江州宰相義久(義実)

六角義久(一五一〇-一五五七)氏綱の長男。母堀越公方足利政知娘(足利義澄妹)。六角四郎。大膳大夫、近江守、参議、権中納言。諸系図では「義実」。『鹿苑日録』天文五年(一五三六)五月十四日条に「江州宰相」が登場し、天文八年(一五三九)五月十九日条と二十日条に宰相上洛と下向の記事がある。この記事がある『鹿苑日録』十六巻表紙の頭書では、この宰相のことを「相公」と記している。「宰相」も「相公」も参議の唐名だが、『鹿苑日録』では「相公」は将軍を意味する。同書の用語法に従えば、「江州宰相」は将軍もしくは将軍連枝である。しかし当時、近江逃亡中の足利氏はいない。一般に「江州」が近江守護佐々木六角氏を指す言葉であることを考え合わせれば、彼が系図上の「六角義実」である。沙々貴神社所蔵佐々木系図では、「義実」は足利義澄の猶子であり従三位参議であったと記しており、『鹿苑日録』の記事と符合する。これで、資料に「六角義実」は実在しないという従来の学説は否定される。
 大永六年(一五六二)五月二十八日付青木社中宛六角隆頼願状がある。その内容は、祈願成就のときには甲賀郡内で所領を寄進するという内容である。当時甲賀郡内で所領を自由に寄進できる地位にあったのは守護佐々木六角氏だが、『朝倉始末記』大永五年(一五二五)の記事で、六角高頼が浅井退治の軍を起こしたことが記されており、内容が一致する。これまでなら「高頼」は定頼の誤記であろうと判断されただろうが、実際に「隆頼」という人物がいたのである。六角隆頼願状は浅井亮政退治を祈願したものだろう。当時足利義晴(義澄の遺児)を近江に保護していたため、浅井氏に背後を撹乱されたくなかったのである。この隆頼に相当する人物は、従来の佐々木六角氏研究では見られず、通説で実在を否定されている「六角義実」に同定できる。
 実は、六角隆頼願状はすでに『坂田郡志』に掲載されており、これまで注目されてこなかったことが不思議である。「六角義実」の実在を否定する従来の通説が、いかに資料を無視していたのかが分かる。
 天文三年(一五三四)六月足利義晴は、六角氏の仲介で近衛尚通の娘(慶寿院)と祝言を挙げた。場所は、六角氏の居城観音寺城内にある桑実寺の仮幕府であった。まず定頼が烏帽子姿で婚礼に参上し、さらに四郎殿父子が御色直しに参上した(『天文三年甲午六月八日江州於桑実御台様むかへニ御祝目六』)。このとき四郎殿には子息がいたことが分かる。当時定頼の子息(御曹司様)は元服前であり、当然子息はいない。この四郎殿も「六角義実」のことであろう。同月足利義晴は帰京し、六角四郎と叔父大原高保(中務大輔)が供奉している(『厳助往年記』)。
 これまで江戸中期の編纂物『重編応仁記』『大系図評判遮中抄』をもとに、氏綱には子孫はなく、氏綱の跡は弟定頼が継承したとされてきた。さらに『近江蒲生郡志』が『大系図評判遮中抄』に立論して「六角義実」の実在を否定した。『野洲郡志』は「六角義実」の実在を主張したが、『近江蒲生郡志』が佐々木六角氏研究の教科書とされて今日に至っている。
 しかし六角隆頼願状と『御台様むかへニ御祝目六』が、「六角義実」の実在を示している。さらに佐々木六角氏の菩提寺長命寺の当時の出納帳『長命寺結解』でも、六角四郎を定頼(御屋形様)・義賢(御曹司様)父子と区別して「四郎殿様」と呼んでいる。浅井退治を祈願した六角隆頼と四郎殿様は同一人物であろう。後世の編纂物ではなく、まず当時の資料を見るべきだ。
 このことで実証歴史学とはいえ、研究者の視点に束縛されていることが分かる。実証歴史学で実在が否定されていた「六角義実」が、六角隆頼願状という一次資料によって実在が確認されたのである。
 二年後の天文五年(一五三六)以降、前述のように近江守参議だったという系譜伝承を持つ義実に同定できる「江州宰相」が、『鹿苑日録』に登場する。相国寺鹿苑院は足利義満の菩提所であり、しかも鹿苑院住職は鹿苑禅録といい、禅院の管轄や人事管掌権をもっていた。その鹿苑僧録の日記に「江州宰相」が記されている意義は大きい。しかも江州宰相は同書で「相公」とも記されているが、同書の用語法では将軍を意味することから僧侶の名ではない。足利将軍の猶子という系譜伝承を持つ「六角義実」に相応しい。ただし江州宰相は、十一代将軍義澄の猶子ではなく、十代将軍義稙の養子であったようだ。
