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zoom RSS 後南朝の系譜伝承についての雑考

<<   作成日時 : 2011/05/31 02:47   >>

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 正長元年(1428)7月に称光天皇が嗣子のないまま危篤状態に陥ると、父の後小松上皇は北朝系の伏見宮家から彦仁王(後花園天皇)を後継者に選ぼうとした。これは南北朝合一の条件のひとつ両統迭立を無効とするものであり、南朝皇族である小倉宮が異議を唱えた。南北朝合一後の南朝皇族を後南朝というが、ここから後南朝の活動が活発になる。
 小倉宮は、南朝最後の後亀山天皇の正嫡である恒敦宮の王子であり、南朝の正統な後継者であった。小倉宮は、南朝方の伊勢国司北畠満雅を頼り嵯峨から逃亡した。さらに満雅は鎌倉公方足利持氏と結んで反乱を起した。しかし持氏が幕府と和解し、同年12月21日に満雅が伊勢守護土岐持頼に敗れて戦死した。
 永享2年(1430)に満雅の弟顕雅が幕府と和睦すると、小倉宮は京都に戻されたが、和睦条件は@小倉宮の王子の出家と、諸大名から毎月3千疋の生活費の献上であった。同年11月に当時12歳の王子は足利義教の猶子となって教尊と名乗り、勧修寺に入った。しかし武家からの生活費の献上は滞り、生活に困窮して、永享6年(1434)2月に小倉宮も長慶天皇の皇子である海門承朝を戒師に出家して聖承と名乗り、嘉吉3年(1443)5月7日には没した。
 同年(嘉吉3年)、南朝復興を唱える日野有光らの勢力が後花園天皇の暗殺を企てて、内裏を襲撃して火をかけた。後花園天皇が左大臣近衛忠嗣邸に避難したことで、暗殺は失敗したが、日野有光らは三種の神器の剣と神璽を奪い、後亀山天皇の弟護聖院宮の孫である通蔵主・金蔵主兄弟を奉じ、後醍醐天皇の先例により比叡山に逃れて、根本中堂に立て籠もった。しかし山徒は協力を拒否し、幕府軍や山徒により鎮圧されて、金蔵主や日野有光は討たれた。この事件では細川・山名両氏が事件に関与したのではないかと疑われた。また、勧修寺門跡教尊も関与が疑われて隠岐配流となった。これが禁闕の変である。
 日野有光は足利義満の外戚であり、娘は称光天皇の妃となった。しかし足利義持との確執で室町殿より追放され、つづいて称光天皇が男子のないままに没したことで皇統が伏見宮に移ると、政治的に不遇となった。そのため嘉吉の乱(1441年)による京都の動揺に乗じて、禁闕の変を起したと考えられる。
 剣は奪い返されたが神璽は持ち去られたままであったことから、嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う赤松家遺臣が、長禄元年(1457)大和・紀伊国境の北山に本拠を置いていた南朝勢力に臣従すると偽り、源尊秀らを殺害して神璽を奪い返した。これが長禄の変である。以後、後南朝の勢力は衰退した。
 それでも応仁・文明の乱で京都が混乱すると、文明元年(1469)に紀伊国で南朝の遺臣が小倉宮の王子と称する人物を担いで反乱を起こした。山名宗全はこの岡崎前門主(教尊)の王子出羽王を西軍に迎えている。勧修寺教尊は隠岐配流後に消息不明となっており、その子孫がいることは十分に考えられる。出羽王は、同時代資料が伝えるように教尊の子孫であろう。隠岐から船で日本海を北上して、出羽にたどり着いたのかもしれない。このことで、出羽に新田・楠など南朝方の子孫が残っていることも理解できる。
 後南朝の本拠紀伊に地盤を持つ畠山義就は、はじめ南帝の擁立に難色を示したが、文明3年(1471)8月に正式に京に迎え入れられた。ところが山名宗全が没すると南帝の消息は不明になった。『晴富宿禰記』文明11年(1479)7月19日条に、山名宗全が以前安清院に入れ奉っていた南方の宮(出羽王)が国人らに送られて越後より越前北荘へ移ったこと、同記30日条に「出羽王」が高野へ向かう道中であることが見える。これが、出羽王を確認できる最後の資料である。
 ところで最近の研究動向として、『勝山記(妙法寺記)』が後南朝の資料として注目されている。同記の文明10年霜月14日条に、「王」が京都より東海に流され、甲斐に赴き小石沢観音寺に滞在したことが記されている。この「王」が出羽王であれば、いちど東国に流された出羽王が、越後から越前北荘に移り、さらに京都高野に向かったことになる。
 また同記の明応8年(1499)霜月条に、「王」が流されて三島に着き、早雲入道が諌めて相模国に送ったことが見える。ここに早雲入道が登場するのは、後北条氏(小田原北条氏)が、足利尊氏の室町開幕を契機に南朝方に転じた北条時行の子孫を名乗ることと関係があるかもしれない。そうであれば早雲入道の子氏綱が北条氏を名乗ったことは足利方の今川氏との決別を意味する。
 「王」が早雲入道に諌められた明応8年は、出羽王と目される「王」が東国に流された文明10年のちょうど20年後であり、出羽王の王子の世代とも考えられる。南朝の復興を目指したことで東国に配流となり、そこで早雲入道(伊勢宗瑞)によって諌められたのだろう。
 これが、現在まで明らかになっている後南朝の歴史である。ところが近世に、金蔵主は比叡山で討死にせず、吉野北山で没したという伝承が生まれた。金蔵主を小倉宮の王子尊義王とし、その王子尊秀が自天王(尊秀王)を称したというが、同時代史料に証拠はない。むしろ同時代資料によれば金蔵主は後亀山上皇の皇弟の子孫であり、源尊秀は日野有光らとともに嘉吉3年(1443年)9月24日京都御所に乱入した南朝の廷臣である。しかも源尊秀の「尊」の字も後醍醐天皇(尊治)の子孫を示すものではなく、承久の乱(1221年)で隠岐に流された後鳥羽上皇(尊成)の皇孫のうち、佐渡に流された順徳上皇(守成)の子孫である順徳源氏の通字「尊」「忠」と考えられる。
 南朝の子孫を自称する者は必ず尊義王・尊秀王の子孫と名乗っており、それが事実であれば、彼らは南朝の子孫ではなく順徳源氏である。系譜伝承が正しければ正しいほど、彼らは南朝の子孫ではなく、南朝の子孫を僭称した者となる。
 また源尊秀の子孫であり、また『勝山記』に登場する「王」の子孫であると名乗る者もいるが、これは『勝山記』に注目している最近の研究を巧妙に取り入れたものであり、純粋な系譜伝承とはいえない。自らの系譜伝承に学説を取り入れて改変する者は多いが、これは系譜伝承の脚色であり、実は系譜伝承を台無しにする行為である。
 応仁・文明の乱の南帝出羽王は勧修寺教尊の王子であり、源尊秀の子孫ではない。また『勝山記』に登場する「王」は出羽王の可能性はあるが、源氏ではなく源尊秀の子孫ではありえない。源尊秀と『勝山記』の王を結び付ける者は、最新の学説を取り入れて歴史研究との整合性を企てたという点で、より悪質といえよう。
 むしろ現在の歴史研究では矛盾すると思われる系譜伝承であっても、そこに未だに発見されていない歴史的事実が含まれているかもしれない。真理は往々にして非合理性の中にあるものである。無理に整合性を持たせることは、そのような歴史的事実を捨て去ることになる。わたしは真の後南朝の子孫を知りたいと思っている。だからこそ、後南朝を僭称する者には厳しくなる。
 系譜伝承は編集することなく、また現在の学説と無理に整合性を持たせるのでもなく、そのままの形で後世に伝える義務が、われわれにはあると考えている。

