5月京都勉強会

5月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2007年5月6日(日)
 教養日本史・世界史 : 12時半~14時半
 系図の読み方 : 14時半~16時半
 >>佐々木分流の系図をもとにして
 ※詳細は後日お知らせいたします。
  ご意見ご要望が有りましたら、お知らせください。
 ※前日に、近江観音寺城見学も考えています。  
【会費】
 3、000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都 5階 演習室
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

個人指導について

個人指導のお知らせ

■個人指導
大学受験・高校受験・中学受験
▲基本2時間1万5千円+交通費(実費)
▲基本3時間2万円+交通費(実費)
※料金についてはご相談に応じます。

▼大学受験(中高一貫校中3~高卒)
 専門科目:現代文・日本史・世界史・小論文対策。
 ※小論文はAO入試対策・推薦入試対策・医歯薬受験小論文。
 ※AO・推薦小論文指導では、提出書類の添削も行います。
 ※他科目も相談に応じます。
▼高校受験 
▼中学受験
 ※桜蔭の国語論述対策をはじめ、国社対策。
 ※国語・社会を不得意科目から得意に科目にします。


■通信添削指導
東大現代文、東大日本史、東大世界史、小論文対策。
一橋大学二次試験日本史対策・慶應小論文対策・
医歯薬系小論文など、他大学の指導もいたします。


お問い合わせ&受験指導申込>>メール

大学基準と予備校基準・東大現代文編

東大現代文を受験テクニックで解くことができないことは、予備校・青本・赤本の模範解答に誤りが多いことでも分かる。それを正しいと信じている受験生があまりにかわいそうだ。
 東大現代文で高得点を挙げたいのであれば、受験テクニックを磨くより、むしろ教養を身に付けた方が早い。教養はすぐに身につかないと思われがちだが、そうでもない。実は大学入試問題で使用されている評論文の多くは、大学教科書や副教材である。大学入学後に、大学教科書や副教材を正確に読むことのできる学生がほしいからだ。だから、大学入試問題で使用されている評論文を読めば、自然に大学程度の教養が身につく。現代文・英語長文を解くときに機械的に読むのではなく、内容を理解しながら読むといい。
 もちろん自分勝手な解釈で理解していると、教養を身に付けたことにはならない。できれば評論文の内容を正確に解釈できる人物から内容の説明をうけるといい。しかし評論文の内容は多岐に及ぶため、全ての問題について正確に説明できる人物はほとんどいない。そのため、わたしは自らのブログで模範解答を連載している。予備校では不可能な評論文の正確な解釈を受験生に学んでほしいからだ。
 つぎに記述力を自分で身に付けるいい方法は、センター試験を記述試験と見立てて解くことである。大学入試センター発表の正解が、そのまま模範解答になる。また早稲田大学をはじめ私立大学の問題も、ほとんどが選択問題である。それを記述試験問題と見立てて解くのである。そうすれば問題を解きながら教養が身につき、記述力も身につく。一石二鳥だ。おまけに選択問題を解くときに迷わなくなる。一石三鳥だ。さらに英語長文の問題で同じことをすれば、英文読解力もつく。
 もちろん東大現代文を正確に読むためのテクニックがないわけではない。しかし、これは受験テクニックというよりも、評論文を読み書くときの最低限の基礎知識である。そのため、評論文の読み方を理解していれば、東大後期試験の小論文対策にもなる。小論文とは、受験生自らが評論文を書くということである。
 ①逆接の接続詞に注目。評論文に共通するテーマは「常識を疑え」だ。そのため、対比として常識的見解を紹介した上で、「しかし」など逆接の接続詞につづけて自分の主張を書く。多くの場合は、「もちろん」+「しかし」の形をとり、「もちろん」のあとに常識的見解を書き、「しかし」のあとに自分の主張を書く。このことが分かっていれば、筆者の主張を探すのに苦労しない。
 ②対比に注目。逆接の接続詞が使われていなくても、ふたつの事物を比較させていれば、そこに筆者の主張がある。何と何を対比させているのか、注目するといい。
 ③言い換えの接続詞に注目。筆者はわざと難しい文章を書いているわけではなく、筆者なりに分かりやすく書こうと努力している。そのため、重要なことは必ず繰り返される。「つまり」「すなわち」など言い換えの接続詞の前後に、筆者が強調したいものが必ず書かれている。言い換えの接続詞がない場合でも、繰り返されていることは、間違いなく重要である。現代文の問題で、言い換えの語句を探させる問題が多いのは、言い換えていることが重要だからだ。
 このことを知っていれば、読む速度も早くなる。理解できない文章があっても、それが重要なことであれば必ずどこかで言い換えているはずだから、飛ばして読んでいいのである。
 ④段落ごとの内容を理解する。段落は勝手に区切られているのではなく。段落ごとにひとつの話がまとめられている。だから論述問題で多く見られる傍線部分の内容説明では、その段落の内容をまとめてしまえば、多くの場合は正解になる。
 ただし、ひとつひとつの段落がばらばらに独立しているわけではなく、前の段落の内容を受け、さらに次の段落につながっている。そのため前後の段落の内容を理解していると、段落の内容をまとめやすい。とくに傍線部が段落の最後の文である場合には、次の段落の最初の文につながっているので、かならず次の段落にも注目しておく必要がある。
 ⑤一字一句にこだわらない。模範解答でも陥りやすい間違いが、傍線箇所の一字一句を訳そうとすることである。一字一句の意味にこだわっていると、全体の文脈を無視して解釈してしまうことが多い。一字一句を解釈すれば正確な解釈ができるというわけでない。かえって全体の文脈を無視した自己流の解釈に陥る。
 同じ言葉でも文脈によって意味が異なる。まず文脈を知らなければ、正しい解釈などできるはずがない。いちばん重要なのは全体の意味であり、部分はそれを構成するものだ。全体と部分は決して対立するものでなく、全体の中に部分があり、また部分を通して全体が見える。全体の中での段落の位置を把握し、段落の要約をまとめることだ。与えられている解答欄は二行だから、これで十分だ。一字一句にこだわらない方が、簡潔にまとめてあると評価されるはずだ。
 ⑥自分の言葉に直す。自分の言葉に直せるということは、文章の内容を深いところで理解しているということであり、自分のものにしているということだからだ。文中の言葉を抜き出しただけでは、ただ受験テクニックで重要そうなところを抽出して機械的にまとめただけと思われてしまう。それでは、書いた本人さえ理解できない文章になっているはずだ。予備校・青本・赤本の模範解答にも、そのような解答例が多い。東大は、普段から本を読み、自分の力で考えている受験生がほしいのだから、きちんと自分で読んで理解のできる文章を自分の言葉で書くこと。
 ⑦解答を読めば全体の内容が分かるように書く。問題は、内容が理解できているかどうか確認するためのものだから、問題はそれぞれ重要な個所について正確に理解できていることと、全体の内容を理解していることの両方を見ることができるように作成されている。そのため、解答を読めば、それが全体の要約にもなっていなければならない。時間があるときには、そのようにして確認するといいだろう

大学基準と予備校基準・東大世界史編

歴史学は、実は暗記の学問ではなく思考の学問だ。だから、教科書程度の知識があれば、あとは思考力と論理力で解けるという問題が、いい問題だ。ここが、大学基準と予備校基準の大きな違いになってくる。
 とくに世界史の第1問の論述問題は、同じ出来事でも、見方を変えるだけで歴史像が大きく変わることを意図している問題だ。そのために、世界史では馴染みのキーワードが用意されている。いずれも馴染みのキーワードだが、そのなかのいくつかを入れ替えるだけでも、出来上がった歴史像はまったく異なる。受験生は気にしていないだろうが、キーワードを入れ替えることで、視点が変わっているのだ。視点が変われば、歴史像が大きく変わる。この歴史の視点を変えるという作業を、入試会場で受験生にやらせているのである。だから、キーワードを並べながら、こういう見方もあるんだなと楽しみながら解答できたら、大正解だ。
 東大はそれを意図しているから、キーワードは教科書範囲で学ぶ馴染みのものばかりにしている。しかも、それらのキーワードを時代順に並べるだけで、教科書には書かれていない歴史像が見えてくる仕掛けになっている。あとは、キーワードを順接でつなげるのか逆説でつなげるのかを間違わなければ大丈夫だ。キーワードは、このように受験生を導くものであって、けっして受験生を困らせるものではない。
 しかもキーワードのほとんどは、過去の東大入試でもよく使われているものが多い。過去の入試問題を見れば、そのことがよくわかるはずだ。それでも毎年ちがう問題をつくることができるのは、ひとつの出来事がさまざまな筋書きの交差点になっているということを示している。同一の出来事でも、異なる視点から見れば、異なる姿をみせる。そこが歴史学の面白いところであり、東大入試の面白いところでもある。
 第2問で出される資料問題は、歴史資料や図表が出題されるが、それも歴史の見方を学ぶためのものだ。これが、第2問で論述試験が復活した理由だろう。
 歴史学はけっして暗記の学問ではなく、発想の学問である。歴史という学問が目指しているものは、これまで正しいと思われていた歴史常識を疑うということだ。今でも歴史という学問があるのは、歴史学のなかでつねに歴史学の常識が疑われてきたということを示している。
 しかも常識を疑うにはデータの力が必要だ。入試問題であれば歴史資料のことだ。資料には自分の想像を超えた内容が記されている。それを理解する力を試したいのだ。
 そこで、第1問で出題されるような内容を、きちんとデータからも読み取れるのかを試す図表問題が出題されることがある。この類の問題では、キーワードのかわりに図表を使用していると考えればいい。
 さらに、もう一歩段階を進めて、常識を疑わざるを得ない内容の資料をワザと出題することもある。その内容を理解できれば、自然と歴史の常識を疑うことができるというものだ。それが、歴史学における発想力だ。 たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につけながら、常識のおかしなところを指摘するのだ。そのような力のある学生がほしいのだ。
 ただし、新しい発想が出てこなかったら仕方ない。赤本・青本のように、知っている知識で説明しよう。論述問題では、何も書かないのが一番もったいない。
 その一方で、東大世界史の第3問は、一問一答形式の問題である。しかし、必ずひとつのテーマで貫かれているので、単なる一問一答形式の問題ではなく、連想力を問う問題になっている。やはり、出来事をつなげる力が問われているのだ。
 これら一問一答で問われている知識は、高校の教科書範囲のものがほとんどだが、ときには山川の用語集の①レベル(教科書ひとつレベル)の難問や、地理・政経など世界史以外の科目の教科書範囲まで出題される。それは、現実の出来事が教科ごとに分類されて存在しているのではなく、教科の壁を越えて相互に関連しながら存在しているからだ。だから、東大二次試験の社会科目には、政治経済・倫理社会など公民科目はない。地歴科目で政治・経済・思想の知識を問うことができるのだ。これは教養試験だと割り切ればいい。
 最後に、東大は模範解答を超える解答をもとめている。これは、どの教科でもいえることだ。大学が用意した模範解答よりも優れた解答があれば、また最初から採点しなおすほどだ。それまでして優秀な学生をほしがる。もし楽しみながら東大入試の問題を解くことができたら、きっと君の解答は模範解答を超えていることだろう。この記事を読んでいる受験生が、楽しみながら問題を解くことができるよう祈る。

大学基準と予備校基準・東大日本史編

東大日本史で必要なのは、発想力だ。知識については、教科書レベルの基礎力で十分だ。この発想力が重要だということが、大学基準と予備校基準の違いだ。
 まず知っておいてほしいのは、歴史という学問が目指しているものは、これまで正しいと思われていた歴史常識を疑うということだ。今でも歴史という学問があるのは、歴史が暗記の学問ではなく、つねに歴史学のなかで歴史学の常識が疑われてきたということを示している。
 たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につけながら、常識のおかしなところを指摘するのだ。
 ところが、大学受験では歴史は暗記の学問だ。予備校もこの一般常識に縛られている。予備校基準は私立文系の即応していて、暗記中心だから、細かい知識を問う私立対策にはいいだろう。しかし東大日本史では、一般の受験生が初めてみるような問題を提示する。予備校基準では、そのような初出の資料を見て、受験レベルを超えた資料問題が出たと思うだろう。そして、日本史は難しすぎる深すぎると評価して終わりだ。しかし、それは違う。
 常識を疑うにはデータが必要だ。入試問題であれば歴史資料のことだ。資料には自分の想像を超えた内容が記されている。それを理解する力を試したいのが、東大日本史だ。だから、そのような内容の記された資料をワザと出題する。その内容を理解できれば、常識を疑うことができる。それが、歴史学における発想力だ。
 東大日本史が発想力を重視していることは、資料が現代語訳してあることでも理解できる。純粋に発想力が見たいから、和漢文の読解力で差が付くようなことをしないで、発想力だけで差が付くようにしているのだ。それに受験生のみんなが、大学に入って日本史を専攻するわけではない。また日本史を専攻する学生なら、専攻にすすんでから十分に鍛えられる。受験段階では、現代語訳の資料で十分だ。
 だから資料を読んでみて、その中に書かれている内容が常識を破るような内容だと気づいたら、その内容に即した解答を書いてほしい。東大は同一の資料を見ながらも、新しい発想をする受験生をほしがっている。もちろん、勘違いと新しい発想は違うので注意してほしい(笑)。勘違いしないためには、基礎力が必要なのはいうまでもない。しかし、資料に書いてあること、資料から読み取れることなら、堂々と主張してほしい。それが、東大の採点者(助教授クラス)を喜ばせる解答だ。
 しかも東大は、模範解答を超える解答をもとめている。大学が用意した模範解答よりも優れた解答があれば、それをもとに最初から採点しなおすほどだ。それまでして優秀な学生をほしがる。また、それほど手間をかけて採点しているから、足切りもせざるを得ない。
 もちろん資料をいくら読んでも、新しい発想が浮かばなければ、そのときは仕方ない。青本の模範解答のように、自分が知っている知識をフル活用して説明すればいい。論述問題では、とにかく書くことが大切だ。しかし、それはあくまで次善の方法だ。資料から新しい発想が浮かんだら、遠慮なく、堂々と書いてほしい。
 拙著『東大入試で遊ぶ教養』シリーズは、歴史の新しい考え方を真似てもらうことで、発想力を身につけてもらおうという本である。基礎的なところでは赤本・青本と模範解答が近似しているが、発想力を問う問題では、大いに模範解答が異なっているのは当然だ。このぐらい大胆な発想をしてみてもいいんだよと見本を見せているのだから。
 書評では、この意図を理解していないものがあるが、それは評者が常識に縛られているからだ。東大入試が、発想力をもとめている問題であることを知らないで、いまだに予備校基準でしか東大入試を見ていないのだ。それでは、いつまでも次善の方法でしか東大入試を見ることができない。評論を見れば、逆に評者の実力が分かる。

大学基準と予備校基準

ことし東大受験生を指導していて、いちばん驚いたのは、予備校の東大模試の模範解答がとてもではないが模範解答といえるものではなかったことだ。むしろ誤っている。自分たちでつくっている問題だから、とても素晴らしい模範解答ができていいはずなのに、そうではない。これは、どうしてなんだろう。

答えは簡単だ。予備校の模範解答は、予備校基準で作成されているからだ。たとえば、現代文では、傍線部の一字一句ひとつひとつにこだわった逐語訳をする。そのため、①全体の流れを見落として、何を言っているのか分からない模範解答になり、②2~3行の枠では収まりきれない字数制限を超えた模範解答になってしまう。全体の中での傍線部分の位置がうまくつかみきれていない。これだから、模擬試験の結果と東大入試の結果がちがうということが多くなる。

では、どうして予備校から東大合格者が出るのだろうか? 答えは簡単だ。東大受験生のほとんどが予備校に通っているからだ。だから東大の学生のうち、上位1/3は東大教官がほしい学生、中位1/3はどうでもいい学生、下位1/3は本当は要らないが定員を埋めるための学生といわれてしまう。下位1/3が予備校基準の受験テクニックで入学してしまった学生だ。それに対して、上位1/3は予備校・青本・赤本の模範解答がよく間違っていることがあることに気づいて、いろいろな情報を集めている学生だ。また、東大合格者を出す高校には、予備校講師を超えた指導力を持つ先生がいることも少なくない。だから、必ずしも学校より予備校が優れているとはいえない。

東大現代文にテクニックがあるとしたら、①最低限の評論文読解法を理解していることと、②よく出る内容をあらかじめ学んでおくことだ。

①評論文読解法だが、これは英文解釈にも通用するものだから、英文解釈で磨くこともできる。だから英文解釈の力が付けば、現代文の力も付き、現代文の力が付けば、英文解釈の力も付く。
いちばんの基本は、評論文の基本テーマが「常識を疑う」ということだから、常識を述べた後に逆接の接続詞〈しかし〉が来て、筆者の主張が述べられるということだ。筆者の意見は、必ず何かしらの常識を疑っている。だから、文の最初に書かれている文全体のテーマが分かれば、筆者の主張も推測できる。最初の文で、もう内容が分かるのだ。
それから、重要なことは繰り返して述べるから、〈つまり〉〈すなわち〉〈それは〉など言い換えの接続詞の前後を見ればいい。
さらに、段落の最初と最後に注目するといい。それぞれの段落のテーマと結論になっているというだけではなく、段落の最後の文が、次の段落の最初の文と同じ内容であることが多いからだ。段落の内容を手っ取り早く知りたければ、次の段落の最初の文を見ればいい。
さらに、解答全体を読んで文全体のあらすじになっていること。そのように傍線部分は設定されている。

②内容の先取りについてだが、受験生の場合は本を読んでいる時間がない。そこで、最近の評論文で主張されている内容を理解している者から、内容中心の授業を受けるといい。東大現代文は難解であり、予備校講師のどれだけの者が内容をしっかりと理解しているのか疑わしい。これは、予備校には期待できないことが多い。それは東大入試の模範解答が怪しいことでも分かる。

東大現代文は難解であり、東大合格者に共通することは、現代文ができたということだ。現受験生も将来の受験生も現代文対策をしっかりしてほしい。

このように予備校の模範解答をみて、それって違うだろうと言って異なる解答を出したら、予備校には嫌われる。そう、わたしは予備校講師ではありません(笑)。

いま少人数で受験指導はしているけど、こんど本当に教室を開こうと思案中。きちんと教養力で東大に合格でき、将来日本を支えてくれる人材を育てたいからね。

ごあいさつ&出版予定


本年も宜しくお願いいたします。
それとともに、わたしが執筆中であるがために、ブログの更新が遅々として進んでおりませんことを、お詫び申し上げます。お詫びも兼ねまして、現在執筆中の著書のリストを掲げます。どうか、今後も御贔屓に願います。
【歴史】
「偽系図と史実」(執筆中)
「反信長」(執筆中)
【絵画資料論】
「一遍聖絵と図像学」(執筆中)
「朝鮮軍陣図屏風と図像学」(執筆中)
【哲学】
「弱者の進化論」(執筆中)
「裸の王様の哲学」(執筆中)
「皇帝の新しい服」(予定)
【受験】
「東大力」現代文編(予定)
                        以上

ピーちゃん大往生と来世観(改訂版)

 ピーちゃんの大往生は、2006年東大前期試験の国語第一問「来世観」を記事にした直後であり、死について考えるのに、ちょうどいい機会になった。
 セキセイインコというと短命なイメージがあるかもしれない。実際にペットで飼われているセキセイインコの平均寿命は8年ぐらい。だけど大切に飼えば、13歳まで生きるし、もっと生きることもある。
 ときには、病気のヒナを買わされてしまい、ヒナのうちに死んでしまうこともある。わたしも病気のヒナを買ったことがある。しかし、ヒナには罪はない。むしろ、わたしたちを頼るヒナがとても愛おしく思えて、最後まであきらめずに世話をした。
 そんな気持ちでヒナと接したことで、そのヒナは今でも記憶に残っている。そんな経験の積み重ねが、ピーちゃんの長寿に活かされた。そして、またピーちゃんの大往生を、ちょうど「来世観」をテーマにしたばかりだったので、ネット上に記録することができた。

 セキセイインコは、とても安く、初心者が飼うのに適したペットだ。しかし、安いとうことは、買ったときの価格よりも、治療費のほうが高いということだ。健康保険がないのだから、治療費はまるまる全額かかってしまう。それでも、病気になったら、きちんと病院に連れていってほしい。いい思い出ができれば、治療費も高いとは思わないはずだ。
 粗末に飼っていたら、きっと記憶に残ることもなく、あなた自身お金を無駄遣いしたと思うだろう。インコがかわいそうだが、あなたもかわいそうだ。生きていた証とは、誰かにとってのかけがえのない存在になること。あなたは、かけがえのない存在になる機会を、自ら放棄したことになるからだ。
 また、今まで沢山のインコを飼った経験があったからといって、それが全てのインコに当てはまるとはいえない。それぞれのインコがそれぞれ個性を持っている。目の前のインコにあわせた対応をしなければ、目の前のインコとの大切な関係を築くことができない。
 目の前のインコとの大切な関係を築くためにも、あまり多くのことを期待してはいけない。テレビに出てくるような芸のできるインコは少ない。少ないからこそ、テレビに出られる。しかも、テレビに出てくるインコも、テレビ・カメラの前ではいつものような芸はできない。インコは、とても繊細で臆病だ。
 わたしたちにとっては大したことではなくても、小さな体のインコにとっては大事件だ。ちょっと環境が変わっただけでも、インコは緊張する。いつもと違う人たちがいるだけで緊張する。カメラを向けても緊張する。大声を上げたても緊張する。家族がケンカしても緊張する。もしかしたら、それが原因でインコは心を閉ざしてしまうかもしれない。
 信頼関係があってこそ、インコは懐く。こちら側がかわいがれば、それに応じてくれる。しかし、そんな信頼関係がなければ、インコもなつかない。まずは大きくて強い者が、相手を愛しむ。そうでなければ、か弱い者が心を開くことはない。
 こちらが愛していれば、インコもそのインコなりの愛情表現をする。自分勝手な期待をかけることは、こちらの我がままを相手に押し付けるということだ。
  飼い主が謙虚になるためには、病院で叱られるといい。専門家に怒られれば、いかに自分がインコに対して無知でわがままだったかが分かる。自分が相手に対して無知だったのに、相手に多くのことを求めすぎていたことに気づく。勘違いな愛情は、愛情とはいえない。
 そして、最後までしっかりと面倒を見てほしい。相手の愛情を裏切らないでほしい。寂しい思いをさせないでほしい。しっかりと愛情で包み込めば、インコにとって、あなたはかけがえのない存在になり、また、あなたの心の中にいつまでも生きることができる。そのような信頼関係が、死を乗り越える方法になる。
 もちろん、死んだときは思いっきり泣いた方がいいと思う。その悲しみの分だけ優しくなれるし、優しくなれれば、大切なものとの信頼関係も永遠のものになるから。大切なものがなくなったときの喪失感は、お互いに信頼関係が築けたという証拠だ。だから、思いっきり泣いた方がいい。
 でも、自分まで衰弱してしまったら、死んだ相手との信頼関係をこの世で維持できる者がいなくなり、なくなった者への恩返しができなくなる。なくなった者のためにも、自分がしっかりと生きて、心の中で相手を生かしつづけることが大切だ。そのような心の中で生きていくことの連鎖が、社会の営みであり、歴史であると思う。

