大膳大夫高頼

六角高頼(一四六二-一五二〇)政勝の長男。幼名亀寿、本名行高、四郎、大膳大夫、右兵衛入道(『御内書案』)、近江守護。法号は龍光寺殿嘉山宗椿。
 応仁・文明の乱で東幕府は六角政堯を近江守護に補任し、西軍の高頼に対抗させたが、政堯は戦没した。替わって東軍の重鎮京極持清が近江守護に補任された。しかし持清・勝秀父子が相次いで没すると、持清の三男政経が東軍に、末子高清が西軍に分かれて京極氏は弱体化した。そのため高頼は領国支配を着実に進めることができ、京都の隣国近江は西軍一色になった。
 また西軍と古河公方足利成氏が都鄙御合体を実現したことで(那須文書:閏十月一付那須資持宛足利成氏書状)、高頼は足利成氏の娘婿になり(続群書類従本古河公方系図)、鎌倉足利氏との閨閥を築いた。さらに六角氏は近隣の美濃土岐氏・越前朝倉氏と大名一揆を結び、土岐成頼の子息次郎を養子にした(『尋尊大僧正記』長享三年正月十二日条など)。
 応仁・文明の乱は文明九年(一四七七)十一月に諸将が帰国したことで終了したが、高頼は近江国内の土豪を家臣団に組織するため、その後も荘園や公領・幕府奉公衆領を押領し続けた。
 九代将軍足利義尚は幕府の威信を回復するため、長享元年(一四八七)九月六角氏追討を開始した(長享の乱)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀に陣を張る作戦をとり、十月には伊賀国人および大和越智氏と結んだ(『尋尊大僧正記』)。長享二年(一四八八)正月足利義尚は側近結城尚豊(近江新介)を、六角次郎(土岐子息)の猶子とした上で近江守護に補任した(『尋尊大僧正記』)。しかし高頼の甲賀衆を駆使した急襲に幕府軍は悩まされ、戦果を上げられないまま、長享三年(一四八九)三月二十六日将軍義尚が近江国鉤の陣で病没した。同月二十九日には結城尚豊(近江新介)も没落している(『蔭涼軒日録』)。そして同年七月十九日高頼は赦免されて近江守護に復帰した。これが長享の乱である。
 十代将軍義稙(義材)も管領細川政元に再三諫止されたが、延徳三年(一四九一)八月六角氏追討を再開した(『後法興院記』『尋尊大僧正記』など)。同年十一月将軍義稙は誘降に応じた守護代山内政綱(宮内大輔)を大津で討っている。延徳四年(一四九二)二月には六角氏が関東に落去したとういう風聞がながれ、土岐次郎に六角の名字を継がせ、朝倉氏については越前退去という情報が流れた(『尋尊大僧正記』延徳四年二月二十一日条)。六角・土岐・朝倉が大名一揆を結び、さらに六角氏は関東足利氏と結んでいたことも分かる。しかし四月には六角方が蜂起し(『尋尊大僧正記』)、六角方の抵抗は続いた。同年にあたる明応元年(一四九二)十一月幕府軍は甲賀に進軍したが高頼を見つけることができず、十二月十六日本意を達成できないまま、六角政堯の猶子六角八郎(高島越中守の子息)を守護に補任して帰陣した(『尋尊大僧正記』)。足利義稙も近江守護代山内政綱を誘殺するにとどまり、六角氏の領国支配を打ち崩すことはできなかった。これが延徳の乱である。
 将軍義稙は、明応二年(一四九三)四月河内畠山氏親征中に細川政元のクーデタで捕縛された。細川政元が、堀越公方足利政知の子息義澄を将軍に擁立したのである。しかし前将軍義稙は脱出に成功し、以後諸国を流浪して流れ公方となった。
 足利義澄(児御所)は高頼の近江守護復帰に尽力したが(『尋尊大僧正記』明応二年十月二十二日条)、高頼は復帰できず、山内政綱の子息就綱(小三郎・宮内大輔)が近江守護になった。こののち高頼方と山内就綱方の合戦が続き(『尋尊大僧正記』明応三年十月二十一日条)、高頼は美濃守護代斎藤妙純(持是院)と結んでいる(『尋尊大僧正記』明応三年十一月六日条)。そして明応四年(一四九五)高頼は実力で近江守護に復帰した。