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コメント(8件)

内 容 ニックネーム/日時
今回の記事でさらに出羽王に興味を抱いています。以前にもお話したとおり、出羽由利だけでなく、出羽河北郡が南朝(時代的には後南朝)の拠点の一つと考えているからです。室町幕府使節僧で北東北を巡察した時宗の僧円福の書状では河北の面々とあるようで、八戸南部氏に時の情勢を伝えているようですので安藤氏のことだとは思えません。余談ですが、神祇台という地名はそこら辺にあるような地名ではない重みを感じるのですがいかがでしょうか?
佐々木寿
2011/06/07 00:35
出羽王に興味を持っていただきありがとうございます。出羽王もきちんと資料で追えば、出自は明らかですし、近世に作られた南朝皇孫系図のいい加減さも分かります。これからは、南朝皇孫名乗り放題の現状を打破したいです。

北東北では浪岡御所北畠家と安東氏の関係があり、由利十二頭のひとつ沓沢氏は秋田浪人とも伝えられています。南朝の拠点は由利郡だけではないようですね。僧円福の書状は知りませんので、できれば詳しく教えていただけませんか?

また最上郡差首鍋城主沓沢氏については、近江出身といわれ、家紋も丸に四つ目結ですから、鮭延氏と同族と考えられます。「忠」の字を通字としていますので、新田方の越後守護代佐々木忠枝の子孫ではないかと考えています。越後の主導権をめぐり上杉氏との抗争に敗れた佐々木近江四郎が南朝方に転じてから、一族化したと思われます。

ところで神祇台ですが、当て字の可能性もありますので、今のところは何ともお答えできません。勉強させていただきます。
佐々木哲
2011/06/07 22:29
猶々被申候。
今日重津軽をかかり候て、念比状を進之候。
其御方へ御越被下候、則黒館候。
被御本意成候事、雖不始事候、無是非存候。
浅利殿事も以御料簡引出、可有御方便候。
秋田辺事も無為之由聞得候。悦喜仕候。
随而参河殿、刑部殿御兄弟達御辛苦候。
別事可捧愚候へ共、無差事之間、無事儀候。
乍恐此内進申候。河北面々御出陣候者、伝言申候由、可被懸御意候。
自堀内預御音信候。御返事津軽へ申旨候。
恐々謹言
卯月十四日      円福(花押)
八戸河内殿  御宿所

