佐渡大夫判官高氏(佐々木導誉)

京極高氏(1296-1373)佐々木宗氏の次男。母京極宗綱娘。京極宗綱養子。四郎。左衛門尉・検非違使・佐渡守。佐渡大夫入道。法名道誉(自署では導誉)。評定衆、引付頭人、政所執事。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護。
 正中元年(1324)3月高氏は後醍醐天皇の石清水行幸で、検非違使として橋渡しの行事を勤め(増鏡)、従五位下に叙爵されて大夫判官。嘉暦元年(1326)得宗北条高時が出家すると、実兄貞氏(近江前司・善観)とともに出家、導誉と名乗った。元弘の変でも当初は幕府方として行動、加地時秀(盛綱流佐々木氏、備前守護)・隠岐清高(義清流佐々木氏、隠岐守護)・大原時重(重綱流佐々木氏)、兄善観ら佐々木一族とともに上京した(光明寺残篇)。善観・導誉兄弟は近江瀬田橋を警固、六角時信・隠岐清高・加地時秀・大原時重は比叡山攻めの将になっている。さらに導誉と隠岐清高は、後醍醐天皇が隠岐脱出すると追討使になったが敗れ、隠岐清高の弟弾正左衛門尉は戦没、導誉(佐渡前司)は官軍に投降した(太平記)。このことに触れた解説書はない。それは常識的にはもっと早く官軍側にいたと思われているため、この時期にまだ幕府軍にいたと思われていないからだろう。常識を疑わなければ、同じ資料を見ても気づかないものだ。
 建武の新政で、導誉は兄善観とともに雑訴決断所八番(西海道)寄人に列した(雑訴決断所結番交名)。しかし中先代の乱が起こり、鎮圧のため足利尊氏が東下すると、導誉は弟貞満(高谷五郎左衛門尉)を伴って従軍した。鎮圧後、上杉憲房・細川和氏とともに足利尊氏に建武政権に対して挙兵することを勧めている(太平記)。以後、導誉は室町幕府確立に尽力、兄善観も政所執事になった。
 建武3年(1336)比叡山攻撃直前に幕府は近江の軍事権を導誉と小笠原貞宗に与えた。小笠原氏が近江守護になることを懸念した導誉は、南朝方から近江守護に補任された上で近江に入り、将軍から近江守護に補任されたと触れ回った。そのため小笠原貞宗は近江を捨て、導誉が単独で近江の軍事権を掌握するのに成功している。こののち導誉は幕府から改めて若狭守護に補任された。さらに建武5年(1338)京極氏で初めて近江守護になったが、近江は佐々木六角氏の支配力が強く、導誉の近江守護は軍事権の掌握に限られていたようだ。そのため在職は短期間に終わっている。
 暦応3年(1340)10月妙法院焼討ち事件を起こした。導誉の子息秀綱の被官が妙法院の紅葉を折ったことから、道誉父子と山門が抗争、導誉・秀綱父子の出羽・陸奥への配流が決まったという事件である。のち移送先は上総に変更されるが、形だけの配流であった。導誉父子一行は遊覧のようであり、しかも近江国分寺から先は行方不明になるというものだった。さすが婆裟羅大名である。康永2年(1343)には、あらためて出雲守護に補任されている。
 観応の擾乱では尊氏父子と直義が抗争し、一方が北朝を立てれば他方が南朝を立てたため、南北朝の混乱を長引かせることになった。そのような中で業を煮やした南朝は、正平6年(1351)8月2日付で導誉に尊氏・義詮父子と直義を一括して追討することを命じた(観応二年日次記)。10月尊氏父子は南朝に降を請い、あらためて直義追討の命じられた。ここに正平の一統が実現。これを機に導誉の幕府内での地位は向上し、足利義詮は導誉との連携を強め、導誉を政所執事に任命した。
 同じ正平6年(1351)12月1日に足利義詮によって佐々木大惣領職に補任され(佐々木文書二)、佐々木一族を軍事的に統率する権限を与えられている。もちろん、これは同年6月に六角氏頼が出家し、氏頼の嫡子千手(千寿)が幼く、氏頼の弟山内信詮が近江守護職を継承していたための、便宜的なものではあった。しかし、このとき道誉の軍事力がいかに足利義詮に期待されていたことが分かる。
