した(『お湯殿の上の日記』)。畠山氏の本拠河内国でも細川晴元の有力被官三好勢が大勝すると、義晴は晴元・定頼と和睦して閏七月一日に帰京した(『厳助往年記』)。
 亀の記事が三月と五月のみでそれ以後見られないことは、これら一連の動きと関係していよう。しかし、このとき亀寿がどのような行動をとったのかは不明である。天皇家への進物が途絶えていることから、在京していなかったことは確かであろう。つぎに亀寿の記事が見られるのは天文十七年(一五四八)二月のことである。
 天文十七年(一五四八)二月二十五日条「かめこ、はなの枝しん上申」、同年二月三十日条に「かめこ、はなの枝しん上申」と、亀子が花の枝を進上した記事がある。この年の二月頃に六角義久が没したと考えられ、亀子の花進上の記事はそのことと関係があるとも思われる。
 この年四月二十二日定頼は、晴元と河内守護代遊佐長教の和睦を調停している(『言継卿記』)。この和談後、三好長慶は遊佐長教の娘を娶った。これで晴元とのライバル細川氏綱の存在は宙に浮いてしまった。しかし今度は三好氏内部で長慶と叔父政長が対立した。細川晴元は政長を深く信用していたため、この対立は晴元と長慶の対立となり、今度は長慶が細川氏綱を擁立した。さらに足利義晴・義輝父子と六角氏もこの対立に巻き込まれた。
 天文十八年(一五四九)四月二十七日条に「かめこ、御あふきしん上申」と、亀子が扇を進上した記事がある。また同年五月八日条に「かめ、かきつはたしん上申」と、亀が杜若を進上した記事がある。しかし六月二十四日摂津江口で三好政長が戦死したため、二十八日細川晴元は足利義晴・義輝(義藤)父子を奉じて六角氏の領国近江に逃亡した。七月九日には三好長慶が、細川氏綱を擁立して入京を果たした(『厳助往年記』)。
 天文十九年(一五五〇)五月四日に足利義晴は逃亡先の近江国穴太で没した。このとき義晴の臨終記である『万松院殿穴太記』が記されている。この年の六月三日条に「かめ、はすしん上申」と、亀が蓮を進上した記事である。蓮の花の進上は、義晴死去と関係があろう。さらに同年六月二十六日条にも「かめこ、はすのはな・はいしん上あり」と蓮の花を進上した記事がある。これが亀寿に関する最後の記事である。
 同年六月九日に足利義輝と細川晴元は京都郊外の中尾城に入城し、七月八日に麓の吉田・浄土寺・北白川に出兵した(『言継卿記』)。このとき六角氏が日本で初めて実戦で鉄砲を使用している(『言継卿記』)。種子島に鉄砲が伝えられた天文十二年(一五四三)のわずか七年後である。近江の国友村は、和泉堺・紀伊根来とともに鉄砲の三大生産地のひとつであり、六角氏が鉄砲に深く興味を示していたことが分かる。十月に三好長慶は六角氏を介して和談を申し込んだが不調に終わり、再び戦闘があって、十一月二十一日に義輝と晴元は近江に逃れた。さらに翌二十年二月十日には近江朽木谷に移っている。
 亀寿の記事が、天文十九年(一五四八)六月二十六日を最後にしているのも、足利義晴と細川晴元が近江に敗走したためだろう。やはり亀寿の記事は六角氏の動向に連動している。亀寿の父は、やはり六角義久であろう。
 また亀寿の母が典侍であったことは、『お湯殿の上の日記』天文十四年(一五四四)十二月五日条で知ることができる。実は幕府関係者と天皇家女房衆との間に交流があったことは、足利義晴の臨終記である『万松院殿穴太記』が内侍司に所蔵されていたことでも分かる。