ピーちゃんが死んだ

13歳のセキセイインコが死んだ。
九九の2の段を話すインコだった。
私が咳をすると喜ぶインコだった。
水の音が好きなインコだった。
ひとを斜めからの視線で見るインコだった。
ひとの頭に載るのが好きなインコだった。
ワープロの上を歩くのが好きなインコだった。
スズメと一緒に庭に飛んできた黄色のインコだった。
来たときは、ようやくと飛べるようになった子供だった。
来たときは、粟稗しか食べない正統派だった。
「ピーちゃん」に反応したから、
「ピーちゃん」と名づけた。
人懐っこさが、イヌのようなインコだった。
どん太の生まれ変わりのようだった。
見かけは若かったが、老衰だった。
ここ1か月で急に弱まっていった。
昨日も、鳥の専門病院に連れて行った。
流動食をもらい、処置法も教わった。
しかし、家族みんなが寝た後に死んだ。
時間はとめられなかった。
元気なうちは、死んだら剥製にしようと言っていたが、
死んだ今は、土に埋めてあげたいと思っている。
今、妹がピーちゃんを描いている。
そういえば、今日は天皇誕生日。
私たちが忘れないように、
祝日であり続ける日に死んだのだろうか。

2006年東大前期・国語第1問「来世観」

 なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。答えは単純である。(ア)死者は決して消滅などしないからである。親・子・孫は相互に似ており、そこには消滅せずに受け継がれていく何かがあるのを実感させる。失せることのない名、記億、伝承の中にも、死者は生きている。もっと視野を広げれば、現在の社会は、すべて過去の遺産であり、過去が(a)チンデンしており、過去によって規定されている。この過去こそ先行者の世界である。そもそも、「故人」とか「死んでいる人」という表現自体が奇妙である。死んだ人はもう存在せず、無なのであるから。ということは、こうした表現は、死んだ人が今もいることを指し示している。先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。たとえば某が二世紀前にある家を建て、それを一世紀前に曾祖父が買い取り、そこに今自分が住んでいるという場合、某も曾祖父も今はもう亡いにもかかわらず、彼らの行為がいまなお現在の自分を規定している。先行者がたとえまったくの匿名性の中に埋没していようとも、先行者の世界は(b)ゲンゼンと実在する。この意味で、死者は単なる思い出の中に生きるのとはわけが違う。死者は生者に依然として働きかけ、作用を及ぼし続ける実在であり、したがって死者を単なる思い出の存在と見なすことは、時として人々に違和感を醸し出す。人々は死者を実体としては無に帰したと了解しつつも、依然として実体のごとく生きているかのように感じるのは、そのためである。
 名、記憶、伝統、こうした社会の連続性をなすものこそ社会のアイデンティティを構成するのであり、社会を強固にしてゆく。言うまでもなくそれは個人のアイデンティティの基礎であるがゆえに、それを安定させもする。したがって、個人が自らの生と死を安んじて受け容れる社会的条件は、杜会のこうした連続性なのである。
 人間の本質は社会性であるが、それは人間が同時代者に相互依存しているだけではなく、幾世代にもわたる社会の存続に依存しているという意味でもある。換言すれば、生きるとは社会の中に生きることであり、それは死んだ人間たちが自分たちのために残し、与えていってくれたものの中で生きることなのである。その意味で、社会とは、生者の中に生きている死者と、生きている生者との共同体である。
 以上のような過去から現在へという方向は、現在から未来へという方向とパラレルになっている。(イ)人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う。ときにはまだ生まれてもいない人を念頭に置いた行為すら行う。人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。ここで二つの点が大事である。まず、それは虚妄でもなければ心理的(c)ヨウセイでもないということである。それは自分が担い、いま受け渡そうとしている社会である。第二に、人ははかない自分の名声のためにそうしているのではないということである。むろん人問は価値理念と物質的・観念的利害とによって動く。したがってここでは観念的利害が作用してもいるのであろうが、それは価値理念なしには発動しない。ここで作用している価値理念とは、「犠牲」ということである(後述)。
 社会の連帯、つまり現成員相互の連帯は必ず表現されなければならない。さもなくばそれは意識されなくなり、弱体化してしまう。まったく同じことがもう一つの社会的連帯、つまり現成員と先行者との連帯にも当てはまる。この連続性が現にあるというだけでは足りない。それは表現され、意識可能な形にされ、それによって絶えず覚醒されるのでなければならない。この縦の連続性=伝統があってこそ、社会は真に安定し、強力であり得る。それゆえ、先行者は象徴を通じてその実在性がはっきり意識できるようにされなければならない。(ウ)先行者の世界は、象徴化される必然性を持つということである。他方、来世観が単なる幻想以上のものであるなら、何らかの実在を象徴しているのでなければならない。来世観は、実在を指示する必然性を持つということである。これら二つの必然性は、あい呼応しているように思われる。
 人類の諸社会で普遍的に非難の対象となることの一つは、不可避の運命である死をひたすら呪ったり逃れようとする態度であり、あるいはそうした運命のゆえに自暴自棄となり頽廃的虚無主義に落ち込むことである。どのような杜会でも、人間は、老いて行くことを潔く受け容れるように期待されている。死がいかんとも避けがたくなったときに、その運命に(d)ショウヨウとして従うことを期待されている。それは無論、死ねばよいと思われているのとはまったく異なる。悲しみと無念の思いにもかかわらず、そうした期待があるということなのである。ここでは事の善し悪しは一切おいて、なにゆえにそうした普遍性が存在するのかを考えてみたい。それは来世観の機能と深い関わりがあるように思われるからである。
 年老いた個体が順次死んでいき、若い個体に道を譲らないなら、集団の存続は危殆に瀕する。老いた者は、後継者を育て、自分たちが担っていた役割を彼らが果たすようになるのを認めて、退場していく。これが人間杜会とそこに生きる個人の変わらぬ有りようである。その場合、積極的に死が望まれ求められるのではない。人は死を選ぶのではなく、引き受けざるを得ないものとして納得するだけであり、生を諦めるのである。それは他者の生を尊重するがゆえの死の受容である。これは、他者の命のために自分の命を失う人間の勇気と能力である。たとえ客観的には杜会全体の生がいかに脆い基盤の上にしか据えられていなくとも、また主観的にそのことが認識されていても、それでも(エ)他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる。これこそ宗教が死の本質、そして命の本質を規定する際には多くの場合に前面に打ち出す「犠牲」というモチーフである。それは、全体の命を支えるという、一時は自らが担った使命を果たし終えたとき、他の生に道を譲り退く勇気であり、諦めなのである。それは、自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対極である。一方でそうした執着を捨てきれないのが人間であると見ながらも、主要な宗教伝統は、まさにそれを(e)コクフクする道こそ望むべきものとして提示する。このモチーフは、いわば命のリレーとして、先行者の世界と生者の世界とをつないでいる価値モチーフであるように思われる。そうであれば、(オ)先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがあるように思われる。
                         (宇都宮輝夫「死と宗教」)

〔注〕○アイデンティティ―identity(英語) 時問的、空間的な同一性
    や一貫性。
   ○パラレル―parallel(英語) 並列ないし平行すること。
   ○モチーフ―motif(仏語) 中心思想、主題。

設問(解答枠は(一)~(四)=13.5センチ×2行)

(一)「死者は決して消減などしない」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「先行者の世界は、象徴化される必然性を持つ」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる」(傍線部エ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(五)「先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがある」(傍線部オ)とあるが、どういうことか。全体の論旨に即して一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。なお、採点においては、表記についても考慮する。)

(六)傍線部a・b・c・d・eのカタカナに相当する漢字を書け。


【解答例】
(一)先行者は現在の私たちに依然として影響を与えているのだから、社会的・文化的には生きているといえる。

(二)自分が死んだ後も、自分は未来の人びとに影響を与え続けるだろうと考えることで、自分の生に意義を見出すということ。

(三)先行者とのつながりを形に残し、忘れないようにすることで、社会はより安定し強力なものになるから。

(四)自分の後継者を育てることが先行者の使命であり、自らの生に執着しては社会全体の安定にはならないから。

(五)先行者は、死んでもなお現在の私たちに影響を与えており、社会的・文化的には生きているといえる。そこで、自分の死後も自分と結びついた何かが存続すると考え、そこに意義を見出せれば、他者を生かすだけではなく、自分も社会的・文化的に生き続ける。

(六)(a)=沈殿 (b)=厳然 (c)=要請 (d)=従容 (e)=克服


【解き方】
(一)本文の問題提起「なにゆえに死者の完全消滅を説く宗教伝統は人類の宗教史の中で例外的で、ほとんどの宗教が何らかの来世観を有しているのであろうか。なにゆえに死者の存続がほとんどの社会で説かれているのか。」に対する回答が、傍線部ア「死者は決して消減などしない」だから、その説明は後にある。設問(一)なのだから、あまり後ろではない個所がいい。第一段落の中にあるはずだ。そうすると「先行者は生物学的にはもちろん存在しないが、社会的には実在する。先行者は今のわれわれに依然として作用を及ぼし、われわれの現在を規定しているからである。」という個所が見つかる。これを、自分なりに使うといい。
具体的な説明の文の前後には、必ずまとめの抽象的な文があるから、そのような文章をもとに解答を組み立てるといい文章が書ける。

(二)「過去から現在へという方向」から「現在から未来へという方向」へと話題が推移している冒頭に傍線部イ「人間は自分が死んだあともたぶん生きている人々と社会的な相互作用を行う」があるのだから、その説明は後文に記されているはずだ。実際に「人間は死によって自己の存在が虚無と化し、意味を失うとは考えずに、死を越えてなお自分と結びついた何かが存続すると考え、それに働きかける。その存続する何かに有益に働きかけることに意義を見出すのである。」という文を見つけることができる。これを使って自分の言葉に書き改めればいい。この文が重要であることは、その直後で「ここで二つの点が大事である。」と述べて、さらに説明を付け加えていることで明らかだ。

(三)傍線部ウ「先行者の世界は、象徴化される必然性を持つ」には、「ということである。」という述語で締めくくられている文であり、前文の内容を言い換えた文であると分かる。さらに前文が「それゆえに」で始まるのだから、それ以前に理由が記されているのは明らかだ。傍線部ウの理由を説明するには、そこを自分の言葉でまとめればいい。

(四)傍線部エ「他者のために死の犠牲を払うことは評価の対象となる」は、「たとえ…それでも」につづく文であり、それ以前の内容を強調する内容であるから、段落前半の内容をまとめればいい。とくに「老いた者は、後継者を育て、自分たちが担っていた役割を彼らが果たすようになるのを認めて、退場していく。」という文は、その直後の文で「これが人間杜会とそこに生きる個人の変わらぬ有りようである。」と強められているのだから使える。これを自分なりの言葉で言い換えればいいだろう。
 さらに、傍線部エの後文である「自らの生を何としてでも失いたくない、死の不安を払拭したい、死後にも望ましい生を確保しておきたいという執着の対極である」という内容を加えられれば、完成度が高まる。

(五)傍線部オ「先行者の世界に関する表象の基礎にある世俗的一般的価値理念と、来世観の基礎にある宗教的価値理念との間には、通底するないし対応するところがある」は、課題文の最後にあることでも分かるように、全体のまとめである。「過去から現在へという方向」と「現在から過去へという方向」が、つながっている(「通底するないし対応する」)ということを説明すればいい。手っ取り早く解答したいのであれば、設問(一)から(四)までの解答をつなげればいい。

2006年東大前期・国語第4問「教育問題」

 産業革命以前の大部分の子どもは、学校においてではなく、それぞれの仕事が行なわれている現場において、親か親代りの大人の仕事の後継者として、その仕事を見習いながら、一人前の大人となった。そこには、同じ仕事を共有する先達と後輩の関係が成り立つ基盤がある。(ア)それが大人の権威を支える現実的根拠であった。そういった関係をあてにできないところに、近代学校の教師の役割の難しさがあるのではないか。つまり学習の強力な動機づけになるはずの職業共有の意識を子どもに期待できず、また人間にとっていちばんなじみやすい見習いという学習形態を利用しにくい悪条件の下で、何ごとかを教える役割を負わされている、ということである。
 中世では、学校においてさえ後継者見習いの機能が生きていた。たとえば、教師がラテン語のテクストを読む作業をする。あるいは文字を使って文書を作る書記の作業をする。それを生徒が傍で見て手伝いながら、読むこと書くことを身につけていく。こういう事態を指して、フィリップ・アリエスは、『〈子供〉の誕生』の第二部「学校での生活」において、中世には学校はあったが、教育という観念がなかったという。これの意味は、単に教授法が未開発だったために目的意識的な働きかけができなかったということではない。中世の生徒が、将来ラテン語を読み、文書を作る職業としての教師=知識人=書記の予備軍であったために、見習いという方式がそれに適合していた、ということである。
 これは逆にいうと、中世の教師は、近代の教師によりも、同時代の徒弟制の親方に似ていることを意味する。中世の教師は、テクストを書き写し、解読し、注釈し、文書を作る人である。その職業を実施する過程の中に後継者を養成する機能が含まれていたということができる。その意味では、(イ)中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった。同様に中世の生徒も教えられる客体ではなかった。両者は、主体と客体に両極化する以前の、同じ仕事を追求する先達と後輩の関係にあり、そこには一種の学習の共同体が成立していた。
 後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい。まして、教える側の、教えられる側に対する働きかけを、方法自覚的に主題化する教授学への必要性は弱い。現に、教授学者たちが出現するには一七世紀を待たなければならなかった。
 ただし近代の学校においても、先達、後輩の関係が成り立つ場合がある。例えば、現代の代表的モラリストで、典型的な中等教員の一人であったアランは、リセの生徒のときに出会った教師ラニョーに対して、「わが偉大なラニョー、真実、私の知った唯一の神」という最高の賛辞を捧げ、さらに「帰依とは我らが驚異する者に対する愛のことである」というスピノーザの言葉を共感をこめて引用している。そのアランの生徒であった文学者モーロワも、「私が師と仰いだアラン、崇拝してやまないアラン」を讃えるために一冊の本をかいている。
 しかしこの種の師弟関係は、おそらく、書物を読み、書物をかくことを職業とする世界の先達と後輩の間でしか成り立たないであろう。将来、知識人になろうとする生徒、もしくは結果として知識人となった者だけが、教師への帰依を語る記録を残すことになるのではないか。ラニョーは、プラトンとスピノーザのテクスト講読だけを授業の内容とした。アランは、ラテン語と幾何学だけが、人間になるための真の必須科目であると信じていた。そういう教師に、工場の技師や商杜のセールスマン、あるいはふつうの杜会人を志望する生徒が「帰依」するとは考えにくい。
 ラニョーやアランのように「帰依」されることは教師冥利につきる。だから教師はどうしても、子どもの中に自分のミニチュアを見たがる。とりわけ学問好きの教師は、自分と似た学問好きの生徒を依佑ひいきして、しかもそれを正当なことだと考える。教師的人間像を普遍的な理想的人間像であるかのように思いなして、それを子どもにおしつける。そしてそれを受けいれない子どもに、だめな人間というレッテルをはってしまう。しかし、子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない。
 (ウ)教師と生徒の関係のこの難しさに対処するために、近代の教育の諸技術が工夫されたということができるだろう。もちろんそれだけが理由ではない。近代人が、自然に対して方法自覚的に働きかけて、自然を支配しようとする加工主体であること、その近代人の志向が子どもという自然にも向けられた、という理由も見のがすわけにはいかない。しかし、子どもの自発性を尊重しつつ、なお大人が意図する方向へ子どもを導こうとする誘惑術まがいの教育の技術を発達させる動機には、やはり、後継者見習いの関係が成り立ちにくくなったという事情が投影しているように思われる。見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた。それとは対照的に、(エ)近代の学校教師は、子どもを社会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる
                   (宮澤康人「学校を糾弾するまえに」)


設問(解答枠は(一)~(四)=13.3センチ×2行)

(一)「それが大人の権威を支える現実的根拠であった」(傍線部ア)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(二)「中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「教師と生徒の関係のこの難しさ」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「近代の学校教師は、子どもを杜会人に育てあげる能力をほとんど失ったにもかかわらず、いや失ったがゆえに、子どもへの理解を無限に強いられる」(傍線部エ)とあるが、教師が「子どもへの理解を無限に強いられる」とはどういうことか、わかりやすく説明せよ。


【解答例】
(一)近代以前の大人と子どもの関係は、同じ仕事の先輩と後輩の関係であったため、子どもの心には尊敬の気持ちが自然と生まれたから。

(二)中世では、学校も見習いの場であり、生徒は教師の仕事を見て手伝いながら覚えたため、教育方法が発達することもなかったということ。

(三)生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の学校では、子どもが教師を先輩として尊敬することはできなくなったということ。

(四)教師と生徒の関係が見習いから教育へと変わった現在、教師の側が子どもを理解することを永遠に強制されるようになったということ。


【解き方】
(一)傍線部(ア)「それが大人の権威を支える現実的根拠であった」とあることの理由を問うているが、傍線部冒頭の「それ」は、前文の内容を指している。しかも、それが「根拠であった」といっているのだから、その内容を自分の言葉にすればいい。

(二)傍線部(イ)「中世の教師は、逆説的にきこえるかもしれないが、教える主体ではなかった」という一文は、「その意味で言うと」という語句で始まる文であることを見ても分かるように、「これは逆にいうと」で始まる段落のまとめの部分の一文である。「これは逆にいうと」という語句と「逆説的にきこえるかもしれないが」という語句が見事に対応している。では、段落冒頭の「これを逆にいうと」とある「これ」が何を指しているかというと、前段落の内容である。つまり、近代以前は、学校も教育の場というよりも仕事見習いの場だったのである。次の段落が「後継者見習いが十分に機能しているところでは、教える技術は発達しにくい」という一文で始まることでも、傍線部のある段落の内容が、中世の学校が教育の場というよりも見習いの場だったという内容であったと分かる。

(三)傍線部(ウ)は「教師と生徒の関係のこの難しさ」とあるのだから、文中の指示語「これ」が指しているものが何であるかを特定すればいい。それは、全段落の最後の一文である「子どもが教師的人間像を受けいれることは、生徒の大部分が教師後継者ではなくなった近代の大衆学校では、ごく限られた範囲でしか通用しない」である。しかも、この文は逆説「しかし」で始まる文であり、筆者の主張が述べられていることは明らかだ。評論文は〈常識を疑う〉がテーマであるから、常識的見解や異なる意見を述べたあとに、必ず逆接の接続詞をもってきて、自分の意見を記す。この場合もそうだ。ラニョーやアランのような「教師冥利」につきるような例外を述べた後で、「しかし」ときて、自分の意見を展開させている。

(四)「見習いの機能が生きていた時代には、大人は、たとえ子どもを理解しないままでも、後継者を養成することができた」とあり、つづけて「それとは対照的に」ときて傍線部(エ)があるのだから、傍線部(エ)の内容が「子どもを理解」しなければならないことだと分かる。しかも、子どもを理解することが教師に「強いられる」ということを強調しておくといい。筆者は、この状況を正常な状態とはけっして思っていないことが分かるからだ。子どもを一方的に支配しようとすることが正しいとは言えないように、教師に対して一方的に子どもへの理解を強いることも正しいとは言えない。

『東大入試で遊ぶ教養 世界史編』はじめに

 歴史学は、実は暗記の学問ではなく思考の学問だ。だから、教科書程度の知識があれば、あとは思考力と論理力で解けるという問題が、いい問題だ。それが、まさに東大入試だ。
 しかし同じ歴史科目でも、日本史と世界史では勉強の仕方がちがう。日本史では歴史を深めることが求められるが、世界史では出来事をタテ・ヨコにつなげていくことが求められる。視点を変えるだけでも、大きく歴史観が変わるからだ。
 東大世界史の論述問題では、いくつかのキーワードが用意されている。キーワードは教科書で学ぶ範囲のもので、お馴染みのものばかりだ。しかも、それらのキーワードを時代順に並べるだけで、教科書には書かれていない歴史像が見えてくる。キーワードは、このように受験生を導くものであって、けっして受験生を困らせるものではない。
 しかもキーワードのほとんどは、過去の東大入試でよく使われているものだ。過去五年間の問題を見れば、そのことがよくわかるはずだ。それでも毎年ちがう問題をつくることができるのは、ひとつの出来事がさまざまな筋書きの交差点になっているからだ。同一の出来事でも、異なる視点から見れば、異なる姿をみせる。そこが歴史学の面白いところであり、東大入試の面白いところでもある。
 その一方で、世界史には一問一答形式の問題もある。しかし、必ずひとつのテーマで貫かれていて、テーマに即して思い出していく連想力を問う問題になっている。やはり、出来事をつなげる力が問われているのだ。
 これら一問一答で問われている知識は、高校の教科書範囲のものがほとんどだが、ときには地理や政経など世界史以外の科目の教科書範囲まで出題される。それは、現実の出来事が教科ごとに分類されて存在しているのではなく、教科の壁を越えて相互に関連しながら存在しているからだ。だから、東大二次試験の社会科目には、政治経済・倫理社会など公民科目はない。地歴科目で政治・経済・思想の知識を問うことができるのだ。ほんとうに、東大は割り切っている。
 それだけではない。東大は模範解答を超える解答をもとめている。大学が用意した模範解答よりも優れた解答があれば、また最初から採点しなおすほどだ。それまでして優秀な学生をほしがる。そこで読者には、この本の解答例よりもいい解答をめざしてほしい。
 さらに、この本では〈歴史の勉強〉のコーナーをつくった。そこで、教科書で習ったのとは異なる見方をすることで、これまでとは異なる歴史像を発見して、歴史で常識を疑う楽しさを感じてほしい。

 二〇〇六年一〇月                      佐々木 哲

『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』 2版刊行!!