 天文八年(一五三九)三月九日条に、足利義稙十七回忌で公帖をもって五千疋が寄進された記事があり、同月十六日条には「義久」の名代五郎次郎大夫が上洛するとともに、細川高久・飯尾堯連らが仏事料五千疋を寄進したという記事がある。この記事で、公帖をもって五千疋寄進したのが義久と分かる。義久は幕府の公文書である公帖を発給できる人物であった。このことは『親俊日記』天文十一年(一五四二)九月四日条に「御内書父子へ御釼二振」という記事があることと符合する。御内書はもともと将軍の私信を意味したが、当時は御内書が将軍発給の公的文書と見なされるようになった。「御内書」は公帖を発給する人物に相応しい名称だ。この義久が『親俊日記』で「御内書」と称されている人物であろう。また同書では、幕府と近江坂本に使者が派遣される記事が頻出することから、義久は近江坂本に居住していた可能性もある。
 さらに義久の名代五郎次郎は、四月四日焼香のため恵林寺に赴いているが、このことを『鹿苑日録』では「御焼香御成」と記している。義久の名代五郎次郎を「御成」の主体にしていることは注目できる。しかも五郎次郎には、将軍御供衆大館晴光・細川晴賢・伊勢貞孝が御供している。義久は将軍に準ずる待遇であった。同年五月十九日条・二十日条に宰相上洛・下向の記事があるが、その記事に関する表紙頭書で、宰相のことを、同書の用語法で将軍を意味する「相公」と記している。「御成」の主体義久と「江州宰相」「相公」「御内書」が結びついてくる。
 この義稙十七回忌の仏事は、阿波公方義維(義晴実兄)を牽制するものだったと推定できる。義稙仏事を義久が主催したことは、彼が義稙の後継者と公認されたということである。しかも義久は将軍義晴を支持している。義稙の後継者と公認された義久が現将軍義晴を支持したことで、同じく義稙の養子であった阿波公方義維は将軍就任を主張する根拠を失ったのである。義維にとって致命的な出来事であったといえよう。
 しかし義久は、天文八年(一五三九)の義稙法事の記事で「義久入道」と記されている。当時まだ30歳である。実は義久は天文六年(一五三七)以降「宗能」と名乗っている(三上文書)。原本は確認できないが、『続群書類従』には三上系図とともに六角宗能安堵状写・六角宗能一字書出状写・秀書状写が掲載されている。このように法名で直状があることは、『鹿苑日録』に「義久入道」とあることと一致する。しかも、写本とはいえ宗能直状の存在の意義は大きい。これまで六角氏権力の脆弱性を説くとき、氏綱後に六角氏当主になったと考えられている定頼・義賢父子に直状発給の事実がないことが理由に挙げられていた。しかし氏綱の嫡子義久(入道宗能)は直状を発給していた。このことで、六角氏の真の後継者は義久だったことが確認できる。
 また六角氏の有力被官には、義久の一字書出を給付されたと考えられる進藤久治・山中久俊・深尾久吉などいる。このことも江州宰相の実名が義久であったことを裏付ける。当時六角氏の従属していた浅井久政の名乗りも、義久から一字書出を与えられたものだろう。
 叔父定頼が正式に近江守護に補任されるのは、義久が宗能と名乗る天文六年(一五三七)のことである(『御内書案』『近江蒲生郡志』)。定頼は従五位下弾正少弼に補任されるとともに、病気がちであったろう義久に代わり幕政に大きく関与し、天文十五年(一五四六)義晴の嫡子義輝(義藤)の元服式では、従四位下に叙位された上で管領代となり加冠役を勤めた。
 義久の没年には二説ある。天文十五年(一五四六)説と弘治三年(一五五七)説である。さらに『鹿苑日録』天文十八年二月二日条に義久一周忌の記事がある。守護の法事にしては簡潔な記事であり、同名異人の可能性もあるが注目できよう。
 ところで『お湯殿の上の日記』永禄二年(一五六〇)五月二十四日条に将軍足利義輝が贈官のことで綸旨の催促をしている記事がある。この記事は義久の贈官のことだろう。そうであれば、弘治三年までには没していたことは確実だ。しかもこの贈官の記事の内容は、天文九年(一五四〇)のお湯殿の日記にも先皇の日記にも任官のことが記されていないため催促しているというものであり、義久の参議や権中納言補任の記事が『公卿補任』にないことの理由が理解できる。
 ところで天正二年(一五七四)三月十八日織田信長が従三位参議に補任され、それにともない信長は上洛しているが、そのとき信長が近江殿になり、信長の子息信雄が将軍になるという噂があった。『尋憲記』同年三月二四日条に「雑談トテ人ノ申候、信長ハ近江殿成候、子チヤセンハ将軍罷成候」と記されている。信長がなると噂された近江殿は、江州宰相義久の立場のことだろう。そして実際に、天正四年(一五七六)信長は観音寺城の峰続きに安土城を築城している。信長が近江殿になるという雑説は、本当に事実になったのである。

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