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zoom RSS 2014年東大前期・国語第1問【解答】

<<   作成日時 : 2014/03/03 17:40   >>

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第一問
 次の文章は、ある精神分析家が自身の仕事と落語とを比較して述べたものである。

 いざ仕事をしているときの落語家と分析家の共通するものは、まず圧倒的な孤独である。落語家は金を払って「楽しませもらおう」とわざわざやってきた客に対して、たった一人で対峙する。多くの出演者の出る寄席の場合はまだいいが、独演会になるとそれはきわだつ。他のパフォーミングアート、たとえば演劇であれば、うまくいかなくても、共演者や演出家や劇作家や舞台監督や装置や音響のせいにできるかもしれない。落語家には共演者もいないし、みんな同じ古典の根多を話しているので作家のせいにもできず、演出家もいない。すべて自分で引き受けるしかない。しかも落語の場合、反応はほとんどその場の笑いでキャッチできる。残酷までに結果が演者自身にはねかえってくる。受ける落語家と受けない落語ははっきりしている。その結果に孤独に向かい続けて、ともかくも根多を話し切るしかない。
 分析家も毎日自分を訪れる患者の期待にひとりで対するしかない。そこには誰もおらず、患者と分析家だけである。私のオフィスもそうだが、たいてい受付も秘書もおらず、まったく二人きりである。そこで自分の人生の本質的な改善を目指して週何回も金を払って訪れる患者と向き合うのである。分析料金はあまり安くない。普通の医者が一日数十人相手にできるのに対して、七、八人しか会えないので、一人の患者からある程度いただかないわけにはいかないからだが、たいてい高いと思われる。真っ当な鮨屋が最初は高いと思えることと似ている。そういう料金を払っているわけであるから、患者たちは普通もしくは普通以上にaカセいでいる。社会では一人前かそれ以上に機能しているのだが、パーソナルな人生に深い苦悩や不毛や空虚を抱えている人たちである。こういう人たちに子どもだましは通用しない。単なるbナグサめや励ましはかえって事態をこじらす。そうしたなかで、分析家はひとりきりで患者と向き合うのである。何の成果ももたらさないセッションもすくなくない。それでもそこに五十分座り続けるしかない。
 多くの観衆の前でたくさんの期待の視線にさらされる落語家の孤独。たったひとりの患者の前でその人生を賭けた期待にさらされる。分析家の孤独。どちらがたいへんかはわからない。いずれにせよ、彼らは自分をゆさぶるほど大きなものの前でたったひとりで事態に向き合い、そこを生き残り、なお何らかの成果を生み出すことが要求されている。それに失敗することは、自分の人生が微妙に、しかし確実にcオビヤかされることを意味する。客が来なくなる。患者が来なくなる。
 おそらく(アこのこころを凍らせるような孤独のなかで満足な仕事ができるためには、ある文化を内在化して、それに内側からしっかりと抱えられる必要がある。濃密な長期間の修業、パーソナルでdジョウショ的なものを巻き込んでの修業の過程は、それに役立っているだろう。落語家の分析も文化と伝統に抱かれて仕事をする。しかし、そうした内側の文化がそのままで適用することは、落語でも精神分析でもありえない。ただ根多を覚えたとおりにやっても落語にはならないし、理論の教えるとおりに解釈をしても精神分析にはならない。観客と患者という他者を相手にしているからだ。
 演劇などのパフォーミングアートにはすべて、何かを演じようとする自分と見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する。それは「演じている自分」とそれを「見せる自分」の分裂であり、世阿弥が「離見の見」として概念化したものである。落語、特に古典落語においては、習い覚えた根多の様式を踏まえて演りながら、たとえばこれから自分が発するくすぐりをいま目の前にいる観客の視点からみる作業を不断に繰り返す必要がある。昨日大いに観客を笑わせたくすぐりが今日受けるとは限らない。彼はいったん今日の観客になって、演じる自分を見る必要がある。完全に異質な自分と自分との対話が必要なのである。
 しかも落語という話芸には、他のパフォーミングアートにはない、さらに異なった次元の分裂のeケイキがはらまれている。それは落語が直接話法の話芸であることによる。落語というものは講談のように話者の視点から語る語り物ではない。言ってみれば地の文がなく、基本的に会話だけで構成されている。端的に言って、落語はひとり芝居である。演者は根多のなかの人物に瞬間瞬間に同一化する。根多に登場する人物たちは、おたがいにぼけたり、つっこんだり、だましたり、ひっかけたりし合っている。そうしたことが成立するには、おたがいがおたがいの意図を知らない複数の他者としてその人物たちがそこに現れなければならない。落語が生き生きと観客に体験されるためには、この他者性を演者が徹底的に維持することが必要である。(イ)落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する。私の見るところ、優れた落語家のパフォーマンスには、この他者性の維持による生きた対話の運動の心地よさが不可欠である。それはある種のリアリティを私たちに供給し、そのリアリティの手ごたえの背景でくすぐりやギャグがきまるのである。
 おそらく落語という話芸のユニークさは、こうした分裂のあり方にある。もっと言えば、そうした分裂を楽しんで演じている落語家を見る楽しみが、落語というものを観る喜びの中核にあるのだと思う。そして、人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である。意識と無意識でもいい、自我と超自我とエスでもいい、精神病部分と非精神病部分でもいい、本当の自己と偽りの自己でもいい、自己のなかに自律的に作動する複数の自己があって、それらの対話と交流のなかに(ウ)ひとまとまりの「私」というある種の錯覚が生成される。それが精神分析の基本的な人間理解のひとつである。落語を観る観客はそうした自分自身の本来的な分裂を、生き生きとした形で外から眺めて楽しむことができるのである。分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分を見ることに、何か希望のようなものを体験するのである。
 (エ)精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている。分析家が患者の一部分になることを通じて患者を理解することを前に述べた。たとえば、こころのなかに激しく自分を迫害する誰かとそれにおびえてなすすべもない無力な自分という世界をもっている患者は、分析家に期待しながらも、迫害されることにおびえて、分析家を遠ざけ絶えず疑惑の目を向け拒絶的になる。分析家はやがてそのような患者を疎ましく感じ、苛立ち、ついに患者に微妙につらく当たるようになる。こうした過程を通して分析家はまさに患者のこころのなかの迫害者になってしまう。さらに別のことも起きる。分析家は何を言っても患者にはねかえされ、どうしようもないと感じ、なすすべもない無力感を味わう。それは患者のこころのなかの無力な自己になってしまったということである。こうして患者のこころの世界が精神分析状況のなかに具体的に姿を現し、分析家は患者の自己の複数の部分に同時になってしまい、その自己は分裂する。
 もちろん、そうして自分でないものになってしまうだけでは、精神分析の仕事はできない。分析家はいつかは、分析家自身の視点から事態を眺め、そうした患者の世界を理解することができなければならない。そうした理解の結果、分析家は何かを伝える。そうして伝えられる患者理解の言葉、物語、すなわち解釈というものに患者は癒される部分があるが、おそらくそれだけではない。分裂から一瞬立ち直って自分を別の視点からみることができる(オ)生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいるのだろう。自分はこころのなかの誰かにただ無自覚にふりまわされ、突き動かされていなくてもいいのかもしれない。ひとりのパーソナルな欲望と思考をもつひとりの人間、自律的な存在でありうるかもしれないのだ。
                  (藤山直樹『落語の国の精神分析』)
〔注〕
○根多――「種」を逆さ読みにした語。
○くすぐり――本筋と直接関係なく挿入される諧謔。
○自我と超自我とエス―――フロイト(Sigmund Freud 一八五六〜一九三五)によって精神分析に導入された、自己に関する概念。

