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zoom RSS 能登畠山氏と佐々木氏

<<   作成日時 : 2010/08/02 23:23   >>

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 能登にも佐々木氏が多く分布しているが、能登畠山氏は佐々木六角氏と重縁の関係にあり、義綱の奉行人馬淵綱重(彦三郎)は近江六角氏の重臣馬淵氏の出身と考えられる。また六角義賢(承禎)も晩年の一時期を能登で過ごし、自画像を遺している(裏本友之氏所蔵文書)。この佐々木六角氏と能登畠山氏を結ぶのが、羽衣伝説で有名な近江国余呉荘であった。
 三河松平氏も、松平益親(泰親息、式部丞)が日野裏松家代官として近江国菅浦に派遣され、菅浦住民と対立した際には、三河から援軍が来たと菅浦文書にある。こうして近江武士が三河に移る素地ができた。
 近江には多くの荘園があり、しかも領有関係が錯綜していたため、近江武士はさまざまな勢力と関係を持つようになり、各地に広がる素地があったと考えられる。

京極導誉と余呉荘領家金蓮寺
 近江国余呉荘は南北朝期から荘園として見え、領家は大炊御門家であった。大炊御門家は藤原道長の孫関白藤原師実の子孫であり、近衛大将を経て太政大臣に至る清華家のひとつという公家の名門である。
 文和元年(1352)将軍足利義詮は、余呉荘が要害の地であったため袖判下文で佐々木導誉を地頭職に補任した(佐々木文書)。余呉荘は北国街道の要衝であり、さらに飯浦まで含むことから琵琶湖を経由して京へ通じて水運でも要所だったからである。永和三年(1377)の散位成顕契約状案によると、余呉荘領家職は大炊御門家が所持していたが、下地(領地)の支配をめぐり領家と地頭の間で訴訟があり、余呉荘下郷を領家の取り分にする下地中分で和与(和与中分)が成立した。
 さらに大炊御門家は自らの取り分を守るためにその一部を、導誉も信仰していた京都金蓮寺(四条道場)に寄進した。これで、導誉は領家分を押領できなくなった。
 大炊御門家と時宗の関係は一遍以来のものであり、『一遍聖絵』によれば、大炊御門二品禅門(正二位権中納言冬輔)が一遍と結縁し、さらに『一遍聖絵』の絵師円伊に同定される園城寺の円伊僧正が大炊御門家の庶流鷹司家の出身である。
 また導誉と時宗の関係は、隠岐佐々木氏と一遍の交流に始まる。隠岐佐々木時清の所領のひとつ信濃国大井荘小田切郷は、時清の母大井氏が地頭であったが、一遍の念仏踊の始行の地となり、時清母は一遍と結縁して極楽往生を遂げた。時清の一族はその後も時衆と深く関わっている。このことで、導誉と時宗の関係も見えてくる。

       ┌満信─宗氏
       │     ┠──高氏(導誉)
 京極氏信┴宗綱┬女子
           └女子
             ┠──清高
     隠岐時清─宗清

 時清の嫡子宗清は評定衆佐々木宗綱(京極家惣領)の女婿であり、宗清は評定衆佐々木宗氏(京極家庶流佐渡家)とは相婿の関係にあった。この宗氏の子が導誉(京極高氏)であり、導誉は宗清の甥に当たる。
 導誉は、足利義詮によって与えられた京都四条京極の土地を五日後には金蓮寺に寄進しており、さらに翌二年七月には近江国甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した。足利尊氏はこれらの寄進状の袖に花押を据えて保証している。これが、延文元年八月二十三日付け、および同二年七月八日付けの足利尊氏袖判佐々木導誉寄進状(金蓮寺文書)である。さらに同二年七月八日に、導誉は隠居地甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した。甲良荘内には道場が建てられ、導誉も出入りしていたと思われる。佐々木一族は金蓮寺の発展に大いに寄与していた。
 また『菟玖波集』巻五と巻十六で導誉と並んでいる底阿上人は渡船上人と考えられ、両者は親しく交流していた可能性がある。また自空上人は、導誉の従兄弟隠岐守護佐々木清高の子息重清(検非違使)の後身と考えられる。
従兄弟佐々木清高滅亡、出雲守護職獲得により、導誉は自らが隠岐佐々木氏の後継者であると強く意識していたのだろう。そのことが時宗保護につながっていたと考えられる。

