大きな集団では変われない

大きな集団には多くの人材がいる。しかし多くの意見があるために、どの意見にも集約されることはなく、結局は無難な意見にたどり着く。しかし時代が変化しているとき、無難な意見がもっとも危ない意見になる。これが、優秀な人材がいながら江戸幕府が倒壊していった理由である。このことは今も言えることである。

時代が大きく変わるとき、意見を集約できる小さな集団が大きく化けることになる。これが、生物進化も含めた進化の特徴である。

独裁者が生まれるとき

指導者に与えられる情報が一方的なとき、また「われわれが無知な国民を指導する」というエリート主義が強いとき、独裁政治が生まれる。社会主義の国で独裁政治が生まれたのは、このエリート主義による。反対派を無知蒙昧な抵抗勢力と断じて抹殺できるのである。

そしてその一例を、わたしたちは今まさに目撃している。

反小沢神話の崩壊(再掲)

 私が思考実験で示したとおり、民主党衆議院議員は消費税増税に反対することが正解だった。思考で重要なのは具体的な問題を解決するためにどのように行動するかである。具体的問題の解決のための行動を議論するものでなければ、思考は単なるゲームに終わる。
 そのため、思考実験では実際に民主党議員であったらどう投票するのか思考した。Twitterなどで民主党議員の生の声を聴き、その置かれている状況を分析した。そして、もし私が民主党議員であれば消費税増税反対が正解だと結論づけた。
 支持団体の圧力も考慮に入れた。たしかに争点が明確ではない場合には団体の指示通りに投票をするだろう。しかし自分の生活がかかっている場合には有権者は自分の生活を守るため投票行動をする。もし今回民主党の支持団体が、消費税増税反対派に圧力をかけたなら、むしろその団体が有権者の信用を失うだろう。破れかぶれの造反阻止は、自らの信用を失墜させる。
 マスコミの予想が外れるのは、マスコミが政策内容ではなく小沢政局で政治を語ったからである。親小沢対反小沢という構造で政局を予想したために、小沢氏に付いていく者は少ないと見積もっていた。しかし造反議員はマニフェストを守るかべきかどうかで悩み、マニフェストを守るという判断をした。それが選挙のときの約束だからである。しかも造反議員の多くは、毎週金曜日の夜に首相官邸を包囲する「原発再稼動阻止」のデモに参加している。国民はその決意を評価している。
 もちろん国民は何が何でも消費税増税に反対しているわけではない。無駄を徹底的になくして最後に消費税増税であれば納得する。造反議員の「先にやるべきことがある」という主張はまさにそういう意味であり、国民はそれを支持している。
 また、デフレのもとでの増税はデフレを進行させる。デフレ・スパイラルに陥っている現在、増税を強行すればデフレをさらに進行させる。これでは消費税増税の効果がないだけではなく、所得税や法人税の税収入は減り、税収入全体の増加は見込めない。これが反増税派の主張である。
 それにもかかわらずネット上には、いまだに「共同・朝日調査ともに『小沢新党に期待しない』多勢」(J-CASTニュース2012年6月28日12:20)という小沢政局の見方によるニュースがある。マスコミが反小沢派であることが良く分かる見出しである。

(以下、引用)
消費税率引き上げ法案の衆議院通過を受けて、共同通信社と朝日新聞社は2012年6月26、27日に全国電話世論調査を実施した。
共同通信の調査では、増税法案採決で民主党の小沢一郎元代表らが反対票を投じ造反したことに「理解できない」と答えたのは59.8%で、「理解できる」の36.1%を上回った。小沢氏らの新党結成も「期待しない」という回答が79.6%で、「期待する」はわずか15.9%だった。
朝日新聞では、小沢氏らの造反を「支持する」が29%、「支持しない」が61%。新党に「期待する」は15%、「期待しない」は78%だった。
なお、野田内閣の支持率はそれぞれ29.9%と27%、不支持率は54.3%と56%だった。
(以上、引用)

 見出しをそのまま受け取れば、たしかに小沢氏に「期待する」「支持する」者は少ない。しかし数字を良く見ると、共同通信の調査では小沢氏の反対票を「理解できる」36.1%、野田内閣の支持率は29.9%である。小沢氏の反対票を「理解できる」が、野田内閣を上回っている。朝日の調査でも、小沢氏の造反を「支持する」29%が、野田内閣の支持率27%を上回った。
 もし世界恐慌時のマクドナルド英首相が労働党を離党して挙国一致内閣を組閣したように、野田首相も自らが民主党を出て自公と挙国一致内閣を作れば、もっと支持されていただろう。小沢氏ら消費税増税反対派を残して、増税賛成派が一致団結して民主党を離党すれば、マニフェスト違反にはならずに大義名分が立つ。それができなかったのだから、マニフェストを破った者として、批判を甘んじていけなければならない。それだけマニフェストは重いものなのだ。そもそも参議院で民主党が少数与党になったのも、当時の菅首相が消費税増税を主張したからだ。しかし消費税増税反対票の受け皿がなかったため、皮肉にも消費財増税を党是とする自民党が多くの議席を獲得した。そして、今回の3党合意に至った。いま自民党も批判の対象になっているのは、参議院選挙で反民主党という投票行動を取った有権者を、3党合意という形で裏切ったからである。しかも有権者は、財政赤字が自民党政権時代に作られたことを知っている。やはり自民党は自民党に過ぎないという落胆の声が聞こえてくる。これが自民党の支持が伸びない理由である。
 消費税増税賛成に投じた議員が地元で非難され、反対した議員が地元で拍手喝采なのは当然である。しかも現在3党合意の内容が詳しく報道されるようになり、民主党執行部はマスコミからも梯子をはずされつつある。
 また、消費税増税の理由に国際金融市場での日本国債の信用が挙げられていたが、これも失敗だった。ギリシアの例を挙げれば国民が納得すると思ったのだろう。しかし、これで国際金融の投機筋に日本国債が狙われる。日本政府が日本国債の動きに敏感に反応するというメッセージを、国際金融市場に送ってしまったからである。日本国際の国内保有率はまだまだ高いのだから、国際金融市場を理由に上げる必要はなかったのである。これについてはマスコミも同罪である。日本とギリシアの違いを説明することなく、ギリシア危機で国民を煽ったからである。国債の評価を維持するために、また無駄なお金が使われることになる。とんでもないことをしてくれたものだ。財務省は責任を取れるのだろうか。
 小沢新党に「期待する」15.9%も、まだ参議院での消費税増税可決阻止の可能性のある段階での設問であり、時期尚早だろう。小沢氏の行動を支持しながらも、まだ党内に残り民主党を改革してほしいという意見もあるからである。しかも民主党が造反議員の処分に手間取り、自民党がしびれを切らして参議院の増税法案の審議を止めることすら、国民は期待していたのである。自民党執行部がしびれを切らせて審議を止めたら、自民党もまだ起死回生できる。
 実は小沢氏支持15.9%は支持率としては手堅く、十分に第三極を狙える数字である。さらに小沢氏の離党が現実になれば、小沢氏の反対票を「理解できる」36.1%、小沢氏の造反を「支持する」29%が、そのまま小沢新党に「期待する」可能性がある。だからこそ、民主党執行部は彼らをすぐには除名できなかったのである。もう小沢氏を除名しても支持率は上がらない。むしろ民主党執行部が国民の批判を受ける立場になってしまった。実際に3党合意支持は小沢氏支持を下回った。
 消費税増税を正当づけるためには、まず何にどれだけお金がかかるのか試算する必要がある。それにもかかわらず先に増税だけを決めて、社会保障制度の改革は先延ばしでは、誰が見ても増税が目的の一体改革案だと分かる。これでは国民の支持は得られない。先に社会保障制度改革であり、さらに無駄遣いの徹底究明である。
 しかも3党合意がなされたといっても消費税の使い道では3党合意には至っていない。民主党はすべて社会保障制度に使うといっているが、自民党は公共投資に10年間で200兆円、公明党は防災関係に10年間で100兆円を使うといっている。使い道が合意できていないのなら、やはり先に増税したかったという意図が見えてくる。自ら議員定数を削減できない国会に、国民は白紙委任状を出すことはできない。
 最近の政治は小沢対反小沢の政局で語られてきた。その結果はどうだろうか。マスコミも政党人も、反小沢であれば支持率が伸びると思った。その結果が3党合意である。しかし3党合意で民自公3党はともに国民の信用を失い、捨て身の造反議員が英雄となった。理は小沢氏と造反議員にあったからである。自分を守ろうとする気持ちが、判断を誤らせ自ら破滅にいたるといえる。
 非はマニフェストを守った反増税派にではなく、マニフェストを破った増税派にあり、自民党はそれに手を貸したことになる。たしかに自民党は三党合意で自らのマニフェストの達成率を高めたが、そもそも膨大な財政赤字を作ったのも、原発を推進したのも自民党であると国民は思っている。次回選挙が消費税増税と脱原発が争点となる。マニフェスト達成を訴えても意味がない選挙になりそうだ。むしろ国民の批判は民主党執行部に手を貸した自民党にも向かっている。
 私が自民党議員であれば、執行部に3党合意の失敗の責任を問うだろう。自民党は反民主党の軸にはなれずに、むしろ民自公が同じ泥舟に乗ってしまった。
 また、小沢氏に対して「増税前にやることがあるなら、なぜ今までできなかった」との批判も的外れだろう。小沢氏は陸山会事件やそれにともなう党員資格停止で、がんじがらめに縛られて身動きが取れなかったのである。そうさせたのは、ほかの政治家の不正には目をつぶり、小沢氏だけを狙い撃ちにした検察とそれを支持したマスコミであろう。そして第一審判決で敗れた検察は現在崩壊の危機にある。新しい証拠が出ないかぎり小沢氏の無罪は覆らない。小沢氏秘書を「推認」だけで有罪にしたように、小沢氏も「推認」で逆転有罪するのだろうか。
 財務省も国民を納得させるために、やらなければならないことがあった。消費税を3%にしたとき結果どれだけの増収があったのか、5%に引き上げたとき結果どれだけの増収があったのか、明らかにすることだろう。
 また消費税を導入している国の中には、食料品など生活必需品に課税していない国が多い。そこで、全商品に消費税が課税されたとしたら実質何%に相当するのか試算する必要だろう。消費税15%の国でも、全商品に課税されていたら実質9%ほどになるだろう。
 さらに消費税だけではなく、すべての税の合計を各国間で比較することも必要である。一人当たりの税負担の総額を比較するのである。国民を納得させるためには、この作業も必要である。
 そして最後に費用対効果である。北欧など高福祉の国の税負担と同じだけ税負担させるならば、日本も高福祉にしなければならない。そのためにも費用対効果をきちんと説明しなければならない。お金がいるならば、何にどれだけお金がかかるのか説明しなければならない。
 ちなみに、私は日用品への非課税には賛成しない。たとえば食料品とはいっても、生きるための最低限度のものから、高級料亭や高級フランス料理のような贅沢なものまであるからである。そうなると、何に課税して何に課税しないかで、官僚や政治家の利権構造ができ上がるからである。累進性は、高所得者に高く低所得者に低い所得税や法人税で対応できるだろう。さらに法人税も利益にかけるのではなく、会社規模や内部留保も考慮に入れたものにする必要があろう。

数字の読み方・世論調査「消費税増税と小沢新党」

 今日は、日経新聞の世論調査をもとに数字の読み方の難しさを論じてみよう。以下に示したのは日経新聞のWebニュースの記事である。私は有料の定期購読者ではないので、無料で見られる部分しか見られないが、これだけでも十分に数字の読み方について論じることができる。

日本経済新聞社とテレビ東京が22~24日に共同で実施した世論調査で、民主党の小沢一郎元代表や一部議員が消費増税関連法案に反対し、離党の構えを示していることを「理解できない」とした回答が53%に上った。「理解できる」は38%だった。社会保障と税の一体改革をめぐる民主、自民、公明の3党合意について「評価する」は36%で「評価しない」の52%を下回った(日経新聞2012年6月24日22:00電子版)

 この記事で最初に記されている数字は、小沢氏の行動に国民の理解していないことを示す数字だ。小沢一郎の行動を「理解できない」の人たちが53%にも上り、「理解できる」のはたったの38%だけだと読める。それが目的だろう。この時期の世論調査は民主党の中間派の議員たちに小沢氏に理解を示しているのは、たったの38%だから付いて行ってはいけないというメッセージになる。これが無料で見られる記事で最初に記されている理由だろう。
 つぎに付け足しで記されている数字に注目しよう。3党合意を「評価する」のは36%で、「評価しない」の52%を下回ったと淡々と伝えている。なぜ、3党合意を「評価しない」が52%に上ったと記さないのだろうか疑問である。この記し方で印象も変わる。
 しかし、ここで小沢氏の行動を「理解できる」38%と、3党合意を「評価する」36%を比較しよう。小沢氏を理解するのは38%で、民主党執行部を評価するのは36%で、小沢氏が2%勝利している。小沢氏に対するネガティブ・キャンペーンにもかかわらず、小沢氏理解の方が大きい。しかも、これらの人びとは小沢新党を支持するだろう人たちである。小沢新党ができたとしても衆議院議員50~60人程度の政党であり、これだけの支持率があれば十分に選挙を戦えるだろう。それに対して3党合意を評価している人たちは、全員が民党支持者というわけではない。自民党・公明党支持者も含まれているはずである。三党合わせて36%であある。これは深刻である。今回の3党合意では自民党のマニフェストの多くが実行されており、自民党をマニフェストで選んだ選挙民は評価しなければならない内容である。それにもかかわらず3党合わせて36%であることは、3党が支持者離れを起こしているということである。
 これは日経新聞の意図とは離れて、国民の小沢支持が大きいこと、選挙があれば小沢新党がある程度の議席を確保できることを示している。国民が政治家のスキャンダルを問題視せず、政治家の政策を評価した結果といえる。このように数字は見方によって、その評価が大きく異なる。たしかに世論調査では質問の仕方で大きく数字が変わり、求める数字を出すことができる。この場合であれば、小沢氏の行動を「理解できない」53%という数字である。しかし同時に意図しない数字も表れてしまう。これはやはり調査対象が実在する人びとであり、完全に管理下に置くことは不可能であり、必ずどこかに予想不可能な形でほころびが生じるからである。現代思想的に言えば「他者」の存在である。
 この数字をどう評価するかということも重要である。この場合では、3党合意を「評価する」36%である。日経新聞の購読者はいわゆる富裕層や知識者層で体制に順応している人たちであり、いわゆるA層と呼ばれる人たちである。それでもこのような数字が出るのは、民主党執行部や自民党・公明党には脅威であろう。

もし私が民主党衆議院議員なら(再掲)

 いま政治が面白い。国会は何でもありの状態になっているが、原子力発電問題や消費税問題で、多くの国民が政治に目覚めつつある。そこで、もし私が民主党衆議院議員ならどう行動するのか、私個人の政治的意見は抜きにして、ゲーム感覚で思考実験をしてみよう。
 もし私が民主党の衆議院議員で中間派なら、どう行動するだろうか。国民は反増税が多数である。高所得者層は、消費税が5%だろうが、10%だろうが、それほど生活には影響はない。なぜなら、所得の全部を消費に回すわけではないからだ。ところが低所得者層は貯金する余裕がなく、ほとんどは消費に回す。だから生活に消費税が重くのしかかる。現在は貧富の差が広がり、低所得者層が増えている。国民の半数以上は反増税であろう。しかも増税反対が大きな世論になりつつあるのは、「増税に反対ではないが、先にやることがあるはずだ!」という人たちも反増税になっているからだ。
 議員であれば選挙のことを考えるのは当然である。それがまた国民の意思を汲み取るということでもある。世論調査を見ると増税反対の意見が圧倒的に多い。いま内閣および党執行部が推進する増税に反対することは、党員であれば処分の対象にはなるだろう。しかし選挙を考えれば、増税賛成では当選できそうにない。三党合意は重いだろうが、国民と約束したマニフェストはもっと重い。マニフェストは単なる選挙公約ではない。予算案を作るときには先にマニフェスト実行の予算をとり、その残りをほかの予算に当てなければならないものである。その覚悟がなければ、マニフェストと名乗ってはいけない。ということで、国民に約束した以上、私は増税反対に回る。造反者と呼ばれるかもしれないが、党内できちんと議論せずに「一任」で了承されたのであれば、「民主主義の手続きが取られていない!もはや民主党と名乗ることも恥ずかしい!」と反論できる。むしろ堂々とマニフェストを守れと主張しているのだから、造反者のレッテルは勲章になる。
 支持団体から圧力がかかったらどうするだろうか。支持団体の手堅い票がなくなるのは怖いが、国民を裏切るのはもっと怖い。浮動票を無視できない。現在、支持政党なしがどんどん広がっていることは、団体票が当てにできないことを意味している。浮動票が無気力な票であれば怖くはないが、原発事故後の現在では無気力な浮動票とは侮れない。
 小泉純一郎自民党内閣の時にマーケティング調査の手法で、知識者層で内閣支持者をA層、知識者層ではない内閣支持者をB層、知識者層で内閣反対者をC層、知識者層ではない内閣反対者をD層と呼んだ。そしてB層の取り込み対策を講じた。しかし、今はこんな分類が役立たないほど国民が目覚めつつある。それだけ原発事故の衝撃は強かった。マスコミの誘導が効かなくなっていることは、世論調査の結果で分かる。首相官邸の主意を囲んだ原発再稼動反対デモでも分かる。それだけ原発事故の衝撃は強い。
 政策の争点が明確でなければ、団体の指示通りに投票するだろうが、自分の生活がかかっているとなると指示通りに投票するとは限らない。なぜなら無記名投票だからだ。自分が誰に投票したのか団体は知る由もない。しかも今回の選挙の争点は消費税と原発というとても分かりやすいものだ。自分の生活を守るために、人びとは行動し始めている。
 三党合意がなされたが、選挙の時にはどうするのだろうか。選挙の時には消費税が争点になるだろう。消費税増税賛成と反対の選挙である。自公民は政策で三党合意ができたが、選挙協力もするのだろうか。自公民どれもが増税派であり、候補者を調整しなければ共倒れになるだろう。三党合意で民主党が大きく譲歩したように、立候補者の調整でも民主党は大きく譲歩するのではないだろうか。とくに自民党は前回の総選挙で多くの大物落選者を出しており、譲歩する気はないだろう。地盤のない民主党の新人議員であれば、そんな疑念がよぎる。選挙になったときに楽観できないのは、むしろ民主党増税派である。
 それに対して増税に反対するのは、民主党造反者、みんなの党、社民党、新党大地、新党きずな、などである。それに大阪中心の維新の会や名古屋中心の減税日本など地方の動きだ。こちらなら候補者調整はないようなものだ。むしろ候補者不足であり、新人議員であっても現職であれば、まちがいなく候補者になれる。やはり反増税だ。
 民主党造反者は小沢一郎氏が率いることになろう。小沢一郎氏は一貫して「増税の前にやることがある!」と主張してブレない。そこは信用できる。では国民の小沢氏に対する評価はどうだろうか。裁判では一審で無罪を獲得した。まだ裁判は続くかもしれないが、新しい証拠が出なければ、一審の無罪が覆ることはない。そもそも証拠もないまま起訴したことが謀略だろう。そして一連の事件が謀略であることは、小沢夫人の手紙をめぐる騒動でも分かる。週刊誌に記事が掲載された時期が時期であるだけに陰謀であることは明らかだ。しかも政治家の本分は政策であり、私生活は関係ない。ヨーロッパの国民のように政治家のスキャンダルには寛容になった方がいい。そうでなければ改革をしようとする政治家ほど、既得権益によってスキャンダルで失脚させられる。選挙民にはそう説明する。
 では増税反対で財政問題は大丈夫なのだろうか。日本国債を買っているのは多くは日本国内の投資家である。最近は中国も買っているが、国内での保有率は相変わらず大きい。ここがギリシアと違うところである。スペインともイタリアとも、またアメリカとも違う。それに緊縮財政とは増税だけではない。削るところは大胆に削るのも緊縮財政である。むしろそれが本分である。これが「増税の前にすること!」である。こう主張する
 そもそも不景気のときに増税してはますます不景気になり、所得税・法人税収入も減る。なぜなら所得税は累進課税だから、所得が低ければ低いほど税率は下がり、所得税の減少に拍車がかかる。逆に景気が良くなれば、全体として所得が上昇するのだから、累進課税の効果で税率も上がり、所得税収入の増加は促進される。これまでも消費税を上げても影響がなかったのは高所得者に対する減税も同時に行なわれていたからである。今回も消費税以外の税の見直しは先送りされている。これでは消費税を上げても効果は少ないだろう。焼け石に水である。こう説明する。
 そもそも消費税だけを取り上げて、10%ならまだヨーロッパよりも低いと主張するのは横暴である。消費税・所得税・年金など全ての税金の負担率を合算した上で、比較するべきである。また消費税を欧米並みにしたいなら、サービスも欧米並みに上げるべきだ。税負担だけ先行ではおかしい。このように主張する。
 社会保障問題や雇用問題など「国民の生活第一」を掲げて国内需要を増大させることが、消費増税よりも先だと主張する。
 これで確信できた。私が民主党所属の衆議院議員なら反増税に一票で造反する。離党も怖くない。反増税・反原発で選挙も怖くない。
 いま自民党は疑心暗鬼なのではないだろうか。国会を延長し、採決を先送りするということは、民主党内の反増税派の巻き返しを許すことになりかねない。小沢氏がすぐに離党表明をしないのは、彼が切羽詰っているのではなく、巻き返しができるなら巻き返しておこうと考えているからだろう。もし民主党執行部が「小沢さんが出て行ってくれた方がすっきりする」と言っているとしたら、あまりに暢気すぎる。もはや政局は反小沢×小沢ではなく増税×反増税になっており、小沢=反増税という印象が国民のなかに浸透しつつあるからである。小沢氏が離党した方が国民は安心して反増税に投票できるのである。自民党が国会延長に反対し、早い次期の採決を求めている理由は良く分かる。

大河ドラマ『平清盛』批判について(改訂)

 大河ドラマ『平清盛』の視聴率が低いと話題になっているが、私はよくできていると思う。ドラマ初期の「高平太」の逸話はさすがに演出しすぎで見るに耐えられなかったが、回を重ねるごとに見応えがある。演出では、松山ケンイチ演じる平清盛が一本調子に見えて、これまでは中井貴一の平忠盛に魅かれ、今は井浦新の崇徳上皇と矢島健一の藤原教長の主従、玉木宏の源義朝に魅かれている。平忠盛の「左様か」という台詞が好きで、最近では「そうか」がわたしの口癖になっているほどだ。
 内容では、平清盛の実母は祇園女御本人ではなく妹であること、また平氏が偽の院宣で日宋貿易をしていたこと、さらに平忠盛・藤原宗子(池禅尼)夫妻は崇徳上皇の皇子重仁親王の乳父母であり、その嫡子である平頼盛は保元の乱で上皇側に着くことが順当であったが、母宗子に止められたことなど、研究成果や資料にもとづく内容が盛り込まれている。歴史研究者の目から見ても楽しめるものになっている。
 また、わたしは家紋の祖型である有職故実の文様に興味をもっているため、衣服や建具の模様を注意深く見ているが、きちんと有職故実にもとづいており十分に楽しむことができる。大道具や小道具を見るだけでも面白い。
 平安京の描写がほこりっぽいという批判もあったが、むしろ平安末期の平安京をよく描写していると思う。都の荒廃を描かずに平安末期を記述することは無理である。あの都の荒廃があったからこそ、時代は大きく転換していくのである。
 「王家」という言葉に関しても批判があったが、当時の天皇家をさす言葉としては決して不適切ではない。わたしも歴史研究者になる前には、「王家」という言葉に違和感をもち、「百王伝説」で百代天皇を「百王」と表現するのに違和感をもっていた。それは親王宣下を受けていない皇族男子を「○○王」と呼び、また中国皇帝から冊封される「日本国王」という称号を屈辱的と考える立場があるからである。しかし当時は上皇経験者ではない天皇も「天皇」ではなく「○○院」と記し、「天皇」という言葉が忘れ去られたように使用されない。今上天皇も「当今」と記せば十分であった。むしろ当時の感覚では「天皇」と呼称する方が不自然であろう。
 たしかに律令は生きており、院の御所に上がる院昇殿よりも、天皇の御所に上がる内昇殿の格式が高かった。内昇殿なら殿上人だが、院昇殿では正式の殿上人ではない。あらためて内昇殿を許される必要がある。そのような意味で「院」はあくまで私的なものだが、そのような私的なものが大きな意味を持ち、「家」が公的に成立してくるのが、平安後期に始まる中世の特徴である。
 氏上が叙爵を申請する氏爵は源氏も平氏も一品式部卿親王がつかさどり、賜姓皇族は広い意味での皇族であった。そのような王氏の長として天皇家があったため、広い意味で「王家」といえる。
 今回の大河ドラマはまことに通好みといえる。その視聴率が低いのは、わたしがそうであるようにインターネットで見られるNHKオンデマンドなどの多様なサービスを通している者がいるのも一因かもしれない。ワールドカップの予選と重なれば、大河ドラマは別の手段で見るという人は増えるだろう。そもそも視聴率の測定は全家庭を測定しているものではなく、母集団のごくごく一部を切り抜いたもので測定方法に問題があるといえる。つねに数%の誤差は付き物である。数%の変動で一喜一憂する必要はない。それに昼間に固定電話で集計している世論調査が当てにならないのと同じで、どのように切り抜かれた人びとを対象にしているのか問題があろう。そのような数値にもとづいて作品の良し悪しを論評しているようでは、本当にいい作品は評価できない。
 またインターネットの評価も、声の大きな者の声が、あたかも多数の意見のように見えてしまう。そのため一部の者の声であるにもかかわらず多数派の声のように思われて、多数派の意見ならばということで、みんなが深く考えないままに同調してしまう傾向にある。ランキング好きであれば、やはり同調の傾向が強いだろう。
 だから、わたしたちは評判を気にしないで自分で判断しよう。美味しいと評判の店に行ったのに「騙された!」と思うことがあるが、騙されたと思えるならまだいい。自分の舌は活きているからだ。現在は、騙されたことにも気づかないまま、「美味しい」と食べていることが多くなっているのではないだろうか。そのように思える事例である。

