メールマガジン系図学校第1号

1.系図の見方

先祖の名で家系を知る
~通称が資料になる


各家にはそれぞれの通称がありました。そのため通称で家が区別されました。普段は名字を名乗らなかった農民や町民も、通称で家を区別しました。そのため通称で家系をたどれます。

たとえば源右衛門尉であれば、源氏で右衛門尉という意味です。新任であれば新右衛門尉であり、平氏であれば平右衛門、藤原氏であれば藤右衛門です。また右衛門も右衛門尉を指します。明治維新まで続いた律令の官位制度では、ひとつの官職を長官・次官・判官・主典の四等官に分け、右衛門・兵衛・式部と官名のみで呼ぶのは実務担当の判官です。紫式部の父親は、式部省の判官である式部丞でした。そこで紫式部は、源氏物語の主人公紫の上の〈紫〉と父の官職〈式部〉を合わせて、紫式部と呼ばれました。

次に応用です。太郎左衛門であれば長男で左衛門尉になった者ですが、左衛門太郎はどういう者でしょう。正解は、左衛門尉の長男です。また長男が代々三郎を名乗っていれば、家祖が三男です。これが、通称で系譜が分かる理由です。

2.歴史研究実況中継

佐々木宇津木氏
~源氏なのに平氏


室町時代の佐々木氏の動向を当時の資料で調べる中で気づいたのが、佐々木氏が源氏であるに、通称で平氏を名乗る者がいることです。江戸時代に塙保己一が小さな資料を収集して『群書類従』を編集しましたが、そのなかに「永享以来御番帳」があります。

「永享以来御番帳」は室町将軍家奉公衆(直臣)の五番編成を記述したもので、そのなかに宇多源氏の佐々木一族も見られます。一番に佐々木大原(大原庶流白井)、佐々木宇津木、佐々木浅堀、吉田、二番に佐々木延福寺、高島(高島庶流)、佐々木井尻、三番に塩冶、五番に大原、三上、鏡、岩山です。

このうち佐々木宇津木氏は佐々木宇津木平次郎と名乗り、二番の佐々木延福寺は佐々木延福寺対馬守・平四郎と名乗ります。これは、宇津木氏も延福寺氏ももともと平姓だったからです。また、文永八年十一月出雲国杵築大社御三月絵相撲舞頭役結番事(千家文書)によれば出雲井尻保地頭に宇津木十郎と記されており、承久の乱(一二二一年)の宇治川渡河戦で活躍した宇津幾十郎が新補地頭として出雲入りしたことが分かります。

東国御家人宇津木氏は、実は武蔵七党横山党(小野姓)の一族であり、宇津木三郎が源頼朝の上洛に随いました。横山党は縁戚関係にあった和田義盛の乱で滅び、武蔵国横山庄地頭には大江広元が補任されましたが、宇津幾十郎が承久の乱で戦功を上げます。文永八年の記録に井尻保地頭として見える宇津木十郎は、その直系でしょう。『吾妻鏡』によれば、承久の乱の宇治川渡河戦で負傷した者に宇津幾平太が記されているので、和田義盛の乱後に平姓の人物が宇津木氏を継承していたと分かります。太平記でも正平七年閏二月十六日条に宇津木平三が見えます。さらに佐々木氏が継承した後も、通称の「平」を使用し続けました。

天文九年八月十九日付の竹生島奉加帳(竹生島宝厳寺文書)では「出雲州衆次第不同」の中に宇津木殿が見られます。ただし尼子氏の御一族衆(京極庶流)は宍道八郎・鞍智右馬助・宍道九郎のみであり、宇津木氏はあくまで国衆でした。

ところで彦根藩重臣宇津木氏は上野国(群馬県)出身で、戦国期に宇津木下総守(氏久)が八王子城主北条氏照の女婿となり、子治部右衛門泰繁が箕輪城主時代の井伊直政に仕え、井伊家の近江彦根転封にともない、彦根藩家老の家柄になります(大阪天守閣所蔵宇津木氏文書)。同じく横山党の系譜ですが、出雲の佐々木宇津木氏の子孫ではありません。

宇多源氏である佐々木一族が通称で平を名乗るのは、もともと平姓の宇津木氏を継承したからです。家名と通称は平ですが、血筋は源姓佐々木氏です。このように家名の名字と血筋が異なる例はよくありました。これまで系譜伝承に佐々木氏とも平氏ともあると誤りと決めつけましたが、実は歴史事実を伝えていたのです。資料で見つかった矛盾は新発見につながるので、研究者にとって大きな喜びです。

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