六角義堯の研究・序

 義堯は発給文書が多く残っていることから、その事跡はかなり明らかである。元亀元年(一五七〇)六角氏は越前朝倉義景や北近江浅井長政・比叡山延暦寺・本願寺と連携を取っていたが、義堯は元亀三年(一五七二)に秘密裡に将軍足利義昭や甲斐武田信玄・阿波三好甚五郎らと連絡を取って(山中文書)、信長包囲網を強固にした。この信長包囲網は翌元亀四年/天正元年(一五七三)四月に信玄が急死したことで崩壊し、同年七月信長によって足利義昭は京都を追放され、さらに八月には朝倉義景や浅井久政・長政父子が相次いで滅亡した。
 しかし天正二年(一五七四)頃には、甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟をつくり上げることに成功した(上杉文書・黒川文書)。天正三年(一五七五)織田信長の石山本願寺攻撃が始まると、本願寺顕如の外戚であった義堯は旗色を鮮明にして(本善寺文書)、それまでに築いていた六角・武田・上杉同盟をもとに信長包囲網を築いた。
 さらに天正四年(一五七六)足利義昭の備後下向では、義堯は吉川元春を介して安芸毛利輝元を味方につけることに成功した(吉川文書)。
 義堯は近江甲賀郡および伊賀・伊勢で反信長戦線を築いていた六角承禎(義賢)からは「大本所」と呼ばれており(坂内文書)、彼が六角氏当主であったことが分かる。直属軍を率いていた義堯は、天正六年(一五七八)正月には自ら足利義昭の先鋒として阿波・淡路の兵を率いて堺に着岸し、多武峰衆徒にも挙兵を催促している(談山神社文書)。義堯は以前から阿波三好氏とも綿密に連絡を取りあっており(山中文書)、阿波・淡路の兵は三好軍を中心としたものと考えられる。これらの義堯の軍事行動は、すべて石山本願寺と連携したものであった。
 六角義堯書状は、滋賀県内の木村文書(個人蔵)や黒川文書(東大史料編纂所影写本)に伝えられ、さらに滋賀県外でも上杉文書(山形)・河田文書(福島)・本善寺文書(奈良)・談山神社文書(奈良)・吉川文書(山口)・小早川文書(山口)など全国各地に伝わっている。しかし、佐々木氏/六角氏研究の古典的教科書である『近江蒲生郡志』では取り上げられていない。同書は六角氏の偽系図問題で義実・義秀・義郷らの実在を否定しているが、否定するのであれば、彼らの実名が系図上のものと異なる可能性も考慮して議論すべきだろう。そのためにも六角一族であることが明らかな人物ならば、系図上の位置が分からないまでも記憶にとどめる必要がある。
 しかし、これまでも義堯書状がまったく取り上げられてこなかったわけではない。たとえば奥野高廣氏は、その著作『織田信長文書の研究』『足利義昭』で、本善寺文書・談山神社文書・上杉文書に収められている義堯書状を紹介している(1)。奥野氏は義堯を六角承禎(義賢)の一族と推定されている。
 また『新潟県史 資料編』でも、上杉文書所収の義堯書状が「六角義堯書状」として紹介されている。同じ『新潟県史 資料編』で、河田文書所収の義堯書状を「里見義堯書状」としているのは、翻刻の担当者が異なったために生じた粗齬であろう。河田文書のものは、花押から六角義堯のものであることは確実である。また『歴代古案』の三宝院義堯書状は正文が伝えられていないため花押を確認できないが、内容から六角義堯の書状であることが明らかである。
 さらに滋賀県で中世城郭調査が進められた過程で、木村文書『六角氏書状巻物』所収の義堯書状が注目された。
 これまで義堯花押と義治(義弼)花押が近似することから、義堯と義治を同一人物と考える意見があった(2)。たしかに木村文書所収の義堯書状には、義堯と義治が別人であることを積極的に示す内容がない。花押が近似していれば同一人物と見なすのは当然である。しかも、これまで六角氏の一族は承禎(義賢)とその長男義治・次男高盛(高定)しか知られていなかったのだから、義堯と義治を同一人物と見なさざるを得ない。
 しかし兵庫県坂内文書所収の十二月十八日付坂内亀寿宛六角承禎(義賢)書状で、承禎は義堯を「大本所」と呼んでおり、義堯が承禎の上位者であったことは確実である。また山中文書所収の十月二日付山中大和守宛六角承禎書状では、承禎・義治父子が義堯から相談を持ちかけられた事実が述べられている。これでは、義堯と義治が同一人物であるとはいえない。しかも河田文書や吉川文書には、これまで知られていたものとは別様の義堯花押があった。やはり義堯と義治は別人である。

【注】
(1)奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』下巻(吉川弘文館、一九八八年)二二頁。同著『足利義昭』(人物叢書、吉川弘文館、一九六〇年)二四七頁、および二五七頁。
(2)小島道裕「六角義堯について」近江の城三七号、一九九一年二月。

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