右衛門督義治

六角義治(一五四四-一六一二)義賢の長男。母能登畠山義総娘。幼名亀松丸(朽木文書:十一月二十八日付佐々木民部少輔宛亀松丸書状、同日付同宛水原氏家書状)。本名義弼。四郎、右衛門尉(木村文書『六角氏書状巻物』)、右衛門督(『顕如上人書状案』)。法名玄雄。
 永禄三年(一五六〇)宿老衆が義弼(四郎)と美濃斎藤義龍の娘との縁談を進めた。それに反対した父六角承禎の同年七月二十一日付書状(神奈川県春日倬一郎氏所蔵文書)によって、斎藤道三の国盗りが、実は父長井新左衛門尉との二代にわたるものであったことが分かる。この中で、承禎は次のように述べている。
 六角氏と美濃土岐氏の重縁は慈光院殿以来のものであり、このことはよく知られている。それにもかかわらず、土岐氏の仇敵斎藤氏と縁組をすることは言語道断である。また朝倉・織田・遠山と三方に敵を抱えている斎藤氏では当家の助けとはならない。むしろ越前朝倉氏との関係を重視すべきである。
 このように承禎が強く説いているのは、土岐頼芸が当時近江で亡命生活中であり、頼芸は承禎の妹婿であり、承禎も頼芸の妹婿(再婚)だったからである。しかし六角・斎藤同盟は成功した。永禄四年(一五六一)三月美濃に侵攻した浅井長政を破っている(竹中文書:閏三月二十五日付竹中遠江守宛六角義弼書状)。以後浅井氏は六角氏旗下として行動する。
 後顧の憂を断った六角氏は、河内畠山高政とともに三好包囲網を築き、京都奪還を目指すことになった。永禄五年(一五六二)三月には父承禎・義弼・弟高盛の三人が大将になって京都に出勢している。
 ところが義治は、永禄六年(一五六三)宿老後藤但馬守(賢豊)・壱岐守父子を謀殺して、宿老衆と対立した(観音寺騒動)。このとき承禎は義治(右衛門尉)を叱責している(木村文書『六角氏書状巻物』:五月二十二日付木村筑後守宛六角承禎書状)。
 「佐々木系譜」(『系図綜覧』所収)や『近江蒲生郡志』では、このとき家督が弟高盛(高定)に移譲されたとしている。しかし義弼は義治と改名するものの、家督を弟に移譲するどころか、官位も右衛門尉(三等官)から右衛門督(長官)に昇進し、本願寺と音物を贈るなど交流があった(『顕如上人書状案』)。家督が義治から弟高盛に譲られたとする学説は、実証歴史学を唱えながら資料を見ていないといえる。
 永禄八年(一五六五)五月三日将軍義輝が三好義継・松永久秀によって謀殺された。このとき義輝の母慶寿院は火の中に飛び込み自殺し、弟周暠は殺害されている。これは観音寺騒動(後藤騒動)で六角氏が身動きできなかった間隙を突いて、三好・松永党が起こした事件であった。
 永禄十年(一五六七)家臣団は六角式目を制定し、承禎・義治父子に承認させることで、父子の行動を規制し、体制の立て直しを図った。しかし義治は三好三人衆に近づき、家督義秀を奉じる家臣団と対立することになった。
 永禄十一年(一五六八)九月足利義昭を奉じた織田信長の上洛戦では、三好三人衆石成友通の援軍を得て箕作城に籠城した。十一日近江愛智川で合戦があり、信長は敗れて帰国したため、石成友通は帰京している(『言継卿記』)。しかし信長は石成氏が帰京したのを見計らって翌十二日に再び近江に出張し(『言継卿記』)、六角氏の前線和田山城・本城観音寺城との正面衝突を避けて、承禎父子の箕作城を直接攻めた。激戦の末、父承禎・義治・弟高盛は敗れて近江甲賀に逃走している(『信長公記』『江源武鑑』)。
 しかし元亀元年(一五七〇)四月承禎・義治父子は浅井長政を誘い挙兵した。五月織田信長は近江勢多の山岡城で、承禎・義治父子と和平交渉を進めるが決裂している。承禎・義治父子は二万の大軍で近江甲賀郡石部城まで出張した(『言継卿記』)。
 姉川の戦いでは六角・浅井・朝倉軍が、織田・徳川連合に勝利している。信長は自軍の勝利と宣伝したが、九月には浅井・朝倉連合軍が近江高島郡の織田方の宇佐山城を攻略に成功した。このとき信長の弟織田信治と森可成が戦死している。さらに承禎・義治父子は逢坂山を越えて山科まで進駐した。信長が正親町天皇による調停を引き出すことに成功したため、十一月承禎・義治父子は信長と和談している。十二月には朝倉義景も信長と和談した。
 承禎・義治父子は、その後も甲賀郡石部城を拠点に信長包囲網を構築するのに尽力し、義治はさらに愛智郡鯰江城に進出している。しかし天正元年(一五七三)七月足利義昭が京都を追放され、八月朝倉義景・浅井長政が相次いで滅亡すると、九月四日義治は信長と和睦した(『信長公記』『江源武鑑』)。
 その後も承禎・義治父子は甲賀郡石部を拠点に活動し、甲斐武田勝頼と越後上杉謙信の同盟を実現し、再び信長包囲網を築くことに成功している(木村文書所蔵『六角氏書状巻物』・黒川文書)。しかし、こののち義治の動きをしばらく資料で追えなくなる。父承禎が晩年の一時期能登に滞在しており(石川県裏本友之氏所蔵佐々木承禎自画像)、朝倉宮増丸らの朝倉氏復興運動に尽力した佐々木源兵衛(吉川文書:十二月七日付武田刑部大輔宛朝倉宮増丸書状)が義治である可能性がある。
 義治が再び資料に登場するのは、文禄元年(一五九二)九月六日関白豊臣秀次が犬追物を催したときであり、弓馬師範として召し出されている(『鹿苑日録』)。また慶長十二年(一六〇七)五月十二日当時は豊臣秀頼に仕えていた(『鹿苑日録』)。このとき法名玄雄(玄由)と称していたことが確認できる。慶長十七年(一六一二)十月二十二日没。享年は六十九歳。法号は覚園院殿四品前右金吾天英雄公大居士。位牌は父承禎と同様、京都宇治の一休寺にある。

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