中央線から見えた光る東京タワー(改定)

 平日の午後15時55分に立川から上り中央線特別快速に乗り、進行方向右側のドアにもたれかかり、車窓の外を見ている。携帯電話を電車の中で使うのは好きじゃない。携帯電話では、いつものひとたち、いつもの情報源と会うばかりで、電話帳やお気に入りの範囲に留まることになる。そこには非日常性はない。それに隣に電磁波障害の人がいたら大きな迷惑をかける。
 吉祥寺を通過した薄暗い11月の16時すぎ、東南東の方向に赤く光る東京タワーを見つけた。途中遮るものは何もない。荻窪駅を通過すると再び高架になるけど、近くに行くほど視界が遮られるようになり、東京タワーは見えなくなった。
 中央線には、小学校6年生のときに毎週日曜日に四ツ谷の上智大学を間借りした中学受験進学塾に通って以来、数十年も乗っているけど、初冬の薄暗い夕方の空に、遠く光る東京タワーを見つけたのは感動だった。高校生のときに予備校に通うため、同じような時間に御茶ノ水まで中央線に乗っていたはずけど、東京タワーを見た記憶はない。ライトアップされていなかったからだろう。いつも真南に見える井の頭線沿線下高井戸のゴミ処理場のバカデカイ煙突にばかり目を奪われていた。
 明るい昼間は東京タワーはかすんで見えるだけ。なら夜ならライトアップされている東京タワーはよく見えるのかというと、そうでもない。車窓の外が暗い分、車窓に車内の様子が鏡のように車窓に映り込み、かえって東京タワーが見えなくなる。だから、ライトアップされた東京タワーを見るには、夕方の4時過ぎが一番いいのだろう。だから気づくことができたのだ。見つけたのは今月11月24日水曜日のこと。
 今日は違う時間帯に乗ったので、見つけることはできなかった。いつもの電車も違う時間に乗ると、車窓の外に新発見があるものだ。やはり自分の範囲にだけ閉じこもるのはもったいない。
 あした土曜日はめずらしく午前中から仕事がある。午前中のいつものカフェでのお茶が飲めないのが残念だ。でも、明日もいつもとちがう時間帯の中央線に乗る。

朽木氏の系譜―高島七頭(2)

 朽木氏は、高島高信の次男出羽守頼綱に始まる佐々木出羽家のうち、頼綱の次男出羽守義綱が承久勲功の朽木庄を相続したことに始まる。頼綱は霜月騒動で活躍し、安達泰盛(城陸奥守)追討賞で出羽守を受領した。安達氏の名乗り「城」は出羽介兼秋田城主を意味する出羽城介を世襲したことに由来するため、出羽守補任には特別な意味があるようにも思える。『尊卑分脈』によると、頼綱(入道道頼)には出羽三郎頼信・五郎義綱・四郎氏綱・五郎有信があった。このうち五郎義綱が勲功の所領近江国朽木庄(承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也)と常陸真壁郡本木郷(弘安勲功、頼綱拝領所也)を譲渡されて(朽木147佐々木左衛門尉頼綱譲状案)、朽木氏を立てた。三郎頼信は横山庄、四郎氏綱が田中庄と相伝の所領を相続しており、朽木氏は佐々木出羽家の惣領ではなかったようである。朽木氏が大きく飛躍するのは、朽木庄を相続した五郎義綱が、陸奥国栗原庄一迫板崎郷を母覚意から譲与され、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されるとともに越中国岡成名を得たことによるだろう。

出羽守頼綱の系譜
 建治三年(1277)正月日付関東下知状(内閣文庫朽木家文書〔以下では朽木]422)によれば、駿河彦四郎有政と姉平氏(弥鶴)が亡父時賢(系図では有基)遺領武蔵国比企郡南方石坂郷内田・在家を争い、前年十二月二十六日有政避状並びに建長六年(1254)八月二十四日・文永八年(1271)九月十日譲状の通り、弥鶴が領有することになった。駿河有政は北条義時子息駿河守有時に始まり、陸奥伊具郡を領した伊具流北条氏であるが、初代有時が駿河守であったことから駿河を通称とした。一族に六波羅評定衆になった駿河次郎(『建治三年記』十二月十九日条)がいるが、六波羅評定衆は多く外様御家人が補任されており、北条駿河家が幕府内部で主流派ではなかったことが分かる。有政は所領が他家に流出するのを防ぎたかったのだろう。女子にも相続権があったため、このように一期領をめぐる論争がおこなわれることになった。
 頼綱の末子五郎有信は北条駿河家とは通字の関係にあり、この弥鶴の子息と考えられる。また父出羽守頼綱の仮名五郎を名乗ることからも、頼綱の嫡子と考えられる。寛政重修諸家譜では五郎有信を元弘年間の徳寿丸と同一人物と見なし、年代から頼綱の末子を義綱の子息に変更した(朽木綱泰系譜之内御尋書控[朽木515]および朽木綱泰系譜之内御尋之趣御答書控[朽木516])。しかし、これは誤りといえる。尊卑分脈によれば、五郎有信の子息には三郎有綱が見られることから、有信の子孫も続いたことが分かる。弥鶴の所領の相伝が不明なのは有信が継承したからだろう。頼綱の長男出羽三郎左衛門尉頼信の没後に、横山庄を継承したのが末子五郎有信かもしれない。
 また頼綱の兄近江四郎左衛門尉泰信の後家尼妙語は、正応五年(1292)十月二十四日に作成された譲状(朽木107)で、子息佐々木右衛門尉行綱が「ふけうのものなるによりて」(不孝者なので)勘当し、頼綱の長男尉頼信に譲ると述べている。このように鎌倉時代には、いちど子女に譲った所領を親が取り戻す「悔返し」がしばしばおこなわれた。この場合は高島泰信後家妙語がいちど嫡子四郎右衛門尉行綱に譲与した所領のうち、高島本庄案主職と後一条地頭職を譲与した。案主は荘官のひとつで、荘園関係の文書の保管に当たった。これで朽木氏は高島本庄の荘務と得分を得たことになる。
 同地は、嘉元二年(1304)八月に頼信から娘愛寿御前に譲られたが、愛寿御前に子供が生まれなかったため、元徳元年(1329)十月に道定(横山頼信の法名)は愛寿御前一期ののち養子「おとしゆ丸」に同地を譲る譲状を認めて三年後に譲られた。元徳年間に幼名であることから、義綱の子ではなく孫と考えられる。
 さらに永仁二年(1294)八月二十日付尼覚意譲状(朽木109)によれば、甲斐前司狩野為時(法名為蓮)の四女尼覚意(文殊・佐々木御前)は子息五郎兵衛尉義綱に陸奥栗原庄一迫板崎郷を譲与している。狩野氏は奥州合戦で活躍して陸奥栗原郡一迫地頭職を得た狩野行光の子孫で、行光の子大宰少弐為佐は佐々木信綱と同時期に評定衆となり、孫周防守為成は六波羅評定衆となり備前守護佐々木小島時綱を女婿としていた。文永二年(1265)九月二十三日付沙弥為蓮譲状によれば、同郷ははじめ文殊の一期分として狩野為時(沙弥為蓮)より譲られたものだが(朽木文書105沙弥為蓮譲状)、実際には佐々木御前の子息五郎義綱に譲られた。このように朽木氏は、頼綱の子息の代に一族や外戚から所領を集積した。

出羽守義綱・四郎兵衛尉時経父子
 近江朽木庄と常陸真壁郡本木郷を譲られて朽木氏を立てた義綱は、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されている。霜月騒動・嘉元の乱と二代にわたり活躍して出羽守に補任されて朽木氏は御家人として台頭するとともに、庶子が他家の養子になることで獲得している。そのひとつが桓武平氏頼盛流池家(池河内家)の所領である。
 元享二年(1322)十一月二十八日付平宗度置文によれば、池宗度は嫡子増一丸(顕盛)に所領を譲る旨を記している(朽木123)。池家は池大納言頼盛の子孫で、頼盛実母で平清盛継母であった池禅尼が、平治の乱で源頼朝の命を救ったことから、頼盛は平氏の都落ちに同行せず、鎌倉殿伺候の公卿となっていた。この置文が朽木家に伝わるのは、頼盛の子池河内守保業の子孫である池河内家の所領が、朽木氏に譲渡されたからである。
 そして元徳二年(1330)九月二十二日付平顕盛譲状(朽木134)で、顕盛は養子万寿丸に所領や太刀等を譲る旨を記した。譲与された土地には甘縄・魚町など鎌倉の屋敷地も含まれ、幕府の執権北条守時と連署北条茂時が譲状の内容を承認したことを示す安堵の外題も書き込まれている。この譲状に付されていたのであろう承久三年(1221)八月二十五日付北条義時下文(朽木116)が、朽木家文書最古のものであり、平保業(河内守)を播磨国在田道山庄の預所職にするという内容であった。これら池家の所領については朽木時経が同年十月二十二日付請文(朽木133)を発給しており、時経が万寿丸の実父と確認できる。伊具流北条氏・池河内家ら外戚により朽木氏は確実に家格を上昇させ、所領も拡大させた。
 元弘二年(1332)三月二十三日付法印忠伊譲状には、外戚であり弟子である佐々木出羽徳寿丸に丹波蓮興寺領を譲与することが述べられている(朽木文書111法印忠伊譲状)。しかし年月日不詳(元徳年間)金沢貞顕書状(金沢文庫413号)に、忠伊法印父子三人が殺害されたことが述べられており、忠伊法印の子息のひとりが徳寿丸と考えられる。これで、同領が朽木氏に伝領されなかった理由がわかる。同状によれば忠伊法印は鶴岡八幡宮供僧鑑厳の従兄弟で、摂津刑部権大輔入道(親鑑)と親密(無内外)だったという。忠伊法印は名仁として鎌倉でも評判がよかったため、この報は鎌倉の長崎氏にも知らされた。譲状でも徳寿丸に公武の祈祷を求めており、忠伊法印の京・鎌倉での活躍が知られる。徳寿丸が忠伊法印の養子になっていたことで、朽木氏が北条氏に近かったことが分かる。忠伊法印のいとこ鑑厳僧都は鎌倉幕府滅亡後、六波羅探題北条越後守仲時の遺児越後松寿丸とともに南朝方の八幡路大将両人となっている(建武三年八月二十五日付小笠原貞宗宛足利尊氏御教書[勝山小笠原文書])。
 正慶元年(1332)九月二十三日の光厳天皇綸旨(朽木2)では、越中国岡成名ほか朽木氏の所領に対して濫妨(不法な奪取や破壊行為)がなされているという四郎兵衛尉時経(出羽守義綱の長男)の訴えを受けて、その停止を命じている。岡成名は足利尾張三郎宗家(足利家氏嫡子)跡であり、それを朽木五郎兵衛尉義綱が与えられた。嘉元の乱の勲功で与えられたのだろう。
 正慶元年(1332)九月二十三日付(朽木149)と同年十一月二日付(朽木150)の二通の関東裁許状案は、岡成名をめぐる朽木左兵衛尉時経と岡成景治・友景父子(景光の子・孫)、および時経と松重景式(景光の甥)の相論をそれぞれ裁決したものである。時経代明祐によれば、当地は「足利尾張三郎宗家跡」であったが、朽木義綱が悪党人を召捕った賞として嘉元二年(1304)拝領したという。つまり地頭職の正統性を主張した。それに対して岡成氏は地頭職を要求したのではなく、安貞年中(1227~29)景治・景式等の先祖が遠江守名越朝時に寄附してから足利尾張宗家のときまで、本主の子孫岡成氏に代官職が宛がわれてきたことを主張したものである。岡成名は名越朝時の地頭職領有に由来し、足利家氏の母朝時女を経て足利尾張家に伝えられるとともに、代官職には本主である岡成(清原)氏が永補の保証を得ていたのである。朽木氏と岡成氏の相論は地頭職をめぐる相論ではなく、代官職をめぐる相論であった。代官職は契約による不安定な地位であり、この件で本主が本領を失っていく過程が分かる。
 足利尾張宗家が越中国岡成名を没収されたのは、霜月騒動に関係しよう。霜月騒動では足利上総三郎(吉良満氏)が誅され(『北条九代記』)、また惣領足利家時の自害も、霜月騒動に関連すると考えられるようになっている(『近代足利市史』第一巻、一七五頁)。宗家の嫡子宗氏は本主岡成氏が代官職を得られるように請文を提出したが、この宗氏の子息が斯波高経・時家(家兼)兄弟である。
 元弘二年(1332)八月十二日の後醍醐天皇綸旨(朽木1)は、近江国朽木庄の地頭職を従来どおり出羽四郎左兵衛尉時経に与えるという内容であり、朽木氏が本領を安堵されたことが分かる。さらに建武元年(1334)四月五日付世尊寺行忠奉書(朽木42)では、亀若が高島本庄安元名内古天神西南寄二段を、手継譲状に任せて安堵されている。朽木家文書に残ることから、亀若も朽木氏であろう。亀若は、元徳三年(1330)五月二十日付高島本庄代官某名田安堵状(朽木41)で、安元名のうち治部法師が入質した二段を安堵された兵衛次郎の子息であろう。兵衛次郎は朽木義綱(出羽五郎兵衛尉)の次男を意味していると考えられる。そうであれば兵衛次郎は朽木時経の弟である。朽木氏は外戚から所領を得ただけではなく、その財力で質や買得で田畑を得ていたことがわかる。この兵衛次郎は尊卑分脈の義氏に相当しよう。そして亀若は義氏の子息となる。
 朽木氏には同じ時期に幼名を名乗る万寿丸・おとしゆ丸・徳寿丸・亀若の四人がいたことになる。万寿丸は池家領を相続、おとしゆ丸は横山頼信・愛寿父娘から高島本庄案主職と後一条地頭を相続し、徳寿丸は忠伊法印から丹波の蓮興寺領を相続し、亀若が高島本庄安元名を安堵されていた。万寿丸・おとしゆ丸・徳寿丸は他家領を相続しており、亀若は兵衛次郎の子息で朽木氏庶流であろう。このうち徳寿丸は養父忠伊法印とともに殺害されており、こののち活躍するのは万寿丸・おとしゆ丸・亀若である。

出羽四郎義氏・五郎義信・四郎兵衛尉頼氏
 時経の所領が安堵された直後に、出羽四郎義氏が現れる。建武三年(1336)正月二十八日付朽木義氏軍忠状(朽木428)により、出羽四郎義氏が京都法勝寺・三条河原両度の戦いに参陣し、さらに摂津兵庫島まで赴いていることが知られる。このとき両侍所佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連が首実検をおこなっているが、同月二十七日の京都攻防戦で三浦貞連は上杉憲房らとともに戦死した(『梅松論』)。激戦だったことが分かる。
 時経と義氏は同じく出羽四郎を名乗るが、時経はすでに左兵衛尉に任官しており、無官の四郎義氏とは別人である。義氏は時経の跡を継承して出羽四郎を名乗ったのだろう。ただし時経の子息万寿丸はすでに池顕盛の養子であり、義氏とは別人であろう。尊卑分脈では時経の弟(義綱の次男)に義氏を記しており、元徳三年(1330)に高島本庄安元名内の名田を安堵された兵衛次郎と同一人物の可能性がある。
 また建武三年(1336)六月十三日付大音助俊軍忠状(大音正和家文書)によれば、同年六月二日に大音助俊が大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道に従軍し、近江高島郡三尾崎の関所を警固していた。十日に二条権大納言方と合戦になり、助俊は忠節を尽くした。この事実を大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道は知っており、近江御家人の横江六郎と八田三位房も見知っているという。出羽三郎左衛門入道は大将軍と呼ばれていることから、国大将に補任されていた可能性がある。すでに出家していることから時経の世代と考えられる。頼綱の末子五郎有信の子息三郎有綱が、この出羽三郎左衛門入道であろう。
 さらに出羽五郎義信が、建武三年に登場する。出羽五郎と名乗ることから、四郎兵衛尉時経とも四郎義氏とも三郎左衛門入道とも別人である。同年八月五日付朽木義信軍忠状(朽木429)によれば、出羽五郎義信が若狭国大将斯波時家の若狭発向に、一族を引率して参陣している。四郎義氏ではなく、三郎左衛門入道でもなく、五郎義信が一族を率いる惣領であったことが分かる。同月十七日付足利直義御教書(朽木6)で若狭国大将尾張式部大夫時家(斯波時家)に属して新田義貞以下凶徒誅伐に向かうよう命じられた義信は、若狭国三方郡能登野に合戦して若党野村小三郎が討たれたが、同国遠敷郡矢田部坂西尾に転戦している(建武三年九月十七日付朽木義信軍忠状[朽木430])。
 これらの文書によれば、義信は若狭国大将斯波時家(のち家兼)に属して若狭で活躍していた。高島郡と若狭・越前の関係は深く、平安末期には本佐々木氏の船木時家が高島郡船木から若狭に進出して佐分氏を名乗り、若狭国御家人となっている(のち佐分氏には桓武平氏高棟流の加賀守親清が養子に入り、六波羅探題北条重時の若狭守護代になっている)。また高島七頭のうち田中氏と山崎氏は越前に進出している。
 寛政重修諸家譜の朽木系図では義信の本名を「時綱」とするが、建武元年(1334)賀茂社行幸供奉足利尊氏隋兵交名(朽木641)の「佐々木備中前司時綱」は、元弘の変で鎌倉幕府軍に見える佐々木備中前司のことで大原時重と同一人物と考えられる。当時佐々木備中前司を名乗るのは、佐々木氏惣領六角氏と佐々木大原氏だが、六角時信は佐々木判官と名乗るため、佐々木備中前司は大原氏と考えられる。国立国会図書館所蔵文書所収「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(『神奈川県史』資料編3古代・中世(3上)3231号※十八日相模川合戦で佐々木壱岐五郎左衛門尉が討死)によれば、佐々木備中前司父子が建武二年八月十九日辻堂・片瀬原合戦で戦傷を負っている。備中守仲親はこの備中前司時綱の子息と考えられる。
 そのため出羽五郎義信と備中前司時綱を同一人物と見ることはできない。尊卑分脈でも続群書類従でも時経を「時綱」と記しており、時経を「時綱」と誤り伝えた上で、義信と同一人物と見なしたことによる誤伝と考えられる。
 義氏から義信に朽木氏の中心が移った直後、建武三年九月二十七日付佐々木出羽四郎宛足利直義御教書(朽木7)で、佐々木出羽四郎が今河掃部助に属して近江国凶徒誅伐に発向するよう命じられている。また建武四年(1337)四月に再び出羽四郎が登場する。建武四年四月二十日付佐々木出羽四郎宛足利直義御教書(朽木8)では、奥州凶徒退治の軍忠を賞されているのである。さらに同年八月三日付足利直義御教書(朽木9)で、佐々木出羽四郎兵衛尉が九日発向の吉野凶徒退治で軍忠を致すよう命じられている。建武四年に出羽四郎が左兵衛尉に任官したことが分かる。
 そして建武五年(1338)閏七月に佐々木出羽四郎兵衛尉頼氏が登場する。四郎義氏から五郎義信へと替わった直後の佐々木出羽四郎は、義氏ではなく頼氏である可能性が高い。尊卑分脈では義氏の子息に頼氏を記している。そうであれば、建武元年四月に高島本庄安元名内の所領を安堵された亀若は(朽木42)、時経・義氏兄弟の子の世代であり、頼氏の前身かもしれない。
 建武五年(1338)閏七月日付朽木頼氏軍忠状(朽木431)で、出羽四郎兵衛尉頼氏が美濃黒地要害・近江鮎河城・越前荒地(愛発)中山関・同疋田金崎城と転戦したこと、近江横江浜の戦いでは沖ノ島に陣取った南朝方に夜襲をかけられて若党二人佐々本右衛門三郎・辻兵衛太郎が討死、頼氏は頭に傷を負い、ほかにも小笠原十郎五郎・多胡兵衛次郎・松井治部・日置彦次郎・中間二人が負傷したが、朽木家領陸奥栗原庄一迫板崎郷の代官板崎次郎左衛門尉為重が軍忠を著した。この板崎為重は、五郎兵衛尉義綱(出羽守)が母狩野為時四女文殊(尼覚意)から譲られた一迫板崎郷の本主であろう(朽木109尼覚意譲状)。同郷ははじめ文殊の一期分として狩野為時(沙弥為蓮)より譲られたものだが(朽木105沙弥為蓮譲状)、実際には朽木義綱に譲られた。
 こののち越前国内の新田義貞軍の活動は活発化し、越後国の南朝軍も動いて越中守護井上俊清・加賀守護富樫高家を破り越前に迫った(『太平記』巻二〇)。越後勢が吉田郡河合に到着して南朝方の軍事的優勢のなかで、七月二日藤島城の偵察に向かった新田義貞は、夜襲を企てた斯波方の副将細川出羽守・完草彦太郎の軍勢と遭遇し、致命傷を負い自害した。
 出羽四郎兵衛尉は、今度は同年閏七月十六日付佐々木導誉書状(朽木55)で吉野出兵のための上洛を催促され、同年八月十六日付導誉書下(朽木56)では吉野発向のために永田四郎とともに高島郡軍勢を率いて上洛するように、八月二十七日付導誉書下(朽木57)では高島郡軍勢の不参加を責められ、九月三日付導誉書下(朽木58)で重ねて永田四郎とともに高島郡軍勢を率いて上洛するよう求められている。そのたびに南都発向は延引されている。ここで高島郡軍勢が不参加であることと、頼氏の戦傷は関係があるのかもしれない。建武五年から改元した暦応元年(1338)十月二日付足利直義御教書(朽木10)でも、佐々木佐渡大夫判官入道(導誉)に従って南都警固にあたることを命じられている。それまで活発に行動していた朽木氏が行動しなくなる。
 越前では新田義貞自害後も、南朝方の動きは衰えなかったことから、暦応二年(1339)五月三日幕府は金ケ崎城の南朝方を攻撃するため石橋和義(尾張左近大夫将監)を派遣し、出羽四郎兵衛尉に対して、近江の佐々木五郎(京極高秀)ならびに浅井・伊香・坂田三郡地頭・御家人とともに発向するように命じている(暦応二年五月三日付佐々木出羽四郎兵衛尉宛足利直義御教書[朽木11])。こののち暦応4年(1441)まで、朽木氏に対して軍勢催促がおこなわれた形跡がない。頼氏の戦傷は重篤なものだったのかもしれない。
 四郎兵衛尉の活動が見られないあいだ、五郎義信は佐々木行綱女子尼心阿と相論していた。暦応二年(1339)に、尼心阿と義信の間の所領をめぐる争いが和解した(暦応二年九月十一日付尼心阿和与状[朽木103])。文中に「三問三答の訴陳に及ぶと雖も」とあり、激しい論争を繰り広げたことが分かる。そして暦応四年(1341)三月十七日付足利直義裁許状(朽木4)で、尼心阿と出羽五郎義信の間の所領をめぐる相論が決着した。このとき心阿は関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継などを所持し、義信は関東安堵外題証文などを所持していた。義信は頼信女子愛寿女から同地を譲与されていたことから(足利義満袖判裁許状[朽木5])、愛寿一期ののち高島本庄案主職・後一条地頭職を譲られることが約束されていた「おとしゆ丸」と義信が一致する。義信の名乗りも大伯父横山頼信の一字を名乗ったものだろう。頼信と愛寿父子の菩提を弔う義信側では、二階堂伯耆入道道本(内談衆)・佐々木源三左衛門尉秀時(吉田氏)の二人の証人が「元弘収公の地に非ず、将にまた相伝当知行相違ない」旨の起請文を提出した。こうして「三問三答の訴陳」に及び高島本庄内二所のうち後一条地頭職を獲得した。ここで「元弘収公の地」と見られていたことも分かる。これは朽木氏が北条氏に近かったことを示していよう。
 また四郎義氏や四郎兵衛尉頼氏の活動が見られなくなると、五郎義信の活動が見られるようになることに注目できる。義信は代替わりのあいだの陣代と見られる。そして次に登場するのが四郎兵衛尉経氏(のち出羽守)である。

出羽守経氏・氏秀父子
 暦応四年(1341)正月足利直義は佐々木出羽四郎兵衛尉に対して、六角時信(佐々木近江入道)の大和国西阿城攻めに従軍することを命じている(暦応四年正月二十日付朽木四郎兵衛尉宛足利直義御教書[朽木12])。同年九月十四日付足利直義御教書(朽木13)で、佐々木佐渡判官入道導誉に従って伊勢国凶徒退治に急ぎ向かうよう命じられている。また貞和元年と改元される康永四年(1345)八月二十九日の足利尊氏・直義兄弟による天龍寺供養(朽木642)で、佐々木出羽四郎兵衛尉が帯刀として参列している。貞和三年(1347)七月十一日付六角氏頼書状(朽木36)で河内国東条凶徒退治のため参陣を促され、八月九日付足利直義御教書(朽木14)で陸奥守顕氏(細川顕氏)に従って南方凶徒退治に向かうよう命じられ、八月十九日付六角氏頼書状(朽木60)で再び参陣を促されている。
 翌貞和四年六月日付朽木経氏安堵状(朽木140)で、経氏は丹後国与保呂村内吉光名を大方殿の計らいで阿弥陀寺に寄進している。これは御追善のためという。大方殿は経氏の養母で、御追善とは池家のものだろう。観応二年(1351)六月二十六日付足利尊氏袖判下文(朽木20)で、出羽四郎兵衛尉経氏が恩賞として備前国野田保地頭職を得ている。経氏の諱字から父が時経とわかる。万寿丸が朽木氏に帰家していたのだろう。
 佐々木近江守(京極秀綱)に従って山城八幡攻めたときの軍忠を賞されている観応三年(1352)六月二十七日付足利義詮御教書(朽木15)では、宛名が佐々木朽木出羽守になっている。観応三年から改元された文和元年十一月十日付足利義詮御教書(朽木16)では、河内東条凶徒退治を命じられているが、宛名はやはり佐々木出羽守である。
 そして文和三年(1354)閏十月四日朽木経氏譲状(朽木432)で、経氏は足利義詮の播磨下向に従軍するため、所領を嫡子万寿丸(氏綱)に譲ることを述べている。この中には池家の所領も含まれており、経氏が池家の養子になっていた万寿丸であることが確認できる。朽木氏に帰家して四郎兵衛尉経氏と名乗っていたのである。四郎兵衛尉の名乗りが連続していることから頼氏と経氏は同一人物とも見られるが、四郎兵衛尉頼氏と四郎兵衛尉経氏のあいだに陣代五郎義信があり、頼氏が戦傷を負ったことで経氏が朽木氏に帰家したものと考えられる。そのため帰家してまもなく、池家の菩提を弔うため大方殿の計らいで丹後国与保呂村内吉光名が阿弥陀寺に寄進されたのだろう。
 また貞治二年(1363)六月三日付足利義詮御教書(朽木22)で、氏綱に対して亡父経氏の譲状に任せて近江朽木庄以下の所領を安堵しているが、その相伝すべき所領については「載曽祖父譲状」とある。これは朽木氏初代義綱(法名種綱)の譲状を指していると見られ、義綱・時経・経氏・氏綱と相伝されたと考えられる。
 このように経氏から万寿丸に所領が譲れたが、そののち朽木氏を率いたのは万寿丸(氏綱)の兄氏秀であった。氏秀は五郎義信から後一条地頭職を相続しており、義信の後継者であったことが分かる。応安五年(1372)十月十七日付朽木氏綱譲状(朽木112)で、越中国部田・岡成両名地頭職を氏秀に譲渡したのは、単に動乱で不知行になったからというだけではなく、もともと義信が知行していたからかもしれない。そうであれば、義信が若狭国大将斯波時家に従って北陸に転戦していた理由も理解できる。さらに永和二年(1376)正月二十二日付後円融天皇口宣案(朽木3)で、従五位下朽木氏秀は出羽守に補任された。翌三年十二月二十一日付足利義満袖判裁許状(朽木5)で、出羽守氏秀と称阿弥陀院との所領をめぐり相論に決着がつき、高島本庄内案主名を氏秀が領掌することが認められた。
 同状では妙語を氏秀の曾祖母とし、また頼信女子愛寿女から義信、そして氏秀に相続されていたことが記されている。さらに朽木家古文書には泰信・泰氏ら越中家の譲状が伝わっていることから、妙語が曾祖母ならば、氏秀の母は泰氏の女子であったかもしれない。こうして妙語から横山頼信に譲られた高島本庄案主職と後一条地頭職は、それぞれ出羽五郎義信・出羽守氏秀によって獲得された。さらに同年(1377)八月二十二日付足利義満袖判下文(朽木23)で、出羽守氏秀は近江国高島朽木庄内針畑(針畑荘)の所領を安堵されている。氏秀の活躍で朽木氏は着実に所領を増やした。義信・氏秀は他家を継承しながら朽木氏を後見したと考えられる。氏秀が出羽守に補任された事実から、義信・氏秀父子は朽木氏の家督ではなく、出羽家惣領横山氏を継いだと考えられる。
 のち朽木氏秀(妙林)は、応永十四年六月二十四日付譲状(朽木113)で、高島郡朽木庄内針畑・高島本庄内後一条・同案主名・横山庄内相町を朽木出羽守能綱に永譲与している。妙林の子孫が違乱したら不孝となし、罪科に処せられるべきであると述べている。このことで針畑などが朽木氏に伝わったが、氏秀の子孫には別に所領があったことを示していよう。

越中家(高島)と能登家(平井)の系譜―高島七頭(1)

西佐々木氏(高島七頭)の系譜
 近江守護佐々木近江守信綱の次男近江二郎左衛門尉高信は高島郡田中郷を与えられ、その子孫は繁栄して「西佐々木」あるいは「高島七頭」と呼ばれる武士団を形成した。高信の母は長男近江太郎左衛門尉重綱と同じく川崎五郎為重女であろう。為重は比企能員の乱で滅亡したため、母が北条義時女である三男泰綱(六角氏)・四男氏信(京極氏)にくらべると所領は少なかった。それでも長男泰信は、佐々木四郎信綱の孫である四郎で左衛門尉の者を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」として『吾妻鏡』弘長三年(1262)正月条に登場しており、自立した御家人であったことが確認できる。高島七頭は交通の要所にあって、惣領六角氏を牽制する位置にあった。
 また高信の次男五郎左衛門尉頼綱は、弘安八年(1285)の霜月騒動における安達泰盛追討賞で出羽守を受領して御家人として自立した。また朽木氏は、鎌倉末期に朽木万寿丸が鎌倉殿伺候公卿であった平頼盛(清盛の弟)の子孫池家の庶流池河内家からも所領を譲渡され、所領は全国的に広がった。こうして高島七頭は、有力御家人の仲間入りを果たしている。

越中家と能登家
 近江孫四郎左衛門尉泰信の次男四郎行綱は、四郎の名乗りからも明らかなように惣領家を相続した。弘安九年(1286)の春日行幸で右衛門少尉の正員として供奉しており、有力な在京御家人であったことが分かる。ただ単に左右衛門尉とあるときは左右衛門権少尉を意味しており、行幸では正官と権官はきびしく区別されて正官は行幸の花形であり、続群書類従所収佐々木系図でも「高島嫡流」と記されている。この行幸では、大惣領六角氏の嫡子三郎左衛門尉宗信も左衛門権少尉として列している。行綱の娘は京極家惣領の能登守貞宗に嫁いでいる。佐々木一族の中で閨閥を形成していることがわかる。
 また泰信の長男八郎泰氏は左衛門尉に任官して八郎左衛門尉と名乗り、のちに従五位下越中守に補任されたことで、子孫は越中家と呼ばれ、その惣領は八郎と名乗った。
 ところが高島行綱は、親不孝を理由に母妙語による悔い返しで、所領をいとこ横山三郎左衛門尉頼信(朽木頼綱長男)に奪われてしまった。当時は血のつながりがなくても、菩提を弔う者に所領を譲ることが多くおこなわれている。久我家もそれで根本所領を失ったことがある(拙論)。高島行綱のもうひとりの娘(尼心阿)が、行綱の兄越中権守泰氏の長男越中四郎範綱に嫁いだことで、高島氏惣領の地位は越中家に受け継がれた。それとともに四郎の通称も、泰信から行綱を経て範綱に伝えられた。そのため四郎が高島佐々木氏全体の惣領を示し、八郎がもともとの越中家の惣領の地位を示すことになった。それが越中家に四郎と八郎が混在する理由である。
 ところで、高島佐々木氏の嫡流越中家は高島氏を名乗らないという意見もあるが(『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、二〇〇六年)、当時の佐々木氏は、佐々木六角、佐々木京極など佐々木名字と家名を複合して名乗っており、六角氏も文書では「佐々木三郎」「佐々木判官」「佐々木備中守」などとして、「六角」とは記されない。高島流も同様であり、高島氏であれば「佐々木越中守」、朽木氏であれば「佐々木出羽守」となる。そのため、高島氏嫡流が「高島越中守」と記されず、「佐々木越中守」と記されることをことさら強調して、越中家は高島氏を名乗らなかったと宣伝することは誤解を生むことになる。
 その後の越中家を「尊卑分脈」では、範綱(四郎)―信顕(越中守)―高顕(左衛門尉)―高頼(左衛門尉)―高泰(越中守)と記している。それに対して記録で公方に供奉した越中家の人物は、越中孫四郎―越中四郎左衛門尉―越中守頼泰―越中四郎右衛門尉高泰(のち越中守)である。
 まず越中孫四郎は、越中範綱の子越中守信顕に相当する。暦応二年に和解が成立した尼心阿(範綱妻)と出羽五郎義信(朽木氏)の高島本庄案主職と後一条地頭職をめぐる相論で、範綱妻が落飾していることから、当時すでに範綱は没して嫡子信顕の世代と分かる。孫四郎は信顕で、高島四郎行綱の孫という意味で「孫四郎」だろう。越中四郎左衛門尉は左衛門尉高顕に相当し、また越中守頼泰はその諱字(頼・泰)から、左衛門尉高頼本人か兄弟で、越中四郎右衛門尉高泰(のち越中守)の父と推定できる。
 さらに行綱の子行信の娘が能登三郎に嫁いでいる。この能登三郎は早世した京極貞宗とは年代的に別人であり、泰氏の次男平井五郎師綱(佐々木越中守)の三男能州九郎左衛門尉師信と推定できる。師綱は兄範綱が早く没した後に、越中家を継いで在京御家人本郷隆泰(若狭大飯郡本郷地頭)女子を妻とした。そのため、師綱に始まる平井氏も広い意味で越中家といえる。そして師綱の三男師信も高島行信女子を妻として、高島正嫡の血筋を引き継いだ。師信の子孫は師信が三男だったことから能登三郎を名乗っており、師信も「能登三郎」と誤記されたと考えられる。越中家も能登家も行綱の後継者といえる。こうして高島正嫡は、朽木頼綱の系統に渡らず、行綱の兄泰氏の子孫によって受け継がれることになった。

                             (高頼)
 高島高信┬泰信┬泰氏┬範綱─信顕─高顕─頼泰─高泰
       ├頼綱│   └師綱─師信
       └胤信└行綱┬行信─女子(能登三郎妻)
                └ 女子(京極貞宗妻)

 南北朝期の応安元年(1368)十二月と同二年十一月に、平井師綱の子能登九郎左衛門尉師信が「平井村」の土地を饗庭氏に売却していることから(饗庭昌威氏所蔵文書)、資料によって平井氏が能登殿であると確認できる。この師信の通称「能州九郎左衛門尉」は能登守の子息九郎で左衛門尉という意味であり、師信の父師綱が能登守と分かる。師綱は続群書類従本では「越中守」とされているが、そののち能登守に補任されて別家を立てたのだろう。そうであれば、『園太暦』貞和元年八月(1345)二十九日条の天龍寺供養で足利尊氏の帯刀として随行した「佐々木能登前司」は平井師綱であろう。
 明応六年(1497)七月北船木の若宮神社造営棟札に「地頭殿能登守長綱」と見え、安曇川御厨地頭であったことが分かり、このときまでに拠点を流通の要地北船木に移していたことが分かる。この長綱の父が能登守持秀であることは、「政所賦銘引付」(『室町幕府引付史料集成』上)文明六年(1474)二月条に「佐々木能登守持秀息弥三郎長綱」と見えることで分かる。
 能登殿を京極流とする見方もあるが(西島前掲書『戦国期室町幕府と在地領主』)、京極惣領家である佐々木能登家は京極宗綱の嫡子貞宗で断絶している。また宗綱の女婿宗氏の子息貞氏・高氏(導誉)兄弟があって、そのうち兄貞氏の子息に能登守貞高が見られるが(尊卑分脈)、貞高は坂田郡長岡館(曽祖父満信の旧館)を本拠に長岡氏を名乗り、また犬上郡一円邑を領して(尊卑分脈・続群書類従巻百三十二佐々木系図)、子孫は長岡氏あるいは一円氏を名乗っており、高島七頭の能登家とは別家である。「一円」を法名ととらえると、長岡貞高が犬上郡一円領主であることに気づかない。「一円」が貞高―秀貞―高行の三代いずれにも記されていれば、法名ではなく所領と考える必要があろう。実証歴史学に徹するならば、平井村の所領を売却した能州九郎左衛門尉師信の一族を高島七頭の能登家と見るべきであり、また師信の父師綱が能登守であると判断するべきだろう。このことでも、実証歴史学が実は実証歴史学に徹していないことが分かる。
 能登家惣領は師信の子弾正左衛門尉頼秀が継ぎ、惣領は三郎を通称とし、「秀」を通字に師信─頼秀─満秀─持秀と続いた。

 師信┬頼秀─満秀─持秀─長綱─高勝─定持─高持
    └信重

魔女裁判

 わたしは民主党員ではなくサポーターでもないが、10月4日第五検察審査会の議決には疑問を感じる。
 議決要旨によれば、「小沢氏を起訴相当」と議決したことを公表した。「検察審査会の制度は、有罪の可能性があるのに、検察官だけの判断で有罪になる高度の見込みがないと思って起訴しないのは不当であり、国民は裁判所によってほんとうに無罪なのかそれとも有罪なのかを判断してもらう権利があるという考えに基づくものである。そして嫌疑不十分として検察官が起訴を躊躇した場合に、いわば国民の責任において、公正な刑事裁判の法廷で黒白をつけようとする制度であると考えられる」という。
 議決日は民主党代表選挙で小沢氏が敗れた代表選当日の9月14日にしている。代表選挙直前にマスコミによって小沢氏強制起訴の可能性が繰り返された後であり、その最も市民感情が高まった時に議決をしたことになる。政治的意図を感じずにはいられない。しかも村木事件で、前田容疑者が証拠隠滅罪により最高検察庁に逮捕されたのが9月21日だから、その1週間前に議決されたことになる。村木事件が検察による冤罪事件が報道される前の議決だったのである。
 検察審の議決要旨は、証拠がないために有罪になる可能性の見込みが無いとして検察が起訴しなかったことを不当とするものであり、冤罪を防ぐためにも厳密に証拠にもとづくべきである刑事司法の根幹を揺るがすものといえる。
 検事総長大林宏氏が9月1日に記者クラブでも述べているように、検察が二度不起訴処分としたのは、証拠判断からである。このように検察が「法と証拠」に基づき起訴・不起訴を判断したものを、検察審査会が「証拠が無いから起訴しないのはおかしい」として起訴するのでは、今後は証拠がなくても強制起訴できることになる。まさに魔女裁判である。これでは冤罪事件が増えることになるだろう。
 実際に陸山会事件で問題になっているのは期日のズレだが、それは農地から宅地に変更するのに必要な期間であった。それをきちんとマスコミは報道せず、そのマスコミの影響を受けた素人による検察審査会が、今回の強制起訴を議決したのである。松本サリン事件など、マスコミが絡んだ冤罪事件は多い。
 現在、陸山会事件にかかわった検事が、村木事件で「冤罪」の当事者として逮捕され、取調べを受けている。東の陸山会事件、西の村木事件だったのである。
 検察審査会は「検察官は再捜査において、小沢氏、大久保被告、石川被告、池田被告を再度取り調べているが、いずれも形式的な取り調べの域を出ておらず、本件を解明するために、十分な再捜査が行われたとは言い難い」と述べているが家宅捜査までされていながら証拠がなかったことを、「形式的な取調べ」といえるだろうか、疑問である。
 検察審査会で2度起訴相当と議決されたならば強制起訴と法改正されたのが2009年5月であり、まさに民主党が自民党に取って代わって政権をとるという時期である。最初から小沢氏を視野に入れた法改正といえる。しかし、この制度がそのまま続くのであれば、戦前の政党内閣が治安維持法をつくり自らの首を絞めたように、小沢氏以外の政治家も、証拠もないままに印象だけで強制起訴されよう。
 そもそも検察審査会の目的は、被疑者に何らかの恩があるか、あるいは恩を売ろうという理由で起訴を意図的に行わなかった場合、司法の不平等につながるから、検察が起訴しなかったことについて判断しようというものだったはずである。そのため検察と組していると思われる被告側の弁護人は参加しない。ところが今回の件は、小沢氏の秘書が3人も逮捕されたというものであり、検察と小沢氏は対立している。その秘書3人も供述を翻しており、証拠がないまま公判を維持できずに立ち往生している。このように検察と被告が争っている場合には、被告側の意見も聞かなければ、検察の不起訴が不適当かどうか判断できないはずである。それにもかかわらず、強制起訴できるのであれば、裁判の手続きを保証した憲法31条に違反することになるのではないだろうか。しかも今回の強制起訴議決では、不起訴処分の対象事実(土地取引)を逸脱した被疑事実で起訴相当の議決をしている。これは不当な議決なのではないだろうか。
 もはや設立趣旨から逸脱した検察審査会は、不要なのではないだろうか。検察審査会は、あくまで検察側の問題を指摘するものでなければならない。その点で、今回の件もいそいで議決するのではなく、村木事件を踏まえて検察の捜査方法に目を向けるものであるべきだった。そのように十分に議論されていれば、検察不正問題も視野に入れた議決になったであろう。そうであれば、検察に反省を促すものとして、大いに評価できるものになっていたはずである。
 そうであるからこそ、9月7日に補助弁護士が選任されて、翌8日から審査に参加し、議決が9月14日、土日を入れ7日で土日を含まないと5日であったことに驚かざるを得ない。このような短期間に、十分な説明と十分な議論は本当にできたのだろうか。できるはずはない。この議決の速さを疑わざるを得ない。
 もし疑われるような意図的な操作がなかったとすれば、有罪の可能性があるというだけで強制起訴を議決したことになる。日本では実質的に「推定無罪」は認められていないのであるから、ただ白黒付けたいがための強制起訴であれば、「推定有罪」で被告が受ける苦痛をまったく理解していない無邪気な判断だといえる。
 今後は裁判所で白黒つけるのだろうが、「白」と判断されたとき検察審査会は「国民の責任」をどのようにとるのだろうか。裁判で白黒つけられるとしても、日本の裁判はあまりにも長期間にわたるものであり、実質的に推定無罪が通用しない日本社会では、強制起訴はあまりに大きな意味を持つ。もし白であったなら、検察審査会を含む司法は、失われた時間をどのように補償するのだろうか。自ら「国民の責任」と宣言したのであるから、責任をとる必要があるだろう。そこまで責任を負わせるのは酷だというのであれば、検査審査会の存在意義をきちんと議論する必要がある。すくなくとも、2009年5月に改正された2度の起訴相当議決で強制起訴という内容は、なくした方が良いだろう。決して他人事ではない。証拠がなくても、印象だけで逮捕・起訴される時代が来たのである。


