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zoom RSS 長山遠江守と佐々木馬淵氏【改訂版】

<<   作成日時 : 2013/12/08 01:22   >>

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 和歌山県有田郡広川町広八幡宮所蔵佐々木系図によれば、紀伊竹中氏は佐々木氏の出自で、美濃竹中氏の子孫と伝えられている。美濃竹中氏といえば、羽柴秀吉の軍師竹中半兵衛重治が有名であり、遠江守重元―半兵衛重治―丹後守重門と続く。竹中遠江守が六角義治から援軍要請を受けて近江坂田郡に出兵するなど、近江・美濃国境を支配していた竹中氏は六角氏との関係が強い。
 東大史料編纂所所蔵『美濃国諸家系譜』第六巻所収の竹中系譜によれば、江戸期でも竹中氏の系譜は不明になっており、いくつかの説をとりあげている。@清和源氏源為義流で美濃恒富氏の子孫と伝えるが、途中が分からないという。A公家の子孫と伝え、清和源氏竹内家あるいは村上源氏梅谷家の出身とも伝えるが、系譜がないという。B長山遠江守頼基の子孫長江氏とも伝え、これには系譜がある。そこで『美濃国諸家系譜』では長江氏説を採る。
 @源氏の子孫ということから、為義の女婿美濃恒富氏を連想したものだろう。Aa竹内家説は竹中から竹内を連想したものであり、Ab梅谷家説は半兵衛重治の祖父の源助重道が始め不破郡梅谷に住み、後に池田郡藤代に住んで竹中を名乗ったことから、不破郡梅谷出身を、村上源氏梅谷家出身と誤り伝えたものだろう。いずれも仮冒といえる。
 B『美濃国諸家系譜』は、加賀江沼郡出身の山岸新左衛門(斎藤氏族)と頼基を混同して頼基を加賀出身としている。しかし『太平記』巻十九では山岸新左衛門と記され、また『太平記』巻三十二では頼基を長山遠江守としており、明らかに別人である。また長山遠江守頼基は、明智氏の祖とされる土岐伯耆九郎頼基(伯耆守頼貞子)とも混同される。しかし、明智十郎頼基は建武新政のもと讃岐守護となった子頼重(高松三郎頼重)とともに讃岐にあり、足利尊氏の挙兵のとき細川定禅に讃岐高松城を攻められて討死しており、別人である。しかも、長江遠江守の実名は、文和三年(1354)七月二十八日付足利尊氏寄進状(妙興寺文書『愛知県史資料編1』一四二二号)は妙興寺に尾張国中島・丹羽・葉栗等郡内散在田畠百十八町七段余を寄附するとの寄進状に「守護人土岐大膳大夫頼康・同代官頼煕執達」とあり、守護代長山遠江守の実名が「頼煕」と分かる。やはり明智頼基とは別人である。
 『美濃国諸家系譜』によれば、長江遠江守の満頼の長子頼慶が長江氏、次子源助頼重が岩手・竹中氏の祖だという。長江氏からは美濃守護代富島備中守高景が出ている。
 長江氏は美濃垂井宿の妙応寺所蔵長江系図によれば桓武平氏鎌倉流で、長江八郎師景の子秀景が美濃に移住し、その孫重景のとき妙応寺を建立したという。しかし同系図以外に長江氏の美濃移住を示す資料はない。『吾妻鏡』では八郎師景・八郎四郎景秀父子の鎌倉での活躍を確認できる。
 ところで沙沙貴神社所蔵佐々木系図によれば、平安末期の「源行真申詞記」に登場する愛智家次の弟に長江権守家景がある。長江太郎義景により鎌倉平氏長江氏が成立したのとほぼ同時期であり、〈景〉の字を通字とする。平治の乱後の佐々木氏の東下と関係があるかもしれない。佐々木氏は鎌倉平氏の旧領のひとつ相模鎌倉郡長尾郷を領しており、鎌倉平氏を継承していた可能性はある。
 また続群書類従所収中原系図によれば、愛智郡に勢力をもった江州中原氏(中原真人)にも長江氏があり、江州中原氏薩摩太夫仲平が愛智郡甲良に入婿し、その子八郎成家が長江氏を称したのに始まる。長江八郎成家―家定―盛定と続き、盛定の長男に「某(孫太郎)」、次男に「明智」と記されている。愛智流長江権守家景とは養子関係にあったと考えられ、続群書類従本佐々木系図(巻百三十三)では、長江権守家景の猶子長江三郎家経の系譜は家経―秀家―忠家―家成―家定とあり、中原系図と成家(家成)―家定の個所が重なる。江州中原氏は「近江国御家人井口中原系図」(東大史料編纂所『諸氏家牒』皇孫上)によれば、天武天皇―舎人親王―船王―栄井王―豊前王―弘宗王―中原真人長谷と続く。ただし、『日本三代実録』貞観七年二月二日条では栄井王を舎人親王四世とする。そうであれば、船王と栄井王の間の一代が脱落していると考えられる。仁寿元年(851)九月紀に「従五位下弘宗王奏して、子男八人に其の王号を改め、姓を中原真人と賜らんと請ふ、之を許す」とある。皇孫中原真人長谷の名から、「長谷部」を諱にする崇峻天皇に系譜を仮託したと考えられる。豊前王・弘宗王らが国司のときに農民に訴えられたことを嫌ったのかもしれない。子孫は近江愛智・犬上両郡に勢力を張り、多賀社神職も勤めた。
