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zoom RSS 朽木氏の系譜―高島七頭(2)

<<   作成日時 : 2010/11/24 01:38   >>

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 朽木氏は、高島高信の次男出羽守頼綱に始まる佐々木出羽家のうち、頼綱の次男出羽守義綱が承久勲功の朽木庄を相続したことに始まる。頼綱は霜月騒動で活躍し、安達泰盛(城陸奥守)追討賞で出羽守を受領した。安達氏の名乗り「城」は出羽介兼秋田城主を意味する出羽城介を世襲したことに由来するため、出羽守補任には特別な意味があるようにも思える。『尊卑分脈』によると、頼綱(入道道頼)には出羽三郎頼信・五郎義綱・四郎氏綱・五郎有信があった。このうち五郎義綱が勲功の所領近江国朽木庄(承久勲功、祖父近江守信綱拝領所也)と常陸真壁郡本木郷(弘安勲功、頼綱拝領所也)を譲渡されて(朽木147佐々木左衛門尉頼綱譲状案)、朽木氏を立てた。三郎頼信は横山庄、四郎氏綱が田中庄と相伝の所領を相続しており、朽木氏は佐々木出羽家の惣領ではなかったようである。朽木氏が大きく飛躍するのは、朽木庄を相続した五郎義綱が、陸奥国栗原庄一迫板崎郷を母覚意から譲与され、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されるとともに越中国岡成名を得たことによるだろう。

出羽守頼綱の系譜
 建治三年(1277)正月日付関東下知状(内閣文庫朽木家文書〔以下では朽木]422)によれば、駿河彦四郎有政と姉平氏(弥鶴)が亡父時賢(系図では有基)遺領武蔵国比企郡南方石坂郷内田・在家を争い、前年十二月二十六日有政避状並びに建長六年(1254)八月二十四日・文永八年(1271)九月十日譲状の通り、弥鶴が領有することになった。駿河有政は北条義時子息駿河守有時に始まり、陸奥伊具郡を領した伊具流北条氏であるが、初代有時が駿河守であったことから駿河を通称とした。一族に六波羅評定衆になった駿河次郎(『建治三年記』十二月十九日条)がいるが、六波羅評定衆は多く外様御家人が補任されており、北条駿河家が幕府内部で主流派ではなかったことが分かる。有政は所領が他家に流出するのを防ぎたかったのだろう。女子にも相続権があったため、このように一期領をめぐる論争がおこなわれることになった。
 頼綱の末子五郎有信は北条駿河家とは通字の関係にあり、この弥鶴の子息と考えられる。また父出羽守頼綱の仮名五郎を名乗ることからも、頼綱の嫡子と考えられる。寛政重修諸家譜では五郎有信を元弘年間の徳寿丸と同一人物と見なし、年代から頼綱の末子を義綱の子息に変更した(朽木綱泰系譜之内御尋書控[朽木515]および朽木綱泰系譜之内御尋之趣御答書控[朽木516])。しかし、これは誤りといえる。尊卑分脈によれば、五郎有信の子息には三郎有綱が見られることから、有信の子孫も続いたことが分かる。弥鶴の所領の相伝が不明なのは有信が継承したからだろう。頼綱の長男出羽三郎左衛門尉頼信の没後に、横山庄を継承したのが末子五郎有信かもしれない。
 また頼綱の兄近江四郎左衛門尉泰信の後家尼妙語は、正応五年(1292)十月二十四日に作成された譲状(朽木107)で、子息佐々木右衛門尉行綱が「ふけうのものなるによりて」(不孝者なので)勘当し、頼綱の長男尉頼信に譲ると述べている。このように鎌倉時代には、いちど子女に譲った所領を親が取り戻す「悔返し」がしばしばおこなわれた。この場合は高島泰信後家妙語がいちど嫡子四郎右衛門尉行綱に譲与した所領のうち、高島本庄案主職と後一条地頭職を譲与した。案主は荘官のひとつで、荘園関係の文書の保管に当たった。これで朽木氏は高島本庄の荘務と得分を得たことになる。
