佐々木哲学校

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<<   作成日時 : 2012/02/26 03:06   >>

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父方の佐々木与右衛門家(隅立て四つ目結、女紋は三つ柏)は近江守護佐々木六角氏出身で、系譜では織田信長と対抗して毛利氏に頼った源義秋(綱秋)の子源義房(綱房)に始まる。そのため六角氏郷の子孫ではない。上方から会津、さらに出羽に移ったという。江戸中期には廻船問屋を家業とする郷士、出羽で480町歩の新田を開発した。屋号は「ヤマヨ(山ヨ)」。「与右衛門」は四郎右衛門という意味か。
 出羽に転出後、戦国大名最上義光の旧臣で『乞食大名』のモデル佐々木愛綱(鮭延典膳・越前守)の子孫大沼半左衛門家(四つ目結紋、陣幕は四つ目結と三つ星)と一族化したため、系図は混乱した。半左衛門家の大沼系図では、愛綱を佐々木与右衛門家の源義房(綱房)の実弟で養子と記す。また、鮭延愛綱を軍記物では「秀綱」とするが、系図では愛綱とする。本人の署名は「愛綱」であり、系図の「愛綱」が正しい。
 明治維新では大沼半左衛門家(半三郎)が酒井・伊達ら奥羽越列藩同盟に誘われ角間川の戦いで協力したが、会津戦争敗戦により伊達氏の招きで仙台に移住して仙台藩士となり、佐々木に復した。朝廷・幕府から見れば陪臣(家臣の家臣)になったことになる。
 それに対して当家佐々木与右衛門家(与三郎)は奥羽越列藩同盟に加わらず出羽仙北郡に留まり、陪臣にはならなかった。与三郎の通称は、幕末に朝廷に遠慮して衛門・兵衛を名乗らなかったことによる。

【参考系図】
足利義昭―義尋(義尊)―義房(母法晢院、室柳原氏)

同母弟実相院門跡義尊
同母弟円満院門跡常尊
異父弟聖護院門跡道晃法親王(後陽成天皇第十一皇子)
権大納言柳原資行の室(妻)の父園基音は、霊元天皇の外祖父であり、祖父基任は後光明天皇の外祖父であった。柳原家(藤原氏日野流)は園家(藤原氏持明院流)を通して後水尾天皇と重縁を結んでいた。

【補足1】聖護院諸大夫佐々木氏(もと摂津西宮郷士)聖護院門跡増賞法親王(霊元天皇皇孫)外戚の縁で諸大夫(四位・五位)に補任。近江の郷士三上氏と縁戚があり、近江出身と分かるとともに、朝廷を根拠とする郷士がいたことが分かる。

【補足2】後光明天皇(典侍庭田秀子)後継の皇位継承問題で勅勘を受けた公卿葛岡宣慶(六角義秀の外孫庭田重秀の次男)が大坂に出奔した。※六角義秀の女子が庭田重定に嫁ぎ、その間に重秀・佐々木野資敦が生まれ、さらに重秀に雅純・葛岡宣慶・田向資冬・見雲重村、雅純に雅秀・重条(初め六角)の男子があった。

【補足3】幕末に、勤王を唱えて300人を擁した佐々木六角源次大夫・織田兵庫助がいる。足利義昭の養子六角義康(左衛門督侍従)と織田信長女虎福が婚姻、その子八幡山秀綱(三郎殿)が織田秀信の養子となっているように、六角氏と織田氏は縁戚関係にある。源次大夫は文久3年3月京都守護職会津松平容保のもとに京都方浪士として参じたが、第一次長州征伐の翌年元治2年(慶応元年)1月には内裏の守護の御用と唱えて武器を用意して馬印を掲げたため、見廻組・新撰組に捕捉された。ただし、長州や天誅組との関係はないとされ、反乱とは見なされなかった。源次大夫家も大坂に住んでいた。

【補足3】足利義昭の子孫を名乗る会津藩士坂本氏(足利義昭―一色義喬―坂本義房)とは同祖か。また会津地方の六角氏は同族か。

佐々木与右衛門家は差首鍋城主沓沢氏の子孫沓沢甚兵衛家(丸に隅立て四つ目結)、東根城主坂本氏の子孫坂本藤兵衛家(片喰紋)と重縁を結び、佐々木の娘が沓沢に、沓沢の娘が坂本に、坂本の娘が佐々木に嫁いだ。姑が実家の叔母という女性には幸せな婚姻だった。私の祖父母の代まで続いたため血は濃い。
 また沓沢・坂本は醸造業も営み、沓沢の「日の丸」は明治・大正期の品評会では東北一位になったこともある。杜氏は出羽山内杜氏ではなく丹波杜氏だが、これはもとも上方の西宮・灘と関係があったからだろう。
 東京では佐々木は恵比寿、沓沢が同志社創設者新島襄から譲り受けた千駄ヶ谷、坂本が白金に邸宅を有していた。一族の坂本理一郎は衆議院議員、のち貴族院議員となる。大隈重信や犬養毅との交流があった。しかし第二次世界大戦後の農地改革で没落した。佐々木の菩提寺の住職は、出羽仙北の戦国大名である小野寺康道の子孫大森氏。

