左馬頭義政

仁木義政(生年未詳-一五七三)六角氏綱の次男。五郎次郎。佐々木左馬頭。実名は義信であろうか(『安養寺文書』)。系譜伝承では「河端義昌」「八幡山義昌」とする。永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されると、弟義昭(覚慶)は近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏を頼った。永禄十年(一五六七)には足利義昭の朝倉義景邸御成があり、このとき六角氏被官山内六郎左衛門尉と九里十郎左衛門尉が門警固役を勤め、亭主朝倉義景と義政(仁木殿)が義昭を大門の外で出迎えている(『朝倉義景亭御成記』)。このとき義政は迎えられる側ではなく、出迎える朝倉側の人物であり、義景の後見者として振舞っている。このことで朝倉義景に六角氏出身という異説があることも(『朝倉家録』)、十分に納得できる。
 天正元年(一五七三)二月足利義昭と織田信長の対立が決定的になると、仁木義政は、上野陸奥守(信秀)・荒川掃部助・山岡光浄院(暹慶)・杉原淡路守・甲賀衆・伊賀衆とともに近江石山・堅田城に籠城し(『明智軍記』)、三月十八日朝倉義景は近江武士多胡宗右衛門尉に宛て佐々木左馬頭の要害に合力することを約束している(尊経閣文庫所蔵文書)。この文書で、やはり仁木義政と佐々木左馬頭は同一人物であることが確認できる。
 実は義政を資料で最初に確認できるのは、『鹿苑日録』の足利義稙十七回忌の記事である。同記天文八年(一五三九)三月九日条に、足利義稙一七回忌で公帖をもって五千疋が寄進された記事があり、同月十六日条には「義久」の名代五郎次郎大夫が京都に上るとともに、細川高久・飯尾堯連らが仏事料五千疋を寄進したという記事がある。この記事で、公帖をもって五千疋寄進したのが六角義久(系図では義実)と分かる。その弟が五郎二郎である。
 さらに義久の名代五郎次郎は、四月四日焼香のため恵林寺に赴いているが、このことを『鹿苑日録』では「御焼香御成」と記している。五郎次郎を「御成」の主体にしていることは注目できる。しかも五郎次郎には、将軍御供衆大館晴光・細川晴賢・伊勢貞孝が御供している。このことで兄義久が将軍に準ずる待遇だったことが分かる。
  『鹿苑日録』天文八年(一五三九)閏六月二十日条に、六角氏から使者があったことを「自霜台并典厩有使節」と記しており、霜台は弾正台の唐名で弾正少弼定頼を指し、典厩は馬寮の唐名で左馬頭義政を指していると考えられる。このときまでに左馬助あるいは左馬頭に任官したのだろう。
 また義政が仁木氏を称するようになったのは、天文十一年(一五四二)十月六角氏が伊勢国司北畠氏を破り、北伊勢朝明・員弁郡を領したからと考えられる。義政が旧伊勢守護家仁木氏を称したことと、『江源武鑑』天文十一年十月二十七日条で義政が伊勢を領して伊勢義政を称したと伝えることと一致する。旧伊勢守護仁木氏を名乗ることで、伊勢国司北畠氏と対抗したのだろう。
 さらに仁木氏を名乗ることで、佐々木六角氏一門というだけではなく御相伴衆にも列した。御相伴衆は管領に準ずる名誉的格式で、将軍の饗膳に相伴するだけではなく、幕政に参画する幕府宿老衆でもあった。義政の子息河端輝綱(兵部丞)は、永禄八年(一五六五)足利義輝が謀殺されたときに殉じて討死したが(『言継卿記』)、義政はその後も足利義昭の帰洛運動を支え、天正元年(一五七三)義昭が信長と対立すると近江で挙兵している。しかし天正四年(一五七六)の義昭備後下向では名が見えない。天正元年(一五七三)の室町幕府滅亡、朝倉・浅井氏滅亡という一連の事件のなかで戦没したと考えられる。

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