 正平7年(1352)南軍が京都を制圧、京都を守備していた義詮は近江に逃走。しかし3月義詮は元号を北朝の観応に戻し、南軍を破り京都を奪還した。ここに正平の一統は破られた。このときの功績をめぐり導誉と山名師氏が対立、山名時氏・師氏父子は南朝に降り、さらに足利直冬(直義の養子)と連携した。この抗争で、侍所頭人であった長男秀綱(佐渡大夫判官・近江守)が近江堅田で戦没。そのため秀綱の遺族に出雲・伯耆・因幡の所領が給付されている。
 さらに導誉は文和5年(1355)上総守護、延文4年(1359)飛騨守護(佐々木文書二)、延文5年(1360)摂津守護と清和源氏菩提所多田院の管理権を獲得し、秀綱の長男秀詮(近江大夫判官)を摂津守護にするのに成功している。まさに導誉の絶頂期だ。当時の記録では「武家権勢道誉法師」と記されている(『園太暦』延文4年8月17日条)。
 康安3年(1361)導誉との対立から、細川清氏も南朝に走った。さらに清氏の後任人事をめぐり、導誉が娘婿斯波氏頼(尾張左衛門佐)を推したのに対して、斯波氏頼の父斯波高経は三男義将を支持して新執事にしたため、斯波氏頼は出家した。導誉と斯波高経の間に確執が生じ、高経追討の噂さえ流れた。そして実際に貞治5年(1366)斯波高経・義将父子は越前に落ちた。このとき導誉は出雲守護と、摂津多田院の管領を安堵されている(佐々木文書二)。そして新執事に細川頼之が就任した。足利義詮政権では導誉を中心に政局が動いていたといえる。貞治6年(1367)5月関東管領足利基氏の薨去にともない、遺児金王丸(氏満)に関東管領を無事に継承させるために、導誉が鎌倉に下向している(『師守記』貞治6年5月24日・29日条、『後愚昧記』貞治6年5月28日条、『愚管記』貞治6年5月29日条)。『後愚昧記』では「関東事為成敗云々」とあり、短期間ではあるが実質上の関東執事就任と見ることもできる。同年9月5日には鎌倉材木座の管領を返付された(佐々木文書二)。
 同年12月7日将軍義詮も薨去し、遺児義満が継承した。そして翌応安元年(1368)導誉は、管領に次ぐ家格である相伴衆に列している。
 導誉は幕府中枢にあって、四職のひとつ京極氏の基礎を築いた。しかし、この過程で次男秀宗(四郎左衛門尉)が貞和4年(1348)和泉水越で戦没、長男秀綱(佐渡大夫判官、近江守、侍所頭人)も文和2年(1353)近江堅田で戦没、さらに秀綱の嫡子秀詮(近江大夫判官、摂津守護)・氏詮(近江五郎)兄弟も康安2年(1362)摂津渡辺で戦没している。多くの犠牲を払っている。道誉の跡は、三男高秀(佐渡五郎左衛門尉)が継承した。
 応安6年(1373)8月25日導誉が没した(『後愚昧記』『愚管記』『花営三代記』応安6年8月27日条、『常楽記』応永6年8月25日条)。享年78歳。勝楽寺殿徳翁導誉。
 導誉というと婆裟羅大名、権謀術数の政治家というイメージがある。しかし、その一方で関白二条良基の文芸復興運動を支援し、自ら和歌・連歌を好み、茶の数奇、立花、能にも道誉の好みが反映しているなど、道誉は日本文化の中興の祖といえる人物である。
 導誉には娘が2人いて、長女は赤松則祐室、次女は斯波氏頼室、三女は六角氏頼室であった(佐々木文書四所収佐々木系図)。また孫娘は2人いて、次男秀宗娘の娘は土岐頼康室、三男高秀の娘は山名時義室であった。幕府内にしっかりと閨閥を築いていたことが分かる。

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