実は佐々木氏は父方の祖母の実家、祖父の実家は出羽王伝説を持つ石田氏。出羽王は応仁文明の乱で西軍に立てられた南朝皇族。石田の名字は、陸奥太守義良親王(後村上天皇)・北畠氏が在城した陸奥南朝の国司館・霊山城(福島県伊達市)に由来する。石田氏が沓沢氏の養子になる形で佐々木の娘と結婚した。
 出羽は旧南朝方が多く、鮭延氏は 上杉氏との対抗から南朝に降りて会津に転出した越後国大将佐々木加地景綱(近江守)の子孫と考えられ、家臣に越後出身で新田義宗の子孫ともされる柿崎氏がいる。陣幕に四つ目結紋と三つ星紋が交互に配されていることでも、鮭延氏が盛綱流佐々木加地氏の子孫と分かる。
 鮭延氏との交流があった出羽小国城主細川氏は、越後佐々木氏と縁戚関係のあった細川清氏流だろう。越後新発田氏は、細川清氏の弟頼和の跡を継承した佐々木長綱(盛綱流佐々木磯部氏)の子孫であり、小国城主細川氏も細川清氏の子孫の可能性がある。
 鮭延氏の祖佐々木加地景綱は、その子近江四郎氏綱が『群書類従』所収佐々木系図で道誉の嫡子近江守秀綱の子息に記されているように佐々木京極氏(四つ目結紋)と近く、観応の擾乱でも足利尊氏派であった。このとき三つ星紋から四つ目結紋へ替えたのだろう。
 さらに家臣団に馬淵氏があることから、越後没落後に出羽における近江守護佐々木六角氏領代官になった可能性がある。その縁で、近世に佐々木六角氏の子孫である与右衛門家が出羽で新田を開発し、そして移住したのだろう。
 差首鍋城主沓沢氏は近江出身と伝え、家紋も丸に四つ目結紋であり、「忠」の字を通字としていることから、新田方の越後守護代佐々木弥三郎忠枝の子孫である盛綱流佐々木磯部氏とも考えられる。磯部氏は、『花営三代記』康暦二年(1380)七月十七日条に紀伊で山名氏清に討ち取られた南朝方の武士として磯部雅楽助が見える。しかし沓沢氏はもともと由利十二頭のひとつで出羽国由利郡履沢城を本拠とし、さらに名字の地は信濃国佐久郡沓沢郷である。沓沢郷は南北朝期に信濃守護小笠原氏の所領であり(勝山小笠原文書所蔵永徳三年二月十二日付小笠原長基自筆譲状)、本国を離れていたことが分かる。
 由利郡地頭職は源実朝の介錯役(養育役)大弐局(父加賀美遠光、母和田義盛女)に与えられ、さらに甥大井朝光(小笠原長清七男)に譲られた(吾妻鏡)。由利十二頭の筆頭矢島氏は室町期に下向した小笠原氏(大井氏)の子孫であり、沓沢氏は大井氏とともに由利郡に下向した信濃国人と考えられ、『信濃史料』の天正七年二月上諏訪造営に関する資料に佐久郡沓沢郷代官沓沢清右衛門尉を確認できる。代官として本領にとどまる者がいたと分かる。
 「長谷堂合戦図屏風」では、鮭延秀綱に従う沓沢金兵衛の旗印が七星紋であり、信濃国人で七星紋というと滋野氏を連想できる。滋野氏は、孝謙天皇のときに駿河で発見した金を献上した駿河守楢原造東人が、勤臣の意味で伊蘇志臣を賜り、その孫尾張守家訳が延暦十七年滋野宿禰を賜り、さらに弘仁十四年家訳・貞主父子が滋野朝臣を賜ったのに始まる(仁寿二年二月紀滋野朝臣貞主卒の記事、および貞観元年十二月紀滋野朝臣貞雄卒の記事)。貞主の曽祖父東人は高名な儒学者で大学頭兼文章博士であり、貞主も仁明天皇の東宮学士になり滋野朝臣を賜り、順調に昇進して正四位下参議に至った。娘縄子は仁明天皇女御となり、また娘奥子は文徳天皇宮人となり、さらに三女直子は光孝源氏大蔵卿国紀の室となり、歌人の滋野井弁公忠をもうけた。このように天皇家や賜姓源氏と関係をもち、また貞主が系譜伝承で「貞王」と伝えられ、系譜伝承では「貞」の字を通字とした清和天皇の皇子と誤り伝えられた。さらに子善根が天安元年十一月二十七日信濃権守に(文徳天皇実録)、同二年正月十六日に信濃守に補任(文徳天皇実録)、翌年の貞観元年に宮内少輔に転任し(三大実録)、貞観十二年正月二十五日に大蔵少輔から信濃守に再任された(三大実録)。また孫恒蔭も貞観十年正月十六日に大外記から信濃介に転任しており(三大実録)、信濃国の牧監(牧の管理者)であった信濃滋野氏はこの子孫だろう。鮭延氏の家臣沓沢氏はこの滋野氏流沓沢氏の名跡を継いだ者か、由利郡沓沢城に拠ったため沓沢氏を名乗った者と考えられる。
 信濃滋野氏は中先代の乱で諏訪氏らとともに北条時行方に参じており、その後は時行らとともに南朝方に参じている。由利十二頭には旧南朝方寒河江氏(「挙」を通字とする大江氏)や楠木氏の子孫と推定される者もあり、沓沢氏も南朝方として出羽を転戦していたために鮭延氏に属したのかもしれない。
 また坂本氏は羽州探題最上直家の弟天童頼直が新田氏族里見氏を継承し、その子坂本頼高が南朝方の東根城主平姓小田島氏(和田義盛養子小野中条成季の子孫)を継承したものである。天童の名乗りは南朝方の北畠天童丸に由来するとも伝えられており、室町期に最上氏と同格とされ対抗していた。天童氏の官位が左京大夫・修理大夫と高かったのも、最上氏と同格であったことを示している。この家格の高さは旧南朝勢力の懐柔策であろう。
坂本氏には天童氏最後の当主天童頼久(頼澄)の実弟頼景(母国分氏)が養子となり、天童氏正嫡の血脈を受け継いでいる。天童・東根両城落城後に最上氏に仕えた東根景佐は頼景の重臣里見右衛門尉で、紋は剣に四つ片喰紋であり、坂本氏(片喰紋)からみれば家来筋に当たる。ところで坂本藤兵衛の通称に「藤」の字が使用されるのは、『奥羽永慶軍記』に見られるように、天童氏が藤原兼家の子孫を自ら名乗ったことに由来する。坂本藤兵衛家でも京都出身と伝えている。これも、最上氏の下風に立つのを嫌ったからだろう。
 これら旧南朝方で重婚を結んで血を守ってきた。その一方で、佐々木氏を通して近世天皇家との由緒もあった。このように私自身が後南朝の可能性があるため、後南朝を名乗る系譜を見る目は当然厳しい。基本的に小倉宮の子に「尊義王」が記されている系図は近世以降の作成であり、信憑性は低い。また落胤伝説も多いが、落胤が事実としてもそれでは正統な後継者ではない。
 沓沢氏は江戸期に造酒屋で「日の丸」を商号としたが、久保田藩主佐竹家の家紋は扇に月丸であり、日の丸は南朝由来と考えられる。