六角亀寿の実名

 天文十四年(一五四五)十二月五日に六角亀寿は元服した。しかし『お湯殿の上の日記』では、元服以後も亀/亀子として登場する。親しみを込めて幼名を通称のように使用したのだろう。そのために六角亀寿の実名は、同書によっては、知ることができない。それだけ同書を書き継いだ人々にとっては、六角亀寿は親近な存在であったことが分かる。そこで、六角亀寿の実名を他の資料から明らかにしてみよう。
 『証如上人日記』(5)天文十年(一五四一)十月五日条には、次のようにある。

  自室町殿就馬進上の儀、被御内書并御太刀(秋光、佐々木四郎
  公能を申て、令進上たるよし候)、拝領候(彼太刀秋光と雖被載面
  候、祐光也、身代五貫金壱両三分)、使三淵殿原之

 当時の慣例では、「佐々木四郎」は六角氏の当主を指す。この公能とあるのが、元服前の六角亀寿の実名と考えられる。
 では元服後はどうだったのだろうか。実は天文十九年(一五五〇)五月と朱書のある土佐光茂『犬追物図』がある。その朱書に「天文十九年五月、大屋形義秀卿依貴命、土佐刑部少輔光茂、江州観音寺御城本丸画之、蒙仰写之御記録蔵入」とあることで、亀寿の元服後の実名が義秀であったことが分かる。
 これまで義秀は、沢田源内によって創造された架空の人物と考えられていた。そのため朱書の真偽が疑われていた。しかし江戸時代に書かれた画史に同じ趣旨の記事があり、また類作の中には土佐光茂原本からの転写の過程をより詳細に示唆する奥書を持つものがあり、さらに天文十九年五月に光茂が近江に滞在していたことを記す文献がある。そのため、朱書を否定することは出来ない(6)。義秀の名が記されているから偽作だというのでは、本末転倒であろう。これは亀寿の実名が義秀であったことを示す絵画史料といえる。
 山中文書を見ても、義秀の諱字を給付されたと考えられる山中半右衛門尉秀俊が登場する(7)。やはり亀寿の元服後の実名は義秀と考えられる。

【注】
(5)『石山本願寺日記』所収。
(6)吉田友之「絵所のゆくえ--土佐光茂試論」芸術論究1、六九-八八頁、一九七一年。足立啓子「犬追物図屏風定型の成立と展開」(『風俗画--公武風俗』日本屏風絵集成12、講談社、一一九-二八頁、一九八〇年)。
(7)永禄九年六月七日付山中秀俊田地売券(神宮文庫『山中文書』二三三号)、永禄九年六月九日付山中大和守宛山中秀俊徳政落居契状(神宮文庫『山中文書』二三四号)。