お待ちどうさまでした m( _ " _ )m
ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』が重版されました。最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

佐々木六角氏の系譜
佐々木 哲著
思文閣出版 (2006.3)
通常1-3週間以内に発送します。


判型:四六判 200頁
定価:2,310円(税5%込)
重版年月:2006年10月予定
ISBN:4-7842-1290-6

【内容】
入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されている佐々木六角氏系図について、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくる─
これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として用いられなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえ、そのもとになった史実を明らかにする試み。
平安から戦国まで、佐々木六角氏の系譜をたどり、35人について、その事績を明らかにする。佐々木六角氏の人物事典としても有用。

【目次】
はじめに
系譜学の方法
宇多源氏の系譜
一品式部卿敦実親王
左大臣源雅信
源宰相扶義
四位中将成頼
左馬頭良経
蔵人経方
常恵冠者為俊
源行真申詞記
佐々木源三秀義
蔵人尉定綱
山城守広綱
近江守信綱
壱岐大夫判官泰綱
備中守頼綱
備中判官時信
大夫判官氏頼
右兵衛佐義信
左京大夫満高
大膳大夫満綱
兵部大輔持綱
近江守久頼
御屋形様政勝
大膳大夫高頼
近江守氏綱
江州宰相義久
徳川公義秀
左兵衛佐義郷
大本所義堯
左衛門督侍従義康
左馬頭義政
朝倉義景
弾正少弼定頼
左京大夫義賢
右衛門督義治
中務大輔高盛
おわりに
あとがき
参考文献

10月の蝉

昨日10月14日(土)、トトロの森(狭山丘陵)をジョギングしていたら、「おーしんつくつく、おーしんつくつく」とつくつく法師の声が聞こえてきた。

いくら蝉の季語が秋だとはいえ、トンボが飛び交う季節に、蝉が出てくることがあることに驚くとともに、相手にめぐり合えるのだろうかと心配にもなった。

東大日本史・受験生の勘違い

 大学で、面白いことが話のネタになったことがある。
 それは数年前の早稲田大学でのことだが、日本経済史の授業で、江戸時代の農民の生活について説明したところ、学生から「先生は歴史がわかっていない」と言われたというのだ。どうも学生は小学校から受験時代まで、江戸時代の農民の生活は困窮を極めたと教わってきたらしい。しかし、近年の江戸時代の歴史像は大きく変わっている。江戸時代の経済が成熟していたことがわかってきているのだ。お触れで、お茶を飲んではいけません、贅沢をしてはいけません、旅行(物見遊山)をしてはいけません、と書いてあるということは、農民がそれらをしていたということだ。
 ところが歴史を専門に勉強していない人たちは、学校の授業で教わる歴史は、確実な出来事であり、これからも変わらず正しくあり続けると思いがちだ。それでは歴史学という学問は成り立たない。歴史学者が歴史研究をしているのは、歴史像を変えるためだ。もちろん指導教授のコネで就職し、指導教授の教えを後生大事に守りながら、本を一冊も書かずに定年を迎える人たちもいる。しかし真面目な研究者は、歴史資料と向かい合いながら、これまでの歴史像を疑う作業をしている。それが、歴史学だ。
 だから、去年まで正しかったことが、今年にはもう誤っているということはある。従来の歴史像が大きく変わるということは、よくあることなのだ。
 一生懸命に過去問と模範解答を集めても、それが役に立たないことは多い。新しい事実がつぎつぎと発見される中で、過去には正解だったものが、現在には誤答になるのだ。
 しかし、このことが分かっていないのは、学生だけではないらしい。参考書や問題集の模範解答を見ても分かってないと思えるものが多く、予備校の模範解答を見てもやはり分かってないと思えるものが多い。とくにベテランほど分かってないことが多い。自分が日本史を習ったときのままのことを教えているのだろう。
 東大が予備校を信用していないということは、つぎの問題でも分かる。それは、1983年日本史第一問で、過去にいちど出題した「摂関政治と院政の政治形態の違いを、結婚形態の変化から論じる」という問題を、そのとき多かった解答例もいっしょに掲載して、再度出題した問題だ。これは、資料から推論していくという力が学生になかったことにがっかりするとともに、予備校の解答例があまりにお粗末だったからだ。予備校に対する挑戦状とも言える。
 東大では、今でも社会の得点が低いといわれているようだ。予備校が、まだ東大論述対策に成功していないということだ。
 そのことを分かっている受験生もいるようだ。真剣に東大に受かりたいと思っている受験生は、予備校などひとつの情報源だけを信じるということをしないで、あらゆる情報を集めて、自分の判断で情報を取捨選択している。また、受験参考書や問題集、予備校テキストだけではなく、歴史研究者が書いた日本史の教養書(大学教科書レベル)を読んでいる受験生もいる。実に頼もしい。
 東大は、資料を見て自分の頭で考えて推論していく学生をほしがっている。東大の受験生には、ぜひ自分の頭で考える練習をしてほしい。過去問を多く集めただけでは駄目だし、模範解答を鵜呑みにしてもいけない。
 過去に出たテーマが再び出題されたとしたら、それは研究者が再び注目したということだから、学説も変わっているということだ。もはや過去の模範解答は役に立たない。だから、いくら過去問を多く集めたとしても意味はない。過去問を多く集めていた方がいいとアドバイスしている者がいるとしたら、歴史の本質がわかっていない者だ。
 東大受験生には、過去の模範解答を丸暗記するのではなく、その模範解答が本当かな?と疑うことをお勧めする。 


 

10月京都勉強会

10月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2006年10月29日(日)
 歴史講座:13時~15時
 歴史講座:15時~17時
【演題】
 歴史講座 『東大入試で教養日本史』
 歴史講座 『佐々木六角氏の系譜』   
【会費】
 3、000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都 5階 第3演習室
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

『佐々木六角氏の系譜―系譜学の試み』重版決定!!

お待ちどうさまでした m( _ " _ )m
ついに佐々木哲著『佐々木六角氏の系譜-系譜学の試み』が重版されます。10月末か11月初に刊行される予定です。最寄りの書店、発行者の思文閣出版にてご注文できます。また、ご近所あるいは大学の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

判型:四六判 200頁
定価:2,310円(税5%込)
重版年月:2006年10月予定
ISBN:4-7842-1290-6

【内容】
入門書では必ずといっていいほど沢田源内による偽系図として紹介されている佐々木六角氏系図について、当時の資料をきちんと見れば見るほど、沢田源内によって創作されたといわれている六角義実・義秀・義郷の実在が見えてくる─
これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として用いられなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえ、そのもとになった史実を明らかにする試み。
平安から戦国まで、佐々木六角氏の系譜をたどり、35人について、その事績を明らかにする。佐々木六角氏の人物事典としても有用。

【目次】
はじめに
系譜学の方法
宇多源氏の系譜
一品式部卿敦実親王
左大臣源雅信
源宰相扶義
四位中将成頼
左馬頭良経
蔵人経方
常恵冠者為俊
源行真申詞記
佐々木源三秀義
蔵人尉定綱
山城守広綱
近江守信綱
壱岐大夫判官泰綱
備中守頼綱
備中判官時信
大夫判官氏頼
右兵衛佐義信
左京大夫満高
大膳大夫満綱
兵部大輔持綱
近江守久頼
御屋形様政勝
大膳大夫高頼
近江守氏綱
江州宰相義久
徳川公義秀
左兵衛佐義郷
大本所義堯
左衛門督侍従義康
左馬頭義政
朝倉義景
弾正少弼定頼
左京大夫義賢
右衛門督義治
中務大輔高盛
おわりに
あとがき
参考文献

「小さな親切・大きなお世話」に疑問

 一方では「日本人は親切じゃなくなった」と言い、もう一方では「小さな親切、大きなお世話」と言うのは、実におかしいなことだと思う。「大きなお世話」と思われるのが嫌で、優しい人が優しさを表現できずにいる。

 「小さな親切、大きなお世話」なんて言っているから、わたしたちは親切にすることに億劫になってしまう。席を譲ろうとしても、「そんな年齢ではありません」と怒られるのが嫌で、席を譲らない人は結構多いはずだ。

 「小さな親切、大きなお世話」という言葉があるから、ひとは親切を表現できない。「偽善」という言葉があるから、ひとは正義を主張できないのだ。

2006年東大前期・世界史第1問「近代が生んだナショナリズム」

近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し、民主主義が成長した反面、各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは、国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし、対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方、国際法を制定したり、国際機関を股立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。
 このように戦争を助長したり、あるいは戦争を抑制したりする傾向が、三十年戦争、フランス革命戦争、第一次世界大戦という三つの時期にどのように現れたのかについて、解答欄(イ)に一七行以内で脱明しなさい。その際に、以下の八つの語句を必ず一度は用い、その語句の部分に下線を付しなさい。

ウェストファリア条約   国際連盟      十四カ条
『戦争と平和の法』    総力戦       徴兵制
ナショナリズム      平和に関する布告


【解き方】
 近代以降のヨーロッパでの戦争と平和をめぐる動きを、「ウェストファリア条約」「国際連盟」「十四カ条」「戦争と平和の法」「総力戦」「徴兵制」「ナショナリズム」「平和に関する布告」を使用しながら、論述する問題だ。
 これらのキーワードを、それぞれ三十年戦争・フランス革命戦争・第一次世界大戦の三つの時期に分類してみよう。
 まず三十年戦争だ。ここで使用するキーワードは、「戦争と平和の法」「ウェストファリア条約」だ。
 ウェストファリア条約は、言うまでもなく三十年戦争の講和条約だが、その成立にいたる過程を見てみよう。
 中世において、ドイツ皇帝は神聖ローマ皇帝であったため、イタリア政策に追われ、ドイツ国内での皇帝権力が弱く、諸侯がそれぞれ統治権と外交権と掌握し、ひとつの国家として独立している状態だった。このような状態を領邦国家といった。ハプスブルク家のカール五世は、神聖ローマ皇帝を選ぶ選挙で、南ドイツの大商人フッガー家の資金提供を受け、フランスのフランソワ一世との厳しい選挙戦を乗り切った。
 皇帝はローマ教会の保護者に対して、ローマ教皇から授与されたものだったので、ルターによって宗教改革後が始まると、カール五世はローマ教皇・フッガー家と結んでカトリックを保護し、ルターを弾圧した。これに対して、皇帝選挙での選挙権を有する選帝侯ザクセン家は、神聖ローマ皇帝を輩出したこともある名門だったが、カール五世に対抗してルターを保護した。実はルターがザクセン選帝侯領内の出身であったため、ザクセン侯は居城にルターを保護して、聖書のドイツ語訳をすすめさせたのだ。プロテスタントとは、このとき「抵抗する者」という言葉から生まれた名称だ。
 オスマン=トルコ軍によるウィーン包囲もあり、カール五世はプロテスタントとの妥協を迫られ、ウオルムス国会で諸侯が自ら信仰を決める権利を承認した。ここでも領主の統治権が守られたことになる。しかし、領民には自らの信仰を決める権利がなかったため、諸侯が変わると領民も宗派を変えなければならなかった。実際にプロテスタントの領主からカトリックの領主に替わったことが不満で領民が蜂起したのが、三十年戦争の始まりだ。
 三十年戦争は、もともとは宗教改革から続くドイツでのカトリック派とプロテスタント派の諸侯の抗争だったが、それにプロテスタントであるデンマーク・スウェーデン国王が介入、さらにカトリック国であるフランスが反ハプスブルク家という政治的立場で、プロテスタント側に参戦するという国際戦争になった。結果、講和条約であるウェストファリア条約は世界初の国際条約になり、またグロティウスは、三十年戦争の惨状を見て、『戦争と平和の法』を著して国際法の確立を主張した。
 つぎに、フランス革命だ。ここで使用されるキーワードは、「徴兵制」「ナショナリズム」だ。
戦争が国民戦争になるのは、一八世紀のフランス革命後だ。ジャコバン政権が徴兵制度を確立したことで、国民が戦争に参加する国民の戦争になったのだ。このときから国民がナショナリズムに目覚めた。
 一九世紀のナポレオン戦争を経て自由を知ったドイツ・イタリアなど各国では、国民意識が高まり、国民レベルからの統一運動が展開された。これが、初期のナショナリズムだ。しかしウィーン会議は、国王レベルでの平和維持体制でしかなかった。フランス革命以前の状態に戻すことを目指す正統主義と、列強による勢力均衡だけが目指された。それに対抗するのが、ナショナリズムだったのだ。けっして悪い意味ではない。
最後に、第一次世界大戦だ。使用するキーワードは「総力戦」「平和に関する布告」「一四カ条」「国際連盟」だ。
 ナショナリズムが悪い意味をもつのは、国民国家を建設しようという国民レベルの運動であった民族主義を、国家が挙国一致のために利用するようになってからだ。学校教育でナショナリズムを創出し、同じ民族の住む地域を民族自決の名のもとに併合し、また植民地での民族紛争の調停者になることで植民地支配を確立した。さらに対外戦争を繰り返すことで、ナショナリズムは高められた。
 第一次世界大戦は、空襲・海上封鎖などにより非戦闘員も巻き込む総力戦となった。国家主義としてのナショナリズムは、国民生活を破壊した。
 ロシア革命を指導したレーニンは、平和に関する布告で無併合・無賠償・民族自決の原則による平和を訴えたが無視された。一方、アメリカ大統領ウィルソンは〈十四カ条の平和原則〉を発表して、史上初の国際平和機関の設置を提唱した。戦後、国際連盟が設置され、集団安全保障による戦争の抑制が初めて試みられた。そのなかでも民族自決はうたわれた。この民族自決は、国家主義を否定する国民主義としての民族自決である。

【解答例】
三十年戦争は、宗教改革から続くドイツ国内の宗教戦争だったが、諸外国の軍事介入を招き国際戦争になり、講和条約のウェストファリア条約は世界初の国際条約となった。このとき一方に被害をうけた民衆の惨状を見て、グロティウスは、戦争に規制をもとめる国際法の必要性を『戦争と平和の法』で唱えた。一八世紀のフランス革命で、民衆は国民意識を高め、ジャコバン政権が徴兵制を確立した。これが国民主義としてのナショナリズムだ。さらにナポレオン戦争で自由と国民意識をもったドイツ・イタリア民衆も、国民レベルで祖国統一運動を展開した。さらに政府も、弾圧するだけではなく、民衆の国民意識を挙国一致のために利用するようになった。第一次世界大戦は、まさに国民全員を労働力として動員する総力戦となり、国民生活を破壊しつくした。この惨状に、ロシア革命の指導者レーニンは、平和に関する布告で無併合・無賠償・民族自決の原則による平和を訴え、さらにアメリカ大統領ウィルソンが十四カ条の平和原則を発表して、国際平和機関の設置を提唱した。こうして戦後には国際連盟が設置され、協調外交による国際平和が目指された。

2005年東大前期・世界史第1問「負の遺産と現代世界」

人類の歴史において、戦争は多くの苦悩と惨禍をもたらすと同時に、それを乗り越えて平和と解放を希求するさまざまな努力を生みだす契機となった。
 第二次世界大戦は一九四五年に終結したが、それ以前から連合国側ではさまざまな戦後構想が練られており、これらは国際連合など新しい国際秩序の枠組みに帰結した。しかし、国際連合の成立がただちに世界平和をもたらしたわけではなく、米ソの対立と各地の民族運動などが結びついて新たな紛争が起こっていった。例えば、中国では抗日戦争を戦っているなかでも国民党と共産党の勢カ争いが激化するなど、戦後の冷戦につながる火種が存在していた。
 第二次世界大戦中に生じた出来事が、いかなる形で一九五〇年代までの世界のありかたに影響を与えたのかについて、解答欄(イ)に一七行以内で説明しなさい。その際に、以下の八つの語句を必ず一度は用い、その語句の部分に下線を付しなさい。なお、EECに付した( )内の語句は解答に記入しなくてもよい。

  大西洋憲章    日本国憲法   台湾
  金日成       東ドイツ     EEC(ヨーロッパ経済共同体)
  アウシュヴィッツ パレスチナ難民


【解き方】
 第二次世界大戦中のパワーゲームは、その後の世界に対して大きな影響を残した。むしろ、そのときのパワーゲームに寄り添うように、戦後世界は形作られたと言っても過言ではない。そのありようについて、キーワードを使って論述していこう。
 使用するキーワードは「大西洋憲章」「日本国憲法」「台湾」「金日成」「東ドイツ」「EEC」「アウシュヴィッツ」「パレスチナ難民」だ。これを時代順に地域ごとに並べ替えると、まず第二次世界大戦中に連合国側で練られた世界構想である「大西洋憲章」、東アジアは「台湾」「金日成」「日本国憲法」、ヨーロッパは「東ドイツ」「EEC」、パレスチナ問題は「アウシュヴィッツ」「パレスチナ難民」となる。
 まず、「大西洋憲章」だ。ここで、大西洋憲章から米ソ対立まで記述する。
 大西洋憲章とは、一一九四一年八月、戦争が拡大する中で、アメリカ大統領ローズヴェルトとイギリス首相チャーチルが大西洋上の軍艦で会談し、発表した戦後秩序構想だ。これにはソ連のスターリンも賛成したことで、四五年にはサンフランシスコ会議で国際連合が成立した。しかし、ソ連の行動に疑念を抱いたトルーマン米大統領によって、四七年ソ連に対する封じ込め政策(トルーマン=ドクトリン)が打ち出されると、米・ソの対立は決定的になり、冷戦が開始された。
 つぎに、「台湾」「金日成」「日本国憲法」を使用して、東西冷戦に巻き込まれた東アジア情勢をみよう。
 日本軍が撤退した後の中国では国共の対立が再燃し、国共内戦が起こった。その結果、共産党が勝利して中華人民共和国(北京政府)が成立した。中華人民共和国は、ソ連と友好同盟相互援助条約を結び、蒋介石の国民党は台湾に亡命して中華民国(台北政府)を建てた。
カイロ宣言で独立を約束されていた朝鮮は北緯三八度線を境に米ソによって分割占領された後、金日成を初代首相とする北朝鮮と李承晩を初代大統領とする韓国に分裂した。
 また、事実上アメリカ軍の単独占領下におかれた日本では、日本国憲法の制定など民主的改革が進められた。やがて朝鮮戦争の勃発後、日本はサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を結び西側陣営に組み込まれた。
 つぎに、「東ドイツ」と「EEC」を使用して、東西冷戦に巻き込まれながらも、米ソとは独自の路線をいったヨーロッパ情勢をみよう。
 米英仏ソの分割占領下におかれたドイツは、ソ連によるベルリン封鎖を経て、四九年ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂した。西ドイツは五四年パリ協定で主権を回復し、NATOにも加盟した。大戦中の仏独の対立への反省から、マーシャル・プランで復興した西欧は五八年、ローマ条約にもとづいてEECを結成した。西欧六か国(フランス・西ドイツ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・イタリア)によるEECの結成は、米ソに対抗する第三の経済圏の形成を目指し、今日のEU成立への歩みの出発点となった。
 最後に、「アウシュヴィッツ」と「パレスチナ問題」を使用して、現在もつづく中東問題を記述する。
 ナチス政権成立後、ユダヤ人移民の流入が激増していたパレスチナでは、パレスチナ人が武装抵抗運動で移住を阻止しようとしたが、統治能力を失ったイギリスは問題の解決を国連に委ね、一九四七年国連はパレスチナ分割決議を採択し、翌四八年にはユダヤ人によるイスラエル国家が成立した。これに反発したアラブ諸国連盟は軍事行動を起こし、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発した。そしてイスラエルが分割案の一・五倍の面積の国土を確保した結果、大量のパレスチナ難民が発生し、今日まで中東政情を不安定なものにさせている。

以上の内容を、指定字数内でまとめるだけだ。

【解答例】
第二次世界大戦中ローズヴェルト米大統領とチャーチル英首相は大西洋憲章で平和構想を発表し、ソ連も賛成した。一九四五年国際連合が成立したが、ソ連に疑念を抱いたトルーマン米大統領がソ連封じ込めを宣言したことで冷戦が始まった。中国では内戦が始まり、共産党が勝利して中華人民共和国が成立し、国民党は台湾に亡命して中華民国を建てた。独立を約束されていた朝鮮も、金日成の北朝鮮と李承晩の韓国に分裂した。日本では日本国憲法の制定など民主化がすすめられ、朝鮮戦争勃発後サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約で西側陣営に組み込まれた。もう一つの敗戦国ドイツは、米国に対抗したソ連によるベルリン封鎖で西ドイツと東ドイツに分裂した。しかし仏独の対立が大戦を引き起こしたことの反省から、西欧六か国によるEECが結成され、今日のEUの基礎になった。しかし今日も世界を不安定にしている問題にパレスチナ問題がある。ナチス政権によるアウシュヴィッツ虐殺が始まるとユダヤ人移民の流入が激増して、地元のアラブ人と対立した。国連はユダヤ人のイスラエル建国を承認したが、アラブ諸国は反発して中東戦争が始まり、パレスチナ難民も生まれた。今日も中東政情を不安定にしている。

2004年東大前期・世界史第1問「銀が歴史を変えた」

一九八五年のプラザ合意後、金融の国際化が著しく進んでいる。一九九七年のアジア金融危機が示しているように、現在では一国の経済は世界経済の変動と直結している。世界経済の一体化は一六、一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。一九世紀には植民地のネットワークを通じて、銀行制度が世界化し、近代国際金融制度が始まった。一九世紀に西欧諸国が金本位制に移行する中で、東アジアでは依然として銀貨が国際交易の基軸貨幣であった。この東アジア国際交易体制は、一九三〇年代に、中国が最終的に銀貨の流通を禁止するまで続いた。
 以上を念頭に置きながら、一六-一八世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れを概観せよ。解答は、解答欄(イ)を使用して、一六行以内とし、下記の八つの語句を必ず一回は用いた上で、その語句の部分に下線を付せ。なお( )内の語句は記入しなくてもよい。

グーツヘルシャフト(農場領主制)、  一条鞭法、  価格革命、
綿織物、    日本銀、    東インド会杜、    ポトシ、  
アントウェルペン(アントワープ)


【解き方】
世界経済の一体化は、実は一六~一七世紀に大量の銀が世界市場に供給されたことに始まる。そこで、一六~一八世紀における銀を中心とする世界経済の一体化の流れをまとめる問題だ。使用するキーワードは、「グーツヘルシャフト」「一条鞭法」「価格革命」「綿織物」「日本銀」「東インド会杜」「ポトシ」「アントウェルペン」だ。
 キーワードを年代順に並べ替えると、「日本銀」「ポトシ」「一条鞭法」「価格革命」「アントウェルペン」「グーツヘルシャフト」「東インド会社」「綿織物」だ。これで、どのように記述していけばいいのか、方針が立つはずだ。
 まず、ポトシ銀山以前の有力な銀産出地は、日本と南ドイツのアウグスブルクだ。そこで、キーワード「日本銀」を使用する。
 一六世紀に東洋に進出したポルトガルは、日中間の中継貿易を通じて、日本銀を代価として中国から陶磁器や絹などを購入した。
 つぎに、「ポトシ」銀山だ。
 新大陸に進出して一五四五年ポトシなどの銀山を開発したスペインは、この銀をアカプルコからマニラに運び中国物産と交換した。商品経済の発達する中国では銀が主要な貨幣であり、日本銀を輪入していた中国は、さらにメキシコ銀の大量の流入を見て、一六世紀半ばには地銀(土地税)と丁銀(人頭税)を一括納入する一条鞭法が施行された。銀の流入は以後も続き、税法は一八世紀地丁銀に代わった。
 つぎに、目をヨーロッパに転じる。使用するキーワードは「価格革命」「アントウェルペン」「グーツヘルシャフト」だ。
 ヨーロッパでは、アメリカ大陸産の銀が大量に流入したことで、物価が二~三倍に上昇した。これを価格革命といい、大西洋岸の西欧諸国の経済は発展し、アントウェルペンは国際金融の中心となった。これで、それまでヨーロッパ屈指の銀山アウグスブルクを支配していたフッガー家の没落は決定的になった。しかし、東欧では西欧向け穀物生産のために農業特化がすすみ、グーツヘルシャフトが拡大した。
 つぎに、「東インド会社」だ。これで、スペインにかわってオランダが国際金融の中心になったことを見る。
 アントウェルペンにはカルヴァン派の信者が多かったため、あたらしくフランドル地方の領主になったカトリックの保護者フェリペ二世と対立し、オランダ独立戦争で破壊された。一七世紀にはスペインからの独立を達成したオランダが、東インド会社を設立して東南アジアや中国との交易で優位を築き、オランダの首都アムステルダムが国際金融の中心となった。
 最後に、「綿織物」だ。これで、イギリスが国際市場の中心になったことを記述する。
 しかし一八世紀になるとアジアからの輸入品の主流が、ヨーロッパでの流行を反映して香辛料から綿にかわった。これで、綿の原産地であるインドを植民地にしていたイギリスが圧倒的に優位に立ち、国際金融の中心はロンドンに移った。
 イギリスは銀を代価として中国から茶などを購入し、インドからは綿織物を購入した。しかし、一八世紀後半に大西洋の三角貿易で獲得した富を基盤にイギリスで産業単命が起こると、綿織物の自給が可能になるとともに、労働者階級のあいだでの喫茶が流行したことで、中国茶の需要が高まった。ところがイギリスは銀の流出を防ぐために、インドや東南アジアのプランテーションで栽培したアヘンを中国に輸出した。さらに東インド会社の営業が停止されて、自由主義貿易が実現されると、もはやアヘンの流れをとめることができず、イギリスと清朝はアヘン戦争へと突入していくことになった。

【解答例】
一六世紀ポルトガルは、日本銀を代価に中国から陶磁器や絹などを購入した。しかしポトシ銀山を開発したスペインは、メキシコ銀で中国物産を購入した。この銀の大量流入で、中国の税法がかわり、地銀と丁銀を一括納入する一条鞭法、地丁銀へと移行した。ヨーロッパでも、銀の大量流入で物価が高騰する価格革命があり、南ドイツの銀山アウグスブルクが没落して、大西洋岸の産業が発展し、アントウェルペンが国際金融の中心となり、東欧はグーツヘルシャフトで農業に特化した。カルヴァン派が多かったアントウェルペンは、フェリペ二世に破壊されたが、独立を達成したオランダは>東インド会社を設立して、アジア貿易で優位を築き、アムステルダムが国際金融の中心となった。しかし一八世紀になるとアジアからの輸入品の主流が、ヨーロッパでの流行を反映して香辛料から綿織物にかわった。これで、綿の原産地であるインドを植民地にしていたイギリスが圧倒的に優位に立ち、国際金融の中心はロンドンに移った。しかし労働者階級にも喫茶が流行すると、銀のかわりにアヘンを中国に輸出するようになり、アヘン戦争へと突入した。

