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zoom RSS 2013年東大前期・国語第4問「見ること」

<<   作成日時 : 2014/02/24 20:52   >>

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 知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である。この努力は、まったく生活上のものとして為されている。実際、私は今自分が見ているこの壺が、ただ網膜に映っているだけのものだとは決して考えない。私からは見えない側にある、この壺の張りも丸みも色さえも、私は見ようとしているし、実際見ていると言ってよい。見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ。なるほど(ア)その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援助を送ってくれるから、人は一体どこで見ることが終わり、どこから予測や思考が始まるのか、はっきりとは言うことができなくなっている。けれども、見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義である。
 主知主義の哲学者たちは、精神による知覚の解釈こそ重要なのだと主張した。知覚の誤謬を救うものは悟性しかないと。日本で一頃はやりの映画批評は、視えるものの表層に踏みとどまることこそが重要だ、映画を視る眼に必要な態度だと主張していた。これはある点までもっともな言い分だが、これも行き過ぎれば、主知主義のシニカルな裏返しでしかなくなるだろう。視えるとは何なのか。たとえば、モネのような画家はこの問題を突き詰めて、恐ろしく遠くにまで行った。光がなければ物が視えないと人は言うが、視えているものは物ではない、刻々に変化する光の分散そのものである。あとは頭脳の操作に過ぎないではないか。むろん、こういうモネの懐疑主義と、彼の手が描いた積み藁の美しさとはまた別ものだろう。彼は視ただけではない、視えていると信じたものを描いたのだ。当然ながら、描くことは視ることを大きく超えていく、あるいは超えていこうとする大きな努力となるほかない。
 メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを巧みに語っていた。W・ジェームズやJ・ギブソンの心理学にあるものも結局は同じ考え方だと言ってよい。私は自分が登っている丘の向こうに見える一軒家が、一枚の板のように立っているとは思いはしない。家の正面はわずかに見えてくる側面と見えないあちら側との連続的な係わりによってこそ正面でありうる。歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない、丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくるのである。(イ)家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びていき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることである。流体とは、私の身体がこの家に対して、持つ止めどない行動可能性にほかならない。
 十九世紀後半から人類史に登場してきた写真、そして映画は、見ることについての長い人類の経験に極めて深い動揺を与えた。むろん、この事実に敏感に応じた者も、そうではなかった者もいる。けれども、動揺は計り知れず深かったと言えるのだ。機械が物を見る、それは一体どういうことなのか。肉も神経系もなく、行動も努力もしない機械が物を見る時、何が起こってくるのか。これは単なるレトリックではない。実際、リュミエール兄弟たちが開発した感光版「エチケット・ブルー」によって驚くべきスナップ写真が生まれてきた時、人はそれまで決して見たことのなかった世界の切断面、たとえばバケツから飛び出して無数の形に光る水をみたのである。それは身体が近くするあの液体だとか固体だとかではない、何かもっと別なもの、しかもこの世界の内に確実に在るものだった。
 いや、スナップ写真でなくともよい。写真機が一秒の何千分の一というようなシャッタースピードを持つに至れば、肖像写真は静止した人の顔を決して私たちが見るようには顕わさない。写真機で撮ったあらゆる顔は、どこかしら妙なものである。職業的な写真家やモデルは、そこのところをよく心得ていて、その妙なところを消す技術を持っている。けれども、それはうわべのごまかしに過ぎない。顔は刻々に動き、変化している。変化は無数のニュアンスを持ち、ニュアンスのニュアンスを持ち、静止の瞬間など一切ない。私たちの日常の視覚は、相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。従って、私たちのしかじかの身体が、その顔に向かって働きかけるのに必要な分だけの静止がそこにはある。写真という知覚機械が示す切断はそんなものではない。この切断は何のためでもなく為され、しかもそれは(ウ)私たちの視覚が世界に挿し込む静止と較べれば桁外れの速さで為される。
 写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか。持続し、限りなく変化しているこの世界の、言わば変化のニュアンスそれ自体を引きずり出し、一点に凝結させ、見させる。おそらく、そう言ってよい。私たちの肉眼は、こんな一点を見たことはない、しかし、持続におけるそのニュアンスは経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを、ただ一点に凝結させ、実に単純な視覚の事実にしてしまう。(エ)これは、恐ろしい事実である
                    (前田英樹『深さ、記号』)