母方は公家菅原氏桑原(繻エ)家庶流(丸に剣梅鉢)。桑原の「桑」の字は正しくは「又」を三つではなく「十」を三つ記す「縺vの字。また家紋「丸に剣梅鉢紋」も剣が長い長剣梅鉢ではなく、加賀前田家と同様に剣の短い幼剣梅鉢(加賀梅鉢)。雷が鳴ると「クワバラ・クワバラ」と唱えるのは、菅原道真領桑原に落雷がなかったことによる。
 ところで江戸幕府大目付桑原盛員は丸に寄梅鉢[星梅鉢]と左三巴紋を使用した。男子のなかった盛員の跡は、松前順広の三男盛倫が婿養子となり継承した。桑原盛員は後北条氏家臣桑原盛正(伊豆衆、弥九郎・九郎右衛門尉)の子孫と考えられるが、『小田原北条記』で横井・田中・関とともに鎌倉北条氏の子孫とされる。たしかに伊豆桑原郷(現函南町桑原)には北条氏によって建てられた桑原薬師堂があり、北条時政の長子宗時の墳墓もある。ここが平姓桑原氏の名字の地だろう。武蔵七党の桑原氏とは別流と考えられる。また後北条氏家臣団の伊豆衆には、平姓南条氏など得宗被官の子孫があり、関氏も得宗被官関実忠の子孫と考えられる。彼らは北条御所とも呼ばれた堀越公方家に仕えており、『小田原北条記』でもいうように伊勢盛時の子氏綱が北条と名乗るのに際して大きな役割を果たしたと考えられる。伊豆衆桑原盛正は河東の乱に際して武田方への使者となり(高白斎記)、また武田晴信の娘が後北条氏政に嫁いだ際には、遠山殿・桑原殿・松田殿が甲斐上野原に出迎えている(妙法寺記)。さらに後北条時代の川越伊豆丸城主桑原弥七郎(馬廻衆)も一族と考えられる。その子孫である幕臣桑原氏が菅原氏を名乗ったのは、クワバラ・クワバラ伝承が広く民間に浸透していたからだろう。
 母方の縁戚には萩藩主毛利氏の同族という毛利氏、武蔵七党児玉党の浅見氏などがいるが、浅見氏の縁戚には明治の歌人佐佐木信綱があるという。