久留里藩主黒田家の系譜

 一般に宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏というと外様大名の筑前福岡藩主黒田家が有名だが、実は譜代大名である久留里藩主黒田家も先祖が近江出身であり、宇多源氏佐々木氏庶流黒田氏の子孫の可能性がある。
 『寛政重修諸家譜』によれば久留里藩主黒田家の家系は、戦国末期の大橘定綱(信濃守)に始まり、定綱の子広綱のとき黒田氏に改めたという。寛政譜では黒田氏を橘氏に分類しており、大橘氏は名字ではなく氏姓と分かる。家紋は木瓜であり、橘姓も名乗る浅井氏との関係を連想させる。
 尾張浅井氏は近江浅井氏と同族と伝え、また橘姓田中氏の子孫ともいう(寛政譜)。そうであれば、豊臣系大名田中吉政とも同族になる。定綱が橘氏を名乗ったのは、黒田氏の氏姓が橘氏なのではなく、京極氏没落後に浅井氏に仕えていたためとも考えられる。
 あるいは黒田氏が丹党中山氏から養子直邦を迎えて、中山氏の氏姓丹治比氏を名乗ったという黒田系図の特徴を考えると、黒田広綱の実父大橘定綱の氏姓橘氏をそのまま名乗ったとも考えられる。ひとつの家が多くの氏姓を名乗ることは多く、系譜伝承研究はよく混乱に陥る。しかし黒田氏の事例から、多くの氏姓を名乗る理由は、養子が実家の氏姓を名乗るからと考えられ、今後はそのような視点で系譜伝承を見る必要があるだろう。
 実際に旗本佐々木氏には清和源氏頼親流があるが、これも頼親流宇野氏が外家の佐々木氏を名乗った後も氏姓は清和源氏頼親流としていたためである。
 また大橘定綱の名乗りは、六角定頼の一字書出と推測できる。さらに黒田氏を名乗った定綱の子息広綱(民部・信濃守)の名乗りは、京極高広の一字書出の可能性もある。寛政譜では広綱は故あって黒田氏を名乗ったと伝えるが、子孫の旗本黒田家が「源右衛門」を通称としており、京極庶流黒田氏の名跡を継いだものと考えられる。宇多源氏黒田氏を名乗りながらも、実父定綱の橘氏を伝えたことになる。

黒田久綱の系譜
 寛政譜では広綱の子息黒田久綱(半兵衛・監物)のとき駿河今川氏に属したといい、孫光綱(蔵人・五左衛門)の生国は駿河と伝えられている。しかし曾孫直綱は慶長5年(1600)に近江で生まれ、また久綱の女婿富田一白も近江出身であり、本国は近江であったと分かる。
 久綱の名乗りは六角義久(系譜上の義実)の一字書出と考えられる。京極氏没落後、京極高慶(五郎殿、のち高吉)は六角氏一族衆になっており、久綱も当初は六角氏に仕えていたのだろう。
 寛政譜では久綱の妻は熊谷備中守直之女という。久綱の舅は熊谷備中守を名乗ることから、鎌倉幕府滅亡時の六波羅探題攻めの功で三河八名郡に所領を給付された熊谷直鎮(備中守)の子孫で、室町幕府奉公衆の近江熊谷氏(浅井郡塩津)と考えられる。その子孫熊谷直純(備中守)は足利義政に幕府財政については異見を述べたことで追放されており、その一族が三河に下向したと考えられる。久綱はこの熊谷備中守の女婿であったために、今川氏に属したという系譜伝承が生まれたのだろう。
 この備中守直之という人物は、三河熊谷氏の子孫高力氏の系図(『寛政譜』桓武平氏維将流)に見ることができない。寛政譜によれば重実のとき三河に下向して、その子兵庫入道実長は、享禄3年(1530)松平清康に宇利城を攻められて没落したという。その実長の長男兵庫頭直安は父とともに没落し、孫直次は今川氏真に仕えたという。それに対して実長の次男新三正長(直長)は三河高力郷に移住して、その子備中守重長が松平清康に仕えたという。
 久綱は熊谷氏の女婿であったために、三河と縁ができたといえよう。
 久綱の女子には富田一白室と近藤康用妻がある。子息光綱のとき徳川家康に属して、三河八名郡黒田郷に住んだという。三河黒田郷は名字の地ではないようだ。ただし、もともと三河黒田郷が所領のひとつであった可能性もある。
 光綱の妻は岡部五郎兵衛長孝女という。これは岡部五郎兵衛元信の別名長教を「長孝」と誤り伝えたものだろう。寛政譜によれば光綱は家康の奥方の番という。この奥方が築山殿を指すのか豊臣秀吉の妹朝日姫を指すのかは不明だが、女佐臣として徳川家に仕えたと分かる。久綱が今川家に属していたことを考えれば、築山殿の女佐臣と考えるのが自然であろう。
 男子のうち直定・直光・直武は早世して、末子直綱が家督を継いだ。直綱が近江で生まれたことを考えると、父光綱は今川氏真没落、あるいは築山殿・信康母子自害後に本国近江に蟄居したと考えられる。
 光綱の女子が家康女房に、子息直綱が家康小姓になることで徳川家に再仕したが、家康女房になっていた光綱女ももともとは家康の奥方に仕えていたのかもしれない。

黒田久綱の女婿富田一白
 久綱には男子光綱のほか、富田一白室と近藤康用妻の女子があった。
 富田一白(生年不詳~1599)は近江出身で、『寛政重修諸家譜』によれば隠岐佐々木泰清の三男富田義泰の子孫と伝える。出雲守護京極氏に仕えていたが、尼子経久に追われて京極氏とともに旧領近江に逃れた者の子孫という。
 また近江江辺(江部)荘下司として、富田秀貞・京極導誉を確認でき(佐々木文書)、富田氏が近江に権益を有していたことが分かる。美作守護に補任されていた秀貞は、隠岐氏が元弘の変で滅亡し、塩冶氏が南北朝期に高師直の讒言で滅亡した後には、隠岐佐々木氏の嫡流を自任し、自らの名字の地出雲国富田郷のある出雲守護職をめぐり導誉と対立して南朝に降りたこともある。江辺荘下司職が導誉に替えられたのも、そのためだろう。出雲富田郷には後に出雲尼子氏が本拠とした富田月山城がある。秀貞の子弾正少弼直貞も隠岐佐々木氏の嫡流を自任し、一時隠岐守護に補任されている。
 この富田氏は「とだ」と読み、滋賀県に多く分布する戸田氏は、近江にも権益を有していた富田氏の子孫の可能性もある。
 しかし富田一白は左近将監を名乗る以前は「平右衛門尉」と名乗り、また嫡子信高も従四位下信濃守叙任以前には平九郎を名乗っており、伊勢平氏富田進士家助(家資)の子孫とも考えられる。
 富田進士は伊賀平氏の乱を起こして伊賀守護大内惟義を破り、さらに近江甲賀郡に侵入したところ、近江守護佐々木秀義・義清父子に撃退された。ただし秀義も矢に当たり戦死している。
 富田進士の子孫である伊勢梅戸氏は、六角高頼の末子高実を養子に迎えており、一白もこの伊勢富田氏の一族であった可能性がある。彼が豊臣政権で外交担当として活躍していることを考え合わせれば、室町幕府奉公衆梅戸氏の一族と考えられよう。そうであれば、富田文書にあるように信長以前には室町幕府に仕えていたことや、また平氏ではなく佐々木氏を名乗ることも理解できる。さらに彼がのちに伊勢国安濃津城主になったことも、伊勢に縁故があったことを示していよう。
 一白は本能寺の変後に羽柴秀吉に従い、秀吉の使者として活躍し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄との和議の使者、つづく秀吉の妹・朝日姫と家康との縁組の実現を担当した。また小田原征伐のきっかけとなった名胡桃城争奪戦における北条氏直への問責、伊達政宗との奥州仕置に関する交渉にも当たった。
 一白の娘が徳川家康の家臣近藤康用の末子用勝に嫁ぎ、また嫡子信高の妻が小田原北条家臣大森左近女であることから、一白は外交交渉で相手方と縁戚を結んで信用を得ていたと考えられる。富田家はいちど断絶するが、信高の子息知儀が旗本として富田家を再興する。この知儀の母は、寛政譜によれば大森氏である。
 一白は朝鮮出兵にも参加しており、秀次事件では浅野長政が謹慎を命じられたとき五奉行の職務を代行した。
 慶長4年(1599)の隠居に先立ち伊勢安濃津に3万石、嫡男信高にも2万石が与えられたが、関が原の戦いを前にまもなく病没している。

富田一白の女婿近藤用勝
 黒田久綱のもう一人の女子が近藤康用妻だが、さらに富田一白女も、前述のように近藤康用の末子用勝(平右衛門)に嫁いでいる。近藤家は二代にわたり黒田家と縁が結ばれたことが分かる。
 近藤康用の長男秀用(1547~1631)は上野邑楽郡青柳藩主(一万五千石)、さらに遠江井伊谷藩主(一万五千石)となったが、所領を子息季用・用可・用義に分け与えたため、井伊谷藩は秀用一代で終わり、近藤家は旗本として存続している。
 また一白の女婿である末子用勝は始め徳川家康に仕え、のち紀伊頼宣に属した。近藤家は今川家旧臣であったが桶狭間の戦い後、菅沼氏とともに徳川家に仕えていた。紀伊頼宣は家康在世中ともに駿府にあったため、今川家旧臣の多くが紀伊家に仕えている。
 この用勝と一白女子の間に生まれた用綱(源右衛門)が、黒田直綱の養子になる。

黒田直綱の系譜
 『寛永諸家系図伝』によれば、黒田直綱は慶長5年(1600)に黒田光綱の子として近江に生まれ、慶長19年(1614)に徳川家康の小姓となり、大坂の陣に参戦したという。元和元年(1615)11月15日に伊豆国田方郡、相模国鎌倉郡、足柄下郡を加増されて、三河国内1000石と合わせて4000石を領し、元和元年7月従五位下信濃守となった。しかし寛永元年(1624)4月19日わずか25歳で没し、富田一白の女婿近藤用勝の六男黒田用綱(源右衛門)が養子として家督を継いだ。墓所は江戸浅草新光明寺にある。

黒田用綱の系譜
 用綱(源右衛門)は紀州藩士近藤用勝の六男として生まれた。祖母が黒田久綱女で、母は富田一白女であったため、若くして没した黒田直綱の養子となった。
 用綱は寛永元年(1624年)に家督を継ぎ、将軍徳川秀忠に拝謁する。寛文元年(1661)、徳川綱吉が上野館林に立藩したのにともない家老となり3000を給付される。このとき本知1220石は三男直綱が継承して、寄合に列した。
 用綱の長男三十郎は早世し、次男左京も早世、三男直常は父用綱が神田館に仕えたため本知を継承して直臣にとどまった。直常の妻は水野越中守忠久女である。四男直達は綱吉の側用人牧野成貞の婿養子となり牧野成時を名乗るが、若くして没している。女子ひとりが中山直張に嫁ぎ、その三男直邦を養子とした。

黒田直邦の系譜
 直邦は、寛文6年(1666)12月27日に旗本中山直張の三男として生まれ、外祖父黒田用綱の養子となり、延宝8年(1680)徳川綱吉の嫡子徳松の側近として仕えた。徳松の早世後は小納戸役や小姓を歴任。徳川綱吉に寵愛されて元禄9年(1696)には7000石に加増され、元禄13年(1700)1万石を領して大名に列する。元禄16年に常陸下館に封ぜられ、享保8年(1723年)には奏者番で寺社奉行を兼任した。享保17年3月に常陸下館から上野沼田に移封され、同年に武蔵国内で5000石を加増された。正室は柳沢吉保の養女(折井正利の娘)であった。このことでも綱吉の信任が厚かったことが分かる。享保20年(1735)3月26日、江戸で死去し、後を養嗣子の直純が継いだ。
 墓所は埼玉県飯能市の能仁寺(曹洞宗)だが、これは実家中山氏の菩提寺であり、譜代大名黒田氏は『寛政重修諸家譜』でも中山氏の出自とされ、丹治比氏に分類される。

黒田直基の系譜
 直基(1708~1721)は、旗本滝川元長の長男として生まれた。黒田直基の実家滝川氏は甲賀衆大原資征を祖とする近江出自の家系である。大原資征は、尾張で橘姓浅井政貞(信濃守)に仕えて、木全光信女を室に迎えて木全氏(紀氏)を名乗った。そののち木全征詮・忠澄・忠征と続き、忠征のとき滝川一益に仕えて滝川氏を許された。そののち法直・直政・征盛・元長と続き、元長の妻が中山直守養女(直張女)であったため、その長男直基が黒田直邦の婿養子になった。
 直基は、享保元年(1716年)に従五位下対馬守に叙任される。しかし、享保6年(1721)に早世したため、本多正矩の次男直純が直邦の婿養子となり家督を継いだ。

黒田直純の系譜
 直純は、宝永2年(1705年)4月23日に本多正矩の次男として江戸で生まれた。黒田直基が早世したため、その未亡人(直邦女)と結婚して享保6年(1721)12月に直邦の養嗣子となり、享保20年(1735)に家督を継いで上野沼田藩を襲封した。寛保2年(1742)7月に上野沼田藩から上総久留里藩へ移封され、ここに久留里藩主黒田家が成立した。翌年6月に大坂城在番、そののち奏者番となった。安永4年(1775)閏12月27日に没した(享年71)。その跡は養子直亨(直邦庶子)が継いだ。
 直純の子女には、直弘、亀次郎、長吉ら男子と、女子(多度津藩主京極高慶正室)、女子(津軽著高正室)、女子(上田義陳正室のち勝田元忠継室)、女子(三枝守富正室)、女子(杉浦正勝正室)、女子(松平信礼正室)、女子(森光嶢正室)があった。また養子には黒田直亨、養女は黒田直基の娘(本多忠栄正室)があった。このうち多度津藩主高慶の子に福岡藩主黒田治高(母側室林氏)がいる。黒田治之の末期養子に入った。福岡藩主黒田家と久留里藩主黒田家が結ばれたことになる。

黒田直亨の系譜
 享保14年(1729)黒田直邦の次男として、江戸常盤橋藩邸で生まれた。享保20年(1735)に父が死去したとき、まだ7歳と幼少で、さらに妾腹の庶子であったため、すでに養子として迎えられていた直純が家督を継いだ。しかし寛保3年(1743)11月には直純の養子に迎えられ、延享元年(1744)12月に従五位下豊前守に叙位されて、安永4年(1775)に家督を継いだ。天明4年(1784)閏1月17日に没した(享年56)。
 養子の黒田直弘(直純の長男)が家督相続を辞退したため、長男直英が家督を継承して、黒田久綱以来の黒田氏の血筋は明治維新まで伝えられた。

結び
 三河武士には近江出自の者が多い。久留里藩主黒田家もそのひとつである。これら諸家の三河移住の経緯が分かれば、近江源氏の系譜の調査も大いに進むだろう。
 また館林藩主徳川綱吉の神田館から、綱吉の将軍就任にともない幕府直臣になった者も多く、綱吉将軍就任が旧家取立ての契機となったことが分かる。
 さらに養子が実家の氏姓を名乗ることで、ひとつの家で多くの氏姓が名乗られる理由も理解できる。

2012年東大後期・総合科目Ⅲ・第2問

第二問「神仏習合」
問1「日本の基層信仰の特色」(500字[20×25]以内)
【解答例】
 神道は、日本書紀用明天皇紀で仏教と対照的に用いられた語で、その内容は多様であった。
 縄文文化の土偶はバラバラの状態で発見されるが、記紀で食物神の各部位から様々な作物の芽が出たという記述があるように、食物神の各部位をバラバラにして各所に埋めて豊作を祈ったものと考えられる。呪術的であり現世利益的といえる。また禊や祓いにも見られるように神道では浄めも重要である。さらに記紀に多くの豪族の祖先神が登場するように祖先崇拝もあり、各地に氏神を祭る神社がつくられた。
 このように神道には現世利益を説く密教や、清浄な身でなければ極楽浄土に往生できないと説く浄土教と結びつく要素があり、さらに現世の者が祖先の菩提を弔い地獄から救済するという中世仏教的な現世利益と結びつく要素もある。平安期の神仏習合によって、仏教は本格的に民衆のあいだにも広まったといえる。
 また神道では、特定の神域に供え物を捧げ、音曲歌舞で神を慰めるが、ここから田楽や盆踊り・歌舞伎などの芸能も生まれている。
 このように神道が多様な内容をもつのは、卑弥呼の「鬼道」が道教を指すという意見もあるように、神道の形成過程の日本列島には多様な人びとが住んでいたからだろう。
【解説】
 日本における基層信仰であれば、日本書紀用明天皇紀で仏教と対照される「神道」を論じればいい。ただし論じるのは基層信仰であり、律令国家の神社神道や近代日本の国家神道ではなく、民俗信仰として神道である。教科書レベルで勝負するなら、縄文文化の土偶を事例に豊作を祈る現世利益を論じることができよう。また記紀に豪族の祖先神が登場するように氏神信仰も見られ、自然物崇拝だけでなく人格神崇拝も見られる。さらに禊や祓いに見られるように浄めも重要であり、それがハレとケの文化の源流になっている。そして天の岩戸神話でも分かるように音曲歌舞で神を慰めることから、田楽や盆踊りも生まれている。踊りの語源は「男取り」と考えられるが、男根・女陰信仰の存在で性に開放的であったことも分かる。身近な信仰を思い出せばいいだろう。

問2「普遍宗教と基層宗教」(500字[20×25]以内)
【解答例】
 聖書にはキリスト生誕の日時は記されていないように、クリスマスは本来、キリストの誕生日とは無関係であった。ローマ布教やゲルマン布教の中で、ミトラ教やゲルマンの民俗宗教の冬至の祭りを取り入れたものといえる。
ローマ帝国ではキリスト教が広まる前に、ゾロアスター教から派生したミトラ教が軍人を中心に広まっていた。一二月二五日はその最大の祭りである光の祭りの日であり、ローマの古い暦の冬至の日でもあった。ミトラ教を始め古代の太陽神信仰の多くは、冬至の日を太陽神誕生の日として祝っていた。キリスト教会は、太陽の復活を願う冬至をキリストの誕生日として祝うことで、太陽信仰の人びとのあいだで広まったといえよう。
 またクリスマスは、ゲルマンの冬至の祭りとも重なる。ゲルマン人の冬至の祭りなどゲルマン的要素を取り入れながら、キリスト教はゲルマン布教にも成功したといえる。北欧でサンタクロースが妖精と結び付けられるのも、民俗信仰と関係があろう。
 これで、キリスト教が民俗信仰と妥協しながら、それらに取って代わっていく過程を理解できる。抽象性が高い普遍宗教が民間にも広まるのに必要な過程であったといえよう。
【解説】
 これも身近なところに事例を見つけられる。もともと聖書にキリスト生誕の日時が記されていないように、クリスマスは本来、キリストの誕生日とは無関係であった。ローマの古い暦の冬至やローマで広まっていたミトラ教の光の祭り、ゲルマンの民俗信仰の冬至の祭りを取り入れ、キリスト降誕祭(一二月二五日)と公現祭(一月六日)が成立した。太陽の復活とイエスの降誕を結び付けたのである。このように民俗行事を取り込むことで、キリスト教はローマ布教やゲルマン布教に成功した。謝肉祭(カーニバル)も、ゲルマンの春の到来を祝う祭りに由来するという。また、ヒンドゥー教は釈迦をヴィシュヌ神の九番目の化身として仏教を包摂したことも事例になる。さらにイスラーム教がユダヤ教徒やキリスト教を啓典の民として包摂したことや、インドのヒンドゥー教徒への寛容策も事例に挙げられよう。
 今年は世界史や日本史の知識をもとに身近な事例で論じるものであり、例年に比べるとやさしくなった印象がある。ただし、500字以内という字数では知識を並べるだけになる可能性もあり、それだけ事例の選択や視点の工夫で短く効果的にまとめる力が必要となる。

2012年東大後期・総合科目Ⅲ・第1問

第一問「政治と美術」
問1「ワイマール共和国の歴史」(500字[20×25]以内)
【解答例】
 第一次世界大戦後のドイツ革命を経て成立した共和国で、一九一九年にワイマールで開かれた国民会議でワイマール憲法を制定したため、ワイマール共和国とも呼ばれた。ワイマール憲法には生存権の保障の規定があったが、大統領の緊急命令発布権に関する規定もあった。
 初代大統領は社会民主党のエーベルトだが、共和国の最大の課題は賠償問題であり、二三年には賠償支払いが滞ったためフランスなどによるルール占領があり、ドイツは大インフレで対応した。ドーズ案で賠償支払いが緩和されるとともに多額のアメリカ資本が投入され、またレンテンマルクによりインフレが抑制され経済は安定した。さらに二六年にはシュトレーゼマン外相の努力でロカルノ条約が締結され、国際連盟にも加盟した。
 しかし国内の安定とともに保守派の勢力が伸び、二五年にヒンデンブルクが大統領に当選した。二九年の世界恐慌でアメリカ資本が撤退して、深刻な社会不安が起こり、ナチスと共産党の左右両勢力が伸び、三二年にはナチスが第一党となり、三三年ヒトラーは内閣を組織した。そして憲法四八条の大統領の緊急命令発布権に基づいて出された大統領令や授権法で、憲法は形骸化されて共和国は事実上崩壊する。
【解説】
 世界史の知識があれば解答できるが、知識の羅列は避けたい。そこで、一つの出来事の表裏に注目しながら構成する。ワイマールで開かれた国民会議で憲法を制定したため、ワイマール共和国と呼ばれている。ワイマール憲法の歴史的意義は生存権だが、共和国の歴史を考えると第四八条の大統領の緊急命令発布権の乱発で事実上その歴史を閉じる。これで共和国の始めと終りを憲法で説明できる。また共和国の歴史で重要なのは賠償問題である。賠償不払い問題によるルール占領事件、それに抵抗した天文学的インフレ、その解決を目指したドーズ案とレンテンマルクである。ドーズ案によりアメリカ資本が導入されたが、そのため世界恐慌の影響も大きく受けた。そしてシュトレーゼマンの協調外交と経済復興で安定を得るが、そのことで右派が台頭する。このように歴史的出来事の表裏を考えると、歴史を動的に叙述できよう。

問2「美術への政治的介入と利用」(500字[20×25]以内)
【解答例】
 美術の政治利用には様々な形がある。戦争を描写したものは反戦という政治利用が可能であり、さらにどこで展示されているのかによっても意味が大きく変る。一見戦争には関係ない博物館や美術館の所蔵品も、どこに所蔵・展示されるかで国力や経済力を誇示するものになるからである。大英博物館に世界各国のものが展示されているのは、その好例であろう。
 反戦争・反ナチズムと考えられているピカソの『ゲルニカ』も、場所によって意味が変る。空爆はフランコ将軍を支援するナチスドイツによるものであり、この絵画はたしかに反ナチズムの絵画といえる。しかし舞台はバスク地方であり、中央政府による少数民族弾圧を訴えた反マドリードの絵画ともいえる。
 ヴェトナム戦争末期に当時アメリカにあった『ゲルニカ』が赤いスプレーで落書きされる事件があった。さらにイラク戦争前夜のパウル米国国務長官の国連での記者会見で、背後の同じ絵柄のタピストリーがカーテンで隠された。『ゲルニカ』は反米にもなりえる。
 スペイン帰国後も、マドリードのソフィア王妃美術館とバスクのグッゲンハイム美術館とのあいだで所蔵の論争が起こっている。どこで展示されるかで解釈が変る好例といえよう。
【解説】
 もっとも書きやすい事例は戦争だが、改革時の芸術も事例に挙げられる。古代エジプトのアメンホテプ四世によるアマルナ芸術も、写実的芸術による宗教改革であり政治利用である。ルネサンスや近代革命期の作品、日本の狂歌や川柳など批評的な作品も芸術の政治利用といえる。反戦絵画やプロレタリア芸術は十分に政治利用の事例である。またピカソの『ゲルニカ』を例に、どこに展示するかで意味が変ると論じてもいい。マドリードにあれば反フランコ・反ナチスになるが、バスクにあれば反マドリードになる。このような意味の変化を論じても面白い。さらに日本では少女雑誌の表紙で有名な中原淳一が排除の対象になっており、平和時であれば何ら問題にならないものが問題にされると論じてもいい。視点を変えれば大英博物館に代表される欧米の博物館や美術館の所蔵物は戦利品であり、大英博物館と元来の所有国がその所有をめぐり争うこともある。芸術品は国力誇示の手段にもなると論じられよう。
 今年は世界史や日本史の知識をもとに身近な事例で論じるものであり、例年に比べるとやさしくなった印象がある。ただし500字以内という字数では知識を並べるだけになる可能性もあり、それだけ事例の選択や視点の工夫で短く効果的にまとめる力が必要となる。

わが家の歴史

父方の佐々木与右衛門家(隅立て四つ目結、替紋は桐紋、女紋は三つ柏)は近江守護佐々木六角氏出身で、系譜では織田信長と対抗して毛利氏に頼った源義秋(綱秋)の子源義房(綱房)に始まるという。江戸期には廻船問屋を家業とする郷士で、上方から出羽に移り、480町歩の新田を開発した。屋号は「ヤマヨ」、のれんは「蔦紋(葉桐紋)」。
 出羽に転出後、戦国大名最上義光の旧臣で『乞食大名』のモデル佐々木愛綱(鮭延典膳・越前守)の子孫大沼半左衛門家(四つ目結紋、陣幕は四つ目結と三つ星)と一族化したため、系図は混乱した。半左衛門家の大沼系図では、愛綱を佐々木与右衛門家の源義房(綱房)の実弟で養子と記す。また、鮭延愛綱を軍記物では「秀綱」とするが、系図では愛綱とする。本人の署名は「愛綱」であり、系図の「愛綱」が正しい。半左衛門家の女紋は蔦紋であり、与衛門家とは縁戚だったことが分かる。
 明治維新では大沼半左衛門家(半三郎)が酒井・伊達ら奥羽越列藩同盟に誘われ角間川の戦いで協力したが、会津戦争敗戦により伊達氏の招きで仙台に移住して仙台藩士となり、佐々木に復した。朝廷・幕府から見れば陪臣(家臣の家臣)になったことになる。
 それに対して当家佐々木与右衛門家(与三郎)は奥羽越列藩同盟に加わらず出羽仙北郡に留まり、陪臣にはならなかった。与三郎の通称は、幕末に朝廷に遠慮して衛門・兵衛を名乗らなかったことによる。

【参考系図】
足利義昭―義尋(義尊)―義房(母法晢院、室柳原氏)

同母弟実相院門跡義尊
同母弟円満院門跡常尊
異父弟聖護院門跡道晃法親王(後陽成天皇第十一皇子)
権大納言柳原資行の室(妻)の父園基音は、霊元天皇の外祖父であり、祖父基任は後光明天皇の外祖父であった。柳原家(藤原氏日野流)は園家(藤原氏持明院流)を通して後水尾天皇と重縁を結んでいた。

【補足1】聖護院諸大夫佐々木氏(もと摂津西宮郷士)聖護院門跡増賞法親王(霊元天皇皇孫)外戚の縁で諸大夫(四位・五位)に補任。近江の郷士三上氏と縁戚があり、近江出身と分かるとともに、朝廷を根拠とする郷士がいたことが分かる。

【補足2】後光明天皇(典侍庭田秀子)後継の皇位継承問題で勅勘を受けた公卿葛岡宣慶(六角義秀の外孫庭田重秀の次男)が大坂に出奔した。※六角義秀の女子が庭田重定に嫁ぎ、その間に重秀・佐々木野資敦が生まれ、さらに重秀に雅純・葛岡宣慶・田向資冬・見雲重村、雅純に雅秀・重条(初め六角)の男子があった。

【補足3】幕末に、勤王を唱えて300人を擁した佐々木六角源次大夫・織田兵庫助がいる。足利義昭の養子六角義康(左衛門督侍従)と織田信長女虎福が婚姻、その子八幡山秀綱(三郎殿)が織田秀信の養子となっているように、六角氏と織田氏は縁戚関係にある。源次大夫は文久3年3月京都守護職会津松平容保のもとに京都方浪士として参じたが、第一次長州征伐の翌年元治2年(慶応元年)1月には内裏の守護の御用と唱えて武器を用意して馬印を掲げたため、見廻組・新撰組に捕捉された。ただし、長州や天誅組との関係はないとされ、反乱とは見なされなかった。源次大夫家も大坂に住んでいた。

