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zoom RSS 武田二十四将横田高松の系譜(改訂)

<<   作成日時 : 2011/04/12 01:10   >>

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 武田氏二十四将のひとり横田高松の孫伊松は徳川家康に五千石で召しだされて幕府旗本となり、さらに田沼意次の側近横田準松(筑後守)のときには御側御用取次として権勢を振るい、加増されて家禄九千五百石となり、旗本筆頭となった。横田氏は家伝によれば、佐々木三郎秀義の末孫次郎兵衛尉義綱が、浅井伊予守吉高に属して戦功があり、横田川和泉村のほとりに采地を受け、家号を横田に改めたという。また甲陽軍鑑によれば、伊勢出身という。
 浅井吉高という人物は横田氏家伝のほかの資料に見られないこと、また浅井氏が甲賀郡に領地を与える権限があったとは考えられないことから、この伝承をそのままで史実とは受け止められない。そのため、まず甲賀郡横田に注目しよう。
 現在の国道1号線が野洲川を横切っているのが横田橋で、その横田橋から上流が横田川と呼ばれていた。横田橋については、寛正二年五月二十四日付室町幕府奉行人奉書(山中文書)に「酒人郷横田河橋」と記され、酒人郷領主京都西芳寺が橋賃を徴収していた。横田氏の家紋が、御上神社の神紋と同様に釘抜紋であることから、三上氏との関係も推測できる。また横田城は三雲城に近く、三雲氏との関係も考えられる。
 三雲氏は、室町将軍による六角氏征伐である長享・延徳の乱で、六角氏の命令によって観音寺城の出城として三雲城を築いた。三雲氏は甲賀郡の名族伴氏の一族で、鎌倉期には佐々木秀義の五男隠岐佐々木義清の次男泰清が三雲(見雲)氏を名乗ったとも伝えられ(沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、源氏を称することもある。長享・延徳の乱では甲賀に積極的に逃亡した高頼を甲賀二十一家が支えた。そのひとりが三雲新蔵人である。その跡は武蔵七党のひとつ児玉党出身の典膳実乃が継ぎ、さらに小山田上杉行定が典膳実乃の婿養子となり三雲氏を継いだ。これが三雲氏に児玉党の系譜と家紋を伝え、さらに小山田氏という系譜伝承も伝えている理由である。大永二年(1522)、三雲源内左衛門(行定)は幕府から唐物赤毛氈の鞍覆と白傘袋を使用することを許されており(「御内書案」)、管領・守護に准ずる待遇を得た。『勝山記』(妙法寺記)によれば永正十七年に行われた甲斐小山田弥太郎十三回忌法要で施主が藤原氏を称しており、甲斐の郡内小山田氏も上杉流であった可能性がある。戦国期末の越中守信有の代に秩父平氏を意識したのだろう。このように、三雲氏は関東と深い関係にあった。横田氏が関東に転出したのは、三雲氏の出自と関係があったのかもしれない。
 しかし甲賀衆に横田氏の名は見えない。『淡海温故録』には横田美作守秀長が記されているが、その系譜は知られていない。横田氏の中祖佐々木義綱の名に注目すれば、甲賀郡川田神社の由緒に、嘉禎二年(1236)佐々木義綱が社殿を再興したと記されていることを見つけられる。系譜は不明だが、鎌倉前期であることから、定綱の孫伊佐二郎左衛門尉義綱(七郎左衛門尉行綱の長子)の可能性がある。秀義から見れば曾孫であり、横田氏の系譜伝承と矛盾しない。また三上一族であれば、『群書類従』所収三上氏系図(巻百三十)で三上氏を清和源氏賀茂次郎義綱流としており、その系譜が佐々木氏系図に混入したとも考えられる。たしかに義綱の一族は弟義光の陰謀により甲賀山(義光領甲賀郡柏木御厨)で滅んでいる。しかし三上氏が賀茂次郎義綱の子孫とする系図は、宇多源氏行実(「源行真申詞記」)の長男井盛実(守真)を賀茂次郎義綱の子とするなど矛盾があり、同系図にとらわれる必要はないだろう。佐々木氏であることを重視すれば、甲賀郡川田神社の社殿を再興した伊佐二郎左衛門尉義綱の子孫である。
