能登守宗綱

京極宗綱(1248-1297)氏信の4男。母左少将阿野実遠娘。左衛門尉、検非違使、能登守。長兄頼氏は、霜月騒動(1285)で安達泰盛追討の賞として豊後守に補任されて佐々木豊後家を立て、次兄範綱は左衛門尉に任じ伯父大原重綱娘を娶ったものの早世した。三兄満信は左衛門尉・佐渡守を歴任して佐々木佐渡家を立てたが、弘安2年(1279)10月4日34歳で没している。氏信の跡は、四男である宗綱が継承した。母が将軍家女房右衛門督(阿野実遠娘)であったことも関係していよう。阿野家は鎌倉殿伺候の公家であり、実遠の母は阿野全成(源頼朝弟)の娘であった。
 宗綱は在京御家人として左衛門尉・検非違使・能登守を歴任しており、また有力東国御家人として引付衆・評定衆を歴任して(建治三年記・永仁三年記)、東使も勤めた(『勘仲記』弘安10年9月26日条・10月12日条、『実任卿記』弘安10年10月12日条、『興福寺略年代記』永仁4年4月条)。宗綱も父氏信と同様、幕府内の重職を歴任して、惣領家六角氏から独立した有力御家人としての地歩を固めた。また京極氏は、惣領六角氏が外様御家人・公家と姻戚関係を築いたのに対して、隠岐流佐々木氏(秀義の五男隠岐守義清流)・佐々木大原氏(信綱の長男重綱流)・佐々木高島氏(信綱の次男高信流)など佐々木庶流どうしで姻戚関係を築き、結束を固めている。
 宗綱の男子は、祐信(四郎左衛門尉)・時綱(二郎左衛門尉)・貞宗(三郎左衛門尉)の3人でしたが、祐信は不孝のため家督にはならず、時綱は父に先立って早世したため、三男貞宗が家督と定められた。貞宗は高島行綱(高島高信の孫・右衛門少尉)の娘を娶っていたが、嘉元元年(1305)5月4日嘉元の乱で追討軍に参加し、負傷して4日後の同月8日に弱冠19歳で没した。
 嘉元の乱は、得宗貞時の従兄弟北条宗方が連署北条時村(政村の子)を暗殺し、駆け付けた評定衆隠岐流佐々木時清(義清流佐々木氏・隠岐入道阿清)と合戦となり、相打ちになったという事件である。続いて大仏流北条宗宣と宇都宮貞綱を大将とする討手が宗方邸を襲い、宗方の被官を討ったものの、討手側も多数の死傷者を出した。事件の真相は不明だが、京極貞宗は追手として戦没してしまった。
 宗綱は、佐渡流佐々木宗氏(三兄満信の子)と隠岐流佐々木宗清(時清の子)を娘婿にした。宗氏は左衛門尉・検非違使・佐渡守を歴任(尊卑分脈)、幕府有力者として評定衆にも列した(続群書類従本佐々木系図)。この宗氏の子息高氏が、宗綱の養子となり、京極氏を継承している。

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