メールマガジン系図学校第2号

1.系図の見方

先祖の名で家系を知る2
~農民に多い衛門や兵衛

通称に多い衛門や兵衛は、衛門・兵衛府の判官である尉です。そのため源右衛門とあれば、源氏で右衛門尉を意味します。さらに尉には大尉・少尉・権少尉があり、右衛門尉とあれば、定員外の右衛門権少尉を意味します。〈権〉は定員外を意味し、行幸のときには正員の少尉が権少尉を率いました。

源義経は左衛門少尉で検非違使を兼任し、しかも天皇の御所に上がる昇殿を許されました。左衛門少尉は皇居の大門と京中を警固する武官であり、兼任した検非違使は警察と検察・裁判官を兼ね、大尉が法律家、少尉は軍勢を率いて追捕する武官でした。さらに天皇や上皇の行幸では美しく着飾る花形でした

少尉は地方の反乱の鎮圧にも向かうため、平氏追討の大将義経が検非違使の少尉(判官)に補任されたのは有職故実にかなっていました。義経が源氏の名誉と考えたのは当然で、頼朝が怒ったのは、頼朝の許可なく任官したからです。

農民に衛門・兵衛と名乗る者が多いのは、江戸以前には衛門尉や兵衛尉を勤める武士だったからです。豊臣秀吉の刀狩令による兵農分離まで武士と農民は実は同じ身分であり、農民が衛門や兵衛を通称とするのは自然でした。

全国で新田開発をした庄屋・名主の多くは、戦国時代に没落した守護・地頭の子孫であり、織豊時代に成り上がった武士よりも名門であることも珍しくありませんでした。また本家筋が幕府や藩に仕官しないことも多く、自らは本貫の地を守り、分家が仕官することもありました。

2.歴史研究実況中継

【出雲佐々木延福寺氏】

佐々木延福寺氏は、「永享以来御番衆帳」(群書類従二十九輯)の二番に佐々木延福寺対馬守・平四郎が見えます。佐々木氏は源氏であるため、平氏を継承して平四郎と名乗ったと分かります。正長二年(1429)分の杵築大社三月会一番饗二番饗神物引付では、「二貫文、永享二・二月十三日、延福寺内遠江殿さた」とあり、この遠江殿も佐々木延福寺氏と考えられます。同書で「二貫文、八月六日、加賀庄内延福寺内遠江殿さた、東殿なかたに殿沙汰」とあるように、延福寺は加賀庄内にありました。

さらに同書で「弐貫文、同年五月二十八日、かゝ庄宍道殿さた」とありますが、祭事で資金を負担したのは地頭ですから、室町期には宍道氏が加賀庄地頭だと分かります。宍道氏は京極高秀の子遠江守秀益(宍道八郎)に始まる佐々木京極氏庶流です。

鎌倉期の加賀庄地頭は良文流平氏の土屋氏であり、佐々木延福寺氏は土屋氏を継承したため、平四郎と名乗ったと考えられます。鎌倉評定衆の土屋左衛門尉宗光(弥三郎)は承久の乱で出雲国内に地頭職を獲得し、その子左衛門尉光時の妻に佐々木信綱の娘を迎えました。

永享年間当時の佐々木遠江守としては、『建内記』永享二年七月二十五日条の足利義教右大将御拝賀式に「佐々木遠江守高慶」が見えます。佐々木宍道氏と考えられ、延福寺遠江殿と同一人物の可能性が高いといえます。

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