『万松院殿穴太記』作者と六角氏

 足利義晴の臨終記『万松院殿穴太記』は、十二代将軍足利義晴が天文十八年(一五四九)に近江に逃亡し、翌十九年(一五五〇)に近江で没する最晩年とその葬礼の様子を叙述したものである。『言継卿記』天文二十三年(一五五四)七月九日条に「内侍所へ罷向、穴太記読之、盞有之」とあるように、同書は天皇家の内侍司に収められていた。この記事から同書が天文二十三年(一五五四)までには成立していたことが分かる。また『群書類従』(二十九輯)所収のものは、関白二条晴良が天文十九年(一五五〇)初冬下旬に書写したものである。これらのことから、同書が、義晴が没した天文十九年(一五五〇)五月四日直後の成立であることが確認できる。
 その内容は義晴を中心に当時の幕府の事情を詳細に記したもので、作者が義晴の側近くにいた幕府関係者と分かる。しかも『言継卿記』にも記されているように、同書が内侍司にあった。作者は幕府と天皇家女房衆の両者と親交があった人物である。しかも義晴が没したのは近江国である。一般に『万松院殿穴太記』の作者は不明とされているが、典侍を母に持つ六角亀寿が同書の作者に相応しい。
 同書には、義晴が正室近衛氏(慶寿院)に対して「世の中の後ろ見」になるように遺言した記事など、作者自身が前将軍義晴の側近くにいたのでなければ知り得ない内容が含まれている。御台所慶寿院が将軍義輝を後見していた事実は、現在も一般的には知られていない。しかし将軍本人が発給すべき御内書を慶寿院が発給したことは、上杉文書所収の御内宣旨(8)が、その副状である大覚寺義俊書状(9)によって御内書と称されていることで分かる。この御内宣旨に「い」と署名する人物が慶寿院であることは、専修寺文書所収の慶寿院消息案(10)で「い」と署名する人物が、義晴の猶子であった専修寺堯恵を「われらゆうし」と記していることで明らかである。かつて御内書と呼ばれた六角義久はすでに天文十七年(一五四八)に没しており、このときは義晴の遺言によって慶寿院が御内書の地位にあった。このような義晴の近江亡命政権の内部事情を詳しく知っていたのは、当然義晴に近い人物である。
 このように作者は将軍義晴にごく近い人物であったことは確実であり、また将軍御台慶寿院の実兄前関白近衛稙家と親しく談話しているように、公家とも親交があった。
 実は『万松院殿穴太記』には、作者を特定できる次のような記述がある。故義晴を悼み摂津元造が和歌を詠み、それを聴いた「徳川」があまりの悲しさに耐えきれず和歌を詠んだ。その和歌に唱和して、鹿苑妙安が詩(もちろん漢詩)を朗詠した。その詩の序文で、妙安が徳川のことを「徳川公」と敬称で呼んでいる。このことは注目に値する。まず徳川は、漢詩ではなく和歌を詠んでいるため禅僧ではない。しかも鹿苑院主である妙安がわざわざその歌に唱和して詩を詠んでいるのだから、幕府内での地位は高い。妙安によって「徳川公」と敬称されていることからも、幕府内での地位が相当高かったことが確認できる。しかし、このときまでの記録類に「徳川公」という人物を見つけることができない。そのため他の幕府関係者と同様、義晴死去にともない剃髪して「徳川」と号したと推測できる。このとき剃髪した人物として同書に記述があるのは、摂津元造・三淵晴員・井上貞秀・松田晴秀であり、それぞれ道恕・宗薫・自僧・宗俊と号している。ところが徳川と号した人物のことは何も記されていない。妙安によって「徳川公」と敬称されている人物について、幕府関係者の作者が何ら触れていないのは不自然である。摂津元造の歌を聞いてその悲しさに耐えきれず歌を詠んだという箇所でだけ、何ら前置きもなく登場する。しかも作者はただ「徳川」とのみ記し、「徳川公」と敬称で呼んだりはしない。そのため、徳川公が『万松院殿穴太記』の作者と考えざるをえない。
 また同書にある若公方義輝の歌に唱和して詠まれた漢詩の序文では、義輝のことを殊更「大人相公」と記し、上位の相公であることを強調している。このことから、幕府にもうひとり相公がいたことが分かる。その人物が徳川公であろう。当時、武家で相公と呼ばれうるのは、将軍と江州宰相である。前述のように六角義久は『鹿苑日録』天文五年五月十四日条で「江州宰相」と呼ばれ、またその表紙の頭書で「相公」とも呼ばれている。また『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に「御内書父子へ御剱二振」という記事があるように、義久父子は将軍後見ともいうべき立場にあった。そして、このとき義久の嫡子徳川が相公の地位にあったと考えられる。ただし御内書の地位にあったのは徳川ではなく、義晴の御台慶寿院であった。
 六角氏はもともと近衛家と交流があり、将軍義晴と慶寿院の婚儀も仲介した。『後法興院記』永正元年(一五〇四)三月二十九日条によれば、前関白近衛政家は上洛したばかりの六角氏綱に使者を遣わして太刀を贈っている。さらに同年十一月二十三日条によれば、六角氏綱は近衛政家・尚通父子を訪ねている。これらの記事から近衛家と六角氏との交流の様子が分かる。『万松院殿穴太記』作者と思われる徳川公が六角氏綱の子孫ならば、作者と近衛稙家(尚通嫡子)とが談話していることも十分納得できる。
 また『万松院殿穴太記』の作者の前身が六角亀寿であれば、その母は典侍であり、同書が天皇家内侍司にあったことも十分に納得できる。作者は徳川であり、六角亀寿の成人後の姿と考えられる。
 ところで徳川氏系図について触れている(慶長七年)二月二十日付近衛前久書状に「徳川ハ得川、根本此字にて候。徳之字ハ子細候ての事候」(11)とある。このように家康が新田流得川氏の「得川」ではなく「徳川」の字にこだわったのは、この六角徳川にあやかってのこととも考えられる。