設問
(一)「このこころを凍らせるような孤独」(傍線部ア)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】「この…孤独」と前段落で述べられている孤独の内容を受けているのだから、その内容をまとめよう。キーワードは「期待の視線にさらされる」であり、「たったひとりで…向き合い」であり、「成果を生み出すことが要求されている」であり、「失敗」である。
【解答例】ひとり客と向き合い、その期待に応えるという責任をひとりで背負うということ。
(二)「落語家の自己はたがいに他者性を帯びた何人もの他者たちによって占められ、分裂する」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】傍線部ですでに「落語家の自己は…何人もの他者たちによって占められ」と述べられており、本文を読んでいないものにも通じるように、自分の言葉で説明するといい。なぜ多くの他者が落語家にあらわれるのか、その理由は段落の前半に「それは落語が直接話法の話芸であることによる」とある。その理由を含めてまとめるといい。
【解答例】落語は直接話法であり、落語家は登場人物になりきりながら何役もこなすということ。
(三)「ひとまとまりの「私」というある種の錯覚」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】この段落の前半にある「人間が本質的に分裂していることこそ、精神分析の基本的想定である」と段落最後の「分裂しながらも、ひとりの落語家として生きている自分」に注目しよう。「ひとまとまりの『私』」とは自己同一性のことであり、筆者はそれを「錯覚」と述べている。しかしこの段落を読めば、筆者が分裂を前向きにとらえていることが分かる。
【解答例】自己同一性とは、多くの側面を矛盾しながらも相補的に含んだ総合体として私であるということ。
(四)「精神分析家の仕事も実は分裂に彩られている」(傍線部エ)とはどういうことか、説明せよ。
【解説】これは段落の最初の文であり、この段落で述べられている精神分析家の仕事の内容をまとめるといい。そのとき参考になるのが、前段落で述べられている落語家の仕事に関する記述である。ただ落語家との違いにも気づく必要がある。落語家は落語の中で複数の役割を演じているが、精神分析家は患者に応じて変わるということである。
【解答例】患者の表出する性格に応じて、精神分析家も幾通りもの役割を演じるということ。
(五)「生きた人間としての分析家自身のあり方こそが、患者に希望を与えてもいる」(傍線部オ)とあるが、なぜそういえるのか、落語家との共通性にふれながら一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ(句読点も一字と数える)。
【解説】この傍線部は、課題文全体の内容をまとめる段落の中心となる文であり、まず全体の内容をまとめる。そして、この段落ならではの内容にも注目しよう。それが傍線部直前にある「分裂から一瞬立ち直って自分を別の視点からみることができる」である。しかも傍線部に「希望」とあるのだから、分裂を前向きに捉えればいいとわかる。まさに分裂とは自分を別の視点から見るということである。さらに落語家との共通性に注目すれば、落語が分裂しながらも一つの物語としてまとまっているように、人間もひとりの個人としてまとまっていると考えられよう。
【解答例】患者が精神分析家との交流を通して、人間は誰でも多くの側面を有しているものだと認識できれば、落語が多くの登場人物が登場するにもかかわらず一つの物語にまとまっているように、人間も相互に矛盾する側を総合して個人として実存していると理解できるから。
(六)傍線部a、b、c、d、eのカタカナに相当する漢字を楷書で書け。
【解答例】
aカセ(いで)稼いで
bナグサ(め)慰め
cオビヤ(かされる)脅かされる
dジョウショ 情緒
eケイキ 契機

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