【補足3】足利義昭の子孫を名乗る会津藩士坂本氏(足利義昭―一色義喬―坂本義房)とは同祖か。また会津地方の六角氏は同族か。

佐々木与右衛門家は差首鍋城主沓沢氏の子孫沓沢甚兵衛家(丸に隅立て四つ目結)、東根城主坂本氏の子孫坂本藤兵衛家(片喰紋)と重縁を結び、佐々木の娘が沓沢に、沓沢の娘が坂本に、坂本の娘が佐々木に嫁いだ。姑が実家の叔母という女性には幸せな婚姻だった。私の祖父母の代まで続いたため血は濃い。
 また沓沢・坂本は醸造業も営み、沓沢の「日の丸」は明治・大正期の品評会では東北一位になったこともある。杜氏は出羽山内杜氏ではなく丹波杜氏だが、これはもとも上方の西宮・灘と関係があったからだろう。
 東京では佐々木は恵比寿、沓沢が同志社創設者新島襄から譲り受けた千駄ヶ谷、坂本が白金に邸宅を有していた。一族の坂本理一郎は衆議院議員、のち貴族院議員となる。大隈重信や犬養毅との交流があった。しかし第二次世界大戦後の農地改革で没落した。佐々木の菩提寺の住職は、出羽仙北の戦国大名である小野寺康道の子孫大森氏。

実は佐々木氏は父方の祖母の実家、祖父の実家は出羽王伝説を持つ石田氏。出羽王は応仁文明の乱で西軍に立てられた南朝皇族。石田の名字は、陸奥太守義良親王(後村上天皇)・北畠氏が在城した陸奥南朝の国司館・霊山城(福島県伊達市)に由来する。石田氏が沓沢氏の養子になる形で佐々木の娘と結婚した。
 出羽は旧南朝方が多く、鮭延氏は 上杉氏との対抗から南朝に降りて会津に転出した越後国大将佐々木加地景綱(近江守)の子孫と考えられ、家臣に越後出身で新田義宗の子孫ともされる柿崎氏がいる。陣幕に四つ目結紋と三つ星紋が交互に配されていることでも、鮭延氏が盛綱流佐々木加地氏の子孫と分かる。
 鮭延氏との交流があった出羽小国城主細川氏は、越後佐々木氏と縁戚関係のあった細川清氏流だろう。越後新発田氏は、細川清氏の弟頼和の跡を継承した佐々木長綱(盛綱流佐々木磯部氏)の子孫であり、小国城主細川氏も細川清氏の子孫の可能性がある。
 鮭延氏の祖佐々木加地景綱は、その子近江四郎氏綱が『群書類従』所収佐々木系図で道誉の嫡子近江守秀綱の子息に記されているように佐々木京極氏(四つ目結紋)と近く、観応の擾乱でも足利尊氏派であった。このとき三つ星紋から四つ目結紋へ替えたのだろう。
 さらに家臣団に馬淵氏があることから、越後没落後に出羽における近江守護佐々木六角氏領代官になった可能性がある。その縁で、近世に佐々木六角氏の子孫である与右衛門家が出羽で新田を開発し、そして移住したとも考えられる。
 差首鍋城主沓沢氏は近江出身と伝え、家紋も丸に四つ目結紋であり、「忠」の字を通字としていることから、新田方の越後守護代佐々木弥三郎忠枝の子孫である盛綱流佐々木磯部氏とも考えられる。磯部氏は、『花営三代記』康暦二年(1380)七月十七日条に紀伊で山名氏清に討ち取られた南朝方の武士として磯部雅楽助が見える。しかし沓沢氏はもともと由利十二頭のひとつで出羽国由利郡履沢城を本拠とし、さらに名字の地は信濃国佐久郡沓沢郷である。沓沢郷は南北朝期に信濃守護小笠原氏の所領であり(勝山小笠原文書所蔵永徳三年二月十二日付小笠原長基自筆譲状)、本国を離れていたことが分かる。
 由利郡地頭職は源実朝の介錯役(養育役)大弐局(父加賀美遠光、母和田義盛女)に与えられ、さらに甥大井朝光(小笠原長清七男)に譲られた(吾妻鏡)。由利十二頭の筆頭矢島氏は室町期に下向した小笠原氏(大井氏)の子孫であり、沓沢氏は大井氏とともに由利郡に下向した信濃国人と考えられ、『信濃史料』の天正七年二月上諏訪造営に関する資料に佐久郡沓沢郷代官沓沢清右衛門尉を確認できる。代官として本領にとどまる者がいたと分かる。
 「長谷堂合戦図屏風」では、鮭延秀綱に従う沓沢金兵衛の旗印が七星紋であり、信濃国人で七星紋というと滋野氏を連想できる。滋野氏は、孝謙天皇のときに駿河で発見した金を献上した駿河守楢原造東人が、勤臣の意味で伊蘇志臣を賜り、その孫尾張守家訳が延暦十七年滋野宿禰を賜り、さらに弘仁十四年家訳・貞主父子が滋野朝臣を賜ったのに始まる(仁寿二年二月紀滋野朝臣貞主卒の記事、および貞観元年十二月紀滋野朝臣貞雄卒の記事)。貞主の曽祖父東人は高名な儒学者で大学頭兼文章博士であり、貞主も仁明天皇の東宮学士になり滋野朝臣を賜り、順調に昇進して正四位下参議に至った。娘縄子は仁明天皇女御となり、また娘奥子は文徳天皇宮人となり、さらに三女直子は光孝源氏大蔵卿国紀の室となり、歌人の滋野井弁公忠をもうけた。このように天皇家や賜姓源氏と関係をもち、また貞主が系譜伝承で「貞王」と伝えられ、系譜伝承では「貞」の字を通字とした清和天皇の皇子と誤り伝えられた。さらに子善根が天安元年十一月二十七日信濃権守に(文徳天皇実録)、同二年正月十六日に信濃守に補任(文徳天皇実録)、翌年の貞観元年に宮内少輔に転任し(三大実録)、貞観十二年正月二十五日に大蔵少輔から信濃守に再任された(三大実録)。また孫恒蔭も貞観十年正月十六日に大外記から信濃介に転任しており(三大実録)、信濃国の牧監(牧の管理者)であった信濃滋野氏はこの子孫だろう。鮭延氏の家臣沓沢氏はこの滋野氏流沓沢氏の名跡を継いだ者と考えられる。実は沓沢氏が居住した平鹿郡増田町は、小笠原氏が築城しており、沓沢氏の中にはその一族あるいは旧臣であった者もあると考えられる。
 信濃滋野氏は中先代の乱で諏訪氏らとともに北条時行方に参じており、その後は時行らとともに南朝方に参じている。由利十二頭には旧南朝方寒河江氏(「挙」を通字とする大江氏)や楠木氏の子孫と推定される者もあり、沓沢氏も南朝方として出羽を転戦していたと考えられる。
 また坂本氏は羽州探題最上直家の弟天童頼直が新田氏族里見氏を継承し、その子坂本頼高が南朝方の東根城主平姓小田島氏(和田義盛養子小野中条成季の子孫)を継承したものである。天童の名乗りは南朝方の北畠天童丸に由来するとも伝えられており、室町期に最上氏と同格とされ対抗していた。天童氏の官位が左京大夫・修理大夫と高かったのも、最上氏と同格であったことを示している。この家格の高さは旧南朝勢力の懐柔策であろう。
 坂本氏には天童氏最後の当主天童頼久(頼澄)の実弟頼景(母国分氏)が養子となり、天童氏正嫡の血脈を受け継いでいる。天童・東根両城落城後に最上氏に仕えた東根景佐は頼景の重臣里見右衛門尉で、紋は剣に四つ片喰紋であり、坂本氏(片喰紋)からみれば家来筋に当たる。ところで坂本藤兵衛の通称に「藤」の字が使用されるのは、『奥羽永慶軍記』に見られるように、天童氏が藤原兼家の子孫を自ら名乗ったことに由来する。坂本藤兵衛家でも京都出身と伝えている。これも、最上氏の下風に立つのを嫌ったからだろう。
 これら旧南朝方で重婚を結んで血を守ってきた。その一方で、佐々木氏を通して近世天皇家との由緒もあった。このように私自身が後南朝の可能性があるため、後南朝を名乗る系譜を見る目は当然厳しい。基本的に小倉宮の子に「尊義王」が記されている系図は近世以降の作成であり、信憑性は低い。また落胤伝説も多いが、落胤が事実としてもそれでは正統な後継者ではない。
 沓沢氏は江戸期に造酒屋で「日の丸」を商号としたが、久保田藩主佐竹家の家紋は扇に月丸であり、日の丸は南朝由来と考えられる。

母方は公家菅原氏桑原(桒原)家庶流(丸に剣梅鉢)。桑原の「桑」の字は正しくは「又」を三つではなく「十」を三つ記す「桒」の字。また家紋「丸に剣梅鉢紋」も剣が長い長剣梅鉢ではなく、加賀前田家と同様に剣の短い幼剣梅鉢(加賀梅鉢)。雷が鳴ると「クワバラ・クワバラ」と唱えるのは、菅原道真領桑原に落雷がなかったことによる。
 ところで江戸幕府大目付桑原盛員は丸に寄梅鉢[星梅鉢]と左三巴紋を使用した。男子のなかった盛員の跡は、松前順広の三男盛倫が婿養子となり継承した。桑原盛員は後北条氏家臣桑原盛正(伊豆衆、弥九郎・九郎右衛門尉)の子孫と考えられるが、『小田原北条記』で横井・田中・関とともに鎌倉北条氏の子孫とされる。たしかに伊豆桑原郷(現函南町桑原)には北条氏によって建てられた桑原薬師堂があり、北条時政の長子宗時の墳墓もある。ここが平姓桑原氏の名字の地だろう。武蔵七党の桑原氏とは別流と考えられる。また後北条氏家臣団の伊豆衆には、平姓南条氏など得宗被官の子孫があり、関氏も得宗被官関実忠の子孫と考えられる。彼らは北条御所とも呼ばれた堀越公方家に仕えており、『小田原北条記』でもいうように伊勢盛時の子氏綱が北条と名乗るのに際して大きな役割を果たしたと考えられる。伊豆衆桑原盛正は河東の乱に際して武田方への使者となり(高白斎記)、また武田晴信の娘が後北条氏政に嫁いだ際には、遠山殿・桑原殿・松田殿が甲斐上野原に出迎えている(妙法寺記)。さらに後北条時代の川越伊豆丸城主桑原弥七郎(馬廻衆)も一族と考えられる。その子孫である幕臣桑原氏が菅原氏を名乗ったのは、クワバラ・クワバラ伝承が広く民間に浸透していたからだろう。
 母方の縁戚には萩藩主毛利氏の同族という毛利氏、武蔵七党児玉党(あるいは清和源氏新田義宗の子孫)の浅見氏などがいるが、浅見氏の縁戚には明治の歌人佐佐木信綱があるという。

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若手家研究者をめぐる現状
 現在の日本における若手研究者は自らの研究の継続が困難な状況にあります。とくに歴史や哲学などの基礎学問は、大学教育の改革における教養科目の減少とともにポストが減り、研究職への就職が困難になっています。これは、現在の文部科学省の大学改革が実学重視のものであり、受験生の減少に直面した大学も将来の展望もないままに志願者が多い分野の拡充を進めているからです。そのため専門知識は得ても就職難に直面する学生も多くいます。
 また、このような実学重視の傾向の中で、大学への官僚の天下りも多く行われています。現場を知っているという名目で天下るのです。文部科学省が進める大学改革で、官僚の天下りポストが増大しているのが現状です。それでは大学の批判精神が失われ、大学自ら既得権益になります。その結果、既得権益の利益になる研究のみ認められて、大学人が御用学者と呼ばれる現象が生じています。
 もちろん若手研究者の就職難はオーバードクターとして、以前から問題視されていきました。そのために大学教員の任期制導入なども進められています。しかし、それは若手ポストのみ任期制にするものであり、すでに終身雇用制で就職している教員のポストはそのまま終身雇用制のままです。任期制導入は骨抜きにされました。大学行政は教授会で行われますが、すでに教授会が既得権益になっているために、自らの収入を減らすような抜本的な改革は行われないのです。
 日本では奨学金制度が十分ではなく、また大学に属していなければ研究助成も受けられません。優秀な若手研究者が常勤職を得られないままに、アルバイトで研究時間を失い埋没していくことは、今後日本が研究開発立国していく上で大きな損失でしょう。
 基礎をおろそかにしては、状況が変わったときにすばやく対応はできません。あくまで現在が求めえているものは現在が求めているものであり、環境が変われば求められるものも変わります。そのような意味で基礎学問をおろそかにすれば、学問の柔軟性も失われます。とくに若手研究者が研究への道を閉ざされるならば、将来の日本の研究開発能力は下がる一方であり、頭脳さえ外国に頼る時代になるでしょう。

個人研究助成の試み
 このような状況の中、応援したいと若手研究者に研究支援できる制度があってもいいのではないでしょうか。若手研究者の育成を国や大学に任せるだけではなく、皆さんの支援で研究者を育てるという仕組みです。しかも大掛かりなものではなく、応援したい研究者に個人的に研究支援するというものです。その試みとして、当ブログで個人研究助成金を試験的に行います。
 当ブログで個人研究支援が成功すれば、若手研究者に見本を示すことができるでしょう。わたしはもう若手といえませんが、このような形で若手研究者に指針を示せればと考えております。

                記

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以上

田中・山崎・永田氏の系譜―高島七頭(4)

田中氏の系譜
 高島郡田中郷の所職は、もともと「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫が有していたと考えられる。田中入道憲家は「源行真申詞記」に登場する愛智家次(愛智秦氏か)の弟で、その子孫が山崎氏を名乗った。本佐々木氏では紀道政の一族である真野時家が船木に移住して船木氏を名乗り、さらに若狭に転出するなど、平安末には積極的に高島郡に進出していた。田中入道憲家もそのひとりだろう。その跡を継承したのが、高島七頭のひとつ田中氏である。
 高島佐々木流田中氏の初代は、出羽守頼綱の子四郎左衛門尉氏綱(出雲守)である。正応二年(1289)五月二十日付佐々木頼綱譲状にあるように、霜月騒動で使用された太刀を与えられている。この太刀は、いちど兄義綱に与えたものを父頼綱が取り戻して、あらためて氏綱に与えたものである。これは悔い返しかもしれない。さらに正応五年十二月に先の譲状に任せて横山頼信・朽木義綱・田中氏綱兄弟三人が寄合い所領を分けるよう置文を遺した。すでに弘安十年(1287)二月に朽木義綱は所領近江朽木庄・常陸本木郷を譲与されているので、そのころには本貫地高島郡田中郷を譲られていたと考えられる。
 嘉暦二年(1327)十月、田中郷山崎に住む沙弥道仏坊(右馬入道)と妻薬師女が「田中郷地頭御方八条二里一坪北縄本字郷北根田」の私領田二反を葛川明王院に寄進している(葛川明王院文書361)。文言に「田中郷地頭御方」とあるが、当時の地頭は高島七頭のひとつ田中氏である。そして翌年に田中左衛門尉雅綱が「八条二里二十五坪自北縄本字」の田一反を寄進している(葛川901)。これで氏綱の子雅綱が地頭であったと確認できる。
 さらに永徳四年(1384)二月二十一日付田中下野守頼久が木根田の二反を再寄進したが(葛川367)、同地に関する同年四月付契状で作職については松蓋寺北谷坊が所持しているとの理由で頼冬は作職を譲渡しなかった(葛川374)。この方針の変更から、頼久と頼冬は別人の可能性がある。これ以後、田中氏は葛川領に進出する。
 明応元年(1390)朽木氏綱が佐々木田中と語らい、栃生郷を横領したことが葛川文書に見える(葛川161・163・164・168・170)。応永三年(1396)六月付朽木氏綱の嫡子五郎への譲渡状(朽木434)に「朽木庄栃生郷者、田中七郎一期之間、可知行之由、契約畢」とあり、栃生郷を一期譲与することで田中氏に合力を求め、朽木氏の勢力を拡大していたと分かる。
 明徳二年(1391)九月には、田中殿が賀茂別雷社から高島郡安曇川御厨の所務を預けられた(朽木470)。この田中殿は、翌年八月に足利義満の相国寺供養に帯刀として従った佐々木田中太郎頼兼だろう(朽木646、群書類従所収相国寺供養記)。さらに正長二年(1429)三月付田中下野入道宛貞経書状(朽木685)でも、田中氏による安曇川御厨支配の継続が確認できる。
 ところが、応永二十八年(1421)佐々木田中下野守の本貫地田中郷と西万木郷が、将軍足利義持によって没収されている。その跡はそのまま京都北野社へ寄進されてしまった(筑波大学所蔵「北野天満宮へ寄進状御朱印写」、および北野社家日記延徳三年十一月十八日条)。このとき永田氏や横山氏も所領を没収されており、六角満高の近江守護職解任と関係があるかもしれない。
 さらに『満済准后日記』永享三年(1431)八月十八日条に「佐々木田中江州没落処、於越前国一党悉打進、甲斐沙汰云々」とある。田中氏が近江に没落し、越前の田中党が越前守護代甲斐将久によって討ち取られたと伝聞で伝えている。この記事で田中党が越前に進出していたことが知られるが、これで愛智流田中入道憲家の子孫山崎氏が越前にいたことも理解できよう。
 こののち長禄二年(1458)九月、田中出雲守が年貢二〇貫文を、十月に八〇貫文を北野天満宮に納入しており(北野社家日記長禄二年十月二十六日条)、田中氏が地頭代官であったことが確認できる。地頭職を失った田中氏は、代官として本貫の地に残ったのである。しかし文明六年(1474)八月、田中四郎五郎貞信(のち四郎兵衛尉)が年貢納入二千貫文余を未進し続けたことで、北野天満宮によって幕府に訴えられた(北野天満宮史料所収「神輿動座並回禄記録」)。さらに貞信は一乱を理由に田中郷および西万木を押領し続けている(北野社家日記長禄二年正月二十日および延徳三年十一月十八日条)。文明・延徳期は近江守護六角高頼が反幕府的行動をとっていた時期であり、田中氏が「一乱」を理由に六角氏と連動して押領したのであろう。明応の政変以後では、北野社関係史料から田中郷および西万木に関する記事がなくなり、田中氏による一円支配が確立したと考えられる。細川政元によるクーデタで足利義澄が将軍になると、義澄(児御所)は六角高頼の守護復帰を図っている。六角氏による守護権確立と田中氏による一円支配と期を一にする。また貞信(四郎兵衛尉)は、南御所が知行する高島郡林寺関の代官を勤め(宝鏡寺文書)、流通の拠点も押さえていた。さらに山門大講堂領高島郡河上庄にも田中氏が関わっており(朽木311:年未詳十一月十九日付朽木直親宛飯川行房書状)、田中氏の経済力が分かる。
 また永正十五年(1518)伊達稙宗の使節が上洛する際に、北近江関所十二ケ所を通過しようとしたが、七頭面々が幕府の過書を信用せず通行できなかった。伊達氏は再度申請して過書を得て、さらに十二ケ所関所庭石・駒之口に酒代二貫文を下した(大日本古文書伊達家文書八〇号)。高島衆が近江と越前を結ぶ北近江の関所を支配していたことを確認できる。
 このように田中氏は高島郡田中郷を拠点に、その周辺の西万木や河上庄まで勢力を伸ばし、さらに西の葛川と接する栃生郷、東の安曇川御厨、北の北近江関所十二ケ所など湖西の広域を支配していた。
 滋賀県高島市安曇川町田中の返照山玉泉寺開基は行基と伝えられているが、享禄年間(1528-32)に火災に遭い、仏像と一房舎を残して焼失した。天文二年(1533)年田中下野守理春が、坂本西教寺の貫主に委託して再興し、西教寺末の念仏弘通の道場となったという。名に誤伝があるだろうが、この由緒によって田中氏が在地で実力を有していたことが確認できる。
 高島七頭は室町将軍奉公衆(直臣団)であり、越中頼高の子八郎が六角政堯の猶子として近江守護に補任されることもあった。さらに佐々木越中刑部大輔孝俊や田中四郎兵衛尉頼長が足利義輝元服式でも警固を勤めており(光源院殿元服記)、越中家と田中氏がそれ相当の軍事力を動員できたことを示している。それは、そのまま高島七頭における両者の所領の大きさに比例している。このことでも、田中氏が佐々木出羽家の嫡流と分かる。

田中氏系図
出雲守氏綱(四郎)─左衛門尉雅綱─下野守頼久─頼冬─太郎頼兼
                                   (下野入道)

京極流田中氏
 志賀郡比良庄にも田中氏が見える。「足利将軍御判御教書」三(国立国会図書館所蔵貴重書解題四巻)所収寛正元年(1460)十二月三十日付足利義政御教書によれば、田中清賀が山門領志賀郡比良庄の預所職を有していた。清賀の跡は一色七郎政煕に与えられたが、その後も清賀の押領は続いた。 西島太郎氏は、この田中清賀を七頭のひとり田中氏の一族とするが、田中清賀は山徒であり、さらに実名に「賀」の字を使用することから、京極氏信の末子信濃権少僧都田中信賀(「悪僧」)の子孫佐々木京極流田中氏と考えられる。清賀の「清」の字も京極持清に由来しよう。その跡は近世まで続き、京極高知の子京極満吉(源三郎)が田中式部少輔を名乗り、また豊岡藩主京極高三の子三右衛門高友も田中を称している。すべての佐々木流田中氏を、高島七頭の田中氏とはできない。

愛智流山崎氏と高島七頭
高信の子孫は西近江に地盤を築き、嫡流の越中家(高島)をはじめ能登家(平井)・朽木・横山・田中・永田の高島一族、および本佐々木愛智流の山崎氏を含めて「高島七頭」と言い、「西佐々木」と称された。能登家と平井氏は同氏であり、西島太郎氏は山崎氏を高島七頭のひとつとしたが、卓見である。高島七頭の本拠高島郡田中郷には、愛智家次(「源行真申詞記」)の弟で「田中入道」と呼ばれた山崎憲家(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)の子孫山崎氏が開発領主として居住しており、平井村も愛智家次の子平井家政にはじまる平井氏が開発したものと考えられる。能登家も高島郡に移住した愛智流平井氏の跡を継承したものだろう。
 愛智家次は、「源行真申詞記」で佐々木庄下司として見える源行真(沙沙貴神社所蔵佐々木系図では行実)の女婿として登場する。愛智郡大領や近江掾(在庁官人)を勤めた愛智秦公の子孫と考えられる。
 嘉暦二年(1327)十月、田中郷山崎に住む沙弥道仏坊(右馬入道)と妻薬師女が「田中郷地頭御方八条二里一坪北縄本字郷北根田」の私領田二反を葛川明王院に寄進している(葛川361)。文言に「田中郷地頭御方」とあるが、当時の地頭は高島七頭のひとり田中左衛門尉雅綱であり、地頭田中雅綱も翌年に「八条二里二十五坪自北縄本字」の田一反を寄進している(葛川901)。右馬入道は地頭よりも多くの土地を寄進しており、湖西に移住して田中郷山崎を開発した愛智流山崎氏の子孫であろう。右馬入道の官途名も山崎氏の世襲官途のひとつである。
 山崎氏は、「文安年中御番帳」に「西佐々木七人」のひとり「佐々木山崎」と見える。また「大館記」(天理大学所蔵)所収「雑条」によれば、寛正二年(1461)山崎氏は近江守護代山内政綱と自らの申状二通を幕府に提出し、翌年足利義政から高島郡宮野郷返付の下知を受けた。ここで宮野郷は根本勲功の賞とされており、山崎氏の根本所領のひとつと分かる。文明三年(1471)九月十六日付で幕府は六角亀寿(高頼)ならびに山内政綱退治を六角政堯に命じ、目賀田次郎衛門・下笠美濃守・高野瀬与四郎・小河丹後守・山崎中務丞に味方になることを命じており、湖東の山崎氏を確認できる。
 また高島衆六人が幕府命令で社家代官と合力して牢人を切り出したところ、山門が神訴に及んだため管領細川勝元に口入を求めた。その高島衆六人は越中守持高・朽木信濃守貞高・永田弾正忠親綱・横山三郎高久・山崎新三郎冬能・田中四郎五郎貞信であり(朽木古文書438号)、高島衆に山崎氏の存在を確認できる。
 愛智流を含め本佐々木氏は通称に、「神」に通じる「新」の字を使用することから(源行真申詞記)、この山崎冬能も愛智流山崎氏と確認できる。この山崎新三郎冬能は、私領の田二反を朽木岩神殿(貞高)に売却した文明十年(1476)十二月十八日付田地売券(朽木古文書975)に見られる源冬能と同一人物であろう。この文書で山崎氏被官横井河入道正泉・横井河右衛門二郎秀恒・中村次郎左衛門尉祐弘を確認できる。
 『蔭凉軒日録』文明十八年(1486)七月二十七日条に「山崎新三郎殿為六角殿名代上洛」とある。この山崎新三郎が冬能あるいは子息であれば、高島衆山崎氏は六角氏にも近かったことになる。
 永禄五年(1562)十一月に将軍義輝が近江日吉神社に礼拝講を修したときに、西佐々木面々中に神馬奉納を命じたが、このときの七頭次第に「山崎三郎五郎」がみえる(御礼拝講之記)。三郎の子である五郎という仮名「三郎五郎」を名乗ることから、新三郎冬能の子孫と考えられる。
 山崎氏は北陸への交通ルートに深く関与し、田中氏とともに越前に進出したと考えられる。『満済准后日記』永享三年(1431)八月十八日条で田中氏が近江に没落し、越前の田中一党が越前守護代甲斐将久によって討ち取られたとあり、この田中一党の中に「田中入道」憲家の子孫越前山崎氏も含まれていたであろう。越前山崎氏は越前新庄保地頭であり、また『親元日記』寛正六年(1465)三月二十八日条では越前斯波四郎三郎政綿殿に宛てた将軍足利義政の返礼披露状の宛所として山崎右京亮が記録されているように、越前守護斯波氏の一門斯波殿の執政であった。戦国期の越前山崎氏は斯波氏に仕えながら朝倉方として行動したため、越前朝倉氏に仕えた赤松氏範流山崎氏と混同されることが多い。赤松流山崎氏は「長」の字を通字として肥前守・長門守を名乗る(山崎家譜)。ところが長門守吉家は実名に「家」の字を使用しており、「家」の字を通字とする佐々木流山崎氏と混同されやすく、上杉文書では近江山崎氏とされている。しかし長門守の官途名で赤松流と分かる。佐々木流越前山崎氏は「景」の字を通字とし、右京亮・中務少輔を官途名とした。近江山崎氏の官途名も右馬允(助)・中務丞(少輔)・右京亮であり、愛智郡の山崎氏の子孫である近世大名山崎家(右馬助賢家)に継承されている。
 ところで続群書類従巻百二十一武田系図で、新羅三郎義光の三男で武田氏の祖刑部三郎義清の子浅利与一義成を「江州山崎氏出自是」とするように、甲斐源氏が山崎氏に養子入りしたという系譜伝承がある。これは、本佐々木氏と縁戚関係にあり、奥州藤原清衡の後家平氏を妻とした検非違使源義成の伝承が混入したものかもしれない。義成は新羅三郎義光の長男刑部太郎義業のことで、山本・錦織氏など義光流近江源氏の祖である。どちらにしても、義光流清和源氏との関係があったことが分かる。