【注】
(8)『大日本古文書』上杉家文書一一一四号・室町将軍家女房消息。『新潟県史』資料編3中世、九三九号。
(9)『大日本古文書』上杉家文書一一一五号・大覚寺門跡義俊書状。『新潟県史』資料編3中世、九四〇号。
(10)『福井県史』資料編2中世、三重県専修寺文書四二号。
(11)将軍家准摂家徳川家系図事東求院殿御書(陽明文庫所蔵)。

六角亀千代

 天文二十年(一五五一)六角氏が将軍義輝と三好長慶の和平を斡旋した。翌二十一年(一五五二)一月二日に六角定頼は没するが、和平交渉は続けられて和談が成立した。同月二十三日義輝は朽木を出発し、二十八日には京都の東寺に入った(『言継卿記』『厳助大僧正記』)。細川氏綱が細川氏家督となり、晴元は若狭に出奔した(『言継卿記』)。また三好長慶は将軍御供衆に列し、将軍直臣となった。
 この年、再び六角氏嫡子の幼名を名乗るものが幕府に出仕し、天皇家女房衆に音物を進上する。幕府政所執事である蜷川親俊の日記『親俊日記』天文二十一年(一五五二)七月二十七日条に「亀千世出仕候」とあり、亀千代が幕府に出仕したことが見える。さらに『お湯殿の上の日記』天文二十一年(一五五二)十一月二十七日条に「かめちよかみおきとて、二色一かしん上申」と亀千代髪置の記事があり、亀千代が内侍司に音物を進上したことが見える。髪置は一般的には二歳で行なわれるため、この記事から亀千代が天文二十年(一五五一)生まれと推定できる。ただし六角氏が京都で活動できなかったために御礼が遅れた可能性も有り、生年については即断できない。
 ところが細川晴元方の反攻があり、亀千代が髪置の御礼として内侍司に音物を進上した十一月二十七日に、将軍義輝は京都郊外東山の霊山城に入城した。翌二十二年(一五五三)七月二十八日将軍義輝は細川晴元を赦免して再び長慶と対立した。しかし義輝・晴元は敗走し、翌八月五日再び近江に逃れた(『言継卿記』『厳助往年記』)。しかしその道は難路であったため、同月三十日にようやくと近江朽木にたどり着いている(『厳助往年記』)。義輝は以後永禄元年(一五五八)まで五年にわたって朽木で過ごすことになった。また、これによって京都で三好長慶政権が本格的に始動した。以後、亀千代の記事は見られなくなる。
 このように亀千代の記事は、将軍義輝や六角氏の動向と連動しており、天文二十一年(一五五二)のみに見られる。沙々貴神社本によれば、亀寿だけではなく亀千代も六角氏嫡子の幼名である(政頼・高頼の項)。亀寿の元服は天文十四年(一五四五)であり、亀千代の誕生が同二十年(一五五一)である。亀寿と亀千代は父子として年代がぴったり合う。幕府に出仕する亀千代の髪置の記事が『お湯殿の上の日記』にあるのも、典侍を母にもつ亀寿の子息であったためだろう。
 ところで六角義賢の正室は能登守護畠山義総の娘であり、嫡子義治(義弼)の幼名は亀松丸(12)である。その生年は天文十三年(一五四四)であり、次男高定の生年も同十六年(一五四七)であることから、亀寿・亀千代と同一人物ではない。このように実在が確認されてきた人物に、亀寿・亀千代に相当する人物はいない。六角亀寿の存在を確認できたことは、これまで否定されてきた義実・義秀・義郷の実在を肯定する仮説を構築する上で、非常に大きな意味を持つ。亀寿が江州宰相義久の子息で、亀千代は亀寿の子息であろう。