 この甲賀横田氏の出身と考えられる横田村詮は、三好康長の甥で従兄弟三好康俊に仕えた横田宗昭(日b上人「己行記」元亀四年一月・二月)と同一人物とも考えられる。しかし、このことは村詮が近江甲賀郡出身であることを否定しない。近江守護六角氏の被官であると同時に細川氏の被官でもあった河田氏や、三好義継の家老である若江三人衆の筆頭多羅尾常陸介(右近)綱知のように、近江武士で細川氏や三好氏に仕えた者はいた。『古今消息集』に(年未詳)正月七日付甲賀諸侍中宛細川氏綱書状(使者三好筑前守[長慶])、望月修氏所蔵文書に(年未詳)八月十八日付村島殿(望月重元)宛細川氏綱書状が所収されているように、細川氏と甲賀衆の関係は深い。また佐治・和田・池田らが尾張に進出しているように、甲賀衆は近隣諸国に積極的に進出していた。行定の子三雲対馬守定持(新左衛門尉)は天文年間に、明の吏部尚書聞石塘から紅鞍龍を贈られているように日明貿易にかかわっており(蒲生郡志三巻および甲賀郡志下巻)、横田氏も三雲氏との関係で日明貿易にかかわり、やがて三好氏と関係を持ったと考えられる。
 横田村詮(内膳)は、三好氏が没落すると、同じ甲賀出身の近世大名中村一氏(瀧孫平次)に迎えられた。羽柴秀吉の命により中村一氏が天正十三年(1585)、甲賀郡の支配の拠点として水口岡山城を築き、横田橋も中村氏の管理下に入った。横田村詮は中村一氏の妹婿となり、天正十八年(1590)中村一氏が駿府城主となると、駿府に同行している。関が原の戦いでは、中村一氏は村詮の意見を容れて駿府城下の村詮屋敷で徳川家康との会談を行い、東軍に加わることを決めた。戦後、徳川家康は中村一氏の嫡子一忠を十七万五千石伯耆米子城主に任じており、中村氏は国持大名になった。さらに家康は村詮に六千石を与えた上で、一忠の後見役とした。村詮は城下町を建設し、現在の米子市の発展の基礎を築いた。しかし慶長八年(1603)村詮を妬んだ一忠の側近によって殺害されてしまった。村詮の子主馬助や柳生宗章(五郎右衛門)らは飯山に立て籠もったが、一忠は出雲の領主堀尾吉晴・忠氏父子に助勢を求めて鎮圧した。徳川家康は自ら派遣した村詮の殺害に激怒し、中村氏は断絶となった。
 中村氏と横田氏の関係からも、甲賀郡に横田氏があったことは認めていいようである。そうであれば横田高松はどのような縁故で甲斐武田氏に赴いたのだろうか。ここで注目できるのが、三雲実乃が武蔵児玉党の出身であり、行定が小山田氏の出身であったことである。三雲氏と小山田氏の関係が、近江佐々木氏と甲斐武田氏を結んだと考えられる。
 こののち元亀・天正期に、六角義堯は甲斐武田氏と結び、さらに武田勝頼と上杉謙信に和を結ばせて織田信長包囲網を築いている。上杉氏では、六角氏旧臣の河田豊前守長親が執政を勤めていた。横田氏の家伝に浅井氏が登場するのは、元亀の争乱で浅井長政・朝倉義景と武田信玄が結んだことを隠喩していよう。「浅井吉高」は六角義堯のまちがいかもしれない。これらのことが一気に結びついてくる。元亀四年三月十日に将軍足利義昭が織田信長に対して挙兵すると、信虎は義昭の命で甲賀に派遣され、反信長勢力の六角氏とともに近江攻撃を企図している(『細川家文書』)。やはり甲賀衆と甲斐武田氏は関係が深いようである。

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