国民一人ひとりが他人事としてではなく、きちんと自分のこととして考える必要がある。現在は、まさに主観の力が求められている時代といえよう。

永原氏の系譜

 永原氏は『源行真申詞記』に登場する愛智家次の一族という系譜伝承をもつ。愛智家次は近江愛智郡大領愛智秦公の子孫と考えられるが、佐々木荘下司源行真の女婿となることで佐々木一族化した。家次の弟田中入道憲家は、その名乗りから水上交通の要所高島郡田中荘の下司と考えられ、その子孫から守護代楢崎氏と高島七頭のひとつ山崎氏が出ている。沙沙貴神社所蔵佐々木系図や野洲郡志所収三宅四五六郎氏所蔵系図(以下、三宅系図)では、守護代楢崎氏の分流に永原氏が見える。
 しかし『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を伝え、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住み、その七代の孫に永原大炊助宗行が出たという。そのとおりであれば蒲生氏と同祖であり、右馬允藤原季俊の長子俊秀(従五位下)の子孫が永原氏であり、次子惟俊の子孫が蒲生氏となる。市三宅城主永原(三宅)氏が馬允を名乗るのは、この右馬允季俊に由来しよう。
 また良堂正久の頌によれば、正久の祖父のときに関東から近江に来たともいう。関東から来た有力者には三雲氏(上杉氏あるいは武蔵七党児玉氏)があり、六角氏に鎌倉足利氏女が嫁いできたときに、女佐の臣として近江に来た者の子孫と考えられる。

「賜藤氏」永原氏
 永原氏が歴史に初めて登場するのは応永十六年(1409)の尊経閣文庫所蔵文書(前田家文書)であり、野洲郡一帯の名田畠を領有していた永原孫太郎入道・彦太郎が罪を犯し、その所領を三宅五郎左衛門尉家村と永原新左衛門入道正光が争い、正光が獲得したことを伝えている。正光は孫太郎入道・彦太郎の近親者であろう。応永二十六年(1419)十一月の菅原神社本殿造替のときの棟札に、領家藤原雅行・地頭源信清・神主藤原清重・願人沙弥正光のほか、江辺荘内の大工二名の名が記されている。沙弥正光は前述の永原新左衛門入道正光であり、神主藤原清重も永原一族で、「清」の字は地頭信清に由来しよう。また『蔭凉軒日録』長禄三年十二月八日条に「馬淵被官」、同月二十日条にも「馬淵被官之永原」とあり、長禄三年(1459)当時は郡守護代馬淵氏の支配下にあった。
 まず八日条に「常徳院末寺正法寺檀那馬淵被管永原被為闕所、雖然中島依申掠而如此重依申披之、永原御免許之事伺之、御免之由被仰出也」とあり、二十日条には「依馬淵被管之永原公事、可有御糾明之相奉行之事、飯尾加賀守伺之、以飯尾左衛門大夫被相添之由被仰出也」とある。幕府において、永原氏の公事について糾明を必要とする事件があったことが分かる。
 文明十六年(1484)新左衛門入道正光子息と思われる良堂正久の二十五周年忌を永原吉重が営んでいるが、相国寺の横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記し、吉重も「承大織冠直下孫」と自署している。「賜藤氏」の文言は、良堂正久のとき藤原氏を賜ったことを意味していよう。
 では、だれから藤原氏を賜ったのだろうか。それは江辺(江部)庄領家藤原雅行と考えられる。雅行は藤原師通流室町家の出身だが官歴は不明であり、子息雅国が従三位非参議に補任されたときに江辺を称している(公卿補任)。雅行本人は江部庄に下回向して荘園経営に専念していたのだろう。永原氏は雅行・雅国父子によって藤原氏を与えられたと考えられる。そのことは、『永原氏由緒』で藤原雅行の名が永原氏先祖の一人として記されていることで分かる。
 野洲郡で勢力を得た永原氏が秀郷流藤原氏を名乗ったのは、三上山のムカデ退治伝承の藤原秀郷(俵藤太)を始祖と仰いだことによろう。先祖は関東にあったと伝えられるが、右馬允藤原季俊の子孫であれば蒲生氏と同祖であり、関東出身ではない。永原氏由緒など永原氏の系譜伝承によれば、藤原秀郷流足利忠綱(あるいは弟康綱)の子孫である伊勢赤堀氏との関係が記されており、赤堀氏が応永年間(1394~1428)に上野から伊勢に移り住んでいる。
 まず上野住人赤堀三郎左衛門入道が、文和二年(1353)七月十三日付で上野国赤堀郷・貢馬村と伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されているが(早稲田大学赤堀文書)、応永三年(1396)十一月には赤堀民部少輔直綱が、久我家領伊勢石榑の代官職を請け負っており (久我家文書)、この間に伊勢に移住している。さらに応永十八年(1411)九月十日付文書に伊勢守護土岐康政の被官として赤堀三郎左衛門尉が見え(醍醐寺文書)、応永二十年(1413)四月十三日付で、幕府は赤堀孫次郎に前年十一月二十七日に引き続き伊勢国玉垣・野辺代官職・守忠名・栗原・小山新厨・宇賀他を安堵している(国会図書館足利時代文書)。そして、応永二十五年(1418)十二月二十五日付の文書に、赤堀兵庫入道が伊勢守護土岐持頼の被官として見える(口宣綸旨院宣御教書案)。赤堀氏の祖足利忠綱は治承・寿永の内乱で平氏方であったため、『永原氏由緒』のとおり、源頼朝に対峙したことになる。やはり、永原氏の系譜には藤原秀郷流足利氏の系譜伝承が混入していよう。
 この赤堀氏との姻戚関係が、良堂正久の伝承「祖父昔在関東起家」「子孫今於江辺食菜」(補庵京華別集所収良堂正久拈香仏事)、あるいは吉重の伝承「高曽出自関東」「子孫起於江東」(補庵京華別集所収預修心月居士闍維諸仏事)を生んだと考えられる。
 しかし天満宮并別当記録によれば、永和五年(1376)二月二十五日に江辺荘正公文源正満丸によって葺替がおこなわれている。同荘下司としては義清流富田秀貞と京極導誉を確認できるが(佐々木文書)、正公文は源正満丸であった。しかも正満丸の名から永原新左衛門入道正光本人か近親者と推測できる。永原氏の本姓は源氏であった。やはり沙沙貴神社所蔵佐々木系図や市三宅城主永原氏系図(以下、三宅系図)のとおり、本佐々木流楢崎氏の分流の可能性が出てくる。しかし楢崎氏は愛智家次の弟田中入道憲家の子孫であり、厳密には愛智秦氏の子孫である。
 正光(源正満丸)の子息良堂正久のとき藤原氏を称し、藤原氏とする系譜伝承は吉重に受け継がれ、吉重は「承大織冠直下孫」と自署した。先祖が関東にあったと述べられていることから、このときすでに秀郷流藤原氏の系譜伝承を有していたのだろう。
 吉重の子息には、明応二年(1493)の吉重(心月清公禅定門)三回忌を主催した「藤原重泰」(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門大祥忌拈香」)があり、同五年(1496)と推定される「永原千句」にも「重泰」の名が見える。また同七年(1498)六月には吉重五回忌を主催した「永原越州太守藤原重秀」がいる(『翰林葫蘆集』所収「心月清公禅定門七周忌拈香」)。同年四月十四日付「菅原神社本殿棟札」では、やはり越前守重秀が神主藤原重宗とともに署名している。どちらも吉重の子息として法事を行なっており、重泰と重秀は兄弟あるいは同一人物と考えられる。神主も藤原氏で「重」の字を使用しており、一族であろう。
 また吉重の弟式部丞氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子にしている(前筑州重頼画賛)。氏重(京華集拾遺十二所収「慶堂号」)は、文亀二年御上神社文書で「永原式部殿」)とされている人物であろう。御上社は楼門の屋根葺替え資金のため、社領である三上山の山林を売り渡しているが、その中で永原氏では「永原大方殿」「永原式部殿」「永原殿北殿」らが山林八十三筆を買得しており、他の買得者を大きく上回っている。それぞれ氏重母・式部丞氏重本人・氏重妻と考えられる。氏重は六角氏綱の一字書出を給付された六角氏近臣と考えられる。画賛では筑前守重頼を「故吏部頼信善叟公令子、而心月翁家姪也、実一門栄耀可観矣」とあり、氏重の養子になり、心月翁(吉重)の家姪になったことは、実に一門の栄耀であると述べている。これで重頼が六角氏の出身と分かる。六角氏から養子を迎えることで、富裕者であった永原氏は家格を上昇させたことになる。

鳥羽氏と永原氏
 市三宅城主永原氏系図では、六角高頼の兄弟永原高賢(信賢)の養子が氏高(「始者信頼」)だという。伊勢赤堀氏出身というのは藤原姓永原氏出身ということであろう。また永原伊豆家の系譜伝承である『永原氏由緒』では高賢を「重賢」とし、重秀がこの重賢の養子であるという。では、この高賢・重賢は誰であろうか。実は、六角氏の一族鳥羽氏が鳥羽・江部両庄の地頭であった。
 観応の擾乱の観応二年(1351)八月四日付文書では、六角氏頼の三弟山内定詮(近江守護代)が石山寺領富波(鳥羽)庄を軍勢の宿所として兵糧米を課したため、尊氏から押妨の停止を命じられている(前田家文書)。文和三年(1354)四月八日付文書では、京極導誉が佐々木美作前司(富田秀貞)の跡地として江辺・富波の下司職を足利義詮から与えられた(佐々木文書)。しかし同三年閏十月山内定詮は再び半済をかけた(前田家文書)。六角氏は地頭として、京極氏は下司として、両者ともに権益を有することになった。定詮の没後、富波荘では孫高信が軍事行動のたびに半済をかけたため、康暦二年(1380)六月十二日、領家石山寺はその停止を幕府にもとめ、管領斯波義将は近江守護六角満高に停止を命じている(前田家文書)。これは六角氏が近江守護だったからである。しかし、それでも高信の押妨は止まらず、同年十一月十二日石山寺は再び押領を訴えている。六角氏は守護として荘園年部の半分を兵糧米として徴収できる半済の権益を有しており、高信の押領を認めていたのだろう。
 高信の近親者であろう信清はいちど富波を離れたが、翌年の永徳元年(1381)七月五日付文書によれば、信清が復帰して再び領家職半分を押領したため、管領斯波義将は守護六角満高に返還を命じた(前田家文書)。しかし押領が止まらず、十月十二日幕府は小串下総守・市太郎右衛門を検使として派遣している(前田家文書)。
 ところで、この信清のとき江辺庄内菅原神社神主は藤原清重であった。「重」の字から永原氏の一族と考えられ、また「清」の字は地頭鳥羽信清の一字書き出しであろう。鳥羽氏が江辺庄に進出していたことが分かる。
 幕府による停止命令にもかかわらず高信の押領は止まず、刃傷など狼藉に及んだ。そのため、十二月十二日管領斯波義将は京極高詮(もと六角高経)に返還を命じた(前田家文書)。これは京極氏が同庄下司だったからである。しかし六角氏一門衆である高信が、六角氏を除籍されて帰家していた京極高詮の命令に従うはずもない。
至徳四年(1387)六月十三日・明徳四年(1393)八月四日・応永二年(1395)三月十二日付文書によっても、鳥羽高信の遺族による押領は止まず、管領斯波義将は守護六角満高に石山寺への返還を命じている(前田家文書)。満高が近江守護であり、惣領だったからである。
 また『碧山日録』によると、寛正元年(1460)京極氏被官隠岐守某(守護代隠岐氏)が江辺荘を食邑にしていたという。もともと権益を有していることを考えれば、京極氏以前に江辺庄下司であった富田秀貞の子孫であろう。京極氏の代官として江辺庄にあったと考えられる。しかし文明八年(1476)七月六日慶寿院等順は、富波荘が「敵国」であることから、室町幕府に替地を要求して、若狭国藍田荘を得ている(政所賦銘引付)。このことで、六角方の押領が続いていたことが分かる。
 鳥羽氏は山内定詮の子息五郎左衛門尉詮直に始まり、五郎左衛門尉高信(詮直子)・五郎左衛門尉高頼(山内定詮孫、次郎左衛門尉義重子)と続いた(『続群書類従』巻百三十二および百三十三佐々木系図)。続群書類従巻百三十二では鳥羽高信を、氏頼の次弟愛智河直綱の子にも記しており、観応の擾乱で尊氏派の近江守護であった愛智河直綱の跡を継承していたと分かる。観応の擾乱で氏頼は出家し、次弟愛智河直綱(四郎左衛門尉)が尊氏派に、三弟山内定詮(五郎左衛門尉)が直義派になって、それぞれ近江守護に補任された。高信が祖父定詮と同じ通称五郎左衛門尉を名乗りながら、山内氏を継承しなかったのは、大伯父愛智河直綱の跡を継承したからだと分かる。
 さらに永原安芸家を六角高頼の兄高賢の子孫とする系譜伝承は、鳥羽五郎左衛門尉高頼を六角高頼と混同したとも考えられる。三宅城主永原氏系図に見られるように、系譜伝承で安芸家の通字を「高」とし、また「信」「頼」の字が系譜伝承で見られることは、鳥羽氏の高信・信清・高頼の名を連想させる。
 地頭鳥羽氏出身であろう六角氏奉行人重信は、文明七年(1475)十一月六日(野洲郡兵主神社文書)から明応七年(1498)十一月二十一日(永源寺文書)まで奉行人として活躍し、署名した奉行人奉書六通を確認できる。連署人は後藤三郎左衛門高種(兵主神社文書)や(姓欠)久継(芦浦観音寺)・久健(醍醐寺文書)・久澄(永源寺文書)、および三上越後守頼安(芦浦観音寺・永源寺文書)である。
 さらに延徳元年(1489)十一月十日から明応八年(1499)九月七日まで、永原重隆も六角氏奉行人となり、三通の六角氏奉行人奉書に署名している。連署人は(姓欠)久継(小佐治・長命寺文書)、久澄(永源寺文書)である。この奉行人重隆を天文期の越前守重隆と同一人物とすると年代が合わない。また花押も異なり、奉行人重隆の花押はやはり奉行人重信の花押に似ており近親者と分かる。明応七年(1498)の菅原神社本殿棟札見える越前守重秀と重隆は同時代人であり、『永原氏由緒』で重秀の養父とされる「安芸守重賢」は重隆であろう。

永原氏系図の復元
 永原氏の系図には、越前家の庶流永原伊豆家に伝わる『永原氏由緒』と、三宅氏の子孫と考えられる市三宅城主永原馬允家に伝わる三宅系図がある。『永原氏由緒』は、伊豆家の飛騨介実治を安芸守実賢の養子とし、また三宅系図は永原馬允家を安芸家に自らをつなげており、両者の系譜伝承から慎重に安芸家の系譜を復元できよう。
 まず『永原氏由緒』で安芸(大炊)家に相当する人物は、まず安芸守重賢である。重賢は重秀の養父重隆に相当し、永原越前守重行(資料上の吉重)の娘を娶り、さらに越前守重行の子重秀を養子にしたという。この安芸守重賢の実子が山城守重時と左馬允重春と推定できる。さらに安芸家の人物を探すと、越前守重秀の嫡子筑後守重頼、七男とされる安芸守頼信、さらに筑後守重頼の五男とされる大炊助重冬である。そのまま年代順に人物をつなげると、安芸守重賢―山城守重時―筑後守重頼―安芸守頼信―大炊助重冬である。
 『江源武鑑』では安芸守信頼と記していることから、単に氏重の法名頼信に由来するというだけではなく、相当する安芸守某がいたと分かる。資料の安芸守重澄であろう。
 また飛騨介実治の養父とされる安芸守実賢(三宅系図では「実高」)も官途名から安芸家の人物と考えられるが、同書では飛騨介実治の父として見えるだけである。しかし『永原軍談』は対三好入洛戦を永禄八年のこととした上で、戦死した人物を安芸守実賢と記すため、実賢は資料上の安芸守重澄と分かる。
 ところで安芸家の永原重澄の系譜上の名は頼信・信頼・実賢・実高とさまざまに伝わるが、系譜で実名が正しく伝承されないことはよくある。同じく六角氏重臣である永田刑部少輔景弘は、『寛政重修諸家譜』では「正貞」と記されている。この場合、永田刑部少輔景弘は鎌倉期の永田四郎左衛門尉貞綱の子孫であることを示しているように、系譜上の名には何かしらの意味がこめられている。安芸家の系譜上の実名も同様であり、その諱字から永原安芸家が鳥羽高信・信清・高頼の子孫と分かる。

永原氏歴代
 野洲郡における馬淵氏から永原氏への支配権力の交替は、大笹原神社の棟札で知られる。まず正和五年(1316)に屋根の上葺きをしたときの棟札が残されているほか、十一枚の棟札が残されている。現在の本殿は応永二十一年(1414)に再建されたが、そのときの棟札には「上神主馬渕殿」「神主代山川藤九郎幸久」の名を確認できる。しかし文亀元年(1501)におこなわれた本殿葺替えの願主は永原重秀であり、永正十五年(1518)には越前守重秀が幕府から所領・所職の安堵状を受けている。
 また「永原式部殿」氏重(吏部頼信善叟公)は筑前守重頼を養子に迎え、永原氏は家格を上昇させた(前筑州重頼画賛)。その子孫が永原筑前・安芸家である。
 
永原越前家の系譜
 越前家を継承した越前守重秀は、野洲郡と甲賀郡の境に小堤城を築いて居住した。小堤城は野洲・栗太両郡の中で最大の山城で、郭の配置は東山道を意識しており、六角氏の指示で築城されたものと考えられる。
 重秀の子息重隆は、(大永五年)正月二十九日付永原太郎左衛門尉宛伊勢貞忠書状案(書札之御案文)から資料で確認できる。前世代の永原安芸家の人物である六角氏奉行人重隆とは別人である。このように安芸家と越前家に同名の人物がいることが、系譜の混乱につながっていると考えられる。また『永原氏由緒』に重隆が記されていないことも、安芸家と越前家の重隆が混同されていたことを示している。
 大永七年(1527)六角定頼が足利義晴の入洛に供奉したとき永原重隆(太郎左衛門)も従軍していることが、十月九日付山崎惣庄中宛永原重隆書状(離宮八幡宮文書)で分かる。また、このころ重秀から重隆に世代交代があったことは、細川高国派であった讃岐守護代香川元景(中務丞)からの(年未詳)十一月十二日付永原太郎左衛門尉宛書状写(阿波国徴古雑抄所収飯尾彦六左衛門文書)に「仍越州之御時」とあることで確認できる。
 天文九年(1540)に伊勢神宮内宮の造り替えが行われ、同十一年(1542)十二月に完成した仮殿に遷宮されたが、この造営費用七百貫文は、永原氏が支出した。永原氏が富裕であったことが確認できる。
 軍事面でも、天文八年(1539)永原越前守重隆が六角軍を率いて摂津国に出陣し、また(天文十六年)十月十一日付永原太郎左衛門尉宛細川晴元書状写(諸家文書纂)で、永原太郎左衛門尉(重興)が西京大将軍口合戦で比留田弥六の首級を挙げたことを感謝されている。弘治元年(1555)には永原越前守(重興)宛に七月三十日付松永久秀書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)と八月二十日付安見宗房書状があり、また永原越前守入道宛に十一月七日付浅井三好長慶書状写(阿波国徴古雑抄所収三好松長文書)がある。弘治二年(1556)三月二十四日於江州永原越前守新宅張行と称して宗養紹巴永原韻があった。
 しかし永禄三年浅井長政が自立を目指した野良田の戦いでは、永原太郎左衛門が従軍しており(江濃記)、越前守重興から太郎左衛御門に家督が交代している。その翌四年(1561)三月越前守重興が没した。
 ところが同年七月に六角氏の総大将として永原安芸守重澄が軍勢一万余騎を率いて京都に出陣したが、七月十五日付永原重虎書下写(久我家文書)、七月二十七日付安芸守重澄・永原重虎連署状(禅林寺文書)、八月九日付孫次郎重虎・安芸守重澄連署状(金蓮寺文書)とあるように、太郎左衛門ではなく孫次郎重虎が従軍している。永原越前家の家督が太郎左衛門尉から孫次郎重虎に交代していた。あるいは『江濃記』でいう「永原太郎左衛門」は安芸守重澄のことかもしれない。
 同七年(1564)浅井長政が美濃斎藤竜興を攻めたときには、斎藤氏と結んで挟み撃ちすることを永原新左衛門が進言している(江濃記)。この新左衛門が孫次郎重虎と考えられ、永禄八年十二月二十八日付南千熊宛永原重虎書状もある(安土城考古博物館所蔵文書)。そのため織田信長が近江に侵攻したときの永原越前守は重虎と考えられる。
 越前守重虎および一族と思われる飛騨守・伊豆守重綱ら永原五人衆は、信長と早くから連絡を取り、越前守重虎は永禄十一年(1568)四月二十七日付永原越前守宛信長条書(護国寺文書)で、「深重に入魂の上は、向後表裏・抜公事のないこと、知行は去年与えた書付のとおり相違ないこと、進退は今後見放さないこと」が約束されている。去年の書付というのは、永禄十年(1567)稲葉山城攻略と関係があろう。『永原氏由緒』によれば永原大炊助の妻は美濃斎藤氏であり、永原氏は美濃には明るかったと考えられる。そのため信長による稲葉山城攻略に関与したのだろう。それ以来、永原氏は信長に誼を通じていたことが、信長条書で分かる。しかし『信長公記』に大炊助も越前守も登場しない。
 大炊助は、三上若宮相撲頭人記録天正六年条に「去年永原大炊介被召失付而、地下人大略牢人之条、御神事下かた諸事半分に相究候也」とあるように、天正五年(1577)に没落して、神事も縮小された。大炊助が最後の永原氏嫡流と分かる。
 実は『信長公記』には越前守に替わって「永原筑前守」が登場する。越前家と筑前家は混同され、『信長公記』に見える「永原筑前守」は「越前守」の誤記とも見られるが、一箇所の誤りではなく「筑前守」で通されており、越前守重虎ではなく、永原筑前守重康であろう。筑前守は、式部丞氏重の養子筑前守重頼(前筑州重頼画賛)に由来すると考えられる。

市三宅城主永原氏
 この市三宅城主永原氏は、永原孫太郎入道・彦太郎の跡を新左衛門入道正光と争った三宅氏の子孫であろう。『永原氏由緒』によれば、永原重賢の子左馬允重春がその三宅氏を継承して子の備後守と続き、さらに筑前守重頼の子弥左衛門久重が養子に入った(永原氏由緒)。久重の名乗りは、六角義久(江州宰相)の一字書出を給付されたものだろう。明智光秀の家老明智左馬助秀満(三宅弥平次)は、仮名に「弥」の字を使い、左馬助を名乗っており、永原庶流三宅左馬家の出身と考えられ、三宅永原氏の三宅藤右衛門が明智光秀の家臣に見える。安芸家惣領の大炊助重冬も、天正十年(1582)明智光秀の乱で観音寺・安土落城後に明智氏に属し、山崎の戦いで戦死した。
 市三宅城主永原氏系図で左馬允郷高・源八高盛らは左馬允を通称としており、この市三宅城主三宅氏の子孫と考えられる。このうち源八高盛の子右馬允郷孝は、天草島原一揆で幕府軍大将の板倉重昌を見舞い戦死したという。これは、寺沢家重臣三宅藤兵衛が討死にしたことを伝えているのかもしれない。そうであれば三宅藤兵衛は明智秀満の直系の子孫ではなく、同じく三宅永原氏の子孫であろう。
 また実名に「高」の字を使用する永原刑部大輔高照(一照)も安芸家出身と考えられるが、山内一豊が長浜城主だったときに仕えて山内家家老になり、一豊から山内姓と諱字を給わった。また一族の乾正信も山内家の重臣となり、一照の次男正行(平九郎)がその跡を継承している。通字の「正」は永原新左衛門入道正光を連想させ、また通称の「平九郎」は三宅弥平次を連想させる。三宅永原氏の一族であろう。

永原伊豆家の系譜
 越前家の庶流永原伊豆守重綱の長男実治(飛騨介)は安芸守重澄(実賢)の養子になったが(永原氏由緒)、飛騨介を名乗っていることから越前家庶流の飛騨家の世嗣であり、安芸家の猶子と考えられる。伊豆守の次男伊豆守重治(辰千代)は伊豆家を継いだが(「永原豊次家文書」所収天正十年六月二十五日付永原辰千代宛織田信孝知行宛行状)、兄実治後に安芸家を継承したと伝えられているように、越前家の人びとは安芸家の猶子になることが慣例であった。しかし実際には安芸家を継承したのではなく、伊豆守を名乗っているように、安芸家の猶子であろう。
 伊豆守重治は織田信孝・豊臣秀次と仕えて秀次事件で蟄居したが、豊臣秀頼に再仕官して大坂落城後には行方不明になっている。その嫡子小三郎重光は大坂落城後に中北村に蟄居し、子孫は世を憚り福谷氏を名乗った。実は伊豆守重治は織田信孝与力の時代に、朝倉氏旧臣赤座直保の子右京孝治を養子としていたことから、赤座直保が関が原の戦いで改易されると、孝治は永原伊豆家を再興する形で加賀藩主前田家に仕え、松任城代になっている。孝治の「孝」の字は織田信孝の一字書出だろう。

長岡藩主牧野忠成の正室永原氏
 実は長岡藩主牧野忠成の舅が永原道真の娘である。そして永田氏など六角氏旧臣が牧野家に仕えている。永原道真の特定はできないが、法名の可能性も考えて調査する必要があろう。永原越前守重興の法名が「前越州太守雲仲道芥大禅定門」(常念寺)であるように、「道」の字を法名に使用した者がいるからである。
 永原には、江戸時代前期に将軍が上洛する際のお茶屋御殿(専用宿泊所)である永原御殿があり、近江には四か所のお茶屋御殿があった。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿があり、東海道には水口御殿が設けられていた。永原御殿の成り立ちは明確ではないが、慶長六年(1601)に徳川家康が江戸へ向かう途中に宿泊しているのが最初である。以降、慶長十九年(1614)までの間に家康・秀忠が七回宿泊し、元和元年(1615)と元和九年(1623)に秀忠が宿泊している。寛永十一年(1634年)の三代将軍家光の宿泊が最後となり、貞享二年(1685)に廃止された(滋賀県野洲市永原御殿跡現地説明会資料)。
 そのため徳川家と永原には交流があり、慶長八年(1603)に徳川家康より菅原神社に社領として五石寄進され、同十二年正月に三石四升三合が加増された。これは祈祷千句料として寄進されたものである。この千句料について、菅原神社では「其前永禄元年戊午正月義元公願主ニ而相勤申候、尤千句料置付田地も有之、其后芦浦観音寺殿御支配之節、格別ニ御取立、則正月十日より十三日迄御出仕被成候、其后角倉与市殿、古部文右衛門殿、石原清左衛門殿、牧野備后守殿より、巻頭の御発句斗冬之内ニ被下候、只今御支配多羅尾四郎左衛門殿え不相替御祈祷之御礼並御千句三つ物相添満座後差出申候、右御初穂金百疋ヅゝ毎年来り申候、先年角倉与市殿より者白銀三枚、其后鈴木小右衛門殿、牧野備后守殿より者銀壱枚被下候、」と伝えている。牧野忠成の一族牧野備後守の名も見える。

おわりに
 『野洲町史』は良堂正久二十五周年忌で相国寺横川景三が良堂正久を「賜藤氏」と記していること、正公文源正満丸が正久の父正光本人か近親者であることに気づかなかった自らの探究不足で、永原氏を佐々木庶流という系譜伝承を否定した上で、「沢田源内」による偽系図と断罪している。しかし安易に「沢田源内」批判することは、それ以上の探究を止めてしまう。そろそろ系図研究は、「沢田源内」から解放される必要があるだろう。

民主党代表選と大マスコミの没落

 民主党代表選の党員・サポーター票では、菅直人首相が249ポイントで、小沢一郎前幹事長の51ポイントのほぼ5倍のポイントを獲得して勝利した。しかし、それは衆院選挙区ごとに票数の多い候補が1ポイント獲得する「総取り制」のためで、投票総数では菅氏13万7998票、小沢氏9万194票と6対4であった。これは、マスコミ発表の世論調査で見られた8対2よりも拮抗している。
 大新聞やテレビの小沢氏に対するネガティブ・キャンペーンが激しかったにもかかわらず、党員・サポーター票の4割を小沢氏が獲得したことは、彼らが新聞・テレビ以外からの情報で判断したということを意味している。これは、マスコミの敗北を意味しているのではないだろうか。インターネットの普及とともに、一方的な情報ではなく、多くの情報を集めて自ら判断しようとする人々が増えたということを意味していよう。
 今後、小沢氏に投票した党員・サポーターはどのような行動をとるのだろうか。とても興味がある。

能登畠山氏と佐々木氏

 能登にも佐々木氏が多く分布しているが、能登畠山氏は佐々木六角氏と重縁の関係にあり、義綱の奉行人馬淵綱重(彦三郎)は近江六角氏の重臣馬淵氏の出身と考えられる。また六角義賢(承禎)も晩年の一時期を能登で過ごし、自画像を遺している(裏本友之氏所蔵文書)。この佐々木六角氏と能登畠山氏を結ぶのが、羽衣伝説で有名な近江国余呉荘であった。
 三河松平氏も、松平益親(泰親息、式部丞)が日野裏松家代官として近江国菅浦に派遣され、菅浦住民と対立した際には、三河から援軍が来たと菅浦文書にある。こうして近江武士が三河に移る素地ができた。
 近江には多くの荘園があり、しかも領有関係が錯綜していたため、近江武士はさまざまな勢力と関係を持つようになり、各地に広がる素地があったと考えられる。

京極導誉と余呉荘領家金蓮寺
 近江国余呉荘は南北朝期から荘園として見え、領家は大炊御門家であった。大炊御門家は藤原道長の孫関白藤原師実の子孫であり、近衛大将を経て太政大臣に至る清華家のひとつという公家の名門である。
 文和元年(1352)将軍足利義詮は、余呉荘が要害の地であったため袖判下文で佐々木導誉を地頭職に補任した(佐々木文書)。余呉荘は北国街道の要衝であり、さらに飯浦まで含むことから琵琶湖を経由して京へ通じて水運でも要所だったからである。永和三年(1377)の散位成顕契約状案によると、余呉荘領家職は大炊御門家が所持していたが、下地(領地)の支配をめぐり領家と地頭の間で訴訟があり、余呉荘下郷を領家の取り分にする下地中分で和与(和与中分)が成立した。
 さらに大炊御門家は自らの取り分を守るためにその一部を、導誉も信仰していた京都金蓮寺(四条道場)に寄進した。これで、導誉は領家分を押領できなくなった。
 大炊御門家と時宗の関係は一遍以来のものであり、『一遍聖絵』によれば、大炊御門二品禅門(正二位権中納言冬輔)が一遍と結縁し、さらに『一遍聖絵』の絵師円伊に同定される園城寺の円伊僧正が大炊御門家の庶流鷹司家の出身である。
 また導誉と時宗の関係は、隠岐佐々木氏と一遍の交流に始まる。隠岐佐々木時清の所領のひとつ信濃国大井荘小田切郷は、時清の母大井氏が地頭であったが、一遍の念仏踊の始行の地となり、時清母は一遍と結縁して極楽往生を遂げた。時清の一族はその後も時衆と深く関わっている。このことで、導誉と時宗の関係も見えてくる。

       ┌満信─宗氏
       │     ┠──高氏(導誉)
 京極氏信┴宗綱┬女子
           └女子
             ┠──清高
     隠岐時清─宗清

 時清の嫡子宗清は評定衆佐々木宗綱(京極家惣領)の女婿であり、宗清は評定衆佐々木宗氏(京極家庶流佐渡家)とは相婿の関係にあった。この宗氏の子が導誉(京極高氏)であり、導誉は宗清の甥に当たる。
 導誉は、足利義詮によって与えられた京都四条京極の土地を五日後には金蓮寺に寄進しており、さらに翌二年七月には近江国甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した。足利尊氏はこれらの寄進状の袖に花押を据えて保証している。これが、延文元年八月二十三日付け、および同二年七月八日付けの足利尊氏袖判佐々木導誉寄進状(金蓮寺文書)である。さらに同二年七月八日に、導誉は隠居地甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した。甲良荘内には道場が建てられ、導誉も出入りしていたと思われる。佐々木一族は金蓮寺の発展に大いに寄与していた。
 また『菟玖波集』巻五と巻十六で導誉と並んでいる底阿上人は渡船上人と考えられ、両者は親しく交流していた可能性がある。また自空上人は、導誉の従兄弟隠岐守護佐々木清高の子息重清(検非違使)の後身と考えられる。
従兄弟佐々木清高滅亡、出雲守護職獲得により、導誉は自らが隠岐佐々木氏の後継者であると強く意識していたのだろう。そのことが時宗保護につながっていたと考えられる。

近江余呉荘領家と京極氏
 導誉の孫京極高詮は、応永元年(1396)足利義満御判御教書により余呉荘地頭職を安堵され(佐々木文書)、さらに二年後の同三年(1398)に余呉荘内菅並・八戸を下坂豊前守に恩給として与えている(下坂文書)。
 下坂氏は、近江坂田郡下坂郷の国人領主であり、清和源氏頼信流という系譜伝承をもつ。下坂重茂は建武三年(1336)七月足利直義から感状を受けており、早い時期から足利氏与党であったことが知られる。さらに観応三年(1352)に足利義詮から感状を受けたが、その中で近江守護佐々木秀綱の注進で八幡での忠節が知らされたことが記されており、秀綱のときに京極氏の指揮下に入ったことが分かる。近江守護は六角氏であったが、近江北郡の軍事指揮権は京極氏が有していたのである。重茂は実子茂俊がいたにもかかわらず、高島越中守(平井師綱)の子息重秀を婿養子に迎えて下坂氏惣領とし、北近江での地歩を固めている。交通の要害余呉荘内に所領を得たことは、下坂氏の地位の高さを示していよう。
 そのうち菅並は、もともと金蓮寺が領家職を有していたが、このときは地蔵院が所有していた。そのことは永和五年(1379)金蓮寺の祖光が寺領の半分を山城地蔵院に譲渡したことで分かる。このように金蓮寺が寺領の一部を地蔵院に寄進したのは、高詮の時代には金蓮寺との関係も薄れ、もはや金蓮寺の名では領家分を保護できなかったからである。金蓮寺は寺領の権利を少しでも守るため、その半分を管領細川頼之建立の西山地蔵院に寄進したのである。時の実力者細川頼之が建立した地蔵院に寄進すれば、京極氏も簡単には押領できないだろうと考えたのである。こうして領家と地頭京極氏の抗争は、大炊御門家から金蓮寺、さらに地蔵院に引き継がれた。
 応永二十四年(1417)幕府は余呉荘内丹生・菅並を山城地蔵院に安堵している。このことで、京極氏と領家の対立が再開されたことが分かる。高詮の孫京極持高(吉童子丸)の時代には、地蔵院の威光も届かなかったようで、京極氏被官が地蔵院領を押領したのである

 高氏(導誉)┬秀綱
        ├秀宗
        └高秀―高詮―高光―持高(吉童子)

 京極氏被官人の地蔵院領押領に対して幕府は、近江守護佐々木六角満綱に押領排除命令の施行を命じ、さらに満綱は施行を楢崎太郎左衛門入道に命じている。近江守護は六角氏であり、京極氏は近江北郡の軍事指揮権のみを有していたのである。
 楢崎氏は近江国甲良荘内の楢崎に本拠を持ち、六角氏の近江守護代・郡守護代を勤める家柄であった。地頭職は京極氏が保持していたが、北郡の使節遵行権は近江守護六角氏が有したため排除命令の施行を命じられ、楢崎氏が施行したのである。
 そして、京極氏の余呉荘支配は六代将軍足利義教の恐怖政治のときに断絶し、永享七年(1435)までに能登守護畠山満慶が余呉荘地頭職を獲得していた。

余呉荘をめぐる京極氏と能登畠山氏
 永享七年(1435)までに能登守護畠山満慶が、余呉荘地頭職を拝領していたことは、満慶が丹生菅並両村の荘園押領で地蔵院から訴えられていることで分かる(地蔵院文書)。また押領の事実から能登畠山氏による支配が継続的だったことも分かる。足利義教の恐怖政治の時代に、余呉荘の支配は京極氏から能登畠山氏に移ったのだろう。
 ところが、応仁・文明の乱のあった文明年間(1469~87)余呉荘は将軍足利義政によって比叡山延暦寺に寄進された(佐々木文書)。応仁・文明の乱の過程で大炊御門家・金蓮寺・地蔵院が衰退して荘園を維持できなくなったのだろう。こうして余呉荘の領家は、比叡山延暦寺に移った。
 また、この文書が京極・尼子氏伝来文書の佐々木文書に収められていることから、京極氏が地頭に一時的に復帰していと分かる。応仁・文明の乱で能登畠山氏が西軍の一員として反幕府的行動をとっていたために、足利義政によって余呉荘は能登畠山氏から取り上げられ、京極氏に与えられたのだろう。あるいは余呉荘をめぐり対立する京極持清が東幕府の実力者であったため、能登畠山氏は西軍に走ったと考えられる。
 しかし、こののち能登畠山氏は余呉荘地頭職を復活させた。「松下集」によれば、招月庵正広は文明十二年(1480)七月末に能登畠山義統に招かれて八月初めに出立し、「十日、江州余呉庄と云所に舟よりあかりて、平新左衛門尉光知所にて一続ありしに」および「十三日、左馬助義元家にて一座ありし中に」とあるように、途中の近江余呉荘の畠山氏重臣平光知、および畠山義元邸に立ち寄り歌会を催している。
 さらに「永光寺年代記」に「(延徳)二庚戊、能州へ左馬亮殿御下向」とあり、義元が少なくとも文明十二年(1480)から延徳二年(1490)までの十年間ほど余呉荘に居住していたことが確認できる。
 ところで『江北記』の「(京極氏)一乱初刻御被官参人衆事」に「東蔵(畠山殿、文亀二年より)」とある。畠山氏旧臣の東蔵が文亀二年(1502)から浅井氏に仕えていたという。永正年間(1504~21)に東蔵坊春将は余呉荘惣政所として、現地で実質的支配権を有しており、浅井氏に与することで京極氏に対抗し、余呉荘の実質支配をすすめたと考えられる。
 このように余呉荘をめぐる利害関係を見てくると、戦国期に能登畠山氏が近江守護六角氏と縁戚関係を築いたのは、京極氏と対抗して余呉荘の権益を守るためと考えられる。六角定頼女が畠山義総の嫡子義続に嫁ぎ、また義総女が六角義賢(定頼息)に嫁いで縁戚関係を築き、さらに義賢女が畠山義綱(義続嫡子)に嫁いで、六角氏と能登畠山氏は重縁を結んだ。義綱の奉行人馬淵綱重は、義綱室の女佐の臣から奉行人になったと考えられる。
 
      六角定頼女 ┌─義明─(養子)義春
           ┠─┴義綱
 畠山義総─┬義続   ┠──義慶(義隆)──義春(春王丸)
        └女子  ┌女子
           ┠─┴義治(義弼)
 六角定頼──義賢
         (承禎)

 能登畠山氏と六角氏の関係は、一向一揆に苦しむ北陸道大名が、本願寺と縁戚関係にある六角氏と閨閥を築くことで、一向一揆対策としたとも考えられるが、余呉荘支配を有利に進めるために、六角氏と結んだとも考えられる。余呉荘は能登と京都を結ぶ交通の要所であり、能登畠山氏にとっては嫡子が居住するほど重要な拠点であった。
 その後、権力強化を進めていた畠山義綱は永禄九年の政変(1566)で能登を追放され、嫡子義慶(義隆)が長続連・綱連父子に奉じられ傀儡政権となった。義綱は六角氏を頼り近江坂本に走り、能登畠山氏再興運動を展開した。また義綱の弟義明は上杉謙信に保護されて上条上杉氏の養子になり、上条政繁と名乗った。この時期は河内畠山氏(管領家)でも、畠山政頼・遊佐新次郎・安見宗房(遊佐美作守)が近江に走っていた。両畠山氏が近江に亡命していたのである。
 能登畠山義綱らは、六角氏の支援と上杉謙信・神保長職らの連携により、永禄十一年(1568)に能登に侵攻したが、失敗した。その後も能登復帰のために画策しており、天正の織田信長包囲網では、六角義堯が上杉謙信を頼っていた長景連と連絡を取って、上杉謙信と連携している。
 能登では義慶が病没し、遊佐氏と対立した長続連父子は織田信長に誼を通じたが、天正五年(1577)には上杉謙信に七尾城を攻められて滅亡した。七尾城には義慶室三条氏と嫡子春王丸があり(歴代古案)、春王丸は上杉謙信の養子になって「義春」と名乗り、幕府高家畠山家の祖となる。義春と上条政繁(義明)は混同されるが、これはどちらも上杉謙信の養子になったためである。『歴代古案』所収の(天正五年)十二月十八日付北条安芸守(高広)宛上杉謙信書状によって、義慶が義隆と改名し、その義隆の遺児を上杉謙信が養子にしたことが分かる。幕府高家畠山氏の祖義春は義慶の遺児春王丸(義春)だろう。
 義綱は、文禄二年(1593)十二月二十一日に余呉荘で没していることから、能登は失ったものの、豊臣政権のもと余呉荘支配を復活させていたことが分かる。上条政繁(義明)も上杉景勝の許を去って上洛して畠山義明と名乗り、幕府旗本畠山・上杉家の祖となっている。