2003年東大前期・世界史第1問「技術と歴史の深い関係」

私たちは、情報革命の時代に生きており、世界の一体化は、ますます急速に進行している。人や物がひんぱんに行き交うだけでなく、情報はほとんど瞬時に全世界へ伝えられる。この背後には、運輸・通信技術の飛躍的な進歩があると言えよう。
 歴史を振り返ると、運輸・通信手段の新展開が、大きな役割を果たした例は少なくない。特に、一九世紀半ばから二〇世紀初頭にかけて、有線・無線の電信、電話、写真機、映画などの実用化がもたらされ、視聴覚メディアの革命も起こった。またこれらの技術革新は、欧米諸国がアジア・アフリカに侵略の手を伸ばしていく背景としても注目される。例えば、ロイター通信社は、世界の情報をイギリスに集め、大英帝国の海外発展を支えることになった。一方で、世界中で共有される情報や、交通手段の発展によって加速された人の移動は、各地の民族意識を刺激する要因ともなった。
 運輸・通信手段の発展が、アジア・アフリカの植民地化を促し、各地の民族意識を高めたことについて、下記の九つの語句を必ず一回は用いながら、解答欄(イ)を用いて一七行以内で論述しなさい。

  スエズ運河      汽船          バグダード鉄道
  モールス信号     マルコーニ      義和団
  日露戦争        イラン立憲革命   ガンディー


【解き方】
歴史を見ると、技術革新が大きな役割を果たすことは多い。とくに、一九世紀半ばから二〇世紀初頭にかけての交通・通信技術の革新は、欧米諸国のアジア・アフリカ侵略に利用されただけではなく、民族意識を高めることにもなった。このことについて論述しく問題だ。
使用するキーワードは、「スエズ運河」「汽船」「バグダード鉄道」「モールス信号」「マルコーニ」「義和団」「日露戦争」「イラン立憲革命」「ガンディー」だ。この問題は、歴史順に追うとともに、それぞれの技術がどのような影響を与えたのか分類する必要がある。
交通技術と通信技術という枠で分類してみると、交通技術には「スエズ運河」「汽船」「バグダード」「義和団事件」、通信技術には「モールス信号」「マルコーニ」「日露戦争」「イラン革命」「ガンティー」というように、キーワードを分類することができた。
まず交通技術の革新と世界史への影響をまとめてみよう。
一九世紀初めにフルトンが「汽船」を、スティーブンソンが蒸気機関車を発明したことで、従来と比較にならないほどの大量の物資を、しかも速やかに運搬できるようになっただけではなく、輪送費も大幅に低下した。さらにスエズ運河の開通によってヨーロッパとアジアの連絡路が短縮されたため、ヨーロッパの工業製品とアジア・アフリカの原材料の交易が大量に速やかに低コストでおこなわれ、工業化する欧米と原材料・食糧供給地であるアジア・アフリカというように国際分業が展開された。
 また、一八六九年レセップスにより開通した「スエズ運河」は、イギリスとインドの距離を半分に短縮した。イギリスは七五年その株式を買収し、八二年アラービー・パシャの反乱を鎮圧してエジプトを植民地化し、3C政策を展開した。これに対抗してドイツはバグダード鉄道敷設権を獲得、バルカン・中東に3B政策を展開した。
 つぎに、鉄道だ。ここで「バグダード鉄道」「義和団事件」を使用する。
欧米列強はアジア・アフリカの各地で鉄道を建設した。この鉄道は内陸部で産出される天然資源の運搬や本国工業製品の内陸部への売り込みに用いられた。ドイツがバグダード鉄道の敷設権を得たのは西アジアの石油利権の獲得が主目的であったし、中国でも列強がロシアの東清鉄道を始めとする諸鉄道を建設し、市場参入をめぐって競い合った。
こうした列強の進出に対し、中国では排外意識を強めた。とくに一九世紀末には義和団が鉄道・電信の破壊を伴う激しい排外活動を起こしている。ドイツの膠州湾租借を機に欧米による運輸手段で失業した中国人は扶清滅洋を唱えて義和団に投じ、北京を占領、列強の鉄道など欧米列強が建設した施設を破壊した。
ここで「ガンディー」を使用することもできる。
汽船は大量輸送を可能にし、労働力の輸送を可能にしただけではない。アジア・アフリカからの留学を容易にしたのだ。これが民族運動にもつながっていく。イギリスに留学したガンディー、ハワイや東京で民族運動を展開した孫文もそうだ。
つぎに、通信技術の発達だ。「モールス信号」「マルコーニ」を使用する。
通信技術の発達は、アジア・アフリカの民族運動にも影響を及ぼした。有線電話に始まるモールス信号は、世紀末マルコー二の無線電信にも応用され、アジア・アフリカにも世界のニュースは伝えられたのだ。
つぎに「日露戦争」「イラン立憲革命」「ガンディー」を使用して、通信技術が民族運動に与えた影響を記述する。
一九〇四~〇五年日露戦争での日本の勝利の報は、インド人の民族意識に刺激を与え、インド国民会議は〇六年カルカッタ大会のスワデーシ、スワラージなど四綱領で英のベンガル分割令に対抗した。さらに、ガンディーの非暴力・不服従運動を成功させたのも、イギリスの暴力に対抗して非暴力で抵抗するガンディーの運動が、全世界に伝えられてイギリス批判が相次いだからである。
またイランのカージャール朝でも日本勝利の報は刺激となり、これでイラン立憲革命が起こった。このように通信技術の発達は、アジアの民族運動にも大きな影響を与えたことがわかる。
日露戦争による日本の勝利の報は、アジアの民族運動に勇気を与えただけではなく、日本が成功した立憲政体の優位性を認識させ、アジア各地での立憲運動を誘発させた。イラン立憲革命は英・露の干渉で挫折したが、青年トルコ革命はスルタン専制の打倒に成功している。
あとは、これを指定字数内にまとめればいい。

【解答例】
汽船が発明されたことで、物資の大量運送が可能になり、さらにスエズ運河の開通でヨーロッパとアジアの連絡路が短縮され、ヨーロッパの工業製品とアジア・アフリカの原材料の交易が容易になったことで、国際的分業・帝国主義政策が展開された。また鉄道は海港と内陸部をつなぐ輸送手段であり、やはり植民地支配に利用され、列強諸国は鉄道敷設を競った。ドイツは、イギリスに対抗してバグダード鉄道の敷設権を獲得して3B政策を展開し、中国の義和団は排外活動の一環として鉄道・電信を破壊した。しかし交通の発達はアジア・アフリカからの留学を容易にし、これが民族運動につながった。イギリスに留学したガンディー、ハワイや東京で民族運動を展開した孫文もそうだ。さらに通信技術が発達すると、アジア・アフリカの民族運動にも影響を及ぼした。有線電話に始まるモールス信号は、マルコー二の無線電信にも応用され、世界中にニュースが伝えられることになった。そのため日露戦争での日本の勝利の報は、イラン立憲革命やインド独立運動など各地の民族運動の刺激になり、またガンディーの非暴力・不服従運動は全世界に伝えられて民族運動を成功させた。

2002年東大前期・世界史第1問「華僑の歴史」

世界の都市を旅すると、東南アジアに限らず、オセアニアや南北アメリカ、ヨーロッパなど、至る所にチャイナ・タウンがあることに驚かされる。その起源を探ると、東南アジアの場合には、すでに宋から明の時代に、各地に中国出身者の集住する港が形成され始めていた。しかし、中国から海外への移住者が急増したのは、一九世紀になってからであった。その際、各地に移住した中国人は低賃金の労働者として酷使されたり、ヨーロッパ系の移住者と競合して激しい排斥運動に直面したりした。例えば、米国の場合、一八八二年には新たな中国人移民の流入を禁止する法律が制定された。米国がこのような中国人排斥法を廃止したのは第二次世界大戦中のことであり、大戦後にはふたたび中国からの移住者が増加した。
 上述のような経緯の中で、一九世紀から二〇世紀始めに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景には、どのような事情があったと考えられるか、又海外に移住した人々が中国本国の政治的な動きにどのような影響を与えたか、これらの点について、解答欄(イ)を用いて一五行以内で述べよ。なお、以下に示した語句を一度は用い、使用した場所に必ず下線を付せ。

  植民地奴隷制の廃止   サトウキビ・プランテーション
  ゴールド・ラッシュ   海禁   アヘン戦争
  海峡植民地   利権回収運動   孫文



【解き方】
 一九世紀から二〇世紀始めに中国からの移民が南北アメリカや東南アジアで急増した背景と、かれらが中国本国の政治的な動きに与えた影響を論述する問題だ。
 あたえられているキーワードは、「植民地奴隷制の廃止」「サトウキビ・プランテーション」「ゴールド・ラッシュ」「海禁」「アヘン戦争」「海峡植民地」「利権回収運動」「孫文」だ。これらを時代順に並べ替える。
 すると、「海禁」「アヘン戦争」「海峡植民地」「植民地奴隷制の廃止」「サトウキビ・プランテーション」「ゴールド・ラッシュ」「利権回収運動」「孫文」になる。奴隷制度についてまとめて記述されている教科書はないが、これで華僑の歴史が見えてきたのではないだろうか。
 まず、キーワード「海禁」だ。海禁政策は明・清の時代に倭寇や海賊行為を禁じるために実施された政策で、中国人の海外渡航を禁じるものだ。
 中国の華僑の多くは広東・福建の出身だとされているが、漢以降、戦乱や王朝交替のたびに華南地方に移住する者が多かったために、これらの地域ではとても人口が多かった。それにもかかわらず、これらの地域では耕作可能な土地が少なかった。そこで、清朝の海禁策を破ってまでも海外に移住する者が多かった。さらに一九世紀になると、中国国内の地主制の伸展や太平天国の乱等の戦乱で土地を持たない貧民が大量に発生して、中国からの移民が増大した。
 つぎに、「植民地奴隷制の廃止」だ。ここで、イギリスの植民地政策が大きくかかわってくる。
 アヘン戦争の南京条約で海禁政策が廃止されると、合法的に海外渡航できるようになったのだから、海外移住者が激増した。イギリスが海外植民地奴隷制の廃止へと政策を転換したことで、アフリカ人奴隷に代わる労働力として、中国人やインド人のクーリーが注目された。このことも中国人移民が増加した理由だ。中国人移民は、カリブ海イギリス領のサトウキビ・プランテーションの労働力となったのだ。これが、中国人移民のアメリカ大陸のきっかけになった。
つぎに、「海峡植民地」だ。海峡植民地とは、イギリスがマラッカ海峡に建設した植民地だ。
もともと華僑の多かった東南アジアでは、イギリスによって「海峡植民地」が建設され、そこで錫(すず)鉱山が開発されると、華僑が錫鉱山やゴム・プランテーションの重要な労働力になった。さらに、西インド諸島のサトウキビ・プランテーションでも貴重な労働力となった。
 つぎに、「ゴールド・ラッシュ」だ。
 北米では、一八四八年にカリフォルニアでおこった「ゴールド・ラッシュ」を機に中国人移民が急増した。さらに南北戦争で奴隷制が廃止されると、かれらは大陸横断鉄道の主要な労働力となった。また南米のブラジルでも、奴隷制が廃止されたことで中国人移民が増加した。
 最後に、「利権回復運動」「孫文」だ。これで、華僑が中国革命の経済的基盤になったことを見る。
 海外に移住した中国人の中からは、列強の進出によって民族的危機に直面していた祖国を憂慮し、外国に奪われた利権回収運動をすすめるものもあった。こうして中国の民族運動・革命運動を支える存在となった。アメリカで教育をうけた孫文は、近代国家形成を目指す革命運動を展開し、華僑はそのような革命運動の資金提供など重要な役割を担った。とくに東京には中国人留学生も多く、かれらは孫文を支持し、一九〇五年孫文は東京で民族・革命運動を統一して中国同盟会を結成した。こうして革命運動は大きなうねりになった辛亥革命へと向かった。

【解答例】
華僑は中国の広東・福建省出身者が多いが、それは人口が多いにもかかわらず土地がやせていたからだ。さらに一九世紀アヘン戦争の南京条約で海禁政策が廃止されると、海外渡航者が増大した。しかも一九世紀にはイギリスが植民地奴隷制の廃止へと政策を転換したことで、アフリカ人奴隷に代わる労働力として、中国人労働者が注目され、イギリス領のサトウキビ・プランテーションの労働力になった。東南アジアにイギリスの海峡植民地が建設され、錫鉱山が開発されると、華僑が錫鉱山やゴム・プランテーションの重要な労働力になった。北米でもカリフォルニアのゴールド・ラッシュを機に中国系移民が急増し、南北戦争後での奴隷制廃止を背景に、大陸横断鉄道の主要な労働力にもなった。また南米のブラジルでも、奴隷制が廃止されたことで中国人移民が増加した。その一方で本国中国では列強による侵略がすすんだため、漢民族の中から利権回収運動がおこり、孫文が中国革命をめざすと、華僑はその資金を提供した。

2001年東大前期・世界史第1問「エジプトの歴史」

輝かしい古代文明を建設したエジプトは、その後も、連綿として五〇〇〇年の歴史を営んできた。その歴史は、豊かな国土を舞台とするものであるが、とりわけ近隣や遠方から到来して深い刻印を残した政治勢力と、これに対するエジプト側の主体的な対応との関わりを抜きにしては、語ることができない。
 こうした事情に注意を向け、
 (1)エジブトに到来した側の関心や、進出に至った背景
 (2)進出をうけたエジブト側がとった政策や行動
の両方の側面を考えながら、エジプトが文明の発祥以来、いかなる歴史的展開をとげてきたかを概観せよ。解答は、解答欄の(イ)を使用して一八行以内とし、下記の八つの語句を必ず一回は用いた上で、その語句の部分に下線を付せ。

アクティウムの海戦、 イスラム教、 オスマン帝国、 サラディン、
ナイル川、 ナセル、 ナポレオン、 ムハンマド・アリー


【解き方】
 はじめに、あたえられているキーワードを時代順に並べ替えてみよう。
 すると、「ナイル川」「アクティウムの海戦」「イスラム教」「サラディン」「オスマン帝国」「ナポレオン」「ムハンマド=アリー」「ナセル」になる。これで下書きはできた。
 まずは、「ナイル川」だ。古代のエジプト文明から記述してみよう。
エジプトでは前三〇〇〇年頃にハム系民族がナイル川流域を統一し、古王国・中王国を建設したが、エジプトのナイル川による農業生産および地中海・紅海・アフリカ内陸部の交通の枢要の地であることに注目して、諸勢力が侵入した。前一七世紀にはヒクソスの侵入をうけたが、前一六世紀にはこれを撃退して新王国を樹立し、シリアにも進出してヒッタイトと抗争した。
 のちに世界帝国アッシリアとアケメネス朝は、ここを重要な属州とし重税を課した。前四世紀アレクサンドロスの征服、プトレマイオス朝の支配下でエジプトはギリシア文化を受容しヘレニズム文化が成立した。
 つぎに、「アクティウムの海戦」だ。これで、ローマとの関係を記述すればいい。
前一世紀アクティウムの海戦により、プトレマイオス朝が滅亡して、ローマ領に編入された。エジプトはキリスト教を受け入れ、アレクサンドリアは、キリスト教五本山のひとつになった。また、紅海からアラブ海・インド洋へとむかう季節風貿易の拠点にもなっている。『エリュトゥラー海案内記』の著者は、エジプト在住のギリシア人だ。
 つぎに「イスラム教」「サラディン」だ。
七世紀アラブ人の大征服を歓迎したエジプト人はイスラム教に改宗し、一〇世紀にはシーア派のファーティマ朝、一二世紀アイユーブ朝、一三世紀以降はマムルーク朝のもとでカイロが建設され、エジプト商業は栄えた。十字軍も第三回以降はこの国を敵としたが、アイユーブ朝のサラディンはこれを撃退した。一三世紀マムルーク朝はモンゴルの遠征軍とキリスト教徒の十字軍を撃退したが、一六世紀オスマン帝国に征服された。
 つぎに「オスマン帝国」「ナポレオン」「ムハンマド・アリー」だ。エジプトはオスマン帝国に支配されたが、やがて自立していく。その過程を記述する。
一六世紀にはオスマン帝国がマムルーク朝を征服し、地中海進出の拠点となった。一八世紀末に、ナポレオンが英国とインドの交通路遮断のためエジプトに侵入した。ところが反フランス革命諸国による対仏大同盟で本国が危機に陥ると、エジプトを脱出して本国に帰国し、クーデタで政権を握り本国フランスの危機を救ったが、エジプトに残留していたフランス軍は降伏した。このときの功績でエジプト総督を世襲したのがムハンマド・アリーだ。彼は、近代化を推進し、一八三〇年代エジプト=トルコ戦争で総督を世襲することを認められ、オスマン帝国からの自立を果たした。
 その後、エジプトは財政難に陥り、スエズ運河会社の株式をイギリスに売却したことで、イギリスの干渉を受けた。それに対してアラービー・パシャが反乱を起こしたが、反乱を鎮圧したイギリスは、エジプトを保護国にした。
 最後に「ナセル」だ。エジプトはイギリスから独立し、アラブ社会の盟主になる。
 第二次大戦後の一九五〇年代には白由将校団の革命で共和国に移行、ナセルが政権を掌握した。王政を倒したナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言、これに反対して出兵した英仏・イスラエルを国際世論の支持で撤兵させた。

【解答例】
肥沃なナイル川流域に古代文明が誕生したが、豊かさと交通の利便性から、多くの異民族の侵入も受けた。まずヒクソスの侵入をうけたが、撃退して新王国を樹立すると、逆にシリアに進出してヒッタイトと抗争した。しかしアッシリアとアケメネス朝に相次いで征服された。さらにアレクサンドロス大王に征服されたが、プトレマイオス朝のもと、ヘレニズム文化の中心として栄えた。アクティウムの海戦でローマに支配されても、アレクサンドリアはキリスト教五本山の一つになり、また季節風貿易の拠点として栄えた。イスラム教が広がると、ファーティマ朝がカイロを建設し、つづくアイユーブ朝のサラディンは十字軍を撃退、マムルーク朝もモンゴル軍と十字軍を撃退してアッバース朝のカリフを保護し、カイロがイスラム文化の中心となったが、そのためにオスマン帝国に征服された。ナポレオンは英とインドの交通遮断のためエジプト遠征を実施したが失敗。これを機にオスマン帝国から自立したムハンマド・アリー朝は近代化に着手し、スエズ運河も建設したが、財政難でスエズ運河株式会社の株を英に売却し政治介入を招いた。第二次大戦後ナセルはスエズ運河国有化を宣言、英仏・イスラエルの軍事介入を招くが、国際世論の支持で自立に成功した。

2000年東大前期・世界史第1問「中国思想が啓蒙思想に影響を与えた」

大航海時代以降、アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると、特に一八世紀フランスの知識人たちの間では、東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように、中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は、称賛もあり批判もあり、様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり、中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。

儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし、愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。(略)四千年来、中国の識者は、最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)

ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて、彼らこそが、生まれながらに、自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。(略)ヨーロッパでは、凡庸な宰相、無知な役人、無能な将軍がこのような制度のおかげで多く存在しているが、中国ではこのような制度は決して生まれなかった。この国には世襲的貴族身分が全く存在しない。(レーナル)

共和国においては徳が必要であり、君主国においては名誉が必要であるように、専制政体の国においては「恐怖」が必要である。(略)中国は専制国家であり、その原理は恐怖である。(モンテスキュー)

 これらの知識人がこのような議論をするに至った一八世紀の時代背景、とりわけフランスと中国の状況に触れながら、彼らの思想のもつ歴史的意義について、解答欄(イ)を用いて一五行以内で述べよ。なお、以下に示した語句を一度は用い、使用した場所には必ず下線を付せ。

 イエズス会、    科挙、       啓蒙、     絶対王政、
 ナント勅令廃止、  フランス革命、  身分制度、  文字の獄


【解き方】
 問題で引用されているヴォルテール、レーナル、モンテスキューの言葉を読むと分かるように、中国の思想や社会制度に対する評価は、称賛も批判もある。ヴォルテールは儒教が理性的なもので迷信に縛られてないことを称賛し、レーナルは科挙制を称賛して身分制度を批判している。それに対してモンテスキューは、中国の政治を恐怖で支配する専制政治であると批判した。しかし、この三人には共通するものがある。それは宗教であれ、身分制度であれ、専制政治であれ、かれらがフランスの旧制度を批判しているということである。かれらは中国の実像を描いたのではなく、中国を鏡として自国の問題点を指摘したのである。このことが理解できれば、一八世紀のフランスと中国の状況に触れながら、これら啓蒙思想の歴史的意義について論述することは簡単だ。中国の思想・制度と西欧の啓蒙思想の関係を知らなくても、問題文と引用資料がきちんとヒントになっている。
 指定されたキーワードは、「イエズス会」「科挙」「啓蒙」「絶対王政」「ナント勅令廃止」「フランス革命」「身分制度」「文字の獄」だ。
 しかし啓蒙思想家の順番が気になる。実は年代順に並べると、モンテスキュー、ヴォルテール、レーナルになる。作成者は、問題文で「称賛もあり批判もあり」と記しているので、そのまま称賛者ヴォルテールとレーナルの言葉を先に引用し、批判者モンテスキューの言葉を後に引用したのだろう。実際の解答でも、そのように称賛者・批判者の順番に書いてもいいが、時代背景を述べるとき不自然になる。そこで、ここではきちんと年代順に、モンテスキュー、ヴォルテール、レーナルの順番で答えてみよう。
 まずは中国を批判した側の事情を考えてみよう。ここで使用するキーワードは、「文字の獄」「ナント勅令廃止」「絶対王政」「フランス革命」だ。
 清朝が文字の獄や禁書令で思想を厳しく取り締り、また典礼問題でキリスト教を禁止したことが知られるようになると、モンテスキューのように中国を批判する者もあった。しかし、モンテスキューが本当に批判したかったのは中国ではない。実は、直接フランス絶対主義を批判すれば処罰されるため、中国をフランスに見立て批判したのだ。中国における文字の獄・禁書令などの思想統制や典礼問題でのキリスト教禁止が、ルイ一四世の「ナント勅令廃止」によるユグノー(プロテスタントの一派カルヴァン派)禁止と重なって見えたのだ。イギリス議会政治を理想と考えていたモンテスキューは、中国批判を通してフランスの「絶対王政」を批判し、専制政治を防ぐための立法・行政・司法による三権分立を主張した。この三権分立の考えは、こののちのアメリカ独立戦争や「フランス革命」に影響を与えた。
 つぎに、中国を称賛した側の事情を考えてみよう。ここで使用するキーワードは、「科挙」「身分制度」「啓蒙」「フランス革命」だ。
 一八世紀当時の厳しい身分制度に矛盾を感じていたフランスの人びとには、身分に関係なく、試験で官僚を登用する中国の「科挙」制度をうらやましく思った。かれらには、中国が理性的な理想の国に思えたのだ。
 当時のフランスでは、聖職者(第一身分)と貴族(第二身分)が特権身分として優遇される一方、人口の圧倒的多数を占める平民(第三身分)は重税に苦しんでいた。啓蒙思想家ヴォルテールやレーナルは、中国エリートが学力試験である科挙を通過した非世襲的エリートであることに注目し、厳しい身分制度のもと貴族・僧侶が権力を独占しているフランスの現状を批判した。かれらによって、身分制度そのものを批判する動きが生まれた。「フランス革命」は、まさに身分制度を批判するところから始まっている。
 最後にまとめだ。ここで使用するキーワードは、「イエズス会」「絶対王政」「啓蒙」だ。
 モンテスキューとヴォルテール、レーナルの言葉を、その時代背景に即して比較検討することで、かれらの中国観の違いが、中国側の事情というよりも、情報の受け手であるヨーロッパ側の事情によることがわかる。「イエズス会」の情報は正確であったが、それを受け取る側の立場によって、異なる受け取られ方をしたのである。しかし、批判者と称賛者には共通する点もあった。かれらは、直接、自国の「絶対王政」を批判することができなかったため、中国像を通して「絶対王政」を批判し、そして両者ともに「啓蒙」思想に影響を及ぼしたということだ。