【注】
(12)『朽木家古文書』二九四号。

六角義秀と小倉良秀

 『厳助往年記』天文二十二年(一五五三)八月一日条によれば、将軍義輝の軍勢が松田監物を大将にして東山霊山城に立て籠ったが、このとき松田監物は討死にし、宰相が負傷している。この宰相は徳川公であろうか。そうであれば、こののち義秀が早世した理由も分かる。
 当時、六角氏は京都政界から遠ざかっている。そのため徳川公の動向はまったく分からない。天皇家女房衆に音物を進上することはできない状況にあった。このあいだ六角氏は将軍義輝を擁立して京都を伺っていたが、同時に周辺諸大名との抗争にも巻き込まれていた。斎藤道三に美濃を追われた旧美濃守護土岐頼芸を近江に保護し、北伊勢では伊勢国司北畠氏との抗争が再燃した。
 今堀日吉神社文書には、伊勢在陣中の良秀書状が所収されている。しかし、この良秀は佐々木六角氏ではなく、六角氏被官小倉氏と考えられる。良秀書状には十一月十六日付藤田有久(起左衛門)宛良秀書状(13)と、弘治二年(一五五六)三月十九日付藤田有久(起左衛門尉)宛良秀書状(14)がある。またこれと関連する十二月十六日付四本商人中宛藤田有久書状(15)があり、この藤田有久書状によって良秀の官途名が左近助と分かる。この良秀が小倉氏と分かるのは、十一月十七日付保内商人中申上事書案(16)の六条に「小倉殿」が見え、「一、小倉殿勢州御在国中ニ、荷物共被通候、然共、若他所他国商人荷物ニ相紛、保内へ取候てハ、いかゝと申候て、以一書被究候、其時一書則懸御目候、然間、小倉殿判行次第ニ、其荷物者通し申候、為保内、非進退者様、如此可有候哉事」と前述の弘治二年三月十九日良秀書状に触ているからである。このことで左近助良秀と小倉殿が同一人物であり、良秀は伊勢に在陣していた小倉左近助(左京亮)のことだと分かる。

【注】
(13)『今堀日吉神社文書』七六号・佐々木良秀書状。
(14)『今堀日吉神社文書』七八号・佐々木良秀書状。
(15)『今堀日吉神社文書』六六号・藤田有久書状。
(16)『今堀日吉神社文書』一四四号・保内商人中申上事書案。

桶狭間の戦いと六角氏

 弘治三年(一五五七)九月五日に後奈良天皇が没した。このことで、天皇家女房衆が一新した。もはや『お湯殿の上の日記』を記す人々は、亀にとっては疎遠な人々になってしまった。そのため六角氏が京都で活動するようになっても、六角氏に関する記事は少なくなる。
永禄元年(一五五八)五月三日将軍義輝は六角氏の援助で近江坂本に移り、さらに六角氏が将軍義輝と三好長慶の和談を斡旋して、同年十一月二十七日義輝の帰京を実現した。和平を実現した六角義賢は隠居して承禎と名乗った。
 『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五五九)五月二十四日条に六角義久の贈官の記事が見える。これは義輝の上奏によるものである。六角氏が復権していることが分かる。織田信長や上杉謙信(当時は長尾景虎)の義輝謁見が実現したのもこの年である。
 永禄三年(一五六〇)五月二十日の桶狭間の戦い(田楽狭間の戦い)で、六角氏が織田信長方に援軍を出して協力したという記事が『江源武鑑』にある。そのときの六角義秀軍功状(17)が『甲賀郡志』に紹介されている。前年信長が上洛した時に密約ができていたのかもしれない。『六角佐々木氏系図略』や沙々貴神社本、さらに『江源武鑑』によれば、この義秀が徳川公に相当する人物である。