 さらに続群書類従所収佐々木系図によれば、近江守護佐々木定綱の子五郎左衛門尉広定の子孫馬淵氏から長江氏が出ている。馬淵氏は佐々木惣領家六角氏の近江守護代を勤めたが、『尊卑分脈』によれば馬淵広定の次男定成(左衛門尉)は長江八郎入道の養子になり、その子に長江左衛門尉重定がいる。この長江八郎入道が鎌倉平氏か江州中原氏か特定は難しく、年代と『尊卑分脈』の記事では鎌倉平氏師景であり、また定成の実名から判断すれば中原流長江八郎成家である。盛の字は成の字の下に点「ゝ」を打つだけであり、混同されやすく、定成が中原氏系図に見える「盛定」である可能性はある。
 沙沙貴神社所蔵佐々木系図は、長江定成の末弟馬淵公綱(従五位下左衛門尉、近江守護代)の子三郎頼基に「西池田」「美濃守」と注記する。美濃国池田郡池田荘(西池田)を領したことを意味しよう。『尊卑分脈』紀氏系図によれば、紀維実から奉光まで七代が美濃池田郡郡司であり、奉光の子奉永が後鳥羽院武者所を勤めて池田武者所と称され、また鎌倉御家人にも列した。しかし鎌倉中期の奉忠以降、本貫地池田庄を離れて鷲田郷に移住した。馬淵氏が池田荘下司職あるいは地頭職を得たのだろう。中原系図に見える長江盛定の次子「明智」は、土岐明智頼兼の舅長山遠江守頼基(実名頼煕)と推測できる。こうして長山・明智・長江がつながる。
 馬淵頼基(頼煕)は沙沙貴神社本で西池田と注記されるが、これは揖斐川流域の西美濃池田郡であり、これに対して可児郡池田御厨(池田郷)を東池田という。頼基は揖斐川沿いに尾張に進出したと考えられる。岐阜県揖斐郡池田町本郷(池田荘本郷)の龍徳寺塔頭養徳院跡には池田恒利の戒名「養徳院心光宗伝禅定門」の五輪塔があるが、恒利は池田政秀の女婿であり、実は滝川貞勝の子で甲賀武士との関係が強い。甲賀武士の尾張進出と尾張守護代長山遠江守(頼煕)は関係があろう。さらに『尊卑分脈』では、佐々木導誉の庶兄太郎左衛門尉定信から始まる甲賀池田氏で、定信の子三郎左衛門尉貞高に「号宇津宮」と記している。これは美濃一宮南宮社家兼地頭宇都宮氏である可能性がある。佐々木氏は着々と西美濃に布石を打っている。また土岐持益の孫亀寿(持兼の遺児)に始まる甲賀池田氏もある。これらについて慎重に考察する必要があろう。
 頼基(頼煕)は近隣の揖斐土岐頼雄・西池田土岐頼忠と結んだことで、長山(長江)氏は飛躍した。頼基はそののち揖斐川の上流本巣郡に移り根尾長山を本拠として長山を称した。鈴木真年編新田族譜で堀口貞満女子に「長山遠江守頼基妻、遠山式部少輔光景母」と記されており、頼基は当初新田方であったことが分かる、これが池田荘を離れた理由だろう。根尾城は脇屋義助も立て籠もったことのある美濃南朝の拠点である。
 南北朝期には土岐頼忠(美濃守)が池田荘地頭となり、文和三年(1354)九月には新熊野社長床雑掌禅憲によって、頼忠が即位料足を譴責したので荘民が逃散したと訴えられている(新熊野神社文書)。
 土岐康行の乱後に西池田頼忠・頼益・持益三代が美濃守護になると、長江氏一族の備中守高景が美濃守護代となり富島を領した。しかし文安元年(1444)閏六月十九日守護土岐持益の館で守護代富島高景が斎藤宗円によって討たれて美濃大乱となり、同年七月十日には富島氏が近江勢の援助で美濃に侵入し、美濃不破郡垂井を焼き払った(康富記同日条)。  文安三年(1446)七月にも美濃で合戦があり、数百人が討死している(東寺過去帳)。同時期に六角氏でも文安の乱が起こり、六角満綱・持綱父子が被官人によって自殺に追い込まれ、被官人に奉じられた六角時綱が、幕府が定めた六角久頼に討たれて混乱を極めた。このように同時期に美濃・近江で混乱があり、しかもどちらにも京極持清が介入している。応仁文明の乱で富島氏は京極氏と結んで東軍につき、守護土岐成頼と守護代斎藤氏は対抗して西軍についたが、富島氏は斎藤氏に敗れて没落した。

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
凄い。の一言に尽きます。
質問させていただいたところにもご回答いただき感謝いたします。
佐々木 寿
2013/12/08 16:17

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