永田氏と六角氏
 高島郡音羽荘永田を本拠とする永田氏は、建武四年(1337)八月付鴨社祝鴨秀世重訴状に高島郡高島荘をめぐって発向された室町幕府の両使が横山三郎左衛門尉入道道光と永田四郎信氏であり(「加茂御祖皇大神宮諸国神戸記」古事類苑神祇部一、六三九頁)、翌年に守護京極高氏から軍勢催促された永田四郎も信氏であろう(朽木家古文書56~8号)。信氏の「四郎」の名乗りと「信」の字から、永田胤信の長男「原殿」三郎長綱の子孫ではなく、次男四郎貞綱の子四郎長信の子息に当たろう。
 しかし観応三年(1352)四月二日付で、山門一揆衆中に音羽庄地頭職と若狭河崎庄・越前国主計保が勲功賞として、足利義詮から宛がわれているように(永田一馬氏所蔵文書所収足利義詮下文案)、永田氏は音羽庄地頭職を維持できなかった。さらに応永二十八年(1421)六月三日付けで将軍足利義持は、高島郡内の永田上総介の所領を没収して、北野社に寄進している(法花堂記録)。この時期は田中氏や横山氏も所領を没収されており、高島衆には受難の時期であった。文明五年(1473)には永田弾正忠親綱が音羽荘地頭職をもつ山門山徒の代官になることで、本貫地に復帰できた(政所賦銘引付)。ところが、契約に背いたため文明十二年(1480)に地頭方の山徒円明坊兼澄代によって幕府政所に訴えられている。永田氏は地頭代官では満足せず、実力行使による勢力回復を目指したのだろう。
 このような中で、明応頃永田氏庶流が六角氏被官になり、湖東と湖西で所領を得て、発展の機会をつかんだ。明応三年(1494)八月十四日付で永田源次郎が愛智郡香庄の所務を六角高頼から安堵されており(醍醐寺文書所収六角氏奉行人連署奉書案)、さらに嫡子猿菊が高島郡河上庄鴨野今新田を給分として、やはり六角高頼から宛がわれている(朽木家古文書283)。六角氏被官になることで、勢力を回復したのである。しかもここで注目できるのが、永田氏が獲得した所領が愛智郡と高島郡ということである。佐々木愛智流山崎氏が愛智郡から高島郡に進出したように、愛智郡と高島郡につながりがあったことが確認できる。
 その後、円明坊は音羽荘ならびに志賀穴生人足などをめぐり同じ山徒の護正院と争い、大永二年(1521)三月二十四日付で幕府から半分知行するよう判決が下され、さらに同八年六月十一日付で幕府は護正院を全面勝訴とした(永田一馬氏文書所収室町幕府奉行人連署奉書)。そして近世には永田氏が護正院主を輩出している。護正院は志賀郡守護を勤める山門使節であり、永田氏は地頭護正院と一体化して権益を回復・維持したことが分かる。
 高島衆の永田氏惣領家は「四郎」「伊豆守」を名乗り、湖上交通を支配して六角氏からは自立しており、六角氏文書では「永田殿」と敬称された。また六角氏重臣永田備中家は仮名孫二郎が、愛智郡香庄所務を六角高頼から安堵された永田源次郎と連続しており子孫と推定できる。六角氏近臣団の一員として戦国期に急成長し、備中守高弘・備中守氏弘・刑部少輔某などが見え、六角氏式目の連署人に永田備中入道(賢弘)・永田刑部少輔(景弘)が列している。
 織田信長の近江侵攻で、刑部少輔景弘は後藤・進藤氏らとともに観音寺城にこもって信長に呼応し、以後は江州衆として織田軍の一翼を担っている。それに対して永田惣領家ら高島七頭は幕府奉公衆として独立した勢力を維持し、足利義昭政権でも奉公衆として、三好三人衆が義昭邸を襲撃した際には高島七頭が撃退している。しかし信長に対抗して没落し多くは帰農したが、永田氏は前述のように護正院主を輩出して権益を維持した。また江州衆として織田軍に編成された永田刑部少輔は相撲奉行も勤めたことが『信長公記』に見える。明智光秀の乱で没落したが、のちに徳川家に仕えて幕府旗本として存続した。
 また平高望の四男良兼に始まる尾張国長田(おさだ)庄司の家系で永田氏と名乗った家系もあり、尾張藩に仕えた永田氏はこの桓武平氏流長田氏の子孫が多いようである。永田氏と長田氏は混同されることが多く、とくに永田氏の本貫が『寛政重修諸家譜』に見られるように高島郡永田ではなく蒲生郡長田と思われ、また江戸時代には歌舞伎の演目でも佐々木盛綱・高綱兄弟が登場するほど佐々木氏は人気があったことから、長田氏の子孫も佐々木永田氏を名乗り、四つ目結紋を使用したと考えられる。このように永田氏のすべてが、必ずしも高島七頭や六角氏旧臣の永田氏とは限らない。これが系譜研究の難しいところである。

永田氏系図
胤信┬長綱(三郎左衛門)─┬有綱(三郎)
   │            └長隆(四郎)
   └貞綱(四郎)─長信(四郎)

【参考文献】
①西島太郎『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、2006年。
②小風真理子「戦国期近江における湖上ネットワーク」史学雑誌103(3)、1997年。

非AのA

よく「無AのA」の形の言葉を見聞きします。「無知の知」、「無分別の分別」、「無関係の関係」といった言葉はネットで検索するまでもなくよく使われます。「無信仰の信仰」という言葉を作って自著のタイトルにしている人もいます。ところで、この形は何を表わしているのでしょうか?逆説とか弁証法を表わしているのでしょうか?Aに入る言葉には共通性があるでしょうか?「無知の知」は、「自分が無知であることを知っている」という意味を表わし、「無分別の分別」は、「無分別を媒介した分別」を意味し、「無関係の関係」は、「無関係」という名の「関係」を意味しているように思えますが、そうなるとそれぞれ用法の違いがあるようにも思われます。「の」は「無知の知」の場合、「無知」を「知」るということで目的語的属格ですが、他の場合は別の働きをしているように思えます。さて、この「無AのA」という慣用句はどのような思考形態を表わしているのでしょうか。

という質問をいただきました。これは面白い質問だと思います。そこで、わたしは以下のように答えました。


非AのAは形式論理学を否定する立場からの発言ですから、形式論理学で考えても矛盾が生じてしまい、混迷すると思われます。御推察のとおり弁証法的な表現ですよね。それまで結びつくと思われなかったものを結びつけるというものです。そのもっとも典型的なものが、無AのA、非AのAという型でしょう。無AのA、非AのAは、ヘーゲル弁証法の正→反→合の考え方に基づくものです。

①知っているつもりが知らない。わたしはそのことを知っている。
②いったん無分別にして、そこからまた新たな分別をつくる。※「~出身の」という意味の「の」。
③無関係というのもひとつの関係のことであり、無関係という関係を結んでいる。

①から③はいずれも、①無知からはじめる知、②無分別から始める分別、③無関係から始める関係というように-A→Aという型です。共通性があると思いませんか。

以上がわたしの答えです。

言葉があるから言葉のとおりに世界があると思ってしまいますが、実は世界は無分別です。言葉のとおり分別されていると、わたしたちが思っているに過ぎません。そこから「無分別の分別」という言葉も生まれます。まれで禅問答ですが、ヘーゲル哲学は古代インドのウパニシャド哲学の影響を受けています。禅問答に似ていて当然なのです。

当ブログの参考文献の扱いについて

 当ブログでは、記事の読みやすさから注や参考文献を必要最小限にとどめています。基準は①文言を引用した場合、②独自の意見・主張である場合です。そのため資料に基づいて記している場合には、資料名は記しますが、資料を掲載・紹介しているだけの文献をひとつひとつ記すことはしません。お問い合わせがあった場合にはお答えします。
 このように独自性を基準にしているため、参考文献に挙げるものは、最初に主張した方の文献です。そうでなければ独自性のある発見者をないがしろにするからです。大学院でも教員からは最初に発見・発言した者を記すように指導されます。うっかり紹介者を記すと、これは最初の発言者ではないと注意を受けてしまいます。
 また、すでに広く知られ議論の土台となっているような事実については、参考文献を記しません。問題はどのレベルが基本レベルになるかという判断です。いつも苦しみます。著書のときは自分の意見の根拠として丁寧に記しますが、ブログですと読みやすさを重視して記しません。必要な人は問い合わせるでしょう。
 Wikipediaでは、拙著からの引用やわたし独自の主張が、注も参考文献もなく記されていることを多く見かけます。わたし独自の意見でなければ、わたしの文献を参照していても記載する必要はありませんが、わたし独自の意見を記すのであれば、わたしの主張という注を記してほしいと思います。それに、わたしの意見だと記した方が、わたしの意見に誤りがあったときに、執筆者は責任逃れできると思います。
 また逆に、議論の土台レベルの基礎の一部分において、御自分のブログの内容とわたしのブログの内容が同じだから、参考文献に挙げるようにとの問い合わせをいただくこともあります。わたしは、その方のサイトを見ていないにもかかわらずです。既出の説や資料を挙げているサイトであれば、内容が近似するのは当然です。同じ対象で同じテーマであれば、基本に忠実にまじめにやればやるほど近似するでしょう。実際に、そのようなサイトは基礎に忠実なことが多いです。しかし重要なのは議論の基礎の上に立てられる独自の意見です。それでさえ同時発見があるぐらいです。参照していないものを、参照したとはいえません。かえって嘘になります。
 もちろん独自性の高いサイトであれば、たとえそのサイトを参照していなくても紹介したいと思います。翻刻や現代語訳は独自性があると判断します。これは文献も同様です。翻刻を使用した場合には、どの翻刻か分かるように注や参考文献に記します。基本的にインターネット上の情報は、検索以外には使わないようにしています。いいサイトもあるのですが、無断転載の記事が多く、また間違いも多いからです。Wikipediaでも誤りは多いです。サイトの情報を使用する場合には、必ず裏をとりましょう。自分が火傷します。
 参考文献の取り扱いは非常に難しいのが現実です。研究書の場合でも、注がほしいところに注がなく、参考文献を知りたいところに参考文献がない場合があります。わたしは念には念を入れた方がいいと考えているので、著書執筆のときには引用・参照部分の頁まで記します。その方が自分の根拠が堅固になるからです。しかしブログだと読みやすさを重視してしまいます。コメント欄などがありますから、必要な方は問い合わせられるからです。

木地師小椋氏の系譜(4版)―清和源氏満季流と本佐々木氏

 木地師は、戦国期に近江守護佐々木六角氏の支配下にあって甲賀銀山の開発を担っていた。その木地師の統括者であった小椋氏が、鎌倉幕府草創期には近江守護佐々木氏の郎党であったことが、九条兼実の日記『玉葉』や鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』で分かる。
 建久二年(1191)四月近江守護佐々木定綱と山門が抗争した。前年近江に大水害があり、多くの荘園が年貢未進となり困窮した山門僧兵による暴力事件が多発した。佐々木庄も同様で、日頃から佐々木庄を千僧供料と主張していた山門僧兵は激昂し、日吉社僧を佐々木庄に乱入させた。定綱が京官(蔵人尉)で留守だったため次男左兵衛尉定重が防戦、日吉社僧を刃傷し、さらに過って日吉社の神鏡を破損した。怒った山門僧兵が蜂起して朝廷・幕府に定綱父子の身柄引き渡しを求めた。摂政九条兼実も山門の非道に憤慨したが、定綱父子の配流で決着した。定綱は薩摩、長男広綱(左兵衛尉)は隠岐、次男定重(左兵衛尉)は対馬、三男定高(小三郎)は土佐に配流、郎等堀池八郎実員・井伊六郎真綱・岸本十郎遠綱・源七真延・源太三郎遠定は禁獄となった(『玉葉』『吾妻鏡』)。それでも収まらない山門僧兵は、五月二十日配流途中の定重を捕らえて近江唐崎で殺害した(『吾妻鏡』)。
 この禁獄となった郎党のうち、堀池八郎実員は続群書類従三上系図(清和源氏義綱流)に「三上八郎実員」とある三上氏、井伊六郎真綱は佐々木庄下司源行真(宇多源氏)の末子井六郎実綱、そして岸下十郎遠綱が『尊卑分脈』清和源氏満季流小椋氏に岸下十郎重綱とある小椋氏の祖である。源七真延・源太三郎遠定も岸下遠綱に続き、しかも名字が記されないことから岸下氏と考えられる。遠定は遠綱の父高屋定遠であり、源七真延は遠綱の別名「平井七郎」と関係があろう。
 慶長八年(1603)に作成された池田輝政家臣平井源八家系図によれば、源七真延は遠綱の実兄であるという。同系図では源七真延は「真綱」とも伝えられているが、井伊六郎真綱の孫が平井氏を名乗ったからだろう。

岸下系図
      ┌真延(源七)
 ┌定遠┴遠綱─景綱(修明門院判官代)
 └景遠(九条院判官代)

 近江守護定綱の郎党岸下定遠・遠綱父子の弟景遠(森氏祖)は九条院判官代だが、九条院は近衛天皇中宮藤原呈子(関白藤原忠通養女・太政大臣藤原伊通実娘)である。これで、定綱の父源三秀義の前身が近衛天皇蔵人源資長(宇多源氏宮内卿有賢三男、母平忠盛娘)であり、源為義の女婿である秀義が保元の乱で後白河天皇・関白忠通方であった理由が分かる。定綱が新田義重の女婿になったのも、義重が同じく九条院判官代だからだろう。
 判官代は女院領の管理を担当したが、遠綱の長男景綱も承明門院判官代を勤めた。承明門院は後鳥羽院の乳母であり、定綱が後鳥羽院蔵人として元服奉行を勤めたことと関係があろう。定綱が女院判官代を郎党にできる格式であったことも確認できる。
 小椋氏は、その祖岸下遠綱(本名重綱)が当時愛智郡岸下庄を名字の地とし、帰国後に大国・栗田・御園庄を得て、大国庄平井に居住して「平井七郎」を名乗った。源七真延の跡を継承して惣領「七郎」となったのだろう。また平井の名字は、愛智秦公の子孫平井家次の名跡を継承したものだろう。平井家次の外戚井伊六郎真綱が、遠綱の兄七郎真延の本名として平井源八家系図に伝わることからも、小椋氏と愛智秦氏の関係を推定できる。小椋氏とともに木地師を統括した大蔵氏も、秦大蔵忌寸の子孫であろう。
 愛智(依知)秦公が最初に文字資料に見えるのは、『日本書紀』孝徳天皇大化元年九月戊辰(三日)・丁丑(十二日)条の「朴市秦造田来津」である。この記事は、古人大兄王の謀反に加担したというものだが、秦田来津は処罰されることはなく、むしろ直後に百済救援の将軍として百済軍参謀となり、白村江の戦いで戦死を遂げている。古人大兄王事件では中大兄王と通じていて、古人大兄王に謀反を勧める役回りを演じたのだろう。
 田来津は秦河勝と同様に姓は造であり同族と考えられ、天智天皇(中大兄王)の近江大津宮遷都は、この愛智秦公の支援を期待したものと考えられる。近江佐々木山(繖山)の観音正寺が聖徳太子の創建とされるのも、佐々貴山公が、聖徳太子(厩戸王)の側近秦河勝の一族愛智秦公と縁戚関係にあったからだろう。佐々貴山公の祖は、雄略天皇の即位を軍事的に支援した狭狭城山君韓帒だが、その名は韓半島の冠を身に着けているものであり、海人族として韓半島と倭を行き来していたと考えられ、実際に沙沙貴神社では、秦氏も祭る渡来神少彦名命が佐々貴山公の祖大彦命とともに祭神となっている。また平安中期に佐々貴山公興恒の後任の近江追捕使に補任されたのは、渡来系大友漢人の出身大友兼平であり、承平二年(932)正月二十一日付田券(東寺百合文書)に、蒲生郡郡老佐々貴山公房雄、郡司佐々貴岑雄とともに名の見える擬大領大友馬飼の子孫と考えられる。佐々貴山公は渡来系氏族と関係が深い。
 秦氏は秦韓(新羅)出身の機織技術を持つ渡来人だが、秦韓の人びとは秦と同じ言葉を話していたともいわれ、また秦皇室と同姓の豪族が河南地方には多く分布していた。
 さらに古代中国神話で秦が機織技術と関係があったことが分かる。秦の始皇帝の子孫という系譜は信じられなくても、秦皇室と同姓であった可能性は高い。しかも「愛智」にもともと「朴市」の字が当てられていたように新羅王家朴氏と愛智秦公は関係があろう。中国長江流域の越の子孫が越智(おち)を名乗ったように、朴氏の子孫が朴市(えち)を名乗ったと考えられる。
 また秦皇室は鳥を宗教的象徴としていたが、新羅王家も卵生伝説をもつように鳥を宗教的象徴としていた。新羅王家には朴・昔・金氏があったが、とくに昔氏は鵲(かささぎ)、金氏は金鶏を始祖伝説の象徴にしている。しかも昔氏の初代脱解は倭人であり、多婆那国の王子で、母は女人国(邪馬台国か)の王女であったという。弥生人の甕棺は卵生を連想させるものであり、また少彦名命は鷦鷯(ささき)の羽を着ていたように、鳥を宗教的象徴とする人びとの祭神であった。但馬には佐々貴山公に由緒のある佐々伎神社があり、雀部(ささきべ)氏が分布していたように丹波・丹後・但馬も拠点のひとつだった。佐々貴山公や雀部臣・雀部連など広義のササキ氏と新羅王家昔氏は関係があった可能性がある。そうであれば、愛智秦公と佐々貴山公の関係が見えてくる。新羅王家の朴氏と昔氏という関係である。
 伊賀敢国神社の祭神が大彦命と少彦名命であるように、大彦命の子孫阿倍氏と結びついた秦氏は少彦名命を祭神にしているが、少彦名命は大彦命の弟少名彦建猪心命と同一人物と考えられ、大彦命と少名彦建猪心命の兄弟が出雲神話の大己貴尊と少彦名命のモデルと考えられる。出雲の祖神スサノヲ尊はまず新羅に天降ったと伝えられており、これが大彦命の子孫が日本海側に多く分布し、秦氏と関係が深い理由であろう。
 沙沙貴神社も大彦命と少彦名命を祭神としており、佐々貴山公と愛智秦公は関係が深く、佐々貴山公の本拠佐々木山に聖徳太子由緒の観音正寺があり、佐々木山の別名も機織集団にふさわしく繖山(きぬがさやま)である。箕作山は神農氏箕子と関係があろう。
 ところで遠綱とともに佐々木定綱郎党であった堀池実員は、三上氏(三上祝)の出身と考えられるが、三上氏と愛智秦公の縁戚関係は、続群書類従三上系図に山崎氏(愛智秦公)が記されていることで分かる。愛智秦公では平井家次(愛智秦公)が木村道澄(紀氏)とともに佐々木庄下司源行真の女婿であるように、本佐々木氏の閨閥であった。このことで、近江守護佐々木氏(宇多源氏時中流佐々木野家)入部以前の本佐々木氏には、佐々木庄下司源姓佐々木氏(宇多源氏扶義流)、蒲生郡大領佐々貴山公の子孫紀姓木村氏、神崎郡大領佐々貴山公の子孫伊庭氏のほか、愛智秦公の子孫平井・楢崎・山崎氏や、三上祝の子孫三上氏など佐々貴山公の閨閥である広義の本佐々木氏もあり、由緒を求め満季流や義綱流の清和源氏を名乗った。

     ┌道政(木村、佐々木宮神主)
紀貞道┼貞政┬景政─家政(鯰江庄下司)
     └道澄└建部入道西蓮
       ┃
     ┌女子        ┌家員(平井)
     ├守真(井)─家実┴家職(一井)
源行真┼宗真(伊庭)
     ├行正(三上)源為義郎党
     ├真綱(井六郎)─頼応─定光(伊庭)
     └女子
       ┃
   ┌秦家次(平井)
   └田中入道憲家(楢崎・山崎)

 源氏を名乗るというと、まったく関係もないのに仮冒したと思われるが、古代豪族が源氏の婿養子や猶子になることで一族化するのであり、その例が佐々木庄下司源氏と紀・秦両氏の関係である。
 また近江守護佐々木泰綱(定綱の孫)が紀氏の養子になることで愛智郡鯰江庄下司職を得ているように(春日社文書)、宇多源氏佐々木氏は積極的に古代豪族の子孫の養子になっている。この紀氏は『源行真申詞記』に登場する紀道正(道政)の弟貞政の子孫で、本姓は佐々貴山公と考えられ、さらに一族に建部入道西蓮もあって、建部氏(建部君)も一族化していたことが分かる。

小倉氏と小椋氏
 小倉氏と小椋氏は本来ともに小椋氏であるが、一般に前者が清和源氏満季流で、後者が木地師と考えられている。
 清和源氏満季流は、左大臣源高明の長男左兵衛佐忠賢の子蔵人致公が、父忠賢の出家で清和源氏満季の猶子になったものであり、本来は醍醐源氏といえる。
 また大岩日記など木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。しかし惟喬(コレタカ)は忠賢(タダカタ)の訓の誤りで、系譜上の祖である左大臣高明・忠賢父子を、伝承過程で、近江志賀郡小野に一時隠棲した小野宮惟喬親王と混同したと考えられる。
 左大臣源高明は醍醐天皇の皇子であり、安和の変で大宰権帥に左遷させられ、子忠賢も出家している。佐々貴山公は田券を売却するなど、源高明の母方嵯峨源氏と関係を持つ。
 ところで、滋賀県愛智郡小椋庄では、近世後期に神祇伯白川家(花山源氏)が管理する君ケ畑の大皇器地祖神社(白雲山小野宮大皇器地祖大明神)と、神祇大副吉田家(卜部氏)が管理する蛭谷の筒井正八幡宮があり、ともに惟喬親王を祀る木地師の氏神であると宣伝した。これは、全国の木地師を氏子として管理することで権益を得ようとするもので、白川・吉田両家は各地に散った木地師を探し出して強制的に氏子に登録する氏子狩を行なった。この氏子狩を統括したのが、藤原姓小椋氏の子孫を名乗る大岩氏である。
 小椋氏は近江守護佐々木六角氏重臣小倉氏(源姓)に遠慮して大岩氏を名乗ったと大岩日記は伝えるが、小倉氏に対して大岩氏を名乗ったのでは謙遜にはならない。「小」の字に対して「大」の字を使っており、むしろ尊大である。大岩氏の名乗りは甲賀銀山開発や巨岩信仰と関係があろう。
 では、小椋氏の系譜伝承ではなぜ藤原氏で梅鉢紋とされるのだろうか。実は六角満綱流小倉氏は、満綱の子備中守高久が藤原姓三井氏の女婿となり尚昌―義堯―定秀―定春と続いた鯰江氏のことである。また梅鉢紋は、鯰江定秀の実父が菅原氏五条為学であることに由来しよう。小倉氏を藤原氏で梅鉢紋とする大岩日記の記述は、この鯰江氏の系譜伝承の断片を伝えたものといえる。
 三井氏は日牟礼八幡宮神職で近江守護代である目賀田氏の一族であり、和邇臣の子孫一井氏に養子入りした源家職(佐々木庄下司源守真の子井源太家実の三男)の子孫である。南北朝期の目賀田信職とは「職」の字が通字である。三井氏は蒲生郡を拠点としており、志賀郡三井郷ではなく、水を管理した家職の実家源姓井氏に由来しよう。日牟礼八幡宮は藤原不比等に由緒を持つため、神職目賀田・三井両氏は藤原氏を名乗ったが、家職が養子入りしたため源氏とも名乗った。三井氏は、備中守高久の子出羽守実忠が継承し、新太郎安隆―石見守時高と続いている。
 鯰江氏は三井高久の次男久政(尚昌)が「政」「貞」の字を通字とする鯰江庄下司紀氏を継承して鯰江城主となったもので、清和源氏満季流小倉・森両氏を名乗った。惟喬親王伝承は、山君である佐々貴山公の直系紀氏、源高明の系譜を持つ源姓小椋氏によって木地師職能伝説へと変化したと考えられる。

大連立構想を笑う―まさに啓蒙の野蛮化

 西岡武夫参院議長は6月6日の記者会見で、赤字国債発行のための特例公債法案の成立と引き換えによる内閣総辞職を求めた(産経新聞2011.6.6 16:13)。
 西岡氏の言うとおり、菅直人首相の存在が震災対応を遅らせたのであり、今現在も原発事故収束にめどが立たないのである。
 また菅首相と鳩山由紀夫前首相が交わした覚書3項目が、①民主党を壊さないこと、②自民党政権に逆戻りさせないこと、③東日本大震災後の復興や被災者救済とあり、国難の中でも自分の党が大切で、大震災が三番目となっていることを、西岡氏は糾弾している。
 だからこそ、この時期での内閣不信任案であったが、マスコミの発言はどうであったろうか。被災民の「今は選挙どころではない」との言葉を繰り返して、内閣不信任案をつぶそうとした。菅内閣のままでは実質上の政治的空白が生じるからこその内閣不信任であった。そして内閣不信任案が否決されたことで、反省のない現執行部による大連立構想発言で新たな政局が始まり、復興が脇におしやられてしまった。マスコミの罪は重い。
 さらに西岡氏は、民主党の岡田克也幹事長や枝野幸男官房長官らが首相の退陣時期や退陣後の自民党との大連立をめぐって発言していることに対して、政府高官や与党幹事長は菅首相と共同正犯であることを指摘している。西岡氏の発言のとおり、自民党との大連立に菅首相との共犯者である現執行部は参加すべきではない。選挙で敗戦が続いているにもかかわらず責任を取らない党執行部は、真っ先に糾弾される存在である。自らは責任を取らないであれば、党員を除籍や党員資格停止などの処分を下せないはずである。菅首相の退陣とともに辞職しなければならない。
 このような無責任な現執行部と大連立を組むのであれば、自民党の復活の芽はないだろう。自民党内からの批判が出て、自民党も混乱していくに違いない。
 現在の大連立構想は、東日本大震災に事寄せた増税のためのものであり、いちど総選挙で国民の審判を仰いだ後でなければ認められない。同じく東日本大震災に事寄せるならば、既得権益をつぶす行政改革であろう。復興のためという大義名分があれば、既得権益を持つ者も従わざるを得ないだろう。それが政治判断である。既得権益の利益を優先していては、政治判断とはいえない。だから自民党は政治的信用を失ったことを、民主党は認識すべきだろう。
 小沢氏自由党との合同以前のオリジナル民主党は、社会経験のない優等生型の政治家の集まりであり、批判はできても政治ができずに、逆説的にも官僚主導に陥ってしまった。まさに批判者が権力者になるという「啓蒙の野蛮化」(ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)を地でいってしまった。まるで、ルソーを目指しながらフランス革命で恐怖政治を行ったロベスピエール(Robespierre)のようである。いやロベスピエールには志の高さがあったが、オリジナル民主党には志の高さを感じない。このような書生型政治家を育ててしまったのは、松下政経塾の罪であろう。
 外交にしても一方だけが得をする交渉はまとまるはずがない。両者が得をしなければ外交では成果を出せないことをオリジナル民主党は知らない。それが、前原前外相のような発言につながる。北方領土を日本に返還したロシア大統領は、必ず国民の支持を失い失脚する。竹島から韓国軍を撤退させた韓国大統領も必ず失脚する。北方領土を取り戻したいのであれば、「返還」を主張してはだめである。寛容なロシア国民の総意による「譲与」である必要がある。東日本大震災が一つの契機となれたはずだったが、オリジナル民主党の過激な発言で消えそうである。これが、わたしが似非右翼・似非国士を嫌う理由であり、鈴木宗男氏を評価する理由である。
 政治を国民のもとに取り戻す政治家を待望する。

