上杉本洛中洛外図

現在の歴史学では、絵画を歴史資料として使用する試みがなされています。そこで注目できるのが上杉本洛中洛外図で、公方邸に四目結紋の陣幕が張られていることです。
 上杉氏の伝承では、この屏風絵の作者を狩野永徳と伝え、織田信長が天正元年(1573)頃に贈ったとしています。本当にそうでしょうか。そこに描かれているものから、いろいろなことを読み取って見ましょう。
 今谷明氏は、屏風に描かれている景観を綿密に考察し、とくに変転の激しい武家邸宅に注目して年代同定を試みています(今谷明『京都・一五四七』平凡社、1988年)。今谷氏は、公方様(将軍邸)・細川殿(管領細川邸)・典厩(細川典厩邸)・武衛(旧斯波邸、将軍別邸)・伊勢守(政所執事伊勢邸)・畠山図子上臈(旧畠山邸)・和泉守護殿(和泉守護細川邸)・薬師寺備後(摂津守護代薬師寺邸)・三好筑前邸(三好長慶邸)・高畠甚九郎(山城郡代高畠邸)・松永弾正(松永久秀邸)の存在や規模・位置・名称に注目して、天文16年(1547)の京都であると結論付けました。卓見といえます。
 しかし今谷氏は、公方邸に四目結紋の陣幕が張られていることに注目されていません。絵画を歴史資料と見るのであれば、描かれているものが何を象徴しているのかも見ていく必要があります。まして公方邸の陣幕に注目されなかったことは重大な見落としでしょう。四目結紋は近江守護佐々木六角氏の家紋(表紋)であり、公方邸に四目結紋の陣幕が張られていることは、六角氏が将軍の保護者であったことを象徴しています。
 戦国期の室町将軍のうち11代足利義澄・12代将軍足利義晴・13代将軍足利義輝(義藤)の歴代が六角氏に保護されて近江に滞在したため、近江武家(近江大樹)と呼ばれました。天文16年(1547)当時の足利義晴・義輝父子はもちろん近江への逃亡を繰り返していました。このように戦国期六角氏は、室町将軍の保護者でした。その六角氏と上杉謙信は交流があるのです。
 永禄2年(1559)上杉謙信(当時は長尾景虎)は上洛して将軍足利義輝に謁見しましたが、このとき近江守護六角氏を訪問し、六角氏被官河田長親(豊前守)を引き抜き自らの執政にしています。
 以後も六角氏と上杉氏の間には交流があり、天正元年(1573)足利義昭が織田信長によって京都から追放され、さらに浅井・朝倉両氏が相次いで滅亡すると、六角氏は上杉謙信と武田勝頼との同盟を画策して、信長包囲網を築くのに成功します。このときの交渉のものである六角義堯書状が、上杉・河田文書に伝えられています。上杉本洛中洛外図も、そのような交流の中で六角氏から上杉氏に贈られたものと考えられます。
 このように絵画の中に描かれた紋章も、歴史資料になるのです。
 

  

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