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コメント(45件)

内 容 ニックネーム/日時
『後光明天皇ブログ』管理人の、ひなたむらです。庭田宣慶の勅勘理由を調べています。
貴ブログを拝見しましたが、「わが家の歴史」の欄にあります、「【補足1】後光明天皇(母庭田秀子)後継の皇位継承問題で勅勘を受けた公卿葛岡宣慶(六角義秀の外孫庭田重秀の次男)が大坂に出奔したのは、大坂在住の佐々木六角氏と関係あるか。」について、ぜひ出典をご教示ください。よろしくお願いします。
ひなたむら
2012/04/08 00:38
後光明天皇ブログの方ですね。

わたしも葛岡宣慶研究の基礎資料として、池田晃淵「葛岡宣慶卿伝」(史学雑誌第8編第8号)を参考文献としています。

葛岡宣慶と佐々木六角氏の関係は、佐々木六角氏の子孫の系図からの推測です。そのため文末に「〜か」と疑問形にしておきました。

たしかに源典侍秀子の弟庭田雅純の孫重条は始め六角氏を名乗る伏見宮殿上人(大膳権大夫)であり、同じく伏見宮侍に佐々貴直煕(大膳進)がいます。さらに葛岡宣慶(宣之)の葛岡は佐々木広綱流の家名、その子野木宣易の野木は佐々木高綱流の家名です。しかし、これらも状況証拠というだけで、直接裏付けるものではありません。

このようにまだ研究課題にとどまるものであるために、参考にはなさらない方がいいと思います。もし良質な資料で発見がありましたら、報告いたします。
佐々木哲
2012/04/08 02:01
早速お返事いただきまして、どうもありがとうございます。
了解いたしました。
私も、何かいい資料が見つかりましたら、ご連絡いたします。
ありがとうございました。
ありがとうございます
2012/04/08 13:29
わたしの系譜伝承研究は、伝承から作業仮説をつくり、それを良質の資料と付き合わせ、無矛盾ならば仮説(学説)とするというものです。

ブログの記事でいえば、「〜か」という文末の場合は作業仮説と考えてください。

葛岡宣慶に関しては良質の資料が少なく苦労しますが、とても興味をそそられます。わたしも新資料を見つけましたら報告いたします。

連絡いただきありがとうございました。
佐々木哲
2012/04/09 01:05
「戦国大名と政略結婚」を拝読させていただきました。六角氏は血統において、近江源氏ではなく、足利氏ではないかと感じました。源義秋は足利義昭ですか?
山本
2014/01/30 22:59
出羽由利衆の沓澤氏(滋野氏流)、矢島氏(小笠原氏流)の記事に関連して(ちなみに、出羽由利衆の根井氏、潟保氏も滋野氏流か)
天文年間の武将で、小笠原宗家の小笠原長棟と滋野宗家の海野棟綱(一説に真田幸隆の父)とは姻戚関係にありました。小笠原家譜では、小笠原長棟の母は海野氏娘、妻は、浦野氏(海野氏庶流)娘とあります。小笠原長棟と海野棟綱は、棟の字が通字と考えられます。また、海野家の菩提寺である海(開)善寺は真言宗の名刹で小笠原氏菩提寺の開善寺と縁のある可能性があるかもしれません。なお、滋野一族に海野氏、矢澤氏(海野氏庶流とも神氏とも)、根津氏(海野氏庶流とも神氏とも)、望月氏があり、滋野一族は内輪の争いがなく、結束が固いと言われていました。
山本
2014/02/09 10:53
36歌仙の一人である、滋野井弁公忠(父:光孝天皇皇子源国紀、母:滋野直子)は近江守であり近江の国衙に住んでいました。(近江守在任時の和歌が「公忠集」に収められています。)近江源氏が近江守護となることができたのは公忠の地盤を引き継いだからではないかと想像しています。その根拠として、下記の佐々木先生の説を参考にさせていただきました。
公忠の娘は源雅信室となり源時中を儲けており、時中の子孫が佐々木秀義です。また、時中の異母弟の源扶義の妻が公忠の曽孫である可能性があり、扶義の子孫が佐々木為俊です。なお、佐々木系図によると扶義の子孫である佐々木庄下司佐々木為俊の子息を佐々木秀義としているが、これは、領家佐々木氏(時中流)が現地支配を固めるために下司佐々木氏(弟扶義流)の系譜に自らを接木したものと考えられます。
山本
2014/03/30 21:09
沓沢清佐衛門は依田信藩の家来で、沓沢村の丸山姓で塩名田宿本陣丸山、耳取の丸山と同族?藤岡藩の改易後沓沢に帰農して名主の丸山清佐衛門?近くの重田周防守は竹田村に帰農している。
平井
2014/11/16 07:59
はじめまして。曽祖父が九里姓(養子)で、調べております。九里以前の姓を知りたく思っております。「源」「藤原」は加賀藩九里系図・大和郡山藩の文書に書いてありましたが、我が家(柏原藩)は「平姓」になっており、「平・源」となる以前からの姓もあるのでは、と思われます。姓氏家系大辞典の他に九里までつながる可能性のある本を知りたいです。どうかよろしくお願い致します。
九里
2015/01/07 08:07
九里氏に関する書籍を、私は見たことがありません。資料から九里氏に関する資料を拾っているだけです。