政治家の言葉と法律家の言葉―菅内閣不信任否決後の政局

 6月2日衆議院で菅直人内閣総理大臣に対する不信任案が否決された。このとき小沢一郎・田中真紀子氏ら民主党の一部が賛成にまわろうとしたが、菅首相・鳩山由紀夫前首相による事前の会談で、菅首相が辞意を示したことで、小沢氏グループは欠席するにとどまり、不信任案は否決された。
 ところが菅首相およびその周辺は政治家の言葉と法律家の言葉の違いに気づかなかった。そのことで、内閣不信任案否決にもかかわらず菅首相は窮地に追い込まれ、政局は大きな転換を迎えつつある。
 口約束であろうと、首相が不信任案の議決の直前に辞意を表明したのであれば、辞意の時期に確約がなかったとしても今国会終了直後となる。鳩山由紀夫前首相が6月いっぱいでの辞職と思ったのは当然である。ところが菅首相とその周辺は署名をしなかったことから、その合意文書は無効だと主張した。しかし法的に無効であっても、政治家が発した言葉の重みは無効とはならない。しかも、今回の不信任案は海外メディアも注目していたため、菅・鳩山会談直後に菅首相の辞意は世界に配信されてしまった。もう菅首相の言葉を信用する者は世界にはいない。策にはめたつもりで、はめられたのが菅首相とその周辺といえる。
 小沢氏の影響力の低下を主張する者もあるが、それはちがう。まず、今回の内閣不信任案を自民・公明・みんなの党が衆議院に提出したのは、小沢氏の造反に期待してのことである。この段階で、菅首相と自民党との大連立の芽は摘まれている。実際に、国会における自民党の菅首相追及は厳しさを増している。参議院で問責決議案が賛成されれば、もはや首相は参議院には出席できず、いかなる法案も参議院を通らない。しかも、小沢氏らは欠席したことで自民党に義理立てしている。追い詰められたのは小沢氏ではなく、菅首相である。
 さらに、内閣不信任案可決で菅首相が解散権を使用すれば、民主党は解散選挙で現有勢力を維持できなかったであろう。小沢氏らは多くの民主党議員の議員生命を救ったことになる。自民党に義理立てしながら、民主党も救ったのである。しかも民主党から松木謙公元農水政務官・横粂勝仁両氏が不信任案に賛成したため、欠席にとどまった小沢氏らを民主党執行部は除籍処分にできなかった。
 つぎに菅首相が辞意を翻したことで、民主党内でも菅氏に対する批判が出ている。署名がないことでうまく乗り切ったつもりで、政治家のとしての信用を失った。しかも連日の報道で、菅氏は信用できないというイメージを広く国民に植え付けてしまった。もはや菅首相の政治生命は終っている。今国会での辞意を不信任案否決直後に表明していれば、菅首相は今後も民主党内で発言力をもつことができたろう。辞職する好機を逸したといえる。
 総選挙を避けたことは、選挙の実施が難しい被災地の人びとをも救ったことになるだろう。辞任の言質をとったことは、たとえ覚書に署名がなくてもいい。政治家としての言葉には重みがある。今回の内閣不信任案の否決は、決して失敗ではない。
 菅首相が辞職した後の人選だが、オリジナル民主党に人材がいないことは露呈してしまった。現執行部から後継者が出ても政局はつづくことになる。もういちど政局は大きく動くことになるだろう。

後南朝の系譜伝承についての雑考

 正長元年(1428)7月に称光天皇が嗣子のないまま危篤状態に陥ると、父の後小松上皇は北朝系の伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとした。これは南北朝合一の条件のひとつ両統迭立を無効とするものであり、南朝皇族である小倉宮が異議を唱えた。南北朝合一後の南朝皇族を後南朝というが、ここから後南朝の活動が活発になる。
 小倉宮は、南朝最後の後亀山天皇の正嫡である恒敦宮の王子であり、南朝の正統な後継者であった。小倉宮は、南朝方の伊勢国司北畠満雅を頼り嵯峨から逃亡した。さらに満雅は鎌倉公方足利持氏と結んで反乱を起した。しかし持氏が幕府と和解し、同年12月21日に満雅が伊勢守護土岐持頼に敗れて戦死した。
 永享2年(1430)に満雅の弟顕雅が幕府と和睦すると、小倉宮は京都に戻されたが、和睦条件は①小倉宮の王子の出家と、諸大名から毎月3千疋の生活費の献上であった。同年11月に当時12歳の王子は足利義教の猶子となって教尊と名乗り、勧修寺に入った。しかし武家からの生活費の献上は滞り、生活に困窮して、永享6年(1434)2月に小倉宮も長慶天皇の皇子である海門承朝を戒師に出家して聖承と名乗り、嘉吉3年(1443)5月7日には没した。
 同年(嘉吉3年)、南朝復興を唱える日野有光らの勢力が後花園天皇の暗殺を企てて、内裏を襲撃して火をかけた。後花園天皇が左大臣近衛忠嗣邸に避難したことで、暗殺は失敗したが、日野有光らは三種の神器の剣と神璽を奪い、後亀山天皇の弟護聖院宮の孫である通蔵主・金蔵主兄弟を奉じ、後醍醐天皇の先例により比叡山に逃れて、根本中堂に立て籠もった。しかし山徒は協力を拒否し、幕府軍や山徒により鎮圧されて、金蔵主や日野有光は討たれた。この事件では細川・山名両氏が事件に関与したのではないかと疑われた。また、勧修寺門跡教尊も関与が疑われて隠岐配流となった。これが禁闕の変である。
 日野有光は足利義満の外戚であり、娘は称光天皇の妃となった。しかし足利義持との確執で室町殿より追放され、つづいて称光天皇が男子のないままに没したことで皇統が伏見宮に移ると、政治的に不遇となった。そのため嘉吉の乱(1441年)による京都の動揺に乗じて、禁闕の変を起したと考えられる。
 剣は奪い返されたが神璽は持ち去られたままであったことから、嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う赤松家遺臣が、長禄元年(1457)大和・紀伊国境の北山に本拠を置いていた南朝勢力に臣従すると偽り、源尊秀らを殺害して神璽を奪い返した。これが長禄の変である。以後、後南朝の勢力は衰退した。
 それでも応仁・文明の乱で京都が混乱すると、文明元年(1469)に紀伊国で南朝の遺臣が小倉宮の王子と称する人物を担いで反乱を起こした。山名宗全はこの岡崎前門主(教尊)の王子出羽王を西軍に迎えている。勧修寺教尊は隠岐配流後に消息不明となっており、その子孫がいることは十分に考えられる。出羽王は、同時代資料が伝えるように教尊の子孫であろう。隠岐から船で日本海を北上して、出羽にたどり着いたのかもしれない。このことで、出羽に新田・楠など南朝方の子孫が残っていることも理解できる。
 後南朝の本拠紀伊に地盤を持つ畠山義就は、はじめ南帝の擁立に難色を示したが、文明3年(1471)8月に正式に京に迎え入れられた。ところが山名宗全が没すると南帝の消息は不明になった。『晴富宿禰記』文明11年(1479)7月19日条に、山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた南方の宮(出羽王)が国人らに送られて越後より越前北荘へ移ったこと、同記30日条に「出羽王」が高野へ向かう道中であることが見える。これが、出羽王を確認できる最後の資料である。
 ところで最近の研究動向として、『勝山記(妙法寺記)』が後南朝の資料として注目されている。同記の文明10年霜月14日条に、「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺に滞在したことが記されている。この「王」が出羽王であれば、いちど東国に流された出羽王が、越後から越前北荘に移り、さらに京都高野に向かったことになる。
 また同記の明応8年(1499)霜月条に、「王」が流されて三島に着き、早雲入道が諌めて相模国に送ったことが見える。ここに早雲入道が登場するのは、後北条氏(小田原北条氏)が、足利尊氏の室町開幕を契機に南朝方に転じた北条時行の子孫を名乗ることと関係があるかもしれない。そうであれば早雲入道の子氏綱が北条氏を名乗ったことは足利方の今川氏との決別を意味する。
 「王」が早雲入道に諌められた明応8年は、出羽王と目される「王」が東国に流された文明10年のちょうど20年後であり、出羽王の王子の世代とも考えられる。南朝の復興を目指したことで東国に配流となり、そこで早雲入道(伊勢宗瑞)によって諌められたのだろう。
 これが、現在まで明らかになっている後南朝の歴史である。ところが近世に、金蔵主は比叡山で討死にせず、吉野北山で没したという伝承が生まれた。金蔵主を小倉宮の王子尊義王とし、その王子尊秀が自天王(尊秀王)を称したというが、同時代史料に証拠はない。むしろ同時代資料によれば金蔵主は後亀山上皇の皇弟の子孫であり、源尊秀は日野有光らとともに嘉吉3年(1443年)9月24日京都御所に乱入した南朝の廷臣である。しかも源尊秀の「尊」の字も後醍醐天皇(尊治)の子孫を示すものではなく、承久の乱(1221年)で隠岐に流された後鳥羽上皇(尊成)の皇孫のうち、佐渡に流された順徳上皇(守成)の子孫である順徳源氏の通字「尊」「忠」と考えられる。
 南朝の子孫を自称する者は必ず尊義王・尊秀王の子孫と名乗っており、それが事実であれば、彼らは南朝の子孫ではなく順徳源氏である。系譜伝承が正しければ正しいほど、彼らは南朝の子孫ではなく、南朝の子孫を僭称した者となる。
 また源尊秀の子孫であり、また『勝山記』に登場する「王」の子孫であると名乗る者もいるが、これは『勝山記』に注目している最近の研究を巧妙に取り入れたものであり、純粋な系譜伝承とはいえない。自らの系譜伝承に学説を取り入れて改変する者は多いが、これは系譜伝承の脚色であり、実は系譜伝承を台無しにする行為である。
 応仁・文明の乱の南帝出羽王は勧修寺教尊の王子であり、源尊秀の子孫ではない。また『勝山記』に登場する「王」は出羽王の可能性はあるが、源氏ではなく源尊秀の子孫ではありえない。源尊秀と『勝山記』の王を結び付ける者は、最新の学説を取り入れて歴史研究との整合性を企てたという点で、より悪質といえよう。
 むしろ現在の歴史研究では矛盾すると思われる系譜伝承であっても、そこに未だに発見されていない歴史的事実が含まれているかもしれない。真理は往々にして非合理性の中にあるものである。無理に整合性を持たせることは、そのような歴史的事実を捨て去ることになる。わたしは真の後南朝の子孫を知りたいと思っている。だからこそ、後南朝を僭称する者には厳しくなる。
 系譜伝承は編集することなく、また現在の学説と無理に整合性を持たせるのでもなく、そのままの形で後世に伝える義務が、われわれにはあると考えている。

マナーを守る喫煙者vs.マナーを守らない喫煙者

 多摩湖自転車道をジョギングしていると、最近、休憩ポイントなどでタバコを吸う人によく出会う。今日は自転車道に出るための山道でタバコを吸う人と出会ってしまい、山道をいちど下りて、別の山道から上った。
 先日は休憩ポイントでタバコを吸っている人がいるのに気づかずに、風に流されてきた煙を吸い込んでしまい、咳き込んでしまった。このときは煙の届かないところまで避難して、咳が出るほど息をとことん吐いて、大きく息を吸う。これを何回か繰り返す。さらに森の中のジョギングコースで、息を吸うことより吐くことを意識しながら走る。これで、喘息(咳喘息)の発作は起きずにすんだ。
 そういえば、登山家の野口健氏は東日本大震災のとき、被災者にタバコも配っていた。彼も登山のとき一服するのだろうか。吸う人はきれいな空気の中でタバコを吸うとおいしいのだろうが、空気を汚された者には苦痛でしかない。また山では山火事の原因にもなる。
 もしタバコを配布された被災者が周囲を気にせずに吸ったら、吸わない被災者のストレスは増えただろうなとニュースを聞いて思うとともに、野口氏が富士山のゴミ問題に主体的にかかわっているだけに残念に感じたことを思い出してしまった。
 マスコミでは喫煙派と嫌煙派の対立として取り上げられる嫌煙問題だが、実はマナーを守る喫煙者とマナーを守らない喫煙者の対立と考えるのが正しい。マナーを守らない喫煙者がいるから、マナーを守っている喫煙者まで嫌煙派から白い目で見られることになる。
 マナーを守り、タバコの煙に弱い者に煙が届かないようにしている喫煙者であれば、わたしは批判しようとは思わない。本人の健康のため、また健康保険料の負担を少なくするために、早く禁煙した方がいいとは思っているだけだ。
 ただし、マナーを守っている喫煙者にも注意してほしいことはある。私が利用している立川北口のバス停は、国立病院立川災害医療センターなどの病院を利用する乗客が多いもかかわらず、喫煙所が近くにあり、よくタバコの煙が流れてくる。分煙がきちんとなされていないのだ。このような喫煙所は多い。
 喫煙所を設けるのであれば、煙が他所に流れないように工夫してほしいし、タバコを吸う人もここは喫煙所だからいいではないかと考えるのではなく、煙が流れていく先のことを考えてほしい。もし煙が他所に流れてようであれば、遠慮してほしい。いちどタバコの煙を吸うと、その日一日、咳や胸苦しさに悩まされる人がいることを考えてほしいのだ。
 

2011年初蝉(5月25日狭山丘陵)

 今日5月25日は午前中があいていたので、狭山丘陵(トトロの森)でジョギングをした。家の中はひんやりしていたので、昨日24日と同じように空気は冷たいのかなと思って長袖で出かけたら、日差しが強く、これでは早めにばてるだろうと思えた。
 住宅街を過ぎ、鶯の鳴く声の聞こえる狭山丘陵の山道を上ると、空気はさすがにさわやかだった。多摩湖自転車道はアップダウンがあり、そこを走るのが好きだ。藤の花の時期は終っているはずだが、かすかに藤の香りがする。まだどこかで咲いているようだ。それにしても今日は暑くて、いつもの調子が出ない。ばてるのがすこし早い。やはり長袖は失敗だった。
 途中、逆周りに多摩湖をジョギングしていた早稲田大学陸上部の渡部監督とすれ違う。目が合った。油性ペンをもっていたら、トレーニングウェアにサインしてもらったのに、とても残念だ。街で芸能人を見ても何とも思わず冷静なわたしだが、トレーニングウェアにはなぜかサインしてもらいたいと思ってしまった。不思議だ。
 ジョギングコースを外れて、山道を下っていたら蝉の声。やはり今日は暑いのだと実感。山のコースだと四季の移り変わりが楽しめて、やはり楽しい。
 わたしのジョギングコースは狭山丘陵(トトロの森)のほかに、多摩川の支流残堀川沿いの遊歩道から昭和記念公園にいたるコースと、玉川上水沿いのコースの3コースがある。山桜の季節は残堀川や玉川上水のコースがいい。藤の季節には狭山丘陵のコースがいい。藤の香りが楽しめるからだ。また狭山丘陵には大鷹が生息していて、ときどき見ることができる。これも楽しみだ。でも普段は、季節に関係なくジョギングコースにたむろしているカラスを追いながらジョギングしている。あわてて飛んで逃げていく姿がかわいらしく面白い。
 初蝉は、いつも狭山丘陵のコースで聴いている。あの蝉はこんなに早く出てきてしまっていいのだろうか。初夏の訪れなのに、哀れさを感じてしまうのはわたしだけだろうか。

反捕鯨に対するメモ

 わたしは子どものころ鯨肉を食べたことがあるが、今のわたしは鯨肉を食べていない。将来のわたしもおそらく鯨肉を食べないと思う。それは、海の食物連鎖の頂点にある鯨の脂肪には有害物質が蓄積されていると聞いたからだ。
 それでも、反捕鯨派の人びとの主張には納得できないところがある。それは、鯨の知能が高いことを反捕鯨の理由のひとつに挙げていることだ。そうであるならば、テロに対する戦争のもとで、テロとは無関係な一般市民を殺害した国々に、反捕鯨とは言ってほしくない。イスラームの人びとは鯨よりも劣っているのか。そんなことはないはずだ。
 これに対してかつて日本も戦争をしたではないかと反論されるかもしれない。自分たちとは直接は関係ない過去のことを持ち出されるのであれば、そもそも鯨の頭数が減ったのは、欧米諸国が灯油を得るために鯨を乱獲したからではないかと反論しよう。
 せめて和歌山県太地町のように伝統的に鯨漁をしていた地域の捕鯨は認めていいのではないだろうか。反捕鯨国もイヌイットの伝統的な捕鯨は認めたではないか。
 欧米諸国はいい加減に、自分たちの価値基準が絶対だと思うのはやめてもらいたい。

米軍基地反対派の味方は米国議会!敵は政府・知事・マスコミ!!(改訂版)

 読売新聞(2011年5月12日11時19分、ワシントン=黒瀬悦成)によれば、米上院軍事委員会のカール・レビン委員長(民主)、ジョン・マケイン筆頭理事(共和)、ジェームズ・ウェッブ委員(民主)は11日、米海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)移設に関し、日米が合意した現行計画は「非現実的だ」として、米軍嘉手納基地(同県嘉手納町など)への統合を検討するよう国防総省に提案した。
 国防予算の承認権限を持つ軍事委員会の指導部が現行計画への反対を明言したことで、普天間移設問題が一層難航するのは必至だ。
 3議員は声明で、普天間飛行場の同県名護市辺野古への移設と、沖縄の米海兵隊の一部のグアム移転を柱とする米軍再編計画(2006年合意)は、県民の反対やグアムの受け入れ施設の整備の遅れ、東日本大震災を受けた日本の厳しい財政状況などにより、「現実的でなく、費用負担も無理になった」と指摘した。
 3議員はまた、普天間の嘉手納統合に合わせ、嘉手納基地の米空軍部隊の一部をグアムや日本国内の別の基地に移転させるべきだと提案。これにより、「東アジア地域での米軍規模を維持しつつ、沖縄の負担軽減が可能になる」としているという。
 実は5月8日につぎのようなニュースがあった。読売新聞(2011年5月8日18時15分、ワシントン=小川聡)によれば、国民新党の下地幹事長は5月6日にワシントン市内での記者会見で、ジェームズ・ジョーンズ前米大統領補佐官(国家安全保障担当)が沖縄県の米軍普天間飛行場の移設計画見直しを次期国防長官に進言する考えであることを明らかにした。
 ジョーンズ氏は5日に下地氏と会い、「初めから、(同県名護市辺野古への移設)計画が実現する姿を想像できなかった」と語った。「普天間飛行場は(同県の)嘉手納空軍基地に統合する案が最良だ。米海兵隊を韓国に移転することもあり得る」と持論も展開したという。ジョーンズ氏は昨秋に大統領補佐官を退任している。
一方、カール・レビン上院軍事委員長との会談ではレビン氏が下地氏に「(先月)沖縄を訪問し、実際に辺野古の美しい海を見て移設は難しいと感じた」と話したという。
 これで、米国側が柔軟な態度をとってきたのである。ところが、枝野官房長官はこれを非現実的として、日米合意に基づき辺野古移転にこだわる姿勢を示し、仲井間沖縄県知事も日米合意に基づく辺野古移転案にこだわった。仲井間知事はもともと米軍基地賛成派であり、沖縄県知事選では当選するために基地反対といっていたにすぎないので、辺野古案に執着するのは織り込み済みだが、衆議院選挙で在沖縄米軍基地は国外へ、少なくとも県外へと主張して衆議院選挙で勝利した民主党政権が、米国の態度軟化に対応できないのはどういうことだろうか。はなはだ疑問である。マスコミの報道も嘉手納基地統合案に否定的である。
 日本政府も沖縄県もマスコミも、いったいどこの国の政府・県庁・マスコミなのだろうか。わたしは今まで米国寄りと思っていたが、そうでもないらしい。これでは、米国側も呆れるのではないだろうか。一度決めたら変えるのを嫌がる官僚体質そのものだ。もちろん、ここでいう官僚とは個々人の官僚のことを言っているのではなく、制度としての官僚制度のことを言っている。やはり現在の民主党政権は官僚の言いなりのようだ。これでは改革派の官僚はがっかりだろう。
 嘉手納基地統合案は、近い将来の米軍基地グアム移転を視野に入れてのことであり、半永久的に嘉手納に米軍基地をおき続けるというものではない。あくまで一時的な処置である。しかも、嘉手納統合案は東日本大震災による日本財政の逼迫に配慮してのことでもある。嘉手納統合案と辺野古移転案のどちらが非現実的かは誰の目にも明らかだろう。
 辺野古案をまとめた自民党はもってのほかだが、米国の軟化姿勢にもかかわらず辺野古案を維持しようとする民主党政権も同罪である。沖縄県庁にも大きく失望する。ましてやマスコミの偏向ぶりには驚かされる。もうマスコミには批判精神はなく、単なる既得権益集団に堕落したようだ。いや、このことは太平洋戦争のときにすでに分かっていたことだ。大本営発表を自らすすんで宣伝し、日本国民を戦争に導いた罪をまったく反省していない。
 これで米軍基地の国外・県外移転に反対しているのが、実は米国ではなく、日本国内の既得権益集団であることがはっきりしたといえる。このことを明らかにしてくれた米国の良心に感謝する。

短気な気長

 わたしは宵越しの怒りはもてない性格だ。理由は、あした生きているかどうかわからないから。あのとき仲直りをしておけば良かったと悔いを残さないように、次の日まで怒りつづけないようにしている。昨日はとても怒っていたが、今日はもう怒っていないし、私がもう怒っていないことに相手も安心してくれる。
 喧嘩は怒る方も怒られる方もつらい。あのときあんな怒り方をしてしまったと、後悔する人は多いだろう。でも怒ったことを素直に謝ることは難しい。
 だけど、わたしは明日生きているかどうか分からないと考えているので、怒ったあとは、必ず謝るようにしている。喧嘩の理由は関係ない。とにかく怒ったことを謝る。わたしが怒った理由を、相手が理解してくれていれば、それでいい。それ以上、怒る意味はない。
 こういう性格だから、どうしても待つのは苦手だ。あした生きているかどうか分からないのに待っていられない。今日やることは今日やる。先に延ばしていたら、いつまでも好機が訪れず、先延ばしにしたまま人生が終るかもしれない。それならば思ったときが好機だろう。他人からは気の長い性格と思われているが、とんでもない。自分でも呆れるほど短気だ。私が怒りっぽいのは、身近な者は良く心得ている。でも、いつまでも怒り続けないことも心得ている。
 わたしは恋愛哲学で「好き避け」を特集しているけど、もともと避けられると好き避けだと分かってきても、問答無用できっぱりと切っていた。避けられると、その途端に冷めてしまっていた。
 それが少し変わったのは、一期一会という言葉の意味を改めて考えて、その時々の一瞬を大切にしようと思ったからだ。その積み重ねとして、まわりから気が長く思われるようになった。
 でも、あくまで結果として気長に待っているように見えるだけで、実は一瞬一瞬を大切にして、悔いを残さないようにしているだけだから、やはり、とても短気だといえる。究極の短気が気長になったといえる。これも逆転の発想だ。

福井県敦賀市で原発事故か!?