  去月八日於清州織田上総介加勢池田前田両将差越處、同十九日
  三尾之境於桶羽佐間為下知、義元四万余騎乗崩之働不可勝計、
  為其賞甲賀之内二千貫之所、別有目録、仰付候上者、専可抽
  忠義者也、仍如件、
    永禄三年六月五日 義秀(花押)
        馬杉丹後守殿

 この書状によれば、永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、義秀は甲賀武士の池田氏や前田氏を織田信長方に派遣している。『江源武鑑』では六角義秀が池田恒興や前田利家を援軍として派遣したと伝えている。たしかに旧家に伝わる義実直状や義秀直状には偽文書と判断されるものが多く、この文書も慎重に真偽を判断する必要がある。しかし偽文書には、すでにあった口頭伝承に形をもたすために作成されたものもある。そのため事実を反映している可能性もあり、偽書として慮外に置くのではなく、口頭伝承として考察する必要がある。この六角義秀軍功状も、そのような資料のひとつであろう。
 人間の思考は完全に自由なものではなく、自らの生活時空間の内にある。そのため意図的に書かれたものにも、事実の断片が入り込むことが多くある。偽文書を読むとき、その偽文書成立の背景や作成意図を読み込むだけではなく、口頭伝承されていた事実の断片を探り当てる読み方も必要である。これは言葉という断片からの口頭伝承のもとになっている過去を再構成するものであり、言葉の考古学と呼ぶことのできるものである。そのため、この文書についても今後十分に検証していく必要がある。

【注】
(17)開田氏所蔵文書。『甲賀郡志』下巻、一一二一頁。

修理大夫書状

 葛川明王院文書三十六巻に(年未詳)閏三月十九日付新三郎宛修理大夫書状(18)が残されている。六角佐々木氏系図略や沙々貴神社本をはじめとする系図や軍記物で義秀の官職を修理大夫と伝えており、義秀の書状と見ることができる。修理大夫は参議が兼職することのできる官職であることも、徳川公義秀が修理大夫であったことと矛盾しない。

    又三郎申良薬ともの事、たのミ入申候、
  昨日者光儀千万候、畏悦候、必参上可申候、仍蔵人きうを仕度
  候か、はなふさかりて候て、かろき気かやうに候間の事、不可然
  候、きう哉、はなふさかり(ともくるしかりましく候)哉、内々可得
  御意候由申候、見のけたつやうに候間、きうをさらんする由申候、
  かたく参上候て可申入候也、
       修理大夫
   後三月十九日 敬白
  新三郎殿
     足下

この書状では灸や鼻塞がりに触れられており、また追而書(追伸)で良薬を求めていることから、修理大夫が病気に苦しめられていたことが分かる。これは『江源武鑑』で義秀が病気がちであったとされていることと一致する。前述の『厳助往年記』の記事で宰相が戦傷を負ったとされていることとも関係があろうか。日付けが閏三月となっているが、この頃に閏三月があったのは永正三年(一五〇六)・大永三年(一五二三)・天文十一年(一五四二)・永禄四年(一五六一)・天正八年(一五七五)・慶長三年(一五九八)である。近江の領主で修理大夫という官職をもっていたのは六角義秀のみであり、この書状は彼の活動時期と重なる永禄四年のものと推定できる。六角氏が足利義輝の内意を受けて河内畠山高政と三好包囲網を築いて京都侵攻を開始した年である。