 同地は、嘉元二年(1304)八月に頼信から娘愛寿御前に譲られたが、愛寿御前に子供が生まれなかったため、元徳元年(1329)十月に道定(横山頼信の法名)は愛寿御前一期ののち養子「おとしゆ丸」に同地を譲る譲状を認めて三年後に譲られた。元徳年間に幼名であることから、義綱の子ではなく孫と考えられる。
 さらに永仁二年(1294)八月二十日付尼覚意譲状(朽木109)によれば、甲斐前司狩野為時(法名為蓮)の四女尼覚意(文殊・佐々木御前)は子息五郎兵衛尉義綱に陸奥栗原庄一迫板崎郷を譲与している。狩野氏は奥州合戦で活躍して陸奥栗原郡一迫地頭職を得た狩野行光の子孫で、行光の子大宰少弐為佐は佐々木信綱と同時期に評定衆となり、孫周防守為成は六波羅評定衆となり備前守護佐々木小島時綱を女婿としていた。文永二年(1265)九月二十三日付沙弥為蓮譲状によれば、同郷ははじめ文殊の一期分として狩野為時(沙弥為蓮)より譲られたものだが(朽木文書105沙弥為蓮譲状)、実際には佐々木御前の子息五郎義綱に譲られた。このように朽木氏は、頼綱の子息の代に一族や外戚から所領を集積した。

出羽守義綱・四郎兵衛尉時経父子
 近江朽木庄と常陸真壁郡本木郷を譲られて朽木氏を立てた義綱は、嘉元の乱で活躍して出羽守に補任されている。霜月騒動・嘉元の乱と二代にわたり活躍して出羽守に補任されて朽木氏は御家人として台頭するとともに、庶子が他家の養子になることで獲得している。そのひとつが桓武平氏頼盛流池家(池河内家)の所領である。
 元享二年(1322)十一月二十八日付平宗度置文によれば、池宗度は嫡子増一丸(顕盛)に所領を譲る旨を記している(朽木123)。池家は池大納言頼盛の子孫で、頼盛実母で平清盛継母であった池禅尼が、平治の乱で源頼朝の命を救ったことから、頼盛は平氏の都落ちに同行せず、鎌倉殿伺候の公卿となっていた。この置文が朽木家に伝わるのは、頼盛の子池河内守保業の子孫である池河内家の所領が、朽木氏に譲渡されたからである。
 そして元徳二年(1330)九月二十二日付平顕盛譲状(朽木134)で、顕盛は養子万寿丸に所領や太刀等を譲る旨を記した。譲与された土地には甘縄・魚町など鎌倉の屋敷地も含まれ、幕府の執権北条守時と連署北条茂時が譲状の内容を承認したことを示す安堵の外題も書き込まれている。この譲状に付されていたのであろう承久三年(1221)八月二十五日付北条義時下文(朽木116)が、朽木家文書最古のものであり、平保業(河内守)を播磨国在田道山庄の預所職にするという内容であった。これら池家の所領については朽木時経が同年十月二十二日付請文(朽木133)を発給しており、時経が万寿丸の実父と確認できる。伊具流北条氏・池河内家ら外戚により朽木氏は確実に家格を上昇させ、所領も拡大させた。
 元弘二年(1332)三月二十三日付法印忠伊譲状には、外戚であり弟子である佐々木出羽徳寿丸に丹波蓮興寺領を譲与することが述べられている(朽木文書111法印忠伊譲状)。しかし年月日不詳(元徳年間)金沢貞顕書状(金沢文庫413号)に、忠伊法印父子三人が殺害されたことが述べられており、忠伊法印の子息のひとりが徳寿丸と考えられる。これで、同領が朽木氏に伝領されなかった理由がわかる。同状によれば忠伊法印は鶴岡八幡宮供僧鑑厳の従兄弟で、摂津刑部権大輔入道(親鑑)と親密(無内外)だったという。忠伊法印は名仁として鎌倉でも評判がよかったため、この報は鎌倉の長崎氏にも知らされた。譲状でも徳寿丸に公武の祈祷を求めており、忠伊法印の京・鎌倉での活躍が知られる。徳寿丸が忠伊法印の養子になっていたことで、朽木氏が北条氏に近かったことが分かる。忠伊法印のいとこ鑑厳僧都は鎌倉幕府滅亡後、六波羅探題北条越後守仲時の遺児越後松寿丸とともに南朝方の八幡路大将両人となっている(建武三年八月二十五日付小笠原貞宗宛足利尊氏御教書[勝山小笠原文書])。