【参考文献】
青木啓明「近江国余呉荘の調査をめぐって(東京学芸大学による余呉
 荘故地現地調査の報告)」つぶて2号、1999年。
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会、1968年。
東四柳史明「能登畠山氏家督についての再検討」国学院雑誌73巻7
 号、1972年頁。
東四柳史明「畠山義綱考」国史学88号、1972年。
宮島敬一『戦国期社会の形成と展開』吉川弘文館、1996年。
米原正義『戦国武士と文芸の研究』おうふう、1976年。
東京学芸大学日本中世史ゼミ「余呉荘現地調査」(青木啓明「近江国
 余呉荘の調査をめぐって」つぶて2号、1999年)
 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3657/yogo/yogoindex.html/
『七尾市史』。
『新修七尾市史』

女性からの告白―女性に主体性があるほど良い関係になれる(対話法)

 女性から告白していいのかどうか悩む女性は多いようだ。女性から告白すると、告白した弱みとして男性に対して従属の立場になるという意見もある。「惚れた者の弱み」だ。しかし、男性から告白するという習慣は男性優位の社会で築かれたものであり、男性の側に選ぶ権利があったということだ。だから女性から告白することは、女性が選ぶ側であり、女性に主体性があることになる。女性から告白したからといって、けっして女性が従属する形にはならない。「惚れた者の弱み」は、男尊女卑の社会で、女性を大切にする男性が他の男性への言い訳として言ったものだ。
 もし女性が告白したら、別れるのも女性に主体があることになるだろう。付き合ってみたところ、「こんな男性だとは思わなかった」と思えたら、やはり告白した女性から別れると言い出せるだろう。けっして告白した側が従属する立場になるわけではない。だから恋愛の主導権を握るためにも、好きな人ができたら女性から告白してほしい。男性は、告白された場合にはまずは受け止める。だから、あまり心配しなくて良い。
 男性はプライドが強いから、男性から言わせるのが良いいう意見があるが、それも的外れだ。女性から告白されて、プライドが傷ついたという男性の話は聞いたことがない。むしろ女性から告白されたことは自慢になるだろう。プライドということでいえば、他の男性とばかり話していたら男性のプライドは傷つけられる。なぜ他の男性と話して、自分とは話さないと不満に思うし、自分は嫌われていると思うだろう。そしたら相手の男性はあなたを避け始める。彼のことを他の男性に相談しても、彼は面白くない。直接自分に聞けばいいと思うのが、男性の側の素直な気持ちだ。他の男性に相談していったら、彼が誤解して避けるようになることはよくある。これで駆け引きがうまくいかないことも分かるだろう。話を面倒にするだけだ。
 男性は女性ほど周囲に気配りできないし、女性ほど相手の気持ちを汲み取ることもできない。単純に、優しくされると自分のことが好きなのかなと思うし、避けられれば自分のことが嫌いなのかなと思うものだ。だから駆け引きがうまくいく可能性は高くない。他の男性と話して嫉妬させようとしても、それで本命の男性が早々にあきらめてしまったら意味がない。セクハラの時代だから、男性が追いかける可能性も低い。好きと思ったら好きという気持ちに素直になった方が良い。そうすれば、男性は受け止める。
 いま男性はまず受け止めるといったが、これは「据え膳を食わぬは男の恥」ということではない。男性は女性に対して生理的に毛嫌いするとことがあまりない。女性の場合は生理的に受け付けないことがあるけど、男性の場合は生理的に受け付けないことはほとんどなく、むしろ好きと言われたら自分もその女性を好きになるという男性は多い。「美人は三日で飽きるが、不美人は三日で慣れる」が、男性の感覚に近い。ふと可愛く思えるところがあると、それで心が癒される。
 それに、やはり女性には好きな人と結婚してもらいたい。女性は、自分から好きになった男性には情熱を持ち続け、やさしく愛し続けられる。男性が幸せ太りすると、かえって浮気できないからいいと考える女性もいる。髪の毛が薄くてもいいらしい。だから女性が情熱的なカップルの方が、結婚してからも満足度が高くなる。男性も粗大ゴミにならずに済むだろう。草食系男子というのも、女性の好意に気持ちよく応じていれば、女性がとても大事にしてくれることを知っているのだろう。女性が男性に甘える関係は、実は男性にとってとても楽で、とても居心地がいい。これが、キャバクラに行く男性の心理だ。わがままとお礼をバランスよくできる女性が、男性にとっては最も居心地のいい女性だから、女性が我慢するのはよくない。おばさんになっても美しく可愛い女性が、男性は好きだから、女性にはいつまでも美しくわがままであってほしい。女性から告白したなら、そういう関係を続けられるだろう。
 男性が困るのは、むしろはっきり言ってくれない女性だ。どうしていいのか男性は困惑してしまい、それで女性のことを面倒くさいと思ってしまう。コミュニケーション(対話)はお互いに自分の気持ちに素直になったときに成立するものであり、どちらかが我慢していたら成立しない。いい関係は、お互いが主体的に行動することで、新しい関係を構築できる関係だ(対話法)。どちらか一方が我慢する関係では、そこから新しいものを築けないから、関係は停滞して行き詰まる。まず自分の気持ちに素直になることが大切だ。それに男性がわがままより、女性がわがままな方が、恋人・夫婦関係が穏やかなことは容易に想像つくはずだ。二人は楽しく穏やかに過ごせる関係になるだろう。
 実は現在セクハラという問題があるから、男性から告白しにくい環境になっている。大学の教員も、女子学生が尋ねてきたらドアを開けっ放しにして対応するほどで、同僚の女性にも話しかけられずに独身率が高まっている。お見合いでしか女性と話せないのだ。そのような時代だからこそ、女性の側に選択の自由があると考えればいい。モテル男性ほど好き避けされているのだから、あなたの席が空いている可能性も高いだろう。
 男性は女性を生理的に受け付けないことはない。それはおそらく、進化の過程でメスをめぐるオス同士の激しい争いを経験してきているからだろう。オスには選ぶ権利どころか、ペアリングできるかどうかが重大だったのだ。好き嫌いは言っていられない。これが自然界におけるオスの偽らざる気持ちだ。あまりに心配することはない。告白したいと思ったら告白した方がいい。あとから両思いだったと知ることも多い。あのとき告白していればよかったと後悔する方がつらいと思う。

好き避けと嫌い避けの見分け方―目を合わさずに目を合わす

 女性は好き避けをしてしまった、どうしようと悩むことが多い。それに対して男性は、好き避けされているのか嫌い避けされているのか、どちらなのか悩むことが多い。女性は自分に自信がないとき負い目を感じるとき、素直に自分を表現できない。男性は自分に自信がないと、相手のちょっとした行動で相手の気持ちを推し量ろうとする、女性が避けたりするともう動揺する。女性が相手のちょっとした行動に敏感になるように、男性も相手のちょっとした行動に敏感になる。
 では、好き避けか嫌い避けか確実に見分ける方法はあるのだろうか。まず、好き避けは首尾一貫性がない。好きだけど避けてしまうのだから、好き・恥ずかしい・どうしよう・このままじゃいけないと、たくさんの感情がそのときどきで強くなったり弱くなったりする。だから、行動に首尾一貫性がない。避けていたなと思ったら近寄ってきたり、話しかけたらまた避け始めたり、目を合わせたり、目を合わせなかったりする。だから気になるし、どう行動していいのか分からなくなる。嫌い避けなら、嫌いという感情だけだから行動にも首尾一貫性がある。同じ挨拶でも、好き避けなら挨拶するときとしないときがあるし、緊張しているから笑顔も引きつりやすい。まず営業用の笑顔はできない。嫌い避けなら挨拶と割り切っているので笑顔で挨拶できる。しかも社会人なら営業用の笑顔でも目をきらきらさせられるので、一般の男性は勘違いしやすい。嫌い避けのときは裏表の顔があるが、相手に見せる表向きの顔の表情には首尾一貫性がある。だから男性は女性の感情を真逆に受け取りやすい。でも、いちど分かれば、とても分かりやすい。
 でも好き避けか嫌い避けか見分ける一番いい方法は、その女性と親しい友達に聞くことだ。彼女が避けていても、彼女の友達があなたを避けていなければ、彼女のグループ内であなたの評判が悪くはなさそうだから、ひとまず安心だ。女性同士は同調性があるから、ものの見方や感じ方だけではなく感情そのものも共有される。これを間主観性という。ときどき友達と同じ男性を好きになってしまうことがあるのも、この間主観性による。
 この女性の友達同士の間主観性に注目すれば、彼女の友達を通して彼女の感情を知ることができる。あなたが彼女の友達に避けられていないのを確認したら、彼女に避けられていることを相談するといい。「嫌われているのかな」と聞けば、「そんなことないよ」と答えが返ってくる。「好きなはずだよ」と答えが返ってきたら最高だ。
 そう、第三者的(客観的)立場では万能な方法はないが、彼女と主観性を共有している友達ならば彼女の気持ちを知っているので、彼女の友達を間に立てるといい。ここで注意してほしいのは自分の友達ではなく、彼女と主観性を共有している彼女の友達だということだ。これはかなり確実な方法である。実は、深刻ではない第三者の意見ほどいい加減なものはない。主観の力こそ大切だ。この場合なら彼女と主観性を共有している友達の意見である。
 また好き避けしている女性の多くは、よく視界の中にいる。目が合うか合わないかは関係がない。女性は目を合わせるのもうまいが、目を合わさないのもうまい。目が合うか合わないかのタイミングで、視線をはずすことができるからだ。だから目が合うかどうかではなくて、いつも彼女が視界の中にいるかどうかが判断基準のひとつになる。そして、あなたの視界の中にいる彼女がいつも笑顔で、しかも近くにいるとすれば、嫌われていないと考えよう。ひとは向き合うと、どうしても対立の関係になってしまう。男女の関係でも同じだ。それで、好きな人の前では何も言えないほど緊張してしまう。横とか後ろや、少し離れたところなら安心してそばにいられる。向き合って沈黙なら気まずいが、横に並んで沈黙ならいい雰囲気だろう。また女性が好きな男性の後ろをちょこちょこ歩きたがるのは、男尊女卑の悪習のなごりではなく、安心して男性のそばにいられる位置なのだ。
 彼女の視界が広いかどうかもチェックするといい。視界の広い女性であれば、まっすぐに見ていなくても、視界の端に好きな男性を置き続けられるからだ。相手に横顔を見せ続けながら、相手を見ることもできる。だから、まず彼女がつねにあなたの視界の中にいるかどうかを確認するといい。物陰に隠れながら彼女を見たらストーカーになるけど、どうどうと彼女の視界の中に入ることはストーカーにならない。まあ、男性もまっすぐ見なくても女性を視界の中に置き続ける技術を持っていた方がいいだろう。これが、「目を合わさずに目を合わす」方法だ。
 あなたの視界の中に必ず彼女がいることが分かったら、彼女の気持ちを試す方法はある。あまりおすすめではないが、他の女性と話してみることだ。仕事の話など、後できちんと言い訳できる内容の話がいい。そして他の女性と話したときの彼女の態度を見るのだ。そわそわしたり、不機嫌になったりすれば、あなたに気がある。嫌いな男性なら、誰と話をしても気にしないはずだ。ただ好き避けする女性は繊細な女性が多いので、気をつけてほしい。そのまま、あなたのことをあきらめてしまうかもしれない。だから、おすすめではないと言ったのだ。
 このように好き避け女性はとても繊細だ。だからメールをしても返事が返ってこなくてもいい。なかなか話の輪に入ってこなくてもいい。あなたの視界の中にいるかどうかが重要だ。メールの返事はどう返事したらいいのか迷っているうちに出す時機を逸したとも考えられる。あなたに嫌われることを恐れて、どう返事するか迷ってしまうのだ。考えすぎて返事が出せないと考えればいい。返事をしたくて一所懸命に考えているから、返事をしないなんて思いもよらず、でも返事内容を迷っているうちに時機を逸して、結果として返事を出せないのだ。そう考えるとかわいく思える。
 話の輪に入ってこないのは、どんな話をしていいのか分からずに迷っているうちに、話の輪に入れないのだ。だから彼女と直接話をしなくても、彼女の友達と話をしていれば、あなたのことは彼女に伝わる。一方通行だが、ひとまずそれで我慢しよう。つねに彼女の視界の中にいれば、彼女も自然とあなたのそばに来るだろう。
 あなたがみんなにお土産を買ってきて、彼女がお土産のお礼をしてくれば、嫌い避けではないのは確かだ。嫌い避けなら、嫌いな男性が買ってきたお土産なんか食べたくない。嫌い避けなら、そこまで拒絶反応がある。
 でも好き避け女性には贈り物をするのも難しい。相手が自分のことを好きだと分かったら、男性は無理をしてでも贈り物をしたいと考える。ところが、好き避け女性は好きな男性からの贈り物を断る場合がある。贈り物をしたところ「受け取れません」と断られたら、男性はとても落ち込んで立ち直れそうにない。しかし、好き避け女性であれば、「受け取れません」と断られた方が男性にとっては良い返事かもしれない。女性は笑顔で受け取りながら、陰で平気で贈り物を捨てられる。高価な物なら質屋にもって行くかもしれない。あるいはインターネットのオークションに出品するかもしれない。他の男性から同じ物をもらっていれば、あなたからの贈り物は質屋に入れても、あなたは気づくことができない。そうであれば、はっきりと「受け取れません」と断られた方が、彼女はあなたに誠実に対応したことになる。実際に好き避け女性の中には、「贈り物を拒否したら、好きだと思われてしまう」と考える女性もいる。好きでもない男性からの贈り物であれば受け取り、好きな男性からの贈り物は「まだ何もして上げられないから」と断るのだ。好き避け女性が贈り物を受け取らなかったら、「高価な物をもらえるだけのことを、わたしはして上げていないので受け取れません」という意味だと考えていい。でも男性としては、女性への贈り物を持ち帰ることはできないよね。プライドもひどく傷ついている。そんなときには彼女の友達に、「彼女への贈り物だったのだけど、拒否されたから捨てといて」と言って渡すのもひとつの方法だ。これで男性としてのプライドを維持できるし、彼女のもとに届く可能性が大きい。
 また贈り物が身につけるものであった場合、彼女が身につけていなかったら、やはり落ち込むはずだ。でも、それは大事にしまっているのだと考えるといいだろう。好き避け女性ならではの行動だと考えよう。
 このように好き避け女性はいきなり高価な贈り物をもらうと、どう返事していいのか混乱してしまうが、うれしいけど遠慮してしまうという奥ゆかしさがあると考えればいい。きちんと付き合うまでは、みんなにお土産を買ってきて、好き避け女性の分も用意しておくという程度がいいかもしれない。
 ここまでくると分かると思うけど、好き避け女性にはまず安心してもらうことだ。すぐに話しかけずにまずは相手の視界の中に入り続けることだ。そうすれば彼女は安心する。他の女性とは、仕事以外では話さない方がいい。彼女が不安がるからだ。そして彼女にあなたの気持ちが伝わるように、彼女と親しい友達と話すよう心がけると安心してもらえる。そのうち彼女も会話の中に自然に入っていけるだろう。とにかく、彼女の友達をうまく使うことだ。自分の友達を使って彼女に伝えるのではなく、彼女の友達を使って彼女に伝えるのだ。これが、彼女の主観性を大切にするということだ。
 また彼女の気持ちを知ったからといって、焦りは禁物だ。あくまで自然に話せるようにしよう。好き避けしている女性は恋愛に臆病になっていることが多いので、あまりに激しく行動してしまうと、彼女が壁を作ってしまうかもしれない。臆病になる理由としては、①恋愛経験が少ない女性、②結婚までは待って!と考えている女性、③過去の恋愛で深く傷ついている女性であることが挙げられる。だから激しく行動すると、つい壁を作ってしまうのだ。だから好き避け女性とは、遊びで付き合おうとはしないことだ。そもそも好き避け女性と付き合うには数年必要な場合があるので、恋愛向きではない。一生の女性として向き合わなければならない。その覚悟がなければ、彼女をあきらめた方がいい。あなたが遊びかどうかを見極めるために、好き避けをしていると考えると分かりやすい。②結婚までは待って!と考えている女性なら、待った方がいいだろうし、本当に好きなら待てるはずだ。男性は自分で処理できるのだから、女性は待たせていることに負い目を感じなくてもいい。そのかわり女性も、彼の部屋でビデオなどを発見しても目くじらを立てないことだ。浮気をしないで自分で処理しているということだからだ。男性はできないと死んでしまうなんてことはない。
 このように好き避け女性と付き合うには、忍耐が求められる。すぐに付き合えないからと怒っていては話がまとまらない。あなたの気持ちを知った後でも、細かいことを気にする。あなたがかつて「胸の小さい女性が好み」と言ったことがあれば、胸の大きい彼女は大きいことを気にする。男性は女性のやわらかさに憧れるから、胸が大きいことはマイナス評価にはならないのに、女性にとってはすべてがコンプレックスになってしまう。そのコンプレックスを一つひとつ解いていくことが必要だから、時間がかかるのは当たり前だ。それだけ彼女は、あなたのことを真剣に考えているのだ。
 でも、女性にも努力してほしいことがある。それは、相手を待たせているのだから、相手の男性が安心して待っていられるように気持ちをつねに発信するということだ。いつまでも避けられているのは、男性としては正直いって面白くない。そこをきちんと理解して意思疎通をていねいにしていれば、あなたが好きになった優しい男性は無理を言わずに、あなたを待ち続けるはずだ。そもそも男性は、本当に好きな女性にはなかなか手を出せないものだ。これは、女性が好き避けするのと同じことだと思えば、女性も納得できるだろう。

弱者の進化論―すでにあるものを使う

 進化の過程を構造として見ると、まず大きな構造は安定しており、大きな変化は起こらない。とくに大きい集団でも個体は多いが、現在のものよりも環境に適している変異が生じることは何万年に一度ほどの確率であり、すでに環境に適している多数派が生存に適していることになる。そのため安定している環境のもとでは大きな変化は起こりにくく、大きな構造はそのまま安定することになる。
 これは社会においても同じで、大きな集団では、集団の母数が多いほどさまざまな個性をもつ者が多くいて、それだけ多くの意見が出るだろうが、あまりに多くの意見が出るために、ひとつの意見にまとまることは難しく、結果として今まですでに成功実績のある既存の意見が無難なものとして再び採用されることが多い。つまり、多くの意見が出る大集団で、かえって変化が起きにくい。
 そのため、安定した環境のもとでは、大きな構造に変化をもたらさないほどの弱有害な変異のみが蓄積して、小さな構造の変化だけが見られることになる。しかも、この弱有害な変異も大集団よりも小集団の方が固定されやすい。弱有害な変異は、自然選択にかからないので、自然選択によって排除もされないが選択もされない。そのため大集団では集団中に広がることはなく、交配の範囲が限定されている小集団ならば固定されることがある。
 その小さな変異の中に次の環境に適した者が含まれていることになる。それが前適応と呼ばれている現象である。環境が変わることを予期していたかのように、新しい環境に適した変異がすでに生じているのである。このように多くの弱有害な変異があるからこそ、その中には新しい環境に適応できる者がいて、すぐに環境の変化にも対応できるのである。環境が変化してから、新しい環境に適した変異を待っていたのでは間に合わない。小集団の中で環境に適した変異を持ったものが、大進化を起こす。そのため、進化は局所的にしかも急激に起こる。これが進化の過程の化石を見つけることが困難な理由でもある。
 そして進化の歴史の中で、環境の変化が起きている時期はほんの一パーセントであり、進化の時間のほとんどである九九パーセントで環境は安定している。つまり、大きな変化はまず起こらないことになる。
 このことは歴史を見ても分かる。それぞれの時代は安定している時期がほとんどで、成立のときと滅亡のときだけ大きく変化する。そのため学校の歴史の授業で詳しく学ぶのは、成立のときと滅亡のときであり、またその時代の特色をよく現している全盛期である。つまり成立と特色と滅亡だけを学ぶといっていい。それに対する反省として、現在の社会経済史の流行にともない、歴史の授業でも社会経済史に多くの時間を割こうとしているが、人気があるのはやはり人物史であり、注目されるのは成立時と滅亡時の英雄である。
 このように、わたしたちは変化に注目するため、いつも変化が起きているように思えるが、変化はほんの少しの時間の中で起こっている。生物進化でも同様で、種の誕生のときに劇的に変化するものの、大集団になってしまえば大きく変化することはなく、あとは大きな環境の変化にどう対応できるかで滅亡するかどうかが決まる。対応できたとしたら、そこで再び大きな変化があったはずである。しかも、それは局所的な小集団から始まる。
 安定した環境のもとで大きな集団が構造を安定させているだけなら、環境が変化したら滅亡するしかない。では、安定している環境の元では自然選択が働いていないのだろうか。そうではなく、平均から隔たった者を排除するという負のダーウィン選択がはたらいている。平均に近い者を選択するともいえるが、安定した時期は、特徴が大きい者も小さい者もどちらも排除されるので、排除といった方が実態に近い。このような自然選択は、平均から隔たった者を排除して構造を安定させることから、安定化選択ともいう。排除することを淘汰するというので、安定化選択を自然淘汰ということができる。
 では、どのようにして変化が起こるのだろうか。環境が変化すると、今度はその環境に適した者が選択されることになる。それまで選択されなかった者が選択されるようになり、しかも環境に適した方向に向かって特色の大きい者が選択される。こんどは平均的なものではなく、一定の方向に向かって大きい値の者が選択されるので、これを正のダーウィン選択あるいは方向性選択という。そのような環境の変化で新たに選択される者が、小集団で蓄積されていた弱有害な変異である。
 安定した環境のもとでは構造を安定させながらも、そのときの環境には必ずしも適していない弱有害な変異が、弱有害であるために排除されることなく蓄積される。そのような弱有害な変異の中には、新しい環境に適したものがある。ここがとても重要である。すべての弱有害な変異が新しい環境に適することはなく、多くは滅んでしまい、生き残るのはほんの一握りだろう。これはベンチャー企業が多くできても、その中で成長するのはほんの少数であることと同じである。では、どのようにして弱有害な変異が蓄積されるのだろうか。
 弱有害というのは安定化選択によって排除されないという意味で弱有害という意味であるが、また方向性選択(自然選択)によっても選択されない。そもそも方向性選択は環境の変化にともなうもので、安定した環境のもとでは起こらない。このように弱有害な変異は悪い意味においても良い意味においても、どちらにしても自然選択にはかからない。そのため大集団では、弱有害な変異は集団全体に広まることはなく、むしろ広がる途中で偶発手事故で失われることがある。このように大きな集団では安定化選択がはたらくため、平均から隔たった者は排除され、弱有害な変異も定着しない。実は弱有害な変異が蓄積するには、集団が小さい必要がある。
 地理的に隔離された小さな集団であれば、自然選択によっては選択されない弱有害な遺伝子であっても固定することがある。それは、コインを上に投げて表と裏が出る確率を考えるといい。投げる回数が少ないと偶然に表が連続して出ることがある。逆に投げる回数が多くなると、それだけ表裏が出る確率が50%に近づく。集団が小さければ小さいほど、この偶然性の影響は大きい。これを遺伝的浮動といい、対立遺伝子のうち一方が偶然に失われて、他方が全体に広がることを、遺伝的浮動の効果という。この遺伝的浮動によって、弱有害な変異が固定されることがある。しかし、これは生存に有利な変異が生じれば必ず累積されるという自然選択説とは異なり、弱有害な変異の蓄積は偶然性に左右されるため、決定論的ではなく確率論的といえる。このように小さな集団であれば、自然選択の効果によらなくても、偶然性によって対立遺伝子のうち一方が全体を占めることはある。
 さらに大きな集団であっても、実際にはいくつかの局所的な小集団に分かれていることが多く、集団内に蓄積される変異のほとんどはそのような弱有害な変異といえる。
 このように見てくると、環境が安定しているときには、変化しない方が自然だといえる。ダーウィンは変化が目に見えないのは、少しずつ変化しているからだと説明したが、実は変化が見えないのは環境が安定しているために変化していないからであった。この点では、変化が目に見えないことを指摘したダーウィンの反対者の指摘は正当であった。
 安定した環境のもとでは、変化があるとしても、弱有害な変化が蓄積されていくだけであり、大きな変化はない。しかも、その小さな変異も有利ではなくむしろ弱有害であるため、大きな集団では全体に広まることはなく、むしろ地理的に隔離された小さな集団のみ定着する。環境の変化で大きな変化をもたらすのは、そのような弱有害な変異である。蓄積された弱有害な変異のなかには、環境の変化に対応できるものがあり、生物進化には、この安定と変革の二つの段階に分けられる。
 環境が安定していれば、構造は安定して急激な変化は見られない。また構造レベルでは変化が見られなくても、分子レベルでは分子進化時計の存在が知られるように一定の変化が見られるが、それでも機能的に重要な部分については保守性が見られ、重要ではない部分では進化速度が速いが、重要な部分での進化速度は遅い。そのために構造の変化は見られない。環境が安定していれば、変化しない方が適応的なのである。
 ダーウィン以後、変化し続けることが進化と思われているが、実は変化しないことも進化の一側面であった。また構造の劇的変化については、遺伝子構造で構成要素の位置が変化することで、構成要素には変化がなくても、偽遺伝子に蓄積されていた変異が発現するとも考えられる。遺伝子には発現するものと、いくら変化しても発現しないものがあり、発現しないものは偽遺伝子と呼ばれる。この発現していなかった変異が、遺伝子構造における構成要素の位置変化で発現すると考えられ、そのために分子レベルでは小さな変異でも、大きな構造の変化をもたらすこともある。このことの指摘で、ヒトとチンパンジーの遺伝子情報の90パーセント以上が同じなのに、その構造の差異が大きいことを説明できるだろう。そのような構造上の劇的変化がおこる理由のひとつに、小さな集団内における近親交配がある。
 小さな集団における近親交配では、劇的変化が起こらなくても、それまで発現していなかった劣性遺伝子が発現する。しかも、これまでも述べているように変異の多くは有害あるいは弱有害なものであるため、近親交配によって発現する変異も有害あるいは弱有害なものであることが多い。そのため近親交配によって、一時的に集団の数を減らすることになる。これをボトルネックという。これが一般的には近親交配が避けられる理由である。
 大集団であれば、さまざまな変異をもつ個体があるため、これまで隠れていた変異がホモ結合で発現することは少なくなる。人間の場合でも、国際結婚で生まれた子どもが一般的にかわいいのは、互いに異なる特徴を持つ者どうしであるため、それぞれの特徴が出にくいためである。特徴が出ない方がよりかわいいのは、どの動物も子どものときの方がよりかわいいのと同じでことある。
 また大型化することで特徴はよりはっきりと出てくるため、一般的には特徴がはっきりとは出ない小さい者の方がよりかわいいことになる。発生過程での変化であれば、発生過程では小さな変化でも、成長すれば大きな変化になる。同じように小型であったときには目立たなかった変化も、大型化することで大きな効果を生むこともあろう。そのため小型のときには自然選択の対象にならなかったものが、大型化することで自然選択の対象になることがある。環境が安定しているときには安定化選択で排除され、環境の変化でひとたび有利になれば方向性選択で選択される。
 しかし、小さな集団における近親交配によるボトルネックで有害な変異が排除されると、その集団は個体数を増やすことになる。生存に不利な変異がなくなるからである。そして排除されなかった弱有害な変異の中から、新しい環境に適応できる者が現れる。このとき行動の変化も環境の変化に入る。同じ形態が行動の変化によって異なる機能をもったものとしては、保温のための羽毛が、行動の変化で飛翔にやくだったことを例に挙げることが出来る。そして飛翔するようになったことで、こんどは飛翔のための構造ができあがる。多くの進化が、このようにすでにあるものを使用しながら大変化を遂げるというものである。進化で重要なのは、環境や行動の変化を契機にすでにあるものを使うということだろう。

実年齢と見かけ年齢―本質はどちら?

 日本は実年齢主義だと思う。実年齢と見かけ年齢が違う場合は、実年齢が重視される。就職活動や結婚活動などでも、まず実年齢で制限されることが多い。とくに女性の婚活では、実年齢がものをいう。男性側の言い分としては、子どもがほしいから若くないと困るという。では、そのように言う男性は、女性の肌年齢や血管年齢を気にしたことはあるだろうか。内臓年齢はどうだろう。子どもがほしいというのであれば、実年齢よりも、このような内臓年齢が大切だろう。そして内臓年齢は実は見かけ年齢に比例しているのではないだろうか。内臓が若いかどうかは肌に出るだろう。
 実年齢と見かけ年齢というと、見かけ年齢は「見かけ」だから嘘っぽく見える。それに対して実年齢は一つの物差しで計ることができる。そのため実年齢が本質のように思われやすいが、実は身体の若さはそのまま肌に出る。そうであれば、実年齢よりも肌年齢の方が本質ということになる。男性は実年齢に誤魔化されているといえよう。あるいは単に若い女性が好きなだけだろう。
 わたしたちは、どうしても「本質は隠れている」という妄想にとらわれている。隠れているものが本質であれば、本質であるがゆえに必ず現象として現れる。もし現れないのであれば、それは本質ではない。すくなくとも現在の本質ではない。本質が現れているにもかかわらず、わたしたちが本質を見落とすことがあるとすれば、それは逆説的にも現象を軽視しているからである。本質が現象として現れているにもかかわらず、現象を単なる「現象」と思うからこそ、現象として現れている本質に気づかないのである。
 わたしたちは知らず知らずのうちに言葉にとらわれているといえる。本質とあれば現象は対立するものと考え、本質が現象として現れているとは考えない。見かけ年齢といえば、単なる「見かけ」と思われる。言葉にとらわれるからこそ、本質と現象、内と外、内容と形式は対立するものと考えて、本質を見失うことになる。年齢も健康を気にしてのことなら、実年齢ではなく見かけ年齢を重視する必要があろう。
 女性にとって30歳は大きな壁だろう。さらに40歳はさらに大きな壁だろう。では29歳と30歳でそれほど大きな差があるのだろうか。39歳と40歳でそれほど大きな差があるのだろうか。実際にはないだろう。それを気に病めば身体にも影響が出て大きな差となって現れるだろうが、気にしなければ大きな差は出ないはずだ。29歳と30歳、39歳と40歳に大きな差があるように思えるのは10進法で考えるからだろう。しかも10進法は人間が考えた規則であり、身体とは直接関係がない。10進法にとらわれることこそ本質を見失っていよう。
 身体の健康が肌に出ることは、女性であれば分かっていることである。早く日本が見かけ年齢を重視する社会になってほしいものだ。

恋の駆け引き―どんな理論にも限界がある

 恋愛の記事で、相手を惹きつけるためには、また都合のいい女にならないためにも、わざと逃げると良いという記事をよく見る。男は基本的に狩人だから、逃げる者を追いたくなるというのだ。気を惹くために身を退くという作戦だ。でも逆効果になることが多いと思う。たしかに、それまで意識していなかった女性が急に避けはじめると気になる。しかし、それは嫌われたと思うからだ。逃げたから脈があるなどと思う男性はほとんどいない。だから、気にしなくていい女性であればそのまま無視するし、気にしている女性なら混乱する。追いかけたくなるのではなくて、むしろ混乱するんだ。混乱して理由が知りたくて、女性の友達に探りを入れる。好き避けか嫌い避けか見極めようとするんだ。でも、それは駆け引きを楽しむというものではなく、混乱状態で困っているというのが本当だ。逃げられたら追いかけたくなる男性は、よほど自分に自信があるか、女性を振り向かせることに燃えるタイプだろう。そんな男性では、あなたをつかまえたら、こんどは他の女性を追うだろう。それは、駆け引きのハラハラドキドキを恋愛のドキドキと勘違いしているから、愛を深める方向に行かずに、新たなハラハラドキドキを求める。そういう男性がいいですか?
 ほとんどの男性はストーカーと思われるのがイヤだから、逃げる者は追わない。相手を惹き付けるために逃げるのは、ストーカー被害が問題になっている時代では、けっして得策ではない。一昔前なら正解だろうが、現在では正解にはならないだろう。
 わたしの場合も、やはり嫌われたのかなと思って、急激に興ざめしてしまう。たとえ駆け引きと分かっていても、退かれるとやはり興ざめする。せっかく盛り上がっていた気持ちも、退かれた途端、引いてしまうからだ。これって、反動形成かもね。自己防衛本能で、相手が退くとわたしも退く。わたしの場合は、自分から好きになるというよりも、わたしを好きだといってくれる女性をそのまま好きになる傾向にあるので、とくにこういう傾向が強いのかもしれない。
 ちなみに、わたしは狩人の典型といわれる射手座である。もし、射手座は狩人だから逃げると追いかけると相手が星占いのとおりに実行したら、わたしには逆効果になる。退かれたら退くという関係になるから、それで終りか、終らなくても冷戦状態が続くことになる。退けば退くというデフレ・スパイラルになる。反動形成の繰り返しだね。
 だから「逃げると追いかけたくなる」というアドバイスを実行しても、すべての男性が追いかけてくるというわけではないと思ってほしい。そう万能薬(万能な方法)はないのだ。そもそも、すべての物事に通用する万能薬なんてありはしない。物事はそんなに単純ではなく、むしろ多面的である。ひとつの側面で成功しても他の側面でも成功するという保証はない。似通った事例だから、きっと今度もうまくいくだろう程度のものだ。だから、どのような法則にも必ず適用範囲がある。
 理論は具体的なものから本質と思われるものを抜き出したもの、つまり抽象化したものであり、必ず根拠となる具体的なものをもつ。その理論の根拠である具体的なものは、理論が適用範囲を超えて使用されると制約となる。そう、具体的なものは理論の根拠であり、制約でもある。理論が根拠をもつものであれば、それだけ制約もかかる。これが力をもった理論ほど厳しく適用範囲が限定される理由である。数学にしてもきびしく場合分けするから答えが出るのであって、どんなに計算ミスがなくても場合分けに失敗したら答えは出ない。理論にとっては適用範囲は根拠を有している証拠になる。逆に適用範囲をもたない理論は、根拠をもたない空虚な理論といえる。
 個別のものは、存在していることですでに真理につながっている。わたしたちがその真理を知っているかどうかにかかわりなく、わたしたちは真理につながっているからこそ存在しているんだ。その点で個別的なものは普遍的なものといえる。そして一般的に普遍性と考えられている理論は、個別のものという具体的なものに一致している限りにおいて普遍的だから、適用範囲をもった特殊なものといえる。わたしたちは目の前の現実と抽象的な理論とでは、目の前の現実に注目する必要がある。そのことで、わたしたちが解決しなければならない問題の本質が見えてくるよ。

大人かわいい―二つの言葉の組み合わせ・弁証法

 いつものカフェで、女性ファッション誌を見ていると、「大人かわいい」という言葉が目に入ってきた。これまで大人とかわいいは一致しないと思われていた。だから、余計にこの組み合わせが面白い。
 そういえば、イチゴ大福もそうだなと思った。小豆のあんこの入った大福とイチゴの組み合わせは、最初に聞いたときには違和感があった。すっぱいイチゴと甘いあんこでは、イチゴのすっぱみとあんこの甘さがそれぞれ主張が強すぎて、イチゴのすっぱさが強調されるはずだと思っていた。女性たちがいくらオイシイといっても、それは女性がすっぱい味が好きだからであって、すっぱいのが苦手な私には無理だと思った。それでも二つに割ったときの見かけのきれいさから話のタネにと思って、ひとつ買っておそるおそる食べてみたところ、イチゴとあんこが喧嘩せずにすっきりとした甘さになっていた。そういえば、スイーツに使う果物はすっぱいものほどおいしいものだ。あとから考えれば、なんてことはない。斬新なアイデアというものはこういうものだ。「大人かわいい」も、そんな一見対立すると思われるものを結びつけたものだ。
 「かわいい(Kawaii)」はいまでは世界共通語になっている。欧米の女性にはまだシックリこないみたいだけど、アジアの女性には熱狂的に受け入れられている。オタク文化とともに、日本発の世界的トレンドだ。
 でも、「かわいい」を定義するのは難しい。それは見たままに思わず言ってしまう言葉だから、かわいいという言葉の意味をきちんと考えたことはないからだ。だれもが使う言葉なのに、だれも意味を答えられない。的確に使えても、的確に説明できない。思わず言ってしまう言葉だから、なぜかわいいと言ったのか自分に照り返して考えたことがないからだ。かわいいといった自分を反省することがないから、きちんと意味を考えたこともない。そう、ひとにかわいいといって怒られることはないから、反省したことがない。
 このように、よく使う言葉ほど正確な意味はわからない。日常的なものはあまりに日常的だからとくに認識されることもなく、過ぎ去っていく。日常性が失われたときに初めて日常的だったものが大切だったことに気づくのも、当たり前だと思っていることは深く考えたりしないからだ。かわいいは論理的な言葉ではなく、だれもが納得できる意味など考えられたことはない。思わず見たままを言ってしまう感情的な言葉といえよう。
 しかし感情的な言葉だからといって、悪いわけではない。思わずいう言葉だからこそ、そこには感情の発露があり、言われた側も素直にうれしい。男性には、かわいいと言われると抵抗を感じる人も多いが、けっして嫌味でない。最大の褒め言葉であり、何よりも相手は自分のことを受け入れている。いちいち説明を求められることにうんざりして、そのままで受け入れてもらいたいと思っているとき、かわいいという言葉ほどうれしいものはない。
 女性は、子どものころ周囲の大人からかわいいと言われ、友達からかわいいと言われ、男の子からもかわいいと言われる。これ以上の褒め言葉はない。大人になっても同じだ。仕事のできる女性がプライベートで見せるかわいらしさは、ツンデレという言葉があるように、男性からは魅力的だ。ツンデレも、ツンツンとデレデレという対立する言葉を結びつけたものだが、現代の女性の魅力をうまく表現している。このように対立する二つの言葉を組み合わせて合計以上のものをつくり上げてしまうことを弁証法という。二人の対話の中で真理を発見するという対話法を、二つの言葉の組み合わせでワンランク上のものを生み出してしまう方法にしたのはヘーゲルというドイツの哲学者だ。
 自立しながらも、片意地を張ってばかりでは疲れてしまう。もう大人なのだからと言われても、ときには甘えたいときもある。そんな癒されたい気持ちが、大人の女性にかわいらしさを求めさせるのだろう。ひとは矛盾だらけで、自分の中にいろいろな感情がある。その矛盾した気持ちを素直に表す言葉が、大人かわいいだ。しかも、大人かわいいというと、大人とかわいらしさの関係は矛盾ではなく調和になる。
 このように見てくると、かわいいと言う言葉は単なる褒め言葉ではない。かわいいと言っている側も癒されているからだ。かわいいという言葉には、言われる側は褒められ、言う側も癒されているという関係にある。かわいい!かわいい!と言いながら実は癒されているのだ。しかも言われている側は、言っている側も癒されていることを承知している。だから甘えられもする。きもかわも、不細工だけど癒し効果があるもののことである。このように考えてくると「大人かわいい」はけっして矛盾した言葉ではないことが分かる。これまで大人は一方的に癒される側だったが、相手を癒すことのできる大人がいてもいい。そんな大人はやはり「かわいい」のである。癒されたい人が増えれば、大人で、きれいで、癒し系でもあれば、十分に「大人かわいい」といえる。
 でも、うまく甘えられる女性だけではない。大人の女性でも、恋愛では素直になれずに、好きな人につらく当たってしまうことがある。大人の女性だからこそ臆病になり、素直になれないのかもしれない。でも、これではツンデレどころか、ツンツンだ。そして素直になれない気持ちを、仕事のせいにしてしまう。それでも好きな人の好みが分かると、髪を伸ばしたり、ワンピースを着たりして、休みの日に彼の行きつけの場所に行ってみる。出会えたとしても、自分の気持ちを言えないまま通り過ぎていく。じれったいけど、かわいい。気持ちを察して話しかけると、逃げていく。かわいいけど、じれったい。気持ちは分かるのに、その後が難しい。恋愛に臆病にならないでほしい。
 あふれる不安でビクビク状態。それを隠そうとして、強い女の仮面をかぶってしまう。だけど安定を求める傾向にあるので、恋愛でもすぐに結婚に結びつけたがる。憶病で、ガチガチで、結婚願望が強い。「スキがない女」。それは完璧な女ではなく、「余裕のない女」のことなのかもしれない。まずはゆっくりリラックスして、不安を払いのけよう。
 でも、わたしは結婚願望が強いことは悪いことではないと思う。形にこだわらないというのもひとつの手だとは思うけど、気持ちをひとつの形として表すことも必要だと思う。形式と内容は対立すると思われているけど、形にしようと思うことで、さらに気持ちが高まることにもなる。それが、いままで結婚という形が廃れなかった理由だと思う。内容と形式が一致した形式美は、とても美しい。だから、大人の女性がかえって結婚という形にこだわる理由は十分すぎるほど分かるし、それに答えたいと思う。
 大人かわいい、知的おしゃれ、これまで矛盾すると思われていた言葉を組み合わせると、これまで気づかなかったことに気づかされ、視野が広がる。ファッションもひとつの言葉ではくくれずに、多くの言葉を必要とする。そして、対立する言葉を結びつけて新しい言葉がつくられる。あるいは、ひとつの言葉がさまざまな内容を含意するようになる。世界共通語になりつつある「かわいい」には、「愛くるしい」という以上の意味が込められ、「素敵」「きれい」「かっこいい」など褒め言葉がめいっぱい盛り込まれている豊かな言葉だ。「かわいい」と褒められて育ってきた女性には、「かわいい」は最高の褒め言葉なのだろう。そこに「大人」という言葉がつく。「成熟」「高い質」という意味も込められる。いままではありえないと思っていた組み合わせが、実はとてもいい組み合わせだったりする。それに気づいたとき、ワンランク上にいける。
 欧米のブランドも、かわいい要素を取り入れなければ、アジア女性に売ることができない時代になっている。男性も、かわいらしさを取り入れて癒しを求めてはどうだろう。ピンクのネクタイはとてもセクシーだ。それが新しいダンディズムになる。