【注】
(18)村山修一編『葛川明王院史料』(吉川弘文館)八三九号。翻刻本で、「いなふさかり」としている個所は「はなふさかり」であろう。

観音寺騒動と足利義輝殺害事件

 永禄四年(一五六一)六角氏は河内守護畠山高政とともに三好包囲網を築き、翌五年(一五六二)三月五日畠山氏は三好長慶の弟実休(義賢)を敗死させ、六角氏も承禎(左京大夫義賢)・義治(四郎義弼)・高定(次郎高盛)を大将として京都に出勢した(『厳助往年記』永禄五年三月六日条)。こうして一時、三好氏を窮地に追い込んでいる。
 しかし永禄六年(一五六三)六角氏では、義治(当時は右衛門尉義弼)が重臣後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺したことで、承禎・義治父子と六角近臣団が対立するという観音寺城騒動(後藤騒動)が起きた。六角氏が伊庭氏の乱を契機に守護代を廃止してから、守護代クラスの豪族級家臣に代わって、後藤氏ら新興勢力が六角氏の奉行人・使者として急成長した。その中でも、後藤氏は進藤氏とともに六角氏の両牙と称された。義治はその人望に危機感をもち、後藤父子を謀殺したと考えられる。六角氏の弱体化は決定的になった。
 さらに永禄七年(一五六四)七月四日三好長慶が没した。すると、その重臣松永久秀が暴走した。六角氏が内紛で身動きのとれない間隙を突いて、翌八年(一五六五)五月三日将軍足利義輝とその母慶寿院(元関白近衛尚通の娘)を、将軍邸に襲撃して弑逆したのである。

足利義昭入洛運動

 将軍義輝の実弟・一乗院門跡覚慶は、将軍御供衆一色藤長や細川藤孝の努力と、越前守護朝倉義景(左衛門督)の交渉・手配によって奈良脱出に成功した。さらに将軍御供衆和田惟政(伊賀守)の案内で六角氏の保護を求めて、近江甲賀郡和田城主和田景盛(六角高頼孫)を頼った。覚慶の母方の叔父・大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子息)も、覚慶に合流した。そして覚慶らは早速、甲賀和田城から越後上杉輝虎(のち謙信)や尾張織田信長など諸大名に連絡を取った(19)。
 覚慶らを保護した和田氏は甲賀武士であったが、また将軍御供衆(和田中務少輔)でもあった。一般に甲賀武士というと短絡的に甲賀忍者と思われがちだが、なかには和田氏のように幕府奉公衆(直臣)を勤めた者もいるという、自立した中小領主たちであった。とくに和田氏は、平安中期の前九年合戦(一〇五一-六二)で活躍した出羽守源斉頼(政頼)の子孫である名門武家で、戦国期には六角高頼の四男大蔵大輔高盛(20)の子息景盛(21)が養子入りしていた。彼が覚慶を保護したのである。和田惟政はこの甲賀和田氏の一族である。
 またこの時期、三管領のひとつ河内守護畠山政頼(御屋形様)・守護代遊佐信教(新次郎)・重臣安見宗房(美作守)らも六角氏を頼り、将軍義輝謀殺事件を諸大名に報告して協力を要請している(22)。河内畠山氏は六角氏とともに三好包囲網を築き、また越中守護を兼任していた関係から越後上杉氏とも綿密に連絡を取っていた。その結果、畠山政頼・遊佐信教・安見宗房らの書状が、上杉文書や河田文書に残された。上杉文書などで安見宗房が六角氏家臣とされるのは、彼らが六角氏に保護されていたからだろう。
 このように反三好勢力を結集した六角氏は、すぐ三好氏に対して反撃に出た。その一環として六角承禎は丹波・丹後平定に尽力し、若狭武田氏の重臣白井民部丞に対して、丹後出勢を要請している(23)。

  丹波之儀蘆田越前守・荻野悪右衛門尉以調略過半本意候、此刻
  至丹後表被差急出勢、可被及行段肝要候、丹波之儀無油断才覚
  此節候、猶狛丹後守可申候、恐々謹言、
     正月廿二日  承禎(花押)
       白井民部丞殿