 正慶元年(1332)九月二十三日の光厳天皇綸旨(朽木2)では、越中国岡成名ほか朽木氏の所領に対して濫妨(不法な奪取や破壊行為)がなされているという四郎兵衛尉時経(出羽守義綱の長男)の訴えを受けて、その停止を命じている。岡成名は足利尾張三郎宗家(足利家氏嫡子)跡であり、それを朽木五郎兵衛尉義綱が与えられた。嘉元の乱の勲功で与えられたのだろう。
 正慶元年(1332)九月二十三日付(朽木149)と同年十一月二日付(朽木150)の二通の関東裁許状案は、岡成名をめぐる朽木左兵衛尉時経と岡成景治・友景父子(景光の子・孫)、および時経と松重景式(景光の甥)の相論をそれぞれ裁決したものである。時経代明祐によれば、当地は「足利尾張三郎宗家跡」であったが、朽木義綱が悪党人を召捕った賞として嘉元二年(1304)拝領したという。つまり地頭職の正統性を主張した。それに対して岡成氏は地頭職を要求したのではなく、安貞年中(1227〜29)景治・景式等の先祖が遠江守名越朝時に寄附してから足利尾張宗家のときまで、本主の子孫岡成氏に代官職が宛がわれてきたことを主張したものである。岡成名は名越朝時の地頭職領有に由来し、足利家氏の母朝時女を経て足利尾張家に伝えられるとともに、代官職には本主である岡成(清原)氏が永補の保証を得ていたのである。朽木氏と岡成氏の相論は地頭職をめぐる相論ではなく、代官職をめぐる相論であった。代官職は契約による不安定な地位であり、この件で本主が本領を失っていく過程が分かる。
 足利尾張宗家が越中国岡成名を没収されたのは、霜月騒動に関係しよう。霜月騒動では足利上総三郎(吉良満氏)が誅され(『北条九代記』)、また惣領足利家時の自害も、霜月騒動に関連すると考えられるようになっている(『近代足利市史』第一巻、一七五頁)。宗家の嫡子宗氏は本主岡成氏が代官職を得られるように請文を提出したが、この宗氏の子息が斯波高経・時家(家兼)兄弟である。
 元弘二年(1332)八月十二日の後醍醐天皇綸旨(朽木1)は、近江国朽木庄の地頭職を従来どおり出羽四郎左兵衛尉時経に与えるという内容であり、朽木氏が本領を安堵されたことが分かる。さらに建武元年(1334)四月五日付世尊寺行忠奉書(朽木42)では、亀若が高島本庄安元名内古天神西南寄二段を、手継譲状に任せて安堵されている。朽木家文書に残ることから、亀若も朽木氏であろう。亀若は、元徳三年(1330)五月二十日付高島本庄代官某名田安堵状(朽木41)で、安元名のうち治部法師が入質した二段を安堵された兵衛次郎の子息であろう。兵衛次郎は朽木義綱(出羽五郎兵衛尉)の次男を意味していると考えられる。そうであれば兵衛次郎は朽木時経の弟である。朽木氏は外戚から所領を得ただけではなく、その財力で質や買得で田畑を得ていたことがわかる。この兵衛次郎は尊卑分脈の義氏に相当しよう。そして亀若は義氏の子息となる。
 朽木氏には同じ時期に幼名を名乗る万寿丸・おとしゆ丸・徳寿丸・亀若の四人がいたことになる。万寿丸は池家領を相続、おとしゆ丸は横山頼信・愛寿父娘から高島本庄案主職と後一条地頭を相続し、徳寿丸は忠伊法印から丹波の蓮興寺領を相続し、亀若が高島本庄安元名を安堵されていた。万寿丸・おとしゆ丸・徳寿丸は他家領を相続しており、亀若は兵衛次郎の子息で朽木氏庶流であろう。このうち徳寿丸は養父忠伊法印とともに殺害されており、こののち活躍するのは万寿丸・おとしゆ丸・亀若である。

出羽四郎義氏・五郎義信・四郎兵衛尉頼氏
 時経の所領が安堵された直後に、出羽四郎義氏が現れる。建武三年(1336)正月二十八日付朽木義氏軍忠状(朽木428)により、出羽四郎義氏が京都法勝寺・三条河原両度の戦いに参陣し、さらに摂津兵庫島まで赴いていることが知られる。このとき両侍所佐々木備中守仲親・三浦因幡守貞連が首実検をおこなっているが、同月二十七日の京都攻防戦で三浦貞連は上杉憲房らとともに戦死した(『梅松論』)。激戦だったことが分かる。
