武田勝頼と六角義堯

 義堯は元亀三年(一五七二)甲斐武田信玄と連絡を取っていたが(山中文書)、翌四年(一五七三)に信玄が病没した。そのことで元亀の信長包囲網に大きな穴が開き、十五代将軍足利義昭は京都を追放され、越前朝倉義景と北近江浅井久政・長政父子は相次いで滅亡した。そして元号も元亀から天正に改元された。
 しかし義堯は、信玄の後継者四郎勝頼と連絡を取り合った。この交渉では承禎自らが、義堯の使者として活動している(黒川文書)。承禎は、天正二年(一五七四)武田勝頼に使者辻和泉守を派遣して交渉を進めた(黒川文書)。さらに義堯は越後上杉謙信に使者大館藤安(兵部少輔)を送り、武田勝頼と上杉謙信の同盟を作り上げた(河田文書・上杉文書)。これで武田勝頼は背後を気にすることなく、上洛軍を起こすことができるようになった。そして翌三年(一五七五)武田勝頼が長篠の戦いに至る軍事行動を起こすと、承禎は次男高盛(中務大輔)を派遣している(東京都本堂平四郎氏所蔵文書)。この武田軍の正確な情報は、義堯によって一向一揆にも知らされた。このようにして六角-武田連合を軸に天正の信長包囲網が結成されていった。

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