『近江蒲生郡志』の佐々木氏家臣志にある九里氏の項がもっともまとまっているように思えますが、足利義澄の近江在国時代の記事が中心なので、物足りないと思います。

九里氏で平姓の家系とのことですが、佐々木氏では宇多源氏以前の本佐々木氏で、平姓を名乗っている者がいます。また姓は養子が入れば、養子が実家の旧姓を名乗ることもありますでの、色々な角度から系図を見る必要があると思います。
佐々木哲
2015/01/08 11:22
ご返事有難うございました。言い遅れましたが、九里のことを本に載せてくださりありがとうございました。
本佐々木氏の中に九里氏の前身がいた可能性は?や源員定=九里員定か・・・など、謎だらけです。
受験生用ではない「歴史」のメールでのご指導は可能でしょうか?御検討いただけますと嬉しいです。

私は音楽科出身で日本の歴史とは遠いところに居りました。しかし、できれば九里のことを形に残しておきたいと思っております。
九里
2015/01/09 00:32
私は受験界にも身を置いていますが、本業は研究者ですから、歴史の質問を直接メールしていただいてかまいません。

むしろコメント欄に書けないような情報が調査のために必要な場合が多いので、歴史関係の方こそ、メールを積極的に使用していただきたいと思います。

ではメールを楽しみにしております。
佐々木哲
2015/01/09 00:42
ご返事ありがとうございます。メールを差し上げたいのですが、先生の連絡先のメールをうまく起動できずにおります。
また、昨夜見つけたのですが「系図学校」まだ募集中でしょうか?
できればこちらにも参加したく思っております。
大変恐れ入りますが、メールを入れていただけますでしょうか?
私のメールアドレスは昨日の五天山ヤフーのアドレスです。どうかよろしくお願いいたします。
九里
2015/01/09 09:38
なぜ、東国肥沃なの情報をもたらすたシオズノオズが東北に?ところで国譲りのタケミヅチが関東に、それだけの功があれば、片居宮の近くに住めるはず?
丸山は副官のミミナリか?東御市和の中曽根親王塚は丸山古墳の言わのように、丸山姓の墓、維新後上田城跡を買い取った丸山?
平井
2015/05/24 21:41
北条氏綱の妻である、養珠院の出自は不明ですが、後北条氏旧臣である、高橋家の過去帳の中には養珠院を横江北条相模守女と記しており、鎌倉北条氏の末裔である可能性があります。
山本
2015/06/07 15:42
獲加多支齒?大王の銘文の片堅石がヤマトタケルに負け、大王からしきずりおろされた。小諸の姓美斉津は美美津、美々津からの転化?八満弓神社ハマユミジンジヤ、破魔弓、金鶏のとまった矢。
平井
2015/06/21 21:32