 時経と義氏は同じく出羽四郎を名乗るが、時経はすでに左兵衛尉に任官しており、無官の四郎義氏とは別人である。義氏は時経の跡を継承して出羽四郎を名乗ったのだろう。ただし時経の子息万寿丸はすでに池顕盛の養子であり、義氏とは別人であろう。尊卑分脈では時経の弟(義綱の次男)に義氏を記しており、元徳三年(1330)に高島本庄安元名内の名田を安堵された兵衛次郎と同一人物の可能性がある。
 また建武三年(1336)六月十三日付大音助俊軍忠状(大音正和家文書)によれば、同年六月二日に大音助俊が大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道に従軍し、近江高島郡三尾崎の関所を警固していた。十日に二条権大納言方と合戦になり、助俊は忠節を尽くした。この事実を大将軍佐々木出羽三郎左衛門入道は知っており、近江御家人の横江六郎と八田三位房も見知っているという。出羽三郎左衛門入道は大将軍と呼ばれていることから、国大将に補任されていた可能性がある。すでに出家していることから時経の世代と考えられる。頼綱の末子五郎有信の子息三郎有綱が、この出羽三郎左衛門入道であろう。
 さらに出羽五郎義信が、建武三年に登場する。出羽五郎と名乗ることから、四郎兵衛尉時経とも四郎義氏とも三郎左衛門入道とも別人である。同年八月五日付朽木義信軍忠状(朽木429)によれば、出羽五郎義信が若狭国大将斯波時家の若狭発向に、一族を引率して参陣している。四郎義氏ではなく、三郎左衛門入道でもなく、五郎義信が一族を率いる惣領であったことが分かる。同月十七日付足利直義御教書(朽木6)で若狭国大将尾張式部大夫時家(斯波時家)に属して新田義貞以下凶徒誅伐に向かうよう命じられた義信は、若狭国三方郡能登野に合戦して若党野村小三郎が討たれたが、同国遠敷郡矢田部坂西尾に転戦している(建武三年九月十七日付朽木義信軍忠状[朽木430])。
 これらの文書によれば、義信は若狭国大将斯波時家(のち家兼)に属して若狭で活躍していた。高島郡と若狭・越前の関係は深く、平安末期には本佐々木氏の船木時家が高島郡船木から若狭に進出して佐分氏を名乗り、若狭国御家人となっている(のち佐分氏には桓武平氏高棟流の加賀守親清が養子に入り、六波羅探題北条重時の若狭守護代になっている)。また高島七頭のうち田中氏と山崎氏は越前に進出している。
 寛政重修諸家譜の朽木系図では義信の本名を「時綱」とするが、建武元年(1334)賀茂社行幸供奉足利尊氏隋兵交名(朽木641)の「佐々木備中前司時綱」は、元弘の変で鎌倉幕府軍に見える佐々木備中前司のことで大原時重と同一人物と考えられる。当時佐々木備中前司を名乗るのは、佐々木氏惣領六角氏と佐々木大原氏だが、六角時信は佐々木判官と名乗るため、佐々木備中前司は大原氏と考えられる。国立国会図書館所蔵文書所収「足利尊氏関東下向宿次合戦注文」(『神奈川県史』資料編3古代・中世(3上)3231号※十八日相模川合戦で佐々木壱岐五郎左衛門尉が討死)によれば、佐々木備中前司父子が建武二年八月十九日辻堂・片瀬原合戦で戦傷を負っている。備中守仲親はこの備中前司時綱の子息と考えられる。
 そのため出羽五郎義信と備中前司時綱を同一人物と見ることはできない。尊卑分脈でも続群書類従でも時経を「時綱」と記しており、時経を「時綱」と誤り伝えた上で、義信と同一人物と見なしたことによる誤伝と考えられる。
 義氏から義信に朽木氏の中心が移った直後、建武三年九月二十七日付佐々木出羽四郎宛足利直義御教書(朽木7)で、佐々木出羽四郎が今河掃部助に属して近江国凶徒誅伐に発向するよう命じられている。また建武四年(1337)四月に再び出羽四郎が登場する。建武四年四月二十日付佐々木出羽四郎宛足利直義御教書(朽木8)では、奥州凶徒退治の軍忠を賞されているのである。さらに同年八月三日付足利直義御教書(朽木9)で、佐々木出羽四郎兵衛尉が九日発向の吉野凶徒退治で軍忠を致すよう命じられている。建武四年に出羽四郎が左兵衛尉に任官したことが分かる。