日本原子力発電(原電)は2日、営業運転中の敦賀原発2号機(福井県敦賀市、加圧水型、116万キロワット)の1次冷却水中で、放射性ガス・キセノン133の濃度が通常値の750倍、放射性ヨウ素133の濃度が同2倍に上昇していると発表した(毎日新聞5月3日0時4分)。直ちに運転停止が必要なレベルではないが、原電は原因究明のために停止する方向で検討している。施設外への漏れはなく、周辺環境に影響はないという。原電は「核燃料棒を保護する金属製被覆管に微小な穴が開き、放射性物質が漏れ出している可能性がある」と説明している(読売新聞0時49分)。
 1次冷却水は原子炉内を循環する冷却水であるため、ただちに運転停止が必要ないとしたうえで、原因究明のため停止の方向と発表したのだろうが、敦賀原発1号機は運転40年を超えてもいまだに稼動を続ける日本最古の軽水炉原発であり、その安全性は以前から問題視されていた。これまでの原発事故での行政や事業者の隠蔽体質を考えると、ただちには信じられない。
 福井県敦賀市ではこれまでも高速増殖原型炉「もんじゅ」の事故があったが、統一地方選挙では原発推進の現職市長河瀬一治氏が当選した。当選後すぐの事故で、市長はどのように考えているのだろうか。責任は取れるのだろうか。
 否定的現象が繰り返し現れるときは、改革が必要なことを示している。原発の安全神話はもはや誰の目にも明らかである。科学技術はけっして直線的に進歩しているわけではないことは、科学革命の歴史が明らかだ。危機のときには、危機を危機として受け入れる必要がある。やはり自然エネルギーへの転換が必要だろう。

ウサーマ・ビン・ラーディン暗殺に思う

 3月10日発売の週刊文春の東大入試特集に関する記事で、江戸町民の地震観を示す鯰絵について書いたら3月11日に東北地方太平洋沖地震があり、また昨日5月1日にイスラーム教では豚肉を食べないという記事を書いたら、今日5月2日(現地時間5月2日午前1時)パキスタンのアボタバードで、米海軍特殊部隊(SEALS)によってウサーマ・ビン・ムハンマド・ビン・アワド・ビン・ラーディン暗殺という速報があった。わずか40分の軍事行動だったという。偶然の出来事だろうが、気にかかる。
 ウサーマ・ビン・ラーディン暗殺の速報(米国では5月1日)で米国ニュー・ヨークではお祭り騒ぎのようだが、わたしは身柄を拘束してほしかった。9・11同時多発テロのうち世界貿易センタービルの崩壊事件では、ユダヤ教徒の死者がなかったことから陰謀説もあり、真相を究明するためにも、ウサーマ・ビン・ラーディンには法廷で証言をしてほしかった。これでは疑惑は疑惑のまま残ることになる。疑惑をもつ者は、ウサーマ・ビン・ラーディン父子の発言を恐れて殺害したと推測するだろう。これは米国にとっても得策ではない。罪が重ければ重いほど真相を究明し、罪を償わすためにも生かさなければならない。証言をさせた上での終身刑がよかったと思う。しかし、この軍事行動では、最初から身柄拘束という選択肢はなく、暗殺が目的だったという。首都イスラマバードに近いアボタバードには軍事施設が多く、パキスタン軍を刺激しないためにも早く軍事行動を終わらせなければならないという事情があったのかもしれない。
 わたしは終身刑をつくった上での死刑廃止論者であり、終身刑のない日本の現状では死刑は必要と考えている。重大な事件を起こしたものは、自ら死と向き合う必要がある。終身刑も死刑もともに、死と向き合う刑である。冤罪の可能性もあるため、終身刑のほうが望ましいと思っている。
 わたしたちはホッブズの社会契約説によれば、わたしたちは人を殺す権利を持っていることになる。それをそのまま認めれば、まさに「万人の万人に対する闘争」状態である。しかし、誰も他人の都合で殺されたくはない。そこで、人を殺す権利を王(国家)に預けた。これが、わたしたちに正当防衛以外の殺人が認められていない理由である。自殺もこの人を殺す権利に当たる。日本では母子の心中事件が涙を誘うが、米国では将来ある子供を殺した殺人罪である。あくまで例外は、自分が殺される危機に直面した場合の正当防衛のみである。この王(国家)に預けた人を殺す権利が死刑である。終身刑のないままの死刑廃止は、わたしたちが預けた人を殺す権利を国家が放棄することになる。終身刑にすると、終身刑にするかどうかの基準をめぐる論争がまた起こるだろうから、罪を加算していく制度にすればいいだろう。そうすれば量刑は分かりやすくなる。ウサーマ=ビン・ラーディンが真の首謀者であれば、その量刑は計り知れない。
 しかも一部の報道では、DNA鑑定の後に遺体は海に捨てられたという。これでは証拠隠しとしか思われないだろう。本当に殺害したのか、事件の真相は米国が宣伝する内容とは異なるのではないか、疑惑が疑惑を産むことになる。
 しかし、今回の暗殺事件でもうひとつ憂慮することがある。それはイスラーム教に対する偏見である。イスラーム教はけっしてテロは認めていない。むしろ徹底してムスリム(信者)間の平等を説く。預言者ムハンマドが自らを最後の預言者と述べたように優れた宗教である。湾岸戦争のときも、帰還した兵士の多くがイスラームに改宗していたという。同時多発テロでは多くのムスリムが被害者となった。テロとイスラーム教を結び付けてはならない理由のひとつだ。ウサーマ・ビン・ラーディン暗殺で報復が恐れられている。このように報復には報復が繰り返される。報復には報復感情しか生まれないことは、日中・日韓関係の中でわたしたちは学んでいるはずである。だからこそ、わたしたちはムスリムに対する偏見をもたずに、むしろ協力して平和な世界を築いていく必要があろう。

国内の国際化の必要性

 HongKong Sweetsのカフェで、豚肉抜きのチャーハンを注文した女性がいた。わたしは遠い席にいたので、何かを抜いたチャーハンを注文したということしか分からなかったので、単なる好き嫌いかなと思っていたけど、会計をするその女性の顔を見るとイスラーム文化圏の女性に見えたので、担当していたホールスタッフに尋ねたら、やはり宗教的理由で豚肉が食べられないということだった。
 以前、バングラディッシュと中国のダブルという小学生を教えたことがあり、やはり食事では苦労していたことを覚えている。イスラームでは豚肉を食べられないので、とんかつも中華まんじゅう(ブタまん)もハムもソーセージも食べられないのは当然のこと、サラダを食べるときにはドレッシングの原材料にブタが含まれていないか、きちんと調べてから食べていた。中国出身の母親に、中華料理は豚肉料理が多いので苦労されるのでは?と尋ねたところ、中国ではムスリム(イスラーム信者)が多いので、同じ料理でも豚肉ではなく牛肉を使用したものがあり、中国ではかえって苦労しないとのことだった。
 中国では新疆ウィグル自治区の独立運動があり、北京政府とムスリムの対立が問題になっているが、食生活ではきちんと配慮がなされていることを知った。日本でもイスラームやヒンドゥーの信者の人たちが増えており、豚肉・牛肉を表示するだけではなく、それぞれの代用品をつくるといいだろう。たとえば中華まんじゅうであれば、ブタまんだけではなく牛まんもつくるといいだろう。日本人も牛肉は好きなのだから、日本人にも牛まんが受けるかもしれない。狂牛病騒動のときには、牛肉の代用として豚肉や鶏肉がつかわれた。逆に、こんどは豚肉の代用として牛肉をつかった料理が登場してもいい。
 このように、国際化は何も英語を話せればいいというものではない。日本ではすぐに海外に渡ることが国際化と思うところがあるが、日本にいる外国の人たちが苦労なく生活でき、また日本のことを好きなってもらうことも国際化である。そろそろ発想を変える必要がある。アメリカに留学した学生はアメリカ好きになるが、日本に留学した学生は日本嫌いになると聞いたこともある。これはとても残念なことである。日本贔屓を増やすことが、国際化の一歩ではないだろうか。

福島原発にみる産学官の癒着―政治に求められるもの

 政府は経済のことも分かっていないようだ。計画停電を政府がすぐに了承したことは信じられない。しかも対象地域から都内からはずされたことで、生産拠点を近郊に移していた産業界は大きな打撃を受けた。本社機能は在宅勤務でも対応できるのであり、工場が操業停止・減産に追い込まれたことによる日本経済の損失は大きい。さらに影響は国内だけにはとどまらない。日本の中小企業が生産する部品はとても優秀であり、震災あるいは計画停電による工場の操業停止・減産は世界経済にも影響を与えている。その損害補償は一民間企業では負えないものだろう。
 たとえ事故がないとしても、原子力発電は放射性廃棄物を出し続け、その廃棄物を地中に埋めるしかないため、子孫の世代に放射性物質を押し付けることになる。これは大きなリスクだろう。原子力発電を東京電力だけの責任ではないだろう。原子力行政を推進してきた中曽根元首相以来の歴代内閣の責任でもある。
 今は被害者の代表としてマスコミによく出演している佐藤雄平福島県知事は、実はプルサーマル建設を強力に推し進めてきた。東京電力の隠蔽体質への不信感からプルマーサル建設に反対した佐藤栄佐久前知事は、2006年水谷建設とレインボーブリッヂのからむ不正事件で、実弟の経営する縫製会社が不正な土地取引の疑いで検察の取調べを受けたことから道義的責任で辞職したが、検察による作られた事件の可能性が高い。栄佐久氏失脚後には、民主党渡部恒三氏の甥である佐藤雄平現知事が就任し、県議会でもほとんど議論されることもなく原子力発電が推進されたという。
 日本人は潔癖であるために汚職事件に敏感ではあるが、政治家に必要なものは決断力であり、政策によって評価されるべきものである。佐藤栄佐久氏の汚職事件に登場する水谷建設川村尚元社長は、検察にとって都合のよい証言する人物であり、収賄金額が0円で有罪とされた栄佐久氏の収賄事件は作られた可能性が高い。汚職事件に潔癖すぎると、実際には収賄を受けていない優秀な政治家を、作られた事件で失脚させる可能性が高い。改革に真剣な政治家ほど疑惑をかけられるのが、日本の政治の不幸である。アメリカ連邦議会でのロッキード社の発言しか証拠のない田中角栄氏の疑惑も、その一例に挙げられる。これが日本の政治がいつまでも成熟しない理由である。わたしはクリーンを強調する政治家ほど信用しないことにしている。なぜなら実際に政治資金を1円単位から報告しているのは、小沢一郎氏と鈴木宗男氏だけだからである。マスコミも記者クラブで官僚と、広告費で財界と癒着しているため、わたしはマスコミによって批判されている政治家ほど信用するようにしている。
 このように前知事の作られた汚職事件がからむ福島県の原子力推進の責任は、東京電力だけに責任があるわけではない。東京電力社員の給与が20%カットされるならば、これまで原子力を推進してきた自民党・民主党など政党は政党助成金を返上すべきだろう。
 それらの責任をうやむやにしたまま、政府は東北地方の復興のために消費税を上げることを容認している。震災を理由に便乗値上げをしようとしているのである。おそらく15~20%になるだろう。東北地方の復興のためならば、消費税の値上げを容認するつもりはあるが、東北・北関東復興後に消費税が下げられるという保証はない。むしろ震災で停滞している経済を、消費税の大幅値上げで停滞させる可能性が高い。とくに自粛ムードの強い現在では、そのまま経済は停滞することはまちがいないだろう。
 また国民に負担を強要するのであれば、まずは政府のリストラを進めるべきだろう。震災を理由に便乗構造改革を断行するのである。震災が理由であれば、構造改革に官僚も反対しにくいであろう。国民の支持も得られるはずだ。それができないのであれば、この政府は国民のために決断できる政府ではない。官僚が上げてくる数値を垂れ流し、政策を採用しているだけである。
 さらに電気料金の値上げも必須のようだ。震災による損害賠償は一民間企業が負えるような金額ではないため、震災復興支援機構には税金・震災国債があてられ、東京電力は少しずつ返還していくという構想がある。しかし、その返還のために電気料金が値上げられて、結局は国民が負担することになる可能性が大きい。東京電力が自己資産の売却などしないままに、国民が負担することになれば、復興支援機構は国民を騙すためにあるとさえいえる。
 また産学官共同による大学人事も、大学の批判精神を失わせた。現場を知る専門家による授業は学生にとって興味深いものだが、専門学校と見違えるほどの実学重視の現在の大学は官僚や財界人の天下り先になり、行政や財界に対する批判精神をなくして、今回の原子力行政にも見られるように産学の癒着が著しくなってきている。また、あまりに多く官僚・財界人の教員が生まれたため、金石混合の状態となり、講義もつまらなくなりつつある。わたしたちは大学が官僚の天下り先になっていることを、厳しく監視しなければならないし、マスコミに登場するから良い教授だと安易に信じないことだ。
 今回の東京電力福島第一原発事故は、わたしたちに多くのことを知らしめるきっかけを与えた。関東人は福島の復興に最大限の協力をすべきであるが、産学官に対して厳しい批判力をもって対応しなければならない。

風力発電・環境省の試算

 朝日新聞2011年4月22日5時2分のインターネット記事によれば、環境省は21日、国内で自然エネルギーを導入した場合に、どの程度の発電量が見込めるか、試算した結果を発表した。風力発電がもっとも普及できる余地が最も大きく、低い稼働率を効力しても、最大で原発40基分の発電量が見込める結果となった。風の強い東北地方では、原発3~11基分が風力発電でまかなえるという。
 科学には〈絶対〉という言葉がない以上、今回の東京電力福島第一原発事故のような事故が二度と起こらないとは決していえない。放射能汚染の問題は、福島原発の供給電力を利用していなかった地元の福島県民に大きな被害と損害をもたらした。とくに原発20キロ圏内の住民は計画避難を強要されたが、この計画避難が地元事業者のことを考えたものとはいえない。たった一日の帰宅許可で、事業に必要な物資を持ってこられるだろうか、そこで働いていた人々の生活はどうなるのか。福島は酪農も盛んなところであるが、乳牛は餓死しろというのであろうか。せめて安楽死をさせてあげられなかったのだろうか。計画避難は決して計画的なものではなく、強制的なものでしかない。
 また市民団体「母乳調査・母子支援ネットワーク」(代表村上喜久子)による福島など4県の女性9人の母乳検査で、茨城・千葉両県の4人から1キロ当たり最大36.3ベクレルの放射性ヨウ素131が検出されたという事実(時事通信4月20日19時50分)も、しっかり受け止める必要があるだろう。
 風評被害も大きい。暫定基準の根拠も国民が理解しているとはいえないまま、数値を垂れ流しているのでは、大きな風評被害が起こった。政府自らが数値を理解できないまま垂れ流していたことは、「直ちに」「事象」などの学者用語を、官房長官など大臣たちが使用していたことでわかる。政治家はすくなくとも国民がわかる言葉に噛み砕いて発表する義務があろう。政治家の仕事は情報の垂れ流しではなく、政治的決断であるはずである。政治的決断がくだされないために、政府が重大なことを隠しているのではないかと勘ぐられ、風評被害は世界をめぐっているのが現状である。その結果、これまで日本製品が獲得してきた信頼は大きく揺らいでいる。おそらく政府は隠しているのではなく、理解できていないのだろう。
 原子力発電は決してクリーンでも安くもなく、危険であり経済的損失と利益が見合わないことが分かった。自然エネルギーを選択すべきだろう。しかも、できるだけ多くの選択肢をつくっておくという。それがエネルギー安全保障に役立つからである。犬吠埼沖に風車を建設した場合、津波の被害にあう可能性もある。ひとつのものに特化していると環境が変わったときに大きな被害を受けやすい。太陽光の利用も急がれる。とくに夏の電気消費量のピークは昼間であり、太陽光発電が活躍する時間と重なる。常に別の選択肢を用意しておくことが、エネルギー安全保障になる。今回も火力発電の設備が残っていたから、どうにか節電で乗り越えられそうなのである。

城南信用金庫の脱原発宣言!(改訂版)

 城南信用金庫のホームページに勇気ある脱原発宣言が記されています。地元密着の金融機関である信用機関ならではの勇気ある宣言です。これまで原子力発電所は絶対に安全だといわれてきました。しかし、科学には「絶対」はありません。これは科学者ではなくてもわかることです。政府や電力会社がいくら絶対に安全だといっても、その白々しさは、東京に必要な電力なのに、東京に原子力発電所を建てなかったことでわかります。そして今東京は、原発のある福島を風評被害で苦しめています。どれだけ地方を犠牲にすれば気が済むのでしょうか。
 東京電力福島第一原発は、地元福島のための電力をつくっていたわけではなく、東京をはじめとする関東地方のための電力をつくってきたのです。そのことは計画停電騒動でもわかったはずです。その計画停電も、足立区全域と荒川区一部を除く東京都内では実施されませんでした。東京には首都圏機能があるからだそうです。しかし東京は消費都市であり、生産拠点ではありません。東京の本社機能こそ、在宅勤務でもできるものであり、政府や東京都の機能も緊急避難で都外に移転すればよかったのです。首都直下型地震の予行演習にもなったはずです。それにもかかわらず首都機能を強調しすぎた政策を実施したために、かえって経済が混乱しました。工場は東京から地方に移転しているので、多くの工場が操業できずに物不足に陥っていることは、今も続く物不足でわかったはずです。自分たちに回りに回ってくるのです。これが因果応報ということです。
 それにもかかわらず、エアコンの使用で再び消費電気量が大幅に増える夏には、工場の消費電力を減らそうと経済産業省が考えていることを、海江田経産大臣が発言したことに大きな驚きを感じています。経済産業省の政策とは思えません。すでに一部の企業が、本社機能の在宅勤務化を考えているというのにです。
 東京にできることは、もうこれ以上地方に迷惑をかけないように節電すること、代替エネルギーで脱原子力を目指すことです。そうすることで、東京は地方に負担を強いることがなくなります。照明が暗くなったことで、街はまぶしくなくなり、ちょうどいい明るさになりました。これまでの電力消費量が異常だったのです。わたしたちは、お金さえ出せば、際限なくエネルギーを消費できると勘違いしていたのです。今そのお金は消費にではなく、代替エネルギーの開発に回すべきでしょう。
 城南信用金庫は、節電や代替エネルギー開発・使用に融資することを提案しました。これは金融業という本業を生かしたものであり、無理がありません。いくらよい行動でも、それが自らに無理を強いるものであれば、長続きせず、単なる理想論で終わるでしょう。本業での支援だからこそ無理がなく、長く続けることができるのです。すでにあるものを使うのが、逆転の発想のコツであり、弱者の知恵です。このような実践者が多く出ることを期待します。
 以下に、城南信用金庫の「原発に頼らない安心できる社会へ」宣言を引用します。


          原発に頼らない安心できる社会へ

                              城 南 信 用 金 庫

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は、我が国の未来に重大な影響を与えています。今回の事故を通じて、原子力エネルギーは、私達に明るい未来を与えてくれるものではなく、一歩間違えば取り返しのつかない危険性を持っていること、さらに、残念ながらそれを管理する政府機関も企業体も、万全の体制をとっていなかったことが明確になりつつあります。
 こうした中で、私達は、原子力エネルギーに依存することはあまりにも危険性が大き過ぎるということを学びました。私達が地域金融機関として、今できることはささやかではありますが、省電力、省エネルギー、そして代替エネルギーの開発利用に少しでも貢献することではないかと考えます。
 そのため、今後、私達は以下のような省電力と省エネルギーのための様々な取組みに努めるとともに、金融を通じて地域の皆様の省電力、省エネルギーのための設備投資を積極的に支援、推進してまいります。

① 徹底した節電運動の実施
② 冷暖房の設定温度の見直し
③ 省電力型設備の導入
④ 断熱工事の施工
⑤ 緑化工事の推進
⑥ ソーラーパネルの設置
⑦ LED照明への切り替え
⑧ 燃料電池の導入
⑨ 家庭用蓄電池の購入
⑩ 自家発電装置の購入
⑪ その他
                                    以 上

【参照】城南信用金庫「原発に頼らない安心できる社会へ」
     http://www.jsbank.co.jp/topic/pdf/genpatu.pdf

武田二十四将横田高松の系譜(改訂)

 武田氏二十四将のひとり横田高松の孫伊松は徳川家康に五千石で召しだされて幕府旗本となり、さらに田沼意次の側近横田準松(筑後守)のときには御側御用取次として権勢を振るい、加増されて家禄九千五百石となり、旗本筆頭となった。横田氏は家伝によれば、佐々木三郎秀義の末孫次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、横田川和泉村のほとりに采地を受け、家号を横田に改めたという。また甲陽軍鑑によれば、伊勢出身という。
 浅井吉高という人物は横田氏家伝のほかの資料に見られないこと、また浅井氏が甲賀郡に領地を与える権限があったとは考えられないことから、この伝承をそのままで史実とは受け止められない。そのため、まず甲賀郡横田に注目しよう。
 現在の国道1号線が野洲川を横切っているのが横田橋で、その横田橋から上流が横田川と呼ばれていた。横田橋については、寛正二年五月二十四日付室町幕府奉行人奉書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」と記され、酒人郷領主京都西芳寺が橋賃を徴収していた。横田氏の家紋が、御上神社の神紋と同様に釘抜紋であることから、三上氏との関係も推測できる。また横田城は三雲城に近く、三雲氏との関係も考えられる。
 三雲氏は、室町将軍による六角氏征伐である長享・延徳の乱で、六角氏の命令によって観音寺城の出城として三雲城を築いた。三雲氏は甲賀郡の名族伴氏の一族で、鎌倉期には佐々木秀義の五男隠岐佐々木義清の次男泰清が三雲(見雲)氏を名乗ったとも伝えられ(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、源氏を称することもある。長享・延徳の乱では甲賀に積極的に逃亡した高頼を甲賀二十一家が支えた。そのひとりが三雲新蔵人である。その跡は武蔵七党のひとつ児玉党出身の典膳実乃が継ぎ、さらに小山田上杉行定が典膳実乃の婿養子となり三雲氏を継いだ。これが三雲氏に児玉党の系譜と家紋を伝え、さらに小山田氏という系譜伝承も伝えている理由である。大永二年(1522)、三雲源内左衛門(行定)は幕府から唐物赤毛氈の鞍覆と白傘袋を使用することを許されており(「御内書案」)、管領・守護に准ずる待遇を得た。『勝山記』(妙法寺記)によれば永正十七年に行われた甲斐小山田弥太郎十三回忌法要で施主が藤原氏を称しており、甲斐の郡内小山田氏も上杉流であった可能性がある。戦国期末の越中守信有の代に秩父平氏を意識したのだろう。このように、三雲氏は関東と深い関係にあった。横田氏が関東に転出したのは、三雲氏の出自と関係があったのかもしれない。
 しかし甲賀衆に横田氏の名は見えない。『淡海温故録』には横田美作守秀長が記されているが、その系譜は知られていない。横田氏の中祖佐々木義綱の名に注目すれば、甲賀郡川田神社の由緒に、嘉禎二年(1236)佐々木義綱が社殿を再興したと記されていることを見つけられる。系譜は不明だが、鎌倉前期であることから、定綱の孫伊佐二郎左衛門尉義綱(七郎左衛門尉行綱の長子)の可能性がある。秀義から見れば曾孫であり、横田氏の系譜伝承と矛盾しない。また三上一族であれば、『群書類従』所収三上氏系図(巻百三十)で三上氏を清和源氏賀茂次郎義綱流としており、その系譜が佐々木氏系図に混入したとも考えられる。たしかに義綱の一族は弟義光の陰謀により甲賀山(義光領甲賀郡柏木御厨)で滅んでいる。しかし三上氏が賀茂次郎義綱の子孫とする系図は、宇多源氏行実(「源行真申詞記」)の長男井盛実(守真)を賀茂次郎義綱の子とするなど矛盾があり、同系図にとらわれる必要はないだろう。佐々木氏であることを重視すれば、甲賀郡川田神社の社殿を再興した伊佐二郎左衛門尉義綱の子孫である。
 この甲賀横田氏の出身と考えられる横田村詮は、三好康長の甥で従兄弟三好康俊に仕えた横田宗昭(日珖上人「己行記」元亀四年一月・二月)と同一人物とも考えられる。しかし、このことは村詮が近江甲賀郡出身であることを否定しない。近江守護六角氏の被官であると同時に細川氏の被官でもあった河田氏や、三好義継の家老である若江三人衆の筆頭多羅尾常陸介(右近)綱知のように、近江武士で細川氏や三好氏に仕えた者はいた。『古今消息集』に(年未詳)正月七日付甲賀諸侍中宛細川氏綱書状(使者三好筑前守[長慶])、望月修氏所蔵文書に(年未詳)八月十八日付村島殿(望月重元)宛細川氏綱書状が所収されているように、細川氏と甲賀衆の関係は深い。また佐治・和田・池田らが尾張に進出しているように、甲賀衆は近隣諸国に積極的に進出していた。行定の子三雲対馬守定持(新左衛門尉)は天文年間に、明の吏部尚書聞石塘から紅鞍龍を贈られているように日明貿易にかかわっており(蒲生郡志三巻および甲賀郡志下巻)、横田氏も三雲氏との関係で日明貿易にかかわり、やがて三好氏と関係を持ったと考えられる。
 横田村詮(内膳)は、三好氏が没落すると、同じ甲賀出身の近世大名中村一氏(瀧孫平次)に迎えられた。羽柴秀吉の命により中村一氏が天正十三年(1585)、甲賀郡の支配の拠点として水口岡山城を築き、横田橋も中村氏の管理下に入った。横田村詮は中村一氏の妹婿となり、天正十八年(1590)中村一氏が駿府城主となると、駿府に同行している。関が原の戦いでは、中村一氏は村詮の意見を容れて駿府城下の村詮屋敷で徳川家康との会談を行い、東軍に加わることを決めた。戦後、徳川家康は中村一氏の嫡子一忠を十七万五千石伯耆米子城主に任じており、中村氏は国持大名になった。さらに家康は村詮に六千石を与えた上で、一忠の後見役とした。村詮は城下町を建設し、現在の米子市の発展の基礎を築いた。しかし慶長八年(1603)村詮を妬んだ一忠の側近によって殺害されてしまった。村詮の子主馬助や柳生宗章(五郎右衛門)らは飯山に立て籠もったが、一忠は出雲の領主堀尾吉晴・忠氏父子に助勢を求めて鎮圧した。徳川家康は自ら派遣した村詮の殺害に激怒し、中村氏は断絶となった。
 中村氏と横田氏の関係からも、甲賀郡に横田氏があったことは認めていいようである。そうであれば横田高松はどのような縁故で甲斐武田氏に赴いたのだろうか。ここで注目できるのが、三雲実乃が武蔵児玉党の出身であり、行定が小山田氏の出身であったことである。三雲氏と小山田氏の関係が、近江佐々木氏と甲斐武田氏を結んだと考えられる。
 こののち元亀・天正期に、六角義堯は甲斐武田氏と結び、さらに武田勝頼と上杉謙信に和を結ばせて織田信長包囲網を築いている。上杉氏では、六角氏旧臣の河田豊前守長親が執政を勤めていた。横田氏の家伝に浅井氏が登場するのは、元亀の争乱で浅井長政・朝倉義景と武田信玄が結んだことを隠喩していよう。「浅井吉高」は六角義堯のまちがいかもしれない。これらのことが一気に結びついてくる。元亀四年三月十日に将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵すると、信虎は義昭の命で甲賀に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図している(『細川家文書』)。やはり甲賀衆と甲斐武田氏は関係が深いようである。

危機管理能力なき行政のツケは下請けと国民が負うのか!