片井の紋は丸に三つ蔓柏である。塩名田と耳取の丸山は丸に三つ柏紋、沓沢の丸山は片井のお堂に畑を寄進するそれを記した位牌に丸に剣カタバミがはいる。榛名平に丸山姓の家があった。八幡の高良社に左手から丸に三つ柏、菊花紋、桐の紋とならぶ、沓沢の丸山が丸に三つ柏なら、片井、上野の桐の紋、とそろうのだが?!
平井
2015/06/27 21:53
御代田町に今は真言宗の寺であるが、それ以前の創建らしい、空海以前。その三門の仁王像の体像から、佐久二郎、野沢、臼田が書かれたものがあるらしい。野沢氏臼田氏とも、滋野姓である。この地方で佐久の地名は、佐久郡しかない。野沢臼田等滋野姓の頭であろう。すなわち木曾義仲に従軍した兵の頭。石附次郎、石寸(イワレ)次郎。従軍した諏訪氏も、中原氏も、樋口、その頃あった?直江氏?進軍の経路は、出雲道、投馬道?
平井
2015/06/28 22:07
臼田氏(踊り念仏発祥の地、佐久市臼田の出身)は山内上杉家の家臣で、関東の多くの地域に足跡を残しています。私の住所の近くである、川崎市多摩区寺尾台には、寺尾城があります。風土記稿には、この地に、16苗の子孫が残っているとし、その中に
諏訪氏系の関谷氏や、滋野氏系で諏訪党である臼田氏もいます。また、臼田滋野経長は、武蔵国師岡保帷子の地頭でした。なお、諏訪氏の関係する土地が何故か寺尾と呼ばれることの不可思議さについては
風土記稿で記述されています。
山本
2015/07/18 11:26
古代海洋国であった日本が、家紋が、貴族の牛車から始まった説はおかしい。戦の旗その前に、船印。村上の丸に上、丸に一引き、二引き、三引き、島津の丸に十字。視力検査と同じ認識しやすいから。即座に判断しないと、先手をとれない。船団を守るのが、優先で、誰が功績の旗は必要ない。日本人は同じ船に乗り、すのこ一枚下は、死、その中でも協調し、互い助け合い来たのが日本人で、中国的専制君主は必要としない。いつからおかさくなったのか?
平井
2015/07/20 21:38
寺尾姓、赤尾姓旧北佐久郡におおい。いずれも丸に立ちオモダカ、現在の上田市塩川に高木姓があり、小諸市には、塩川姓があり高木塩川とも、丸に立ちオモダカ、小諸市小原に小原城があってその本丸を高木城といっとか?高木はタカムスビの後で、大伴氏はタカムスビからでてついる。滋野の寺島。山浦、池田は丸に二引きまた丸に立ちオモダカをそれぞれ裏表として使う。
平井
2015/07/25 20:57
佐久の重田姓は丸に梶の葉一本の紋である。重田は伊勢の地名、伊勢崎市伊勢原市、佐久市伊勢林の近くに英多神社梶の葉一本の紋、諏訪系である。その背後の山の中に、八風山がある、伊勢の八風峠から佐久に降り立った伊勢津彦、即ち、タテミナカタ。重田は山口県にもあり、戦国時代、佐久に重田周防守がいて、親戚に江戸城の天主守がいる。家康が天下をとったとき依田信藩が佐久諏訪両郡を与える約束はあながち、両郡の親密姓をいい当てているのかも?
平井
2015/07/25 21:38
沓沢清佐衛門は、縣沢とも名乗っていた?縣沢清左
衛門ここらで、縣沢は下県があるように、根際が県沢、県沢内沓沢の表記がある。石附から八幡神社までを矢島原または八幡原といったとか、吾妻日記に八幡宮御前二十騎、矢島より八幡原が正しい。平井のくぼみより高台に今、風の丘と言うバラ園がある。字立石ですが、俗称でホウリクボ、祝のクボ?神武の何代前のホウリ?イシズキ川の源流に飛石の字名がある。石が採れる分けでもないのに?飛ぶ船?
平井
2015/07/26 21:08
佐久市根岸に日向ひなたがあり、立科町芦田に日向、東御市八重原に日向がある。それぞれ岩下姓がある。南佐久に菊池、千曲市に猿渡、神武の本拠は南九州?長野県の宮崎姓は宮崎?依田、重田は江田?江田船山古墳、江田島?
平井
2015/11/01 20:52
根岸糠尾の重田と村上は縁組みする、竹田の重田と村上氏の分家須田と縁組みをする。重田と村上は、瀬戸内海の海族、または、それぞれ港を支配した、津彦。伊勢津彦とか、直江氏は言い換えれば、直江津彦?村上氏は上杉家を離れ信濃にかえる?
平井
2015/11/01 21:42
ニギハヤシと神武はなにをみせあったか?三種の神器そんなかっぱらってくれば手に入る物でなかったろう。王統の承継の証、先代から儀式を受けた証、諏訪なら、生け贄の鹿の?
平井
2015/11/09 20:45
旧八千穂村は佐佐木姓がある。戦国時代、伴野の譜代衆で載っている。諏訪の原形とう言うべき、小海の松原神社の宮司、畠山和泉守が方井蔵之介と共に高野山成慶院文章に出てくる。 臼井に三分ミブン、東御市和に三分ミワケ、望月片倉春日の奥に入り片倉、そこが三明ミアケ、これが片井の直轄地、そこに新参者が村を支配できるのか、同じ戦さ場を戦っきた東征軍の仲間なんであろう。
平井
2015/11/29 22:01
大国主の直系の富氏の昔の代官が、横山であった?美保神社の宮司がそうである?平井に横山姓、臼田の三分に横山姓、東御市和の三分川近くに横山姓、戸倉は外倉、立科町に外倉、近く片井と同じ丸に三っ柏、当然平井の横山も丸に三っ柏紋。