【解答例】
ヴォルテール、レーナル、モンテスキューは中国の実像を描いたのではなく、中国を鏡に自国の問題点を指摘したといえる。中国はイエズス会宣教師を通じて西洋の学問を知ったが、宣教師も中国の文化・制度を積極的にヨーロッパに紹介し、各方面に大きな影響を与えた。しかし中国における文字の獄による思想統制や典礼問題によるキリスト教禁止が知られると、モンテスキューには、ルイ一四世のナント勅令廃止による思想・宗教弾圧と中国における思想・宗教弾圧が重なって見えた。イギリス議会政治を理想と考えていたモンテスキューは、中国批判を通して絶対主義王政を批判し、専制政治を防ぐため立法・行政・司法の三権分立を主張した。他方で、ヴォルテールやレーナルは、身分に関係なく試験で官僚を登用する中国の科挙制度を称賛し、身分制度を厳しく批判した。フランス革命は、まさに身分制度批判から始まった。このように見てくると、中国を批判した者にも称賛した者にもフランス絶対王政批判が共通しており、両者ともに啓蒙思想に影響を及ぼしたことがわかる。

1999年東大前期・世界史第1問「地域を通して世界を見る・スペインの歴史」

ある地域の歴史をたどると、そこに世界史の大きな流れが影を落としていることがある。イベリア半島の場合もその例外ではない。この地域には古来さまざまな民族が訪れ、多様な文化の足跡を残した。とりわけヨーロッパやアフリカの諸勢力はこの地域にきわめて大きな影響を及ぼしている。このような広い視野のもとでながめるとき、紀元前三世紀から紀元一五世紀末にいたるイベリア半島の歴史はどのように展開したのだろうか。その経過について解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した語句に必ず下線を付せ。

 カスティリア王国   カ一ル大帝   カルタゴ   グラナダ
 コルドバ        属州       西ゴート   ムラービト朝

【解き方】
地域史をたどることで、かえって世界史の大きな流れが見えてくることがある。イベリア半島もそうだ。深めるということと広げるということは同じことだと、改めて知ることができる。
 あたえられているキーワードは、「カスティリア王国」「カ一ル大帝」「カルタゴ」「グラナダ」「コルドバ」「属州」「西ゴート」「ムラービト朝」だ。
 これを歴史順に並べ替えてみると、「カルタゴ」「属州」「西ゴート」「コルドバ」「カール大帝」「ムラービト朝」「カスティリャ王国」「グラナダ」になる。どうだろう。イベリア半島の歴史が見えてきただろうか。
 これで、フェニキア人国家の「カルタゴ」、ポエニ戦争でイベリア半島(ヒスパニア)を「属州」にしたローマ、イベリア半島に建国したゲルマン国家「西ゴート」、イベリア半島に建国されたイスラム国家の後ウマイヤ朝の都「コルドバ」、イベリア半島のイスラム勢力と戦ったフランク王国の「カール大帝」、イベリア半島に進出したイスラム勢力「ムラービト朝」、レコンキスタ(国土回復運動)を推進した「カスティリャ王国」、イベリア半島最後のイスラム勢力ナスル朝の都「グラナダ」だ。もう、記述できたも同然だろう。
 イベリア半島は、地中海交易を支配したフェニキア人の国家カルタゴの属州ヒスパニアだったが、前三世紀のポエニ戦争でローマがカルタゴから奪い、属州とした。このことから半島にはラテン文化が流入した。五世紀にゲルマン民族の西ゴートがイベリア半島の大半を支配して、トレドを都にした。西ゴートはグレゴリウス一世のゲルマン布教で、アタナシウス派に改宗してたいへん栄えた。青本の模範解答では、いずれも西ゴートをアリウス派としていたが、完全に間違いだ。
 しかし八世紀にはアラブ人のウマイヤ朝がイベリア半島に進出して、西ゴートを滅ぼした。これでイベリア半島はイスラム文化圏に組みこまれた。アタナシウス派の西ゴートが滅んだことは、ローマ教皇を中心とする西ヨーロッパ世界の危機でもあった。しかし、フランク王国の宮宰カール=マルテルが、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍を撃退して、フランク王国は守られた。カール=マルテルの子ピピンはフランク王国を再統一してカロリング朝を建て、ピピンの子カールは西ヨーロッパを統一して、ローマ教皇から戴冠されて西ローマ皇帝になった。
イベリア半島には後ウマイヤ朝がコルドバを都にして建国され、カール大帝の遠征軍とも抗争した。カール大帝は、イスラム軍を破りスペイン辺境伯領を設置している。
 一一世紀に後ウマイヤ朝が滅亡すると、イベリア半島北部のキリスト教徒によるレコンキスタが本格化し、その過程でアラゴン王国、カスティリア王国、ポルトガル王国などのキリスト教国が建国されたが、北アフリカの先住民ベルベル人は熱心にイスラム神秘主義を信仰し、一一世紀に修道士(ムラービト)によってムラービト朝が建国して、イベリア半島にも進出した。一二世紀にはムラービト朝にかわったムワッヒド朝が、やはりイベリア半島に進出してキリスト教徒と戦った。しかしムワッヒド朝はキリスト教徒に敗北し、一三世紀にはグラナダを都とする地方政権ナスル朝のみが残された。ナスル朝は、末期イスラム文明の精華であるアラベスク模様のアルハンブラ宮殿を建てたことでも有名だ。
 イベリア半島の大半を制圧したキリスト教徒はユダヤ人を追放する一方、トレドを中心にアラビア語文献の翻訳活動を進め、イスラム文化の摂取に努めた。その後、カスティリアとアラゴンの合体でスペイン王国が成立すると、一四九二年イスラム最後の拠点ナスル朝のグラナダを陥落させて、レコンキスタを完了させた。

【解答例】
フェニキア人国家カルタゴが、イベリア半島に属州ヒスパニアを建設したが、ポエニ戦争でローマの属州になった。このことでイベリア半島にはラテン文化が流入した。さらにゲルマン民族の大移動で西ゴートが建国されると、教皇グレゴリウス一世のゲルマン布教で、アタナシウス派に改宗して栄えた。しかしウマイヤ朝が進出して西ゴートを滅ぼすと、イベリア半島はイスラム文化圏に組みこまれた。後ウマイヤ朝はコルドバを都に建国され、カール大帝の遠征軍とも抗争した。後ウマイヤ朝が滅亡すると、イベリア半島北部のキリスト教徒によるレコンキスタが本格化し、その過程でアラゴン王国、カスティリア王国、ポルトガル王国が建国されたが、北アフリカのベルベル人によって建国されたムラービト朝・ムワッヒド朝があいついで進出してキリスト教徒と戦った。しかしムワッヒド朝がキリスト教徒に敗北し、グラナダを都とする地方政権ナスル朝も、カスティリアとアラゴンの合体で成立したスペイン王国に滅ぼされて、一四九二年レコンキスタは完了した。

1998年東大前期・世界史第1問「南北アメリカ・歴史の分岐点」

アメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国は、ともにヨーロッパ諸国の植民地として出発した。しかし、独立後は、イギリスの産業革命などの影響の下で対照的な道を歩むことになった。たとえば、アメリカ合衆国の場合には、急速な工業化を実現していったのに対して、ラテンアメリカ諸国の場合には、長く原材料の輸出国の地位にとどまってきた。そしてラテンアメリカ諸国は、政治的にも経済的にもアメリカ合衆国の強い影響下におかれることになったが、その特徴は、現在のラテンアメリカ諸国のあり方にも大きな影響を及ぼしている。
 そこで、一八世紀から一九世紀末までのアメリカ合衆国とラテンアメリカ諸国の歴史について、その対照的な性格に留意しつつ、ヨーロッパ諸国との関係や、合衆国とラテンアメリカ諸国との相互関係のあり方の変化を中心に、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に一五行以内で記せ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

プランテーション、 パン=アメリカ会議、 南北戦争、 ウィーン体制、 
自由貿易主義、 モンロー宣言、 クリオーリョ、 米英戦争

【解き方】
アメリカ合衆国とラテン=アメリカ諸国はともにヨーロッパ諸国の植民地として出発しながら、独立後には異なる道を歩み、しかもラテン=アメリカ諸国はアメリカ合衆国の強い影響下にあった。このような両者の関係を論述する問題だ。あたえられているキーワードは、「プランテーション」「パン=アメリカ会議」「南北戦争」「ウィーン体制」「自由貿易主義」「モンロー宣言」「クリオーリョ」「米英戦争」だ。
 歴史を記述するのだから、時代順にキーワードを並べ替えしてみよう。それだけでも下書きができる。並べ替えると、「プランテーション」「米英戦争」「クリオーリョ」「ウィーン体制」「モンロー主義」「自由貿易主義」「南北戦争」「パン=アメリカ主義」となる。
 あとは、キーワードごとに関係事項を加えながら記述していこう。
 まず「プランテーション」だ。
 プランテーションは輸出用の商品作物を生産する大農場経営で、植民地でひろくおこなわれていた。一六世紀末には、カリブ海諸島でサトウキビ栽培が始められ、北米でも、黒人奴隷制による綿花プランテーションが発達して、イギリスエ業の原料供給地となった。ここで忘れてはならないことは、いまでもアメリカは農業国ということだ。
 つぎに「米英戦争」だ。これでアメリカの工業化を説明する。
 ヨーロッパ大陸でナポレオン戦争が繰り広げられていた一八一二~一四年、アメリカはイギリスと米英戦争を繰り広げた。ナポレオンが発令した大陸封鎖令(ベルリン勅令)に対抗して、イギリスも海上封鎖をおこって米仏間の通商を妨害したことから戦争が勃発した。この米英戦争のさなかイギリスの工業商品の流入が途絶えたために、アメリカは自国で生産した綿花を利用して綿織物工業を発達させ、経済的にもイギリスから独立できたのだ。さらにアメリカは産業革命に成功して、一八八〇年代には工業生産でイギリスを抜いた。
 つぎに、「クリオーリョ」だ。これでラテン=アメリカ諸国の独立を記述する。
 ラテン=アメリカにおける植民地生まれの白人のことを〈クリオーリョ〉という。かれらの多くは地主階級であり、本国から派遣された官僚と対立し、フランス革命・ナポレオン戦争で本国が混乱していることに乗じて独立運動をおこした。一八〇四年黒人初の共和国としてハイチが独立すると、シモン=ボリバルは大コロンビア(コロンビアとベネズエラ)・ボリビアの独立を指導し、サン=マルティンもアルゼンチン・チリ・ペルーの独立を指導して、ラテン=アメリカ諸国は独立に成功した。
 つぎに「ウィーン体制」「モンロー宣言」だ。これで、ラテン=アメリカ諸国の独立に対するヨーロッパ本国とアメリカの対応を記述する。
 フランス革命以前の体制の復活をめざすウィーン体制で、オーストリア外相メッテルニヒはラテン=アメリカ諸国の独立に干渉しようとしたが、一八二三年アメリカ大統領モンローが相互不干渉を唱えたモンロー宣言を発表し、またラテン=アメリカを自国製品の市場にしようと考えていたイギリス外相カニングも独立を支援した。しかしクリオーリョによる大土地所有が温存され、自由貿易主義のもとコーヒー・砂糖などのプランテーションが発達した。
つぎに「南北戦争」と「自由貿易主義」だ。ここで、アメリカ南北戦争を正しく理解しているかどうかがわかる。
 アメリカの北部と南部では経済的構造が異なることから、政策をめぐり対立が激化した。南部地域では、黒人奴隷を労働力とするタバコ・米・藍・綿花などを生産するプランテーションが普及していた。とくにイギリス産業革命以後は、原材料である綿花の需要が高まり、イギリスとの関係を深めていた。このように南部は安価な綿花の供給地であり、自由貿易が有利であった。それに対して北部は、一八四〇年代から産業革命がすすみ工業化が本格化していたことから、先進国イギリスの工業製品に関税をかけて、自国製品を保護する必要がった。このように北部は、南部を自国製品の市場として確保する必要があったため、保護貿易を主張した。一八六〇年の大統領選挙で、黒人奴隷反対派の共和党のリンカーンが当選した。南部はこれを認めず、一八六一年にはリッチモンドを首都とするアメリカ連合国を結成して、連邦から離脱した。南部側がサムター要塞を攻撃したことで南北戦争が始まり、北部が奴隷解放宣言を発表して国際世論の支持を獲得し、西部農民の自立を支援するホームステッド法を出して西部の支持も獲得して優勢を維持し、一八六五年に南軍が降伏して終結した。これで、アメリカの工業は大きく発達し、一八八〇年代にはイギリスを抜いて工業生産が世界一位になった。
最後に「パン=アメリカ会議」だ。
 一八八九年に第一回パン=アメリカ会議がワシントンで開かれ、一八九八年アメリカは米西戦争に勝利すると帝国主義に転じ、パン=アメリカ会議もアメリカの中南米外交を推進する場になった。一九四八年にパン=アメリカ会議で成立したボゴタ憲章で米州機構に改編された。
 あとは、これを制限字数内におさめればいい。

【解答例】
北米でも中南米でも、プランテーション経営が発達し、米独立革命後も米経済は英経済に従属していた。しかしヨーロッパ大陸でナポレオン戦争が繰り広げられると、米国は米英戦争を繰り広げ、英製品の流入が途絶えたことで自国工業を発達させ、経済的にも英国から独立できた。中南米諸国も、クリオーリョ出身のシモン=ボリバルやサン=マルティンの指導で独立を果たした。仏革命以前の復活をめざすウィーン体制下で、中南米諸国の独立に干渉する動きもあったが、米国はモンロー宣言で相互不干渉を宣言し、市場拡大を目指す英国も独立を支援した。ところが米国では、北部と南部がそれぞれ保護貿易主義と自由貿易主義を主張して南北戦争が始まった。北部が奴隷解放宣言で国際世論の支持を得、西部農民の自立を支援するホームステッド法で西部の支持を得て勝利した。これで米工業は発展し、一八八〇年代には英国を抜いて工業生産が世界一位になった。これで南北間格差が決した。以後、米国はパン=アメリカ会議を通して中南米諸国を指導した。

1997年東大前期・世界史第1問「少数民族問題」

二〇世紀の民族運動の展開を考えるさい、第一次世界大戦の前後の時期は大きな意味をもっている。この時期にはユーラシアの東西で旧来の帝国が崩壊し、その結果一部の地域では独立国家も生まれたが、未解決の問題も多く残った。それは、現代世界の民族と国家をめぐる紛争の原点ともなった。こうした旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について、とくにそれぞれの帝国の解体過程の相違に留意しながら、解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、下に示した語句を一度は用い、使用した箇所には必ず下線を付せ。

民族自決、三民主義、少数民族、シオニズム、アラブ、
モンゴル、オーストリア=ハンガリー、 バルト三国

【解き方】
二〇世紀の民族運動を考えるには、ナポレオン戦争から第一次世界大戦までの世界情勢に注目する必要がある。ナポレオン戦争をきっかけにナショナリズムが誕生し、第一次世界大戦では、ユーラシア大陸の東西で、オーストリア、トルコ、ロシア、清という大帝国が崩壊して、多くの独立国家も生まれる一方、未解決の問題も多く残された。それが、現代世界の民族紛争の原点になっている。
 まず、キーワード「民族自決」「三民主義」「少数民族」「シオニズム」「アラブ」「モンゴル」「オーストリア=ハンガリー」「バルト三国」をテーマに沿って整理しよう。
 キーワードを使用する問題では、キーワードを歴史順に並べるだけで、下書きができあがるものだ。そこで、与えられているキーワードを時代順に並べると、「少数民族」「民族自決」「オーストリア=ハンガリー」「シオニズム」「アラブ」「バルト三国」「三民主義」「モンゴル」となる。さらに民族自立が世界史の大きなキーワードになるのは、ナポレオン戦争後のウィーン体制からだ。ドイツやイタリアでは、民族統一運動が展開されて、民族国家の建設が目指された。そこでウィーン体制から第一次世界大戦までの歴史を、キーワードの「オーストリア=ハンガリー」を中心に記述してみよう。
 ドイツ人は十字軍のころから東ヨーロッパ各地で植民活動を展開していた。これがヴァンデ十字軍と呼ばれる運動であり、ドイツ騎士団もそのひとつだ。そのため東欧にはドイツ人が居住する地域が点在していた。それらの地域では、ドイツ人が少数民族であった。ドイツ盟主の地位をプロイセンと争った普墺戦争で敗北したオーストリア(ハプスブルク家)は、ハンガリーの自立を認めて同君連合を結んで「オーストリア=ハンガリー」二重帝国になると、帝国の重心を東に移して、東欧におけるドイツ人の統合を目指してパン=ゲルマン主義を唱えた。このようにオーストリアがバルカン半島に進出すると、スラヴ人の統合を目指してパン=スラヴ主義を唱えたロシアと対決した。これが、第一次世界大戦の原因のひとつである。
 第一次世界戦後、ウィルソンの一四カ条の民族自決主義に基づいて、サンジェルマン条約でオーストリア支配下にあったスラヴ系国家が独立し、チェコも独立した。しかし、そのことでそれまで支配者であったドイツ人やイスラム教徒が少数民族として取り残され、あらたに東欧の民族問題が生じた。
 これで、キーワード「オーストリア=ハンガリー」の記述ができた。
 つぎに、キーワード「バルト三国」についてみてみよう。
 バルト三国といえば、第一次世界大戦でソ連から独立を承認された。ソ連は第一次世界大戦中のロシア革命で成立したのだから、ここを中心に仕上げればいい。ロシアは、第一次世界大戦中の物資不足から国民の不満が爆発し、一九一七年にロシア革命が勃発して倒された。革命政府は民族自決の講和を提起して、フィンランド・バルト三国を独立させ、干渉戦争後には多民族連邦であるソヴィエト社会主義共和国連邦に生れ変った。しかし、第二次世界大戦初期の独ソ不可侵条約を結び再びバルト三国を併合した。ソ連崩壊後バルト三国は再び独立を果たしたが、多民族国家であるロシアでは、現在でも資源問題と民族問題がリンクして紛争が続いている。
 これで、キーワード「バルト三国」の記述ができた。
 つぎに、キーワード「シオニズム」と「アラブ」だ。
 どちらもオスマン帝国が関係していることに注目して、関連付けながら記述してみよう。オスマン帝国は、バリカン半島に進出して多くの少数民族を支配していた。そのバルカン半島の民族運動から始まった第一次大戦で敗れたことから、戦後にはセーヴル条約で異民族分離を強制されて解体し、トルコ革命で消滅した。しかもオスマン帝国領は大戦中に英仏露の秘密外交の対象となり、パレスチナでは、アラブ国家の独立を公約したフサイン・マクマホン協定、ユダヤ人の国家建設の悲願(シオニズム)達成を約束したバルフォア宣言が結ばれた。しかし第一次世界大戦後、約束は守られず、アラブ地域は英仏の委任統治下に置かれた。しかもバルフォア宣言をきっかけに、ユダヤ人のパレスチナ移住が活発化して、アラブ人との対立が深刻化した。ここから、現在の中東問題が始まった。
 これで、キーワード「シオニズム」と「アラブ」の記述ができた。
 つぎにユーラシア大陸の東の中国に関するキーワード「三民主義」と「モンゴル」だ。
 多民族国家である中国清王朝は、第一次大戦以前すでにヴェトナム・朝鮮などの属国や諸地域を日欧列強に奪われ宗主国としての地位を失っていた。さらに中国本国でも漢民族が異民族清朝の支配に不満を募らせ、諸外国に留学していた留学生が革命運動中心になり、それを経済的に華僑が支えて革命運動が展開された。孫文は三民主義で満州民族打倒を唱えて革命運動を統合し、一九一一年辛亥革命で清朝が倒れた。これを機にモンゴル人が独立を宣言して、一九二四年外蒙古が独立してモンゴル人民共和国が成立した。しかし多民族国家中華民国の支配地域・民族は清朝とほぼ変わらず、現在でもチベット・ウィグルなど少数民族問題を抱えている。
 あとは、これを指定された字数内にまとめればいい。

【解答例】
ナポレオン戦争後、ヨーロッパでは諸民族の間で民族自決が目指され、ドイツ・イタリアの統一運動や少数民族の独立運動が展開された。ドイツ盟主をめぐる普墺戦争で敗れたオーストリアは、ハンガリーの自治を認めて同君連合を結びオーストリア=ハンガリーとなったが、東欧政策でロシアと対決して第一次世界大戦を招いた。大戦後には、スラヴ系国家が多く独立した。ロシアでも大戦中のロシア革命で、フィンランド・バルト三国が独立した。また大戦でオスマン帝国領は英仏露の秘密外交の場となり、アラブ独立を公約したフサイン・マクマホン協定、ユダヤ人の国家建設運動シオニズムを認めたバルフォア宣言が結ばれた。しかしアラブ人の独立は認められず、むしろユダヤ人のパレスチナ移住が活発化し、アラブ人との対立が深刻化した。中国では漢民族が異民族清朝の支配に対して革命運動が展開され、孫文は三民主義を唱えて革命運動を統合して辛亥革命を達成、これを機にモンゴルは独立宣言してモンゴル人民共和国が成立した。

1996年東大前期・世界史第1問「大英帝国の栄光と没落」

一八世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、世界全体に工業社会の到来をもたらし、現代世界の形成に大きな役割を果たした。そのさい、人々はイギリスの覇権を「パクス・ローマーナ」(ローマの平和)になぞらえて「パクス・ブリタニカ」と呼んだ。しかし、「パクス・ブリタニカ」の展開には、さまざまな地域において、これに対抗する多様な動きが伴った。現代世界はこのような対抗関係を重ねるなかで形作られたとも言えよう。そこで、一九世紀中ごろから二〇世紀五〇年代までの「パクス・ブリタニカ」の展開と衰退の歴史について、下に示した語句を一度は用いて、解答欄(イ)に一五行以内で述べよ。なお、使用した語句に必ず下線を付せ。