 3月24日東京電力福島第1原発3号機のタービン建屋地下で、ケーブル敷設をしていた作業員3人のうち、30代と20代の男性作業員2人が被曝しました。β線熱傷と可能性が高く、全身状態は良好だといいます。β線は身体内部まで及ぶものではなく、今回も両足にやけどを負ったものです。
 被爆した2人は東電の協力会社の社員で、別会社の30代社員と作業していました。そこには前日まではなかった深さ約15cmの水たまりがあり、くるぶしまで漬かって作業したために被曝したといいます。被曝しなかった作業員は長靴をはいていて無事だったそうです。
 東電は、6日前の18日には2号機のタービン建屋地下で高放射線量を把握していたそうです(朝日新聞3月26日18時35分)。なぜ東電は作業員に知らせていなかったのでしょうか。もし知らせていたら、当然のこと装備は変わったでしょうから、被爆は防げていたでしょう。
 また、作業員の幹細胞を採取して保存していなかったかことも、東電の危機管理能力に疑問を感じさせます。作業員本人の幹細胞があれば、治療がしやすかったのです。
 幹細胞(かんさいぼう)は、複数系統の細胞に分化できる能力(多分化能)と、細胞分裂を経ても多分化能を維持できる能力(自己複製能)をあわせもつ細胞です。幹細胞から生じた二つの娘細胞のうち、一方は別の種類の細胞に分化するが他方は再び同じ分化能を維持します。そのため再生治療に必要なのです。
 東電がこのような対策をしていなかったことで、東電の危機管理能力が世界レベルではないことが分かります。原子力発電所を運営する能力がないのではないでしょうか。また、協力会社の社員が万全の対策をとっていなかったのは、危険なことは協力会社に押し付けるとう責任のなさが、東電の体質なのでしょうか。
 しかも与謝野財務大臣は電気料金の値上げを提案し、蓮舫消費者・節電啓発等担当大臣と海江田経済産業大臣は良い案だといって持ち帰ったそうで す。値上げすることで消費量を抑えようというのです。計画停電で不公平な停電を強制しているにもかかわらず、さらに電気量を値上げようというのです。停電に協力した地域には、停電時間に応じて割引などの処置をとらなければ、停電地域の不満は高まるでしょう。火事場泥棒的な政策といえます。やはり政府も東電も弱者の痛みが分からず、経済効率しか考えていないのでしょう。
 しかし計画停電で本部機能のある地域を守っても、肝心の工場のある地域を守っていないのですから、日本産業は低迷する一方でしょう。その影響は国内だけではなく諸外国にも及び、日本製の部品の調達ができないことによる生産の縮小が各国の産業でも見られるようになりました。世界経済も混乱しそうです。目先の損得勘定ばかり見ていて、経済全体を見ていないといえます。このような体質が、安易な原子力行政や指導力のない政治から垣間見られます。

外国からの支援を拒絶する政府

 3月11日発生した東北地方太平洋沖地震で東京電力福島第一原子力発電所の被害が判明した直後に、米国政府は原子炉冷却に関する技術的な支援を申し入れた。このニュースを聞いて米国は頼りになると思った人は多いでしょう。わたしもそのひとりです。米国はスリーマイル島原発事故を経験しているので、原発事故の怖さを知っているのだなと思いました。しかもクリントン米国務長官が11日に「日本の技術水準は高いが、冷却材が不足している。在日米空軍を使って冷却材を空輸した」と発言した後、横田基地の動きがあわただしくなったのが自宅でも分かるほどだったので、その準備をしているのだなと思っていました。そのため日本政府がそれを断ったと聞いたときには、「なぜ?」と大きな疑問をもちました。
 民主党幹部によれば、米国側の支援申し入れは、原子炉の廃炉を前提にしたものだったため、日本政府や東京電力は冷却機能の回復は可能であり、米側の提案は時期尚早との理由で、提案を受け入れなかったということです(読売新聞2011年3月18日8時12分)。
 しかし福島第一原発の現状を見れば、廃炉にせざるを得ない状況でしょう。菅首相が米国政府の申入れを受け入れていれば、放射性物質が周辺に漏れるといった現在の深刻な事態を回避できたはずです。やはり日本政府には危機意識がなかったことが分かります。
 さらに日本側の受け入れ態勢に不備があるため、諸外国からの支援が行き場を失っています(産経新聞3月24日17時38分)。
 たとえばロシアが毛布やマットレスを用意してロシア機がモスクワを発ったものの、日本側との受け入れ調整が手間取り、極東の空港で足止めされたということがありました。日本政府が規格外ということで難色を示したのです。その規格は80cm×80cmというもので、規格外とされた毛布は20センチほど規格に合わなかったそうです。誰が決めた規格でしょう。寒い日が続く東日本では、毛布は何枚あってもいいでしょう。被災者の気持ちになれば、サイズなんて関係ないはずです。今回のロシアの行動はとても早いものでした。無意味な規格をつくり支援を無駄にするのは、善意を踏みにじる行為でしょう。
 外国人医師団が患者の診察を申し出ても、日本の医師免許がないという理由で門前払いになり、医師らは医療行為ではない援助活動をするしかありませんでした。政府は地震から6日後の17日に外国人医師の医療行為を認めました。海外から被災者のために送られた薬品が、日本で承認していないものだったため、現地に届けることができなかったこともありました。また救助犬が検閲で足止めされることがありました。生存者を助けるには72時間以内出なければ難しいといわれているのにもかかわらずです。なぜ、非常事態に柔軟に対応できないのでしょうか。
 東南アジアの国では食糧を送ろうとした国もありました。日本人の口に合うようにもち米を入れるなども気遣いもあったのです。無用の物を送ってはかえって邪魔になるだろうからという気遣いもありました。日本からはこれまでにいろいろな支援を受けてきたので恩返しをしたいというです。それにもかかわらず、国内法や規格を盾にして受け入れに難色を示す例が数多くありました。むしろ非常事態の支援物資に対しては、一時的に規制を緩和するなどして、被災者のためにもすばやく受け入れる必要があるでしょう。断るにしても、善意を踏みにじるような断り方は避けるべきです。このように善意を踏みにじれるのは、担当者が被災者ではないからです。担当者に当事者感覚(主観性)がないために、非常事態という認識もなく既存の規制をそのまま当てはめてしまうのです。これが官僚組織の限界でもあるのです。こういうとき政治主導が必要なのにもかかわらず、政治主導が機能していないというのが、日本の現状なのです。

「直ちに影響はない」学者言葉と数値の垂れ流し!

 東北関東大震災に関する政府の発表と聞いていると、政治主導といいながら学者言葉や数値の垂れ流しばかりをしていて、政府の判断がまったく見えてきません。政治主導が形だけであることがよく分かります。関係者を怒鳴るのが政治主導だと勘違いしているのではないでしょうか。
 東京電力福島第一原子力発電所事故について、枝野官房長官が発表するときに、よく「直ちには影響がない」というので、「では後で影響が出るか」と非難されています。しかし、これは学者言葉を一般の人が理解していないことから生まれる誤解です。学者というのは慎重な物言いをするもので、けっして断定的な表現は使いません。「~である」と断定的にいうのを嫌い、「~であろう」といいます。これは自信がないからではなく、100%確実というわけではありませんという意味です。何事も確率的に100%ということはないので、学者の良心として「~であろう」と言うのです。
 実は、わたしは研究者であるにもかかわらず、確かだと考えられる場合は、「~である」と言います。すると、必ず「~である」と断定的に言うのはいかがなものかと横槍が入ります。実は「~であろう」という婉曲的な言い回しは世界共通ではなく、日本独特なものです。翻訳者が日本の研究者の論文を翻訳するときに、「~であろう」という言い回しを直訳してしまうと、外国の研究者からは、確実ではないものを発表するなと横槍が入ります。そのため、翻訳するときには断定的な言い回しにします。
 外国のメディアが政府は何か隠し事をしているのではないかと誤解するのは、この断定的ではない微妙な学者言葉の言い回しを理解できないからかもしれません。そして一般の日本の国民もそうです。「直ちに影響はない」と聞くと、では「後から影響が出るのか」と確かめたくなるのです。
 また数値の垂れ流しも気になります。政府は放射性物質の数値をよく発表しています。しかし数値を見て判断できるのは専門家だけです。国民は理解できません。たとえば23日に葛飾の金町浄水場から放射性物質の基準を上回る数値が出ました。そこで妊婦と1歳未満の乳児は水を飲まないようにとの発表がありました。たしかに妊婦や乳児についてはストレスを抱えるぐらいなら、安心するために用心してもいいでしょう。しかし放射性ヨウ素が甲状腺に留まるのは、大人なら5~10%程度であり、90~95%は尿や便で出ます。しかも、放射線ヨウ素の半減期は8日です。国際基準は1年間継続して摂取した場合を想定していますが、今回の数値はそれより低いですし減っていく傾向です。重要なのは、家庭の蛇口から出る水道水から、継続的に出る量です。一時的な数値を発表してパニックを起すことが上策でしょうか。ただ数値を発表しても、それでは国民による水の買占めを煽っているようにしか見えません。しかも煽られたお母さんが硬水でミルクをつくったら、それこそ身体によくないです。国民がどう行動すればいいのかを、政府や都道府県庁は分かりやすく説明しましょう。
 政治主導であるならば、政治家は学者(官僚)言葉で発表するのではなく、政治家自らの責任で自信をもって発表してください。そうでなければ、風評被害が拡大します。風評被害は被災地である南東北と北関東の農家をさらに苦しめ、復興を遅らせることになります。政治家は自らの責任で判断し、発表してください。影響がないなら影響がないと断定的に言いましょう。また、影響がないという結論を先に言いましょう。発表は結論を先に言うのが鉄則です。データはその後でいいのです。データを詳しく発表されても、一般の国民は理解できません。研究者が政府発表の信憑性を判断する材料として、知らせればいいだけです。

不公平な計画停電が日本経済をつぶす!東京一極集中に反省を!!

 東京電力福島第一原子力発電所事故により、東京電力管内は大停電を避けるために計画停電を実施しています。これは東京にとっても非常事態のはずです。そのため計画停電対象地域の住民は1日3時間(場合によっては6時間)の計画停電に耐えています。計画停電は公共交通機関の運行にも影響し、また耐久生活の圧迫感の中で買占め騒動も起きています。この状態がゴールデンウィークまで続き、夏にまた大停電の可能性があります。本部機能を東京から他地域に移転する企業があるのも、当然のことです。
 東京電力は、3月22日、計画停電について、現在の1~5グループに分けている対象地域と停電時間を、大グループ内で5小グループに分けて合計25グループにすることで、きめこまやかに実施するかどうか利用者に事前通知する方針を明らかにしました。これは、同じグループ内でも実施される地域と実施されない地域があるため、大グループを細分化して情報をより正確にすることを目指すと説明されています。また、大グループの中で実施する小グループを持ち回りにすることで、負担の公平化を目指すとも説明されています。でも、これは既存のグループ分けの中にとどまっており、大量の電気を消費している都心部が依然として例外となっています。これでは真に公平とはいえません。
 たしかに都心部には企業の本部機能がありますが、生産拠点は京葉・関東内陸・鹿島臨海工業地帯など周辺部にあるからです。このまま計画停電が続けば、安定した生産は夜間にしかできなくなります。日本経済の根幹である産業が停滞することになるのです。
 また細分化した場合、自分のグループの情報は正確に分かったとしても、取引先がどのグループに属しているか分かりづらくなるでしょう。周辺地域どうしで取引がある場合、互いの停電時間を考慮しいなくてはいけませんから、取引が大きく制限されてしまうのです。計画を立てた人は、都心と周辺地域のあいだの取引は想定していても、周辺地域どうしの取引を想定していないように思えます。停電は広く短くしなければ、周辺地域の経済を混乱させます。それはまさに産業の生産拠点の混乱でもあるのです。
 今回の震災の名を、東北地方太平洋沖地震から、東北関東大震災と呼ぶようになってきましたが、まさに関東は非常事態にあります。それにもかかわらず、政府は形だけ作業服を着て、実は高みの見物をしているだけです。大停電の恐れがあるなら、自ら率先して都心から離れたらどうでしょう。機能を東京郊外あるいは地方に移すことで、電力を東京都内に集中させる必要はなくなります。停電を広く薄くすることで、関東地方全体の混乱は薄まり、経済復興も早くなり、公共交通機関の少ない周辺地域の交通運行も確保できるでしょう。
 東京キー局も同様です。東京に拠点を持ったまま放送をつづけています。大停電の危険を持つ東京で放送を続けることは、危機意識がないからではないでしょうか。このような非常事態では、キー局であればこそ拠点を移して全国放送を続けた方がいいでしょう。拠点を関東以外に移すことで、首都圏中心ではない全国放送にふさわしい内容になるでしょうし、関東地方の消費電気量を削減するにも役立つでしょう。
 食料・燃料・交通・電力・ガス等のライフラインを確保するためにも非常事態宣言をして、関東地方全体の復旧をめざすべきでしょう。政府や東京都が東京の中心部にどかんと居座っていたのでは大停電の心配もあり、経済復興を妨げます。ライフラインの復興のためにも、首都機能を移転させて国民の負担を少なくすると発表すれば、住民のパニックも起こらないでしょう。

停電対象地域の細分化?

 3月21日17時18分日経新聞web刊の記事によれば、民主党の岡田幹事長が計画停電について、さいたま市で記者団に次のように述べたようです。「1日に3時間ぐらい切れてしまうのは経済活動にも大きなマイナスだし、生活面でも非常に不便だ」と述べ、対策の一例として「電気供給量が多少増えてきたら、ピーク時に集中的に大口規制する形でカバーするやり方がある」と述べたとのことです。
 しかし残念ながら時事通信3月22日10時24分の記事によれば、東京電力は22日、計画停電について、現在は1~5グループに分けている対象地域と停電時間を、より細かく分けて利用者に事前通知する方針を明らかにしたということです。利用者の不便を緩和するのが目的といいますが、これでは計画停電対象地域の人びと生活をまったく分かっていないと評価せざるをえません。大切なのは負担を広く薄くすることで、公平にすることです。1グループのをさらに5つに細分化して対象地域を差別化するのでは、停電を強いられ続ける地域の経済をさらに悪化させることになるでしょう。
 やはり「幸福な者の世界と、不幸な者の世界は異なる」ようです。上に立つ者が幸福なものであれば、やはり真に国民の生活を理解したものにはならないということが、よく理解できました。
 今の計画停電の方法は、対象地域の生活や経済活動に支障をきたすものであり、さらにもっとも電気消費量が多い都内で実施していないという不公平なものです。政府が早く計画停電の方法を検討することをのぞみます。

パ・リーグ英断―4月中のナイター中止

 プロ野球パ・リーグは、21日に東北太平洋沖地震に対応するための臨時オーナー会議を開いて、4月12日に公式戦を開幕するものの、4月中は東北電力・東京電力管内でナイターを行わないこと、また延長戦についても試合時間が3時間半を超えて新しいイニングに入らないことを決定しました。英断です。パ・リーグは東北楽天が被災地を本拠としており、また埼玉西武の本拠地所沢は計画停電地域です。地元の人たちの気持ちをよく理解しています。
 パ・リーグは公式ホームページで「パシフィック・リーグの開幕を楽しみにされておられたファンの皆様、既に入場券を購入されました皆様、パシフィック・リーグ及び各球団を応援・協賛いただいているスポンサーの皆様はじめ各関係者の皆様に、深くお詫び申し上げますとともに、何卒ご理解を賜りたくお願い申し上げます」と述べていますが、これに対して批判するファンもスポンサーもないでしょう。
 今回の大震災は広範囲に及ぶ深刻な被害の状況が明らかになりつつあり、国全体が被害地域における食料・燃料・交通・電力・ガス等のライフラインの確保に全力を挙げて取り組むべき非常事態であると考えられます。そのことを認識して正しい判断をしたパ・リーグのファンであることを、わたしは誇りに思います。

避難か地元再興か

 アパート建設を勧誘する営業が最近、わたしに近所をまわっています。アパートを新築して避難民に提供するならば、政府が一定期間借り上げるというものです。先週末から建設会社の営業が歩き回っています。すでに建てられている公営住宅を避難先に当てるとか、すでにあるマンション・アパートの空き部屋を借り上げるというのなら、仮設住宅ができるまでのあいだ利用してもらうことはできるでしょう。避難住宅はすぐにほしいのです。それを、これから新築アパートを建てて、それを政府に借り上げてもらうというのでは、遅いのではないでしょうか。便乗商法と思えてしまいます。
 これまでも、阪神淡路大震災や三宅島噴火などで避難民の受け入れがありました。阪神淡路大震災のときは、立川基地跡の空き地に仮設住宅が建てられえたものの、入居者がいたようには見えませんでした。また三宅島避難民は近所の都営住宅の空き部屋に受け入れました。
 避難民の気持ちとしては、故郷を離れたくないという気持ちと、早く暖かい部屋と食事がほしいという気持ちの両方でしょう。だから地元に仮設住宅を作るのがもっともいいでしょう。自治体の連帯も維持できます。しかし、仮設住宅の建設までにはまだまだ時間がかかります。そのため避難を希望する場合には、一日も早く受け入れる必要があるでしょう。この場合は緊急なのだから、すでにある公営住宅を空き部屋を提供し、それでも足りなければ民間のアパート・マンションの空き部屋を利用することなどが考えられます。
 ただし避難先では買い物する場所さえ分からないのですから、多くの不安を抱えることになります。受け入れる側は場所を提供して終りではなく、提供後も積極的に援助しなくてはいけません。そのため、もっともいいのは集団での避難です。自治体の連携で、互いに助け合うことことができるからです。バラバラで避難した場合、避難生活が長くなると自治体の連帯を維持することが難しくなり、やがて連絡も取れなくなります。さらに避難先でそれぞれの生活が営まれるので、地元復興に対する温度差が生まれて共同主観の形成も難しくなり、地元復興で一致団結できなることも考えられます。復興はあくまで自分たちでおこなうことで、第三者がしてくれるわけはないからです。第三者ができることは積極的な援助だけです。復興には地元の人たちの団結が必要なのです。これはすでに三宅島避難民が経験したことです。そのため、やはり避難先を提供して満足するのではなく、同時に仮設住宅の建設を急ぐ必要があるでしょう。それが東北地方の復興にもなります。

団結のためにも負担は公平に!

 東京電力によれば、計画停電はゴールデンウィーク明けまで続くようです。JR東日本では、自家発電の余剰分を東京電力に譲っています。JR東日本は駅構内の照明を暗くするなど節電に協力し、今回余剰電力を東電にまわしたのです。このような動きが広がることを期待します。
 関東地方の電力をまかなっていた東京電力福島第一原子力発電所の事故で、関東地方は計画停電が実施されています。福島原発は東京電力のものであり、東北電力の管内である福島では利用されていません。福島の人たちは関東地方の電力をまかなうために、原子力発電所を押し付けられ、そして今は放射能汚染の危機にあります。福島・茨城県産の牛乳やほうれん草から基準値を超える放射線が検出されて流通されなくなりましたが、今後安全宣言が出たとしても風評被害で売れなくなるでしょう。とくに牛乳や青物の被害は深刻です。さらに福島県の人が宿泊施設を利用として断られたとも聞いています。福島県の人たちが風評被害にあわないように、わたしたちは正しい情報を選択しなければなりません。現在は情報時代ですが、実は自分が求める情報しか目にしないものです。そのため同じ情報が一気に広まり、パニックも起こりやすいといえます。自分が求める情報だけではなく、他の情報にも目を通すことが必要です。そうでなければ、ただしい判断はできません。
 計画停電が東北地方ではなく関東地方で実施されているのは、計画停電が東北地方のためではなく、東京電力内で電力を分け合うためです。対象地域の人たちは1日3時間なら被災地に比べれば恵まれていると考えて我慢していますが、我慢してまかなっている電気は東北地方の人たちのためではなく、同じ関東のほかの地域のためです。
 そのような中で計画停電の対象からはずされている地域があるとなると、対象地域の住民の不満は高まります。もちろん照明などが落とされ、デパートの営業も短縮されていますので、都内でも努力されていることは理解できますが、停電の厳しさは実際に停電を経験しないと理解できないものです。東京管内の東京ドームと神宮球場で開幕戦をナイターで実施しようという発想は、計画停電対象地域では出てこないものです。どこか危機意識がないようです。今回は東京直下型地震ではありませんが、東京電力の原発事故で消費電気量が不足しているという事態は、東京にとって十分に非常事態です。このことが分かっていない人たちがいるようです。
 対象地域の住民も、連日の停電に疲れ始めています。それでも計画停電の負担が平等であれば、不満も出ないのでしょうが、優遇されている地域があると、がんばろうという気持ちも湧きません。負担を浅く広くできないのでしょうか。
 今回の地震は、東京のエゴを明らかにしたといえるでしょう。危機を乗り越えるには団結が必要ですが、実は団結は危機意識の共有で生まれます。負担が公平でなければ、危機意識を共有できずに団結は難しくなります。このことの認識が必要です。

ガソリン買占め騒動とバス運行本数の削減

 私の住んでいる地域ではガソリン買占め騒動が収まらないまま、ついに燃料(ガソリン・軽油)の不足と、電車の運休による乗務員確保の困難を理由に、バスの本数が22日から70~80%に削減されます。これでまた、ガソリン買占め騒動は続くかもしれません。
 近所のガソリンスタンドでは、常連は2,000円分まで、一見さんは1,000円分までと制限しています。でも1,000円分だと7リットル前後ですから、土曜・日曜日にあちこちでガソリンを買い占めている人たちは、ガソリンを消費しながらガソリンを買い集めていることになります。とても無駄なことです。またガソリンを買い占めている人たちが他の物も買い占めていたら、買占めのためにもガソリンを消費し、さらにガソリンを消費するので再びガソリンを買い占めるという悪循環を生み出します。まさに負のスパイラルです。そして、そのことで公共交通機関の運行に支障ができ、物資があっても運べない状態に陥るのです。
 ガソリン供給の面から見ても、ガソリンの買占めでガソリンが売り切れ、ガソリンを運ぶタンクローリーが、そのたびに燃料を消費しながらガソリンを輸送しているという悪循環を生んでいます。買占め騒動は復興を遅らせますし、非常時に重要な燃料を無駄遣いしています。事後の反省だけではなく、行動する前に考える事前の反省が必要です。
 東北地方太平洋沖地震では茨城県や千葉県でも大きな被害を受けているものの、物資は東北地方への支給が優先され、茨城・千葉は後回しになっています。そのため物資は不足がちです。とくに、公共交通機関の少ない地方での燃料不足は深刻です。断水中の地域では、自家用車で給水地点に行く住民が多くいます。その車がガソリン不足で動かなくなったらどうなるでしょう。東北地方の被害があまりに大きく、とくに千葉が被災地であることは忘れられがちで、旭市のように被災地であるにもかかわらず計画停電で対象地域に含まれたところもあります。公共交通網の充実している東京で、ガソリンの買占めが行われていることが信じられません。
 公共交通網に恵まれている地域では自家用車の給油は最小限にして、公共交通機関や輸送車優先してほしいと思います。実際に私の住んでいる地域では、燃料(ガソリン・軽油)が手に入らなくなったことを理由にバスの本数が20~30%減ります。また輸送についても同様です。物資はあっても、燃料がなければ輸送できません。
 また今後は原子力発電に頼るのではなく、犬吠埼の沖に風力発電を建設することが求められます。

プロ野球開幕戦ナイターは中止を!

 セ・リーグは選手会の反対を押し切り、予定通り今月25日に開幕するということです。それに対して、パ・リーグは楽天の本拠地仙台が被災したので4月12日まで開幕を延期しました。17日夕方東京が大停電の可能性のなかで帰宅ラッシュを迎えた17時半に、日本野球機構(NPB)事務局の会議室で開幕日程が明らかになりました。開幕3試合は東京ドーム・神宮・ナゴヤでいずれも18:00開始のナイターです。このうち東京ドームと神宮は東京電力管内です。1回のナイターで3,500世帯の1日分の電気を消費するそうです。ということは、7,000世帯の1日分の電気が消費されます。7,000世帯に停電を強要してナイターを実行しようというのでしょうか。Jリーグも試合の延期を決めており、セ・リーグの姿勢が信じられません。やはり「幸福な者の世界と、不幸な者の世界は異なる」のでしょう。
 東京ドームも神宮も計画停電の対象地域になっていないため、やはり電気供給量に対する危機意識がないのでしょう。東京で計画停電があると指令ができないからという意見もあるでしょうが、東京直下型地震を想定した体制があります。実際に、地震直後の内閣総理大臣の会見は都内ではなく立川市の施設でおこなわれました。東京都にも直下型地震を想定した体制があるはずです。東京直下型地震の練習もかねて、非常事態宣言をすればいいのです。福島原発事故は非常事態宣言に相応するでしょう。東京中心部だけが高みの見物できる状況ではないはずです。
 今回の地震では、関東地方の電気をまかなっていた福島原発での事故であり、東京にも責任があります。だから計画停電の対象地域の住民は、1日3時間なら被災地に比べれば恵まれていると考え、我慢しているのです。また、そのことで被災地の人たちとの連帯意識も生まれます。
 都内でも、荒川・足立・板橋・練馬など周辺部は計画停電の対象地域になっています。都内の他の地域でも可能でしょう。都内ではバスなどの公共交通も充実しています。山手線の内側は、都バスが網羅しています。自転車での移動もそれほど苦にならないはずですし、タクシー代もそれほど高くはならないでしょう。
 工業生産の拠点は、むしろ計画停電対象地域である京葉・関東内陸・鹿島臨海工業地域にあるのですから、早い復興を目指すのであれば、特定の地域を守るのではなく平等に薄く制限することが必要でしょう。
 東北地方太平洋沖地震では茨城県や千葉県でも大きな被害を受けているものの、物資は東北地方への支給が優先され、茨城・千葉は後回しになっています。そのため物資は不足がちで、とくにガソリンが不足しています。公共交通機関の乏しい地方での燃料不足は深刻です。断水中の地域もあり、車で給水地点に行く住民が多くいます。東北地方の被害があまりに甚大なため、とくに千葉は被災地という意識は薄く、被災地であるにもかかわらず14日に始まった計画停電で対象地域に含まれたところもあります。公共交通網の充実している東京で、ガソリンの買占めが行われていることが信じられません。
 危機では団結が必要です。いや危機は団結を強めます。危機意識を共有することで目的がひとつになり、間主観性が築かれるからです。そして危機も乗り終えることができるのです。

非常勤・パート・アルバイトが生活困窮者に

 今日も計画停電があり、第3グループは15:20~19:00のうち3時間が停電でした。私の住んでいる地域では夕方16:00前から18:30まで実施されました。2時間半の停電でした。とくに今日は気温が低くてこたえます。
 このように停電が確実におこなわれるようになったのは、暖房のためだけではなく、鉄道運行のためもあるでしょう。鉄道運行が回復するとともに停電の範囲が広がっています。でも利用者の少ない時間帯も100%運行させる必要はないでしょう。昼間の東京特別区23区内(以下、都内)のガラガラの電車の運行のために、同時刻の周辺地域に停電を強制しているのであれば、停電実施地域からの不満は高まるでしょう。利用客の少ない時間帯は本数を調整して、計画停電の範囲を少なくした方が、計画停電地域の負担は減るでしょう。しかも帰宅時間には大停電を避けるために本数を削減したのでは、通勤者にはかえって負担を強いることになります。鉄道会社を優遇した本来の意味がなくなります。これでは、計画停電地域からの通勤者は二重苦状態です。ただし、通勤できる人たちはまだいいかもしれません。会社が自宅待機を決めた場合、非正規社員はそのまま収入減となります。
 計画停電を実行すればもっとも効果のあるはずの都内で実施しないで、周辺地域に停電を強制するのは、実は効果を考えれば大いに疑問があります。大規模停電があったら、それこそ都内は大混乱となり、都内を計画停電にした意味がなくなり、本末転倒になります。都内で実施しないがために、地震で土壌が液状化してガス・水道が滞っている千葉県浦安市でも、今日から計画停電が実施されました。被害のない都内では計画停電がされていないので、不満は出るでしょう。負担には公平感が必要です。
 また都内には商業施設が多くありますが、計画停電のために早く帰宅する人が多く、店は開店休業状態です。都内を優遇した意味がありません。
 産業ということを考えても、都内のみ停電が実施されないのは不条理でしょう。本社機能は都内にあったとしても、工場は周辺地域にあるからです。生産拠点が計画停電で操業停止になっているのであれば、いくら本社のある都内を優遇しても生産力は低下します。これは国内だけの問題ではありません。韓国製品の部品は多く日本製ですから、日本の中小工場の生産力が低下すれば、韓国経済も深刻な事態になります。これは韓国企業に限ったことではないので、世界経済に与える影響は大きいでしょう。ほとんどの企業の生産拠点は都内ではなく、周辺地域にあります。それが京葉工業地域であり、関東内陸工業地域であり、鹿島臨海工業地域です。中小工場も、千代田区や中央区・港区にはありません。下町にあるのです。東京を中心にした見方だけでは、真実は見えてきません。産業という視点で見れば、むしろ周辺地域こそ重要です。東京は消費地です。地方があってこその東京という意識を持つべきでしょう。
 都内を計画停電から除外する必要はないでしょう。むしろ東京が地方の犠牲の上に成り立っていることを実感するためにも、都内でも計画停電を実行した方がいいと思います。官邸も都庁も非常電源のもとで会見すれば感度をもたれるでしょう。テレビも真っ暗な中で報道すれば、評価されます。私もここ数日の計画停電のおかげで、いかに東京が地方に支えられているのか実感しました。
 このように考えてくると、被災地でもない東京で買占め騒動があるのが恥ずかしくなります。とくに燃料の買占めは被災地の復興を妨げます。これまでのように東京が地方に一方的に負担を強いたのであれば、地方は今後協力しようとは思わないでしょう。負担の公平感があってこそ、皆が協力し合えるのです。
 このままの事態が続けば、非常勤・パートタイマー・アルバイトの人たちの収入減となり、生活困難者が生まれるでしょう。正規社員であれば自宅待機でも給料は支払われるでしょうが、非正規社員であれば自宅待機はそのまま収入減になります。被災地ではない地域で、生活困難者が出る可能性もあります。仕事場は都内だけではないことを考えるべきでしょう。被災地ではないところでも、生活困窮者は生まれそうです。このことは正規社員を中心に考えていると見落としてしまいがちです。多くの視点から物事は見る必要があります。自分が見ている世界だけがすべてとは思わないようにしましょう。
 「幸福な者が見る世界と、不幸な者が見る世界は異なる」。このことを肝に銘じなければなりません。