 そして建武五年(1338)閏七月に佐々木出羽四郎兵衛尉頼氏が登場する。四郎義氏から五郎義信へと替わった直後の佐々木出羽四郎は、義氏ではなく頼氏である可能性が高い。尊卑分脈では義氏の子息に頼氏を記している。そうであれば、建武元年四月に高島本庄安元名内の所領を安堵された亀若は(朽木42)、時経・義氏兄弟の子の世代であり、頼氏の前身かもしれない。
 建武五年(1338)閏七月日付朽木頼氏軍忠状(朽木431)で、出羽四郎兵衛尉頼氏が美濃黒地要害・近江鮎河城・越前荒地(愛発)中山関・同疋田金崎城と転戦したこと、近江横江浜の戦いでは沖ノ島に陣取った南朝方に夜襲をかけられて若党二人佐々本右衛門三郎・辻兵衛太郎が討死、頼氏は頭に傷を負い、ほかにも小笠原十郎五郎・多胡兵衛次郎・松井治部・日置彦次郎・中間二人が負傷したが、朽木家領陸奥栗原庄一迫板崎郷の代官板崎次郎左衛門尉為重が軍忠を著した。この板崎為重は、五郎兵衛尉義綱(出羽守)が母狩野為時四女文殊(尼覚意)から譲られた一迫板崎郷の本主であろう(朽木109尼覚意譲状)。同郷ははじめ文殊の一期分として狩野為時(沙弥為蓮)より譲られたものだが(朽木105沙弥為蓮譲状)、実際には朽木義綱に譲られた。
 こののち越前国内の新田義貞軍の活動は活発化し、越後国の南朝軍も動いて越中守護井上俊清・加賀守護富樫高家を破り越前に迫った(『太平記』巻二〇)。越後勢が吉田郡河合に到着して南朝方の軍事的優勢のなかで、七月二日藤島城の偵察に向かった新田義貞は、夜襲を企てた斯波方の副将細川出羽守・完草彦太郎の軍勢と遭遇し、致命傷を負い自害した。
 出羽四郎兵衛尉は、今度は同年閏七月十六日付佐々木導誉書状(朽木55)で吉野出兵のための上洛を催促され、同年八月十六日付導誉書下(朽木56)では吉野発向のために永田四郎とともに高島郡軍勢を率いて上洛するように、八月二十七日付導誉書下(朽木57)では高島郡軍勢の不参加を責められ、九月三日付導誉書下(朽木58)で重ねて永田四郎とともに高島郡軍勢を率いて上洛するよう求められている。そのたびに南都発向は延引されている。ここで高島郡軍勢が不参加であることと、頼氏の戦傷は関係があるのかもしれない。建武五年から改元した暦応元年(1338)十月二日付足利直義御教書(朽木10)でも、佐々木佐渡大夫判官入道(導誉)に従って南都警固にあたることを命じられている。それまで活発に行動していた朽木氏が行動しなくなる。
 越前では新田義貞自害後も、南朝方の動きは衰えなかったことから、暦応二年(1339)五月三日幕府は金ケ崎城の南朝方を攻撃するため石橋和義(尾張左近大夫将監)を派遣し、出羽四郎兵衛尉に対して、近江の佐々木五郎(京極高秀)ならびに浅井・伊香・坂田三郡地頭・御家人とともに発向するように命じている(暦応二年五月三日付佐々木出羽四郎兵衛尉宛足利直義御教書[朽木11])。こののち暦応4年(1441)まで、朽木氏に対して軍勢催促がおこなわれた形跡がない。頼氏の戦傷は重篤なものだったのかもしれない。
 四郎兵衛尉の活動が見られないあいだ、五郎義信は佐々木行綱女子尼心阿と相論していた。暦応二年(1339)に、尼心阿と義信の間の所領をめぐる争いが和解した(暦応二年九月十一日付尼心阿和与状[朽木103])。文中に「三問三答の訴陳に及ぶと雖も」とあり、激しい論争を繰り広げたことが分かる。そして暦応四年(1341)三月十七日付足利直義裁許状(朽木4)で、尼心阿と出羽五郎義信の間の所領をめぐる相論が決着した。このとき心阿は関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継などを所持し、義信は関東安堵外題証文などを所持していた。