  丹州御出勢之儀、以梅軒申候之処、可被相立由各馳走之験、
  尤珎重候、諸口相調候之条、早速可被及行事肝要候、猶梅軒
  可申候、恐々謹言、
     二月廿日   承禎(花押)
       白井民部丞殿

 永禄八年(一五六五)八月二日荻野悪右衛門尉(直正)が、松永長頼(久秀の弟内藤備前守・蓬雲軒宗勝)を滅ぼしたことで、丹波情勢は一変した(24)。そして承禎書状にあるように、丹波の大半を三好方から奪った。さらに丹後への出勢も進めている。このように六角氏は各地の反三好勢力を結集して、着実に勢力圏を拡大させていった。
 情勢が落ち着き始めると、覚慶は近江国平野部の野洲郡矢島御所に移った。そこで還俗して義秋と名乗るとともに、将軍の前段階である従五位下左馬頭に補任された。矢島御所は、六角氏の重臣進藤山城守(賢盛)の居城木浜城の近くである。
 義秋が、父義晴の庇護されていた六角氏の居城観音寺城には入城できなかったのは、観音寺城騒動で六角氏が二分されていたからである。進藤氏ら六角氏近臣団は義秋を庇護したが、近臣団と対立した六角義治(承禎の嫡子)は、義秋の敵人三好氏と通じた。
 永禄九年(一五六六)八月三日には矢島御所で三好方に内通する者があって、三好軍三千が近江国坂本に侵攻した(『言継卿記』永禄九年八月四日条)。このことで六角義治が三好氏と通じていることが露見した。六角義治が三好氏と通じていたことは、三好三人衆の一人三好康長(山城守入道)に年賀の御礼として太刀一腰を贈っていることでも分かる(25)。
 義秋は近江を脱出して、妹婿である若狭守護武田義統、ついで大国である越前守護朝倉義景を頼った。ただしこの義秋の北国行きは単なる逃避行ではなく、越後上杉輝虎(謙信)の出陣を促すための積極的な行動とも考えられる。

【注】
(19)(永禄八年)八月五日付上杉輝虎(謙信)宛大覚寺門跡義俊副状(『新潟県史』資料編3中世、五〇七号)、および(永禄八年)六月二十四日付河田長親・直江実綱宛安見宗房書状(河田文書。『新潟県史』資料編5中世、三七四〇号。『越佐史料』四巻五三四頁)ほか。
(20)『歴名土代』従五位下の項に「源高盛享禄二年二月二十一日」とあり、さらに天理大学所蔵『大館記』所収の『大館常興日記』天文十一年八月二十六日条に「佐々木大蔵大輔殿」とある。また同じく『大館記』所収の『御内書并私状等案』に、八月一日付佐々木大蔵大輔宛大館晴光書状案がある。
(21)『歴名土代』従五位下の項に「源景盛永禄三年八月二十九日」とある。
(22)(永禄八年)六月二十四日付河田長親・直江実綱宛安見宗房書状(『歴代古案』二巻一〇一号。『越佐史料』四巻五三四頁)、(永禄八年)八月八日付薬師寺九郎左衛門尉宛畠山政頼書状・遊佐信教書状・安見宗房書状(尊経閣文庫)ほか。
(23)『福井県史』資料編2中世、三重県白井文書四一号・四二号。
(24)『お湯殿の上の日記』永禄八年八月四日条、『多聞院日記』永禄八年八月日条、および(永禄八年)八月五日付大覚寺門跡義俊書状(『歴代古案』三巻二八号。『大日本古文書』上杉家文書五〇七号。『新潟県史』資料編3中世、七五九号。『越佐史料』四巻五四三頁)。
(25)(年未詳)正月十六日付三好山城入道宛六角義治礼状(『古今消息集』)。『近江蒲生郡志』七〇一号(二巻、七三九頁)。