○モネ――Claude Monet(一八四〇〜一九二六)フランスの画家。
○メルロ=ポンティ――Maurice Merleau-Ponty(一九〇八〜一九六
 一)フランスの哲学者。
○W・ジェームズ――William James(一八四二〜一九一〇)アメリカの
 哲学者・心理学者
○J・ギブソン――James Gibson(一九〇四〜一九七九)アメリカの
 心理学者
○リュミエール兄弟――オーギュスト・リュミエールAuguste Lumiere
 (一八六二〜一九五四)とルイ・リュミエール(一八六四〜一九四
 八)の兄弟。フランスにおける映画の発明者。
○エチケット・ブルー――etiquegtte bleue(フランス語)「青色のラベ
 ル」意味。

設問
(一)「その努力には、いろいろな記憶や一般観念がいつもしきりと援
 助を送ってくれる」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。
(二)「家を見上げることは、歩いている私の身体がこの坂道を延びて
 いき、家の表面を包んでその内側を作り出す流体のようになることで
 ある」(傍線部イ)とあるが、家を見上げるときに私の意識の中でどの
 ようなことが起きているというのか、説明せよ。
(三)「私たちの視覚が世界に挿し込む静止」(傍線部ウ)とはどういう
 ことか、説明せよ。
(四)「これは、恐ろしい事実である」(傍線部エ)とあるが、なぜこの前
 の文にいう「視覚の事実」が「恐ろしい事実」だと感じられるのか、説
 明せよ。

【解き方】
(一)傍線部アのある段落は「知覚は、知覚自身を超えて行こうとする一種の努力である」で始まる。そして傍線部アの直前にも「見えるものを見るとは、もともとそうした努力なのだ」とある。それに続けて「なるほど」傍線部ア、「けれども」筆者の主張となる。筆者の主張は「見ることが、純粋な網膜上の過程で終わり、後には純粋な知性の解釈が付け加わるだけだと思うのは、行き過ぎた主知主義である」である。

(二)傍線部イのある段落の最初の文は「メルロ=ポンティの知覚の現象学は、視えることが〈意味〉に向かい続ける身体の志向性と切り離しては決して成り立たないことを巧みに語っていた」である。知覚と行動の関係を述べている。そして傍線部イの直前で「歩きながら、私はそういう全体を想像したり知的に構成したりするのではない、丘を見上げながら坂道を行く私の身体の上に、家はそうした全体として否応なくその奥行きを、〈意味〉を顕わしてくるのである」と述べている。傍線部イは接続詞なしで続いているので、この文の言いかえといえる。

(三)筆者は傍線部のある段落で、写真が示す切断は、傍線部ウ「私たちの視覚が世界に挿し込む静止」と較べれば桁外れの速さと述べている。そのため傍線部ウは、私たちの日常の視覚である。そこで傍線部の少し前にある私たちの日常の視覚は、相対的なさまざまの静止を持ち込む。それが、生活の要求だから。従って、私たちのしかじかの身体が、その顔に向かって働きかけるのに必要な分だけの静止がそこにはある」を参考にしよう。

(四)傍線部エのある最終段落は、「写真のこの非中枢的な切断は、私たちに何を見させるだろうか」と問題提起したうえで、傍線部「これは、恐ろしい事実である」と結んでいる。そのため、この段落の内容をまとめればいい。写真は限りなく変化しているこの世界の変化のニュアンスを引きずり出して、一点に凝結する。私たちの肉眼は、それを見たことはないが、たしかにそのニュアンスを経験している。生活上の意識がそれを次々と闇に葬るだけだ。写真は無意識の闇にあったそのニュアンスを実に単純な視覚の事実にしてしまう。これをまとめよう。

【解答例】
(一)わたしたちが物事を認識するとき、目に映ったものだけではなく、経験で得た知識を導入しながら物事を見ている。

(二)わたしたちは行動のなかで物事を立体的に見て意味づけをし、行動の指針としている。

(三)私たちが日常生活の中で見ている中での一瞬は、わたしたちが必要とする大まかな印象である。

(四)写真は、私たちがたしかに経験しているが無意識のうちに捨てているものを、実に単純な仕方で提示するから。



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