計画停電で被災者との連帯感

 今日3/16(水)わたしの仕事場は自宅と同じ第3グループだったので、夜に停電の可能性があるということで当日に休講が決まり、自宅待機をしていました。
 18:20~22:00という夕方から夜にかけての時間帯での計画停電予定でした。今日は朝から計画停電が実施されて、前の時間帯では武蔵野・三鷹でも実施されたと聞いていたので、帰宅ラッシュの時間帯でもある第3グループの実施も覚悟しました。
 それでも18:20にはまだ停電はなく、18:30もまわり、今日も実施しないのかなと思った19:00前にブチッと電気が切れて停電しました。停電している間は何もすることがなく、パソコンで原稿を書こうかとも思って、ノートパソコンを開いてすこし執筆したのですが、目が悪くなりそうなのでやめて、携帯で音楽を聴いたり、ラジオでニュースを聴いたりしていました。でも気づいたのですが、音だけの方が想像力がかき立てられますね。音から視覚的イメージがわき上がってくるのです。
 いつも同じ日常が続くと、条件反射だけで生活できます。深く考えなくていいのです。決断も必要ありません。二つの対立する選択肢に直面しないからです。そのような想像力のない中で、危機を向かえた場合どうなるでしょう。条件反射的に行動するのですから、行列があったら並び、商棚にないと欲しくなる。本当に必要かどうか考えずに欲しくなるのです。でも、よく考えれば少し物流が滞っているだけで、生産はもうすぐ復活します。被災者でもないのに買い占める必要はありません。普段から想像力を鍛える必要があるかもしれません。想像力がなければ、他者の気持ちなど分かるはずもありません。
 今日はたったの2時間の停電ですみました。しかも予告されたものです。それでも、被災者の気持ちをほんの少しですが共有できたように思えました。私の中に連帯感が生まれたのです。わたしにとって計画停電は、被災者との連帯感をもつ良いきっかけになりました。計画停電には批判もありますが、被災者との連帯感を持てる機会だと考えれます。
 無駄な外出はしない。無駄に買占めをしない。とくに被災地には燃料がなくて困っています。支援物資があっても燃料がなくて避難所まで運べないのです。行列ができているから行列に並ぶ。商棚にないから必要のない物まで買う。こういうことはやめましょう。落ち着いて、じっとして、被災者の苦労を少しでも想像しましょう。

東京電力計画停電予定(~4/10)更新情報

東京電力管轄の第3グループの計画停電は以下の通りです(私の地域は3Bです)。
3/14(月)午後12:20~16:00、
3/15(火)午前6:20~10:00、
3/16(水)午後18:20~22:00、
3/17(木)午後15:20~19:00、
3/18(金)午後12:20~16:00、
3/19(土)午前9:20~13:00、
3/20(日)午前6:20~10:00、
3/21(祝)午後18:20~22:00、
3/22(火)午後15:20~19:00、
3/23(水)午後12:20~16:00、
3/24(木)午前9:20~13:00(※2回目16:50~20:30)、
3/25(金)午前6:20~10:00(※2回目13:50~17:30)、
3/26(土)午後18:20~22:00、
3/27(日)午後15:20~19:00、
3/28(月)午後12:20~16:00
3/29(火)午前9:20~13:00(※2回目16:50~20:30)、
3/30(水)午前6:20~10:00(※2回目13:50~17:30)、
3/31(木)午後18:20~22:00、
4/1(金)午後15:20~19:00、
4/2(土)午後12:20~16:00、
4/3(日)午前9:20~13:00(※2回目16:50~20:30)、
4/4(月)午前6:20~10:00(※2回目13:50~17:30)、
4/5(火)午後18:20~22:00、
4/6(水)午後15:20~19:00、
4/7(木)午後12:20~16:00、
4/8(金)午前9:20~13:00(※2回目16:50~20:30)、
4/9(土)午前6:20~10:00(※2回目13:50~17:30)、
4/10(日)午後18:20~22:00、
※また他のグループの方は以下のページをご参照ください。
http://www.tepco.co.jp/images/week_schedule.pdf

東北地方太平洋沖地震にともなう買占め騒動

 わたしの住んでいる地域は東電第3グループで、今日3/15(火)は午前6:20~10:00のあいだ計画停電の予定でしたが、実施されませんでした。しかも出かけた時間は遅かったためか、中央線も特別快速が運休しているだけで、東京~立川間に関しては大きな不便は感じません。一部の地域で計画停電を実施したため、電車の数も増えているのでしょう。感謝です。
 帰宅も早めにして、四谷駅16:20発の立川行き快速電車に乗りましたが、早期帰宅を実施している会社があるのか、夕方16時台にしては混んでいました。立川駅からはバスですが、ここで事件です。
 バス路線の途中のガソリンスタンドで行列ができ、バスがひとつのバス停を進むのに一時間半かかったそうです。そのため、わたしも立川駅前のバス停で一時間以上待たされてしまいました。普段は10分に1台の間隔でバスがあるため、1台が到着すると7台ほどのバスがつぎつぎと来ていました。
 災害で道路が混んでいたのなら我慢できます。電車の混乱で自動車通勤する人が多くて混んでいたのなら我慢できます。でも、ガソリンを買うための車の行列のために道路が混んでいるというのは納得できません。連日のことだったので、今日は警察が出動していました。
 もしガソリン不足という事態になったとしても、そのときは救援物資の必要な被災地やバスなど公共交通機関にまわすべきでしょう。震災があったわけでもないのに、食糧や洗剤、トイレットペーパーも買占められています。必要以上に買う必要はないでしょう。むしろ物資は被災地を優先すべきで、被災地でもない東京で買占めがおこなわれることは納得できません。
 誰かが不安を煽っているのでしょうか。マスコミでしょうか。インターネットでしょうか。メールでしょうか。不安で不安を煽るのはやめましょう。不安に駆られて自分で自分を煽るのはやめましょう。買い物に行って品物がないのを見て不安になり、買占めに走る。そのことでまた品物がなくなり、不安に煽られてまた買占めに走る。また行列を見て不安に駆られて、行列に並ぶ。不安と買占めのスパイラルにはまっています。
 東京の物不足は震災による物不足ではなく、供給量不足による物不足でもなく、買占めによる物不足です。停電が実施されても、たった3時間の停電です。しかも電車の本数も増えているので、東京であれば自動車通勤の必要はありません。まわりの地域の停電という犠牲の上に、東京では電車が走っているのです。そのことに感謝すれば、東京で物を買い占めるなんてことはできないはずです。
 わたしの住んでいる地域には自衛隊駐屯地、防災センター、ハイパーレスキュー隊基地・訓練施設、在日米軍基地があるため、3/11(金)地震発生以来、多くのヘリコプターが飛び交っています。今日は被災地に向かう車両にも出会いました。そのためか、地震を身近に感じられます。だれがもっとも困っているのか。だれに物資が必要か。そのことを思い巡らすことのできる想像力が必要でしょう。条件反射的に行動するのではなく、いちど考えるのです。これが反省ということです。反省は事後にするだけでは十分ではなく、むしろ事前にもすべきなのです。その上で決断して、まちがっていたら行動を修正する。これが正しい行動主義です。
 感謝する気持ちがあれば、相手のことを思いやれるはずです。東京は他の地域の犠牲の上で、今は混乱が起きていないのです。そのことに感謝すべきであり、被災地でもないのに買占めに走るのは、恥ずかしいことだと思わないといけないでしょう。被災地や計画停電になっている地域のことをまず考えるべきでしょう。
 

東北地方太平洋沖地震にともなう計画停電について

 私に住んでいる地域は東京電力管轄の第3グループで、今日3/14(月)午後12:20~16:00のあいだに3時間の停電が予定されていたものの、けっきょく停電はしませんでした。これは、みなさんの節電協力と停電を見込んでの電車の本数を大幅に減らした効果でしょう。またデパートなど大型店が臨時休業となり、工場でも早々と操業停止を決めたところがありました。その効果もあるでしょう。第3グループは、3/15(火)午前6:20~10:00、3/16(水)午後18:20~22:00、3/17(木)午後15:20~19:00、3/18(金)午後12:20~16:00の予定です。5つの時間帯①6:20~10:00、②9:20~13:00、③12:20~16:00、④15:20~19:00、⑤18:20~22:00を順繰りにずらしていくのでしょう。
 東京では計画停電がなかったことで、きちんと停電してくれた方が計画を立てやすいという批判もあります。しかし、電車の本数が減ったことで結果として停電が回避できたのであり、停電が回避できたことで病院や自宅で医療機器を利用している人たちの生命はつながったのです。信号も点いて、停電の影響による交通事故もなかったのです。さらに第5グループの東京以外の地域では、計画停電が実施されました。その犠牲の上で東京は平穏でいられるのです。そのことに感謝するのが先でしょう。電気は蓄電できないので、停電を実施するかどうかは、そのときの電気の供給・需要量のバランスで決まります。東電が手探りで実被害を最小限にしようと努力していることは評価できます。批判は簡単です。むしろ評価できるところは評価するという態度が必要なのです。停電があると思って計画立てたけど、けっきょく停電がなくて良かった~!でいいでしょう。被災者の皆さんの大変さに比べれば、大したことはありません。
 スーパーなどで食料品が売り切れてなくなっているそうですが、不安で不安を煽って自分で自分を煽るようなことはやめましょう。いま食料品や水を求めているのは被災地の皆さんです。停電といっても、時間を区切っての計画的なものであり、限定的なものです。そのことは今日はっきり分かったはずです。できる限り停電にしたくないというのが東電の姿勢です。そう思いましょう。
 ものごとは私の想像の通りには進まないものです。かならず期待は裏切られ、計画通りには進まないものです。このとき計画段階では想像できなかったものが現れます。しかし、そのことで計画の問題点が浮き彫りになるのです。その問題点を修正し、次に進む。こうして、わたしたちはよりよいものを築いていけるのです。批判ばかりして前に進まないよりも、手探りでも実行することが大切でしょう。そのことで問題点は解決できます。これがプラグマティズムです。アメリカ流の楽観的な弁証法ですね。
 それと、テレビの報道を見ていて思ったのですが、東京にはNHK(総合・教育)のほかに民放キー局が日本テレビ・TBS・フジテレビ(CX)・テレビ朝日・テレビ東京(TX)とあり、しかもどのテレビ局も同じ報道内容です。これなら節電のためにもテレビ局も輪番制にしたらどうでしょう。全国で見ることのできるNHKと民放キー局1局で十分でしょう。煌々と明るいスタジオをみていると、きっと大きな効果があると思えます。東電を批判する前に、自分たちも節電しましょう!テレビ局さん。

週刊文春の取材・東大特集

 今日、週刊文春の取材を受けました。3月10日に東大の合格発表があるのですが、3月17日号の発売日と重なるので、東大受験特集の記事を組むそうです。週刊朝日やサンデー毎日はこの時期受験特集を組みますが、やはり売れるそうです。それで6日に取材申し込みがあり、今日7日に取材がありました。ちょうど2月20日(日)背広に革靴で下り坂を全速力で走ったために受傷した肉離れでの治療で、立川の国立病院災害医療センターに通院する日だったので、立川ルミネにある行きつけのHongKongSweets果香で取材を受けました。
 編集の東郷さんは、当ブログからメールで連絡してきたのですが、取材の時にはすでに『東大入試で遊ぶ教養』も紀伊国屋書店で購入されていました。この本はジュンク堂と紀伊国屋書店で手に入ります。紀伊国屋さんでは東大コーナーに置いてあるそうです。ブログで同書の訂正を出していることも知っていました。ブログの内容もよく読んでいますね。短期間での取材なのに、よく勉強されています。感心しました。
 話した内容は、①今年の東大前期の問題はやさしめであったこと、②東大の入試問題を的中させることは難しくないこと、③なぜなら東大で出題されやすい分野があること、④そのため過去の入試問題をしっかりと勉強していれば二次対策になること、⑤東大の入試問題作成者は教えたがりなので楽しみながら解けること、⑥東大基準と予備校基準の違いは一言でいうと「大胆」と「無難」であることです。予備校は無難な模範解答をつくるので、逐語訳的な面白みのない解答例をつくります。合格ラインを無難に超えたいのでしょう。戦略としてはまちがっていません。しかし1983年東大日本史で予備校の模範解答にダメ出しをしたうえで再度同じ問題を出したように、東大日本史は無難な解答を求めていません。資料を読んで自分が「いいたい」と思ったことを書かないと採点官はがっかりします。ここが模擬試験の結果と合格結果が必ずしも一致しない理由です。
 取材申込みの連絡をメールで受けて思ったのは、まだ東大需要があるのだなという感慨です。いま中学受験の個人指導もしているのですが、たしかにその子も東大を目指している桜蔭志望者です。最近の中学入試は東大の影響があって、単なる暗記科目ではなくなっています。灘中の入試問題に社会科がないように、かつては暗記科目だったのですが、今は立派に思考問題が作られています。海城中で「鯰絵」を題材にした文章題が出たときには、正直面白いと思いました。はじめは地震を起こす鯰を石で封印しようとしているのに、次第に地震で建設業が盛んになることから鯰が善神になり、さらに最後には世直し大明神になるという経過を説明した文章題です。まさに教えたがりの問題です。この鯰絵に関する考えは、社会経済史や文化人類学を学んだ者には有名な学説であり、しかも地震がテーマなので、歴史だけではなく地理や公民の問題も作成できます。いいところに目をつけたなと思いました。
 また慶應中等部でも、外交史を問題に出したときに、日中貿易と関係のないものを選択する問題が出題されたことがあります。その選択肢には勘合貿易のほかに南蛮貿易と三角貿易がありました。教科書や大手塾のテキストでは、南蛮貿易の交易品はポルトガル・スペインらしい物を挙げているので、一般の中学受験者は南蛮貿易が日中貿易と関係ないと判断してしまいます。しかし南蛮貿易は、倭寇ルートを利用した日中間の中継貿易でした。そのため日中貿易と関係ないのは、イギリス・アフリカ・アメリカ間の奴隷貿易である三角貿易です。この問題を見たとき、慶應中等部の入試作成者はわかっているなと感心したのですが、残念ながら入試日当日に選択肢から南蛮貿易が外されました。きっと塾からの批判を避けるためでしょう。もったいない問題でした。けっこう中学入試も面白いですよ。
 このように東大需要があるのでは、しばらく更新していない東大関係の記事を更新しないといけませんね。また既出の模範解答も、よりよいものにできるものは修正する必要があるでしょう。
 明日8日午後に校正原稿が出るのですが、どのようにコメントが採用されているでしょうね。わたしの「いいたいこと」と編集者の「受け取ったこと」はおそらく微妙にずれているでしょう。着目点が異なれば、同じことを感覚として受け取っても、異なる解釈が生まれます。これが解釈学の主張です。この解釈の違いから他人の視点を知ることができるので、そこがまた楽しいのです。

横山氏の系譜―高島七頭(3)

 高島郡横山郷地頭職は鎌倉初期には大江広元であったが、佐々木広綱に譲られた(地蔵院文書)。このことから、佐々木広綱が大江広元の女婿であったことが分かる。広綱の「広」の字は、烏帽子親であり舅でもある広元の一字書き出しであろう。しかし山城守広綱が承久の乱で京方であったことから、乱後に鎌倉方の弟近江守信綱(当時は右衛門尉)に与えられ、それが近江二郎左衛門尉高信から次男出羽守頼綱(五郎)、さらに頼綱の長男出羽三郎左衛門尉頼信に伝えられた。
 正応五年(1292)のものと推定できる閏六月二十八日付左衛門尉頼信宛尼妙語書状(朽木七三〇号)によって、横山頼信が妙語から高島本庄案主職・後一条地頭職を譲られている。妙語は近江孫四郎左衛門尉泰信の妻であり、案主名・後一条は始め妙語の子息四郎右衛門尉行綱に譲られたが、行綱の不孝を理由に同地を悔い返し、甥の頼信に譲与した。実子であろうとも菩提を弔わないようであれば、所領を相続させなかったのである。そして菩提を弔ってくれるものに所領を譲与したのである。
当時は子に親不孝なことがあれば、一度与えられた所領でも親によって悔い返えされた。行綱もその事例である。
 同地は、さらに嘉元二年(1304)八月頼信から娘愛寿御前に譲られたが、愛寿御前に子供が生まれなかったため、元徳元年(1329)十月に道定(横山頼信の法名)は愛寿御前一期ののちに、幼いときから育てている「おとしゆ丸」に同地を譲る譲状を認めた。
しかし頼信から愛寿御前を経て「おとしゆ丸」に譲られた高島本庄案主職と後一条地頭職をめぐり、佐々木行綱女子尼心阿と出羽五郎義信が相論になり、暦応二年(1339)には和解が成立して、同年九月十一日付で尼心阿和与状が作成された。この義信が「おとしゆ丸」の成人後の姿であろう。暦応四年(1341)三月十七日付足利直義裁許状で、心阿が関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継などを所持し、義信は関東安堵外題証文などを所持していたことが確認できる。どちらも証拠となる文書を所持しており、尼心阿に対して朽木義信が「三問三答の訴陳」に及ぶことになった。この相論に頼信(法名道定)が関与していないことから、頼信(入道道定)は没していたと分かる。
 ところが出羽三郎左衛門尉入道道光が、建武三年(1336)から貞和四年(1348)まで確認できる。出羽を名乗ることから出羽守頼綱の子孫と分かる。建武三年六月十三日付大音助俊軍忠状(大音正和家文書)によれば、建武三年(1336)六月二日に大音助俊が大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道に従軍し、近江高島郡三尾崎の関所を警固していた。十日に二条権大納言方と合戦になり、助俊は忠節を尽くした。この事実を大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道は知っており、近江御家人の横江六郎と八田三位房も見知っているという。そして大将軍佐々木道光は、その内容を認めて判を添えている。
 翌年の建武四年(1337)には、永田四郎信氏とともに室町幕府の両使として山徒山本坊定祐の鴨社領高島庄押領の停止をおこなっている(古事類苑神祇部一所収加茂御祖皇大神宮諸国神戸記六)。
 また六角氏頼が守護を勤めていた期間のものである一切経保田雑掌禅海申状によれば、「佐々木出羽弥三郎法師(法名道光)」が同地に濫妨狼藉し、訴えにより院宣が発給され、守護六角氏頼の遵行命令により雑掌に下地が打ち渡されたが、道光は「使節遵行之地」に立ち還り再度押妨を働いた(地蔵院文書)。そして貞和四年(1348)八月二十四日付道光起請文が認められている(地蔵院文書貞和四年八月二十四日付佐々木道光起請文)。これで道光が横山郷に権益を有していたと分かる。
 さらに道光が「出羽弥三郎」(地蔵院文書)と呼ばれていることにも注目できる。これは出羽守の孫(曾孫)の三郎という意味であり、出羽守頼綱の子出羽三郎左衛門尉頼信(法名道定)とは別人と分かるからである。「出羽三郎左衛門入道」(大音正和文書)の名乗りから、横山頼信(道定)と同一人物と見る意見もあるが(1)、資料を広く求めれば別人である。
 頼信は元徳元年(1329)には娘愛寿御前に子どもが生まれなかったために、幼少から育てていた「おとしゆ丸」に所領を譲った。一族の男子を幼少のときから育てていたのだろう。娘に子どもが生まれることを期待できなかった年齢に達していた道定と、観応の擾乱まで活躍する出羽弥三郎法師道光では世代が異なる。そのことを「三郎」と「弥三郎」のちがいからも理解できる。
 尊卑分脈によれば、出羽守頼綱の孫で三郎というと、頼綱の末子有信の子三郎有綱がいる。また尊卑分脈で横山頼信の子に五郎頼有が記されているが、有信・有綱父子と頼有の間で「有」が通字になっていることにも注目できる。それは、有信の外戚伊具流北条氏の通字を使用したと考えられるからである。横山郷は頼信の末弟有信の子孫によって継承されたと考えられる。
 こののち一切経保田領家方は、永和五年(1379)金蓮寺領半分が地蔵院に寄進され、さらに永享九年(1437)残り半分のうち二分の一も地蔵院に寄進された(2)。これは地蔵院の保護者細川頼之に期待してのことであり、頼之後の細川氏が地蔵院を保護できなければ、地蔵院に寄進した意味はなくなる。こうして金蓮寺は得分を取り戻そうとして、領家どうしが争うことになった。金蓮寺雑掌が一切経保田を一円押領したことから、応永十年(1403)八月には地蔵院が幕府に訴え、守護六角満高に遵行命令が下され、さらに北山尊勝院が地蔵院領を押領したため、再び幕府は守護六角満高に遵行命令を下している。このような状態に悩まされていた地蔵院は、応永二十一年(1414)三月に千代満を代官にしている。千代満は本主横山氏であろう。さらに応永二十八年(1421)六月、近江国高島郡横山三河守跡が、幕府によって石清水八幡宮雑掌に与えられた(東京大学史料編纂所「菊大路文書」三所収応永二十八年六月五日付六角満綱宛室町幕府御教書)。これで、横山氏であろう千代満と横山三河守を確認できる。年代的に同一人物と考えられる。


(1)西島太郎『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、二〇〇六年。
(2)大山喬平編『細川頼之と西山地蔵院文書』思文閣出版、一九八八年。

嫉妬しない彼―冷めてしまった彼への処方箋

女性の彼に対する悩みに、彼が嫉妬してくれないというのがある。嫉妬してくれない彼に、もしかしたら愛情がなくなってしまったのではないかと心配になるんだ。それに対して彼は、嫉妬しない性格なんだと答えるかもしれない。あなたが同性に相談すると、私の彼も嫉妬しないタイプなんだという返事が来ると思う。

でもね、男性が女性に告白するのは、その女性を自分が独占したいと思うからなんだ。だから基本的に男性は嫉妬深いと考えた方がいい。嫉妬というと、女偏だから女性のものと思われがちだけど、実は男性の嫉妬はものすごく強い。それは小沢一郎問題をみるといい。検察が1年以上もかけて調べても証拠不十分で起訴断念した小沢一郎を、政治家や司法・マスコミが新しい証拠もないのにたたいているのは、まさに男性の嫉妬からだ。職場でも優秀な人物がつぶされたり、リストラされることはよくあるでしょう。出るくいは打たれる、というのはまさに男性の嫉妬のことなんだ。

彼が嫉妬していないとしたら、やせ我慢をしているだけかもしれない。嫉妬していると分かったら、心が狭いと思われてカッコ悪いから、やせ我慢しているんだ。嫉妬しないの?と問われても、自分の弱さを見せたくないから、嫉妬しない性格なんだと答えている可能性が高い。そうならば、いくら彼が嫉妬しない性格なんだと言っていても、それを真に受けてはいけない。彼は内心でものすごく不満を溜め込んでいるかもしれない。心に溜め込んでいる分、いちど爆発したら別れ話まで一気に行ってしまう。これは男女に限らないと思う。普段我慢している人が爆発したら、大変なことになる。ひとつのことを極限まで突き進めていくと一気に反転してしまう。依然やさしかった人が最近起こりぽっくなって来たとしたら、まさに限界に来ているということだ。気づかないと手遅れになる。彼が我慢を重ねているなら、あなたが予測できないほど小さなことでも、一気に爆発する可能性がある。今までなら怒らなかったことで怒り出したら、要注意だ。

無理してひとつのことを推し通そうとすると、必ず抑圧されていた真逆のことが表出する。抑え込もうとすればするほど、強く大きく現れてくる。嫉妬してしまう自分と、嫉妬することで度量がないと思われることをおそれる自分が葛藤し、嫉妬心を押さえ込もうとすると、かえって嫉妬する気持ちが強くなってしまう。だから、彼がやさしいからといって、調子に乗ってはいけない。いつまでも彼に我慢を強いていてはいけないんだ。

もちろん、あなたがきちんと彼に気遣いしているなら、彼の心に余裕がある。あなたのことを信じられるだろう。だけど、もし彼に気遣いしていないなら、彼は不満を溜め込んでいることになる。どちらか判断するのは難しい。これが本質は隠れているということだ。でもね、

彼の嫉妬しないという言葉を額面どおりに受け止めれば、たしかに本質は隠れたままだけど、隠そうとしても本質は必ず現れるものなんだ。やさしかった彼が怒りぽっくなってきたら、実は彼が我慢していたということだし、まだあなたが好きだということだ。だから、きちんと彼のことを気遣ってほしい。彼のことを気遣って、彼が喜ぶようであれば、やはり内心では気にしていたということだよ。

もし彼のことを気遣っても喜ぶ様子がなければ、残念ながら冷めている可能性が高い。あるいは気遣っても、それを当たり前と感じる彼なら、あなたを大切にはできない。

でも冷めているからといって、がっかりすることもない。恋としては冷めているけど、愛としてはあなたをほっとけないと思っている彼なら安心だ。ときめきのある恋愛はもうできなくなっているけど、あなたを大切にしてくれるし、一緒にいて安心できる関係が築ける。恋がいつか冷めるものであるのなら、この状態は理想かもしれない。彼が冷めているなら、彼にほうっておけないと思わせよう。かわいいと思わせればいいんだ。いつもと逆のことをしてね。あなたのちがう側面を見せたら、彼のときめきを取り戻せる可能性も実はある。

結論としては、わたしの彼は嫉妬しないタイプなどと言って油断していないで、しっかり彼の心をつかんでいてほしい。

【男性に一言】
適度に嫉妬しておいた方が、彼女は安心するよ。あまり無理して心が広い振りはしない方がいい。自分も不満がたまって、彼女のことを嫌いになってしまうから。

あれってUFO?

 昨日2月1日火曜日、JR四ツ谷駅16:45発の八王子行き中央快速線に乗って立川に帰った。進行方向西に向かう電車で、左側(南側)のドア脇に立って、夕焼けの富士山を見ていた。席が空いていても、私は座らないことが多い。席に座るとき、その席に座るかどうかは選べるけど、隣の席が空いたときに誰が隣にに座ってくるのかは選べないからだ。だから、今日もドア側に立って、夕焼けの富士山を見ていた。太陽は富士山の右側(北側)に沈んでいった。
 三鷹を過ぎ、武蔵境を過ぎ、東小金井を過ぎ、なんとなく反対側(北側)のドアの窓の外を見ると、とても明るく輝く飛行物体が、日が暮れた濃紺の空に浮かんでいた。人工衛星かなと思ってみていたら、突然消えた。あれってUFO?
 私の家の近く在日米軍基地も航空自衛隊駐屯地もあり、夜間にヘリコプターがライトをつけて飛ぶことはあるので、明るく輝く飛行物体を見ても驚かないけど、突然消えるものを見たのは初めてだ。それも高架の線路の上を走る中央線から見た光景は、濃紺の空にとても明るい光が浮かぶ幻想的なものだった。怖いというよりも、きれいで感動的だった。