義信は頼信女子愛寿女から同地を譲与されていたことから(足利義満袖判裁許状[朽木5])、愛寿一期ののち高島本庄案主職・後一条地頭職を譲られることが約束されていた「おとしゆ丸」と義信が一致する。義信の名乗りも大伯父横山頼信の一字を名乗ったものだろう。頼信と愛寿父子の菩提を弔う義信側では、二階堂伯耆入道道本(内談衆)・佐々木源三左衛門尉秀時(吉田氏)の二人の証人が「元弘収公の地に非ず、将にまた相伝当知行相違ない」旨の起請文を提出した。こうして「三問三答の訴陳」に及び高島本庄内二所のうち後一条地頭職を獲得した。ここで「元弘収公の地」と見られていたことも分かる。これは朽木氏が北条氏に近かったことを示していよう。
 また四郎義氏や四郎兵衛尉頼氏の活動が見られなくなると、五郎義信の活動が見られるようになることに注目できる。義信は代替わりのあいだの陣代と見られる。そして次に登場するのが四郎兵衛尉経氏(のち出羽守)である。

出羽守経氏・氏秀父子
 暦応四年(1341)正月足利直義は佐々木出羽四郎兵衛尉に対して、六角時信(佐々木近江入道)の大和国西阿城攻めに従軍することを命じている(暦応四年正月二十日付朽木四郎兵衛尉宛足利直義御教書[朽木12])。同年九月十四日付足利直義御教書(朽木13)で、佐々木佐渡判官入道導誉に従って伊勢国凶徒退治に急ぎ向かうよう命じられている。また貞和元年と改元される康永四年(1345)八月二十九日の足利尊氏・直義兄弟による天龍寺供養(朽木642)で、佐々木出羽四郎兵衛尉が帯刀として参列している。貞和三年(1347)七月十一日付六角氏頼書状(朽木36)で河内国東条凶徒退治のため参陣を促され、八月九日付足利直義御教書(朽木14)で陸奥守顕氏(細川顕氏)に従って南方凶徒退治に向かうよう命じられ、八月十九日付六角氏頼書状(朽木60)で再び参陣を促されている。
 翌貞和四年六月日付朽木経氏安堵状(朽木140)で、経氏は丹後国与保呂村内吉光名を大方殿の計らいで阿弥陀寺に寄進している。これは御追善のためという。大方殿は経氏の養母で、御追善とは池家のものだろう。観応二年(1351)六月二十六日付足利尊氏袖判下文(朽木20)で、出羽四郎兵衛尉経氏が恩賞として備前国野田保地頭職を得ている。経氏の諱字から父が時経とわかる。万寿丸が朽木氏に帰家していたのだろう。
 佐々木近江守(京極秀綱)に従って山城八幡攻めたときの軍忠を賞されている観応三年(1352)六月二十七日付足利義詮御教書(朽木15)では、宛名が佐々木朽木出羽守になっている。観応三年から改元された文和元年十一月十日付足利義詮御教書(朽木16)では、河内東条凶徒退治を命じられているが、宛名はやはり佐々木出羽守である。
 そして文和三年(1354)閏十月四日朽木経氏譲状(朽木432)で、経氏は足利義詮の播磨下向に従軍するため、所領を嫡子万寿丸(氏綱)に譲ることを述べている。この中には池家の所領も含まれており、経氏が池家の養子になっていた万寿丸であることが確認できる。朽木氏に帰家して四郎兵衛尉経氏と名乗っていたのである。四郎兵衛尉の名乗りが連続していることから頼氏と経氏は同一人物とも見られるが、四郎兵衛尉頼氏と四郎兵衛尉経氏のあいだに陣代五郎義信があり、頼氏が戦傷を負ったことで経氏が朽木氏に帰家したものと考えられる。そのため帰家してまもなく、池家の菩提を弔うため大方殿の計らいで丹後国与保呂村内吉光名が阿弥陀寺に寄進されたのだろう。
 また貞治二年(1363)六月三日付足利義詮御教書(朽木22)で、氏綱に対して亡父経氏の譲状に任せて近江朽木庄以下の所領を安堵しているが、その相伝すべき所領については「載曽祖父譲状」とある。これは朽木氏初代義綱(法名種綱)の譲状を指していると見られ、義綱・時経・経氏・氏綱と相伝されたと考えられる。