平井
2015/12/04 19:53
片井が片十六弁の菊、天皇が八重菊、系統が違う証か、昔片十六は出雲の紋という文があった、実際諏訪神社に片十六弁の垂れ幕が掛かっていたいつだったか、片十六弁の垂れ幕を昭和天皇が参拝された後、諏訪から、片十六弁菊の垂れ幕が消えたと、記憶されている。勘違い。片井横山の紋は丸に三っ蔓柏でした。特に、八幡神社の高良社の参拝の帰りにその門を見上げと、正にスサノウの紋 柏に松の葉紋がはいる。
平井
2015/12/12 20:01
草薙の剣が、スサノウの収穫物である以上、出雲の神宝である筈だ。それが姉との誓約で姉に渡った、作り話だろう。あるならば、スサノウ系が王権を譲ってた時しか、考えられない。 神宝の剣を討伐に行くものに渡すか、奪われたら、敗北の証、関東の日の本の国から、神宝を奪い、その時誓約がなされ、委譲されたと考えるのが普通では?
平井
2015/12/12 20:28
富山藩は金沢藩の分家、富山、戸倉、外倉は分家の意味。建御名方の子か孫にオギハギがあるが、立科町外倉の近くに荻原姓があり、片井と同じ丸に蔓柏、戸倉近くの森将軍塚は分家?平井の近くに字名荻原がある。片井は南方そのものか?
平井
2015/12/28 20:14
佐久市落合に、元善光寺があり、信玄が鐘を松原神社まで引いて行った。神道系をたどると、主にたどり着く、それを消すために、須和を移した諏訪に。仏教系の色を強くして、新興勢力に見せかけた。跡部を武田まで変えて、守ってくれた跡部耕雲齋に、片井逸平、藤太の孫、清人として、深く頭低、御霊を安らげん。
平井
2016/01/06 21:14
真田を武田の家臣に勧めたのは、芦田の依田信藩である。信藩の妻の父親は跡部勝資である。跡部耕雲齋の先祖。勝頼が布引の寺領を瀬下采女に与えるのは、勝資の懇願?跡部は佐久の跡部が本官地である。富岡の?一宮?本性は茂原?物部?
平井
2016/01/10 21:50
逸平の妻は平井の山浦で、山浦は日蓮堂を屋敷神として、他人の土地を踏まなくもの片井家に伝承のこる。山浦の江戸時代、仁兵衞、仁右衞門の名がある。仁兵衞といえば、布下仁兵衞。布下は望月氏の枝族と伝えるが、大伴は丸のに立ちオモダカで山浦の家紋とあうが、望月は九曜か七曜?山浦は小諸市街でも古い今日蓮系の実大寺の檀家である。平井なのに小諸の寺。山浦が檀家になった時は、何宗?布下の寺領伴野にあった、布下仁兵衞、伴野信守、武田と引きつがれ、瀬下采女と。平井の竜泉寺は天台宗。天台宗で善光寺まで。比叡山はスサノウの山?
平井
2016/01/13 21:08
木曽義仲の墓がある、滋賀県義仲寺、義仲の墓の傍らに、松尾芭蕉の墓があるらしい。芭蕉の遺言で義仲の墓近くに?新海神社の行幸は平井に来ていない。芭蕉も平井近くに来ていない。松尾と言えば、丸に立ちオモダカ。義仲寺で公家らによる、赤報隊の行動計画が?箱根神社縁起を書いたのは、海野姓とも藤原姓とも?曽我の仇討ちは頼朝暗殺?曽我は工藤?頼朝が善光寺参りするのは?
平井
2016/01/21 20:35
 依田信藩の従弟が家康の忍者であったので、信長の呼び出しで諏訪に行けば、殺されるので、諏訪に行かないように家康の命で信藩に伝達される。徳川家は武田の多く遺臣を抱える。
 木曽義仲に従軍した落合氏が、明治維新の赤報隊の落合の神職水野丹波ならば何か因縁が?
平井
2016/01/31 20:59
大河ドラマ真田丸で注目の真田家の祖先は滋野氏とされる。信濃滋野氏の由緒は諸説あり、古代貴族大伴氏の一族であったとする説や牧の管理に従事していた現地土着勢力が、形式上は地方官に任命された滋野氏と接点を持ち、その傘下に入って一族を名乗ったとする説などがある。ところで、「望月町誌」に滋野氏の由緒についての下記の記載がある。奈良県御所市楢原(ならはら)にある駒形大重神社の祭神は、滋野貞主である。ここは滋野貞主の曽祖父である、楢原造東人の故地である。また、奈良県に住していた楢原氏が東人(東国の人の意味)である理由は、支配権の拡大に伴って、東国との様々な関係が生じたことによるものではないか。一方、長野県東御市根津には奈良原があり、ここは新治牧にかかわる地で、滋野氏一族の根津氏の根本所領の内であって、この付近に、楢原姓を名乗る人が40余戸集中している。
山本
2016/02/07 10:46
歴史は繰り返す、高天原は八ヶ岳山麓である。縄文時代に12万の内7万人が暮らしていた八ヶ岳が高天原。川上村は高天原の地名がある?群馬は上野の介しかなぜなれない?足利が九州で盛り返し天下取る様に、祟神は上野下野の出身?
平井
2016/03/20 22:08
はじめまして
佐々木さんのご先祖様は
仙北の出ですか?
僕の先祖は秋田仙北なのですが
先日除籍謄本を取ったところ
玄祖父に佐々木兵右衛門家から
坂本家に養子で来た三蔵さんとゆう
方が記載されていたのですが
御関係はありますか?
突然こんな話をしてしまいすみません
ちなみに当時の坂本家の戸主は
坂本 七三郎です。