 高頼は近江守護に復帰してまもなく、姻戚関係にあった美濃守護土岐成頼の跡目をめぐる家督争いに巻き込まれている。明応五年(一四九六)五月斎藤妙純と石丸利光が衝突すると、妙純の自立を喜ばない管領細川氏は六角氏・伊勢北畠氏と協力して土岐成頼・元頼・石丸利光を支持した。これが城田寺の合戦であるが、六月六角・石丸方は持是院妙純方に敗れた(『尋尊大僧正記』)。勢いづいた妙純は、九月に娘婿京極高清とともに近江国内に侵入した。これに対して六角方でも蒲生秀紀が活躍し、さらに比叡山延暦寺・伊勢北畠氏・土一揆の協力を得ることに成功した(『尋尊大僧正記』)。そして同年十二月三日一揆勢に囲まれた妙純は自害し、斎藤一族や西尾氏・長井氏など主だった家臣も自害・討死した(『後法興院記』)。この妙純の壊滅的敗北で、以後の美濃は混乱に陥っている。
 このように将軍親征で甲賀衆を組織化した高頼は、妙純の近江侵攻で馬借・郷民ら土一揆の組織化にも成功した。一揆を味方に取り込むことができたからこそ、近江という先進地域でも領国支配を進めることができたといえよう。
 明応七年(一四九八)正月二十四日駿河今川氏に養われていた足利義澄の妹が上洛し(『実隆公記』明応七年正月九日条・二十四日条)、高頼の長男氏綱に嫁いだ。沙々貴神社所蔵佐々木系図では義澄妹を高頼妻とするが、高頼のときの出来事であったため、高頼妻と誤り伝えたのだろう。さらに同系図によれば、義澄の継室は高頼の娘である。義澄と六角氏は重縁で結ばれたことになる。
 将軍義澄との関係を深めた六角氏は以後、将軍の保護者になり、将軍が近江に逃亡するたびに保護した。近江国内に所領を持つ幕府奉公衆の六角氏被官化もすすみ、大原氏や朽木氏をはじめ多くの奉公衆が六角氏の指揮下で軍事行動をとるようになる。とくに奉公衆の中でも交通の要所を抑える大原氏・甲賀和田氏・伊勢梅戸氏には、子息高保(中務大輔)・高盛(大蔵大輔)・高実(左近大夫)を養子に入れることに成功した。
 永正四年(一五〇七)十二月前将軍義稙が周防大内義興の支援を得て積極的に帰洛運動を開始し、翌五年(一五〇八)二月二十日足利義澄から軍勢を催促された(『御内書案』)。このときの御内書の宛先が「右兵衛入道」となっている。このことで将軍義澄に嫁いだ高頼娘が「武衛女」とされていることが理解できる。しかし同年七月義稙が将軍職に再任されると、高頼は前将軍義澄を近江に保護したものの、永正八年(一五一一)五月三日足利義稙に忠節を尽くすよう求められると、助行の太刀と栗毛の馬・銭三千疋を献上した(『御内書案』)。政局に抗しきれずに足利義稙支持を表明したのである。同年八月十四日前将軍義澄は失意のうち近江岡山城で没した。同月船岡山合戦があり、義稙派の細川高国・大内義興が勝利して、細川澄元・政賢が敗走した。こうして一時的に義稙政権は安定した。
 永正十五年(一五一八)七月九日病床にあった長男氏綱が没すると、高頼は嫡孫四郎(氏綱の長男)を後継者に定めて、次男定頼(相国寺承亀)を後見にした。永正十七年(一五二〇)十月二十九日高頼が没すると、嫡孫四郎が近江守護に補任された(『御内書案』)。一般に高頼没後ただちに近江守護になったと考えられている定頼の近江守護補任は、実は四郎が江州宰相になった天文六年(一五三七)のことである。

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