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zoom RSS 横山氏の系譜―高島七頭(3)

<<   作成日時 : 2011/02/07 02:48   >>

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 高島郡横山郷地頭職は鎌倉初期には大江広元であったが、佐々木広綱に譲られた(地蔵院文書)。このことから、佐々木広綱が大江広元の女婿であったことが分かる。広綱の「広」の字は、烏帽子親であり舅でもある広元の一字書き出しであろう。しかし山城守広綱が承久の乱で京方であったことから、乱後に鎌倉方の弟近江守信綱(当時は右衛門尉)に与えられ、それが近江二郎左衛門尉高信から次男出羽守頼綱(五郎)、さらに頼綱の長男出羽三郎左衛門尉頼信に伝えられた。
 正応五年(1292)のものと推定できる閏六月二十八日付左衛門尉頼信宛尼妙語書状(朽木七三〇号)によって、横山頼信が妙語から高島本庄案主職・後一条地頭職を譲られている。妙語は近江孫四郎左衛門尉泰信の妻であり、案主名・後一条は始め妙語の子息四郎右衛門尉行綱に譲られたが、行綱の不孝を理由に同地を悔い返し、甥の頼信に譲与した。実子であろうとも菩提を弔わないようであれば、所領を相続させなかったのである。そして菩提を弔ってくれるものに所領を譲与したのである。
当時は子に親不孝なことがあれば、一度与えられた所領でも親によって悔い返えされた。行綱もその事例である。
 同地は、さらに嘉元二年(1304)八月頼信から娘愛寿御前に譲られたが、愛寿御前に子供が生まれなかったため、元徳元年(1329)十月に道定(横山頼信の法名)は愛寿御前一期ののちに、幼いときから育てている「おとしゆ丸」に同地を譲る譲状を認めた。
しかし頼信から愛寿御前を経て「おとしゆ丸」に譲られた高島本庄案主職と後一条地頭職をめぐり、佐々木行綱女子尼心阿と出羽五郎義信が相論になり、暦応二年(1339)には和解が成立して、同年九月十一日付で尼心阿和与状が作成された。この義信が「おとしゆ丸」の成人後の姿であろう。暦応四年(1341)三月十七日付足利直義裁許状で、心阿が関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継などを所持し、義信は関東安堵外題証文などを所持していたことが確認できる。どちらも証拠となる文書を所持しており、尼心阿に対して朽木義信が「三問三答の訴陳」に及ぶことになった。この相論に頼信(法名道定)が関与していないことから、頼信(入道道定)は没していたと分かる。
 ところが出羽三郎左衛門尉入道道光が、建武三年(1336)から貞和四年(1348)まで確認できる。出羽を名乗ることから出羽守頼綱の子孫と分かる。建武三年六月十三日付大音助俊軍忠状(大音正和家文書)によれば、建武三年(1336)六月二日に大音助俊が大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道に従軍し、近江高島郡三尾崎の関所を警固していた。十日に二条権大納言方と合戦になり、助俊は忠節を尽くした。この事実を大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道は知っており、近江御家人の横江六郎と八田三位房も見知っているという。そして大将軍佐々木道光は、その内容を認めて判を添えている。
 翌年の建武四年(1337)には、永田四郎信氏とともに室町幕府の両使として山徒山本坊定祐の鴨社領高島庄押領の停止をおこなっている(古事類苑神祇部一所収加茂御祖皇大神宮諸国神戸記六)。
 また六角氏頼が守護を勤めていた期間のものである一切経保田雑掌禅海申状によれば、「佐々木出羽弥三郎法師(法名道光)」が同地に濫妨狼藉し、訴えにより院宣が発給され、守護六角氏頼の遵行命令により雑掌に下地が打ち渡されたが、道光は「使節遵行之地」に立ち還り再度押妨を働いた(地蔵院文書)。そして貞和四年(1348)八月二十四日付道光起請文が認められている(地蔵院文書貞和四年八月二十四日付佐々木道光起請文)。これで道光が横山郷に権益を有していたと分かる。
 さらに道光が「出羽弥三郎」(地蔵院文書)と呼ばれていることにも注目できる。これは出羽守の孫(曾孫)の三郎という意味であり、出羽守頼綱の子出羽三郎左衛門尉頼信(法名道定)とは別人と分かるからである。「出羽三郎左衛門入道」(大音正和文書)の名乗りから、横山頼信(道定)と同一人物と見る意見もあるが(1)、資料を広く求めれば別人である。
 頼信は元徳元年(1329)には娘愛寿御前に子どもが生まれなかったために、幼少から育てていた「おとしゆ丸」に所領を譲った。一族の男子を幼少のときから育てていたのだろう。娘に子どもが生まれることを期待できなかった年齢に達していた道定と、観応の擾乱まで活躍する出羽弥三郎法師道光では世代が異なる。そのことを「三郎」と「弥三郎」のちがいからも理解できる。
 尊卑分脈によれば、出羽守頼綱の孫で三郎というと、頼綱の末子有信の子三郎有綱がいる。また尊卑分脈で横山頼信の子に五郎頼有が記されているが、有信・有綱父子と頼有の間で「有」が通字になっていることにも注目できる。それは、有信の外戚伊具流北条氏の通字を使用したと考えられるからである。横山郷は頼信の末弟有信の子孫によって継承されたと考えられる。
 こののち一切経保田領家方は、永和五年(1379)金蓮寺領半分が地蔵院に寄進され、さらに永享九年(1437)残り半分のうち二分の一も地蔵院に寄進された(2)。これは地蔵院の保護者細川頼之に期待してのことであり、頼之後の細川氏が地蔵院を保護できなければ、地蔵院に寄進した意味はなくなる。こうして金蓮寺は得分を取り戻そうとして、領家どうしが争うことになった。金蓮寺雑掌が一切経保田を一円押領したことから、応永十年(1403)八月には地蔵院が幕府に訴え、守護六角満高に遵行命令が下され、さらに北山尊勝院が地蔵院領を押領したため、再び幕府は守護六角満高に遵行命令を下している。このような状態に悩まされていた地蔵院は、応永二十一年(1414)三月に千代満を代官にしている。千代満は本主横山氏であろう。さらに応永二十八年(1421)六月、近江国高島郡横山三河守跡が、幕府によって石清水八幡宮雑掌に与えられた(東京大学史料編纂所「菊大路文書」三所収応永二十八年六月五日付六角満綱宛室町幕府御教書)。これで、横山氏であろう千代満と横山三河守を確認できる。年代的に同一人物と考えられる。


(1)西島太郎『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、二〇〇六年。
(2)大山喬平編『細川頼之と西山地蔵院文書』思文閣出版、一九八八年。

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