メールマガジン系図学校第4号

1.系図の見方

【関東奉公衆佐々木氏の系譜】


関東奉公衆の菖蒲佐々木氏は、系譜伝承で六角時信の子孫と伝えられます。しかし先祖が佐々木近江守であると、同じ時期の近江守護佐々木六角氏の子孫という系譜伝承が生まれます。そのため菖蒲佐々木氏もその可能性があると考える必要があります。

通称に「近江」が使用していれば、近江守の子孫と分かります。佐々木近江四郎氏綱であれば、佐々木加地近江守景綱の子である氏綱です。この場合、四郎とあっても四男ではありません。代々嫡子が四郎を名乗れる家であれば、四郎は嫡子を意味します。佐々木近江四郎氏綱の場合は、景綱の嫡子氏綱という意味です。また、佐々木近江次郎左衛門尉清氏であれば、佐々木塩冶近江守貞清の子で左衛門尉である清氏で、佐々木近江次郎左衛門尉貞宗であれば、佐々木塩冶近江守高貞の子である左衛門尉貞宗です。このように「近江」を使用していれば近江守の子孫ですが、どの佐々木近江守の子孫かは慎重に判断しなければなりません。

関東奉公衆佐々木氏は、六角時信(金田殿)の子孫と伝えますが、至徳二年(1385)三月佐々木近江守基清が足利氏満の使者になっています(頼印行状記[後鑑所収])。また「喜連川判鑑」(続群書類従所収)で「佐々木隠岐入道」としてとしており、佐々木隠岐氏の出身と分かります。隠岐氏で近江守と名乗るのは塩冶氏です。これで近江守基清は、幕府奉公衆佐々木近江次郎左衛門尉清氏の子息と推測できます。

系譜伝承では、近江守とあると、どうしても同じ時期の近江守護佐々木六角氏の当主と結びつけてしまいます。歴史研究者はそこから直ちに系譜伝承には作為が多いと判断します。しかしここで近江守護の子孫という伝承は同時期の佐々木近江守の子孫と読み換えると、系譜伝承の作為と思われていたものは、作為ではなく錯誤であると分かります。関東奉公衆の佐々木氏が六角氏出身ではなく、隠岐氏出身と分かったのは、「頼印行状記」(後鑑所収)に「佐々木近江守基清」が見え、「喜連川判鑑」(続群書類従所収)で同一人物を「佐々木隠岐入道」と記しているからです。これで六角時信の子孫とあるのは作為ではなく、錯誤と分かりました。このように系譜伝承は必ず歴史資料で確認する必要があります。


2.歴史研究実況中継

六角氏と近衛家


佐々木氏は鎌倉期には九条家と関係が深かく、鎌倉御家人であると同時に九条家の家礼でした。しかし九条家出身の摂家将軍藤原頼経・頼嗣父子が宮騒動・宝治合戦で鎌倉を追放されてからは、九条家との縁が遠ざかります。

室町期にはむしろ近衛家との関係が強まります。その近衛家ともはじめは荘園の押領をめぐり対立していました。近衛道嗣の日記『後深心院記』応安四年(1371)六月十三日条によれば近衛道嗣の所領柿御園の件で、守護の違乱を停止するよう勅旨が管領細川頼之の許に発せられたことが、藤中納言から伝えられています。このときの近江守護は六角高経です。高経は京極高秀の実子で、当時は六角氏頼の猶子(准子)として近江守護でした。

また永和元年(1375)七月十六日条では近衛家領の件で、勅使が管領頼之邸に赴き、近衛家領近江国柿御園の押領を停止するよう管領細川頼之に厳しく下知されたと、頭右大弁長宗が伝えていました。後光厳院の時に二度停止命令があったものの、守護は伊勢征伐進発に事寄せて言い逃れ、幕府もまた厳しく追及しなかったため、このたび重ねて勅旨が出されたのです。道嗣は「もっとも喜悦喜悦」と喜んでいます。

このように近江守護六角氏と近衛家は初め対立していましたが、永源寺文書に近衛良嗣寺領寄進状が伝えられています。同文書に康安二年(1361)九月二十日付六角氏頼寺領寄進状、さらに応永元年(1394)十二月二十九日付近衛良嗣寺領寄進状が伝わります。近衛良嗣は前述の近衛道嗣の子ですが、六角氏頼創建の永源寺に寺領を寄進していたことが確認できます。

高経が六角氏から除籍されたのちに、六角氏と近衛家が和解したことが分かります。和解後にはむしろ六角氏創建の永源寺に寺領を寄進するなど親密な関係でした。沙沙貴神社所蔵佐々木系図で、近衛良嗣(忠嗣)を六角氏頼の女婿とするのも史実なのでしょう。高経(京極高詮)の六角氏除籍の原因も見えてきます。また系図に史実が含まれていることも分かります。

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