オイディプス王―悲劇の本質と運命愛

 だれもが幸福になろうと行動しているのに、結果として不幸になってしまう。だれもが思う運命の理不尽さだ。ではなぜ、そんな理不尽なことが起こるのだろう。悲劇の本質を探究すると、悲劇から抜け出す方法も見つかる。そこで、まずギリシア悲劇の傑作であるオイディプス王の話からはじめよう。
 オイディプスが生まれると、父王はかつて受けた「王子が生まれたならおまえを殺し、妃との間に子をなす」という神託を信じて、王子を殺すよう命じた。しかし従者は山中にいた羊飼いに男児を渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。当時隣国の国王夫妻は子宝に恵まれなかったため、羊飼いは男児を二人に渡した。王子はオイディプスと名付けられて立派に成長したが、「王の実子ではない」という噂を聞き、神に伺いを立てたところ、かつて父王が受けた神託と同じ内容だった。オイディプスは自分と養父のことと思い、国を離れることにした。そのころ故国では怪物スフィンクスが出現したため、父王は神託を得ようと出かけたが、途中オイディプスと出会い、行き違いからオイディプスによって殺されてしまった。父王は名乗らなかったため、オイディプスは自分が父王を殺したとは思わなかった。そののちオイディプスは怪物スフィンクスの謎がけを解き退治したことで、摂政は怪物を倒した若者に先王のあとを継がせ、父王の妃をめあわせた。それは自分の実母であった。二人の間には子どもも生まれた。そして王座に就いたオイディプスは自分の出自を知って破滅する。
 わたしは、オイディプス王の悲劇は「幸福になろうとしてかえって不幸になる」という悲劇の本質を顕していると思う。だれも不幸になろうとは思っていない。幸せになろうと思っている。それなのに、良かれと思ってしたことで不幸になってしまう。そのことを、演劇という形で見せたのが、ギリシア悲劇の価値だと思う。では、どうすればいいのだろうか? それが哲学の仕事だろう。フロイトのように、母を得ようとして父と対立する息子の葛藤という物語にしてしまうと、悲劇としては三文芝居になってしまうように思える。
 好きだという気持ちが強すぎて「好き避け」してしまうことがあるけど、避けてしまっていることで相手の男性は嫌われていると思って、彼女を避けるようになる。たとえ好きという気持ちが伝わっている相手でも、いつまでも激しく好き避けされるとうんざりしてしまう。好きという気持ちは純粋なのに、そのことでかえって相手に嫌われてしまうのは、オイディプス王の悲劇に似ている。
 科学も同じだ。ひとつの方法で突っ走ると、必ず壁にぶつかる。わたしたちが対象にしている具体的なものは、一面的なものではなく、ほかのさまざまな物とつながっているからだ。だからひとつの面だけを追い求めれば、ほかの面が壁となって立ち現れてくる。だから科学でも、ひとつの理論で分かる範囲の科学を通常科学という。しかし、それまで誤差として切り捨ててきたものが壁として立ち現れる。誤差を誤差として無視できなくなるんだ。だから、それ以上科学が発展するためには、また新たな基礎理論を見つけるしかない。
 でも、従来の理論は多くの業績を残しており、「無難な判断」によるかぎり、新しい理論は認められない。しかも大きい集団ほど、「無難な判断」に落ち着く。大きい集団ならさまざまな意見があるから変りやすいと思うかもしれないけど、人数が多いほど色々な意見があるほど、結論が出なくて、結局は無難な意見に集約されるもの。誰もがよくなりたいと思っているからこそ、危険は冒したくない。でも、そのことでかえってますます泥沼状態に陥る。慎重さがますます事態を悪くする。
 実は、新しい基礎理論は別の側面を探究するものとして、すでに現れているものだ。ほかの側面が壁として立ちはだかっているということは、それが現在の本質になっているということだから、その側面を探究している理論もすでにあることが多い。しかもすでにある理論ならすでに業績を残しているから、新しい理論として受け入れられやすい。アインシュタインの相対性理論も、最初から宇宙物理学の理論として認められたのではなく、最初は電磁力学という分野の理論だった。多くの場合、科学はこのように発展する。だから科学は決して直線的に進歩しているわけではない。壁が現れたとき、それを飛躍の好機ととらえることが大切だ。しかも、すでにあるものを使う。
 オイディプス王の悲劇を避けるには、立ちはだかる壁を好機に変えることだと分かる。自分が「好き避け」していると気づいたときは、自分でもこのままではダメだと気づいたときなのだから、それを好機だと思えばいい。恥ずかしくて「好き」と言えずに避けて、相手の男性を混乱させているのだから、無理して「好き」とは言わず、避けてしまったことを謝ればいい。「好き」とは言えなくても、謝ることはできるのでは? 「好き」と言わなければならないと思っているから言えないのであり、別の言葉なら言えるだろう。「好き避け」をして迷惑を掛けたということを利用して、そのことを謝るんだ。それまであなたを疑っていた彼も、逆になんて素直な女性だと思って見直してくれる。すでにあるものを使うというのは、こういうことである。
 私たちは物事をひとつの側面からだけ見ていることが多い。そのため、良かれと思ってしたことで、かえって事態を悪くしてしまう。ひとは自分に都合のいいことだけを拡大してしまうけど、世界は割り切れないから必ず別の側面が立ち現れる。これが、「良かれと思ってしたことで不幸になってしまう」悲劇の本質だ。だから、そのときはその壁を、自分が変れる好機だと思おう。これまでの自分の限界が見えて、今が自分が変れる好機だと思えれば、かえって壁に感謝したくなる。これが運命愛とも呼ばれる考え方だ。 

好き避け女性へ―好き避けからの逆転の発想

 恋愛に「好き避け」という言葉がある。好きだけど恥ずかしくて避けてしまうことをいう。本当は好きなのに、相手の異性に冷たくしてしまうことを反動形成といい、好き避けもそのひとつと考えられる。ツンデレと間違いやすいけど、好き避けは二人きりにはなることができず、ツンデレは二人きりになることができて、しかも二人きりだととても優しくなれる。そう、好き避けは恥ずかしいという気持ちに正直で、相手の男性のそばに行きたいけど行けないという女性の行動をいう。ツンデレは周りの目を気にしているだけなので、二人きりになれる状況をつくれば素直になれる。好き避けだと二人きりという状況もつくれない。ここが問題だ。
 好き避けに関する話題は、恋愛相談でも多い。一般に好き避けしている女性は、同性からはかわいいと受けがいいけど、そこからは男性の立場が抜け落ちている。男性の立場から好き避け女性を見ると、困った子になる可能性が高い。素直になれれば成就する恋も、好き避けすることで台無しにしている女性は多いと思う。多くの男性は「脈無し」と判断するからだ。
 これを、女性が自分を高く見せるために進化の中で身につけた高等技術とも見られるけど、男性でも好き避けすることがあるので、それほど説得力はない。
 実は、ひとの心は単純ではない。好きだから近づきたいという気持ちと、好きだけど避けてしまうという二つの感情が同居していても不自然ではない。むしろ自然だと思う。「自分探し」がはやっているけど、「自分らしさ」が分からないのが当然で、ひとの心の中には色々な感情が同居しているものだ。好きなら好きなほど臆病にもなってしまって、今の関係が壊れないように、告白しないようにしよう、気づかれないようにしようと思うのも分かる。
 しかも好き避けは学生のうちだけではない。30代の女性もあきらめが先に立ち、傷つく前に好き避けしてしまうことがある。あるいは慎重さゆえに相手の気持ちを直接確かめられず、相手の行動に一喜一憂している場合もある。
 誰でも好きな人の前では上がってしまい、なかなか思うように行動できない。同性の目から見れば、他の男性と好きな男性に対する笑顔は全然違って見えていて、好きな男性を見る目は恥ずかしいけど好きというハニカム表情になっているし、目が潤んで輝きが増している。でも、これを見て好きだと分かるのは、あくまで女性同士だからだ。
 やはり男性は素直な女性に惹かれる。素直な女性なら、笑顔を絶やさなかったり自然に触れたりできるから、男性にも気持ちは通じる。なによりも男性の気持ちを和ませてくれる。それに対して好き避けする女性は、好きな男性をつい避けて、自分の気持ちと裏腹に嫌いな素振りをしてしまい、相手が近づいてくると逃げてしまう。会話やメールもそっけない。好きなのに「嫌い」と言ったりもする。それでも他の男性とは明らかに違う態度をしているのだから、第三者からは分かるかもしれない。でも相手の男性は分からない。だって自分がいない時のその女性の様子を知らないから、避けているという印象しかない。だから嫌われているとしか思えない。
 好き避けする女性の気持ちは分からないでもない。でも男性は、優しくされると「この女性は自分に気がある」と思うし、避けられると「この女性には嫌われている」と思う。とくに男性は、女性の「避ける」という行動に敏感になる。避けられるかどうかで、その女性が自分を嫌っているかどうかを判断するからだ。男性は好き避けする女性が自分に気があるとは思わずに、嫌われていると思ってしまう。ましてやその女性が他の男性とは話すのに、自分とは話さないとなると、彼はもう完全に嫌われているとしか思わない。もし彼もあなたのことが好きだったらどうだろう。他の男性と談笑しているあなたを見たら、不愉快に思うし、プライドを傷つけられたと思うだろう。たとえそれが仕事に関する話でもだ。このあたりのことは女性には分からないかもしれない。だから彼があなたに好意を持っているほど、あなたの行動で深く傷つく。せっかく両思いなのに、自分から壊してしまう。これでは好きな男性に嫌われて、嫌いな男性に言い寄られるのが当たり前だって分かるよね。
 しかも激しく好き避けをする女性は、メールをしても返事がこない。どんなメールにしたらいいか迷っているうちに、メールを出せないでいる。でもメールの返事をもらえなければ、男性は無視されたと思う。たとえ好き避けであることが分かっていたとしても、話しかけることさえできないのだから、男性にはもう打つ手がない。もちろん彼があなたに好意を持っていなければ問題ない。ただ無視すればいいだけだからだ。だけど好意を持っていたら、あなたに避けられたという思いが彼には強く残る。あとで、あなたが近づいたとしても、今度は彼が避けるかもしれない。ようやく勇気をもてたあなたには悲劇だ。
 それも仕方ないかもね。だって、あなたは彼を苦しめていたのだから。男性も一度や二度なら諦めないかもしれないけど、何度も繰返されるとまた断られるのではないかと思い、用心深くなり、消極的になってしまう。あるいは好き避けと思っているのは勘違いで、本当は嫌われているだけではないかと迷いはじめる。あなたの友達からあなたの気持ちを聞いていたとしても、それは友達の勘違いだと思うようになる。あるいは、男性は自分がからかわれているのではないかと疑い始める。そして、こんどは彼があなたを避け始める。彼も本当は好きなのに、避けられてきた経験から反動形成を起こしてしまう。こうなると、どちらも本音は好きなのに好きと言えない。恋のデフレスパイラルになる。
 草食系男子が増えたといわれ、それを嘆く意見も多いけど、実は男性にとって恋愛に積極的になれない理由がある。それはセクハラの基準が客観的なものではなく、女性の気持ち次第ということだ。同じことをしても、男性によってセクハラになったり、ならなかったりする。好き避けの女性には何度も声をかけてもいいだろうけど、嫌い避けしている女性に何度も声をかけたらセクハラになる。好き避けしている女性に安心してもらうために近づくのはいいけど、嫌い避けしている女性に近づいたらストーカーになる。避けている女性を男性が一生懸命追いかけていたら、第三者からはどう見てもストーカーだよね。その区別を男性は手探りで測るしかない。だから社会的地位にある男性ほど、声をかけにくくなる。まちがったら社会的地位をいちどに失う。草食系男子にならざるを得ないのが現実だ。男性も声をかけにくいのは学生のときだけではない。むしろ社会的地位を得た後ほど、恋愛には消極的になる。最初から出会いを求める場所でしか、女性に声をかけられなくなる。だから、「男性なのだから」という言葉は軽々しく言ってほしくない。
 激しく好き避けされている彼は、話しかけては逃げられることの繰り返しだから、打つ手もなく「永遠という名の絶望」に陥ってしまう。いつになったらこの苦しみから脱出できるのか、その見通しもないまま彼は混乱し苦しみ続ける。あなたには、あなたの行為が彼を苦しめていることに早く気づいてほしい。しかも、彼が優しければ優しいほど苦しみは深い。彼を苦しめてまで好き避けを続ける? 素直になれれば、二人とも幸せになれるのに。せめて彼から話しかけられたら素直に受け止めてほしい。あなたは「恥ずかしい」から逃げてしまうのだろうけど、彼はあなたの行動の理解に苦しみ、出口のない「永遠という名の絶望」に打ちひしがれている。下手をすれば今の地位を失う可能性まであると考えて、好きでも好きとはいえない状況に陥る。どちらの苦しみの方が大きいか分かるよね。自分が避けられたら、どう思う? 嫌われたと思って、混乱しちゃうでしょう。男性だって同じ。あなたに避けられて混乱している。しかも女性の場合と異なり、男性はセクハラ問題を気にして行動できない。彼の苦しみが分かるよね。逃げてばかりいる女性は、自分のことしか考えていないと非難されても仕方ないよ。彼に迷惑をかけまいとする気持ちが、かえって彼を傷つけていることに早く気づいてほしい。彼の負担にはなりたくないという気持ちが、彼の負担になっている。でも、この苦しみから彼を救い出すのも、実はあなたにしかできないことだ。
 男性は、誰であろうと女性から話しかけられて悪い気はしない。ましてや告白ならうれしい。ここも女性と男性の違いだ。女性は嫌いな男性から告白されたら激しく拒否するけど、男性は女性から告白されたら誰であろうとまずは受けとめるものだ。はっきりいって悪い気はしない。だから、あなたには彼のそばにいたいという気持ちをぜひ優先さてほしい。好き避けしたいという気持ちに正直になるのではなく、好きという気持ちに素直になれば、彼から話しかけられたとき逃げずにすむはず。でも本当は受け身な態度をやめて、勇気をもって彼に謝ってほしい。避けてしまったことを謝るんだ。そうすれば、あなたが好きになった優しい彼なら、きっと許してくれる。反省して自分のことを責めていたあなた自身の気持ちも楽になる。
 もし仕事などの理由で今すぐには付き合えないのならば、そのことをきちんと伝えればいい。それだけでも、彼は「永遠という名の絶望」からは救われるのだから。気持ちは分かっても、具体的なことまでは分からないもの。今すぐにでも、そばにいたいという自分の気持ちに素直になって、まず避けたことを謝ることからはじめてほしい。謝ってしまえば、「実は好きなんです」と言えてしまうものだ。しかも、男性は本当に好きな女性にはなかなか手をつけられないものだから、少し待たせることぐらいは大丈夫だ。ただし、コミュニケーションは小まめにとってほしい。
 実は、これが哲学では弁証法とよばれるもので、壁にぶつかったときは実は好機で、今のままではダメだと思ったら、反対のことを試すんだ。恥ずかしがり屋のあなたが、思い切って謝ってみる。「好き」とは言えなくても、「避けてしまってごめんなさい」なら言えるだろう? これが逆転の発想の弁証法だ。理由を言って思い切って謝れば、ほとんどの男性は許してくれる。しかも理由が「好きだから」ということであれば、許さない男性はいない。ただ恥ずかしくて言えなかっただけなのに、結果としては意中の男性の気を強く惹きつけたし、「避けていてごめんなさい」と話すきっかけもできた。女性が謝るというのは、男性から見てとてもかわいく見えて得点が高い。それまで「なんで避けているんだよ」と不機嫌だった彼も見事にオチる。時期は好き避けしてしまっている自分に気づいて反省しているときだから、今がちょうどいいと思う。実践してみたらどうだろう。

南北朝期の越後佐々木加地氏の系譜

 わたしが最近興味をもっているのが、越後佐々木加地氏と隠岐佐々木氏だ。佐々木加地氏に興味をもったのは、鮭延秀綱(愛綱)の子孫大沼氏の系図をみてからである。大沼系図は、ネットで見られる佐々木六角満綱流鯰江氏出身とする鮭延系図とは異なり、佐々木氏の中祖秀義の子真綱から始まり、吉田氏や加地氏、六角氏の人物が登場しながら愛綱に至るというものである。吉田氏が登場するのは、暦応四年(1341)七月十三日の天竜寺供養で調度役を勤めた佐々木源三左衛門尉秀長を『太平記』が「吉田源左衛門尉」としたことが原因であろう。しかし『師守記』康永三年(1344)五月十七日条に記載の熊野参詣供奉人でも「吉田源三左衛門尉」と見えることを考えれば、秀長を鎌倉中期の吉田泰秀の子につなげる系図に誤りがあるのかもしれない。そこで尊卑分脈ではなく沙沙貴神社所蔵佐々木系図を見ると、秀長の甥長秀の母を佐々木加地筑前守女としている。尊卑分脈では長秀の母を隠岐佐々木流の富田義泰の女子としており、吉田氏が出雲吉田郷を領していることを考えれば、吉田氏の家督の母が出雲佐々木氏であることは自然である。佐々木筑前守女を母とするのは吉田源三左衛門尉秀長と考えられる。これで系図伝承と『師守記』『太平記』との整合性が得られる。吉田秀長は外戚佐々木加地氏(小島氏)の養子になったのだろう。大沼氏の系図は源三左衛門尉秀長を記すために、その実家吉田氏の系譜を混入させたものと分かる。このように養子先の系譜に実家の系譜を混入させる例は山崎氏系図などにも見られ、決して珍しいものではない。
 大沼系図では、源三左衛門尉秀長の子に光綱が記されたのち、加地氏と六角氏の人物が登場する。この光綱は、鮭延系図で六角満綱と混同される人物だろう。加地氏の人物は鎌倉・室町期の秀忠(忠秀)・貞綱・近江四郎・氏綱・景綱であり、六角氏の人物は鎌倉期の信綱・頼綱・泰綱である。このように大きく混乱する大沼氏系図ではあるが、大沼氏の系図に登場する人物の実家や養子先であろう吉田氏や六角氏の人物を注意深く取り除くことで、これまで不明とされていた南北朝期の加地氏の人物が浮かび上がってくる。もちろん六角氏の人物と実名が重なる人物もいる可能性があり、取り除くにも慎重さが必要であろう。資料に基づきながら構成することがのぞまれる。越後加地氏の系譜は、鎌倉期と戦国期の間が断絶していて不明なことが多いだけにとても興味をそそられる。
 また大沼氏初代真綱の事績は、承久の乱で京方であった佐々木広綱(山城守)の事績と重なるが、これは織豊期の六角義秀―実綱―秀綱という八幡山秀綱の系譜が混入したからだと考えられる。綱秋が織田信長に近江を追われると毛利氏を頼り、毛利元綱と名乗ったという。六角氏では義堯が足利義昭を擁して毛利氏を頼り鞆幕府を立てた。この六角義堯伝承が、八幡山秀綱の系譜伝承とともに大沼氏に伝えられたのだろう。江戸後期に系図作成者はまず鮭延愛綱(秀綱)と八幡山秀綱を混同し、さらに六角義実―義秀―義郷の存在を知らなかったか否定したがために、義秀を佐々木源三秀義と解釈したのだろう。
 実際に大沼半左衛門(半三郎)家と同族化した佐々木与右衛門(与三郎)家は八幡山秀綱の子孫と推定され、鮭延氏が六角流鯰江氏出身とされるのも佐々木与右衛門家の系譜伝承が混入した結果と考えられる。
 隠岐佐々木氏の系譜については、『一遍聖絵』の研究を通して、踊念仏ははじめて行なわれたという小田切の里の位置をめぐる議論の中で、信濃大井荘小田切郷地頭が佐々木宗清と分かったことによる。これまでの佐々木氏研究では佐々木氏と信濃の関係はあまり注目されず、長野県松本市島立の浄土真宗寺院正行寺の開基了智上人が佐々木高綱であるという伝承が知られていたのみであった。しかし小田切郷地頭に注目することで、浄土教系寺院の佐々木盛綱・高綱開基伝承に隠岐佐々木氏が大きく関っていたことが知られるだけではなく、その閨閥関係から安達泰盛や平頼綱との政治的関係が見えてくる。このような理由によって、最近は佐々木加地氏と隠岐佐々木氏にとても興味をもっている。
 今日は佐々木加地氏の動向を見てみよう。盛綱流佐々木氏では、盛綱の嫡子兵衛太郎信実が源頼朝の面前で工藤祐経を傷つけたことから次男左衛門尉盛季が跡を継いでいたが比叡山堂衆との抗争で戦傷を負い、三男左兵衛尉盛則が在京御家人として活躍していた。しかし承久の乱では越後加地荘に逼塞していた信実が越後守護北条朝時の副将となり備前守護を獲得し、京方であった盛則は没落した。佐々木加地氏は敗者を御内人として復活させた一例といえる。こうして加地氏は備前守護家であるとともに、越後守護北条氏の守護代となった。
 まず備前守護となったのは信実の三男時秀(東郷氏)であり、信実がのちに次男実秀(大友二郎左兵衛尉)に相続させようとしたところ、幕府はその所領を没収してしまった。実秀は幕府に所領回復を愁訴している。そのあいだ大江広元の子孫長井泰重(因幡前司・備後守護)が備前守護を兼務した。備前守護職は実秀の孫長綱(小島太郎左衛門尉、筑前守)が東郷胤時(時秀の子左衛門尉)の女婿になることで、小島実綱・長綱父子に受け継がれて佐々木加地氏が回復した。こののち備前守護佐々木加地氏(小島氏)は太郎左衛門を通称とし、東郷胤時の子胤泰(十郎左衛門尉)は飽浦氏を名乗っている。

 加地信実┬秀忠(磯部)
       ├実秀─実綱(小島)┬長綱─時綱─時秀─師秀
       │             └頼実─顕綱─顕信─貞信
       ├時秀─胤時(東郷)─胤泰(飽浦)
       ├信重─資実
       ├義綱(倉田)─章綱─有綱
       ├時基(磯部)
       ├氏綱┬景綱─宗綱─景綱
       └信朝├経綱─宗経
            └時綱
        
 越後守護代で確認できるのが信実の五男義綱(倉田権五郎)の孫佐々木加地有綱(筑後守)である(三浦和田氏文書)。また信実の七男氏綱(七郎左衛門尉)は鎌倉で御家人に列して、佐々木加地氏の本流となっていた。その子孫は大宰権少弐など顕官に補任されている。
 元弘の変では、加地時秀(小島時綱の子太郎左衛門尉)、隠岐清高(隠岐前司)、大原時重(備中前司)、および京極氏の佐々木善観(近江前司)・導誉(佐渡大夫判官入道)兄弟ら佐々木一族は上京し、善観・導誉兄弟は近江瀬田橋を警固、六角時信(近江守護)、加地時秀、隠岐清高、大原時重らは比叡山攻めの将になっている(光明寺残篇)。また、『太平記』巻七「赤松勢の蜂起」に討伐軍として見える備前守護加地源二郎左衛門尉は、加地時秀の近親者であろう。しかし、『太平記』巻十四「朝敵(足利尊氏)征討軍の下向」では、新田義貞率いる征討軍に佐々木塩冶判官高貞とともに佐々木加地源太左衛門尉(時秀)が見えることから、どこかの時点で時秀は宮方に投降したのだろう。
 南北朝期になると佐々木加地氏の本国越後では、七郎左衛門尉氏綱の曾孫佐々木加地景綱(近江権守)が北朝方の越後国大将になり、また佐々木忠清・忠枝父子が新田義貞に属し、一井貞政が戦没すると忠枝が越後守護代になった。この佐々木忠枝を越後守護代にすると述べた南保重貞宛新田義貞書状が、義貞最後の文書である。十郎左衛門尉忠清・弥三郎忠枝父子は、「忠」の通字と新田氏との関係から、信実の次男実秀(大友二郎左兵衛尉)の子孫越後加地氏ではなく、信実の長男秀忠(太郎左衛門尉)の子孫上野磯部氏と考えられる。
 佐々木近江権守景綱が北朝方の越後国大将であったことは、建武三~五年(1336-8)に発給された色部高長軍忠状案(色部文書)で知ることができ、建武三年十一月十八日付羽黒義成軍忠状写(中条家文書)では「大将軍佐々木加地近江権守景綱」と記されている。
 景綱が上洛のあいだは、佐々木加地宗敦(越前権守)が国大将になっているが(色部文書)、宗敦は時宗の一字書出を名乗っていること、またすでに越前権守を受領していることから、景綱の有力近親者であったと考えられる。『梅松論』建武三年五月足利尊氏が上洛に際し備前小島に着岸したとき、加地越前守が仮御所を作って奉仕しているが、この越前守と越前権守宗敦は同一人物であろう。越後国大将を任されるにふさわしい経歴であり、景綱の一世代前と考えられる。
 建武五年(1338)三月日付色部高長軍忠状案(色部文書)では、色部高長が佐々木七郎右衛門尉時経・太宰五郎宗綱に属して加地荘桜曽弥で戦ったことを賞されており、景綱の一族に時経・宗綱がいたことが分かる。時経と宗綱は仮名が異なるものの続群書類従や尊卑分脈に見える。とくに宗綱は尊卑分脈や続群書類従本では大宰権少弐と伝わるが、その仮名「太宰五郎」は大宰府官人の子息五郎という意味であり、父が大宰権少弐であったことが分かる。もちろん本人もそののち大宰権少弐に任官した可能性がある。宗綱(太宰五郎)・時経(七郎左衛門尉)を仮名の順に並べることができ兄弟と考えられるが、時経の通称「七郎左衛門尉」は、初代氏綱の通称「七郎左衛門尉」と共通であり、しかも排行名では五郎・七郎の順だが、色部高長軍忠状では七郎(時経)・五郎(宗綱)の順で記しており、尊卑分脈でも時経を氏綱の末子としている。そうであれば時経が叔父で、宗綱が甥となる。これは尊卑分脈や群書類従本と矛盾しない。尊卑分脈では景綱の父を宗綱とする。
 宗綱は、備前守護佐々木加地左衛門尉時綱(小島氏)の後に備前守護になっていた可能性があり、尊卑分脈では太郎左衛門尉時秀の兄弟に左衛門尉宗綱(母氏信女)を記している。この「母氏信女」に注目して、氏信の女子の項を見ると「四郎左衛門尉宗経母」とある。さらに京極氏信の女婿武石宗胤(四郎左衛門尉)が永仁四年(1296年)に造立した元箱根宝篋印塔に結縁した人物に及月光源氏女と源宗経がある。源氏女が宗胤妻で、宗経は氏信女(宗胤妻の姉妹)を母にする佐々木加地宗経だろう。また応長元年(1311)造立の仏岩宝篋印塔の銘には「肥前太守」「息女并日光峯宮」「近江禅閤」があり、肥前守は宗胤のことと考えられ、また近江禅閤は佐々木氏の有力者で出家していた人物と思われる。この金石文から、四郎左衛門尉宗経の母が京極氏信女であることが確認できるとともに、武石氏との関係から下総に所領をもっていたとも推測できる。
 また越後の資料である嘉元二年(1304)七月十八日付左衛門尉宗経・同盛房連署請文写(山形大学中条家文書、新潟県史一七七〇号)に「左衛門尉宗経」とあり、幕府の命令で加地荘内の争論の使節を左衛門尉盛房とともに勤めており、越後での活動も確認できる。盛房は「盛」の字を使用することから盛綱流佐々木加地氏の一族と考えられる。
 そうであれば、景綱の父宗綱(四郎左衛門尉宗経)と建武五年当時まだ任官していない太宰五郎宗綱とは別人であり、太宰五郎宗綱は七郎左衛門尉氏綱の次男左衛門尉経綱の子宗経と考えられる。系図では宗綱と宗経が逆になっており、混同が見られる。

沙沙貴神社佐々木系図

 氏綱┬景綱─貞綱─宗綱
    ├経綱─宗経
    └時綱

尊卑分脈・続群書類従本
 
 氏綱┬景綱─宗綱─景綱
    ├経綱─宗経
    └時綱

 実は沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、七郎左衛門尉氏綱流の佐々木加地氏は氏綱―景綱―貞綱―宗綱と続く。しかし「景」と「宗」の草書体が誤りやすいことを考えれば、氏綱―宗綱―貞綱―景綱であろう。さらに「綱」と「経」の草書体が誤りやすいことを考えれば、宗綱が宗経であったように、貞綱も貞経の可能性が高く、続群書類従本で隠岐佐々木泰清女に「母同隠岐守時清、貞経母」とある貞経と同一人物と考えられる。氏綱流の系図は、氏綱―宗経―貞経―景綱となる。一字書出の順でも北条時氏・経時・時頼・時宗・貞時の順が、そのまま氏綱・宗経・貞経と符合する。
 しかし、尊卑分脈や続群書類従本では氏綱―景綱―宗綱―景綱とする。これは貞綱(貞経)が脱落しているとも考えられるが、あるいは尊卑分脈・続群書類従本もまた事実を伝えているとすれば、氏綱―宗綱(宗経)―宗綱(宗敦)―景綱となり、貞経が宗敦と改名したと考えられる。越前佐々木加地氏の惣領は、氏綱(七郎左衛門尉)―宗経(四郎左衛門尉・大宰権少弐)―宗敦(越前権守)―景綱(近江権守)―氏綱(近江四郎)となる。得宗北条貞時の一字を捨てて「宗敦」と名乗ったのであれば、「宗」の字は得宗北条時宗の一字ではなく、皇族将軍宗尊親王の一字であろう。

 氏綱┬宗経─宗敦(貞経)─景綱─氏綱
    ├経綱─宗綱
    └時経 

 ところが上杉氏が守護として越後に入部すると、国大将の地位を失った。それでも足利尊氏の奉公衆(直臣)として中央で活躍し、師守記康永三年(1344)五月十七日条に記載の熊野参詣供奉人によると、景綱の嫡子氏綱(近江四郎左衛門尉)が帯太刀として列し、次男清氏(近江次郎左衛門尉)が調度役を勤めている。さらに翌四年(1345)天龍寺供養で氏綱は先陣十二人衆の一人に列し、弟清氏は帯剣(右十三番)として列した。ただし、この時期中央で活躍する佐々木近江入道(熊野参詣奉行)は景綱ではなく、佐々木導誉の兄佐々木善観(鏡氏)のことである。景綱が越後に在国していたことは、貞和三年(1347)十月二十日付佐々木景綱請文(三浦和田氏文書)で知ることができ、依然として越後で実力者であったことが分かる。その後も氏綱は貞和五年高師直邸に参じるなど中央で活躍している。氏綱の実名は初代氏綱と同じであるが、尊氏から一字書出を給付され、氏綱と名乗ったのだろう。そのことでも景綱・氏綱父子が尊氏からの信任が厚かったことが分かる。
 観応の擾乱が始まる観応元年(1350)には越後でも動きがあった。加地筑前二郎左衛門尉宛に室町幕府引付頭人奉書が発給されているのである。備前佐々木加地氏が「佐々木筑前守」を名乗ったことは、暦応四年(1341)の天龍寺供養に佐々木筑前三郎左衛門尉貞信が足利直義(三条殿)御調度役を勤め、さらに応永十年(1403)三月八日付佐々木筑前入道宛山名時煕(常煕)書状(八坂神社文書三)で筑前入道(飽浦氏)が備後守護代であったことでも分かる。このように佐々木筑前守の受領名は、旧備前守護家の備前守時秀から、その庶流の筑前守顕信・貞信父子、さらに飽浦氏に移ったことがわかる。筑前二郎左衛門尉は貞信の兄弟であろう。
 しかし半年後には近江四郎氏綱代の佐々木加地貞朝の打渡状が発給されており、観応の擾乱で尊氏派に属した近江四郎の優勢が分かる。上杉氏が入部する以前、越後守護は高師直の一族であり、師直派と近江四郎は連携していたと考えられる。
 ところが貞治元年(1362)に上杉氏が越後守護に復帰すると、近江四郎は没落し、備前前司時秀跡は没官された。
 まず上杉氏が守護に復帰してまもなく佐々木越前守という人物が登場する。貞治三年に佐々木加地越前守、翌四年に佐々木加地越前前司が室町幕府引付頭人奉書によって加地荘内の争論解決の使節を命じられている。景綱の父宗敦が越前権守であり、越後佐々木加地氏にとって、越前守は重みのある受領名である。尊卑分脈によれば備前前司時秀の子息師秀が越前権守であったという。観応の擾乱のなかで、南朝方に投降していた上杉氏と備前前司時秀・師秀(小島氏)が連携し、時秀が越後に復帰したのだろう。
 そして上杉氏の守護代長尾高景書状によって、近江四郎が会津新宮の芦名氏のもとに出奔したことが知られるが、高景が越後守護代に補任されたのが貞治五年(1366)であり、また文中で上杉憲栄(「親衛」)が守護である時期と分かる。近江四郎の会津没落は応安元年(1368)から永和四年(1378)までの間である。
 この近江四郎の没落と同じ時期、永和二年(1376)に「加地荘内佐々木備前前司時秀法師跡」が鎌倉円覚寺に与えられている(円覚寺文書、越佐史料2-639)。『洞院公定公記』応安七年(1374)五月三日条に「伝え聞く、去る廿八九日の間、小島法師円寂すと云々。是れ近日天下に翫ぶ太平記の作者なり。凡そ卑賤の器たりと雖も、名匠の聞え有り。無念と謂うべし」とある小島法師は、時秀のことであろう。その所領は佐々木越前守に受け継がれることなく、二年後に鎌倉円覚寺に与えられた。佐々木越前守も没落したのである。上杉氏による有力国人の弾圧であろう。そうであれば室町期に佐々木加地氏が没落し、備前守護家の受領名である筑前守が備前前司時秀(小島氏)から離れて、小島氏庶流の筑前守顕信・貞信父子、さらにもともとの備前守護家佐々木東郷氏の子孫飽浦氏に移ったことも理解できる。
 佐々木氏が衰微していたことは、「応永二十一年(1414)十一月日付佐々木三郎盛綱子孫同三郎長綱謹庭中言上」でも知ることができる。佐々木三郎長綱は、盛綱─信実─秀忠─景秀─秀綱─高信─長綱とつづく秀忠流磯部氏の人物で、室町幕府執事細川清氏の孫細川頼氏の養子になり、越後白河庄上下条と遠江相良庄を相続していた人物であるが、生活に窮して足利義満に直訴していた。このことでも揚北衆佐々木氏が没落していたことが分かるが、この佐々木長綱(三郎左衛門尉)が、新発田氏の祖長綱だろう。戦国期の新発田氏が、越前守師秀の子孫加地氏よりも優勢であった事実から、この長綱の訴えは成功したと考えられる。
 ところで鮭延愛綱(秀綱)の子孫という系譜を持つ大沼氏は、四目結紋と三星紋を交互に配した陣幕をつたえており、三星紋を本紋とした盛綱流佐々木氏の可能性は高い。しかも鮭延愛綱(典膳)が最上義光に仕えて越前守と名乗ったことは、自らの家系が越後佐々木加地氏であることを示している。また大沼氏には会津から出羽に入国したという系譜伝承もあり、事績は異なるものの景綱・氏綱などの名も見られることから、景綱・氏綱父子の子孫である可能性は高い。鮭延越前守侍分限帳(『新庄市史』所収)の一族並館持衆老臣にも、越後出身と思われる平岡館主柿崎能登守がいる。柿崎氏は新田義宗の子孫とも名乗る越後南朝の中心人物であり、その一族が老臣となっていることで近江四郎の越後落居後の行動も推測できる。
 また、その一方で譜代衆には六角氏の近江守護代馬淵氏の一族と思われる馬淵伊織が含まれていることから、近江との交渉はあったようである。おそらく景綱・氏綱が上洛して以降、交流があったのだろう。秀綱が佐々木六角氏流鯰江氏とされる理由も分かる。

河野親清と首藤親清

 河野氏は伊予国越智郡郡司である越智氏の子孫と伝えられるが、通清の父親清は伊予守源頼義の四子三島四郎親清であるという。実は源頼義・義家父子の有力な郎等に首藤資清(佐藤公清の猶子守部氏)があり、その孫が左衛門少尉親清である。資清の子資道(豊後権守)は康和三年(一一〇一)源義家の子対馬守義親が鎮西で反乱を起こしたとき、義家の命を受けて鎮西に下向したが、義親に味方して追討の官吏を殺害して捕縛され、かわって平正盛が追討使となった。資道の子である親清は、『中右記』大治五年(一一三〇)十一月二十二日条に「北面下臈」と見え、さらに『本朝世紀』康治二年(一一四三)四月二十日条に「左衛門少尉藤親清」と見えており、院北面や京官を勤める京武者と分かる。国司の郎等は、国司見習いであることが多く、秀郷流藤原氏の首藤氏も国司予備軍の京武者と考えられる。愛媛県松山市来住町の軍ケ森八幡宮は、河野親清の郎従首藤助方が石清水八幡宮を勧請したものだという。この由緒で、河野親清と首藤氏の関係が分かり、首藤親清と同一人物の可能性が見えてくる。

 藤原公清―┬佐藤季清――康清――義清(西行)
        └首藤資清―┬資道――親清――河野通清
                 └義通(通義、首藤山内・小野寺)

 親清・通清の「清」の字は、佐藤義清(西行)に見られるように秀郷流藤原氏の佐藤氏の通字であり、親清は西行の従兄弟に当たる。また河野氏の通字である「通」の字も、親清以後の首藤氏の通字である。首藤氏は美濃国席田郡司守部氏の地位を継承しており、河野氏がその子孫であれば、美濃で稲葉氏など河野一族が栄えたことも理解できる。
 伊予の在庁官人河野親経(伊予権介)は、「親」の字から源義親に近かったと考えられ、同じく義親に近かった京武者首藤資道(資通)の子親清を女婿にしたと考えられる。一遍が西行を強く意識したことが、これで理解できる。また一遍が信濃滞在中に訪れた下野小野寺は、同じく首藤氏の子孫小野寺氏(資道の弟首藤山内義通流)の本貫の地であり、その縁で訪れたとも考えられる。

一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5)

 佐々木泰清は、本妻大井太郎朝光女(光長姉)を娶り、さらに正妻葛西清親女を娶ったように(11)、東国の豪族級御家人と閨閥を形成した。泰清は隠岐・出雲守護として、『葉黄記』宝治元年(一二四七)五月九日条に六波羅評定衆として見え、建長四年(一二五二)正月十一日臨時宣で検非違使に補任され、翌五年二月四日賀茂・八幡両社行幸行事賞で従五位下に叙爵されて、正嘉元年(一二五七)に従五位上に加級、『経俊卿記』同年五月十一日条でも六波羅評定衆として見える。翌二年に信濃守に補任された(検非違使補任)。以後、隠岐佐々木氏は検非違使を世襲官途にし、また信濃守に補任された者も多く見られ、信濃との関係をうかがわせる。
 この泰清の子息のときに隠岐佐々木氏は二流に分かれ、母が大井朝光女である次男時清(隠岐二郎左衛門尉・信濃二郎左衛門尉・隠岐判官)が隠岐守護職を継承して隠岐氏となり、母が葛西清親女である三男頼泰(大夫判官)は出雲守護職を継承して塩冶氏となった。
 時清は、『吾妻鏡』弘長三年正月十日条で左衛門少尉・検非違使として見え、文永元年(一二六四)十一月十四日に二十三歳で従五位下に叙爵され(検非違使補任)、建治元年(一二七五)七月六日に引付衆に列し(三十四歳)、弘安六年(一二八三)六月十四日に評定衆に加えられた(関東評定衆伝)。六波羅評定衆から鎌倉評定衆へと家格を上昇させている。小田切郷を得たのは、この大井朝光の孫時清のときであろうか。
 時清は、安達盛長の子孫で代々引付衆を勤めた大曽禰氏の惣領上総介長経の娘を娶った。また検非違使補任(『続群書類従』四輯上)では、源時清の項に藤原時豊(左衛門少尉・検非違使・出羽守)の息男で同日に叙爵されたと伝える。伊予守護宇都宮頼業の子時豊(時業)の女婿であった時清は、伊予国御家人であった一遍と旧知の可能性もある。
 弘安八年(一二八五)に霜月騒動が起こると、時清妻の兄大曽禰宗長や叔父義泰は没落し、評定衆宇都宮景綱(下野守)も討手を差し向けられた。しかし時清は弘安十年六月には東使になっている(興福寺略年代記)。東使とは朝廷との交渉役で、実力者が勤めるものであり、霜月騒動後も時清が健在だったことが分かる。しかし時清の子のうち頼清(四郎左衛門尉)は北条時頼の一字を与えられ、しかも『続群書類従』巻百三十三の佐々木系図で隠岐守と伝わるが、その事績が伝わらない。霜月騒動で没落した可能性がある。
 時清の四男宗清(豊前守)は評定衆京極宗綱(能登守)の娘婿だが(12)、舅宗綱の庶兄頼氏が安達泰盛追討賞で豊後守に補任されたように(尊卑分脈、続群書類従本、沙沙貴神社本)、京極氏は霜月騒動で地位を維持している。
                  
                       ┌満信――宗氏
           ┌広綱  ┌泰綱 │      ┠――高氏(導誉)
 秀義―┬定綱―┴信綱―┴氏信―┴宗綱―┬女子
     ├経高                   ├貞宗
     ├盛綱                   └女子
     ├高綱                     ┠――清高―重清
     └義清―――泰清―――時清―――─宗清

 宗清は、永仁元年(一二九三)四月二十三日左衛門尉(権少尉)で検非違使を兼ねていたことが『実躬卿記』に見える。その前日の四月二十二日には平頼綱が滅亡している。翌二年には弘安合戦(霜月騒動)与党の人事について、鎌倉追加法六四三条が発布されて復権が認められたが(13)、宗清の検非違使補任はそれ以前の復権といえる。また時清女が、評定衆二階堂頼綱(下総守)の嫡子貞綱(下総三郎左衛門尉)に嫁いでおり、復権とともに吏僚系御家人と閨閥を築いて、幕府内部に深く入り込んだことが分かる。
 ところが嘉元三年(一三〇五)の嘉元の乱で、父時清(入道阿清)は、連署北条時村を殺害した謀反人北条宗方(引付頭人)と合戦して相打ちとなった。このとき宇都宮景綱の子貞綱(下野守)が、討手として宗方邸を向かい宗方被官を討っている。
 この嘉元の乱では、時清の甥後藤顕清(信濃二郎左衛門尉)も討死にしている。顕清の父後藤基顕(信濃守)は時清の実弟で、六波羅評定衆後藤基政の養子となっていた。基政も葛西清親の女婿で泰清と相婿の関係にあり、泰清は六波羅評定衆に在職していたときに、子息基顕を同僚後藤基政の養子にしたのだろう。基顕(後藤信濃入道)は、こののち北条高時政権で評定衆になっている(金沢文庫文書三七四号)。
 さらに宗清妻の兄貞宗(京極氏嫡子)も戦傷を負い早世している。そのため京極氏は庶流宗氏が婿養子として評定衆に列し、その嫡子高氏が京極氏を継承した。彼が婆裟羅大名佐々木導誉である。続群書類従本で高氏に「於鎌倉補執事」と記すのは、高氏が御内人であったことを示していよう。隠岐・京極・後藤氏は御家人の地位を維持しながら北条得宗家の御内人になり、鎌倉幕府内で家格を上昇させたのである。
 しかし宗清は、検非違使の功で豊前守に補任されたこと、また隠岐守と伝わり隠岐守護を勤めただろうことが推測されるが、幕府要職を経験した形跡が見られない。
 それでも宗清の嫡子清高(隠岐判官・隠岐前司)は引付衆に列して東使を勤めている。さらに清高妻は問注所執事を歴任した三善氏の引付頭人太田時連女であり(続群書類従本)、信濃守を勤めた吏僚系御家人の娘を娶っている。太田時連は佐々木氏惣領六角頼綱の女婿であり、佐々木氏が吏僚系御家人と閨閥を築いたことが確認できる。
 幕府に忠誠を尽くした清高は、鎌倉幕府滅亡にあたって一向派の近江国番場蓮華寺で六波羅探題北条仲時(信濃守護)とともに自害している。「近江国番場宿蓮華寺過去帳」(『群書類従』二十九輯)には「佐々木隠岐前司清高(三十九歳)、子息次郎右衛門尉泰高(十八歳)、同三郎兵衛尉高秀、同永寿丸(十四歳)」とある。
しかし、清高の末子重清(左衛門尉・検非違使)は遊行上人十一代自空になったという(14)。たしかに従兄弟の出雲守護代佐々木隠岐入道自勝とは「自」が通字となる。