坂本
2016/04/06 21:59
私の出身は東京で、秋田・山形の地域名にあまり実感がないのですが、広い意味で仙北地方だと思います。菩提寺が大仙市にあります。縁戚の坂本も仙北ですが、仙北に来たのは江戸末期のようです。坂本理一郎を御存知ですか。衆議院議員3期(進歩党)・貴族院議員を勤めています。坂本の紋は新田流里見氏の片喰紋(酢漿草紋紋)です。斯波氏(最上氏)から新田流里見氏の養子になったのが天童・坂本氏です。しかし近世は最上氏流も里見流も名乗らず、京都の藤原氏の子孫を名乗っています。それが坂本藤兵衛の由来です。

お尋ねの佐々木兵右衛門家や坂本七三郎は、当家の系図には見られませんが、関係があるといいですね。
佐々木哲
2016/04/07 02:17
返信ありがとうございます
そうですか、
わが坂本家の家紋は五三の桐紋で
東根の坂本氏と家紋が同じなので
関連あると思っていました。
除籍謄本に記載されている
本籍地見てみましたら
仙北郡六郷東根村でした
その後に仙北郡六郷千畑村に変わっていたので、坂本理一郎氏も
同村なので、何かの関係があるのかもしれませんね。
ちなみに、
玄祖父の佐々木三蔵氏は
佐々木兵右エ門家の三男とありました
金沢村金沢から婿に来たようです
わざわざ御返信頂きありがとうございます

金沢村から、
婿にきて
坂本
2016/04/07 12:59
孫子の子孫、諸葛の子孫が一村成している報道をみると、日本は、源氏平家、が主で、藤原の政権下で天皇家から出た家しかない、由緒も歴史もない国なのか、武田も源氏でなく、九州から、東北までいききしていた海族だろう。その場で生活していた集団が?
平井
2016/04/15 21:00
東急田園都市線に江田駅がある。江田は信濃国と縁が深い。江田城は義経配下の信濃英多郷出身の江田源三(諏訪氏系?)の居城と伝わる。城の東麓は小黒谷と言う。橘樹郡諏訪河原村の諏訪左近頼久が小黒氏を称したのは、この小黒谷に暫く住んだためとの説がある。(寺尾城百話)この頼久は、信濃一宮諏訪大社の大祝である諏訪氏の一族と考えられる。また、江田町の観福寺境内には、諏訪廃社があったとされる。同町の真福寺の「おしゃもじ様」は、諏訪の土着神、「ミシャグジ」からきていると推測される。なお、江田北の小黒公園から約500メートルほど離れたところに大場諏訪神社がある。

山本
2016/05/03 23:33
熊本の阿蘇の阿蘇氏と諏訪の諏訪氏が同族、カムヤイミミの別れ?良く御子が努力したから信仰が、全国に広まった?それ以前に受け入れる素地があったと考えるのが普通か?実家の節分は、恵比寿大黒豆上がらしゃい、鬼はそと福うちである。ハァーフのカムヤイミミならそこに、天孫の神の名があってもいいはずだが?上田に尾滝山竜泉寺を発見。明泉寺と一緒に、津金寺の組寺を抜ける、竜泉寺は青木村でなく丸子。インターネットで竜泉は長野で多い、手塚治虫の先祖の地上田の手塚に行こうと思ったが行けず、またの機会に同胞の地へ!
平井
2016/05/12 21:46
平井をでる時の預言で、日本の王は天皇家で、地球の王はわたしがなる。それをやっと気づいて、その宣言さないよう、ここ二日で、パソコン二代インターネット不能。
平井
2016/05/19 20:28

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