修理大夫高知

京極高知(1572-1622)高慶次男。母浅井久政娘。幼名長寿。修理亮、修理大夫、丹後守、侍従。始め織田信澄娘婿。次いで毛利秀頼娘婿。始めの舅織田信澄は、信長の弟勘十郎信勝(系図では信行)の子息であったが、信長の厚遇を得て一族衆に列していた。ついで浅井長政の旧臣磯野員昌の養子になり、天正6年(1578)員昌が六角義堯に応じて出奔すると、その跡を継承して近江高島郡の領主になった。しかし明智光秀の娘婿であったため、天正10年(1582)明智光秀の乱では去就を疑われて殺害された。明智光秀の乱で、兄京極高次と若狭武田元明が明智方として長浜城を攻略したのも、高知が織田信澄の娘婿だったことと関係があろう。
 つぎの舅毛利秀頼は尾張斯波義統の子で、織田信長・信忠に仕え、天正10年(1582)甲斐武田勝頼滅亡後、信濃伊那郡を与えられて飯田城主になった。しかし本能寺の変では所領を放棄して尾張に帰国してしまった。その後豊臣秀吉に属して、天正13年(1585)侍従に補任された。聚楽第行幸では「羽柴河内侍従豊臣秀頼」と名乗っている。天正18年(1590)小田原の陣に参陣して、戦後に信濃飯田城主に復帰した。文禄2年(1593)月17日秀頼が没すると遺領10万石のうち、娘婿高知が信濃飯田城主9万石を相続して、実子秀政には1万石しか与えられなかった。
 高知はのち京極氏に復して、兄近江大津城主京極高次の与力になった。慶長5年(1600)徳川家康の上杉景勝征討に従軍し、関が原の戦いでは東軍の先鋒として岐阜城攻めに加わるなど活躍した。その功績で、丹後宮津城主12万3,200石に封じられた。元和8年(1622)8月12日没した。法号は瑞雲院殿真巌道可。
 高知の嫡子高広は池田輝政の娘を娶り、さらに嫡孫高国は伊達政宗の娘を娶った。有力な外様大名と閨閥を築いている。しかし高広が子高国の不孝を幕府に愁訴したため、幕府は親族と和順せず、また封地の仕置きもよろしくないとして、寛文6年(1666)高国を改易にした。そののち延宝8年(1680)高国の嫡子高規は赦免されて、元禄3年(1690)寄合に列し、元禄8年(1695)高家に列した。
 高知の3男高三は丹後田辺藩祖となり、また婿養子高通(朽木宣綱の2男)は丹後峰山藩祖になり、それぞれ明治維新に至っている。

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