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zoom RSS 越中家(高島)と能登家(平井)の系譜―高島七頭(1)

<<   作成日時 : 2010/10/20 02:29   >>

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西佐々木氏(高島七頭)の系譜
 近江守護佐々木近江守信綱の次男近江二郎左衛門尉高信は高島郡田中郷を与えられ、その子孫は繁栄して「西佐々木」あるいは「高島七頭」と呼ばれる武士団を形成した。高信の母は長男近江太郎左衛門尉重綱と同じく川崎五郎為重女であろう。為重は比企能員の乱で滅亡したため、母が北条義時女である三男泰綱(六角氏)・四男氏信(京極氏)にくらべると所領は少なかった。それでも長男泰信は、佐々木四郎信綱の孫である四郎で左衛門尉の者を意味する「佐々木孫四郎左衛門尉」として『吾妻鏡』弘長三年(1262)正月条に登場しており、自立した御家人であったことが確認できる。高島七頭は交通の要所にあって、惣領六角氏を牽制する位置にあった。
 また高信の次男五郎左衛門尉頼綱は、弘安八年(1285)の霜月騒動における安達泰盛追討賞で出羽守を受領して御家人として自立した。また朽木氏は、鎌倉末期に朽木万寿丸が鎌倉殿伺候公卿であった平頼盛(清盛の弟)の子孫池家の庶流池河内家からも所領を譲渡され、所領は全国的に広がった。こうして高島七頭は、有力御家人の仲間入りを果たしている。

越中家と能登家
 近江孫四郎左衛門尉泰信の次男四郎行綱は、四郎の名乗りからも明らかなように惣領家を相続した。弘安九年(1286)の春日行幸で右衛門少尉の正員として供奉しており、有力な在京御家人であったことが分かる。ただ単に左右衛門尉とあるときは左右衛門権少尉を意味しており、行幸では正官と権官はきびしく区別されて正官は行幸の花形であり、続群書類従所収佐々木系図でも「高島嫡流」と記されている。この行幸では、大惣領六角氏の嫡子三郎左衛門尉宗信も左衛門権少尉として列している。行綱の娘は京極家惣領の能登守貞宗に嫁いでいる。佐々木一族の中で閨閥を形成していることがわかる。
 また泰信の長男八郎泰氏は左衛門尉に任官して八郎左衛門尉と名乗り、のちに従五位下越中守に補任されたことで、子孫は越中家と呼ばれ、その惣領は八郎と名乗った。
 ところが高島行綱は、親不孝を理由に母妙語による悔い返しで、所領をいとこ横山三郎左衛門尉頼信(朽木頼綱長男)に奪われてしまった。当時は血のつながりがなくても、菩提を弔う者に所領を譲ることが多くおこなわれている。久我家もそれで根本所領を失ったことがある(拙論)。高島行綱のもうひとりの娘(尼心阿)が、行綱の兄越中権守泰氏の長男越中四郎範綱に嫁いだことで、高島氏惣領の地位は越中家に受け継がれた。それとともに四郎の通称も、泰信から行綱を経て範綱に伝えられた。そのため四郎が高島佐々木氏全体の惣領を示し、八郎がもともとの越中家の惣領の地位を示すことになった。それが越中家に四郎と八郎が混在する理由である。
 ところで、高島佐々木氏の嫡流越中家は高島氏を名乗らないという意見もあるが(『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、二〇〇六年)、当時の佐々木氏は、佐々木六角、佐々木京極など佐々木名字と家名を複合して名乗っており、六角氏も文書では「佐々木三郎」「佐々木判官」「佐々木備中守」などとして、「六角」とは記されない。高島流も同様であり、高島氏であれば「佐々木越中守」、朽木氏であれば「佐々木出羽守」となる。そのため、高島氏嫡流が「高島越中守」と記されず、「佐々木越中守」と記されることをことさら強調して、越中家は高島氏を名乗らなかったと宣伝することは誤解を生むことになる。
 その後の越中家を「尊卑分脈」では、範綱(四郎)―信顕(越中守)―高顕(左衛門尉)―高頼(左衛門尉)―高泰(越中守)と記している。それに対して記録で公方に供奉した越中家の人物は、越中孫四郎―越中四郎左衛門尉―越中守頼泰―越中四郎右衛門尉高泰(のち越中守)である。
 まず越中孫四郎は、越中範綱の子越中守信顕に相当する。暦応二年に和解が成立した尼心阿(範綱妻)と出羽五郎義信(朽木氏)の高島本庄案主職と後一条地頭職をめぐる相論で、範綱妻が落飾していることから、当時すでに範綱は没して嫡子信顕の世代と分かる。孫四郎は信顕で、高島四郎行綱の孫という意味で「孫四郎」だろう。越中四郎左衛門尉は左衛門尉高顕に相当し、また越中守頼泰はその諱字(頼・泰)から、左衛門尉高頼本人か兄弟で、越中四郎右衛門尉高泰(のち越中守)の父と推定できる。
 さらに行綱の子行信の娘が能登三郎に嫁いでいる。この能登三郎は早世した京極貞宗とは年代的に別人であり、泰氏の次男平井五郎師綱(佐々木越中守)の三男能州九郎左衛門尉師信と推定できる。師綱は兄範綱が早く没した後に、越中家を継いで在京御家人本郷隆泰(若狭大飯郡本郷地頭)女子を妻とした。そのため、師綱に始まる平井氏も広い意味で越中家といえる。そして師綱の三男師信も高島行信女子を妻として、高島正嫡の血筋を引き継いだ。師信の子孫は師信が三男だったことから能登三郎を名乗っており、師信も「能登三郎」と誤記されたと考えられる。越中家も能登家も行綱の後継者といえる。こうして高島正嫡は、朽木頼綱の系統に渡らず、行綱の兄泰氏の子孫によって受け継がれることになった。