近江余呉荘領家と京極氏
 導誉の孫京極高詮は、応永元年(1396)足利義満御判御教書により余呉荘地頭職を安堵され(佐々木文書)、さらに二年後の同三年(1398)に余呉荘内菅並・八戸を下坂豊前守に恩給として与えている(下坂文書)。
 下坂氏は、近江坂田郡下坂郷の国人領主であり、清和源氏頼信流という系譜伝承をもつ。下坂重茂は建武三年(1336)七月足利直義から感状を受けており、早い時期から足利氏与党であったことが知られる。さらに観応三年(1352)に足利義詮から感状を受けたが、その中で近江守護佐々木秀綱の注進で八幡での忠節が知らされたことが記されており、秀綱のときに京極氏の指揮下に入ったことが分かる。近江守護は六角氏であったが、近江北郡の軍事指揮権は京極氏が有していたのである。重茂は実子茂俊がいたにもかかわらず、高島越中守(平井師綱)の子息重秀を婿養子に迎えて下坂氏惣領とし、北近江での地歩を固めている。交通の要害余呉荘内に所領を得たことは、下坂氏の地位の高さを示していよう。
 そのうち菅並は、もともと金蓮寺が領家職を有していたが、このときは地蔵院が所有していた。そのことは永和五年(1379)金蓮寺の祖光が寺領の半分を山城地蔵院に譲渡したことで分かる。このように金蓮寺が寺領の一部を地蔵院に寄進したのは、高詮の時代には金蓮寺との関係も薄れ、もはや金蓮寺の名では領家分を保護できなかったからである。金蓮寺は寺領の権利を少しでも守るため、その半分を管領細川頼之建立の西山地蔵院に寄進したのである。時の実力者細川頼之が建立した地蔵院に寄進すれば、京極氏も簡単には押領できないだろうと考えたのである。こうして領家と地頭京極氏の抗争は、大炊御門家から金蓮寺、さらに地蔵院に引き継がれた。
 応永二十四年(1417)幕府は余呉荘内丹生・菅並を山城地蔵院に安堵している。このことで、京極氏と領家の対立が再開されたことが分かる。高詮の孫京極持高(吉童子丸)の時代には、地蔵院の威光も届かなかったようで、京極氏被官が地蔵院領を押領したのである

 高氏(導誉)┬秀綱
        ├秀宗
        └高秀―高詮―高光―持高(吉童子)

 京極氏被官人の地蔵院領押領に対して幕府は、近江守護佐々木六角満綱に押領排除命令の施行を命じ、さらに満綱は施行を楢崎太郎左衛門入道に命じている。近江守護は六角氏であり、京極氏は近江北郡の軍事指揮権のみを有していたのである。
 楢崎氏は近江国甲良荘内の楢崎に本拠を持ち、六角氏の近江守護代・郡守護代を勤める家柄であった。地頭職は京極氏が保持していたが、北郡の使節遵行権は近江守護六角氏が有したため排除命令の施行を命じられ、楢崎氏が施行したのである。
 そして、京極氏の余呉荘支配は六代将軍足利義教の恐怖政治のときに断絶し、永享七年(1435)までに能登守護畠山満慶が余呉荘地頭職を獲得していた。

