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zoom RSS 近江城郭研究者からのメール

<<   作成日時 : 2013/02/01 00:41   >>

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城郭研究者長谷川博美氏から興味深いメールを頂いた。長谷川氏からの謹賀新年のメールへに対する御礼のメールに、再び長谷川氏からメールを頂いた。近江(現滋賀県)の戦国大名六角氏とその筆頭家老後藤氏との関係を、城郭の石垣の配置から考察したもので、歴史学と中世考古学の共同作業への期待を高める内容になっている。近江の城郭には全国に先駆けて早い時期から石垣があり、とくに穴太積みが有名である。その石垣の積み方で城の性格や役割が分かるが、長谷川氏の報告によると、後藤氏の本城佐生城は六角氏の本城観音寺城と敵対する作りになっているという。そのことは歴史からも分かる。
 永禄十一年(1568)七月織田信長は美濃立政寺に義昭を迎え、さらに同年九月には六角承禎・義治父子を近江国から追い、足利義昭を奉じて上洛を果たした。しかしこのときの承禎・義治父子の抵抗は激しく、一般に言われるような信長の圧勝ではなかった。『言継卿記』の記述をもとに追っていくと、まず九月十日信長(織田上総介)が近江中郡(近江国の中心である東近江)に出張した。それに対して三好三人衆のひとり石成友通(主税助)も、承禎・義治父子に助勢するため近江坂本まで出張した。十一日近江で合戦があったが双方ともに被害が多く、信長は美濃に帰国し、石成友通も帰京した。それを見計らって信長は翌十二日に再び近江に出張し、こんどは六角軍の前線との正面衝突を避けて迂回し、後方の承禎・義治父子の籠る箕作城を直接攻めた。
 実は六角氏内部では、後見職六角承禎の息子義弼(義治)が筆頭家老後藤但馬守父子を謀殺したため、承禎・義弼父子と重臣たちが対立するという観音寺騒動(後藤騒動)あり、後藤・永田・進藤・永原・池田・平井・九里などは反承禎・義治父子派として行動した。このうち九里氏は、義昭の朝倉邸御成にも同行していた九里十郎左衛門尉と関係があろう。
 彼らは、湖東第一の河川である愛智川をはさんで織田軍と対峙する前線和田山城の守備から外され、後方の本城観音寺城に籠城していた。ところが観音寺城と箕作城は峰続きであるため、彼らが動かなければ箕作城は孤立する。しかも石成友通は帰京してしまった。信長は前線和田山城を避けて迂回し、味方であることが明白な本城観音寺城を見過ごして、孤立した箕作城を集中的に攻めた。箕作城の承禎・義治父子は激しく抵抗したが、敗れて甲賀に逃走した。裏をかかれた承禎・義治派の諸城も、十四日までにはすべて降伏した。信長は圧倒的な軍事力で勝利したのではなく、情報と奇策で勝利したといえる。
 これを踏まえて、以下の手紙からの引用文を読んでほしい。

【以下、引用】
…御縁があり近江源氏所縁の地で佐々木先生が講演される際にでも、例えば後藤氏の佐生城などは、本城である観音寺城に楯突く様に、石垣が普請されています。当時の軍事面において先ず、後藤氏は主に対して申し開きの出来ない城郭普請をした事になり、成敗されても仕方がない城郭工事を読み取る事ができます、永禄11年の信長上洛戦においても、石垣堅固な佐生城は何の役にもたたず、土塁作りの和田山城に六角が精兵を配置すると言うような奇妙な現象が発生しております。今後何かの機会がありましたら、コメンテイターの様な立場で参加させて頂ければ幸いであります。…

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