                             (高頼)
 高島高信┬泰信┬泰氏┬範綱─信顕─高顕─頼泰─高泰
       ├頼綱│   └師綱─師信
       └胤信└行綱┬行信─女子(能登三郎妻)
                └ 女子(京極貞宗妻)

 南北朝期の応安元年(1368)十二月と同二年十一月に、平井師綱の子能登九郎左衛門尉師信が「平井村」の土地を饗庭氏に売却していることから(饗庭昌威氏所蔵文書)、資料によって平井氏が能登殿であると確認できる。この師信の通称「能州九郎左衛門尉」は能登守の子息九郎で左衛門尉という意味であり、師信の父師綱が能登守と分かる。師綱は続群書類従本では「越中守」とされているが、そののち能登守に補任されて別家を立てたのだろう。そうであれば、『園太暦』貞和元年八月(1345)二十九日条の天龍寺供養で足利尊氏の帯刀として随行した「佐々木能登前司」は平井師綱であろう。
 明応六年(1497)七月北船木の若宮神社造営棟札に「地頭殿能登守長綱」と見え、安曇川御厨地頭であったことが分かり、このときまでに拠点を流通の要地北船木に移していたことが分かる。この長綱の父が能登守持秀であることは、「政所賦銘引付」(『室町幕府引付史料集成』上)文明六年(1474)二月条に「佐々木能登守持秀息弥三郎長綱」と見えることで分かる。
 能登殿を京極流とする見方もあるが(西島前掲書『戦国期室町幕府と在地領主』)、京極惣領家である佐々木能登家は京極宗綱の嫡子貞宗で断絶している。また宗綱の女婿宗氏の子息貞氏・高氏(導誉)兄弟があって、そのうち兄貞氏の子息に能登守貞高が見られるが(尊卑分脈)、貞高は坂田郡長岡館(曽祖父満信の旧館)を本拠に長岡氏を名乗り、また犬上郡一円邑を領して(尊卑分脈・続群書類従巻百三十二佐々木系図)、子孫は長岡氏あるいは一円氏を名乗っており、高島七頭の能登家とは別家である。「一円」を法名ととらえると、長岡貞高が犬上郡一円領主であることに気づかない。「一円」が貞高―秀貞―高行の三代いずれにも記されていれば、法名ではなく所領と考える必要があろう。実証歴史学に徹するならば、平井村の所領を売却した能州九郎左衛門尉師信の一族を高島七頭の能登家と見るべきであり、また師信の父師綱が能登守であると判断するべきだろう。このことでも、実証歴史学が実は実証歴史学に徹していないことが分かる。
 能登家惣領は師信の子弾正左衛門尉頼秀が継ぎ、惣領は三郎を通称とし、「秀」を通字に師信─頼秀─満秀─持秀と続いた。

