佐々木源三秀義

源秀義(生年未詳-一一八四)本名源資長。実父源有賢。始め左大臣藤原頼長の家礼、のち近衛天皇蔵人(『台記』)、叙爵、鳥羽院殿上人、宮内卿大夫(『兵範記』)、上総介(『尊卑分脈』宇多源氏時中流資長の項)。源為義の猶子(『尊卑分脈』『続群書類従』)、為義の娘婿(沙々貴神社所蔵佐々木系図)。佐々木三郎(『尊卑分脈』)、佐々木源三秀義(『吾妻鏡』)。
 平治の乱後、秀義は近江佐々木庄領家・預所職を没官されて奥州藤原秀衡を頼ろうと東下したが、途中、秀義の武勇に惚れ込んでいた相模渋谷庄司重国に引き留められて娘婿になり、子息たちも宇都宮朝綱・渋谷重国・大庭景親など豪族級東国武士の娘婿になった。秀義は伊豆配流中の源頼朝に、陸奥守源義家の重宝を納めた螺鈿の箱を献じた(『鎌倉武鑑』)。その内容は、源氏の系譜3巻・鎮守府の印鑰記・前九年後三年奥羽戦記・国分寺連房牒・同職分牒・按察使都府次第・椀飯礼式・多賀城法則などであった。秀義がこれらのものを所有していたのであれば、秀義が当初奥州に下ろうとしていたことも理解できる。さらに秀義は長男定綱と三男盛綱を源頼朝に近侍させた。
 治承四年(一一八〇)八月頼朝挙兵には子息定綱・経高・盛綱・高綱ら佐々木兄弟が参加し、経高の射た矢が挙兵の一番矢になり、高綱は宇治川の戦いで先陣を駆け、盛綱は藤戸合戦で馬で海を渡った。秀義は渋谷重国の恩に報いるため、石橋山の合戦では五男義清とともに平氏方の大庭景親軍に参陣したが許され、養和元年(一一八一)十一月五日頼朝軍の遠江出陣を制止するなど、源氏長老として重きをなしている。まもなく近江守護(総追捕使)になり、元暦元年(一一八四)七月伊勢・伊賀平氏が挙兵して伊賀守護大内惟義が敗り、近江甲賀郡油日谷に陣すると、秀義・義清父子は直ちに出陣して甲賀郡大原庄で平氏勢を撃退した。秀義本人は流れ矢に当り戦死したが、その功績によって近江権守を贈られている。法号は長命寺殿である。
 ところで、これまで不明だった秀義の東下以前の事跡が分かった。『尊卑分脈』宇多源氏雅信流に「有事により遁世、関東に下向」と記されている上総介資長である。資長は鳥羽院近臣宮内卿源有賢の三男で、長兄権大納言資賢(母高階為家娘)は後白河院近臣、次兄宗賢(母平忠盛娘)は甲斐守、資長本人も近衛天皇蔵人で鳥羽院殿上人だった。また兄資賢の直系が佐々木野家(佐々木家)を起こしていることから、資賢・資長兄弟が佐々木庄に権益を有していたことが分かる。
 実は南北朝期に佐々木野中将(守賢)が所有していた宝荘厳院領浅井郡速水・川道両庄の庄務を、佐々木山内判官入道(山内信詮)が買い取っているが(東寺百合文書:貞治三年九月十八日佐々木大夫判官入道宛幕府奉書案、永和元年三月日付速水・河道壇供申状案など)、このことでも公家佐々木野家が近江で権益を有していたことが分かる。守賢はこののち出家して禅僧となり、さらに康暦二年(一三八〇)三月三日入滅した。このことで佐々木野家は断絶しているが、これは佐々木氏が公家佐々木野家領を買い取るという形でその跡を継承したことを意味していよう。
 資長は鳥羽院近臣の宮内卿源有賢の晩年の子で、左大臣藤原頼長の日記『台記』保延二年(一一三六)十一月十三日条に「宮内卿息男資長、着法衣参会」とあるのが資料初出である。このとき藤原頼長は院司藤原顕遠を鳥羽院に遣わしたが、顕遠が数刻しても戻らなかったため、院司ではなかったが資長に申次をさせている。父有賢は鳥羽院に仕えていたが、資長は頼長の家礼になっていたことが分かる。資長の名乗りも、頼長の名乗りの一字を加えられたものであろう。同じく『台記』仁平元年(一一五〇)三月二十一日条に「蔵人資長」が見える。