 佐々木泰清┬隠岐時清―宗清┬清高―重清(自空)
        |          ├秀清―隠岐入道自勝
        |          └清顕―師清―頼清(都万郷地頭)
        ├塩冶頼泰―貞清―高貞(出雲守護)
        ├富田義泰―師泰―秀貞(美作守護)―直貞(隠岐守護)
        ├後藤基顕―顕清
        └湯 頼清┬泰信―公清―公綱(出雲玉作城主)
               └信清―雅清(布志名判官・若狭守護)

 清高の弟信濃守秀清の子息である隠岐入道自勝は、南北朝期に隠岐・出雲守護を獲得した佐々木導誉の守護代となり(15)、隠岐佐々木氏は時衆との関係も継続して、貞和年間(一三四五~五〇)には隠岐国の島後西郷に四条派道場の大光明寺を創建している(16)。
 また松江市乃木善光寺蔵写本『託何上人法語』に「雲州玉作本阿弥陀仏ニ給ケル安心」とある人物は、時清の弟湯頼清(七郎左衛門尉)に始まる湯氏と考えられる(17)。湯氏は玉作城を中心とする湯郷の地頭で、頼清―泰信(十郎左衛門尉)―公清(源三左衛門尉)―公綱(信濃守・源三左衛門尉)と続く。また湯泰信の弟信清の子が、『太平記』で「富士名判官」として知られる布志名判官雅清(若狭国守護職次第、大徳寺文書)である。
 時衆と隠岐佐々木氏の関係から、時衆と佐々木導誉の関係も見えてくる。小田切郷地頭佐々木宗清の妻は佐々木宗綱の娘であり、宗清は佐々木導誉の叔父に当たる。導誉は、足利義詮より給付された京都四条京極の土地を五日後には金蓮寺に寄進し、翌二年七月には近江国甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した(金蓮寺文書)。
 佐々木時清の屋形は念仏踊始行の場になり、時清母あるいはその姉妹は一遍と結縁して極楽往生したが、時清の一族はその後も時衆と深く関わったことが分かる。


(1)平林富三「小田切村と湯沢村史料」(『郷土研究千曲の浅瀬』千曲の浅瀬刊行会、一九七三年)二五七-九五頁。
(2)砂川博「『一遍聖絵』を読み直す(一)」時衆文化四号、二二-四六頁、二〇〇一年。
(3)平林富三「一遍上人の佐久郡伴野庄巡錫に就いて」(『信濃』四巻十一号、一九-二七頁、一九五二年)は、相葉伸氏らが水内郡とするのに対して、大井荘説を主張した。
(4)牛山佳幸「一遍と信濃の旅をめぐる二つの問題」時衆文化九号、一-三三頁、二〇〇四年。多くの議論を平林氏に負いながら、水内郡説を主張している。
(5)井原今朝雄「信濃国大井荘落合新善光寺と一遍(下)」時衆文化十七号、四二-七四頁、二〇〇八年。砂川博氏は、井原氏の学説を高く評価している。
(6)井原今朝雄「信濃国大井荘落合新善光寺(上)」時衆文化十六号、一-二五頁、二〇〇七年。落合新善光寺と下野小野寺の関係について論じている。
(7)平林富三氏、前掲論文「小田切村と湯原村資料」(注1)。および、栗田勇『一遍上人― 旅の思索者』(新潮社、一九七七年)一六二頁。
(8)佐々木弘美氏のご指摘による。
(9)『新編信濃史料叢書』守矢文書。牛山佳幸氏はこの資料を引用しながら、小田切郷説を捨てた。地元の武士小田切氏に引きずられたといえよう。
(10)入間田宣夫「鎌倉時代の葛西氏」入間田宣夫編『葛西氏の研究』名著出版、一五-五八頁、一九九八年。
(11)(『尊卑分脈』宇多源氏、『続群書類従』巻百三十二、沙沙貴神社所蔵佐々木系図。続群書類従本では「母大井太郎朝光女」と記している。)
(12)『尊卑分脈』や沙沙貴神社本が、宗清母とするのは誤りだろう。
(13)細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、二〇〇〇年)二六七-八頁。
(14)「遊行藤沢霊簿」に「生国隠岐佐々木氏後円融院康暦三辛酉二月十八日於備後尾道常弥寺五十三賦算」とある。河野憲善「時衆研究の時到る!」時衆あゆみ十八号、一九五八年。および、金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、一九七五年)三七九頁。河野憲善『一遍教学と時衆史の研究』、(東洋文化出版、一九八一年)二四四頁。
(15)貞治五年(一三六六)十二月五日付隠岐入道宛佐々木導誉遵行状案ほか「山城水無瀬神宮文書」、応安二年(一三六九)九月十六日付隠岐入道宛佐々木高秀遵行状案ほか「祇園神記続録十」など。「隠岐入道」であれば清綱(隠岐守)と考えられるが、沙沙貴神社本では清綱の弟氏清(彦左衛門尉)に「隠岐入道自勝」と注記されている。
(16)『隠州視聴合紀』大光寺村の条。金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、一九七五年)三五三-四頁、および四二六頁。大光明寺の建立は遊行派の七祖託何による。このとき四条派と遊行派は円満な関係にあったようである。
(17)玉作城を本拠としたのは、湯郷地頭湯氏である。河野憲善氏は、佐々木秀貞(富田判官・美作守)と推測しているが(同著『一遍教学と時衆史の研究』二四三頁)、秀貞は「富田判官」と呼ばれているように富田城を本拠とした。

一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(4)

 一遍の祖河野通清は平治の乱で一時没落したが、源頼朝の挙兵に呼応して土佐で源希義(頼朝弟)が挙兵すると、通清・通信父子も伊予で挙兵した。『吉記』養和元年(一一八一)八月二十三日条に「伊予国在庁川名大夫通清」が平家に討たれたことが伝聞として記されているが、通信は源義経に従い戦功を挙げて所領を回復している。
 伊予守護には、頼朝の伊豆配流時代からの側近佐々木盛綱が補任されたものの、建仁三年(一二〇三)通信は守護佐々木盛綱の奉行によらず、旧のごとく国中の一族郎党を率いるよう御教書を得ている(『吾妻鏡』建仁三年四月六日条)。元久二年(一二〇五)にも、伊予国の御家人三十二人は守護ではなく通信の奉行で御家人役を勤めるよう、あらためて御教書が発給されている。通信は越智惣領職を認められ、越智一族を指揮するよう命じられたのである。このとき必要とされたのが、通信の父通清を三島神の御子とする系譜伝承であろう。祖父親清を源頼義の末子とする系譜伝承から、河野氏は越智氏との血縁関係をもたないと推測できる。河野氏はまず源氏との結びつきを宣伝し、さらに父通清を三島神の御子として越智氏惣領職を得たのだろう。
 河野氏はほかの有力な西国御家人と同様、後鳥羽上皇が新設した西面の武士に列した。そのため後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた承久の乱では、通信と嫡子通政・四男通末をはじめ一族のほとんどが京方であり、幕府方は鎌倉に出仕していた五男通久だけだった。『吾妻鏡』承久三年(一二二一)六月二十八日条によれば、通信は京都での戦闘が終了しても伊予で戦闘を続けている。その通信が死罪を免れて陸奥江刺郡に配流されたのは、通信が鎌倉開幕の元勲であり、助命嘆願が認められたからだろう。しかし京方の参謀のひとり佐々木経高(もと阿波・淡路・土佐守護)は幕府元勲であったが、北条泰時の願いむなしく、助命嘆願せずに自決している(『吾妻鏡』『承久記』など)。
 その結果、幕府方の通久は阿波国富田荘の地頭職を獲得したのみで(保阪潤治氏所蔵文書)、のちに伊予国久米郡石井郷との所替えを許されて本国伊予に復帰するものの、かつて守護と同様の権限を与えられた河野氏の没落は明らかだった。それに対して近江守護佐々木氏では、弟信綱が兄広綱父子を斬首したことで、本国近江守護を維持した。河野氏と佐々木氏との差は歴然としている。『承久記』では信綱の過酷さが物語終盤の悲壮感を盛り上げるが、これが承久の乱で一族が分かれた西国御家人の現実であった。それができなかった河野氏は、本国を維持できなかったのである。
 時清の祖父佐々木義清は、伊予守護佐々木盛綱の弟であり、河野氏と因縁がある。さらに父泰清の本妻は小笠原氏族の大井太郎朝光女だが(続群書類従本)、正妻は奥州総奉行葛西清親女であり(尊卑分脈、続群書類従本、沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、河野通信が配流された陸奥国江刺郡は葛西領五郡二保(10)のひとつであった。守護の権限をめぐり河野通信と対立した盛綱の甥で、その河野通信を罪人として預かった葛西清親の女婿佐々木泰清は、河野通末を預かる人物として適任である。また後鳥羽上皇を預かった隠岐守の家系であり、流人処遇の作法もわきまえている。一遍が小田切の里(佐久郡大井荘小田切郷)で踊念仏を始めたのは(『聖絵』巻四詞書)、やはりそこが通末の墓所だからだろう。

一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(3)

 『聖絵』では小田切里の武家屋敷の敷地内に一遍の叔父河野通末の墳墓と思われる盛土が描かれている。「或武士」は、いったん伴野氏が預かった河野通末を引き取った人物であり、河野氏と因縁のある人物と考えられる。そこで資料を探すと、嘉暦四年(一三二九年)鎌倉幕府下知状(守矢文書)に「小田切郷佐々木豊前々司跡」とある(9)。この記事から信濃国佐久郡大井荘内小田切郷の地頭が、佐々木宗清(豊前守)と分かる。宗清は鎌倉幕府草創期に活躍した佐々木兄弟のうち五郎義清の曾孫で、出雲・隠岐守護を世襲した隠岐佐々木氏の嫡流である。承久の乱の当時は義清の時代であった。

           ┌大曽禰時長―長泰―長経―女子
    安達盛長―┴景盛――義景         ┃
                   ┠―――泰盛   ┃
                 ┌女子         ┃
小笠原長清―┬伴野時長―┴時直――長泰   ┃
         └大井朝光―┬光長――時光   ┃
                  └女子        ┠――宗清
                    ┠――――――時清
         佐々木義清――泰清

 さらに義清の嫡子泰清の本妻は大井太郎朝光女で、その嫡子時清の妻は安達一族の大曽禰長経女で、その嫡子が宗清である。一遍遊行当時の地頭は宗清の父時清の時代であり、時清母が一遍に念仏往生を願った「大井の姉」と考えられる。『続群書類従』巻百三十二佐々木系図(以下、続群書類従本)では時清と女子ひとり以外に大井朝光女を母とする子女がいないため、時清母は離別か死別と思われるが、離別であれば「大井の姉」が、大井太郎(光長)屋形にいることも理解できる。死別であれば、「大井の姉」は時清母の姉妹だろう。時清は出雲守護職を正妻葛西清親(伯耆守)女が母である弟頼泰に出雲守護職を譲り、鎌倉を地盤に幕府要職を歴任していた。
 そのため、大井太郎と「大井の姉」が一遍と出会ったのは時清の小田切郷屋形と推測できる。伴野市庭・小田切の里・大井太郎屋形の場面が連続することも、伴野・佐々木・大井氏が親族であったことを示していよう。ここに滋野氏族の小田切氏が入る隙はない。これまでの議論は郷土研究が主であったため、地元の武士小田切氏に引きずられ、大井・安達両氏と閨閥を築いた隠岐佐々木氏を見落としたといえる。
 『尊卑分脈』に「母大井太郎朝光女」の記事がないのは、佐々木氏が大井氏との関係を対外的に伏せたことを示している。『聖絵』でも「或武士」と記していよう。

一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(2)

 『聖絵』巻四第五段では、信濃国佐久郡伴野市庭の一遍・時衆の歳末別時念仏会の際に紫雲が立ち、時衆と周囲の人びとが上空を見て合掌している。しかし一遍は上空に視線を向けず、一人の僧と対峙している。この場面と連続する同一画面の小田切の里の踊念仏場面に、河野通末(通信の三男)の墳墓があり(7)、紫雲はこの小田切の里の場面へと連なる。紫雲に合掌する人びとは、小田切の里に向かって拝んでいる形になる。たしかに小田切の里で踊念仏の始行があった。一つの画面における二つの場面は、紫雲で連続しており、地理的にも同郡内と考えられる。
 伴野市庭の場面では背景に、牛の群、乞食のそばで喧嘩をする犬、草葺きの屋根や地面にいて食べ物を啄ばむ複数の烏が描かれている。しかも一遍は紫雲を見るのではなく、ひとりの僧と対峙している。この喧騒は親族の菩提を弔う場面ではない。人びとから見て紫雲の方向、つまり次の場面が通末の墓であることを連想させる。詞書では小田切の里→伴野荘→大井太郎屋形だが、画面では伴野荘→小田切の里→大井太郎屋形となる。実際の経路は伴野荘→小田切郷→伴野荘→大井太郎屋形であろう。伴野市庭の画面は、紫雲、および一遍と僧の対峙という二つの出来事を異時同図で描いた可能性もある。詞書では最初の伴野荘を、画面では二度目の伴野荘を省略したことになる。巻四の最後の画面を小田切の里にしたのは、小田切の里が踊念仏始行の地であり、踊念仏という視点では小田切の里と大井太郎屋形が連続するからである。またこの連続性を重んじて、伴野荘と大井荘という異なる荘名ではなく、佐久郡という同じ郡名で表記したと考えられる。
 『聖絵』巻五第一段、信濃国佐久郡の大井太郎の屋敷で、一遍一行は三日三晩の踊念仏を行った。数百人が踊ったので板敷きを踏み落したが、修理をせずに一遍の形見とした。左画面の屋敷は板敷きが踏み落とされたままである。右画面には大井太郎の屋敷を出て右方向に向かう一遍一行と、その反対の左方向へと飛ぶ白い鳥の群が描かれている。白い鳥は物語性に即して左方向に飛んでいく。これは大井太郎の姉が往生したことを示しているだろう。それに対して、一遍一行は物語性とは逆行している。右方向は過去を示し、見る者を巻四の巻末の小田切の里に戻す。このことで「小田切の里、或武士の屋形」と大井太郎屋形の比較を促している。
 大井太郎屋敷場面と小田切の里の場面を比較すると、両方とも武家屋敷が画面左にある。『聖絵』巻四巻おわりの小田切の里の場面と、『聖絵』巻五はじめの大井太郎屋形の場面は、同じ場面の再登場にも見える。踊念仏が前の場面より激しいことは、同じ構図にすることでむしろ強調される(8)。
 また実際に一遍は、小田切の里と大井太郎屋形の間の省略された伴野市庭に戻ったと考えられる。『遊行上人縁起絵』(以下、『縁起絵』)で、小田切の里の念仏始行も大井太郎の踊念仏も伴野のこととして記しているのは、伴野市庭を布教の拠点にしたためと考えられる。やはり『縁起絵』でも、異なる荘というよりも同じ郡という意識が強かったのだろう。

一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(1)

 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)によれば、信濃国小田切の里で踊念仏が始められた。巻四の第五段に伴野市庭と小田切の里の場面が描かれ、つづく巻五の第一段に大井太郎屋形が描かれている。詞書に従えば、信濃入りした一遍は善光寺を訪れたのち下野小野寺を訪れ、再び信濃入りして小田切の里・伴野市庭・大井太郎館に立ち寄ったという。
 しかも信濃の佐久郡に入った一遍は、小笠原氏惣領であった伴野荘地頭伴野氏のもとに寄らず、小田切の里を訪れている。一遍の叔父河野通末が配流されたのは伴野荘であり、親族の鎮魂が目的ならば、大井荘小田切郷ではなく伴野荘を真っ先に訪れるはずである。そのため、小田切の里に向かった理由やその所在が議論されてきた。
 平林富三氏は論文「小田切村と湯原村史料」で、河野通末が伴野荘から何らかの事情で大井荘小田切郷に移り、そこで死去して葬られたという仮説を提示している(1)。たしかに『聖絵』の「或武士の屋形」には墳墓と見られる盛土があり、一遍が伴野に立ち寄らず小田切の里に直行したことや、踊念仏の始行がそこで行われたことが理解できる。
 また砂川博氏は、伴野市庭が賦算の中心と思われるにもかかわらず地頭伴野氏が『聖絵』に登場しないのは、伴野時長が安達泰盛の外祖父であり、霜月騒動(一二八五年)で没落したためと推測した。大井太郎はそして小田切里を大井荘小田切郷とし、小田切郷地頭を大井太郎の縁者と推定している(2)。
 それに対して牛山佳幸氏は、多くを平林富三氏の議論(3)に負いながらも、小田切の里は大井荘小田切郷ではなく、善光寺と同じ水内郡内と主張している(4)。一遍遊行の目的は親族の墓参であり、その道程は『聖絵』とは一致せず、京都→北国路→水内郡善光寺→水内郡小田切氏居館→諏訪郡羽広郷の通政墓所→佐久郡伴野荘の通末墓所→佐久郡大井荘→水内郡善光寺→下野小野寺→陸奥国江刺郡の通信墓所であったと推定した。
 たしかに戦国期の弘治二年(一五五六)に推定される十二月二十四日付武田晴信朱印状にある「小田切方」は水内郡内と考えられ、同郡内の小田切領は鎌倉期にまでさかのぼる可能性がある。しかし水内郡内に小田切氏所領があったことを認めても、小田切という地名があったことまでは認められない。小田切氏旧領という由緒から明治期に小田切村ができたが、それを鎌倉期にまで遡らせるのは強引だろう。また「小田切の里」が小田切氏所領であれば、「或武士の屋形」と隠す必要はない。
 井原今朝雄氏は、『聖絵』には霜月騒動で没落した伴野氏が登場しないこと、『聖絵』の安達泰盛に対する評価が高いことに注目し、『聖絵』に伴野氏と安達泰盛が守護だった上野について触れていないのは両氏との関係に言及するのを避けたからだという。霜月騒動直後の弘安九年(一二八六)にあたる『聖絵』巻九の天王寺参詣の場面で安達泰盛を「おほきなる人」と評していることでも、『聖絵』が安達泰盛派と親しい立場で描かれていることが分かる(5)。このとき安達派はまだ復権していない。さらに一遍が下野小野寺へと往復した理由も、信濃大井荘内の落合新善光寺建立と関連づけて、当時の下野小野寺には勧進聖たちが集まっていたからだと結論した(6)。伊予守護宇都宮頼業の父頼綱(実信房蓮生)は、一遍の父河野通広と同じく証空の弟子であり、また甥景綱(引付頭人)は安達義景(泰盛の父)の女婿である。一遍は下野で宇都宮氏と接触したとも考えられる。

            ┌頼業(伊予守護)―時豊(検非違使・出羽守)
宇都宮頼綱(蓮生)┴泰綱(評定衆)―景綱(引付頭人)―貞綱

 そうであれば、『聖絵』で伴野市庭と大井太郎屋形の間にはさまれた小田切の里も安達泰盛派という視点で見る必要がある。大井朝光は伴野時長の弟であり、大井荘小田切郷地頭が大井氏の縁者であれば、安達泰盛派といえる。また善光寺が大井荘内の落合新善光寺であれば、小田切の里が水内郷内では行程に無理が生じる。画面と現在と伽藍配置が異なることには意味があったのである。

『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(6)

 『聖絵』と同様に資料価値があるとされている伝記絵巻に、『遊行上人縁起絵』(以下、『縁起絵』)がある。全十巻四十三段で、前半の四巻までが一遍の伝記、後半の五巻から十巻までが真教の伝記となっている。原本は現存せず、鎌倉時代から江戸時代の模写本が二十数本残っているだけである。
 それら模写本の詞書から、『縁起絵』作者は平宗俊(真光寺本)あるいは池刑部大輔(金蓮寺本)とされている(13)。この平宗俊を北条一族の淡河氏と推測する学説もあるが(14)、北条系図に宗俊は見えない。真教と縁があり、平氏で諱字「俊」を使用する人物ということから、真教に帰依した淡河殿の夫北条時俊(時房流)の末子であろうと推測したものだ。やはり金蓮寺本で池刑部大輔としていることを排除してはならないだろう。自らの学説に不利な資料を排除しては実証的研究とはいえない。
 まず『縁起絵』制作者を平宗俊とする資料と池刑部大輔とする資料があれば、両者を同一人物とする前提から出発する必要がある。その前提から出発する限り、宗俊を北条氏とする推測は成り立たない。そこで、あらためて『尊卑分脈』に注目すれば、平宗俊を桓武平氏高棟流に見つけることができる。六波羅評定衆の佐分利加賀守親清の子息、刑部権大輔平宗俊である。真光寺本と氏名「平宗俊」が一致するだけではなく、金蓮寺本とは官職「刑部(権)大輔」が一致する。
 宗俊の父親清は、『若狭国守護職次第』北条重時の項に「守護御代加賀守殿自延応元年拝領之」とあるように、六波羅探題で若狭守護を兼職した北条重時の若狭守護代を勤め、また六波羅評定衆にも列した人物である(15)。高棟流桓武平氏は、太政官の事務局である弁官(左右大弁・中弁・少弁)を経て納言に昇進する「名家」の家柄であり、その一族が吏僚官僚として北条氏の被官になることは十分に考えられる。
 しかし宗俊は六波羅評定衆に列した形跡がない。金蓮寺本にある「池刑部大輔」の名乗りに注目すれば、同じく桓武平氏であり、鎌倉殿伺候の公家衆であった池流平氏の名跡を継承したと考えられる。池家は平清盛の弟池大納言頼盛の子孫であり、頼盛の母池禅尼が源頼朝の助命を清盛に嘆願したことから、平氏一門の都落ちには同行せず、鎌倉幕府に出仕する公家のひとりになった。鎌倉末期には池顕盛の養子佐々木万寿丸(朽木経氏)が池河内家の所領丹後国加佐郡与保呂村を継承しており(『朽木古文書』第一二軸甲一〇号)、宗俊も池家のいずれかの所領を継承して「池刑部大輔」と名乗ったと考えられる。
 ところで『縁起絵』によれば、正応六年(一二九三)頃に「越後国池のなにがしとかやいふ人」が、真教に帰依している。真教に帰依した人物であれば、『縁起絵』作者にふさわしい。『縁起絵』作者池宗俊を、この越後池氏の人物と考えることもできる(16)。しかし越後池氏は、正応五年九月十八日付関東下知状(高橋文書)で「一之宮神官池宮内大夫」と記されているように越後国一宮の神官であり、公家衆である池流平氏の人物ではなく、古代豪族の高志池君の子孫と考えられる。平頼盛に還付された没官領三四か所を見ても、越後に池家の所領はない。もちろん、後に越後に所領を得たとも考えられる。佐々木万寿丸に譲渡された丹後国加佐郡与保呂村も、平頼盛の没官領三四か所のうちに含まれていないからである。しかし越後池氏は越後国一宮の神官であり、越後池氏と池流平氏はやはり別流と考えられる。
 また平宗俊の官が刑部権大輔であり、越後池氏の池頼章が宮内大夫、池頼定が中務大夫(17)であることも両者の家格の差を示している。八省(中務・式部・治部・民部・兵部・大蔵・刑部・宮内)の上級次官である大輔は、正五位相当で公達や諸大夫が補任される官職だが、大夫とある場合は大輔のことではない。八省の判官(三等官)である丞(六位相当)が年功で従五位下に叙爵されながらも補任されるべき官をもたない散位のとき、前職の官名に大夫をつけて名乗りとする。宮内丞で叙爵された者は宮内大夫、中務丞で叙爵された者は中務大夫、左衛門尉で叙爵された者は左衛門大夫である。宮内大夫・中務大夫を名乗る越後池氏は、従五位下を極位とする侍身分であり、池流平氏ではなく地方豪族と考えるのが妥当だろう。近江佐々木荘の場合でも、領家・預所両職と地頭職を兼ねた総管領は宇多源氏であったが、氏神の沙沙貴神社神職は古代豪族佐々貴山公の子孫紀氏(木村氏)で従五位下権守(権大夫)を極官とした。どちらも佐々木氏を名乗るが別流である。
 刑部権大輔である平宗俊には昇殿の記事がなく、殿上人ではないようだが、晩年に年功により叙爵される侍身分よりも上位であり、四位・五位の官職を歴任する諸大夫といえる。越後池氏とは別流で、池流平氏を継承したと考えるのが妥当だろう。『縁起絵』の「越後国池のなにがしとかやいふ人」という表現も、作者平宗俊と越後池氏が別流であることを示していよう。
 宗俊が養子となった池流平氏と久我家の関係に注目するならば、池家の所領は久我家に相伝され、山城国久我荘を除く根本所領を失っていた久我家の中心的な所領群を形成していた(18)。『聖絵』後援者久我家と『縁起絵』作者池宗俊はつながっていたのである。
 このように『縁起絵』作者が、池家を継承した刑部権大輔平宗俊と分かったことで、『聖絵』の後援者「一人」が久我通基である可能性がさらに高まったといえよう。『聖絵』『縁起絵』の制作は久我家所領問題と関係があり、久我家が『聖絵』後援者となり、久我家に多くの所領を譲渡した池家の人物が『縁起絵』作者となったことは興味深い。『聖絵』と『縁起絵』は久我家所領問題でつながっていたのである。
 しかも一遍と久我家の関係は、その父や師のときにさかのぼる。土御門通親の猶子(准子)である証空は、一遍の父河野通広の師であり、一遍の師聖達や華台の師でもあった。証空を介して一遍と久我家はつながっていたのである。そして『聖絵』と『縁起絵』の制作で時衆と久我家がつながった。
 このように『聖絵』後援者が久我通基であれば、『聖絵』に西園寺殿の御妹の准后が登場しないことも理解できる。久我家と所領問題で係争していた西園寺家の人びとが『聖絵』に登場しないことは、後援者が久我通基であれば当然であろう。


(1)岡部篤子「歓喜光寺本『一遍聖絵』の制作後援者『一人』について」(『古美術』八五号、一〇一―一一頁、一九八八年)。今井雅晴氏は『一遍辞典』(東京堂出版、一九八九年)の「一遍聖絵」の項で、指標となるべきものと評価している。
(2)岡部前掲論文。
(3)橘俊道・梅谷繁樹編『一遍上人全集』(第一巻、春秋社、二〇〇一年)二七一頁。
(4)『尊経閣文庫』永仁三年三月二十六日後深草法皇譲状(『鎌倉遺文』一八七八六)。および『大覚寺文書』正安二年三月六日後深草法皇譲状(『鎌倉遺文』二〇三八九)。金井静香『中世公家領の研究』思文閣出版、一九九九年、一八一頁参照。
(5)林屋辰三郎「法眼円伊について――一遍聖絵筆者の考証」(『画説』六三、一九四二年)。再録は、同著『中世文化の基調』(東京大学出版会、六四―七九頁、一九五三年)。
(6)橘俊道・梅谷繁樹編『一遍上人全集』(春秋社、二〇〇一年)。『一遍聖絵』の土御門内大臣に関する注では、久我通基としている。土御門定実ではなく久我通基とした理由は記されていないが、この注を契機に、筆者は『一遍聖絵』後援者久我通基説を立てることができた。
(7)五味文彦『「徒然草」の歴史学』朝日選書、一九九七年、九〇―四頁。
(8)久我家根本家領相伝文書案。小川信「久我家文書と久我家領」(『中世の貴族―特別展 重要文化財久我家文書修復完成記念』東京国立博物館、五―三二頁、一九九六年)。
(9)五味文彦『「徒然草」の歴史学』(朝日選書、一九九七年)九四頁。
(10)久我家文書「中院流家領目録草案」。この目録草案は、平安末期の中院入道右大臣源雅定(一〇九四―一一六二)が仁平四年(一一五四)に出家に際して、二人の養子雅通と定房に所領を分割譲与したときに作成されたものであり、雅通の子孫久我家に伝えられた。久我家の家名は、賜姓源氏で始めて太政大臣に補任された源雅実が、山城国久我荘に別荘があったことから久我太政大臣と称されたのに始まり、目録の作成者中院入道雅定は雅実の嫡子である。目録は中院入道雅定から、久我内大臣雅通、土御門内大臣通親、後久我太政大臣通光と久我家代々に伝えられた。中近世の中院家は、久我通光の弟権大納言通方(三条坊門)に始まる久我家の分流であり、一遍と結縁した土御門内大臣通成はこの通方の子息である。
(11)久我家根本家領相伝文書案。『中世の貴族―特別展 重要文化財久我家文書修復完成記念』(東京国立博物館、一九九六年)を参照。
(12)三木紀人校注『徒然草』(講談社学術文庫)の第一九五段「ある人、久我縄手を通りけるに」解説。
(13)今井雅晴『捨聖 一遍』(吉川弘文館、一九九九年)二〇七―八頁。ただし今井氏は、平宗俊を大仏流北条氏の人物とする下田勉氏の説に同調されている。『聖絵』十二巻二段に登場する淡河殿は佐介流北条時俊の妻と見られ(湯山学「他阿上人法語に見える武士」時衆研究六三号)、宗俊はその子息であろうという(下田勉「時衆と淡河氏」時衆研究七五号)。しかし、下田氏は宗俊が淡河北条時俊の一族という証拠を提示していない。管見の限り、大仏流北条氏に宗俊という人物を確認することができない。平氏であり刑部大輔である人物は、『尊卑分脈』を素直に見れば、高棟流平氏の刑部権大輔平宗俊のほかにない。
(14)前掲注。下田勉「時衆と淡河氏」(『時衆研究』七五号、二〇―七頁、一九七八年)。
(15)森幸夫『六波羅探題の研究』(続群書類従研究会、二〇〇五年)六六―七頁。
(16)湯山学「他阿上人法語に見える武士(二)」(『時衆研究』六四号、八―三八頁、一九七五年)「3越後池某」二四―六頁。越後池氏の人物としては、弘安十一年二月十八日付関東下知状(高橋文書)などで越後国福雄庄内の領地をめぐり係争したことが見える池宮内大夫頼章(代官俊章)・中務大夫頼定(代官時直)兄弟、嘉暦三年九月廿四日付鎌倉幕府奉行奉書(『三浦和田文書』)の宛所である池駿河七郎が資料に見え、『太平記』でも南朝方として池氏の活躍が記されている(「先帝崩御」など)。
(17)前掲注。
(18)久我家文書「久我家根本家領相伝文書案」。小川前掲論文「久我家文書と久我家領」(注8)を参照。池大納言平頼盛の嫡子光盛は、その所領を娘たちに譲ることを鎌倉幕府から許され、さらに久我通忠室(久我殿尼御前)とその姉妹から後久我内大臣通基に譲られて、久我家の中心的な所領群となった。これらの所領の譲渡について鎌倉幕府の承認が必要だったのは、それらが平家没官領のうち、源頼朝から頼盛に還付され、知行を認められたものだったからである。光盛の娘たちは所領を久我家に譲ることで、久我家の庇護を得たのである。

『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(5)

 久我通光(一一八七―一二四八)は臨終にあたり、遺産のすべてを後妻三条(西蓮)に譲渡したため、先妻の子どもとの間に所領問題が生じた。通光の嫡子右大将通忠(一二一六―一二五〇)は継母三条に対して割譲を求めたが、後嵯峨上皇の院宣によって、通忠には山城国久我荘を認められただけであり、そのほかの所領は三条が相続した。さらに三条は肥後国山本荘・近江国田根荘・伊勢国石榑荘の三か所を娘如月に譲り、如月の没後は中院通成の娘源顕子(今出川一位)に譲るよう譲状を記した。この源顕子は、前述のように西園寺実兼の正妻である。三条・如月母子は久我家との相続争いを有利にするために、西園寺家の庇護を求めたと考えられる。
 当時の西園寺家は、天皇家の外戚として、また関東申次として朝廷内で権勢を振るっていた。所領のうち近江国田根荘は、顕子から子息の西園寺公衡(今出川殿)に譲られて西園寺家領となり、さらに春日大社に寄進された。久我通基の奇行の原因のもうひとつに、この西園寺家との所領争いがあったと考えられる(11)。
 久我通基が『聖絵』の後援者であれば、所領をめぐり係争していた西園寺家の人びとが『聖絵』に登場しないことも理解できる。さらに、西園寺公衡が願主である『春日権現験記絵巻』と『聖絵』の画風が大きく異なることも理解できよう。
 このように見てくると、通基の奇行の原因として、①内大臣・右大将の職を止められたこと、②久我家の根本所領をめぐる係争で敗れたことが挙げられる。『徒然草』でも『北条九代記』でも、通基は久我荘に隠棲している。通基の奇行の原因が所領争いであったことを物語っている。しかし『徒然草』に記された通基の奇行は、奇行とはいっても地蔵を田の水で洗うというものであり、小袖の下着姿で無心に地蔵を洗う姿は美しくさえある(12)。これは異常を来した者の行動というよりも、反骨精神の表れであろう。
 中院通成の没年に久我通基(土御門内大臣)が一遍と歌のやり取りをしたのも、久我通基が中院流の正統であり、中院通成の娘顕子に譲られた中院流(久我家)根本所領の継承権が久我通基にあるという自負からだろう。通基であれば、「一人」と記して名前を隠すことは十分に考えられる。
 実は、後援者「一人」が久我通基であることを裏付ける事実がある。それが、『遊行上人縁起絵』の制作者が平宗俊(池刑部大輔)という事実である。

『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(4)

 これまで後援者「一人」を摂関・太政大臣・右大臣に当てはめていたために、特定するに至らなかったのではないだろうか。そこで発想を変えて、「一人」を不定代名詞「ひとり」という意味で「いちにん」と読めば、土御門定実および大炊御門冬輔など、広く一遍に結縁した有力者のなかに後援者をもとめられよう。両者ともに『聖絵』の登場人物の一人である。とくに大炊御門冬輔であれば、絵師円伊に同定されている園城寺の円伊僧正(5)の一門である。また土御門定実であれば、『伏見天皇宸記』正応五年二月二十日条にあるように「才学」の人物であった。しかし冬輔や定実であれば、あえて不定代名詞で記す理由は見つからない。「土御門内大臣」「大炊御門二品禅門」と呼べばいい。
 そこで不定代名詞で記さなければならなかった人物ということで、もういちど登場人物を検討してみると、やはり土御門内大臣(当時大納言)に注目できる。彼は土御門定実ではなく、久我通基(一二四〇―一三〇八)と考えられるからである(6)。久我通基は土御門一門の嫡流に当たる人物で、土御門定実は近衛大将を兼ねなかったが、通基は兼ねた。
 『徒然草』一九六段の「東大寺の神輿」によれば、右近衛大将の久我通基が東大寺神輿の行列の先払いをしたところ、上卿の土御門定実が「神社の前で先払いするのはいかがなものだろう」と言ったが、通基は「近衛の随身の行動は、大将の家の者が承知している」と応えた。のちに通基は、「定実は北山抄を見ているが西宮記を読んでいない。神社の前では神の眷属の悪鬼・悪神を払うため、とくに先払いするものだ」と語ったという。通基は自らが近衛大将であることを自負していた(7)。当時、淳和・奨学両院の別当は嫡庶に関係なく、村上源氏の現職の最高位の者が補任されたが、近衛大将については久我家だけが補任された。久我荘を除く根本所領を失っていた久我家だが(8)、摂関家と同様、近衛大将に補任される家柄であり、近衛大将を兼任できない堀川・土御門・中院の各家との家格の差は歴然としていた。こののち家格が確定し、久我家は近衛大将をかねて太政大臣にいたる清華家、中院家は近衛大将を兼ねることなく太政大臣にいたる大臣家となる。堀川家・土御門家は断絶した。摂関に補任される摂関家と補任されない清華家の差は歴然としているが、近衛大将に補任される清華家と補任されない大臣家の差も歴然としていた。源頼朝が当時「右大将殿」と称されたのも、近衛大将補任がそれだけ名誉だったからである。
 弘安九年(一二八六)に一遍と和歌の贈答をおこなった土御門内大臣(当時大納言)が通基であれば、一門の嫡流として、中院通成と交流のあった一遍に連絡を取ったものと考えられる。
 しかも『聖絵』では中院(三条坊門)通成を土御門入道前内大臣と記すなど、土御門通親の子孫を広く土御門としているため、土御門内大臣(当時大納言)を久我通基と見なすことができる。
 正応元年(一二八八)七月に通基は内大臣になったが、十月には右近衛大将と内大臣の辞職を求められ、抵抗したものの両職を停止されている(『公卿補任』)。『北条九代記』巻十一「貞時入道諸国行脚付けたり久我通基公還職」では諸国を巡回した北条貞時によって復職したと記されているが、『公卿補任』によれば前内大臣のまま延慶元年(一三〇八)六十九歳で没している。『徒然草』百九十五段では通基が精神に異常を来した原因のひとつとして、両職の停止に憤激したためと考えられる(9)。しかし、これは単なる個人的な憤激にはとどまらない。のちに土御門定実も内大臣停職に抗議しているように、五摂家が成立したことから大臣の席が不足して、一年のあいだに大臣が数回交替することもたびたびあり、形式的な大臣補任のあり方に対する危機感が募っていたと考えられるからである。
 さらに通基と定実の昇進競争があった。通基は定実より一歳年長であったが、昇進は一歩遅れていた。しかし通基は、定実が補任されなかった近衛大将を兼ね、さらに正応元年には定実を超えて内大臣に補任されていた。
通基が内大臣に補任されると、定実は大納言を辞職して籠居していた。これは通基と定実のあいだで官位をめぐり確執があったことを示していよう。ところが久我通基は三か月後には内大臣と右近衛大将の両職を停止され、正応五年(一二九二)二月、定実は伏見天皇に才学を惜しまれて再出仕を求められ(『伏見天皇宸記』正応五年二月十日・二十日条)、三月二十九日に大納言に還任された。八月十四日には従一位に叙されて、九月五日准大臣として朝参するよう宣下を受けている(『公卿補任』正応五年)。これで位階が正二位の通基を超え、また現役の公卿源氏の最高位者として奨学院別当に補任されている(『公卿補任』永仁元年)。さらに永仁四年(一二九六)十二月二十七日には内大臣に補任された。それでも翌五年には内大臣を止められている。定実にとって本意ではなかったため、辞表を提出しなかった。かわって通基が従一位に叙され、通基の子息通雄も内大臣に補任された。『北条九代記』で久我通基が復職したと記すのは、このことを指しているのだろう。
 正安三年(一三〇一)六月二日定実は太政大臣に補任され、定実の子息雅房も大納言で近衛大将を兼任する機会があった。しかし、それでも院近臣の讒言によって雅房の近衛大将補任は実現しなかった(『徒然草』百二十八段)。これで土御門家は清華家に列する機会を失った。
 通基も定実も内大臣を停止させられたときに抵抗しているように、当時の官位昇進のあり方は一年間に数回も大臣が交替するという異常なものであり、官職の形骸化をもたらすものであった。また土御門一門のなかでの通基と定実の昇進競争は激しいものであった。この時期は、それぞれの家門のなかでの嫡庶は確定されていなかったからである。さらに当時の久我家は、その根本家領(10)をめぐり西園寺家と係争していた。

『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(3)

 そこで、当時はまだ結婚形態が女系から男系に移る過渡期であり、西日本の系図では女系も重視されたことを念頭におくならば、通成の親族を男系に絞る必要はない。
 そのような観点から見れば、中院通成は、太政大臣西園寺実兼(一二四九―一三二二)の正妻従一位顕子の父であり、左大臣西園寺公衡(一二六四―一三一五)や永福門院(伏見院中宮)・昭訓門院(亀山院准后)の外祖父である。『聖絵』が成立した正安元年(一二九九)には、女婿の西園寺実兼が前太政大臣(いちのひと)であり、外孫の公衡は右大臣(いちにん)の現職で、二人とも後援者「一人」の候補になる。しかも公衡は『春日権現験記絵巻』の願主であった。
 実際に、一遍は西園寺家の人びとと交流がある。『播州法語集』第八五に「西園寺殿の御妹の准后の御法名を一阿弥陀仏と付奉るに、其御尋に付て御返事」の手紙が収められているが、この「西園寺殿」は西園寺実兼であろう。「御妹の准后」については、一般的には今出河院嬉子(亀山院中宮)と考えられているようだ(3)。今出河院嬉子は文永五年(一二六八)に女院になり、弘安六年(一二八三)に出家した。そのため、西園寺殿の御妹は今出河院とも考えられる。しかし彼女の経歴に准后はない。また法名も仏性覚である。『尊卑分脈』では、今出河院の姉妹である相子に「准后」と記されている。「西園寺殿の御妹の准后」は相子ではないだろうか。
 従三位相子は、一遍没年の翌年である正応三年(一二九〇)に准三后になり、新長講堂のある土御門第に住んだことから土御門准后とも長講堂准后とも呼ばれた(『続史愚抄』正応三年正月十九日条)。後深草法皇は、永仁三年(一二九五)と正安二年(一三〇〇)准后相子宛てに譲状を作成して長講堂領や新御領を譲与し、一期ののち後深草との間に生まれた陽徳門院に譲るよう指示している(4)。『聖絵』の後援者「一人」を、天皇という意味で「いちじん」と読みたくもなる。
 さらに、その姉妹には前関白九条忠教の正妻がいる。忠教は、『聖絵』成立の正安元年(一二九九)には前関白(一の人)であり、やはり後援者「一人」の候補である。中院通成を中心に見れば、前関白九条忠教を「一人」候補者からはずす理由は見つからない。
 このように一遍の周辺には、中院通成を中心に中院(三条坊門)家・西園寺家・九条家に連なる人びとが登場する。これら三家は源頼朝の妹婿一条能保の娘たちの婚家であり、もともと姻戚関係にあった。広く中院通成の一家と見ることができよう。
 また中院通成の縁者のほかにも、『聖絵』に登場する公卿はいる。まず『聖絵』巻七第三段に、弘安七年(一二八四)一遍が従三位基長と結縁した記事がある。基長(生年不詳―一二九八)は藤原式家出身の文章博士で、正三位にまで昇った有識者であった。しかし一遍と同年の正応二年(一二八九)に没しているため、それから十年を経て成立した『聖絵』の後援者にはなりえない。
 さらに『聖絵』巻九第一段には、弘安九年(一二八六)冬、公家の名門大炊御門二品禅門が登場する。当時、大炊御門家で二位(「二品」)であった人物には信嗣・冬輔兄弟がいるが、信嗣(一二三六―一三一一)は正応三年(一二九〇)に内大臣を辞するまで現職であったため禅門ではありえず、しかも辞職したときの位階は従一位であったため、辞職後も大炊御門二品禅門と称されることはない。しかし弟冬輔(一二四八―没年不詳)であれば、ちょうど弘安九年(一二八六)に権中納言を辞職しているため、『聖絵』に登場する大炊御門二品禅門にふさわしい。ただし、正二位権中納言で辞職したため、「一人」と呼ばれることはない。
 「一人」を「いちのひと」と読めば摂政関白・太政大臣であり、九条忠教や西園寺実兼と考えられる。また「いちにん」と読めば、『聖絵』成立当時に現職の右大臣であった西園寺公衡の可能性は高い。しかし、『聖絵』に西園寺家の人びとが登場しない。西園寺家が後援者であれば、『播州法語集』に登場する「西園寺殿の御妹の准后」が『聖絵』に登場してもいいだろう。ところが登場しない。そうなると、西園寺公衡が願主であった『春日権現験記絵巻』と『聖絵』の画風が大きく異なることに注目できる。