 師信┬頼秀─満秀─持秀─長綱─高勝─定持─高持
    └信重

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
西島先生の著書もすばらしいものでしたし、高島流と京極流の繋がりに注目してましたが、先生のおかげで能登家の整理がすっきりいたしました。ただ、佐々木能登家=平井なのか、高島流平井の別流も相当あるのかも知りたいところですね。例えば、相国寺供養参仕人にみえる佐々木越中守頼泰や六角氏重鎮平井定武などの系譜上の位置も興味があります。
佐々木寿
2010/10/22 00:54
@平井氏も越中守を名乗り、広い意味で越中家です。高島流平井氏初代は越中守師綱は、兄範綱没後に越中家を継ぎ、在京御家人本郷隆泰(若狭大飯郡本郷地頭)女子を妻としました。同様のことは大原氏にもいえ、大原氏(備中家)庶流白井氏も大原備中守を名乗ります。

また平井氏は高島流だけでも数流あり、初代能登守師綱の長男時綱(五郎)、次男師泰(六郎)、師信(九郎)です。末子が下坂氏の養子重秀です。続群書類従巻132では五郎時綱の子孫を惣領とし、巻134平井系図では時綱の子に越中守頼泰を記します。しかし平井系図は能登満秀の子長綱を、越中守頼泰の子とするなど混乱があり、頼泰をそのまま時綱の子とするのには疑問があります。

越中家の系図は「尊卑分脈」では、範綱(四郎)―信顕(越中守)―高顕(左衛門尉)―高頼(左衛門尉)―高泰(越中守)です。

記録で公方に供奉した越中家の人物は、越中孫四郎―越中四郎左衛門尉―越中守頼泰―越中四郎右衛門尉高泰(のち越中守)です。

越中孫四郎は、越中範綱の子越中守信顕に相当します。暦応二年に和解が成立した尼心阿(範綱妻)と出羽五郎義信(朽木氏)の高島本庄案主職と後一条地頭職をめぐる相論で、範綱妻が落飾していることから、当時すでに範綱は没して嫡子信顕の代と分かります。孫四郎は信顕で、高島四郎行綱の孫という意味で「孫四郎」でしょう。

越中四郎左衛門尉は左衛門尉高顕に相当し、越中守頼泰はその諱字(頼・泰)から、左衛門尉高頼本人か兄弟で、越中四郎右衛門尉高泰(のち越中守)の父でしょう。

A六角氏の老臣平井加賀守定武は、平井の本主愛智流平井氏で、近江守護佐々木定綱の女婿平井六郎家政(愛智家次の子)の子息定景(佐々木宮神主)の子孫と考えられます。
佐々木哲
2010/10/25 16:35
いつもご丁寧に解説していただいて恐縮いたします。
確かに長綱の父では年代が離れてしまいますね。高泰の父であれば事跡的にも収まりがいいですね。
平井定武がどちらの流れなのかずっと疑問でした。ありがとうございます。今後の記事も楽しみにしています。
佐々木寿
2010/10/25 20:33
この内容を本文にも書き加えておきました。質問に答えると内容が充実します。
佐々木哲
2010/10/27 11:51
ところで、高島佐々木氏の嫡流越中家は高島氏を名乗らないという意見もありますが(『戦国期室町幕府と在地領主』八木書店、二〇〇六年)、当時の佐々木氏は、佐々木六角、佐々木京極など佐々木名字と家名を複合して名乗っており、六角氏も文書では「佐々木三郎」「佐々木判官」「佐々木備中守」などとして、「六角」とは記されません。では六角氏は「六角」とは名乗らなかったかというと、そうではなく「六角殿」と呼ばれます。

高島流も同様であり、高島氏であれば「佐々木越中守」、朽木氏であれば「佐々木出羽守」です。そのため、高島氏嫡流が「高島越中守」と記されたことが一例しかなく、「佐々木越中守」と記されることをことさら強調して、越中家は高島氏を名乗らなかったと宣伝することは誤解を生むことになります。

実際にWikipediaの「細川幽斎」の項目では、「高島(嶋)は奉公衆などを勤めた庶流家が称し、室町幕府外様衆の嫡流家は佐々木越中守を代々名乗っていることから、この嫡流を佐々木越中氏・越中氏ともいう」と記しています。

高島氏の嫡流が「佐々木越中守」と名乗ったという理解が正しいでしょう。庶流のみが高島氏と名乗ったというのは誤解です。
佐々木哲
2010/11/15 13:32

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