 当時、藤原頼長の父前関白藤原忠実が佐々木庄下司源行真住所の領主であり(『源行真申詞記』)、この行真の末子井伊真綱が佐々木定綱(秀義の長男)の郎等になっていること(『玉葉』『吾妻鏡』)を考えれば、資長はこの時期に佐々木庄の権益を獲得したと考えられる。同庄預所源為義の娘婿になったのも、この時期だろう。
 しかし資長は従五位下に叙爵されると鳥羽院殿上人になった(『台記別記』仁平三年十一月二十六日条、『兵範記』仁平四年正月三十日・二月二日条)。鳥羽院と藤原忠実・頼長父子が対立すると、資長は鳥羽院に重心を移したようである。このとき資長は、宮内卿の子息で五位の者を意味する「宮内卿大夫」と呼ばれており、叙爵後も散位のままで任官していなかったことが分かる。
 『尊卑分脈』によれば、資長は上総介に補任されている。実は兄資賢が久安五年(一一四九)三月一八日に上総介に補任され、仁平二年(一一五二)十二月三十日に重任されている(『兵範記』『本朝世紀』)。さらに保元元年(一一五六)十一月二十八日に重任の任期が終わると、源中賢に上総介を譲り(『公卿補任』応保元年源資賢条)、上総国知行国主の地位を獲得している。永暦元年(一一六〇)十二月二十九日には資賢の嫡孫佐々木野雅賢が上総介に補任されたが(『山槐記』『公卿補任』文治元年源雅賢条)、応保二年(一一六三)六月十五日後白河院近臣が解官されるという平清盛のクーデタで資賢・雅賢ともに解官され、上総国の知行も解消された。資長が上総介に補任されたとすればこの期間でしかなく、『尊卑分脈』の記事が正しければ、資長と上総介源中賢は同一人物である。
 そうであれば資長の東下は上総介の任期が終了した永暦元年(一一六〇)十二月以降であり、上総介の任期終了後そのまま関東に留住したか、応保二年(一一六三)の政変で解官されて東下したと考えられる。『吾妻鏡』でも秀義の東下を平治の乱(一一五九年)後としており、時期は一致する。
 秀義の前身が藤原頼長家礼・後鳥羽院殿上人であれば、秀義が没官されたのが佐々木庄下司職ではなく、上級領主権の領家職・預所職であったことも納得できる。
 このように秀義の素性が分かると、彼の東下の真の目的が、後白河院の密命によるものと考えられる。秀義の指示で長男定綱・三男盛綱が配流中の源頼朝に近侍したのも、後白河院の密命によるだろう。浪々の身である秀義父子が豪族級東国武士の娘婿になったことも、彼らが院近臣であれば十分に理解できる。 
 秀義は没後に近江権守を追贈されているが、権守は蔵人・式部丞・民部丞が叙爵されたときにしかるべき官職に空きが無い場合に補任される宿官であり、前蔵人であった秀義に相応しい贈官といえる。しかし近江権守の追贈には、秀義に本国近江の権守を追贈したこと以上の意味がある。当時、近江権守は公卿(三位以上)の兼官で、近江守よりも高位の者が補任されており、とても名誉なことであった。また鎌倉幕府内では、当時受領に補任される者は源氏一門に限られており、佐々木氏が幕府内で源氏一門に列したことも意味している。
 現行の佐々木系図では秀義を佐々木庄下司為俊(家定)の子息としているが、これは領家佐々木氏(兄時中流)が現地支配を固めるために、下司佐々木氏(弟扶義流)の系譜に自らを接木したものと考えられる。 

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