『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(2)

 『聖絵』巻七第二段によれば、弘安七年(一二八四)京都因幡堂に移った一遍の許を、土御門入道前内大臣が訪ねて念仏の縁を結んでいる。公家で結縁した最初の人物である。この人物は、土御門通親の孫である内大臣中院通成(一二二二―八六)と考えられる。土御門一門は、藤原道長の女婿であった村上源氏右大臣師房に始まる公家の名門で、院政期に摂関家の対手として勢力を得た。後鳥羽院政期には、内大臣土御門通親が朝廷の実権を握り「源博陸(源関白)」と呼ばれている。
 中院通成は『尊卑分脈』では三条坊門と記されているが、『聖絵』では「土御門入道前内大臣」と呼ばれており、制作者が土御門通親の子孫を広く土御門流と捉えていたことが分かる。さらに『聖絵』巻九には土御門内大臣(于時大納言)が登場し、弘安九年(一二八六)に一遍と和歌の贈答をおこなっていることが記されている。この土御門内大臣については、当時大納言であった土御門定実(一二四一―一三〇六)や久我通基(一二三六―一三一一)が当てられる。同年十二月に通成は没しており、それを契機に一門の土御門内大臣(当時大納言)と一遍のあいだで歌の贈答はおこなわれたと考えられる。
 実は一遍と土御門家の関係が深い。証空は一遍の父通広(如仏)の師であり、一遍が九州で学んだ聖達や華台の師でもあるが、土御門通親の猶子(准子)であった。『聖絵』にも登場する土御門家の人びとならば、後援者として有力である。そのため、近年では土御門内大臣を土御門定実と同一人物と見て、彼が『聖絵』の後援者であったとする説が有力である(1)。たしかに定実は才学があり、大納言辞職後も再出仕を求められ(『伏見天皇宸記』正応五年二月十日・二十日条)、のちに内大臣・太政大臣を歴任した。しかし定実が太政大臣に補任されたのは正安三年(一三〇一)であり、『聖絵』が成立した正安元年(一二九九)には前内大臣である。そのため、『聖絵』定実を太政大臣の異称「一の人」に当てるには無理がある。
 それでも、定実が内大臣であったときには太政大臣が空席だったため、太政大臣(一の人)、左大臣(一の上)、右大臣(一人)の異称がずれて、左大臣が「一の人」、右大臣が「一の上」、内大臣が「一人」と呼ばれたという推測もある(2)。しかし当時は太政大臣が空席でも、大臣を兼任しない関白がいて、太政官の構成は関白鷹司兼忠(一の人)、左大臣二条兼基(一の上)、右大臣九条師教(一人)、内大臣土御門定実であった。しかも、従一位の定実(五十六歳)は、位階も年齢も正二位の右大臣九条師教(二十一歳)を越えていたが、席次は官の通り左大臣・右大臣・内大臣の順とされた(『公卿補任』)。当時、定実が太政大臣の異称「一の人」や右大臣の異称「一人」で呼ばれたと考えるには無理がある。

『一遍聖絵』後援者「一人」と『遊行上人縁起絵』作者平宗俊(1)

 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)制作の後援者は、『聖絵』巻十二第三段の詞書に「一人のすすめによりて、この画図をうつし」とある「一人」である。この「一人」について、「いちじん」と読めば天皇であるが、「いちのひと」と読めば摂政・関白であるため、歓喜光寺所蔵『開山弥阿上人行状』にあるように、これまで関白九条忠教(一二四八―一三三二)と考えられてきた。しかし「一の人(いちのひと)」は、律令制度のもとで太政官を指揮する太政大臣(則闕の官)も意味する。また「いちにん」と読めば第一人者を意味し、奈良朝の藤原不比等が右大臣で太政官を指揮したように、太政大臣・左大臣欠員のときには太政官を指揮することから、右大臣を指すこともある。さらに『聖絵』には、中院通成(土御門入道前内大臣)・三位藤原基長・大炊御門冬輔(大炊御門二品禅門)など多くの公卿が登場する。
 『聖絵』の奥書によれば、詞書は聖戒が記し、絵は法眼円伊が描き、外題は世尊寺流藤原経尹が書いている。世尊寺流は三蹟藤原行成の子孫であり、経尹の子息である世尊寺行房・行尹兄弟に学んだ青蓮院門跡尊円法親王(伏見院皇子)によって青蓮院流(御家流)が立派されている。このような世尊寺流の人物が外題を書いていることからも、後援者は公家と考えられる。
 ところで、『聖絵』は絹をいろいろな色に染め上げて料紙(つまり料絹)として使用するなど平安時代の絵巻物の名残がある一方で、描法は伝統的な大和絵の描法というよりも墨調を重視した宋様式に通じる。同時代の西園寺公衡が願主であった『春日権現験記絵巻』の画風とは異なる。『聖絵』の後援者は、宋様式という新しさを好んだ公家と考えられる。そこで、『聖絵』に登場する公家から後援者にふさわしい人物を探してみよう。

大庭氏の家紋―柏紋と鷹羽紋

 隠岐佐々木氏の初代佐々木義清は、頼朝挙兵時に平家方の大将となった大庭景親の娘婿だが、これまで大庭氏の家紋について決定的なものがなかった。紋章学の沼田頼輔は『日本紋章学』(明治書院、1926年、〔復刻版〕新人物往来社)で、大庭氏の子孫と考えられる幕府旗本大場氏(桓武平氏良文流)の家紋、藤丸・一引両・三つ大文字を挙げている。このうち三つ大文字は「三つ盛り大文字」であり、三星のように「大」の字を三つ盛った紋である。
 この「三つ大文字」については、『源平盛衰記』三五の「義経院参」の条に「大文字三ツ書キタル直垂ニ、黒糸威ノ鎧ハ同国ノ住人梶原平三景時子息景季、生年二十三ト名ノル」とあり、さらに伊勢貞丈『安斎随筆』二〇に「土佐国主山内家臣大庭源之助と云ふもの、家に古き幕あり、先祖の幕なりと云ひ伝ふ。其の幕の紋大の字の下の傍に二の字を画く、則ち大如斯の紋なり、故に名乗に両家(大庭・梶原)とも、景の字を付くるなるべし。かの源之助が家は、庶流なる故に、三大文字を用ゐずして、下の大大の代りに、大の下の傍に二の字を用ふるべし。この二の字を大きにして大二如此にしては、二引両に似たれば、大如斯したる歟」と記されている。
 梶原氏の家紋は「三つ大文字」であり、土佐藩士大庭氏は庶流であったため、「三つ大文字」ではなく、大の下の大大を省略して漢数字の「二」を描いた「大に二文字」としたという。太田亮も『姓氏家系大辞典』で、「土佐藩侍中系図牃」を引用して、大庭氏の紋を「大に二文字」とする。
 しかし沼田頼輔も指摘するように、この梶原景季の直垂の文様を、ただちに梶原氏の家紋ということはできない。『見聞諸家紋』で細川勝元被官梶原氏の家紋を「丸に四つ石畳」とし、また梶原氏の子孫の旧家は「矢筈」を使用している。細川勝元被官では、ほかに安富氏(紀氏)・矢野氏(橘氏)も「丸に四つ石畳」であり、梶原氏の本紋ではなく賜紋かもしれない。佐伯藩主毛利家(宇多源氏佐々木流森氏)の「矢筈」は、外戚瀬尾氏が梶原氏の子孫であったため、船印に「矢筈」を使用したことに始まるという。また歌舞伎『梶原平三誉石切』『義経千本桜すし屋』でも、梶原氏の家紋は「矢筈」である。幸若舞曲『夜討曾我』でも梶原氏の幕紋を「矢筈」とする。「矢筈」が梶原氏の家紋としては代表的なものだったようだ。むしろ、「三つ盛り大文字」は、大庭氏の名字にちなんで「大」の字を三つ盛りにした幕紋と考えられる。三つ盛りは、将軍星を表した「三つ星」に模したものである。梶原氏は大庭氏の支族でり、本家筋ではない。土佐藩士大庭氏が「大に二文字」を使用したのは、梶原氏の庶流だからではなく、大庭氏の庶流だからである。もともと大庭氏の幕紋だったものを、『源平盛衰記』作者が大庭氏の支流梶原景季の直垂紋としたのであろう。
 しかし「三つ大文字」は、あくまで名字にちなんだ「大」の字を三つ盛りにした幕紋であって、本紋ではなかった可能性がある。梶原氏でも、名字にちなんで「梶葉」紋を使用した家がある。
 近世大名や旗本は、高家であれば名門出身だが、その多くは織田・豊臣・徳川系の成り上がりの武家が多く、それぞれの家の嫡流とはいえない。幕府旗本大場氏も、「大庭」ではなく「大場」を名乗っているように庶流あるいは異流と考えられる。旗本大場氏も土佐藩士大庭氏も、もともとは名字にちなんだ大庭氏の幕紋だった「大文字紋」を、家紋としたと考えられる。
 また新撰組の大庭久輔の紋は「丸に木瓜」という。しかし、これも一般化できない。これは浪士だからという理由ではない。たとえば土方氏は後北条氏時代の資料にも見える武蔵国の名門武家であるように、浪人や郷士の中には意外と名門が多い。しかし、近世の家の家紋は、それぞれの家の歴史の中で家紋が替えられることがあるからだ。ひとつの事例ですべては語れない。
 そこでインターネットのブログの記事から、現在の大庭家の家紋を探すと、鷹羽を交差させる「違い鷹羽」を使用している家がある。それも一軒ではない。これはヒントになるかもしれない。
 実は地方の旧家には、中世の名門武家の子孫で帰農して庄屋・名主となった郷士の家柄が多い。江戸時代の豪農は中世武家の子孫で、殿様よりも名門という豪農も多かった。そのような旧家の紋を見れば、本来の家紋が分かる。大庭氏もそうだろう。
 ちょうど私が行き着けのcaféでアルバイトをしている女子大生大庭千佳さんが島根県出身だというので、家紋を聞いてみた。島根県といえば佐々木義清の舅大庭景親の一族かと思えたからだ。島根県には佐々木姓も多いが、大庭姓も多い。そのため友達にも大庭さんがいるという。地元は益田なので出雲ではなく石見だが、石見であれば『太平記』巻二十八之三「高師泰、石見へ遠征す」三角入道の乱の場面で討伐軍のひとりに「大庭孫三郎」が登場する。地頭クラスの国人として石見に在住していた大庭氏の子孫であれば、大庭氏本来の家紋が分かると思えた。実家に聞いたところ、五月人形に「丸に剣三つ柏」が描かれているという。また『紋譜帳』では、大庭平太景能・豊田次郎景利の紋を「違柏」としている。彼らは大庭景親の兄弟である。ここで柏紋が一致したことの意義は大きい。太田亮『姓氏家系大辞典』(磯部甲陽堂、1934年、〔復刻版〕角川書店)の大庭氏の条では、大庭景能の紋が「違い柏」という説を取上げながら、沼田頼輔の『日本紋章学』を引用して、大庭氏の家紋は「違い柏」ではないとしている。しかし沼田氏も大庭氏の家紋が「大文字」であると決したわけではない。むしろ大庭氏の子孫の旧家は柏紋を使用していたのである。大庭氏の本紋は柏紋と考えていいだろう。大庭氏の本領・相模国大庭御厨は伊勢神宮に寄進されており、伊勢神宮との関係から「柏紋」を使用したと分かるからである。実は同じく伊勢神宮領である葛西御厨の葛西氏(桓武平氏良文流)も、「三つ柏」である。「三つ柏」は、柏を将軍星「三つ星」を模した武家らしい家紋である。大庭千佳さんの家の紋は、丸がつき、剣がついているため分流と考えられるが、きっちりと柏紋を伝えていたことになる。また剣をつけるところが、いかにも武家である。
 このように見てくると、現在「違い鷹羽」を使用する大庭氏は、「違い柏」を「違い鷹羽」と誤り伝えてしまったものと考えられる。形状はとてもよく似ているため、大庭氏のように柏紋を鷹羽紋と誤り伝えた家は多いだろう。武家であれば、優美で女紋にもよく使用される柏紋より、矢羽に使う鷹羽を好んだとも考えられる。それが「違い柏」を「違い鷹羽」と誤る精神的風土になっていたのかもしれない。実は、わたしの母の実家桑原氏の本紋は「丸に梅鉢」だが、「違い柏」も伝えていた。しかし「違い柏」の紋が描かれている器が見つけられた当初、男っ気の強い叔父は「違い鷹羽」と思っていた。やはり「違い柏」と「違い鷹羽」は間違いやすいようだ。
 実は「柏に鷹」という紋もあるように、柏と鷹は大和絵では対になっている。そこから、わざと柏紋を鷹羽紋と替えた例もあるかもしれない。

『東大入試で遊ぶ教養』増補改訂版2刷刊行予定

東大入試で遊ぶ教養増補版2刷を刊行予定です。自分では売れているという感覚はないのですが、ここまでたどり着きました。ありがとうございます。そこで、これを機に大がかりに校正を行いました。表現の統一などもありますので、私からは編集に多く修正個所を提出しましたが、表現上の修正は直されないかもしれません。
 この作業をやっていて思ったことは、やはり校正は他人まかせにしないで最後は自分で全部見ないといけないということです。編集段階で年代を細かくつけると決めたのです。締め切りが早く時間がないということで、編集の方につけていただいた年代についてはお任せしていたのです。でも間違いがありましたね。修正個所は以下の通りです。

【日本史編】

表紙のロゴ (誤)33th→(正)33rd
24頁1行目 (誤)愛人→(正)思人
67頁12行目 (誤)やがて、→(正)(削除)
81頁15行目 (誤)土御門上皇は土佐に
         (正)土御門上皇は土佐(のち阿波)に
82頁15行目 (誤)行った。→(正)行ったのである。
84頁10行目 (誤)勝した→(正)勝った
106頁4行目 (誤)から瀬戸内海に
        (正)から宇治・淀川水系を経て瀬戸内海に
120頁7行目 (誤)長享元年→(正)永享元年
120頁12行目 (誤)長享六年→(正)永享六年
122頁1行目 (誤)その前年の一四七〇年(文明二年)
        (正)一四六九年(文明元年)
122頁5行目 (誤)(一四七七~一五二六年)
        (正)(一四六五~一五二七年)
        ※生没年にしました。
126頁11行目 (誤)滅亡した。→(正)なくなった。
133頁9行目 (誤)応永の乱→(正)永享の乱
162頁14行目 (誤)(寛永一六年)→(正)(寛永一八年)
220頁3行目 (誤)(明治一五年)→(正)(明治一八年)
225頁12行目 (誤)(大正一五年)→(正)(大正一五・昭和元年)
267頁9行目 (誤)越国造北九州の筑紫国造
        (正)越国造、北九州の筑紫国造
268頁解答例Bの1行目 (誤)鍵を握った→(正)注目された
272頁2行目 (誤)レベルで→(正)レベルでの
272頁10行目 (誤)感嘆して→(正)感動して


【世界史編】

表紙のロゴ (誤)33th→(正)33rd
21頁6行目 (誤)エスニック=グループ→(正)エスニック・グループ
21頁6行目 (誤)ゴッド=ファーザー→(正)ゴッドファーザー
22頁8~9行目
 (誤)ローズヴェルト大統領、対独戦の指揮官アイゼンハワーは
   ともにドイツ系
(正)ローズヴェルト大統領はオランダ系、対独戦の指揮官アイゼン
   ハワーはドイツ系
31頁9行目 (誤)ニクソン=ショック→(正)ニクソン・ショック
33行目10・13・19行目 (誤)ニクソン=ショック
              (正)ニクソン・ショック
46頁1行目 (誤)一〇一八→(正)一〇一七頃
62頁19行目 (誤)武霊王(紀元前→(正)武霊王(在位紀元前
94頁7・18・19行目 (誤)ムワヒッド→(正)ムワッヒド
97頁13行目 (誤)メディア→(正)メディナ
134頁1行目 (誤)一九一一年、辛亥革命で清朝は
        (正)一九一一年に辛亥革命が始まり、一九一二年に
          清朝は
134頁解答例8行目 (誤)フサイン→(正)フセイン
137頁4行目 (誤)ヤゲロー、在位一三七九~九二年
        (正)ヤゲロー、一三五一~一四三四年
        ※在位期間が煩雑なため、生没年にする
138頁9行目 (誤)一八二五頃→(正)一八五二頃
155頁18行目 (誤)一八五六年→(正)一八五二頃
169頁17行目 (誤)天津条約(一八五五年)
         (正)天津条約(一八五八年)
169頁19行目 (誤)一九五五年→(正)一九五八年
174頁14行目 (誤)一八六〇年には天津・北京条約を結んで、
(正)天津条約・北京条約をあいついで結び、
         ※天津条約は1868年、北京条約が1960年
174頁15行目 (誤)アラービー=パシャ→(正)アラービー・パシャ
175頁10・13行目 (誤)マハトマ=ガンジー
           (正)マハトマ・ガンジー
177頁1行目 (誤)アラービー=→(正)アラービー・
177頁4行目 (誤)マハトマ=ガンジー→(正)マハトマ・ガンジー
179頁17行目 (誤)二次→(正)一次
182頁10・18行目 (誤)アラービー=パシャ
           (正)アラービー・パシャ
183頁14行目 (誤)一八五五→(正)一八五二
199頁16行目 (誤)リンカーン(在任一八六〇
         (正)リンカーン(在任一八六一
200頁7行目 (誤)CIAで訓練を受けた反革命軍の隣国ホンジュラス
          からの侵攻で
(正)隣国ホンジュラスから侵攻した反革命軍によって
209頁10行目 (誤)在位一七三八~→(正)在位一七三五~
210頁9行目 (誤)在位一八二〇~五〇年
        (正)在位一八二〇~二五年
219頁6行目 (誤)ウマイヤ朝→(正)ウマイヤ家
240頁11行目 (誤)アブド=アッラフマーン
         (正)アブド=アッラフマーン三世
240頁14行目 (誤)ムワヒッド朝→(正)ムワッヒド朝
246頁3行目 (誤)(再征服運動)→(正)(国土回復運動)
       ※表記統一
246頁9行目 (誤)(一二三〇~→(正)一二三二~
256頁19行目 (誤)フェリペ二世(一五五六
(正)フェリペ二世(在位一五五六
258頁6行目 (誤)在位一六二二→(正)在位一六二八
278頁3行目 (誤)季節の太陽暦→(正)季節重視の太陽暦
279頁12行目 (誤)…使われている)→(正)…使われている)。
285頁14行目 (誤)救済の水準→(正)救済の基準
286頁12行目 (誤)牧牛の輸出には→(正)牧牛の輸出のために
290頁5行目 (誤)一八五四年→(正)一八五三年
290頁11行目 (誤)アブデュルハミト二世
         (正)アブデュル=ハミト二世
290頁12~3行目 (誤)しかし露土戦争→(正)ところが露土戦争
290頁15行目 (誤)ト・パシャ→(正)ト=パシャ
291頁1行目 (誤)九〇年→(正)九八年
291頁2行目 (誤)このとき→(正)露土戦争で
291頁7行目 (誤)五八年→(正)五九年
292頁6行目 (誤)(一八六一~六五年)後、
        (正)(一八六一~六五年)で、
293頁解答例5行目 (誤)停止してしまった。→(正)停止。
293頁解答例7行目 (誤)、ムガル皇帝を
            (正)、イギリスはムガル皇帝を

以上

歴史読本「戦国大名血族系譜総覧」2009年4月号・「六角氏」原稿

概略
六角氏は宇多源氏佐々木氏の嫡流で、鎌倉期から戦国期まで一貫して近江守護であった。このように鎌倉期から守護を維持しえたのは、畿内近国では六角氏のみである。しかも経済の先進地域である近江は一国で地方の数か国に相当した。室町期には将軍足利義満の弟満高を養子に迎え、また将軍足利義教の比叡山焼討ちで満綱が山門領押使をつとめて、嘉吉の土一揆では黒幕であった。文安の乱では満綱・持綱父子が自殺して衰退するが、応仁・文明の乱で高頼が活躍して再び盛り返した。足利義尚・義稙二代の将軍親征を受けたが(長享・延徳の乱)、十一代将軍足利義澄に赦免されると室町幕府の保護者に転じている。
六角氏嫡流である本所は中央と結び、①氏綱は足利義澄妹を妻に迎え、また摂関家と閨閥を形成し、②義久は天皇家典侍を妻に迎え天皇家と私的な関係を築いた。足利将軍家が分裂しており、天皇を調停者に考えたのだろう。さらに③義秀は十二代将軍足利義晴娘を迎え、娘は宇多源氏流の公家庭田重定に嫁いでいる。庭田家は室町期に天皇家典侍を輩出し、本願寺顕如の母の実家でもあった。これで天皇家や本願寺との連携が取れた。織田信長が登場すると、④義堯は足利義昭の仲介で信長養女を迎え、さらに⑤足利義昭の養子義康は信長孫娘を迎えて、義昭と信長の両者から協力を求められた。本所は両者の間で揺れることになる。また天皇を調停者とする政策については、信長・秀吉に受け継がれた。
一方、陣代は在国政権として周辺諸大名と閨閥を築いている。定頼は細川晴元に娘を嫁がせ、さらに本願寺顕如に養女を嫁がせて同盟を結んだ。一向一揆に苦しむ諸大名は六角氏との婚姻を介して本願寺と結び、①定頼の娘は細川晴元・本願寺顕如のほか、伊勢北畠晴具・美濃土岐頼芸・若狭武田信豊に嫁いだ。また②義賢(のち承禎)は能登畠山義総娘、美濃土岐頼芸妹を妻に迎え、娘は北畠朝親、能登畠山義綱に嫁いでいる。このように六角氏は北陸諸大名の盟主となり、嫡流である本所は北陸道管領と呼ばれたという。さらに③義治は美濃斎藤義龍娘を迎えた。父義賢(承禎)は重縁土岐氏の宿敵斎藤氏娘を迎えることに反対したが、自立を目指した浅井長政を抑えるのに成功している。これら諸大名との同盟が足利義昭を擁立する勢力になり、織田信長包囲網にもなった。

氏綱の閨閥
六角氏は鎌倉公方との関係が深く、氏綱の母は古河公方足利成氏娘であった。さらに明応の政変で堀越公方足利政知の子息義澄は、将軍に推されると六角氏を赦免し、駿河今川氏に養育されていた妹を上洛させ、氏綱に嫁がせた。これで六角氏は幕府の保護者に転じ、前将軍義稙が上洛を目指すと阻止している。しかし義澄・義稙両者から協力を求められ、敗北した義澄は保護を求めて近江に逃れて病没し、義稙も氏綱に協力を求めて氏綱嫡子の義久を猶子にして、高頼・氏綱没後には義久(佐々木四郎)を近江守護に補任した。幼少の義久を陣代定頼が貢献した。
 氏綱は摂関家とも閨閥を形成して、上洛したときに近衛政家・尚通父子を訪問し、女子を二条晴良に嫁がせた。伏見宮王女を養女にしたものだろうか。もうひとりの女子は、京極材宗に嫁ぎ、近江北郡守護の京極氏の内紛に介入した。材宗は本名が経秀であるため、佐々木系図では「高秀」と記され、その子が京極高吉(高慶・高佳)である。高吉は六角氏から一門衆「五郎殿」と遇され、反抗し続ける同族京極高広(六郎)を非難している。

義久の閨閥
義久(本名隆頼)の母は足利政知娘で、妻は後奈良天皇典侍である。足利義澄の子十二代将軍義晴が成長すると近江に保護し、さらに細川晴元と和睦して定頼の娘と婚約させ、義晴の帰京に成功した。義久(四郎殿様)は義晴の上洛に供奉し、のち江州宰相と呼ばれている。さらに義久は恵林院殿十三回忌法事を主催して義稙の後継者であると宣伝し、義稙養子の阿波公方義維・義親(義栄)父子を牽制することで、足利義晴政権を支援した。
六角氏が京都で活動している間、『お湯殿の上の日記』に「亀寿」の記事が頻出する。さらに亀寿(のち義秀)の元服で、典侍が天皇家に音物を献上しており、亀寿の母が、天皇家典侍であると分かる。当時、内侍所長官の尚侍は空席で、次官の典侍が天皇の后妃候補者であり、宇多源氏流庭田家、勧修寺流勧修寺・万里小路家、日野流広橋家など羽林・名家出身者の女性が典侍となった。義久はそのような典侍を妻としたことで天皇家と身内になり、嫡子亀寿は硯蓋・近江瓜・花・饅頭・酒・下草など日常生活の必需品を献上している。分裂して衰退した足利将軍家にかわる調停者を、天皇に期待したのだろう。

義秀の閨閥
義秀(本名公能)の母は典侍、妻は足利義晴娘。元服では、母の典侍が天皇家に御礼をしていることから公家式の元服と考えられる。佐々木系図で妻を足利義晴の娘とするが、続群書類従本伊勢系図では十三代将軍足利義輝の妾と実子を給わるという。
群書類従本『万松院殿穴太記』は、天皇家内侍所の原本を書写したものであり、義秀が献上したものと考えられる。子息亀千代の髪置でも、音物を天皇家に献上している。
六角氏は足利義輝と三好長慶を和睦させ、帰洛した義輝は義久への贈官を申請している。さらに河内畠山氏と連携して三好包囲網を築いた。しかし浅井長政の自立で後方を撹乱され、三好氏に止めを刺せなかった。さらに陣代義治が後藤但馬守父子を殺害する観音寺騒動が起こると、三好・松永氏によって将軍義輝が殺害された。弟の一乗院覚慶(義昭)は奈良脱出に成功し、六角氏は覚慶を近江に保護して還俗させたが、承禎父子が三好三人衆と結んだため、義昭は若狭・越前へと移った。義昭は六角氏閨閥の前関白二条晴良の加冠で公家式の元服を行い四位に叙位され、五位の十四代将軍足利義栄を超えた。さらに織田信長が美濃を攻略すると、義昭は信長を頼っている。信長軍は近江愛智川で六角主力軍に敗退したが、承禎と結ぶ三好三人衆軍が帰京すると近江に引き返し、和田山城・観音寺城の六角主力軍を避けて箕作城を攻め、承禎父子を甲賀に追った。

義堯の閨閥
義堯(本名実頼)の妻は織田信長養女である。十五代将軍足利義昭が仲人だろう。こののち岩倉織田氏(織田氏嫡流伊勢守)と犬山織田氏(岩倉織田氏の宿老)が六角氏と行動を共にしていることから、この信長養女は犬山之伊勢守息女と考えられる。
義秀が没すると家督を継ぎ、信長書状の宛先では近江修理大夫とされる。義堯の家老は、元亀元年正月畿内近国の諸大名に上洛を催促した織田信長触状の宛先、木村筑後守であろう。義秀が没したことを、信長は「言語道断」と述べて六角承禎父子の帰国を警戒したが、信長の朝倉義景追討で元亀争乱が始まると、実際に承禎父子は浅井長政を誘い挙兵した。
足利義昭が信長と決別し武田信玄が上洛軍を起こすと、義堯は池田景雄を使者として承禎・義治父子に相談を持ちかけている。信玄の病没で第一次信長包囲網は崩壊し、足利義昭は京都を追放され、朝倉・浅井氏は滅亡したが、義堯は承禎を使者として甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現させた。さらに足利義昭の誘いには躊躇していた毛利輝元も、義堯の誘いには応じ、足利義昭の備後下向を実現させた。第二次信長包囲網の形成である。
足利義昭に同行した義堯は、承禎から大本所と呼ばれ、さらに『天王寺屋会記』に「佐々木殿」が見えることから、義堯は子息義康に家督を譲ってから備後に下向したと考えられる。義康の後見人は磯野員昌であり、天正六年正月義堯が堺に上陸すると、二月員昌は出奔している。これは、義堯と連携した動きだろう。甲斐武田勝頼の滅亡では、佐々木次郎・若狭武田五郎・岩倉織田・犬山織田・土岐頼芸ら六角氏の縁者が捕らわれた。
義康は、明智光秀の乱後に足利義昭の養子になり、小田原の陣での茶会では「近江六角殿」に足利義昭の側近真木島昭光が近侍している。義康は妻に織田信長孫娘を迎えたが、この女性は足利義昭邸に迎えられた「信長ヒソウ虎福女」と考えられる。

2009年東大前期・国語第1問「白い紙と完成度」【予告編】

 白は、完成度というものに対する人間の意識に影響を与え続けた。紙と印刷の文化に関係する美意識は、文字や活字の問題だけではなく、言葉をいかなる完成度で定着させるかという、情報の仕上げと始末への意識を生み出している。白い紙に黒いインクで文字を印刷するという行為は、不可逆的な定着をおのずと成立させてしまうので、未熟なもの、aギンミの足らないものはその上に発露されてはならないという、暗黙の了解をいざなう。
 推敲という言葉がある。推敲とは中国の唐代の詩人、賈島の、詩作における逡巡の逸話である。詩人は求める詩想において「僧は推す月下の門」がいいか「僧は敲く月下の門」がいいかを決めかねて悩む。逸話が逸話たるゆえんは、選択する言葉のわずかな差異と、その微差において詩のイマジネーションになるほど大きな変容が起こり得るという共感が、この有名な逡巡を通して成立するということであろう。月あかりの静謐な風景の中を、音もなく門を推すのか、あるいは静寂の中に木戸を敲く音を響かせるかは、確かに大きな違いかもしれない。いずれかを決めかねる詩人のデリケートな感受性に、人はささやかな同意を寄せるかもしれない。しかしながら一方で、推すにしても敲くにしても、それほど逡巡を生み出すほどの大事でもなかろうという、微差に執着する詩人の神経質さ、bキリョウの小ささをも同時に印象づけているかもしれない。これは「定着」あるいは「完成」という状態を前にした人間の心理に言及する問題である。
 白い紙に記されたものは不可逆である。後戻りが出来ない。今日、押印したりサインしたりという行為が、意思決定の証として社会の中に流通している背景には、白い紙の上には訂正不能な出来事が固定されるというイマジネーションがある。白い紙の上に朱の印泥を用いて印を押すという行為は、不可逆性の象徴である。
 思索を言葉として定着させる行為もまた白い紙の上にペンや筆で書くという不可逆性、そして活字として書籍の上に定着させるというさらに大きな不可逆性を発生させる営みである。推敲という行為はそうした不可逆性が生み出した営みであり、美意識であろう。このような、達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が潜んでいる
 子供の頃、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒い墨で白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露し続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕し続ける呵責の念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為の痕跡を残し続けていく。紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積していく様を把握し続けることが、おのずと推敲という美意識を加速させるのである。この、推敲という意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。もしも、無限の過失をなんの代償もなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか敲くかを逡巡する心理は生まれてこないかもしれない。
 現代はインターネットという新たな思考経路が生まれた。ネットというメディアは一見、個人のつぶやきの集積のようにも見える。しかし、ネットの本質はむしろ、不完全を前提にした個の集積の向こう側に、皆が共有できる総合知のようなものに手を伸ばすことのように思われる。つまりネットを介してひとりひとりが考えるという発想を超えて、世界の人々が同時に考えるというような状況が生まれつつある。かつては、百科事典のような厳密さの問われる情報の体系を編むにも、個々のパートは専門家としての個の書き手がこれを担ってきた。しかし現在では、あらゆる人々が加筆訂正できる百科事典のようなものがネットの中を動いている。間違いやいたずら、思い違いや表現の不適切さは、世界中の人々の眼に常にさらされている。印刷物を間違いなく世に送り出す時の意識とは異なるプレッシャー、良識も悪意も、嘲笑も尊敬も、揶揄も批評も一緒にした興味と関心が生み出す知の圧力によって、情報はある意味で無限に更新を繰返しているのだ。無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、寄り添い続けるだろう。断定しない言説にcシンギがつけられないように、その情報はあらゆる評価をdカイヒしながら、文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、推敲がもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。
 しかしながら、無限の更新を続ける情報には「清書」や「仕上げる」というような価値観や美意識が存在しない。無限に更新され続ける巨大な情報のうねりが、知の圧力として情報にプレッシャーを与え続けている情況では、情報は常に途上であり終わりがない。
 一方、紙の上に乗るということは、黒いインクなり墨なりを付着させるという。後戻りできない状況へ乗り出し、完結した情報をeジョウジュさせる仕上げへの跳躍を意味する。白い紙の上に決然と明確な表現を屹立させること、不可逆性を伴うがゆえに、達成には感動が生まれる。またそこには切り口の鮮やかさが発想する。その営みは、書や絵画、詩歌、音楽演奏、舞踊、武道のようなものに顕著に現れている。手の誤り、身体のぶれ、鍛錬の未熟さを超克し、失敗への危険に臆することなく潔く発せられる表現の強さが、感動の根源となり、諸芸術の感覚を鍛える暗黙の基礎となってきた。音楽や舞踊における「本番」という時間は、真っ白な紙と同様の意味をなす。聴衆や観衆を前にした時空は、まさに「タブラ・ラサ」、白く澄みわたった紙である。
 弓矢の初級者に向けた忠告として「諸矢を手挟みて的に向ふ」ことをいさめる逸話が『徒然草』にある。標的に向う時に二本目の矢を持って弓を構えてはいけない。その刹那に訪れる二の矢への無意識の依存が一の矢への切実な集中を鈍らせるという指摘である。この、矢を一本だけ持って的に向う集中の中に白がある。(原研哉『白』)

〔注〕○タブラ・ラサ――tabula rasa(ラテン語)何も書いてない状態。

設問
(一)「「定着」あるいは「完成」という状態を前にした人間の心理」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「達成を意識した完成度や洗練を求める気持ちの背景に、白という感受性が潜んでいる」(傍線部イ)とはどういうことか説明せよ。
(三)「推敲という意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきた」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)「文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続ける」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
(五)「矢を一本だけ持って的に向かう集中の中に白がある」(傍線部オ)とはどういうことか。本文全体の論旨を踏まえた上で一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
aギンミ bキリョウ cシンギ dカイヒ eジョウジュ

【解説&解答例】
(一)
【解説】傍線部アは段落最後の文である。段落最後の文は段落のまとめであるとともに、次の段落のテーマでもある。傍線部アをまとめの文とするこの段落は、推敲の語源である中国の逸話から語り始め、この逸話から「推敲」という言葉が誕生したほどに、詩人が作品の完成度を高めるために一語にこだわる様子を説明した段落群にある。この作品の完成を目前とした詩人のこだわりは、それに共感することもできるが、また小さなことにこだわる神経質さということもできる。それに続くのが、傍線部アである。次の段落は、白い紙を眼前とした詩人の気持ちに言及しており、傍線部アにある「人間の心理」が、詩人の繊細さをめぐる評者の心理ではなく、繊細までの詩人の心理であると分かる。
【解答例】完成を目前にして、一語一語に対しても感性研ぎ澄ませる詩人の葛藤のこと。
(二)
【解説】傍線部イも段落最後の文であり、詩人の逡巡を、白い紙を目の前にした作者の心理で説明している段落群の最後の文である。これに続く段落では、子供のころの習字における体験を述べることで、読者に共感を求めている。
【解答例】下手な自分の手で白い物を汚したくないという気持ちが、作品の完成度を高めることに資している。
(三)
【解説】傍線部ウは段落途中の文であり、このような場合、段落の中心になる文であり、段落の内容をまとめるといい。この段落は、子供のころの習字における体験をもとに、白い紙を目の前にしたときの作者の気持ちを説明している。しかも傍線部ウに続く文では、簡単に書き直せる方法があれば、逡巡しないであろうと述べている。そうであれば、傍線部ウは、紙という媒体だからこそ、わたしたちが一語にこだわると述べている個所ということになる。
【解答例】いちど書いたら書き直せない紙だからこそ、詩人をはじめわたしたちは作品の完成度を高めるためにも一語にこだわるということ。
(四)
【解説】傍線部エも、段落途中の文である。前段落で、紙という媒体だからこそ作者が完成度にこだわると述べており、この段落では、書き直されていく媒体としてインターネットを例に挙げている。しかも、絶えず不特定多数の人びとによって書き直されていくネット上の百科事典ウィキペディアの特徴を述べた直後に傍線部エがあり、後文でインターネットの誕生は紙とは異なる新しい基準の誕生であると述べており、傍線部エは筆者のウィキペディア評といえる。ここで、紙媒体の百科事典の記事を個性的と述べておきながら、ウィキペディアを「平均的」と述べていることに注目する必要があろう。しかも次の段落では、「しかしながら」で始めて、無限の更新を続けるウィキペディアに対して、清書や仕上げるという価値観や美意識をもたないと批判している。このことでも、傍線部エの「平均値」という言葉が、個人執筆の紙媒体の百科事典を個性的と評したことに対する言葉と理解できる。つまり積極的な評価ではない。絶えず書き直されることで、個性のない平均的な意見に集約されると述べているのである。そうであれば、「文体をもたない」も個性がないことを意味していることに気づくだろう。
【解答例】インターネット上の言葉は、たえず不特定多数の人びとに修正され、個性のない平均的なものになるということ。
(五)
【解説】傍線部オは、文章最後の言葉である。文章全体のまとめであり、求められている字数が一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよとあることから、あらためて「本文全体の論旨を踏まえた上で」と設問でいわれなくても、解答は本文全体を踏まえた上でのまとめとなる。傍線部エ以後の段落群では紙媒体を評価し、紙媒体だからこそ個性が発揮され、完成度も高まると述べている。そして紙媒体と同様、弓道でも次の矢があることを考えないことで集中力が高まり的中すると述べているのが、傍線部オのある段落である。紙媒体を評価して、それを補充するために弓道の心得が述べられているといえる。「白」は紙媒体であるからこそ、言葉は個性をもち完成度をもつことを象徴させた言葉といえよう。
【解答例】詩人は白い紙に書きなおせないという気持ちで臨み、繊細までに一語にこだわり個性と完成度を高めるのと同様、弓道者も次の矢を当てにせず一矢に集中することで的中率を高める。次はないという気持ちが個性と完成度の高い作品をつくるといえよう。
(六)
【解答】a吟味 b器量 c真偽 d回避 e成就

2009年東大前期・国語第4問「昔語りと死生観」【予告編】

 いなかに百一歳の叔母がいる。いなかは奥会津である。若い日には山羊を飼って乳などを搾っていたので山羊小母と呼ばれている。山羊小母の家に行ったことは二、三度しかないが説明するとなると結構たいへんである。
一見、藁葺屋根の普通の農家だが、入口を入ると土間があって、その土間を只見川の支流から引き入れた水が溝川をなして流れている。台所の流しから流れる米の磨ぎ汁をはじめ、米粒、野菜の切り屑などはこの溝川を流れて庭の池に注ぎ込む。池には鯉がいて、これを餌にしている。
 土間から上がった板敷には囲炉裏が切ってあり、冬場は薪がぼんぼん焚かれ、戦前までは小作の人たちが暖を取っていたという。板敷につづく少し高い板の間にはぶ厚い藁茣蓙が敷かれていて、大きな四角い火鉢が置かれ、太い炭がまっかに熾され鉄瓶の湯が煮えたぎっていた。そのまた奥に一段高い座敷があり、そこが仏壇のある当主の居間であった。当主は仏壇を背にして坐り、ここにも大きな火鉢がある。隠居の老人は口少なに控え目の姿でこの部屋に坐っていた。
 土間からの上がり框には腰かけて休息の湯を飲む忙しい日の手伝い人もいたり、囲炉裏の周りの人の中にはすぐ立てるように片膝を立てて坐っている若い者もあったという。農業が盛んだった頃の一風景が、段差のある家の構造自体の中に残っているのだ
 戦後六〇年以上たって農村はまるで変ったが、家だけは今も残っていて山羊小母はこの家に一人で住んでいた。夫は早くなくなり、息子たちも都会に流出し、長男も仕事が忙しく別居していた。私がこの叔母の家に行ったのはその頃だった。家は戸障子を取りはずして、ほとんどがらんどうの空間の中に平然として、小さくちんまりと坐っている。
 「さびしくないの」ときいてみると、何ともユニークな答えがかえってきた。「なあんもさびしかないよ。この家の中にはいっぱいご先祖さまがいて、毎日守っていて下さるんだ。お仏壇にお経は上げないけれど、その日にあったことはみんな話しているよ」というわけである。家の中のほの暗い隈々にはたくさんの祖霊が住んでいて、今やけっこう大家族なのだという。それはどこか怖いような夜に思えるが、長く生きて沢山の人の死を看取ったり、一生という命運を見とどけてきた山羊叔母にとっては、温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである
 私のような都会育ちのものは、どうかすると人間がもっている時間というものをつい忘れて、えたいのしれない時間に追いまわされて焦っているのだが、山羊小母の意識にある人間の時間はもっと長く、前代、前々代へと溯る広がりがあって、そしてその時間を受け継いでいるいまの時間なのだ。
 築百八十年の家に住んでいると、しぜんにそうなるのだろうか。村の古い馴染みの家の一軒一軒にある時間、それは川の流れのようにあっさりしたものではなく、そこに生きた人間の貌や、姿や、生きた物語とともに伝えられてきたものである。破滅に瀕した時間もあれば、交流の活力を見せた時間もある。そんな物語や逸話を伝えるのが老人たちの役割だった。
 冬は雪が家屋の一階部分を埋めつくした。今は雪もそんなに降らなくなり、道にも融雪器がついて交通も便利になった。それでも一冬に一度ぐらいは大雪が降り車が通らなくなることがある。かつてこの村の春は、等身大の地蔵さまの首が雪の上にあらわれる頃からだった。長靴でぶすっぶすっと膝まで沈む雪の庭を歩いていると、山羊小母はそのかたわらを雪下駄を履いてすいすいと歩いてゆく。ふしぎな、妖しい歩行術である。そういえば、ある夏のこと、蛍の青い雫をひょいと手に掬い取り、何匹も意のままに捕まえてみせてくれたが、いえば、どこか山姥のような気配があった。
 こういう「ばっぱ」とか「おばば」と呼ばれているお年寄がどの家にもいて、長い女の時間を紡いでいたのだ。もう一軒、本家と呼ばれる家にも年齢不詳の綺麗なおばばがいて、午後にも必ず着物を替えるというほどお洒落なおばばだった。何でも越後から六十六里越えをして貰われてきた美貌の嫁だったという。物腰優美で色襟を指でもてあそびながら、絶えまなく降る雪をほうと眺めていた。
 越後の空を恋うというのでもなく、実子を持たなかったさびしさをいうのでもなく、ただ、ただ、雪の降る空こそがふるさとだというように、曖昧なほほえみを漂わせて雪をみている。しかし、決して惚けているのではない。しゃもじをいまだに嫁に渡さないと囁く声をどこかできいた。命を継ぎ、命を継ぐ、そして列伝のように語り伝えられる長い時間の中に存在するからこそ安らかな人間の時間なのだということを、私は長く忘れていた。
 長男でもなく二男でもない私の父は、こんな村の時間からこぼれ落ちて、都市の一隅に一人一人がもつ一生という小さな時間を抱いて終った。私も都市に生まれ、都市に育って、そういう時間を持っているだけだが、折ふしにこの山羊小母たちが持っている安らかな生の時間のことが思われる。それはもう、昔語りの域に入りそうな伝説的時間になってしまったのであろうか。(馬場あき子「山羊小母たちの時間」)