 このように経氏から万寿丸に所領が譲れたが、そののち朽木氏を率いたのは万寿丸(氏綱)の兄氏秀であった。氏秀は五郎義信から後一条地頭職を相続しており、義信の後継者であったことが分かる。応安五年(1372)十月十七日付朽木氏綱譲状(朽木112)で、越中国部田・岡成両名地頭職を氏秀に譲渡したのは、単に動乱で不知行になったからというだけではなく、もともと義信が知行していたからかもしれない。そうであれば、義信が若狭国大将斯波時家に従って北陸に転戦していた理由も理解できる。さらに永和二年(1376)正月二十二日付後円融天皇口宣案(朽木3)で、従五位下朽木氏秀は出羽守に補任された。翌三年十二月二十一日付足利義満袖判裁許状(朽木5)で、出羽守氏秀と称阿弥陀院との所領をめぐり相論に決着がつき、高島本庄内案主名を氏秀が領掌することが認められた。
 同状では妙語を氏秀の曾祖母とし、また頼信女子愛寿女から義信、そして氏秀に相続されていたことが記されている。さらに朽木家古文書には泰信・泰氏ら越中家の譲状が伝わっていることから、妙語が曾祖母ならば、氏秀の母は泰氏の女子であったかもしれない。こうして妙語から横山頼信に譲られた高島本庄案主職と後一条地頭職は、それぞれ出羽五郎義信・出羽守氏秀によって獲得された。さらに同年(1377)八月二十二日付足利義満袖判下文(朽木23)で、出羽守氏秀は近江国高島朽木庄内針畑(針畑荘)の所領を安堵されている。氏秀の活躍で朽木氏は着実に所領を増やした。義信・氏秀は他家を継承しながら朽木氏を後見したと考えられる。氏秀が出羽守に補任された事実から、義信・氏秀父子は朽木氏の家督ではなく、出羽家惣領横山氏を継いだと考えられる。
 のち朽木氏秀(妙林)は、応永十四年六月二十四日付譲状(朽木113)で、高島郡朽木庄内針畑・高島本庄内後一条・同案主名・横山庄内相町を朽木出羽守能綱に永譲与している。妙林の子孫が違乱したら不孝となし、罪科に処せられるべきであると述べている。このことで針畑などが朽木氏に伝わったが、氏秀の子孫には別に所領があったことを示していよう。

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すごいですね。朽木文書という良質な資料があったとしてもここまで分析して結果を導き出すことができるとは・・・。絶賛いたします。
本文にある本主が所領を失っていく過程だけでなく、この記事でも佐々木氏の所領拡大の過程がまざまざとあらわされていますね。また、相続についても勉強になりましたし、これが系図の混乱を生む要因にもなっているのですね。
系図を属性で分解し、資料と徹底的に照らし合わせて再構築したうえで歴史叙述していく先生の業績はやはり素晴らしいと思います。尊敬の念が絶えません。
佐々木寿
2010/11/25 20:52
早速のコメントありがとうございます。わたしの系譜伝承論の方法を良く理解されていますね。敬服いたします。

ところで、本文では触れていなかったので、増補改定しようと思っているのが、本文中で登場した国大将の可能性のある佐々木出羽三郎左衛門尉入道道光です。彼は横山氏に関する論述で囲うと思っているので、あえてその系譜を書かなかったのですが、頼綱の末子五郎有綱の子息三郎有綱と思われます。西島太郎氏は横山頼信(法名道定)に同定されてますが、年代が合わず、頼信の娘愛寿の婿が三郎有綱だったのではと考えています。

愛寿には子どもがいなかったために、高島本庄案主職と後一条地頭職は愛寿一期ののちに出羽おとしゆ丸(出羽五郎義信)に譲られることになります。
佐々木哲
2010/11/26 00:16

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恋愛哲学

朽木氏の系譜―高島七頭(2) 佐々木哲学校/BIGLOBEウェブリブログ
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