自由貿場、南京条約、アラービー・パシャ、3C政策、
マハトマ・ガンディー、宥和政策、マーシャル・プラン、
スエズ運河国有化

【解き方】
 この問題は、大英帝国の栄光と没落について論じる問題だ。あたえられているキーワードは、「自由貿場」「南京条約」「アラービー・パシャ」「3C政策」「マハトマ・ガンディー」「宥和政策」「マーシャル・プラン」「スエズ運河国有化」だ。これで、そのまま時代順に並んでいる。これをもとに、イギリスの栄光と没落の歴史をまとめてみよう。
 まず、「自由貿易」だ。イギリスが、自由貿易を推進したことを見る。
 産業革命によって産業資本家が成長すると、イギリスは、一八四六年に輸入穀物を制限する穀物法を廃止し、さらに一八四九年大特許会社東インド会社の特権を認める航海法を廃止して、「世界の工場」として工業製品を海外に輸出するという自由貿易体制を実現した。このようにイギリスは、穀物法と航海法を廃止して、ひきかえに自由貿易体制を確立した。
 つぎに、「南京条約」だ。実は、貿易相手国に関税自主権を認めない不平等条約は、自由主義貿易の一環であることに気づいてほしい。そうすれば、「自由貿易」から「南京条約」に簡単に話を進めることができる。
 イギリスは、中国に貿易拡大をもとめてアヘン戦争を起こし、一八四二年の「南京条約」で中国市場の開放を実現した。国内的にも、四六年穀物法を廃止して、航海法を廃止して自由貿易体制を確立した。さらに中国の市場開放を拡大するためにアロー戦争を起こし、一八六〇年天津・北京条約で実現して、中国を市場とした。
 つぎに、「アラービー=パシャの乱」だ。
 イギリスは、一八七五年財政難に陥ったエジプトからスエズ運河株式会社の株式の過半数を購入し、さらにエジプト内政・財政に介入した。これに反対して「アラービー=パシャの反乱」がおこるが、イギリスが単独で鎮圧して、エジプトを保護国にした。さらに同時期にスーダンでおきていたマフディーの乱を鎮圧して、南下を進めたところで、フランス軍とスーダンのファショダで衝突した。しかしイギリス・フランスは交渉すすめて英仏協商を結成した。
 つぎに、「3C政策」だ。
 イギリスは、一八九九年からの南ア戦争で、金とダイヤモンドを産出するオランダ系移民の国オレンジ自由国とトランスヴァール共和国を併合して、南アフリカ連邦を成立させた。こうしてアフリカの北部と南部を征服して銃弾政策を推進したイギリスは、これにインドを加えて、「3C政策」を達成し、ドイツの3B政策に対抗した。これが、第一次世界大戦の原因のひとつになる。
 つぎが、「マハトマ=ガンディー」だ。ここからイギリスの没落が始まる。
 第一次世界大戦後では勝利したものの、アメリカが台頭し、英国の覇権は揺らいだ。またロシアでは共産主義革命がおこり、ソ連が成立した。さらに植民地体制もワフド党、シンフェイン党、「マハトマ=ガンディー」の不服従運動で揺いだ。それでもイギリスは三〇年代ウェストミンスター法と連邦経済会議で連邦を保持し、世界恐慌後には、産業合理化で急成長した日本経済をソーシャル・ダンピングと批判するとともに、スターリング・ブロック形成して自国経済を守った。
 つぎに、「宥和世策」だ。イギリスはナチス=ドイツの動きをとめることができず、第二次世界大戦を招いてしまった。
 ナチスの拡大に対しては、一九三八年のミュンヘン会談に象徴される「宥和政策」をとり、ドイツを共産主義勢力の防波堤にしようとした。しかし、このことがナチスの暴走をゆるすことになった。
 つぎに、「マーシャル=プラン」だ。第二次世界大戦後のイギリスには、もはや自力で復興する力はなかった。
 イギリスは第二次大戦に勝利したものの、世界情勢の米・ソ二極化の方向のなかで、大英帝国の没落は決定的となり、むしろ債務国の地位に転落した。戦後復興もアメリカの経済援助「マーシャル・プラン」に頼らざるをえなかった。
 最後に、「スエズ運河国有化」だ。力をうしなったイギリスは、それでも植民地支配を続けようとする。そのことで、世界からヒンシュクを買ってしまった。
 インドなど植民地はつぎつぎと独立を果たし、一九五六年ナセルが「スエズ運河の国有化」を宣言すると、イギリスはフランスとともに軍隊を派遣して介入したが、国際世論の非難を受け、国連総会での反対により撤兵した。しかし現在でも、中東問題は大きな問題であり続けている。

【解答例】
イギリスは産業革命に成功すると、保護貿易的な穀物法と航海法を廃止して、世界の工場として工業製品を輸出する自由貿易を実現した。また市場拡大をもとめたアヘン戦争では、南京条約で中国の市場開放に成功し、さらに植民地戦争でインドの市場化にも成功した。エジプトが財政難に陥るとスエズ運河株式会社の株式の過半数を購入して、内政干渉した。これに抵抗するアラービー=パシャの反乱を鎮圧してエジプトを保護国にすると縦断政策を推進した。さらにインドを加えて3C政策とし、ドイツの3B政策と対決、第一次世界大戦に至った。しかし戦後アメリカ・日本が台頭、インドではマハトマ=ガンディーの不服従運動が展開され窮地に立った。またナチス台頭では防共のために宥和政策をとり、ナチスの暴走をゆるした。第二次大戦後には戦後復興でアメリカのマーシャル・プランに頼り、インドなど植民地は独立した。ナセルがスエズ運河国有化を宣言すると軍事介入したが、国際世論の非難を受けて撤兵し、権威は失墜した。

『東大入試で遊ぶ教養-日本史編』刊行!!

歴史好きの大人と東大受験生のための佐々木哲著『東大入試で遊ぶ教養-日本史編』(長崎出版)が、ついに刊行です。また、マイナーだけど実はすごい佐々木氏・六角氏をその実力どおり具体例にしましたので、佐々木氏・六角氏マニアの方が読んでも楽しめます。紀伊國屋屋書店・三省堂書店・ジュンク堂・丸善・オリオン書房など、有名書店では店頭にあります。分類は人文・歴史ですが、書店によっては受験コーナーにあります。インターネットではアマゾン・BK1などで購入できます。最寄りの書店・セブン-イレブンでも、ご注文できます。個人で購入されるほか、ご近所・学校の図書館に希望図書として依頼していただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

判型:A5判 253頁
定価:1,800円(税込1,890円)
初版年月:2006年08月
ISBN:4-86095-133-6

東大入試で遊ぶ教養 日本史編
佐々木 哲著
長崎出版 (2006.8)
通常24時間以内に発送します。


【内容】
問題を解きながら、自分が持っていた日本史の常識をうちやぶっていくのが東大入試問題。それを使用しながら、古代から現代までの日本史の常識をやぶる楽しさを味わい、しかも大学教養レベルの実力までついてしまうという欲張りな出来上がりです。ちょっと深く考える「東大力」をつけ、通りいっぺんの雑学では知ることが出来ない歴史の面白さを知ってください。

【目次】
①中国は蛮国!? 古代日本の外交戦略
②実力で栄華をつかんだエリート官僚・藤原氏
③摂関政治と結婚のカタチ
④スケールがでかいぞ海国平氏
⑤新しい宗教を生んだ鎌倉時代の時代精神
⑥鎌倉時代の秘密を解くキーワード「関東」と「関西」
⑦同じ名称なのに役割が違う鎌倉守護と室町守護
⑧士農工商はなかった!? 武士と農民は同じ階層
⑨日本と中国を天秤にかけた貿易立国・琉球の事情
⑩天皇制を守り続けた江戸幕府と女帝の誕生
⑪農民の独立と自治の成立を促した「家」制度
⑫勤王派徳川幕府の歴史認識と国際感覚
⑬江戸幕府にはなくてはならない蝦夷地の役割
⑭成熟し、自立した国家の証「鎖国」
⑮文明開化の象徴だった鉄道敷設
⑯「日本人は米食民族」という常識のウソ
⑰第一次世界大戦で台頭する日本・警戒する米国
⑱世界恐慌後の最強日本資本主義
⑲大変革をもたらした二大土地改革
⑳三権分立が徹底しすぎた明治憲法の悲劇

8月東京勉強会

8月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
【日時】
8月6日(日)江戸東京博物館・第二学習室
 13時~17時 『哲学とマーケティング』
 15時~17時 『六角義康と足利義昭、豊臣秀次』
8月20日(日)江戸東京博物館・第二学習室
 13時~15時 『弱者の進化論』
 15時~17時 『系図の読み方』

【会場】
 7月22日(日) : 江戸東京博物館・第二学習室
 江戸東京博物館
 JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
 都営大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/raikan/kotsu.html
【会費】
 3,000円

『東大入試で遊ぶ教養 日本史編』はじめに

 意外に思われるだろうが、東大入試では受験知識はいらない。考える問題になっているから、教養程度の知識があれば十分だ。だから、『東大入試で遊ぶ教養』シリーズは、受験知識を身につけるための本ではなく、①教養力を身につけたい大人や、②論述力を身につけたい受験生のための本になっている。
 まず知っておいてほしいのは、学問が目指しているのは、これまで正しいと思われていた常識を疑うことだ。たしかに高校までの勉強では、教科書は正しいものだった。しかし大学では、教科書で学びながら教科書を批判する。常識を身につけながら、常識のおかしなところを指摘するのだ。
 しかも、常識を疑うには真実の力が必要だ。入試問題であれば資料のことだ。資料には自分の想像を超えた内容が記されている。それを理解できれば常識を疑える。これが真実の力だ。資料にもとづいていれば、ひとを納得させることもできる
 だから日本史の問題を見てもらうとすぐにわかるが、資料が提示されている。それも現代語訳してある資料だ。これは、日本史の試験であり、古文の試験ではないからだ。受験生のみんなが日本史(国史学)を専攻するわけではない。また日本史を専攻する学生なら、専攻にすすんでから十分に鍛えられる。受験段階では、現代語訳の資料で十分だ。ずいぶんと割り切っている。これが、東大だ。
 それだけではない。大学は模範解答を超える解答をもとめている。大学が用意した模範解答よりも優れた解答があれば、それをもとに最初から採点しなおすほどだ。それまでして優秀な学生をほしがる。また、それほど手間をかけて採点しているから、足切りもせざるを得ない。基礎知識で足切りを実施するのは、そもそも常識の限界を知らなければ、何を疑えばいいのか、わからないからだ。
 また東大二次試験の社会科目には、日本史・世界史・地理の地歴科目はあっても、政治経済・倫理社会・現代社会など公民科目はない。それは近現代史の問題を出せば、政治・経済・思想の知識を問うことができるからだ。歴史の勉強は、深めれば深めるほど広がる。少し深めた問題を出せば、公民の知識を確認できる。やはり、東大は割り切っている。
 この本は、ちょっと深く考える東大力をつける本だ。問題は、実際に出題された東大入試問題だが、教養力と資料で問題は解けるはずだ。解答例はあくまで解答例だから、これよりもいい解答をめざしてほしい。できたら東大力がついたということだ。また解答例のあとに歴史の勉強のコーナーを作った。そこで、教科書よりも少し深く、歴史を学ぶことができる。そこで、常識を疑う楽しさを感じてほしい。

2003年東大前期・日本史第4問「米が本当に日本人の主食になったのは昭和時代!」

次の文章は民俗学者柳田国男が一九五四年に著したものである。これを読んで下記の設問A~Cに答えなさい。
 一八七八年(明治一一年)の報告書を見ると、全国農山村の米の消費量は全食糧の三分の一にもおよんでいない。以後兵士その他町の慣習を持ち帰る者が多くなると、米の使用量は漸次増加している。とはいえ明治時代には農民はハレの日以外にはまだ米を食っていなかったといってよろしい。(中略)こんどの戦争中、山村の人々は(1)米の配給に驚いた。当局とすれば、日常米を食わぬ村だと知っていても、制度ともなれば配給から除外出来るものではない。そうした人々は,戦争になって、いままでよりよけいに米を食べるようになったのである。(中略)それにしても大勢は明治以後、米以外には食わぬ人々が増加し、外米の輸入を余儀なくさせる状勢であった。こうした食糧事情に伴って、(2)砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなど、明治年代の食生活の風俗は目まぐるしいほど変化に富んだものであった。

設問
A 下線部(1)「米の配給」はどのような背景の下で何のために作られた制度か、二行以内で説明しなさい。
B 下線部(2)のような食生活の変容をもたらした要因は何か、二行以内で説明しなさい。
C 明治時代の農村の人々はなぜ都市の人々ほど米を食べていなかったのか、三行以内で説明しなさい。

【解き方】
この問題も、解きながら自分の常識を疑っていくというものだ。楽しみながら問題を解くことができる。資料となっている民俗学者柳田国男の文によれば、米が本格的に日本人の主食になったのは明治以降であり、全国で一律に米食になったのは戦時中だという。日本人は弥生時代からずうっと米食民族だったという常識を見事にやぶってくれる。資料を読みながら、その常識を疑わなければ、トンチンカンな解答をしてしまうだろう。
江戸時代の農村部では、江戸や大坂・京都など消費都市とは異なり、米以外の主食物を手に入れることができた。地方ではそれぞれの土地で生産されたものを食べることが多く、多くの郷土食が生まれた。江戸時代に米を食べていたのは、食物を買わなければならなかった武士や町人・漁民だった。農民にとって米は貨幣であり、食べるなんてもったいないことはしなかった。
それに対して都市部では米を食べていた。米を生産していない人びとが、米を購入して食べていたのだ。江戸時代の農民が米を作りながら米を食べていなかったということを知ると、かわいそうだと思ってしまう。しかし、そのような見方は常識に縛られた見方に過ぎなかったのかもしれない。さらに明治以後は、砂糖の消費量の増加、肉食の始まりなどで食生活は大きく変わったが、米はそれら砂糖や洋食によく合った。このような中で米食が増え、外米が輸入されるほどだった。
農村部でも徴兵制度で兵士になったものや都会に出たものが米食の慣習を農村に持ち帰り、米の使用量は増加した。それでも、非日常的なハレの日以外にはまだ米を食っていなかった。相変わらず、日常はそれぞれの土地にあったものを食べていたのだ。それが戦時中、全国一律に実施された配給制度によって、普段は米を食べない村にも米が配給されることになった。戦時中に米食が増えたというのは本当に意外だ。
戦時中に実施された一連の計画経済のなかで、食糧確保のために米の増産政策が発表され、さらに食糧管理法が公布された。米はすべて生産者から直接政府に納入され、小作地の場合も小作農が直接政府に供出し、小作料は供出の代金から地主に支払うことにした。二重価格制で直接生産者にのみ増産奨励金を交付するかたちにしたのだ。これは地主の支配力を弱める政策であり、戦後の農地改革につながった。これはまさに農村復興政策といえよう。また、これと並行して米の配給通帳制が実施された。
こうして食糧管理法によって自作農・小作農が優遇されるとともに、米への転作がすすめられた。食糧管理法による米作保護は、戦後の食糧危機の中で継続された。このように、日本の本格的な米食は、戦中・戦後の計画経済の中ですすめられたといっていい。

【解答例】
A 日中戦争の長期化で物資が不足したため、政府は計画経済化をすすめ、米など必需品を配給制にして軍に優先的にまわした。
B 明治時代に資本主義が発展して米需要が高まり、また地租減税によって農村でも米生産意欲が刺激されて、米の生産高が急伸した。
C 弥生時代以来、米を主食にしてきたという常識は誤りで、江戸時代でも農村部では米以外の雑穀を主食にしていた。とくに飢饉による被害を最小限に抑えるには土地に適した作物をつくる必要があった。

2005年東大前期・日本史第4問「先進的だった明治憲法」

次の文章は、吉野作造が一九一六年に発表した「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」の一部である。これを読んで、下記の設問に答えなさい。
憲法はその内容の主なるものとして、(a)人民権利の保障、(b)三権分立主義、(c)民選議院制度の三種の規定を含むものでなければならぬ。たとい憲法の名の下に、普通の法律よりも強い効力を付与せらるる国家統治の根本規則を集めても、以上の三事項の規定を欠くときは、今日これを憲法といわぬようになって居る。(中略)つまり、これらの手段によって我々の権利・自由が保護せらるる政治を立憲政治というのである。

設問
大日本帝国憲法と日本国憲法の間には共通点と相違点とがある。たとえば、いずれも国民の人権を保障したが、大日本帝国憲法では法律の定める範囲内という制限を設けたのに対し、日本国憲法にはそのような規定はない。では、三権分立に関しては、どのような共通点と相違点とを指摘できるだろうか。六行以内で説明しなさい。

【解き方】
明治憲法というと、常識的には、絶対主義的色彩の濃いドイツの憲法(プロイセン憲法)をモデルにつくられ、憲法の理想からかけ離れた見せかけだけの憲法だと思われている。この設問を見たときの率直な感想は、また明治憲法と日本国憲法を比較して明治憲法の悪いところを指摘するなんて、もうウンザリだというものだった。ただし教科書レベルでも、大津事件をめぐる裁判で三権分立が守られたと記されているように、明治憲法でも三権分立は守られていた。そう、ここが常識を疑うところだった。明治憲法は実は三権が分立しすぎていて、横のつながりがなかった。だから、軍部の独走をだれもとめられなかったのだ。
 大津事件は、一八九一年五月来日中のロシア皇太子アレクサンドル(のちのロシア皇帝ニコライ二世)が滋賀県大津で、警備中の巡査津田三蔵に切りつけられたという事件だ。この事件で、イギリスとのあいだで不平等条約撤廃交渉を順調にすすめていた外務大臣青木周蔵は辞任した。
 日ロ関係の悪化をおそれた政府は、日本の皇族に対する謀殺未遂罪を外国の皇族にも適用させて、津田三蔵を死刑にすることをもとめたが、実は外国の皇族に対する謀殺未遂罪の規定はなかった。ここで、法律家としての能力が問われる。みなさんなら、どう考えるだろう。外国の皇族についても、日本の皇族と同じだと判断するか。外国の皇族についての規定がない以上、一般人と同じと判断するか。いまでも大論争が起こりそうだ。
 しかし法律としては、規定がない以上、日本皇族以外の者に、日本の皇族についての規定を当てはめるわけにはいかない。大審院長児島惟謙は担当裁判官に一般の謀殺未遂罪として無期徒刑の判決を下させるよう指導した。これが、司法権の独立を守ったといわれる名判決だ。このように、明治憲法のもとでも、きちんと三権分立はなされていたのである。
 しかし明治憲法の分立割拠性ゆえに、いちど軍部が暴走するとだれも止めることができず、国家総動員法によって、明治憲法は有名無実化されてしまった。
 日本国憲法では女性参政権も認められ、全国民の代表者として国会が機能するようになった。国会が最高議決機関とされるのは、全国民の代表として公共性を実現することを期待されたからである。もちろん議会が暴走しないように二院制が採用されるとともに、立法・司法・行政が相互監視できるように、議院内閣制・内閣の衆議院解散権・司法の違憲立法審査権がきちんと憲法で規定された。

【解答例】
両憲法ともに三権分立を採用したが、明治憲法では諸機関の連関がなく、公共性を体現する天皇が総覧する形になっていた。しかし天皇が大権を行使することはなく、明治憲法の分立割拠性が軍部の独走をゆるした。そのため日本国憲法では国会を最高議決機関と定めた上で、議院内閣制、内閣の衆議院解散権、司法の違憲立法審査権など相互監視の規定がもうけられた。

2004年東大前期・日本史第4問「地租改正と農地改革」

地租改正と農地改革は、近代日本における土地制度の二大改革であった。これらによって、土地制度はそれぞれどのように改革されたのか、あわせて六行以内で説明しなさい。
【解き方】
 「地租改正」や「農地改革」を知らない受験生はいない。では説明できるかというと、これがなかなか難しい。
 地租改正というと、近代化を目指した明治政府が、国家財政の基礎を固めて安定させるために実施したものというのは知られているが、地租改正そのものが土地制度の改革というのは、どういう意味だろう。
 地租改正は、一八八〇年ごろまでに数年かけて全国で実施された。その内容は、①地価を課税の基準にしたこと、②税率を地価の三%と固定することで豊凶によって増減しないようにすること、③貨幣によって納入すること、④地租負担者は地券を交付された土地所有者とすることであった。
 しかし地租改正に反対する大規模な農民一揆があったため、農民一揆と士族反乱の結びつきをおそれた大久保利通ら明治政府は、地租率を三%から二・五%に引き下げた。
 地租率ははじめ従来の歳入を減じないように定められたが、この引き下げで江戸時代の年貢額の二〇%減となった。さらに一八七〇年代末~八〇年代初めには米価が大幅に上昇したので、農民の地租負担は大きく軽減され、生活にもゆとりができた。このことを知っていただろうか。このことを知っていると地租改正のイメージがずいぶんと変わる。
 ところが一八八二年の世界恐慌と松方正義のデフレ財政が重なり、豪農でも没落する者がいたほど農村に深刻な不況がもたらされた。生糸や米など農産物が著しく下落したことで、地租が相対的に重くなったのだ。農民のなかには、生活が苦しくなって土地を手放して没落し、小作人になった者や、都会に流れ込んで工場労働者になった者があらわれ、農民層の分解がすすんだのだ。
 実は、ここで地租改正が重要な意味を持ってくる。地租改正に先立って、①田畑勝手作許可で田畑に自由に作物を作ることができるようになり、②田畑永代売買解禁では地価を定めるために売買を解禁した。つまり、商品作物を自由に作れるようになり、また田畑を自由に売買できるようになったのだ。
 自作農が農地を手放せば、そこが工業用地になる。また農地を手放した農民が労働者になる。農村は土地と労働力の供給源になったのである。経済活動に必要な生産要素は労働・土地・資本金であり、田畑永代売買の解禁で土地が売買できるようになったことは、日本経済の資本主義化にとってとても重要な出来事だった。
 次に、戦後の農地改革について見てみよう。実は、この農地改革について考えるためには、一九二九年当時まで話をさかのぼる必要がある。このころは、世界恐慌の影響で、米価も繭価も暴落して農村は疲弊していた。このようなときにもかかわらず、財閥の意向を受けた政府は産業合理化をすすめていた。その結果、中小企業は倒産し、国際競争力のある財閥だけが残った。農村の惨状を背景に、農村部出身者を多く部下にもつ青年将校は、民間の農本主義者や国家主義者と結びついて、この惨状を生み出した政党政治や協調外交・財閥の打倒をめざす国家改造運動を展開させた当時、現役軍人に参政権がなかったため、理想に燃える彼らの行動は、このように極端な行動に出ることもあったのだ。
 ちょうどソ連の第二次五カ年計画が順調であったため、自由主義経済に対する批判が激しく起こった。若手官僚は疲弊する農村問題を解決するには国家の全体的な取り組みが必要であり、国家体制を変革する必要であると考えた。関東軍の野望の象徴のように見える満州は、そんな軍人と若い官僚による計画経済の実験場だった。
 経済の計画化のなかで、米はすべて生産者から直接政府に納入され、小作地の場合も小作農から直接政府に納入されるようになった。そして直接生産者にのみ増産奨励金を交付するかたちにしたのである。
 第二次大戦後に実施された農地改革は、実はこのような戦時中の農村改造の延長にある。軍部と農村の関係が密接だったことから、占領軍は農村改造の必要性を感じ、農地改革を実施した。これで自作農が大量に創出された。地主は小作地を売却しなければならず、地価がもともと低めに設定されていたことに加え、インフレーションの進行によりさらに安いものになり、多くの地主が没落した。
 さらに、水稲の収穫量が大幅に増加して農村の生活水準が上がったため、国民全体の購買力が上昇して国内市場が拡大した。それだけではない。農地改革が成功したことで、農村部が保守政党の地盤にもなったのだ。

【解答例】
明治政府は安定した財源を確保するために地租改正を実施したが、その結果、農民の土地所有が認められ、土地の売買も可能になった。これが近代資本主義経済の発展の基礎になった。また戦後の農地改革で地主が没落して自作農が大量に創出された結果、米の収穫量はすぐに回復し、また農民の生活水準が上がり購買力も上昇して国内市場が拡大した。

1999年東大前期・日本史第3問「江戸期の家督相続」

次の(1)~(5)の文章は、江戸時代の有力な商人たちが書いた、いくつかの「家訓」(子孫への教訓書)から抜粋し、現代語に訳したものである。これらを読んで、下記の設問に答えよ。
(1)家の財産は、ご先祖よりの預かりものと心得て、万端わがままにせず、子孫へ首尾よく相続するように、朝暮心掛けること。
(2)天子や大名において、次男以下の弟たちはみな、家を継ぐ長男の家来となる。下々の我々においても、次男以下の者は、長男の家来同様の立場にあるべきものだ。
(3)長男については、幼少のころから学問をさせること。ただし、長男の成長が思わしくないときは、これに相続させず、分家などの間で相談し、人品を見て適当な相続者を決めるように。
(4)血脈の子孫でも、家を滅亡させかねない者へは家の財産を与えてはならない。このような場合には、他人でも役に立ちそうな者を見立て、養子相続させること。
(5)女子は他家へ嫁がされるものだ。親の家に暮らす子供のうちから気ままに育てられると、嫁ぎ先の家で辛抱することができなくなり、これがついには離縁されるもととなる。親元で厳しくされれば、他家にいるほうがかえって楽に思えるようになるものだ。