設問
(一)「農家が盛んだった頃の一風景が、段差のある家の構造自体の中に残っているのだ」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
(二)「温とい思い出の影がその辺いっぱいに漂っているようなもので、かえって安らかなのである」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
(三)「こんな村の時間からこぼれ落ちて、都市の一隅に一人一人がもつ一生という小さな時間を抱いて終った」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
(四)「それはもう、昔語りの域に入りそうな伝説的時間になってしまったのであろうか」(傍線部エ)とあるが、文中の「私」はなぜそう思うのか、本文全体を踏まえて説明せよ。

【解説&解答例】
(一)
【解説】傍線部アは段落最後の文であり、山羊小母の家の構造を説明した段落群のまとめの文である。筆者は、山羊小母の家の構造を説明するに当たり、農地改革以前の庄屋の様子を説明している。このことで、農家の構造が使用目的に即した合理的なものであったことが分かる。段差にもきちんとした意味があったのだ。このことをまとめればいい。山羊小母の家が庄屋であったことは、小作人のことが述べられている個所で分かる。
【解答例】
戦前の農家の構造は使用目的に即した合理的なものであり、家の構造からも当時の農村の様子がうかがい知れるということ。
(二)
【解説】傍線部イは、今ではがらんどうの家に住んでいて寂しくないのと聞く筆者に、山羊小母が答えた内容を記した段落の最後の文である。この段落の内容をまとめればいい。山羊小母は、家の中にはたくさんのご先祖様がいて、毎日見守ってくれているという。霊というと怖くも思えるが、多くの人の死を看取ってきた山羊小母には、家の中の霊は怖いものではなく、むしろ自分のことを見守ってくれる身近な存在なのである。これが、前近代の死生観につながろう。先祖が見守ってくれるということは、自分も先祖として見守る存在になるということである。たとえ肉体が死んでも、近しい者の祖霊として存在し続けるという安心感がそこにはある。このような祖霊と結びついた死生観は、東大入試で好まれて出題される死生観である。
【解答例】
旧家には祖霊が住み毎日見守られていると思えるため、一人で住んでいても寂しくはなく、むしろ安心して生活できるということ。
(三)
【解説】傍線部ウは、傍線部イとは対照的な内容であり、前近代的な死生観が失われた都会では、個としての死しかないことが述べられている。そこでは、死は消滅でしかない。先祖代々の系譜が語り継がれる長い時間の中に生きているからこそ、安心して暮らせるのが人間的な時間であると述べた直後に、傍線部ウを含む段落がある。このことで、筆者が都会の生活に否定的であることが分かる。それが傍線部ウの「村の時間からこぼれ落ちて」という表現になっている。
【解答例】先祖に見守られることもなく、先祖のひとりとして語り継がれることもなく、個として死んでいったということ。
(四)
【解説】傍線部エは、本文最後の文である。傍線部イにおける伝統的な死生観と傍線部ウにおける死生観を比較した後に、伝統的な死生観がもはや現実ではなく伝説になってしまっていることを嘆く個所である。傍線部エの「昔語りの域に入りそうな」という言葉に、筆者の残念がる気持ちが出ている。このことをまとめればいいだろう。
【解答例】
筆者は、死んでも語り継がれることで存在し続ける伝統的な死生観をうらやましく思っており、それが失われつつある現在を残念がっているから。

2008年東大前期・国語第1問「歴史拘束性と自由」【予告編】

 いまここであらためて、歴史とは何か、という問いを立てることにする。大きすぎる問いなので、問いを限定しなくてはならない。中島敦が「文字禍」で登場人物に問わせたように、歴史とはあったことをいうのか、それとも書かれたことをいうのか、ともう一度問うてみよう。この問いに博士は、「書かれなかった事は、無かった事じゃ」と断定的に答える。すると博士の頭上に、歴史を刻んだ粘土板の山が崩れおちてきて命を奪ってしまうのだった。あたかも、そう断定した博士の誤りをただすかのように。こういう物語を書いた中島敦自身の答は、宙づりのままである。
 たしかに、書かれなくても、言い伝えられ、記憶されていることがある。書かれたといても、aサンイツし、無に帰してしまうことがある。たとえば私が生涯に生きたことの多くは、仮に私自身が「自分史」などを試みたとしても、書かれずに終わる。そんなものは歴史の中の微粒子のような一要素にすぎないが、それがナポレオンの一生ならば、もちろんそれは歴史の一要素であるどころか、歴史そのものということになる。ナポレオンについて書かれた無数の文書があり、これからもまだ推定され、確定され、新たに書かれる事柄があるだろう。だから「書かれなかった事は、無かった事じゃ」と断定することはできない。もちろん「書かれた事は、有った事じゃ」ということもできないのだ。
 さしあたって歴史は、書かれたこと、書かれなかったこと、あったこと、ありえたこと、なかったことの間にまたがっており、画定することのできないあいまいな霧のような領域を果てしなく広げている、というしかない。歴史学が、そのようなあいまいな領域をどんなに排除しようとしても、歴史学の存在そのものが、この巨大な領域に支えられ、養われている。この巨大な領域のわずかな情報を与えてきたのは、長い間、神話であり、詩であり、劇であり、無数の伝承、物語、フィクションであった。
 歴史の問題が「記憶」の問題として思考される、という傾向が顕著になったのはそれほど昔のことではない。歴史とはただ遺跡や史料の集積と解読ではなく、それらを含めた記憶の行為であることに注意がむけられるようになった。史料とは、記憶されたことの記録であるから、記憶の記憶である。歴史とは個人と集団の記憶とその操作であり、記憶するという行為をみちびく主体性と主観性なしにはありえない。つまり出来事を記憶する人間の欲望、感情、身体、経験をbチョウエツしてはありえないのだ。
 歴史を、記憶の一形態とみなそうとしたのは、おそらく歴史の過大な求心力から離脱しようとする別の歴史的思考の要請であった。歴史は、ある国、ある社会の代表的な価値観によって中心化され、その国あるいは社会の成員の自己像(アイデンティティ)を構成するような役割をになってきたからである。歴史とは、そのような自己像をめぐる戦い、言葉とイメージの闘争の歴史でもあった。歴史における勝者がある以前に、歴史そのものが、他の無数の言葉とイメージの間にあって、相対的に勝ちをおさめてきた言葉でありイメージなのだ
 あるいは情報技術における記憶装置(メモリー)の役割さえも、歴史を記憶としてとらえるために一役買ったかもしれない。熱力学的な差異としての物質の記憶、遺伝子という記憶、これらの記憶形態の延長上にある記憶としての人間の歴史を見つめることも、やはり歴史をめぐる抗争の間に、別の微粒子を見出し、別の運動を発見するcキカイになりえたのだ。量的に歴史をはるかに上回る記憶のひろがりの中にあって、記憶は局限され、一定の中心にむけて等質化された記憶の束にすぎない。歴史は人間だけのものだが、記憶の方は、人間の歴史をはるかに上回るひろがりと深さをもっている
 歴史という概念そのものに、何か強迫的な性質が含まれている。歴史は、さまざまな形で個人の生を決定してきた。個人から集団を貫通する記憶の集積として、いま現存する言語、制度、慣習、法、技術、経済、建築、設備、道具などすべてを形成し、保存し、破壊し、改造し、再生し、新たに作りだしてきた数えきれない成果、そのような成果すべての集積として、歴史は私を決定する。私の身体、思考、私の感情、欲望さえも、歴史に決定されている。人間であること、この場所、この瞬間に生まれ、存在すること、あるいは死ぬことが、ことごとく歴史の限定(dシンコウをもつ人々はそれを神の決定とみなすことであろう)であり、歴史の効果、作用である。
 にもかかわらず、そのようなすべての決定から、私は自由になろうとする。死ぬことは、歴史の決定であると同時に、自然の決定にしたがって歴史から解放されることである。いや死ぬ前にも、私は、いつでも歴史から自由であることができた。私の自由な選択や行動や抵抗がなければ、そのような自由の集積や混沌がなければ、そもそも歴史そのものが存在しえなかった。
 たとえばいま、私はこの文章を書くことも書かないこともできる、という最小の自由をもっているではないか。生活苦を覚悟の上で、私は会社をやめることもやめないこともできるというような自由をもち、自由にもとづく選択をしうる。そのような自由は、実に乏しい自由であるともいえるし、見方によっては大きな自由であるともいえる。そのような大小の自由が、歴史の中には、歴史の強制力や決定力と何らeムジュンすることなく含まれている。歴史を作ってきたのは、怜悧な選択であると同時に、多くの気まぐれな、盲目の選択や偶然でもあった。
 歴史は偶然であるのか、必然であるのか、そういう問いを私はたてようとしているのではない。歴史に対して、私の自由はあるのかどうか、と問うているのだ。そう問うことにはたして意味があるのかどうか、さらに問うてみるのだ。けれども、決して私は歴史からの完全な自由を欲しているのではないし、歴史をまったく無にしたいと思っているのでもない。歴史とは、無数の他者の行為、力、声、思考、夢想の痕跡にほかならない。それらとともにあることの喜びであり、苦しみであり、重さなのである
                          (宇野邦一『反歴史論』)

〔注〕 ○「文字禍」――中島敦(一九〇九~一九四二)の短編小説。


設問
(一)「歴史学の存在そのものが、この巨大な領域に支えられ、養われている」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「歴史そのものが、他の無数の言葉とイメージの間にあって、相対的に勝ちをおさめてきた言葉でありイメージなのだ」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「記憶の方は、人間の歴史をはるかに上回るひろがりと深さをもっている」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。

(四)「歴史という概念そのものに、何か強迫的な性質が含まれている」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(五)筆者は「それらとともにあることの喜びであり、苦しみであり、重さなのである」(傍線部オ)と歴史について述べているが、どういうことか、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。(句読点も一字として数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)

(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
a サンイツ  b チョウエツ  c キカイ  d シンコウ  e ムジュン


(一)
【解説】
傍線部の内容を説明させる設問では、基本的には段落の内容をまとめれば、そのまま傍線部の内容を説明した解答をつくることができる。この設問もそのような設問である。傍線部アのある段落をまとめるといい。さらに文章の構成を考えれば、前後の段落との関係を把握した方が当段落は前段落では、中島敦の短編小説に登場する博士の「書かれなかった事は、無かった事じゃ」という言葉を否定した上で、歴史は書かれたことだけではなく、書かれなかったことをも含む「画定することのできないあいまいな霧のような領域」と述べている。これが、傍線部アで「この巨大な領域」といわれているものである。つまり、歴史学が対象とする歴史そのものは文字資料が指し示すものだけではなく、文字資料として残っていない出来事も含んでいる。これが、前段落を受けた当段落の内容である。ここで注意点は、歴史そのものは資料として残されたもの以外も含むということである。
【解答例】
歴史は文字資料だけではなく、文字資料として残されていない内容も持つということ。

(二)
【解説】
歴史は、国あるいは社会の成員の自己像を構成する役割を担ってきたものであり、自己像を作り上げるときには多くの歴史叙述が取捨選択されてきている。それが、「自己像をめぐる戦い」であり、「言葉とイメージの闘争の歴史」である。それが、傍線部イ「歴史そのものが、他の無数の言葉とイメージの間にあって、相対的に勝ちをおさめてきた言葉でありイメージ」ということである。言葉で文字資料、イメージで非文字資料を示しているが、そのどちらも資料として認めたうえで、その中から取捨選択がなされているということである。その取捨選択を「言葉とイメージの闘争の歴史」という表現を使用している。
【解答例】
歴史とは社会が自らの根拠を過去に求めたものであり、歴史像が構築されたときに必ず取捨選択がなされてきたということ。

(三)
【解説】
傍線部ウでは「記憶の方は、人間の歴史をはるかに上回るひろがりと深さをもっている」と述べられているが、その直前で「記憶は局限され、一定の中心にむけて等質化された記憶の束」が歴史であると述べられており、歴史像が構築される過程で、記憶が取捨選択されて歴史像から漏れたものがあると主張されている。「局限」で絞られていることが示され、「一定の中心にむけて等質化された」で、異なる見方(異見)が排除されていることが示されている。記憶の中の一部が、それも一定の方向のものだけが選択され歴史像に使われている。そのため、そこから当然のこと漏れたものがある。それは資料で残されなかったものだけではなく、資料として残されたものであっても、一定の方向と合致しなかったものは排除されているのである。
【解答例】
歴史には歴史像の構築のときに選択されなかった記憶も含まれており、広大であるということ。

(四)
【解説】
傍線部エ「歴史という概念そのものに、何か強迫的な性質が含まれている」は段落の最初の文であり、前段落の内容を受けながら、当段落のテーマを述べた文である。当段落の内容をまとめるといいだろう。とくに直後の「歴史は、さまざまな形で個人の生を決定してきた」は分かりやすい文章であり、この一文で歴史拘束性について述べていることが分かる。
【解答例】
個人は歴史の影響の下にあり、歴史はさまざまな形で個人の生を決定しているということ。

(五)
【解説】
傍線部オ「それらとともにあることの喜びであり、苦しみであり、重さなのである」で喜びであり、苦しみと述べられているので、自由と歴史拘束性の両面について述べるといいだろう。筆者はこの歴史の両面について前向きに捉えており、自由と歴史拘束性を対立するものとしてではなく、歴史の中にあって自由に決断できるのが人間であると、前向きに結ぶといいだろう。
【解答例】
わたしたちは歴史に拘束されていると考えることもできるが、わたしたちは自ら直面している問題に判断を下すことで、自らのアイデンティティを確認できるのであり、歴史拘束性と自由は対立するものではないといえる。

(六) a 散逸  b 超越  c 機会  d 信仰  e 矛盾

2008年東大前期・国語第4問「演技するということ」【予告編】

 二流の役者のセリフに取り組むと、ほとんど必ず、まずそのセリフを吐かせている感情の状態を推測し、その感情を自分の中にかき立て、それに浸ろうと努力する。たとえば、チェーホフの『三人姉妹』の末娘イリーナの第一幕の長いセリフの中に「なんだってあたし、今日こんなに嬉しいんでしょう?」(神西清訳)という言葉がある。女優たちは、「どうもうまく『嬉しい』って気持ちになれないんです」といった言い方をする。もっといいかげんな演技者なら、なんでも「嬉しい」って時は、こんなふうな明るさの口調で、こんなふうにはずんで言うもんだ、というパターンを想定して、やたらと声を張り上げてみせる、ということになる。「嬉しい」とは、主人公が自分の状態を表現するために探し求めて、取りあえず選び出して来たことばである。その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも、まず「ウレシソウ」に振舞うというジェスチュアに跳びかかるわけである。
 もっと通俗的なパターンで言うと、学校で教員たちがよく使う「もっと感情をこめて読みなさい」というきまり文句になる。「へえ、感情ってのは、こめたり外したりできる鉄砲のタマみたいなものかねえ」というのが私の皮肉であった。その場にいた全員が笑いころげたが、では、感情とはなにか、そのことばを言いたくなった事態にどう対応したらいいのか、については五里霧中なのである。
 この逆の行為を取上げて考えるともう少し問題がはっきりするかも知れない。女優さんに多い現象だが、舞台でほんとうに涙を流す人がある。私は芝居の世界に入ったばかりの頃初めてこれを見てひどく驚き、同時に役者ってのは凄いものだと感動した。映画『天井桟敷の人々』の中に、ジャン・ルイ・バロー演じるパントマイム役者に向って、「役者はすばらしい」「毎晩同じ時刻に涙を流すとは奇蹟だ」と言う年寄りが出てくる。若い頃はナルホドと思ったものだが、この映画のセリフを書いている人も、これをしゃべっている役柄も役者も、一筋縄ではいかぬ連中であって、賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない
 数年演出助手として修業しているうちにどうも変だな、と思えてくる。実に見事に華々しく泣いて見せて、主演女優自身もいい気持ちで楽屋に帰ってくる――「よかったよ」とだれかれから誉めことばが降ってくるのを期待して浮き浮きとはずんだ足取りで入ってくるのだが、共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っているばかり。シーンとした楽屋に場ちがいな女優の笑い声ばかりが空々しく響く、といった例は稀ではないのだ。「なんでえ、自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」というのがワキ役の捨てゼリフである。
 実のところ、ほんとに涙を流すということは、素人が考えるほど難しいことでもなんでもない。主人公が涙を流すような局面まで追いつめられてゆくまでには、当然いくつもの行為のもつれと発展があり、それを役者が「からだ」全体で行動し通過してくるわけだから、リズムも呼吸も昂っている。その頂点で役者がふっと主人公の状況から自分を切り離して、自分自身がかつて経験した「悲しかった」事件を思いおこし、その回想なり連想に身を浸して、「ああ、なんて私は哀しい身の上なんだろう」とわれとわが身をいとおしんでしまえば、ほろほろと涙がわいてくるのだ。つまりその瞬間には役者は主人公の行動と展開とは無縁の位置に立って、わが身あわれさに浸っているわけである。このすりかえは舞台で向いあっている相手には瞬間に響く。「自分ひとりでいい気になりやがって」となる所以である。
 本来「悲しい」ということは、どういう存在のあり方であり、人間的行動であるのだろうか。その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。そんなことはありうるはずがない。その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか、と考えてみる。だが消えぬ。それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。いや、もともと一つのものであるかも知れぬ。
 それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ〈からだ〉が受け入れていく。そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。だから、受身になり現実を否定する闘いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。
 とすれば、本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど「怒り」と等しい。「悲しみ」を意識する余裕などないはずである。ところが二流の役者ほど「悲しい」情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる。「悲しい」という感情をしみじみ満足するまで味わいたいならば、たとえば「あれは三年前……」という状態に身を置けばよい。
 こういう観察を重ねて見えてくることは、感情の昂まりが舞台で生まれるには「感情そのもの」を演じることを捨てねばならぬ、ということであり、本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにかを、外から心理学的に名づけて言うものだ、ということである。それは私のことばで言えば「からだの動き」=actionそのものにほかならない。ふつう感情と呼ばれていることは、これと比べればかなり低まった次元の意識状態だということになる。
                      (竹内敏晴『思想する「からだ」』)

設問
(一)「『ウレシソウ』に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(二)「賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(三)「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」(傍線部ウ)とあるが、どういうことか、説明せよ。

(四)「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。


(一)
【解説】
傍線部アは「『ウレシソウ』に振舞うというジェスチュアに跳びかかる」は段落最後の文であり、当段落のまとめの文の中にある。この傍線部アの直前を見ると、「その〈からだ〉のプロセス、選び出されてきた〈ことば〉の内実に身を置くよりも」とあることから、二流の女優と「もっといいかげんな演技者」を対立させた上で、もっといいかげんな演技者を説明している箇所を要約するといい。二流の女優は嬉しい気持ちになろうとするが、いい加減な演技者は、嬉しいときに見られるパターン的に見られる口調や表情で演技するということである。直前の「取りあえず選び出して来たことば」や傍線部の「ジェスチュア」がまさに表面的な演技であることを示している。
【解答例】
意味を深く理解しようとしないで、安易にパターン化された嬉しさを表面的に演じてしまうこと。

(二)
【解説】
傍線部イ「賛嘆と皮肉の虚実がどう重なりあっているのか知れたものではない」は、「女優さんに多い現象だが、舞台でほんとうに涙を流す人がある」について述べた段落で、「この映画のセリフを書いている人も、これをしゃべっている役柄も役者も、一筋縄ではいかぬ連中」とある文章に続いているので、賞嘆ではなく皮肉に重きがあるだろう。そういう目で、次の段落を見るとやはり「共演している連中はシラーッとして自分の化粧台に向っているばかり」とあり、皮肉に重点があることが確認できる。
【解答例】
泣く演技をした女優は役柄を演じきったと思い込んでいるが、周囲の役者はそれを本当の演技であるとは見ていないこと。

(三)
【解説】
次の段落に、傍線部ウ「自分ひとりでいい気持ちになりやがって。芝居にもなんにもなりやしねえ」の理由が述べられている。女優が本当に涙を流したとしても、自分の身の上にあった悲しい出来事を思い出して泣いているのであり、泣いた瞬間、実は役柄とは遊離してしまっている。役柄になりきって泣いているのではなく、むしろ自分の思い出で涙を流すという「すりかえ」は、同じ舞台に上がっている相手役や脇役にはばれている。これが、「自分ひとりでいい気になりやがって」と相手役や脇役が思う理由である。
【解答例】
泣く芝居は「悲しみ」を演じているだけで、その役柄を全身全霊で演じているわけではないということ。

(四)
【解説】
傍線部エ「『感情そのもの』を演じることを捨てねばならぬ」は段落最初の文であり、直後の「本源的な感情とは、激烈に行動している〈からだ〉の中を満たし溢れているなにか」が使える。つまり本源的な感情は、感情を演じて表現できるものではなく、全身全霊で行動して激昂したときにほとばしるものである。また段落最初の文は前段落を受けているから、前段落の内容も使える。「本来たとえば悲劇の頂点で役者のやるべきことは、現実に対する全身での闘いであって、ほとんど『怒り』と等しい。『悲しみ』を意識する余裕などないはずである」を使うことができるだろう。さらにそれに続く「ところが二流の役者ほど『悲しい』情緒を自分で十分に味わいたがる。だからすりかえも起こすし、テンションもストンと落ちてしまうことになる」を加味すればいい。これで、本文全体の内容が理解できるだろう。
【解答例】
感情とは身体から溢れ出るものであり、「悲しみ」を演じるのではなく、全身全霊で打ち込むことでのみ表現できるということ。

2007年東大前期・国語第1問「芸術ジャンル――分類の可能性」【予告編】

創作がきわだって個性的な作者、天才のいとなみであること、したがってそのいとなみの結実である作品も、かけがえのない存在、唯一・無二の存在であること、このことは近代において確立し、現代にまでうけつがれているaツウネンといっていい。一方、このいとなみと作品のすべてが、芸術という独自の、自立的な文化領域に包摂されていることも、同じように近代から現代にかけての常識だろう。かけがえのない個性的ないとなみと作品、それらすべてをつつみこむ自立的な――固有の法則によって完全にbトウギョされた――領域。しかしよく考えてみれば、このふたつのあいだには、単純な連続的関係は成立しがたい、というより、むしろ対立する、あるいはあい矛盾する関係のみがある、というべきであろう。したがって近代的な芸術理解にとっては、このふたつの対立し矛盾する――個と全体という――項を媒介し、連続的な関係をもたらすものとして、さまざまなレヴェルの集合体(l’ensemble)を想定することが、不可欠の操作であった。ア芸術のジャンルが、近代の美学あるいは芸術哲学のもっとも主要な問題のひとつであったのもむしろ当然だろう。個別的ないとなみや作品と全体的な領域のあいだに、多様なレヴェルの集合体(ジャンル)を介在させ、しかもそれぞれのジャンルのあいだに、一定の法則的な関係を設定することによって、芸術は、ひとつのシステム(体系)としてとらえられることになるだろう。近代の美学において、「芸術の体系」がさまざまな観点から論じられたのも、これまた当然であった。
 ジャンルは、個々の作品からなる集合体であると同時に、個々の作品をその中に包摂し、規定する全体としての性質をももつ。個々の作品は、あるジャンルに明確に所属することによって、はじめて芸術という自立的な領域の中に位置づけられるが、この領域の自立性こそが、芸術に特有の価値(文化価値)の根拠であるのだから、ジャンルへの所属は、作品の価値のひとつの根拠ともなるだろう。ある作品のジャンルへの所属が曖昧であること、あるいはあるジャンルに所属しながら、そのジャンルの規定にそぐわないこと――ジャンルの特質を十分に具体化しえていない――、それは、ともに作品の価値をおとしめるものとして、きびしくいましめられていた。
 近代から区別された現代という時代の特徴としてしばしばあげられるものに、あらゆる基準枠ないし価値基準の、ゆらぎないし消滅がある。芸術も、その例外ではない。イかつては、芸術の本質的な特徴として、その領域の自立性と完結性があげられ、とくに日常的な世界との距離ないし差異が強調されることがおおかった。しかし現在、たとえば機械的な媒介をとおして大量にcルフするイメージなどのために、その距離や差異は解消の傾向にあるといわれる――芸術の日常化、あるいは日常の芸術化という現象――。芸術の全体領域そのものが曖昧になっているとすれば、その内部に想定されるジャンルのあいだの差異も、解消しつつあるのだろうか。たしかに、いまの芸術状況をみれば、かつてのような厳密なジャンル区分が意味を失っていることは、いちいち例をあげるまでもなくあきらかである。理論の面でも、芸術ジャンル論や芸術体系論が以前ほど試みられないのも、むしろ当然かもしれない。しかしすべての、あらゆるレヴェルのジャンルが、その意味(意義)を失ったのではないだろう。無数の作品が、おたがいにまったく無関係に並存しているのではなく、なんらかの集合をかたちづくりながら、いまなお共存しているのではないだろうか。コンサート・ホールでの演奏を中止し、ラジオやテレヴィジョンあるいはレコードという媒介を介在させて、自分と聴衆の直接的な関係を否定したとしても――聴衆にたいして、自分を「不在」に転じたとしても――、グレン・グールド(Glenn Gould, 1932-82)を、ひとはすぐれたピアニスト(音楽家)とよぶのだし、デュシャン(Marcel Duchamps, 1887-1968)の「オブジェ」のおおくは、いま美術館に保存され、陳列されている。変わったのは、おそらく集合体の在り方であり、集合相互の関係とそれを支配する法則である。たとえば、プラトンに端を発し、ヘーゲルなどドイツ観念論美術でその頂点に達した感のある芸術の分類、超越的ないし絶対的な原理にもとづいて、いわば「うえから」(von oben)芸術を分類し、ジャンルのあいだに一定の序列をもうけるという考え方は、すくなくとも現在のアクチュアルな芸術現象に関しては、その意義をほぼ失ったといっていいのだろう。たしかにm「分類」は近代という時代を特徴づけるものだったかもしれないが、理論的ないとなみが、個別的、具体的な現象に埋没せずに、ある普遍的な法則をもとめようとするかぎり、「分類」は――むしろ、「区分」といったほうがいいかもしれないが――ウ欠かすことのできない作業(操作)のはずである
 解説書風のきまり文句を使っていえば、グールドもデュシャンも、ともに「近代の枠組みをこえようとする尖鋭ないとなみ」という点で、同類――同じ類(集合)に区分される――ということになるが、にもかかわらず、グールドが音楽家であり、デュシャンが美術家であることを疑うひとはいないだろう。演奏するグールドの姿ヴィデオ・ディスクで見ることはできるが――そしてこのことは、グールドの理解にとっては、その根本にかかわることなのだが――、それとともに、録音・再生された彼の「音」を聞かなければ、彼特有のいとなみにふれたことにはならないだろう。モニターの画面を消して、音だけに聞きいるとき、いくぶんかグールドの意図からははなれるにしても、そのいとなみにふれていることはたしかである。「聞く」という行為、あるいは「聴覚的」な性質を、彼のいとなみとその結果(作品)の根本と見なすからこそ、ためらわず彼を音楽家に分類するのだろう。同じように、「見る」という行為と「視覚的」な性質が、デュシャンを美術家に分類させるのだろう。社会構造がどのように変化し、思想的枠組みがいかに変動したとしても、「感性」にもとづき、「感性」に満足を与えることを第一の目的とするいとなみが――それを芸術と名づけるかどうかにはかかわりなく――ひとつの文化領域をかたちづくることは否定できないだろうし、その領域が、エ「感性」の基礎となる「感覚」の領域にしたがって区分されるのも、ごく自然なことであるにちがいない。ところで、同じ「色彩」という視覚的性質であっても、もちいる画材――油絵具、泥絵具、水彩絵具など――によって、かなりの――はっきりと識別できる――ちがいが生じるだろう。「色彩」という感覚的性質によって区分される領域――絵画――の内部に、使用する画材による領域――油絵、水彩画など――をさらに区分することには、十分な根拠がある。「感覚的性質」と、それを支える物質――「材料」(la matiere, the material)――を基準とする芸術の分類は、芸術のもっとも基本的な性質にもとづいた、その意味で、時と場所の制約をこえた、ふへんてきなものといえるだろう。もちろん、人間の感覚は、時と場所にしたがって、あきらかに変化を示すものだし、技術の展開にともなって新しい「材料」が出現することもあるのだから、この分類を固定されたものと考えてはならないだろう。もっとも普遍的であるとともに、歴史の中で微妙な変動をみせるこのジャンル区分は、芸術の理論的研究と歴史的研究のいずれにとっても重要な意義をもつかもしれない。あるいは、従来ともすれば乖離しがちであった理論と歴史的研究を、新たなdユウワにもたらす手がかりを、ここに求めることすら可能なのかもしれない。個別的な作家や作品は、実証的な歴史的研究の対象となるだろうし、本質的ないし普遍的な性質は、いうまでもなく理論的探究の対象だが、個別と普遍を媒介する――個別からなり、個別を包摂する――集合としてのジャンルの把握には、オ厳密な理論的態度とともに、微妙な変化を識別する鋭敏な歴史的なまなざしが要請されるにちがいない。いずれにしても、近代的なジャンル区分に固執して、アクチュアルな現象をeハイジョすることが誤りであるように、分類の近代性ゆえに、ジャンル研究の現在における意義を否定しさることもまちがいだろう。
(浅沼圭司『読書について』)

[注] ○グレン・グールド――カナダのピアニスト。実験的な手法で注目されたが、一九六四年以後コンサート活動を止め、複製媒体のみの表現活動を行った。
○デュシャン――マルセル・デュシャン。フランスの美術家。「美術」という概念そのものを問い直す、多くの前衛的作品を発表した。

設問
(一)「芸術のジャンルが、近代の美学あるいは芸術哲学のもっとも主要な問題のひとつであったのも、むしろ当然だろう」(傍線部ア)とあるが、なぜそのようにいえるのか、説明せよ。
(二)「かつては、芸術の本質的な特徴として、その領域の自立性と完結性があげられ」(傍線部イ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
(三)「欠かすことのできない作業(操作)のはずである」(傍線部ウ)とあるが、それはなぜか、説明せよ。
(四)「『感性』の基礎となる『感覚』の領域にしたがって区分される」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。
(五)「厳密な理論的態度とともに、微妙な変化を識別する鋭敏な歴史的まなざしが要請される」(傍線部オ)とあるが、どういうことか、全体の論旨に即して一〇〇字以上一二〇字以内で述べよ。(句読点も一字として数える。なお採点においては、表記についても考慮する。)
(六)a ツウネン  b トウギョ  c ルフ  d ユウワ  e ハイジョ


【説明&解答例】
(一)
受験生解答 個としての作品と全体としての芸術が対立するものであるがために、それらを媒介するジャンルが必要だったから。
解説&解答例 傍線部アは、段落途中に理由もなく登場する文章であるため、それ以後にその理由が描かれている。また、段落の内容は次の段落の最初の文でまとめられているものであり、ここでも次の段落の最初の文「ジャンルは、個々の作品からなる集合であると同時に、個々の作品をそのなかに包摂し、規定する全体としての性質をもつ」は利用できる。「全体と個は対立して見えるが、作品はジャンルに分類されることで芸術と見なされ、芸術はジャンルを媒介として作品の集合となるから。」と、まとめていくといい。個と全体は対立するだけではなく、相互に規定しあっているということを記す必要がある。

(二)
受験生解答 近代には、芸術の枠組がはっきりとしていて、芸術の規定となるジャンルから作品がはみ出すことはなかったということ。
解説&解答例 傍線部イは、あくまで近代と現代における芸術のジャンルのあり方について述べている文章である。近代と現代の区別はついているが、芸術の枠がはっきりしているのは現代も同じ。それが固定的か変動的かが問題になる。「現代以前では、芸術のジャンルは所与のものであり、固定的で変更されない普遍的なものと考えられていた。」と、まとめて行くこと。

(三)
受験生解答 芸術におけるジャンルの違いがなくなってきているとはいえ、作品同士の関連性が全て失われたわけではないから。
解説&解答例 ここで、近代のジャンルのあり方について述べる。傍線部ウは、段落最後の文であり、本段落のまとめであるから、近代芸術におけるジャンルのあり方を述べればいい。「近代ではかつてのジャンルは無意味なものになったが、ジャンルは不要になったのではなく、作品に応じた具体的なものになった。」

(四)
受験生解答 音は耳、絵は目というように、どの感覚を通してその芸術が感性に訴えかけるかによって作品を分類するということ。
解説&解答例 この段落の傍線部エを含む文までの前半をまとめるといい。近代芸術におけるジャンルが何によって決まるのかを述べるということだ。つまり、前の設問で近代芸術のジャンルが具体的なものになったと述べたが、この設問では、どのように具体的になったのかを説明するという問題設定になっている。「近代では芸術は感性にもとづき感覚に満足を与えるものと目的とすると考えられており、ジャンルも感性や感覚によって区分される。」とまとめていく。

(五)
受験生解答 芸術を感覚や材料で区分することは、の最も普遍的な分類仕方だが、変化することもあるので、ジャンルを理解するには、普遍性だけでなく、時代的な変化も考慮しなければならないということ。(88字)
解説&解答例 傍線部オは、最後の段落のまとめであり、文章全体をまとめる内容を書けばいい。「理論的研究はしばしば具体的な作品から乖離してしまうことがあるため、芸術のジャンルを区分するには、理論的厳密性だけではなく、作品を個としてみる歴史的視点も必要になってくるということ。」(90字)とまとめ、これに+αを書いて100字以上にしよう。文末は、「…ということ」でまとめるのが一般的だが、変形してもいい。

(六)
解答 a. 通念 b. 統御 c. 流布 d. 融和 e. 排除

2007年東大前期・国語第4問「結婚という形」【予告編】

 詩におけるさりげないひとつの言葉、あるいは絵画におけるさりげない一つのタッチ、そうしたものに作者の千万無量思いが密かにこめられたとしても、そのように埋蔵されたものの重みは、容易なことでは鑑賞者の心に伝わるものではあるまい。作品と鑑賞者がなんらかの偶然によってよほどうまく邂逅しないかぎり、アその秘密の直観的な理解はふつうは望めない。
 しかし、そうした表現と伝達の事情において、やはり比較的深くといった段階にとどまるものではあるが、例外的と言っていい場合もいくらかはないわけではないだろう。そこでは、時代と個人的な作風との微妙な緊張関係がうまく永遠化されているのだろうが、たとえば十七世紀前半のオランダにおける巨匠レンブラント・ファン・ラインの晩年のいくつかの作品に眺められる重厚な筆触の一つ一つは、今日のぼくなどにまで、そこにこめられているにちがいない経験の痛みのようなもの、言いかえれば、人生への深沈とした観照の繰返された重さをひしひしと感じさせるようである。「レンブラント、呟きに満ちあふれた悲しい病院」と歌ったのはボードレールであるが、そうした呟きの一つ一つに、こちらの内部に谺する、いくらか暗く、そしてはげしい人間的な哀歌を感じるのである。
 レンブラントのそうした作品の中から、有名な傑作ではあるが、ぼくはここにやはり、『ユダヤの花嫁』を選んでみたい。彼の死に先立つ三年前に描かれたこの作品のモデルは、息子のティトゥスとその新婦ともいわれ、またユダヤの詩人バリオスとその新婦ともいわれている。さらに旧約聖書の人物であるイサクとリベカ、あるいはヤコブとラケルをイメージしたものだともいわれる。しかし、そうした予備知識はなくてもいい。茶色がかって暗く寂しい公園のようなところを背景にして、新郎はくすんだ金色の、新婦は少しさめた緋色の、それぞれいくらか東方的で古めかしい衣装をまとっているが、いかにもレンブラント風なこの色調は、人間の本質についての瞑想にふさわしいものである。そうした色調の雰囲気の中で、いわば、筆触の一つ一つの裏がわに潜んでいる特殊で個人的な感慨が、おおらかな全体的調和をかもしだし、すばらしい普遍性まで高まって行くようだ。この絵画における永遠の現在の感慨の中には、見知らぬ古代におけるそうした場合の古い情緒も、同じく見知らぬ未来におけるそうした場合の新しい情緒も、イひとしく奥深いところで溶けあっているような感じがする。こうした作品を前にするときは、人間の歩みというものについて、ふと、巨視的にならざるをえない一瞬の眩暈とでも言ったものを覚えるのである。
 ところで、この場合、問題を集中的に表現しているものとして、新郎と新婦の手の位置と形、そしてそれを彩る筆触に最も心を惹かれるのは、きわめて自然なことだろう。なぜならそれは、夫婦愛における男と女の立場の違い、そして性質のちがいを、まことに端的に示しているように思われるからである。男の方の手は、女を外側から包むようにして、所有、保護、優しさ、誠実さなどの渾然とした静けさを現わしているし、女の方の手は、男のそうした積極性を今や無心に受け容れることによって、いわば逆の形の所有、信頼、優しさ、献身などのやはり溶け合った充実を示しているのだ。
 ぼくが嘆賞してやまないのは、こうした瞬間を選びとったというか、それともそこに夥しいものを凝縮したというか、いずれにせよ、狙いあやまらぬレンブラントの透徹していてしかも慈しみに溢れた眼光である。暗くさびしい現実を背景として、新しい夫婦愛の高潮し均衡する、いわばこよなく危うい姿がそこに描きだされているのである。
 ぼくは今、「危うい」と書いた。それは過酷な現実によって悲惨なものにまで転落する危険性が充分にあるというほどの意味である。その悲惨は、人間が大昔から何回となく繰返してきた不幸である。しかし、この絵画にかたどられようとしている理想的な美しさは、ウ人間が未来にわたってさらに執拗に何回となく繰返す希望といったものだろう
 先ほどボードレールの詩句を引用したせいか、彼の『覚え書き』の中のある個所がここでふと思い出される。もっともそれは、レンブラントとはまったく関係なしに書かれた言葉で、男女の愛について述べられた抽象的な一つの感想である。彼はこう言っている、「恋愛は寛容の感情に源を発することができる。売春の趣味。しかし、それはやがて所有の趣味によって腐敗させられる。」
 いかにも『悪の花花』の詩人にふさわしい言い廻しであり、世俗の道徳の権威に反抗して、性愛における「自我の蒸発と集中」の自由をのびやかに擁護しているものだろう。ぼくもまた、快楽主義と言うよりは一種の潔癖な独立の趣味を想像させるこのアナルシーに、爽やかな近代の感触をおぼえるものである。しかし、レンブラントの『ユダヤの花嫁』のように時代を超えて人間の永遠的なものに啓示している絵画を前にするとき、ぼくは、そこで成就されている所有の高次な肯定――エ純粋な相互所有による腐敗の消去法とでもいった深沈とした美しさの定着に、より強く魅惑されざるをえない。その美しさは、先ほど記したように、危うく脆いものであるかもしれない。しかし、幸福とは、いずれにせよ瞬間のもの、あるいは断続的な瞬間のものだろう。また、この世の中に、絶対的な誠実というものはありえない。ある一人に対する、他の人たちに対するよりも多くの誠実が、結果としてあるだけで、しかも、主観的な誠実が必ずしも客観的な誠実ではないという、困難な状況におかれることもある。したがって、問題は、幸福と呼ばれる瞬間の継起のために、可能なかぎり誠実であろうとする愛の内容が、相互性を通じて、結婚という形式そのものであるような、まさに内実と外形の区別ができない生の謳歌の眩ゆさにあるのだ。

〔注〕○レンブラント・ファン・ライン――Rembrandt Harmenszoon Rijn(一六〇六~一六六九)オランダの画家。○ボードレール――Charles Pierre Baudelaire(一八二一~一八六七)フランスの詩人。○アナルシー――anarchie(フランス語)無秩序。


設問

(一)「その秘密の直観的な理解」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
(二)「ひとしく奥深いところで溶けあっているような感じがする」(傍線部イ)とあるが、「ひとしく奥深いところで溶けあっている」とは、どういうことか、説明せよ。
(三)「人間が未来にわたってさらに執拗に何回となく繰返す希望といったものだろう」(傍線部ウ)とあるが、「執拗に何回となく繰返す希望」とはどういうことか、説明せよ。
(四)「純粋な相互所有による腐敗の消去法」(傍線部エ)とあるが、どういうことか、説明せよ。