「秋田の中世・浅利氏」という著書で紹介されている文書の内容です。
情勢が不明なだけに解釈も困難ではあります。葛西氏から安東氏に支配が代わる微妙な時期でもありますが、それ以前の本所とされる葛西氏支配もまったくもって不明であり、その後の資料では「臥雲日件録尤」において浪岡北畠氏が出羽国司と呼ばれ、また「言継卿記」においても再三出羽波岡と記されているそうです。
南朝ご法度の歴史の世界では考えを張り巡らしても根拠が薄弱なため何を言っても通用しませんが、断片的な状況証拠はまだかなりあるものと思っています。
佐々木寿
2011/06/08 23:59
「河北面々」は、津軽との国境を接する河北を本拠とした下国安東氏を示していると考えられますね。

下国安東氏であれば浪岡御所と関係がありますが、この資料では後南朝との結びつきまでは論じられないと思います。

下国安東氏は由利郡まで勢力を伸ばし、また下国安東氏が上国安東氏を統合する争乱に由利十二頭も参戦していますから、浪岡御所・下国安東氏(後の秋田氏)・由利十二頭の関係には興味があります。後南朝で結びついていた可能性はありますね。
佐々木哲
2011/06/10 01:00
確かに出陣という文言、前後の史実からみても下国安東氏と考えるのが妥当だと思います。ただ、この頃の下国安東氏は渡島から渡海したばかりでまだ出陣できるような地盤も勢力も有していなかったとも考えられます。むしろ南部氏による侵攻で鹿角・比内・仙北は切り取られ河北もそうだった可能性が高くグレイゾーンです。南部氏でも容易に手を出さない勢力がいたのではないかと考えています。気になったのは面々という表現と勤皇と評される八戸南部氏に伝えられていること。南部政経の代ではそんなに勤皇でなくなっているかもしれませんが、北畠氏が堂々と戦国時代まで存続できていた事実もあります。青森〜北秋田にかけて長慶天皇の痕跡が多いことも気になります。能代市長慶寺(元は天台宗)もこの頃に田代から移ってきているようです。寺紋の一つに竜胆車の紋が刻まれています。北畠氏が背景にあるでしょう。新羅記録による河北郡本所葛西出羽守藤原秀清は、おそらく南朝に与した葛西氏の流れと考えられ、一族の嘉成氏は下国安東氏の重臣です。家臣団には伊勢神宮神官一族とみられる渡会氏もおります。旧八森町には御所の台という地名、周辺には不詳の館跡もいくつかあり、この地域には南朝遺臣といわれる工藤氏や菊地氏の子孫が多いようです。旧峰浜村には北畠氏に関連する水木や高杉といった苗字が多く、神祇台はこの地域にあります。高野野という地名もあり、密教色が強い地域といわれることもあるようですがそれだけではないのではないかと思えます。藤里町にも三浦氏の痕跡、一族と考えられる石田という苗字が多いのです。この地域は白神山地を抜け津軽相馬村と繋がっています。先生もご存知のことと思います。先生のおっしゃるとおり、北畠氏と下国安東氏の関係は深く、後南朝と結びついていたという見方はとても興味深く思います。また余談ですが、下国安東氏と近江の繋がりにも注目しているところです。
佐々木寿
2011/06/10 18:11
今のところ状況証拠のみですね。

「河北面々御出陣」と「御出陣」あるので、河北衆は宛先八戸河内(南部政経)方の人びとですね。南部方の国人で、河北千町を領していたと伝えられる葛西秀清の関係者と考えてよさそうですね。下国安東氏の家臣嘉成氏の先祖に当たる人びとでしょう。

でも、旧南朝系の人びとの動向といえるだけで、後南朝の人びととは断定できません。あくまで状況証拠です。
佐々木哲
2011/06/10 23:58
考えてみたのですが、

この円福寺書状は、これまで資料で確認できないとされてきた「河北千町」葛西秀清の実在を示す資料と考えていいのではないでしょうか。実名が「葛西秀清」かどうかは不明ですが、下国安東氏の家臣ではあっても、国人(中小独立領主)的性格を有していた嘉成氏の先祖となる人びと(系譜伝承では葛西氏)が存在したということになるでしょう。

この文書で分かることは、@「河北面々」は「御出陣」と敬称が付けられていることから、八戸河内(南部政経)方であったこと、A河北郡(秋田県北部)の独立領主であることから、秋田氏家臣団の中にあっても、河北郡で国人的性格を維持していた嘉成氏の先祖に当たることでしょう。

嘉成氏は、この円福寺書状の時には八戸河内(南部政経)方であり、下国安東(檜山安東・秋田)氏の河北郡進出とともにその勢力下に入ったものの、国人領主として半独立的存在であり、秋田氏移封のとき従わず一時は津軽氏に仕えて、のち秋田氏に復したという経緯があったと考えられます。

このように考えると、この円福寺資料はいい資料といえますね。
佐々木哲
2011/06/13 11:07
ありがとうございます。またいい勉強をさせていただきました。
佐々木寿
2011/06/13 22:24

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