設問
江戸時代の有力な商人の家における相続は、武士の家とくらべてどのような特徴をもったか。上の文章に見られる長男の地位にふれながら、五行以内で述べよ。

【解き方】
 江戸時代の有力な商家の相続は、武家とくらべてどのような特徴をもっていたのだろう。江戸時代は天下泰平だった。そんな安定期では、いつもと同じことをしていれば間違いがない。つつがなく無事であれば御家は安泰だ。家臣たちも失業しない。とんでもないことを始める名君よりも、何もしない殿様の方がいい。いちばん恐いのは御家断絶で、なかでも一番多かったのが跡継ぎがいないことで御家が断絶してしまう〈無嗣断絶〉だったから、大名家では、自己主張しないで子づくりに励む殿様が一番ありがたい。家臣にとっては、名君よりもバカ殿が好ましかったのだ。やりすぎる名君が出てくると、家臣たちが主君を座敷牢に押し込めてしまう〈主君押込〉があるほどだ。
 実際に改革をやりすぎたために押し込められた殿様には、久留米藩主有馬則維や岡崎藩主水野忠辰らがいた。きっと他にもいるだろう。このように殿様に才覚は必要ないから、最初から長男を家督に決めてしまう。そうすれば御家騒動もおこらない。
ただし、商家ではそうはいかない。当主に才覚がなければ家は存続しないからだ。ここが武家と商家の違いだ。
 資料によれば、(1)家の財産は先祖からの預かりものであり、自分の代で勝手に処分することは厳しく禁じられた。子孫へ伝えることが義務づけられていたのだ。これは、個人よりも家の存続が大事にされていた武家と同じだ。(2)天皇家や武家と同様、商家でも長男が継ぎ、弟たちは家来となるべきだとされている。これは、武家と同じように相続争いを恐れてのことだろう。まず家の安泰が目指された。
 ところが武家とは異なる点もある。(3)長男には幼少のころから学問をつけさせることが大切だと考えていたが、もし長男が不適格者であれば、分家が相談して相続者を決めろと述べている。さらに、(4)血を受け継いだ子孫でも、家を滅亡させるような者には財産を与えずに、他人でも役に立ちそうな者を見立てて養子にしろと述べている。長男に才覚がなければ、分家どころか、血がつながっていなくてもいいというのだ。一方、(5)女子は他家へ嫁ぐものだから、嫁ぎ先がかえって楽に思えるように厳しく育てるよう述べられている。才覚を重視するものの、女性は家督からはずされていたのだ。女性が家督からハズされていたことは、武家と同じだ。江戸時代には庶民にまで、男尊女卑という儒教が浸透していたのだ。
 設問では、商家と武家の違いが求められているのだから、資料(3)(4)をもとに書けばいい。武家は御家騒動を避けるため、長男が継ぐことこそが安泰をもたらすが、商家の場合は家の存続が経営状態に左右されるため、長男による相続を理想としながらも才覚を重視したと述べればいい。長男による家督相続を理想としたのは、後継者教育の必要があったからだろうことも、資料(3)から理解できる。

【解答例】
商家でも長男による単独相続が原則であったが、武家では御家騒動を避けるために長男による相続を厳守したのに対して、商家では家の存続が経営状態に左右されるため、相続者に資質が求められ、次男以下や他家からの養子が相続することもあった。ただし女子には相続権は認められていなかった。

2004年東大前期・日本史第3問「海に開かれた蝦夷地」

次の(1)~(3)の文章は、江戸時代における蝦夷地の動向について記したものである。これらを読んで、下記の設問に答えなさい。
(1)アイヌは、豊かな大自然の中、河川流域や海岸沿いにコタン(集落)を作り、漁業や狩猟で得たものを、和人などと交易して生活を支えた。松前藩は蝦夷地を支配するにあたって、有力なアイヌを乙名などに任じ、アイヌ社会を掌握しようとした。また藩やその家臣たちは、アイヌとの交易から得る利益を主な収入とした。
(2)一八世紀に入ると、松前藩は交易を広く商人にゆだねるようになり、一八世紀後半からは、全国から有力な商人たちが漁獲物や毛皮・木材などを求めて蝦夷地に殺到した。商人の中にはアイヌを酷使しながら、自ら漁業や林業の経営に乗り出す者も現れた。また同じころ、松前・江差・箱館から日本海を回り、下関を経て上方にいたる廻船のルートが確立した。
(3)蝦夷地における漁業は、鯡・鮭・鮑・昆布などが主なものであった。鯡は食用にも用いられたが、一九世紀に入ると肥料用の〆粕などに加工された。鮭は塩引として、食用や贈答品に用いられ、また、なまこや鮑も食用に加工された。

設問
一八世紀中ごろまでには、蝦夷地は幕藩体制にとって、なくてはならない地域となっていた。それはどのような意味においてだろうか。生産や流通、および長崎貿易との関係を中心に、六行以内で説明しなさい。

【解き方】
 歴史で重要なのは、これまで注目されなかったところに注目することだ。そのことで、歴史像がガラリと変わることがよくある。アイヌ民族についてもそうだ。アイヌ民族は、東北アジア圏でひろく交易活動を行っていたことが近年の研究でわかってきた。そんなアイヌ民族が、いつどのようにして和人に支配されるようになったのだろうか。それは、アイヌ民族が和人から鉄器を入手するようになり、自給自足の生活を営まなくなってからだ。
 古代では蝦夷(えみし)といえば東日本の人びとを指していたが、鎌倉時代以降には現在の北海道に住む人びとのことを蝦夷(エゾ)と呼ぶようになった。
 蝦夷(エゾ)は日の本・唐子・渡党にわかれ、和人と言葉が通じる渡党が、和人と日の本・唐子とのあいだの仲介貿易をしていた。もともとは渡党が日の本・唐子に交易税を納めていたと考えられる。しかし戦国時代に渡党を統一した蠣崎氏が豊臣・徳川政権から独立大名と認められて松前氏と改称すると、松前藩が蝦夷地交易の独占権を握った。このときからアイヌ民族に対する松前藩の優位が決定した。
 独占貿易では競争相手がいないことから、鉄器は高価になり、しかも品質は落ちた。不満をもった日の本・唐子らアイヌ民族は反乱を起こすが、そのたびに鎮圧された。
 資料(1)にあるように、松前藩は蝦夷地を支配するにあたって、交易場所である商場ごとに有力なアイヌを乙名(おとな)に任じ、アイヌが商場を越えて広域的に結びつくことを防いだ。また家臣たちには、この商場を知行地として与えた。蝦夷地では、年貢となる米が生産できなかったため、商場での利益を俸給としたのだ。
 さらに資料(2)にあるように、一八世紀に国内経済が成熟し、西日本各地と蝦夷地を結ぶ北前船が発展すると、商品作物栽培に不可欠な〆粕、長崎貿易での中国への主要輸出品である俵物の生産地として蝦夷地が注目された。しかも商人のなかには、自ら漁業や林業の経営に乗り出し、アイヌを低賃金労働者として酷使する者も現れた。松前藩は蝦夷地交易を商人に請け負わせ、「商場」は「場所」と呼ばれるようになった。この名称の変更でも、交易から生産に重点が移行したことがわかる。こうしてアイヌは交易相手から低賃金労働者に変質した。
蝦夷地の漁業では、資料(3)にもあるように鯡(ニシン)・鮭(サケ)・鮑(アワビ)・昆布(コンブ)などが主な産物であった。鯡は食用にも用いられたが、一九世紀には肥料用の〆粕などに加工されて、国内の農業は飛躍的に生産量を高めた。鮭は塩引にして食用や贈答品に用いられた。これが今日の新巻鮭だ。また鮑は中華料理の高級食材であり、俵物として中国へ輸出された。
 江戸時代では国内経済が成熟したことで鎖国が可能になったが、幕府は長崎(対中国貿易)・対馬(対朝鮮貿易)・薩摩(対琉球貿易)・松前(対アイヌ貿易)の四口で貿易をおこなっていた。とくに蝦夷地の産物は、長崎貿易で金・銀を獲得するための輸出品である俵物としてとくに重要であった。こうして蝦夷地は、一八世紀中ごろまでには幕藩体制にとって、なくてはならない地域になっていた。いわば、アイヌが長崎貿易を支えていたのだ。

【解答例】
松前氏が幕藩体制のもと大名と認められると、アイヌと独占的に貿易をおこなった。さらに日本の国内経済が成熟し、西日本各地と蝦夷地を結ぶ北前船が発展すると、商品作物栽培に不可欠な〆粕、長崎貿易での主要輸出品俵物の生産地として、蝦夷地がなくてはならない地域になった。しかしアイヌは交易相手から低賃金労働者に変質することになった。

2006年東大前期・日本史第3問「琉球王国の繁栄」

次の文章(1)・(2)は、一八四六年にフランス海軍提督が琉球王府に通商条約締結を求めたときの往復文書の要約である。これらを読み、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1)[海軍提督の申し入れ] 北山と南山の王国を中山に併合した尚巴志と、貿易の発展に寄与した尚真との、両王の栄光の時代を思い出されたい。貴国の船はコーチシナ(現在のベトナム)や朝鮮、マラッカでもその姿が見かけられた。あのすばらしい時代はどうなったのか。
(2)[琉球王府の返事] 当国は小さく、穀物や産物も少ないのです。先の明王朝から現在まで、中国の冊封国となり、代々王位を与えられ属国としての義務を果たしています。福建に朝貢に行くときに、必需品のほかに絹などを買い求めます。朝貢品や中国で売るための輸出品は、当国に隣接している日本のトカラ島で買う以外に入手することはできません。その他に米、薪、鉄鍋、綿、茶などがトカラ島の商人によって日本から運ばれ、当国の黒砂糖、酒、それから福建からの商品と交換されています。もし、貴国と友好通商関係を結べば、トカラ島の商人たちは、日本の法律によって来ることが禁じられます。すると朝貢品を納められず、当国は存続できないのです。

                      フォルガード『幕末日仏交流記』

設問
A 一五世紀に琉球が、海外貿易に積極的に乗り出したのはなぜか。中国との関係をふまえて、二行以内で説明しなさい。
B トカラ島は実在の「吐喝喇列島」とは別の、架空の島である。こうした架空の話により、琉球王府が隠そうとした国際関係はどのようなものであったか。歴史的経緯を含めて、四行以内で説明しなさい。

【解き方】
 この資料を読むと、琉球王国が想像以上に貿易で栄えていたことがよくわかる。琉球船がヴェトナムやマラッカなど東南アジアでも見られたというのだ。しかし通商を求めるフランス海軍提督に対して、琉球王国の態度はつれない。
A 一五世紀というと中国で明が建国された時期だ。明朝は歴代中国王朝のなかで、もっとも積極的に日本との政治的関係を築こうとした王朝だ。その理由は倭寇だ。さらに一五世紀というと、日本では南北朝合一を果たした室町幕府の全盛時代だ。日明関係が安定すれば、明は日本に倭寇対策を強くもとめることができる。
 事実、南北朝合一を果たした室町幕府三代将軍足利義満は、公武寺社すべての権門に君臨する専制君主であった義満は、面子を捨て実利を優先させて、朝貢貿易である日明貿易を開始した。ところが穏健な伝統主義者である四代将軍足利義持は、面子を優先して朝貢貿易を中止した。このように日明関係は必ずしも安定していなかった。
 日明関係が安定しなければ、明は日本に倭寇対策を強くもとめることができない。そこで明は、新興国家であった琉球王国に大型海船に授けて多くの中国の品物を運ばせ、琉球で交易させた。そうすることで、中国の品物を求める倭寇を中国沿岸から遠ざけることができる。
 このことでも分かるように、倭寇は実は貿易商人だった。ただ商談がうまくいかなかったときには戦闘になるということだ。明としては、そんな彼らを中国から遠ざけ、琉球で自由に交易させようと考えたのだ。琉球王国は明が打ち出した朝貢体制を積極的に利用し、中国の品物を海外諸国に供給し、海外の商品を中国に売り込む中継貿易体制を築いた。
B 中国への朝貢品・輸出品は日本のトカラ島で購入しており、いまフランスと国交を開けば、海禁策をとっている日本の商人と交易できなくなり死活問題になるというのだ。もちろん、ここで話題になっているトカラ島は実在しない。実在しない島を持ち出すということは、何かを隠しているからだ。そう、実は琉球王国は、江戸時代にはかつての栄光は失われ、薩摩藩に従属していたのだ。すでに自分の判断で開国できる立場にはいなかった。そこで、ありもしない虚構の島の話を持ち出して、開国を断ったのだ。
 琉球は、薩摩藩に従属していることを、実は中国にも隠していた。隠した上で、中国皇帝から琉球中山王に任命されていた。隠さずに正直に申告したら、独立国として琉球中山王に任命されることはなかったかもしれない。琉球王国は王国としての体面を維持するために、幕府・薩摩の策略に共謀したのだ。だからフランスに対しても正直なことを言わなかった。ここに当時の琉球王国の悲しさがある。

【解答例】
A 倭寇に苦しむ明は海禁策で中国商人の海外渡航を禁じ、琉球に日本貿易・東南アジア貿易の中継地になることを期待したため。
B 江戸時代の琉球は薩摩藩の実効支配を受け、幕府には慶賀使と謝恩使を派遣したが、独立国の体裁を残して中国への朝貢を継続し、島津氏の管理のもと中国と交易した。そのため、架空の話をつくり薩摩藩の支配下にあることを隠し続けた。

1984年東大前期第3問「江戸経済の成熟と近代化」

以下の二つの設問A、Bに答えよ。
A.下記の文は、近世の絹織物業の代表的な生産地である、西陣と桐生の歴史を記したものである。この文の下線部(1)、(2)の史実は何故おこったのか、その原因について、それぞれ二行以内で記せ。
 京都には、古くから伝統的技術にもとづいた絹織物業があったが、一六世紀末、中国から導入された織物の技術によって、西陣の地に新たな機業がおこった。これ以後、西陣は一七世紀を通じて、絹織物の生産地としての独占的地位を保持しつづけた。幕府が糸割符制度を定めたのも、西陣の存在と無関係ではなかったようである。
 一八世紀を迎えると、国内各地に諸産業がおこり、三都をはじめとする都市も発達した。(1)この時期に、西陣の生産額は飛躍的に高まり、また、西陣からの技術を受け入れて台頭した桐生も、西陣と対抗するまでに急速な発展をとげた。一九世紀前半には、桐生には、問屋制家内工業やマニュファクチュアが生まれた。
 しかし、(2)一八六〇年頃から、西陣も桐生も生産額が急激に減少し、一時は存立の危機にさらされたが、一八七〇年代に再興した。

B.長野県諏訪地方では製糸業の発達が日覚ましく、明治後期になると、県外からも多数の工女が集められるようになった。これら工女たちによってうたわれた「工女節」に、「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」という一節がある。どうして「糸をひく」ことが「国のため」と考えられたのであろうか。明治後期における日本の諸産業のあり方を念頭において、五行以内で説明せよ。

【解き方】
わたしたちは鎖国というと「孤立」というイメージに引きずられるのか、否定的に評価しやすいが、それは間違っている。実は鎖国は、成熟した国の証だ。鎖国が可能になったのは国内経済が成熟していたからであり、それをささえたのが農村工業だった。さらに、明治時代の殖産興業をささえたのも農村工業だった。このことを問うているのが、この問題だ。鎖国を否定的に見る常識を見事に打ち砕いてくれる。

一七世紀の日本は銀を輸出して、生糸や絹織物を輸入していた。この日中間の生糸交易は当時の東アジア最大の貿易量を誇っていた。ところで、もし日本が生糸や絹織物を国内生産できるようになったらどうだろう。銀を流出させてまで中国産の生糸や絹織物を買わないだろう。しかもポルトガル人が仲介貿易でぼろ儲けしていたらどうだろう。ポルトガル人を儲けさせてまで、中国と貿易をしようとは思わないだろう。そこでまず、ポルトガル人に儲けさせないように、江戸幕府は糸割符制を実施した。
のちに西陣の生産額は飛躍的に高まり、さらに西陣から技術を導入して桐生も台頭した。新井白石が長崎新令で長崎貿易も制限したのには、このような背景があった。
しかし高級食材フカヒレ・アワビなど俵物や日高昆布などの諸色が中国で人気が出ると、田沼意次は金・銀獲得のために長崎貿易を拡大させた。このように日本の鎖国政策は日本が輸出国になれば、実はいつでも方針を転換できたのだ。

 一九世紀前半には、桐生には問屋制家内工業やマニュファクチュアが生まれた。これで桐生は絹織物産業に重点が移ることになった。ところが横浜開港にともない、生糸が生産地から開港場へ直送されて大量に輸出されたため、国内では生糸不足に陥った。
そのため一八六〇年頃から、西陣も桐生も生産額が急激に減少し、一時は存立の危機にさらされたが、明治政府が殖産興業政策の一環で富岡製糸場を設立したことで一八七〇年代には再興することができた。
また、長野県諏訪地方では製糸業の発達が目覚しく、明治後期には県外からも多数の工女が集められるようになった。そしてこれら工女たちによって日本経済の近代化がすすめられたのである。「工女節」で、「男軍人 女は工女 糸をひくのも国のため」という一節があるが、彼女たちはまさに「糸をひく」ことで、日本の経済を支えていたのである。

【解答例】
A(1)国内経済の成熟で農村部にも貨幣経済が浸透して絹織物の需要が高まり、北関東・東北南部にまで養蚕業が広まったため。
A(2)横浜開港にともない、生糸が生産地から開港場へ直接輸送されて大量に輸出されて、国内で生糸不足に陥ったため。
B 不平等条約で関税自主権のなかった明治期の日本とって、重工業製品では国際競争力がない。そこで安価な労働力で競争できる製糸が重要な産業となった。そこで江戸時代以来製糸業が盛んだった群馬県に官営模範工場の富岡製糸場を設立し、多くの女子労働者を集めて、蒸気力を利用した機械による製糸の生産に当たった。

2003年東大前期・日本史第3問「江戸幕府の歴史認識と華夷変態」

次の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
 一七世紀後半になると、歴史書の編纂がさかんになった。幕府に仕えた儒学者の林羅山・林鵞峰父子は、神代から一七世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させ、水戸藩では徳川光圀の命により『大日本史』の編纂がはじまった。また、儒学者の山鹿素行は、戦国時代から徳川家康までの武家の歴史を記述した『武家事紀』を著した。
 山鹿素行はその一方、一六六九年の序文がある『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されその支配をうけることがなかったことや、王朝の交替がなかったことなどを根拠に、日本こそが「中華」であると主張した。
設問
A 一七世紀後半になると、なぜ歴史書の編纂がさかんになったのだろうか。当時の幕藩体制の動向に関連させて、三行以内で述べなさい。
B 下線部のような主張がうまれてくる背景は何か。幕府が作り上げた対外関係の動向を中心に、この時期の東アジア情勢にもふれながら、三行以内で述べなさい。

【解き方】
「日本こそ中華である」――この主張はとんでもない主張に思える。しかし当時の国際情勢をみると、この主張にも一理ある。問題を解きながら、自分の常識が壊れていく。この面白さに気づくと、東大入試の問題を解くことが、苦にならないどころか、楽しみにさえなる。
 もうひとつ、江戸幕府の歴史編纂事業というと、すぐに勝利者史観と決め付けてしまうだろう。しかし、これもそう単純ではない。林羅山・林鵞峰父子も、徳川光圀も、山鹿素行も実証歴史学に徹していたからだ。実証歴史学であるのに、結果として勝利者史観になった。そこには、きちんとした理由があった。
 歴史を書くということは、実は現在のルーツにふさわしい過去を歴史のなかに再発見するということだ。ここで挙げられている歴史書の編纂事業もそうだ。幕府に仕えた儒学者の林羅山・鵞峰父子は、神代から一七世紀初めまでの編年史である『本朝通鑑』を完成させた。また御三家のひとつ水戸藩では徳川光圀の命により『大日本史』の編纂がはじまった。
 これら林羅山・鵞峰父子や徳川光圀の歴史編纂事業は、実証的であろうと努力した。水戸藩の『大日本史』も全国から資料を集め実証的に研究されているが、それでもやはりひとつの歴史観から出発している。それが〈易姓革命〉という思想だ。人の上に立つ者は徳をもって統治しなければならない。もし統治者が人心を失えば、人心を得た者が新たな統治者となる。そのため、家光後の文治政治の時代には、官僚である武士には〈徳治〉がもとめられた。また私利私欲に縛られず公共性を重視することがもとめられた。それが〈大義名分〉だ。しかし易姓革命という視点で歴史を見ると、必ず前政権は悪政だったから倒れたと記述することになる。記述者本人が気づかないまま勝利者史観になってしまうのだ。実際に『大日本史』は実証的であるが、勤王思想と大義名分論で貫かれている。
 理解するということは自分に引き寄せるということだ。わたしたちが客観的だと思っているものは、実は見方を共有している人々が、同じものを同じように見ているということだ。同じグループに属していれば、やはり同じ枠組みで歴史を捉えることになる。
 それに対して、山鹿素行は幕府側の人物ではない。もともと林家で学んでいたが、朱子学に疑問を持ち、儒学の聖祖孔子の教えに戻ることを宣言した。そのため赤穂に配流になった人物だ。そのかれも武士の立場から見た歴史書『武家事紀』で武家政治の由来をまとめ、徳治の大切さを唱えている。
 さらに山鹿素行は赤穂配流中に『中朝事実』を書き、国と国の優劣を比較して、それまで日本は異民族に征服されたことがなかったことや、王朝の交替がなかったことなどを根拠に、日本こそが「中華」であると主張した。実は中国では、一六四四年に明朝から清朝に交替していた。しかも漢民族から女真族(満州民族)という異民族への王朝交替であったことから、林父子はこの王朝交替を「華夷変異」と呼んだ。異民族の支配を受けたことがないことから日本こそ中華だと主張することは、とんでもないことのように思えるが、かれの歴史観の中ではむしろ合理的だった。
 しかし、それにしても幕府が自らを正当付けるために主唱していた勤王思想が、幕末に討幕派に大義名分を与えたことは歴史の皮肉といえよう。京都守護職をつとめた会津藩が悔しい思いをしたのも、この一点だ。なぜ自分たちが朝敵とされたのか理解できないままに敗北していったのである。

【解答例】
A 徳川幕府は朱子学の易姓革命にもとづき自らの正統性を実証的に明らかにするため歴史編纂事業に着手したが、一方で山鹿素行は武士に大義名分や徳治の大切さを自覚させるため叙述した。
B 実力で国内統一した徳川将軍は「国王」とは名乗らず、中国の華夷秩序から距離をおいた。さらに明から清への王朝交替があったことで、異民族支配がなかった日本こそ中華という意識が生まれた。

7月東京勉強会

7月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。
【日時】
7月22日(土)江戸東京博物館・第二学習室
 13時~15時 哲学講座『弱者の進化論』
 15時~17時 歴史講座『織田信長と六角義堯』

【会場】
 7月22日(日) : 江戸東京博物館・第二学習室
 江戸東京博物館
 JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
 都営大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/raikan/kotsu.html
【会費】
 3,000円

今後の予定
8月勉強会
 8月 6日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 8月22日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室