【解説&解答例】
(一)傍線部アは、段落の終わりの文であり、本段落の内容をまとめればいい。この段落は二つの文しかないので、最初の文をまとめればいい。
「作者が自らの作品にこめた深い意味を、何にも媒介されることなくそのまま理解すること。」とまとめるといい。直観は「直接見る」ということであり、「奇跡的に」という意味は含まれていないので注意。
(二)接続詞もなく続く文章は、言い換えであるので、ここでも傍線部イを含む文の前後を見るといい。とくに次の文は、「こうした作品」で始める段落全体のまとめの文であり、参考になるだろう。とくに「巨視的にならざるをえない一瞬」が参考になる。
「レンブラントのこの作品を見ると、過去の人物の思いと未来の人物の思いが時代を超えて一体になる。」とまとめればいい。
(三)傍線部ウで述べられている「希望」は、「ところで」で始まる段落から続く、レンブラントの作品の内容について作者が解説のまとめの文にあり、人びとが結婚に託す「希望」であると理解できる。
「結婚は不幸の始まりであるかもしれないが、それでも、これまでもこれからも繰り返し結婚という形にこめられる夫婦愛の高まりのこと。」とまとめるといい。
(四)傍線部エの「相互所有」が結婚であることを理解すること、そしてその直後の文で「瞬間」とも記されていることにも注目すること。
「結婚という形は、一瞬であるにせよ、これからの訪れるかもしれない不幸にたいする不安を忘れさせるということ。」とまとめるといい。

※これからブログ更新していきます。今回の東大国語第4問は、気に入っている問題ですし、後日もっと詳しい内容に更新する予定です。



2008年東大世界史第3問「交通の歴史」

【問題】
世界史ではヒトやモノの移動、文化の伝播、文明の融合などの点で、道路や鉄道を軸にした交通のあり方が大きな役割を果たしてきた。これに関連して、以下の設問(1)~(10)に答えなさい。解答は、解答欄(ハ)を用い、設問ごとに行を改め、冒頭に(1)~(10)の番号を付して記しなさい。

問(1) アケメネス朝ペルシアでは、王都と地方を結ぶ道路が「王の道」として整備された。そのうち幹線となったのは、サルディスと王都を結ぶものであった。その王都の名称を記しなさい。

問(2) 「すべての道はローマに通じる」とは名高い格言である。これらの舗装された道は軍道として造られたものであるが、その最初の街道はすでに前四世紀末に敷設されている。このローマとカプアを結ぶ最古の街道の名称を記しなさい。

問(3) 中世ヨーロッパでは聖地巡礼が盛んになり、キリスト教徒の旅が見られるようになった。ローマやイェルサレムと並んで、イベリア半島西北部にあり聖地と見なされた利はどこか。その都市の名称を記しなさい。

問(4) 中国産の絹が古くから西方で珍重されたことから、それを運ぶ道は一般にシルクロードとよばれる。この道を経由した隊商交易で、六~八世紀ころに活躍したイラン系商人は何とよばれているか。その名称を記しなさい。

問(5) シルクロードと並ぶ「海の道」は、唐代から中国の産品を西に運んだ。絹と並ぶ主要産品の一つは、それに因む「海の道」の別名にも使われている。この主要産品の名称を記しなさい。

問(6) モンゴル帝国では駅伝制度が整備され、ユーラシア大陸の東西を人間や物品がひんぱんに往来した。とくに中国征服後はすべての地域で駅伝制が完備した。この駅伝制の名称(a)と、公用で旅行する者が携帯した証明書の名称(b)を、冒頭に(a)・(b)を付して記しなさい。

問(7) アメリカ合衆国における大陸横断鉄道の建設は、移民を労働者として利用しながら進められた。それは西部開拓を促しただけではなく、合衆国の政治的・経済的な統一をもたらすことになった。この鉄道建設が遅れる要因となった出来事の名称を記しなさい。

問(8) オスマン帝国のスルタン、アブデュルハミト二世は、各地のムスリム(イスラ-ム教徒)の歓心を買うために、巡礼者鉄道(ヒジャーズ鉄道)を建設したが、ムスリム巡礼の最終目的地はどこであったか。その地名を記しなさい。

問(9) 一九一一年の辛亥革命は、清朝が外国からの借款を得て、ある交通網を整備しようとしたことへの反発をきっかけとして生じた。この交通網をめぐる清朝の政策の名称を記しなさい。

問(10) 世界恐慌によって再び経済危機に直面したドイツでは、失業者対策が重要な問題となった。ヒトラーは政権掌握後、厳しい統制経済体制をしいて、軍需産業の振興とともに高速自動車道路の建設を進めた。この道路の名称を記しなさい。


【考え方】
問(1) アッシリアは「アッシリアのくびき」といわれるように武力で統治したために、反乱で滅亡した。それに対して、アケメネス朝ペルシアは、キュロス二世(在位前五五九~五三〇年)がバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放したように、異民族の自治を認める寛容策をとった。王の道の一部がアッシリア時代のものと推定できるように、アケメネス朝がアッシリアの中央集権体制を継承しながらも長期政権を維持できたのは、この寛容策による。大国を維持するのに必要なものを、アケメネス朝は教えてくれる。
メソポタミア・シリア・エジプト・小アジアを支配する大帝国を築いたダレイオス一世(在位前五五二~前四八六年)は、地方に非世襲のサトラップ(州知事)を置き、そのもとに異民族の自治を認めて、サトラップ監視のために「王の目」「王の耳」を置いた。こうして地方政治を安定させた。それとともに、ヒトとモノと情報を運ぶ王の道を敷設して中央集権体制を実現した。もっとも有名な道は、大帝国の王都スーサと、小アジア西部の都市サルディスを結ぶ、およそ二、五〇〇キロメートルのもので、一一一の駅舎が設けられていた。歴史の父ヘロドトスのペルシア戦争記『歴史』によれば、この道程を七日間で移動できたという。さらに諸民族が朝貢のために訪れたペルセポリスにも通じていた。ペルセポリスの遺跡には、諸民族の朝貢の様子を描いたレリーフが見られる。
ダレイオス一世といえば新都ペルセポリスを造営したと覚えている人も多いだろうが、ペルセポリスは新年祭や朝貢など儀式用の都市で、ペルセポリスという名もペルシアの都を意味するギリシア語で、アケメネス朝での呼称ではない。行政の中心はスーサであり、正解の王都はスーサである。

問(2) アケメネス朝ペルシアの公道は「王の道」と呼ばれたが、最初のローマ街道であるアッピア街道は「女王の道」と呼ばれた。アッピア街道は、サムニウム戦争(前三四二~前二九〇年)が断続的に続いていた紀元前三一二年に、ケンソル(監察官)アッピウスの要請で南イタリアに敷設された。以後、征服地が拡大するにつれてアッピア街道も延長されている。このように、アッピア街道はもともと軍隊の迅速な移動のために建設されたものであり、そのために石で舗装されていた。それが結果的には商用にも役立ったのである。
ローマ人は法律と土木工事に優れ、とくに巨大な石を組み立てたガール水道橋(南フランス)、競技場であるコロッセウムは有名である。ローマ街道は、ローマから放射線状に伸び、各地へ軍隊を迅速に派遣して中央集権を維持した。ローマ街道には一ローママイル(約一・五キロメートル)ごとにマイルストーンが置かれ、ローマとの距離だけではなく、近隣の主要都市への距離も記され、商業活動でも大いに役立った。「すべての道はローマに通ず」と言われたように、ローマの文化はこのローマ街道によって各地に伝えられた。

問(3) エルサレム、ローマとならぶキリスト教三大聖地のひとつに、サンチャゴ・デ・コンポステラがある。十字軍のひとつレコンキスタ(再征服運動)の最中に、十二使徒のひとり聖ヤコブ(スペイン名サンチャゴ)の墓所が発見されたからである。正解は、サンチャゴ・デ・コンポステラである。
イベリア半島では、七一一年にアタナシウス派ゲルマン国家の西ゴート王国がイスラーム国家のウマイヤ朝によって滅亡したが、七一八年に西ゴートの貴族ペラヨがアウストゥリアスにキリスト教徒を結集して、コバドンガの戦いでイスラーム勢力を撃退した。戦いそのものは小規模だったが、イスラーム軍を最初に破った戦いであり、これがレコンキスタの始まりである。つづいて七三二年には同じくアタナシウス派ゲルマン国家フランク王国の宮宰カール=マルテル(六八六~七四一年)が、トゥール=ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝軍を破った。このような時期に、羊飼いによって聖ヤコブの墓が奇跡的に発見されたため、アウストゥリアス王アルフォンソ二世(七九一~八四二年)により聖堂が建設され、聖ヤコブはイベリア半島の守護聖人に祭り上げられた。
レコンキスタは、聖地エルサレムの回復を目指したエルサレム十字軍、北ヨーロッパおよびバルト海に遠征した北方十字軍とともには、十字軍と認定された。以後、サンチャゴ・デ・コンポステラはエルサレムやローマにつぐ主要な巡礼地になり、まわりには都市が発達した。巡礼の道は十字軍が進んだ道でもあり、今日では観光客の訪れる歴史街道となっている。

問(4)アラル海、ヒンドゥーク山脈、パミール高原、天山山脈に囲まれた広大な盆地は、ギリシア語でソグド人の土地という意味でソグディアナと呼ばれた。このシルクロードのちょうど中間地点に当たるソグディアナは、パミール高原に発するアム川や、天山山脈に発するシル川にはさまれ、比較的大規模なオアシスが多く、ペルシア系オアシス灌漑農耕民族のソグド人が居住し、アケメネス朝の頃から農牧生活をしながら隊商交易を営み始めた。正解はソグド人である。
ソグディアナがギリシア語であるように、アレクサンドロス大王の東方遠征でその支配下に入り、続けてギリシア人国家バクトリアに属し、その後も大月氏・クシャーン朝・ササン朝・エフタル・突厥に支配された。エフタルやウイグルなど騎馬民族は、彼らの隊商交易を保護することで大きな利益を得ていた。彼らの活動範囲は中国・インド・ビザンツ帝国に及び、中国の絹を西方に伝えたため、オアシスの道はシルクロード(絹の道)と呼ばれるようになった。ソグド人は唐では「胡人」と呼ばれ、ゾロアスター教も唐に伝えられて祆教と呼ばれた。安史の乱で知られる安禄山やその部下史思明もソグド人であり、語学に堪能であったという。ソグド語は七世紀以降中央アジアの商用共通語となり、アラム文字から発達したソグド文字はウイグル文字・モンゴル文字・満州文字のもとになった。このことでも、彼らの活動範囲が広かったことが分かる。
しかしイスラーム勢力が台頭した七~八世紀には、東西交易で栄えたソグディアナの中心都市サマルカンド(康国)もイスラーム化し、さらにトルコ系ウイグルク人南下によってトルコ化が進み、ソグディアナを含む中央アジア一帯はトルキスタンと呼ばれるようになった。

問(5) シルクロードは中国に通じる交易路の代名詞になっており、中国の南から海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路のことを「海のシルクロード」と呼ぶ。すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港から出発してインドと通商を行っており、さらにエジプトを征服したローマ帝国でも、ギリシア系エジプト人によって、季節風貿易が行われて、南インドのサータヴァーハナ朝と交易し、さらに絹を求めて中国にまで達した。五賢帝のひとりマルクス=アウレリウス=アントニヌス(大秦国王安敦、一二一~一八〇年)の使者と名乗る使節団が後漢の日南郡(現在のヴェトナム)に達したことは有名である。
陸のシルクロードはローマ帝国とササン朝など東西の大帝国の直接対決でしばしば中断されたが、海のシルクロードは中断されることがなかった。陸のシルクロードがソグド人の隊商交易で栄えたのに対して、海のシルクロードではアラブ人が交易の担い手になって広州に居留地を築き、中国の唐・宋など各王朝は市舶司を置いている。軍事国家としては弱体であった宋は、金によって都開封を陥落された靖康の変(一一二六~二七年)で南遷して以後の南宋の方がむしろ活気に溢れた。これは、海のシルクロードで早稲種の占城米(チャンパー米)が輸入されて大穀倉地帯を築くことができ、さらに茶の栽培で飲茶の習慣が生まれ、景徳鎮に代表される茶器(陶磁器)が製作されて手工業が栄え、経済的に繁栄したからである。こうして海のシルクロードは陶磁器の道になった。
南宋を倒した元も交易を推進したが、明は倭寇対策として海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めなかった。しかし靖難の役(一三九九~一四〇二年)で即位した永楽帝(在位一四〇二~二四年)は、朝貢貿易を朝廷による貿易独占と解釈し、鄭和(一三七一~一四三四年頃)の南海大遠征隊を派遣した。大遠征隊は海のシルクロードを西方に向かい、一部は東アフリカに達した。東アフリカにはイスラーム商人によって海港都市が建設され、現地の言葉にアラビア語の単語が導入されたスワヒリ語が東アフリカの共通語になった。その東アフリカの海港都市マリンディー・モンバサ・ザンジバル・キルワなどでも中国の陶磁器が取引され、南方のモノモタパ王国のジンバブエ遺跡からも中国の陶磁器が出土している。海のシルクロードはやはり陶磁器の道であった。
一六世紀には喜望峰経由でポルトガルが東方貿易に進出した。それまで東方貿易はエジプトのマムルーク朝と結んだヴェネツィアによって独占されていたが、インド西岸のディウ沖の海戦で、ヴェネツィアの支援を受けたマムルーク朝軍をポルトガルが破ると、東方貿易でのイスラーム商人の役割は急速に低下した。以後、西ヨーロッパ諸国が東インド会社を設立して東方貿易に乗り出し、ヨーロッパは博物学の時代を迎える。そのなかでも中国の白磁は憧れの的であり、ポーランド王を兼ねたザクセン選帝侯アウグスト二世(強健王、一六七〇~一七三三年)は錬金術師ベドガー(一六八二~一七一九年)に白磁の研究を命じて、今日のマイセンの基礎を築いている。

問(6) チンギス・ハン(在位一二〇六~二七年)没後、一二二九年のクリルタイ(族長会議)で、オゴタイ(在位一二二九~四一年)が大ハンに推戴された。オゴタイは、モンゴル帝国のほぼ中央にあたるカラコルムに中国風の宮殿をつくり遷都すると、耶律楚材(一一九〇~一二四四年)を重用して行政機構を整備し、また征服地の戸口調査をして新しい税制を制定した。さらに幹線道路を張り巡らした駅伝制を整備して、一日行程ごとに駅(站)を設け、使者や軍人には食料や駅馬を提供した。これが、正解(a)の站赤(ジャムチ)である。またモンゴルは早くから隊商の交通路の整備や治安維持につとめており、旅行者や商人も許可状をもっていれば、駅馬を利用できた。正解(b)は、この牌符(牌子、パイザ)である。この牌符をもっていれば、安全は確実に保証され、ハイドゥの乱(一二六六~一三〇一年)でも中央アジアを無事に通過できたという。
この問題は、ジャムチが商人にも許可されていたことを知ってもらいたい問題である。モンゴル帝国は軍事力だけの大帝国ではなかったのである。一二三四年には華北を支配する金を滅ぼし、淮水で南宋と国境を接した。陸のシルクロードを支配するモンゴル帝国と海のシルクロードを支配する南宋との直接対決である。経済大国どうしの直接対決である。いよいよフビライの南征、フラグの征西が始まる。さらに東方には黄金の国ジパングがある。元寇も間近い。

問(7)西部開拓が進むと、一八六二年には太平洋鉄道法が制定され、連邦政府の財政支援で大陸横断鉄道の建設が推進された。また同年にホームステッド法も制定されている。ホームステッド法は、米国市民権を持つ二一歳以上の者ならば、西部に五年間定住するだけで、一六〇エーカーの土地を無償で与えられるというものである。これは南北戦争(一八六一~六五年)で、南部諸州が去った議会で成立したものであり、西部を味方につけたいというリンカーン大統領ら北部の意図があったろうことが分かる。正解は南北戦争である。この問題から、出題者が大陸横断鉄道・ホームステッド法と南北戦争を結びつけて理解してほしいと考えていることが分かる。
太平洋鉄道法によって、国策会社としてユニオンパシフィック鉄道とセントラルパシフィック鉄道とが設立され、ユニオンパシフィック鉄道は中国人労働者の手で東側を、セントラルパシフィック鉄道はアイルランド労働者の手で西側を建設し、一八六九年にプロモントリー=ポイントで連結した。開通まもない一八七二年には、岩倉具視らの日本使節団も乗車している。この大陸横断鉄道の開通と、開墾した国有地の私有化を認めたホームステッド法の制定によって西部開拓が一層促進された。しかし、鉄道の開通は同時にネイティブ・アメリカンの文化を衰退させることになった。鉄道の開通は地方独自の文化・生活を衰退させるものでもある。

問(8)露土戦争(一八七七~七八年)の敗戦を理由に一八七八年にミドハト憲法が停止され、アラブ独立運動が活発化する中、オスマン帝国のアブデュルハミト二世(在位一八七六~一九〇九年)はパン=イスラーム主義を提唱し、ムスリム(イスラーム教徒)の支持を得るために、聖地メッカやメディナへ向かう巡礼のためのヒジャーズ鉄道敷設計画を発表した。正解はメッカである。ヒジャーズ鉄道は教科書範囲ではないが、問題文に「ムスリム巡礼の最終目的地」と記されているため、メッカと答えられる。これならば十分に教科書範囲である。問題文で「ムスリムの歓心を買うため」とあることから、出題者はヒジャーズ鉄道からオスマン帝国のパン=イスラーム主義を学んでほしいと考えているようだ。
ヒジャーズ鉄道は、ドイツの出資で一九〇〇年に建設が開始されているが、このとき3B政策でバグダード鉄道の建設もすすめられており、ドイツから見れば、ヒジャーズ鉄道敷設は中東進出の一環であったと考えられる。一九〇八年にダマスカスからメディナまで完成したが、メッカに達することはなく、また第一次世界大戦時にはイギリスの支援を受けたアラブ勢力に破壊された。オスマン帝国のパン=イスラーム主義に対抗して、イギリスはアラブ独立運動を支持したのである。敷設権はトルコ分割後にシリア・ヨルダン・サウジアラビアなど沿線各国に任されたが、サウジアラビアでは再建されることはなく、一部シリア・ヨルダンで運行されているだけである。

問(9) 一九一一年五月、清朝は日本の内閣制にならって責任内閣制を施行し、皇族慶親王(乾隆帝の孫、一八三六~一九一六年)を首相に内閣を発足させたが、閣僚の多くが満州人皇族・貴族(親貴内閣)であったため立憲派を大きく失望させた。さらに慶親王内閣はイギリス・フランス・ドイツ・アメリカ四か国の銀行による四国借款団からの借款を得るため、大量の外債を発行しなければならない状況にあった。そこで慶親王内閣は、幹線鉄道を国有化したうえで担保にしようと幹線鉄道国有化を宣言した。正解は、幹線鉄道国有化である。鉄道敷設権獲得が植民地支配を意味すること、そのため民族独立派が利権回収を目指したことを知ってもらいたい問題である。
この計画に中国人株主や利権回収運動を進めていた人びとは動揺した。鉄道を担保にすることは、鉄道沿線にあたる中国内陸部の植民地化を意味し、中国の利権と資源が列強に奪われることを意味したからだ。そのため漢民族によって利権回収運動が展開されていた。彼らは四川保路同志会を結成して幹線鉄道国有化反対運動を展開したが、九月に四川総督が運動を弾圧したことで運動は武装蜂起となり、四川省は内乱状態に陥った。一〇月その鎮圧を命じられた武昌(湖北省)の新軍が革命側に立つと(武昌起義)、革命は中国全土に波及して二四省のうち一四省が独立を宣言した。各省代表は南京に集まり、一九一二年一月に孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立した。これに対して清朝は北洋新軍の袁世凱に革命政府の討伐を命じたが、袁は革命政府側と交渉して清皇帝の退位と共和政の実現を引き換えに自らが臨時大総統になるという協定を結び、孫文にとってかわり臨時大総統に就任した。これが辛亥革命の第一革命である。

問(10) 第一次世界大戦の敗北で、ドイツは莫大な賠償金を請求されてマルクの価値が大戦中の一兆分の一まで下落したハイパーインフレーションに陥った。その後、インフレ収束のために一兆マルクと交換されたレンテンマルクの発行、ドーズ案による賠償金支払い方法の変更とアメリカ資本の導入などにより順調に回復していたが、一九二九年のアメリカ発の世界恐慌で再び経済が混乱して、大量の失業者が生まれた。一九三三年ナチス政権が成立すると、ヒトラーはアウトバーン(自動車専用道路)建設など公共事業を進め、失業者を大幅に減少させた。正解は、アウトバーンである。
アメリカではフランクリン=ローズベルト大統領のニューディール政策によって世界恐慌から脱したが、同じようにドイツでもヒトラーによる公共事業の推進で大恐慌を乗り越えたのである。ヒトラー政権が、ワイマール憲法のもとでも合法的に権力を掌握できたのは、世界初となる高速道路網を建設して失業者対策をし、さらに職を得た労働者が自分で稼いだお金で車を買えるように、国民車(フォルクスワーゲン)計画を提唱して、国民の歓心を買うことができたからである。この国民車が、フェルディナント・ポルシェの設計による流線型のタイプ1(ビートル)である。悲劇をくり返さないためにも、ヒトラー政権がなぜ政権を維持できたのか、真正面から考察する必要があるようだ。
第二次世界大戦が始まると、フォルクスワーゲン社は軍需生産に移行し、アウトバーンも滑走路として利用されたため連合国による激しい爆撃にあった。戦後西ドイツ地域の区間は修復され、フォルクスワーゲンもいちどイギリスの管理下で改組されうえで西ドイツ政府に移管され、戦後の西ドイツ復興に大いに貢献した。


【解答例】
問(1) スーサ
問(2) アッピア街道
問(3) サンチャゴ=デ=コンポステラ
問(4) ソグド人(ソグド商人)
問(5) 陶磁器
問(6) (a)站赤(ジャムチ)
(b)牌符・牌子(パイザ)
問(7) 南北戦争
問(8) メッカ
問(9) 幹線鉄道の国有化
問(10) アウトバーン

『東大入試で遊ぶ教養 日本史』改訂版

現在、『東大入試で遊ぶ教養 日本史編』改訂版を執筆中です。2007年・2008年の解答例と解説も付録としてつけます。改訂内容としては、単純ミスのほか、誤解を招きやすい表現も書きなします。改訂内容は以下のとおりです。

29頁5行目 (誤)だろうか。□しかし→(正)だろうか。しかし

32頁17~18行目 文字列の上の傍線を削除

63頁13~14行目
(誤)偶然ではないことがわかる。→(正)偶然ではない。

73頁6~7行目
(誤)調停者であった独裁者・頼朝→(正)調停者であった頼朝

82頁19行目(誤)板東平氏→(正)坂東平氏

111頁9行目
(誤)征西将軍・宮懐良親王→(正)征西将軍宮・懐良親王

112頁12行目 (誤)再開させる→(正)再開される

113頁10行目
(誤)琉球の中継貿易→(正)琉球による中国-東南アジア中継貿易

137頁9行目 (誤)組町-惣町→(正)惣町-組町

140頁1行目 (誤)批判され→(正)批判の声が上がり

140頁19行目
(誤)出生時につけられた→(正)出生時につけられた名を

145頁11行目 (誤)華夷変異→(正)華夷変態

170頁リード文2行目 (誤)関わらず→(正)かかわらず

189頁15行目 (誤)取っていた。→(正)取れた。

193頁4行目 (誤)退場者があって→(正)退場者もあって

208頁16行目 (誤)一九九一年→(正)一九一一年

212頁5行目 (誤)(明治二九)→(正)(明治二八)

219頁18行目
(誤)つまり、不況になれば競争力のない企業は倒産する。
(正)物価が下がれば不況になり、競争力のない企業は倒産する。

220頁2~4行目
(誤)産業合理化できるということだ。このときの浜口雄幸内閣は犠牲者が出ることをいとわず、産業合理化を断行したことになる。恩恵を受けたのは財閥だ。これでは政党と財閥が組んでいると思われても仕方ないし、実際組んでいた。
(正)産業合理化できる。浜口雄幸内閣は金本位制実施で物価が下がり、貿易も好転すると説明していたが、不況になることを見落としていた。財閥だけが恩恵を受けたのだ。これでは政党と財閥が組んでいると思われても仕方ない。

221頁16行目
(誤)輸出が伸び悩んでいたのだ。→(正)為替相場が混乱していたのだ。

234頁11行目
(誤)一八八五年(明治一五年)→(正)一八八五年(明治一八年)

250頁19行目 (誤)一~三%→(正)一~三%

『東大入試で遊ぶ教養 世界史編』改訂版

現在、『東大入試で遊ぶ教養 世界史編』改訂版を執筆中です。2007年・2008年の解答例と解説も付録としてつけます。改訂内容としては、単純ミスのほか、誤解を招きやすい表現も書きなします。改訂内容は以下のとおりです。


81~82ページ しかし、このことで教皇は続権力になった。…第4回十字軍は宗教的な情熱ではなく、商業都市国家ヴェネチアの利害を優先し、ヴェンテチアのライバルであるビザンツ商人たちの都市コンスタンティノープルを攻略したものだ。もはや教皇は俗権力に堕落したのである。

【改訂】しかし、第四回十字軍(一二〇二~〇四年)に国王たちは参加しなかった。第四回十字軍では、イェルサレムではなく当時のイスラームの中心となったアイユーブ朝の海路を目ざした。しかし参加者が少なかったことで船賃が不足したため、ヴェネツィアの意向を受けて船賃のためにハンガリーのザラを攻略した。同じカトリック国を攻撃したことで教皇から破門されるが、弁明して破門は解かれた。
ついでビザンツ帝国(東ローマ、三九五~一四五三年)の亡命皇子の依頼を受けてその首都コンスタンティノープルを攻略したが、金銭と東西教会の統一という約束が守られなかったことから再度コンスタンティノープルを攻略し、ラテン帝国(一二〇四~六一年)を建国した。このとき虐殺や掠奪が行われた。
はじめ教皇はコンスタンティノープル攻撃に怒ったが、攻略成功後には東西教会の統合を祝福している。さらに教皇はイェルサレムを目指すよう要請するが、ついに実施されなかった。教皇の威光は届かなかったのである。東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立している。


161ページ アロー戦争(1856~58、59~60年)で、清がイギリス・フランスに敗北して天津条約(1585年)を結んだことが伝えられると、アメリカの駐日総領事ハリスはこれを利用して、イギリス・フランスの脅威を説き、同じ1585年に日米修好通商条約の調印に成功し・・・

【改訂】1858年


174ページ アラービー=パシャの反乱と同時期、ナイル川上流のスーダンでは、エジプトのムハンマド=アリー朝の支配に対して、ムハンマド=アドが自らマフディーであると宣言して、聖戦(ジハード)を繰り広げていた。

【改訂】ムハンマド=アフマド。


177ページ チェコ=スロヴァキアのスデーデン地方をドイツに割譲した

【改訂】ズデーテン


211ページ ビザンツ帝国では、第一の信者であるビザンツ皇帝が教皇を兼任する皇帝教皇主義がとられた

【改訂】ビザンツ帝国では、ビザンツ皇帝が聖俗両権を持ち、東方正教会のトップに立つコンスタンティノープル総主教の任免権を持ち、事実上教会組織の首長を兼ねていた。


217ページ アタナシウス派は、①イエスは神であり、②神の子人間として神の言葉を伝え、③復活後に聖霊として教会を守護しているという三位一体説を唱えた。

【改訂】アタナシウス派は、「父なる神」と「子なるイエス・キリスト」と「復活した聖霊」の3つの尊さがみな等しく、神は固有の三つの位格でありながら、実体は同一であるという三位一体説を唱えた。


218ページ 726年ビザンツ皇帝レオ3世が製造禁止令を発令した。

【改訂】レオン3世


220ページ ムハンマドが生まれた当時、ビザンツ帝国とササン朝が激しく抗争し、東西交易の陸路が通行できなくなったため、紅海からインド洋に出る海上交易が発達した。それにともないアラビア半島沿岸の海港都市が繁栄していたそして、メッカはその中心だった

【改訂】アラビア半島が東西交易の要所として繁栄した。そしてメッカはその中心だった。


223ページ ムハンマド家の一員アッバース家のアブー=アラアッバースが、イラン人改宗者やシーア派の支持を得てウマイヤ朝を倒し、アッバース朝を建国した。

【改訂】アブー=アルアッバース


227ページ ギリシア文化の影響を受けたクシャーナ朝

【改訂】ヘレニズム文化


227ページ ギリシア文化の影響

【改訂】ギリシア人国家の影響


229ページ クシャーナ朝は、ギリシア文化の影響で大衆的な大乗仏教を誕生させ、仏教世界初の仏像をつくったので、その顔立ちと衣服はギリシアの神像に似ている


【改訂】ヘレニズム文化


239ページ カスティリャ王国が、1236年にムワヒッド朝を撃退した

【改訂】ムワッヒド朝。

『葉隠』鍋島氏と佐々木氏

『葉隠聞略』六に「鍋島家の御紋のこと」という記事がある。鍋島家の紋は、元来、目結紋であるという。
 慶長8年(1603)に、隠居後の鍋島直茂が、徳川家康のお召しにより、江戸に上ったときに、御召船の幕に四つ目結紋をつけた。そのため、直茂の隠居分を継承した小城藩の御召船や武具には四つ目結紋が付けられた。
 その後、江戸に滞在していた鍋島勝茂が松平若狭守の酒宴に招かれたとき、若狭守から「鍋島殿の御先祖は佐々木氏であると内々承っている。それならば、御紋は四つ目結のはずである。しかし今は杏葉の紋を使われているが、これはどのような理由があってのことなのか。先陣の功で敵(大友氏)の紋を手に入れたとも承っているが」と尋ねられた。
 勝茂は、「いかにも、杏葉の紋は敵から奪ったもので、佐々木氏伝来の紋は四つ目結紋でござる」と応えたという。
 鎌倉時代最後の隠岐守護佐々木清高は、鎌倉幕府に殉じて、六波羅探題北条仲時とともに近江番場で自害して、佐々木義清流の嫡流で鎌倉幕府評定衆も勤めた隠岐氏は滅亡した。しかし清高の弟信濃守秀清には四子あって、長男が隠岐守清綱であり、清綱の子清定が京都郊外の長岡に居住して長岡三郎と称したという。長岡氏は清定・清経・経定・経秀と続き、経秀が子経直とともに千葉氏を頼って肥前国に下向し、肥前国佐賀郡鍋島村に移住して鍋島と名乗ったという。
 鍋島氏ははじめ千葉氏に属したが、のちに龍造寺氏に属したという。あるとき少弐教頼が大内氏に敗れて龍造寺氏を頼り、肥前佐嘉に滞在している。このとき経直は教頼に娘を妾に差し出し、二人の間に男子ができたという。そののち応仁2年(1468)に教頼が戦死すると、経直はその男子を養育して家を譲った。これが清直であり、ここから鍋島氏は藤原氏を称するようになったという。清直はのちに経房と名乗り、少弐氏系の鍋島氏系図はこの経房を直接の先祖とする。こうして宇多源氏鍋島氏が、少弐庶流鍋島氏になったと考えられる。
 『葉隠聞略』六では、鍋島勝茂と松平若狭守の会話に続けて、少弐氏の寄掛目結紋と佐々木氏の四つ目結紋の違いについて述べ、さらに佐々木氏の正統について述べられている。
佐々木氏の正統の本家に伝わる系図は、正しい嫡子の末だという近江国のある浪人が所持していて、金泥の巻きと呼ばれているという。この人物は、浪人の身ながらも朝廷から諸大夫に任じられているようで、朽木殿・京極殿は、実は庶子の家筋だという。
 これは佐々木氏郷の事績と一致する。近江守護佐々木六角氏の子孫という氏郷は、兵部少輔・中務少輔・中務大輔を歴任した諸大夫であり、沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、後水尾院により院昇殿を許されていたという。
 一般に氏郷は学者沢田某と同一人物と考えられ、現在の偽系図作者沢田源内像が形成されているが、学者沢田某は承応年間に水戸徳川家への仕官を失敗したのちに、没している。その後も活動して元禄初年に没した氏郷とは、明らかに別人である。
 同時代の記録『京極家臣某覚書抜萃』によれば、氏郷は同じく近江守護佐々木氏の子孫である讃岐丸亀藩主京極高豊と親交があり、高豊の子息を養子に迎えている。また相国寺九九代愚渓等厚や一〇〇代住持如舟妙恕も氏郷と親交があり、とくに如舟妙恕は氏郷が著した天竜寺所蔵『夢想国師俗譜』の奥書を記している。当時の人々は氏郷を佐々木六角氏の子孫と認めていた。
 『葉隠』は伝聞ではあるものの、佐々木氏郷の生存当時を伝える資料と認められよう。

『系譜伝承論』出来ました!!

お待たせいたしました。
昨日11月27日に印刷・製本所から思文閣出版に届き、今日11月28日にわたしの自宅に届きました。先行予約していただいた皆様には、来週初めから順次発想いたします。これから注文される方にも送料無料でお送りいたしますので、メールにて連絡いただければ幸いです。
 また、『佐々木六角氏の系譜』の出版社在庫がなくなりましたが、著者の手元には僅かですが残部がありますので、こちらもメールにてお申し込みくだされば、お送りいたします。

【内容】
歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として正当な評価を受けてこなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえるという斬新な手法で、資料としての可能性を示す。さらに、系図に作為や錯誤が生み出された背景まで探求し、常識にとらわれず資料を読むことで、室町・戦国期における佐々木六角氏の果たした役割の大きさを明らかにする。 前著『佐々木六角氏の系譜』で確立した著者独自の視点から、佐々木六角氏を縦軸として室町・戦国期の諸勢力の動向を論じる。挿入系図多数。

◆定価:3,990円(税5%込)
◆初版年月:2007年11月刊行
◆判型:四六判 360頁

【もくじ】
はじめに
序論 歴史学方法論
1章 沢田源内と佐々木氏郷
2章 六角義実の研究
  1 六角四郎
  2 義久という人物
  3 義久の出家
  4 義久の贈官
  5 系譜伝承における錯誤と史実
3章 六角義秀の研究
  1 『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
  2 元服後の六角亀寿
  3 義秀に関する文書
  4 江州殿と信長の上洛
  5 元亀争乱
  6 足利義昭政権と元亀争乱
4章 六角義堯の研究
  1 六角義堯と近江武士
  2 武田勝頼と六角義堯
  3 上杉謙信と六角義堯
  4 毛利氏と六角義堯
  5 六角義堯の軍事行動
5章 六角義郷の研究
  1 義郷の母織田氏
  2 義郷と武衛義康
  3 豊臣秀次の与力大名左衛門督殿
おわりに―歴史哲学へとつづく終章
参考文献/佐々木系図/あとがき

『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』近日刊行 !!

佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)は、奥付では11月20日付発行ですが、印刷所から出版社に届くのが11月27日の予定です。見直し作業に手間取ったことと、印刷・製本所の混雑のために公刊が遅れました。予約していただいた方には御迷惑をかけましたが、いよいよ発行されます。著者に直接申し込んでいただいた方には、送料無料でお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。
【内容】
歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として正当な評価を受けてこなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえるという斬新な手法で、資料としての可能性を示す。さらに、系図に作為や錯誤が生み出された背景まで探求し、常識にとらわれず資料を読むことで、室町・戦国期における佐々木六角氏の果たした役割の大きさを明らかにする。 前著『佐々木六角氏の系譜』で確立した著者独自の視点から、佐々木六角氏を縦軸として室町・戦国期の諸勢力の動向を論じる。挿入系図多数。

◆定価:3,990円(税5%込)
◆初版年月:2007年10月刊行予定
◆判型:四六判 350頁

【もくじ】
はじめに
序論 歴史学方法論
1章 沢田源内と佐々木氏郷
2章 六角義実の研究
  1 六角四郎
  2 義久という人物
  3 義久の出家
  4 義久の贈官
  5 系譜伝承における錯誤と史実
3章 六角義秀の研究
  1 『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
  2 元服後の六角亀寿
  3 義秀に関する文書
  4 江州殿と信長の上洛
  5 元亀争乱
  6 足利義昭政権と元亀争乱
4章 六角義堯の研究
  1 六角義堯と近江武士
  2 武田勝頼と六角義堯
  3 上杉謙信と六角義堯
  4 毛利氏と六角義堯
  5 六角義堯の軍事行動
5章 六角義郷の研究
  1 義郷の母織田氏
  2 義郷と武衛義康
  3 豊臣秀次の与力大名左衛門督殿
おわりに―歴史哲学へとつづく終章
参考文献/佐々木系図/あとがき

11月京都勉強会

11月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2007年11月11日(日)
 12時半~14時半:絵画資料論『洛中洛外図』など
 14時半~16時半:『京極氏家臣某覚書抜萃』など        
【会費】
 一般:3,000円
 ※学生は割引
【会場】
 キャンパスプラザ京都 5階 演習室
 http://www.consortium.or.jp/campusplaza/guidance.html

『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』予約受付

佐々木哲『系譜伝承論―佐々木六角氏系図の研究』 (思文閣出版)が、いよいよ10月刊行されます。わたくし著者に先行予約していただいた方には、送料無料で、刊行しだいお送りいたします。希望の方はメールで連絡願います。追って、申し込み方法を連絡申し上げます。
【内容】
歴史学の進展は常識を疑うことからはじまる。これまで、作為や錯誤が多いことから歴史資料として正当な評価を受けてこなかった系図について、作為や錯誤を隠喩ととらえるという斬新な手法で、資料としての可能性を示す。さらに、系図に作為や錯誤が生み出された背景まで探求し、常識にとらわれず資料を読むことで、室町・戦国期における佐々木六角氏の果たした役割の大きさを明らかにする。 前著『佐々木六角氏の系譜』で確立した著者独自の視点から、佐々木六角氏を縦軸として室町・戦国期の諸勢力の動向を論じる。挿入系図多数。

◆定価:3,990円(税5%込)
◆初版年月:2007年10月刊行予定
◆判型:四六判 350頁

【もくじ】
はじめに
序論 歴史学方法論
1章 沢田源内と佐々木氏郷
2章 六角義実の研究
  1 六角四郎
  2 義久という人物
  3 義久の出家
  4 義久の贈官
  5 系譜伝承における錯誤と史実
3章 六角義秀の研究
  1 『お湯殿の上の日記』と六角亀寿
  2 元服後の六角亀寿
  3 義秀に関する文書
  4 江州殿と信長の上洛
  5 元亀争乱
  6 足利義昭政権と元亀争乱
4章 六角義堯の研究
  1 六角義堯と近江武士
  2 武田勝頼と六角義堯
  3 上杉謙信と六角義堯
  4 毛利氏と六角義堯
  5 六角義堯の軍事行動
5章 六角義郷の研究
  1 義郷の母織田氏
  2 義郷と武衛義康
  3 豊臣秀次の与力大名左衛門督殿
おわりに―歴史哲学へとつづく終章
参考文献/佐々木系図/あとがき

勉強会再開のお知らせ

現在、『系譜伝承論─佐々木六角氏系図の研究』(思文閣出版、2007年10月刊行予定)の再校を進めると同時に、『絵画資料論─一遍聖絵の図像学』の執筆を進めている最中ですが、勉強会を再開したいと思います。『絵画資料論』が筆了間近ですので、一般書『反信長』執筆の準備をするにあたり、みなさんとお話しするなかで、多くのヒントを得られると思ってのことです。また東大現代文の解釈も、直接お話した方が、みなさんにより多くのものが伝わるのではないかと考えています。

京都勉強会はすでにお知らせしているとおり、11月11日(日)キャンパスプラザ京都の5階演習室で開催します。

また東京勉強会は、まだ予定を立てていませんが、参加希望者のご都合を聞いてから日時と会場を決めたいと考えています。ご希望の方はメールでお知らせください。会費については、東大受験指導は5千円で、歴史講座は3千円になります。

では、みなさんとお会いできることを楽しみにしております。

7月京都勉強会

7月京都勉強会は、下記のとおり実施いたします。
【日時】
 2007年7月1日(日)
 東大現代文を読む : 13時~14時半
 >>2007年東大前期第4問「解釈学と結婚のカタチ」
 系図の読み方講座 : 15時~16時半
 >>『尊卑分脈』と佐々木系図:鎌倉期の仮称・官位   
【会費】
 3、000円
【会場】
 京都市生涯学習総合センター山科
 アスニー山科の研修室2
 http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/about/institution/yamasina/yamasina_map.html

6月東京勉強会(改訂2)

6月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。出席希望者にはあらかじめ目印をお知らせしたいので、記事コメントあるいはメールでご連絡願います。
【日時】
6月3日(日)・24日(日)
東大入試で教養講座(13:00~14:50)
①現代文講座「2007年東大現代文を読む」
②世界史講座「古代オリエント文明」「ローマ季節風貿易と仏教隆盛」
※希望者がいらっしゃれば、日本史講座も始めます。
歴史勉強会(15:00~16:50)
①『江源武鑑』批評をしながら織豊時代を語る
今回の内容:巻十「観音寺騒動」
②系図を読むための自由研究

【集合場所】
東京ウィメンズプラザ(青山)1階・グループ活動コーナー
           
東京ウィメンズプラザ
 青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/

【会費】
 5,000円

5月東京勉強会

5月東京勉強会は、下記の日程で実施いたします。
現在、少人数での勉強会ですので、参加者の皆さんの興味に合わせた勉強会にしております。出席希望者はあらかじめ記事コメントあるいはメールでご連絡願います。
【日時】
5月20日(土)13:00東京ウィメンズプラザ(青山)
 ①東大入試で教養講座
 ②歴史講座『系図の読み方1』
        『江源武鑑について』

【集合場所】
 5月20日(日):東京ウィメンズプラザ
          1階・グループ活動コーナー
           
東京ウィメンズプラザ
 青山学院大学の真向い、こどもの城・国連大学うらて。
 渋谷駅から徒歩12分、地下鉄表参道駅から徒歩7分
 都バス(渋88系統)渋谷から4分・青山学院前バス停下車徒歩2分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/

【会費】
 3,000円

観音寺城見学会

5月勉強会前日5月5日に観音寺城見学を実施します。
近江観音寺城は近江守護佐々木六角氏の本城で、戦国期最大級の山城で、鉄砲に備えて本格的な石垣も用いています。それまでの城は土塁でしたから、石垣を用いたことは画期的でした。また家臣団が集住し、おびただしい数の郭(曲輪)それぞれが家臣の屋敷になっていました。城下町石寺は、日本で最初の楽市が実施されたことで著名です。織豊期の遺構もあり、織田信長近江進出後も健在であったことが分かります。このことが六角氏当主をめぐる系図問題に一石を投じ、六角義実・義秀・義郷実在説を歴史考古学的に裏付けることになりました。このような観音寺城を見学したいと考えています。全体を探索しようとすれば数日かかりますので、今回はさっと見る程度ですが、それでも規模の大きさは分かると思います。
        
【日時】
5月5日 午後1時
【集合場所】
JR安土駅前 観光案内所付近