7月京都勉強会

7月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2006年7月9日(日)
 哲学講座:13時~15時
 歴史講座:15時~17時
【演題】
 哲学講座 『弱者の進化論』
 歴史講座 『織田信長と六角義堯』   
【会費】
 3、000円
【会場】
 キャンパスプラザ京都  第4演習室
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

2002年東大前期・日本史第二問「武士と農民は同一階層」

次のア~エの文章を読んで、下記のA~Dに答えなさい。
ア 室町時代、国人たちは在地に居館を設け、地侍たちと主従関係を結んでいた。従者となった地侍たちは惣村の指導者層でもあったが、平時から武装しており、主君である国人が戦争に参加するときには、これに従って出陣した。
イ 戦国大名は、自分に従う国人たちの所領の検地を行い、そこに住む人々を、年貢を負担する者と、軍役を負担する者とに区別していった。そして国人や軍役を負担する人々を城下町に集住させようとした。
ウ 近世大名は、家臣たちを城下町に強制的に集住させ、領国内外から商人・手工業者を呼び集めたので、城下町は、領国の政治・経済の中心地として発展していった。
エ 近世の村は、農民の生産と生活のための共同体であると同時に、支配の末端組織としての性格も与えられた。

設問
A 室町時代の地侍たちは、幕府・大名・荘園領主たちと対立することもあった。具体的にどのような行動であったか。三行以内で述べなさい。
B 戦国大名は、何を目的として城下町に家臣たちを集住させようとしたのか、四行以内で述べなさい。
C 近世大名は、城下町に呼び集めた商人・手工業者をどのように扱ったか。居住のしかたと与えた特権について、三行以内で述べなさい。
D 近世の村がもつ二つの側面とその相互の関係について、四行以内で説明しなさい。

【解き方】
歴史講演会で話をしていると、出席者から「わたしの家はただの農民です」という言葉をよく聞く。武士と農民は別の階層という常識を持ってしまっている。しかし武士も農民ももともとは同一階層だった。この問題は、そんな常識を破ってくれる。資料アでも、地侍たちが惣村の指導者層でもあったことが述べられている。かれらは平時から武装しており、主君が戦争に参加するときには従軍した。平時には年貢を納め、戦時には従軍するというように、地侍は在地領主と御恩と奉公の関係にあった。しかし地侍は自分たちの利益を守るために、荘園領主と争うときには地頭と組み、地頭と争うときには荘園領主と組み、あるいは幕府に対して徳政をもとめて土一揆を主導した。
戦国大名は、年貢の確保と常備軍の設置が急務だった。そこで自分に従う在地領主たちの所領の検地を行い、年貢を負担する者と軍役を負担する者とに区別した。こうして武士を農業経営から解放して常備軍を編成するとともに、俸給制の官僚にすることで武士と土地を切り離して、領国の一円支配をすすめた。
 さらに常備軍の生活を維持させるために、楽市を実施して国内外から商人・手工業者を城下町に呼び集めた。近世大名は領国経済の一元化を目指して楽市を実施して商工業者を城下町に集住させ、さらに生活物資と軍事物資の安定供給を確保するために職種ごとに居住させて保護した。こうして城下町は、領国の政治・経済の中心地として発展した。
 近世初頭の名主は兵農分離で旧領に残った地侍たちであり、新田開発を指導するなど共同体の形成に尽力した。幕府も村の自治を保障し、年貢の村請制を採用して支配の末端組織として位置づけた。近世の村は、農民の生産と生活のための共同体であると同時に、支配の末端組織としての性格も与えられた。農業生産物の確保と治安維持を農村に期待したのである。
 兵農分離は地侍をムラから切り離して城下町に集住させて純然たる消費生活者するとともに、ムラに残ったものが近世農民になった。このように没落した名家の扶持を離れて帰農・帰商したものがあった反面、新興大名との縁故で新たに武士になったものも多く出現した。幕藩体制の確立にともなう社会的な変動は大きかったが、それは農民階層を基盤にする新しい身分の分立といえる。したがって江戸時代は後期のみならず、前期においても身分間での移動・通婚がかなり容易に行われた。

【解答例】
A 地侍は兵農分離以前の惣村の指導者で、自らの利益を守るため、荘園領主と争うときには地頭と組み、地頭と争うときには荘園領主と組み、あるいは幕府に対して徳政をもとめて土一揆を主導した。
B 戦国大名が家臣の城下町への集住をもとめた理由は、武士を農業経営から解放して、俸給制の官僚や常備軍にすることで権力機構を強化すると同時に、武士と土地を切り離することで大名による領国の一円支配をすすめるためである。
C 近世大名は領国経済の一元化を目指して楽市を実施して商工業者を城下町に集住させ、さらに生活物資と軍事物資の安定供給を確保するために職種ごとに居住させて保護した。
D 近世初頭の名主は兵農分離で旧領に残った地侍たちであり、新田開発を指導するなど共同体の形成に尽力した。幕府や藩はかれらの耕作権と自治権を認めたが、年貢を村請制にすることで村を支配の末端組織として位置づけた。

1983年東大前期・日本史第二問「鎌倉新仏教の誕生」

 歴史学を一生の仕事とする決意を固めるのと、ほとんど同じころ、私は高等学校の教壇に立った。私にとって、これが初めての教師経験であり、生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立往生することもしばしばであったが、その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。
「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜ、だれもそれができなかったのか」。これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期の内乱、南北朝の動乱、戦国・織豊期の動乱の授業をしているときに現われた。伝統の利用、権力者の弱さ等々、あれこれの説明はこの質問者を一応、だまらせることはできたが、どうにも納得し難いもの、私自身の心の中に深く根を下していったのである。
 もう一つの質問に対しては、私は一言の説明もなしえず、完全に頭を下げざるをえなかった。
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。他の時代ではなく、どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか、説明せよ」。
 この二つの質問には、いまも私は完全な解答を出すことができない。
                (網野善彦著『無縁・公界・楽』の序文より)

 上記の文章中の二つの疑問は、高等学校で日本史を学んだ誰もがいだく疑問であろうし、日本の歴史学がいまだ完全な解答をみいだしていないものであると思われる。
 この二つの質問のうち、下線部分の質問にたいして、歴史の流れを総合的に考え、自由な立場から各自の見解を八行以上一三行以内でのべよ。

【解き方】
わたしたちが歴史だと思っているのは、大きく変化するところである。しかし大きく変わる変革の期間は短く、安定した期間は長い。鎌倉新仏教は変革に関係があり、天皇制は安定性に関係がありそうだ。
安定期には常識どおりに行動していれば間違いがない。しかし変革期には常識どおりに行動していたら必ず失敗する。情勢が変わり続けるからだ。常識が通用しない時代であれば、危機感が生まれ、危機感が共有される。変革期に新しい思想が認められやすいのは、危機感が共有されているからだ。鎌倉新仏教が生まれた時代は、まさに新しい「武者の世」の始まりとなる鎌倉時代だ。危機感の共有があった時代だ。
科学史でも同時発見者が現われることがよくある。同じタイミングで同じ発見があるのは、危機感の共有があるからだ。新発見は必ず常識を否定するところから始まる。すでに常識をぐらついているところから始まっている。だから新しい発見があるには、常識がぐらついていないといけない。しかも常識がぐらついている時期であれば、危機感は共有されている。複数の発見者が同時に現われるのは当然だ。鎌倉時代もそういう時代だった。
そういえば鎌倉時代というと、絵画でも彫刻でも写実的な作品が制作されている。運慶・快慶の東大寺南大門の金剛力士像もそうだ。写実的な作品が制作されるのは、それまでの形式を否定する新時代の始まりの時期だ。西欧のルネサンスを思い浮かべてもらえばいい。やはり鎌倉時代はそれまでの常識を否定する時期だった。
ところで鎌倉仏教を始めた人たちの多くは比叡山で修行をしていた。ここにも注目するといい。その比叡山が大きな力を持ったのが、実は平安時代後期だ。鎌倉時代にいっきに新仏教が登場したことと関係がありそうだ。
一般に、平安後期は旧仏教が退廃・堕落して、僧侶が本来の学問を忘れて強訴を繰り返した時期だと考えられている。だけど院政期の研究がすすんだ結果、実際には後三条・白河ら歴代天皇による造寺・造仏、新しい法会の創出、荘園寄進による仏法興隆政策によって、比叡山を中心に学問水準が著しく高まったことがわかっている。そこから鎌倉新仏教が生まれた。
ここで、もうひとつ重要なことがある。それは改革にあたっては、まったく新しいものが誕生するというよりも、それまで注目されていなかったものが注目されるようになるということが多い。浄土教も法華経も禅宗もそうだ。比叡山は、顕教・密教・浄土教・禅宗の総合大学だった。
法然・親鸞や日蓮のような簡単・専念という特色をもった新仏教は、文字を読むことのできない武士や民衆には受け入れられやすい。また栄西や道元ら仏教の基本に戻ろうとする禅宗は、質実剛健を尊重する武士たちの支持を得た。他方で、この世で救われることを目指した真言律宗からは、叡尊や忍性のように社会福祉の充実を目指した人々が出た。忍性は慈悲にすぎるといわれたほどだ。新旧仏教にかぎらず、かれらに共通する特色は、仏教理論のなかで最もすぐれた部分と信じられる教義や作法への純化を追求しようとする活動だ。
新発見は、必ず常識をぐらつくところから始まる。院政・鎌倉幕府成立という中世の始まりという時代の大きな転換期であったために、あたらしい主張も認められやすい環境にあったといえる。危機感の共有が鎌倉新仏教を生んだのである。

【解答例】
平安末期はけっして仏教が堕落した時代ではなかった。後三条・白
河ら歴代天皇による造寺・造仏、新しい法会の創出、荘園寄進によ
る仏法興隆政策によって、比叡山を中心に学問水準が著しく高まっ
た。そのような顕教・密教・浄土教・禅宗の総合大学比叡山から鎌
倉新仏教が生まれた。新仏教は準備されていたのだ。しかも法然・
親鸞や日蓮のような易行という特色をもった新仏教は、文字を読む
ことのできない武士や民衆の期待にかなった。また栄西が鎌倉幕府
の保護を受け、道元が越前の地頭に招かれたように、仏教の基本に
戻ろうとする禅宗は質実剛健を尊重する武士たちの支持を得た。他
方で真言律宗からも叡尊や忍性のように非人救済など社会事業を通
して民衆のなかに入り、旧仏教の改革運動を進める者が輩出した。
新しい意見は、危機感がなければ受け入れられない。鎌倉時代はま
さに危機感と期待の満ちた時代だったといえる。

2005年東大前期・日本史第二問「北条泰時消息文」

次の文章は、鎌倉幕府執権北条泰時が、弟の六波羅探題重時に宛てて書き送った書状の一節(現代語訳)である。これを読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。

この式目を作るにあたっては、何を本説(1)として注し載せたのかと、人々がさだめて非難を加えることもありましょう。まことに、これといった本文(2)に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すところを記したものです。(中略)あらかじめ御成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように、子細を記録しておいたものです。この状は、法令(3)の教えと異なるところも少々ありますが、(中略)もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです。これによって、京都の御沙汰や律令の掟は、少しも改まるべきものではありません。およそ、法令の教えは尊いものですが、武家の人々や民間の人々には、それをうかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません。(中略)京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください。
(注)(1)本説、(2)本文:典拠とすべき典籍ないし文章
  (3)法令:律令ないし公家法

設問
A 「この式目」を制定した意図について、この書状から読みとれることを、二行以内で述べなさい。
B 泰時はなぜこうした書状を書き送ったのか。当時の朝廷と幕府との関係をふまえて、四行以内で説明しなさい。

【解き方】
これは資料問題だ。しかし受験生の全員が歴史研究者になるわけではないから、現代語訳された資料で問うている。いい問題だ。この問題で問うているのは、資料を正確に読む力だ。歴史の問題で、このようにあらゆる分野に通じる資料読解力を問うところがいい。
まず書状のなかに「この式目」とあることから、御成敗式目に関するものだとわかる。泰時が弟である六波羅探題北条重時にあてた書状だから、六波羅探題に式目制定の事情を説明しておく必要があったのだろう。
A 泰時消息文の内容を見ると、第一に「あらかじめ御成敗のありかたを定めて、人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように」とあるように、平等で公平な裁判制度を目指していたことが分かる。第二に「これといった本文に依拠したということもありませんが、ただ道理の指し示すところを記したものです」とあるように、手本にしたものはなく、ただ道理に基づいたものであると記されている。もちろん泰時は右大将家(頼朝)の例も参考にしている。しかし先例をそのまま使用したのではなく、相矛盾するものは泰時の判断で適切なものが選ばれた。泰時は道理にもとづいて主体的に制定したのである。そのため泰時は、ただただ道理にもとづいたものであると主張している。
この消息から、泰時が武家独自の法制度をつくろうとしていたことがわかる。しかも、その武家法は道理にもとづいたものであり、理不尽なものではない。手本としたものもなく、ただ道理にもとづいたものと強調する理由は、公平な法令であることの強調だ。泰時が目指していたものが、武士が理想とする道理にもとづいた公平な社会の実現だったことが、この消息文でわかる。
B 泰時が御成敗式目を制定したのは、承久の乱の直後だった。当然、幕府が法律を制定するとなると朝廷はとうぜん警戒する。泰時はその警戒心を解こうとしていた。そのことは泰時消息文でわかる。「京都の御沙汰や律令の掟は、少しも改まるべきものではありません」と書き送っているからだ。
泰時は「もっぱら武家の人々へのはからいのためばかりのものです」と、武家社会のみで適用されることを強調している。このことで朝廷を尊重していることがわかる。では朝廷を尊重しているのに、どうして律令の系譜をひく公家法と異なる武家法をつくる必要があったのだろうか。その理由はすぐわかる。「法令の教えは尊いものですが、武家の人々や民間の人々には、それをうかがい知っている者など、百人千人のうちに一人二人もおりません」と言うのである。御家人や民間の人々のほとんどは律令や公家法を知らない。だからこそ、かれらを対象とした法を制定する必要があるというのだ。そして「京都の人々が非難を加えることがありましたなら、こうした趣旨を心得た上で、応答してください」と弟重時に述べているように、朝廷との交渉に際しての説明・応答の便宜を図ろうとしている。京都側の警戒をとくことに懸命だ。
これらのことを理解してもらいたいからこそ、泰時は朝廷との交渉役である六波羅探題に宛てて書状を書いた。しかも弟重時はこの内容を理解できる人物であった。この後、公武二元政権は軌道に乗る。

【解答例】
A 公家法を理解できない御家人のために、道理にもとづいた公平な法律をつくり、朝廷から自立した武家社会の確立を目指した。
B 承久の乱で勝利したことで幕府は、皇位継承に干渉して朝廷より優位に立ち、西国にも勢力をのばした。しかし北条泰時は公武二元論に立ち、御成敗式目が武家社会に限定されることを強調して、朝廷側の警戒をといた。

1996年東大前期・日本史第2問「守護・守護大名・戦国大名」

次の(1)~(6)の文を読んで下記の設問に答えよ。
(1)一三四六年、室町幕府は山賊や海賊、所領争いにおける実力行使などの暴力行為を守護に取り締らせる一方、守護請や兵粮米と号して、守護が荘園や公領を侵略することを禁じた。
(2)一四〇〇年、信濃の国人たちは、入国した守護に対して激しく低抗してついに合戦となり、翌年、幕府は京都に逃げ帰っていた守護をやめさせた。
(3)一四一四年、九州の一地方の武士たちが作成した契約状によれば、喧嘩を起した場合、双方が処罰されることとなっている。
(4)一五二六年に制定された「今川仮名目録」では、喧嘩の両当事者は、その主張が正当であるかどうかにかかわりなく、死罪と規定されている。
(5)一五六三年、武田氏が作成した検地帳によれば、検地をして新たに把握された増加分は、その地の家臣に与えられている。
(6)発掘調査の結果、朝倉氏の城下町一乗谷は計画的につくられており、館を中心に、武士の屋敷や庶民の家、寺などが周囲をとりまいていることがわかった。

設問
A(1)の文を参考にして、室町時代の守護は、鎌倉時代の守護とどのような点が異なっているのか、二行以内で説明せよ。
B(2)~(6)の文を参考にして、室町時代の守護が直面した地方の武士のあり方と、それに対応して戦国大名が支配権を確立するためにうちだした施策について、五行以内で説明せよ。

【解き方】
当たり前だと思っていることを説明するのは結構むずかしい。鎌倉時代と室町時代の守護の違いも、そのひとつだ。論述試験はそういうところをわざと質問してくる。いじわるだ。しかし東大はきちんと資料を提示してくれるので、それをもとに考えれば、解けるはずだ。それは東大がもとめる力が、細かい知識の暗記ではなく、資料を正確に読解できる学生が欲しいからだ。
A 鎌倉時代の守護と室町時代の守護の違いを説明するのは意外と難しい。しかし資料を正確に読めば、こまかい知識がなくても解ける。資料(1)によれば、室町幕府は、武士の所領争いでの実力行使などを取り締まる権限を守護に与えた。このことで、守護は管轄内の武士の争いを調停することで、かれらを家臣化した。さらに室町幕府は、管轄内の年貢徴収を請け負うようになっていた守護に、年貢の半分を兵粮米として徴収していい権限を守護に与えた。これで守護は利益の上がる職になった。しかも、守護はこのような守護請や半済を足がかりに荘園や公領を侵略した。このように資料(1)を読めば、室町時代の守護の権限が増えていることに気づく。これをまとめればいい。
B しかし地頭の中には守護に反抗する者もいた。このように守護に反抗的な地頭を、地元の人という意味で国人といった。資料(2)によれば、信濃の国人たちが守護に激しく抵抗し、京都に逃げ帰っていた守護を幕府はやめさせた。資料(3)によれば、かれら国人は契約状を作成し、喧嘩両成敗を定めていた。これは国人一揆の団結を固めるためだった。しかし資料(4)によれば、戦国大名は分国法で喧嘩両成敗を定め、家臣どうしの私闘を禁じて、みずからが裁定者であることを宣言して支配を強化した。国人たちが団結を強めるために規定した喧嘩両成敗を、戦国大名は支配強化に利用したのだ。また資料(5)によれば戦国大名は、検地をして新たに把握された増加分をその地の家臣に与えた。こうして主従関係を強化した。さらに資料(6)によれば計画的につくられた城下町に、武士と商人を集住させて、武士を土地から切り離して消費者にして、官僚化することを目指した。資料を丹念に読むだけで、これだけのことがわかる。日本史を暗記科目ではなく、見事に考える科目にしている。すばらしい。

【解答例】
A 室町時代には権限が増え、検断権を利用して武士の争いに介入して被官化し、半済・守護請をもとに荘園を侵略して任国を領国化した。
B 任国の一円支配をまざす守護に対抗して、在地領主国人は一揆を結んで、相互の紛争を解決した。それに対して戦国大名は、分国法で喧嘩両成敗の規定を設けて被官同士の争いを禁じ、紛争の調停者として君臨した。さらに被官を城下町に集住させ、被官の在地支配権を否定するとともに、常備軍を編成して分国支配を確立した。

2006年東大前期・日本史第2問「海国日本と平氏」

院政期における武士の進出について述べた次の(1)~(5)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1)院政期には、荘園と公領が確定される動きが進み、大寺社は多くの荘園の所有を認められることになった。
(2)白河上皇は、「私の思い通りにならないものは、賀茂川の水と双六のさいころと比叡山の僧兵だけだ」と言ったと伝えられる。
(3)慈円は、『愚管抄』のなかで、「一一五六(保元元)年に鳥羽上皇が亡くなった後、日本国における乱逆ということがおこり、武者の世となった」と述べた。
(4)平氏は、安芸の厳島神社を信仰し、何度も参詣した。また、一門の繁栄を祈願して、『平家納経』と呼ばれる豪華な装飾経を奉納した。
(5)平清盛は、摂津の大輪田泊を修築し、外国船も入港できる港として整備した。

設問
A 中央政界で武士の力が必要とされた理由を、二行以内で述べなさい。
B 平氏が権力を掌握する過程と、その経済的基盤について、四行以内で述べなさい。

【解き方】
この問題を見ると、東大の問題は学者が作成しているとわかる。最近では清盛以前の平氏の研究がすすみ、平氏が再評価されているからだ。武士の歴史というと、東国武士と源氏の関係が注目され、戦国時代でも武田・上杉・後北条など東国の戦国大名が注目された。だから東国武士が武士の典型だという常識ができて、西国武士が正しく評価されなかった。だけど清盛以前の伊勢平氏が注目すると、東国武士とは異なる武士像が浮かび上がってくる。東国武士を基準に平氏を見るのではなく、西国武士の基準で平氏を見ると、明るく開けた海国日本が見えてくる。
 さらに清盛以前の伊勢平氏の歴史を見ると、院政期の政治史が単なる歴史用語の行列ではなく、生き生きとした歴史として復元できる。
 院政期には、(1)後三条天皇や白河天皇が比叡山延暦寺を天皇家の寺院として保護したため、大寺社は多くの荘園を所有した。そのため大寺院は大きな力をもち、天皇家・摂関家とならぶ権門のひとつになった。(2)多くの所領を持つようになった大寺院は武装化し、中央では強訴し、地方では地元の開発領主と争った。そこで開発領主は上皇に保護を求めて自分の所領を寄進して、上皇を背後に訴訟に勝ち、また北面の武士として天皇家の私的な軍事力にもなった。僧兵が強訴すると、かれら北面の武士が京都を守ったのである。この北面の武士の中から大きく飛躍したのが平氏だ。(3)保元の乱はまさに治天の君をめぐる天皇家の内紛だが、軍事力で一気に勝負が決まったことで、軍事力を有した者が政界を制するようになり、慈円が『愚管抄』で述べたように「武者の世」となった。これは武士の台頭の歴史であるとともに、平氏の歴史でもある。
 また平氏は海賊追討で西日本の武士の棟梁になったが、(4)安芸(現在の広島県)の厳島神社を信仰してなんども参拝したことは、平氏が瀬戸内海の制海権を握っていたことを示している。さらに(5)大輪田泊(現在の神戸港)を修築して、大型の外国船も入港できるようにしたことで、それまで博多中心であった日宋貿易を、京都にも近い福原(現在の神戸)でおこない、巨万の富を蓄積した。その象徴が(4)厳島神社に奉納された平氏納経だ。平氏の事業はまさに海国日本に相応しく、スケールの大きさを感じる。

【解答例】
A 院政期には寺社が天皇家・摂関家とならぶ権門となり、それぞれの権門が自らの権益を守るために軍事力を必要としたため。
B 伊勢平氏は自領を守るため、院に自領を寄進した。さらに院の軍事力として活躍し、院の近臣になり、西国の国司を歴任して富を蓄積する一方、北九州の天皇家領の管理を足がかりに日宋貿易を始め、大輪田泊を修築して福原を貿易の拠点とし、経済的基盤を固めた。

6月東京勉強会

6月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。予約の必要はありませんので、ふるってご参加下さい。
【日時】
6月 3日(土)江戸東京博物館・第二学習室
 13時~15時 哲学講座『科学思想史を学ぶ意義』
 15時~17時 歴史講座『戦国期の佐々木氏』
6月10日(土)東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C
 18時~19時 出席者との哲学談義
 19時~21時 歴史講座『織豊期の佐々木氏』

 【会場】
 6月 3日(日) : 江戸東京博物館・第二学習室
 6月10日(日) : 東京ウィメンズプラザ・視聴覚室C
江戸東京博物館
 JR総武線 両国駅西口下車 徒歩3分
 都営大江戸線 両国駅(江戸東京博物館前) A4出口 徒歩1分
 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/raikan/kotsu.html
東京ウィメンズプラザ
 青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html
【会費】
 3,000円

今後の予定
7月勉強会
 7月22日(土)午後:江戸東京博物館・第二学習室
8月勉強会
 8月 6日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室
 8月22日(日)午後:江戸東京博物館・第二学習室