余呉荘をめぐる京極氏と能登畠山氏
 永享七年(1435)までに能登守護畠山満慶が、余呉荘地頭職を拝領していたことは、満慶が丹生菅並両村の荘園押領で地蔵院から訴えられていることで分かる(地蔵院文書)。また押領の事実から能登畠山氏による支配が継続的だったことも分かる。足利義教の恐怖政治の時代に、余呉荘の支配は京極氏から能登畠山氏に移ったのだろう。
 ところが、応仁・文明の乱のあった文明年間(1469〜87)余呉荘は将軍足利義政によって比叡山延暦寺に寄進された(佐々木文書)。応仁・文明の乱の過程で大炊御門家・金蓮寺・地蔵院が衰退して荘園を維持できなくなったのだろう。こうして余呉荘の領家は、比叡山延暦寺に移った。
 また、この文書が京極・尼子氏伝来文書の佐々木文書に収められていることから、京極氏が地頭に一時的に復帰していと分かる。応仁・文明の乱で能登畠山氏が西軍の一員として反幕府的行動をとっていたために、足利義政によって余呉荘は能登畠山氏から取り上げられ、京極氏に与えられたのだろう。あるいは余呉荘をめぐり対立する京極持清が東幕府の実力者であったため、能登畠山氏は西軍に走ったと考えられる。
 しかし、こののち能登畠山氏は余呉荘地頭職を復活させた。「松下集」によれば、招月庵正広は文明十二年(1480)七月末に能登畠山義統に招かれて八月初めに出立し、「十日、江州余呉庄と云所に舟よりあかりて、平新左衛門尉光知所にて一続ありしに」および「十三日、左馬助義元家にて一座ありし中に」とあるように、途中の近江余呉荘の畠山氏重臣平光知、および畠山義元邸に立ち寄り歌会を催している。
 さらに「永光寺年代記」に「(延徳)二庚戊、能州へ左馬亮殿御下向」とあり、義元が少なくとも文明十二年(1480)から延徳二年(1490)までの十年間ほど余呉荘に居住していたことが確認できる。
 ところで『江北記』の「(京極氏)一乱初刻御被官参人衆事」に「東蔵(畠山殿、文亀二年より)」とある。畠山氏旧臣の東蔵が文亀二年(1502)から浅井氏に仕えていたという。永正年間(1504〜21)に東蔵坊春将は余呉荘惣政所として、現地で実質的支配権を有しており、浅井氏に与することで京極氏に対抗し、余呉荘の実質支配をすすめたと考えられる。
 このように余呉荘をめぐる利害関係を見てくると、戦国期に能登畠山氏が近江守護六角氏と縁戚関係を築いたのは、京極氏と対抗して余呉荘の権益を守るためと考えられる。六角定頼女が畠山義総の嫡子義続に嫁ぎ、また義総女が六角義賢(定頼息)に嫁いで縁戚関係を築き、さらに義賢女が畠山義綱(義続嫡子)に嫁いで、六角氏と能登畠山氏は重縁を結んだ。義綱の奉行人馬淵綱重は、義綱室の女佐の臣から奉行人になったと考えられる。
 
      六角定頼女 ┌─義明─(養子)義春
           ┠─┴義綱
 畠山義総─┬義続   ┠──義慶(義隆)──義春(春王丸)
        └女子  ┌女子
           ┠─┴義治(義弼)
 六角定頼──義賢
         (承禎)

 能登畠山氏と六角氏の関係は、一向一揆に苦しむ北陸道大名が、本願寺と縁戚関係にある六角氏と閨閥を築くことで、一向一揆対策としたとも考えられるが、余呉荘支配を有利に進めるために、六角氏と結んだとも考えられる。余呉荘は能登と京都を結ぶ交通の要所であり、能登畠山氏にとっては嫡子が居住するほど重要な拠点であった。
 その後、権力強化を進めていた畠山義綱は永禄九年の政変(1566)で能登を追放され、嫡子義慶(義隆)が長続連・綱連父子に奉じられ傀儡政権となった。義綱は六角氏を頼り近江坂本に走り、能登畠山氏再興運動を展開した。また義綱の弟義明は上杉謙信に保護されて上条上杉氏の養子になり、上条政繁と名乗った。この時期は河内畠山氏(管領家)でも、畠山政頼・遊佐新次郎・安見宗房(遊佐美作守)が近江に走っていた。両畠山氏が近江に亡命していたのである。
 能登畠山義綱らは、六角氏の支援と上杉謙信・神保長職らの連携により、永禄十一年(1568)に能登に侵攻したが、失敗した。その後も能登復帰のために画策しており、天正の織田信長包囲網では、六角義堯が上杉謙信を頼っていた長景連と連絡を取って、上杉謙信と連携している。
 能登では義慶が病没し、遊佐氏と対立した長続連父子は織田信長に誼を通じたが、天正五年(1577)には上杉謙信に七尾城を攻められて滅亡した。七尾城には義慶室三条氏と嫡子春王丸があり(歴代古案)、春王丸は上杉謙信の養子になって「義春」と名乗り、幕府高家畠山家の祖となる。義春と上条政繁(義明)は混同されるが、これはどちらも上杉謙信の養子になったためである。『歴代古案』所収の(天正五年)十二月十八日付北条安芸守(高広)宛上杉謙信書状によって、義慶が義隆と改名し、その義隆の遺児を上杉謙信が養子にしたことが分かる。幕府高家畠山氏の祖義春は義慶の遺児春王丸(義春)だろう。
 義綱は、文禄二年(1593)十二月二十一日に余呉荘で没していることから、能登は失ったものの、豊臣政権のもと余呉荘支配を復活させていたことが分かる。上条政繁(義明)も上杉景勝の許を去って上洛して畠山義明と名乗り、幕府旗本畠山・上杉家の祖となっている。

【参考文献】
青木啓明「近江国余呉荘の調査をめぐって(東京学芸大学による余呉
 荘故地現地調査の報告)」つぶて2号、1999年。
片岡樹裏人『七尾城の歴史』七尾城の歴史刊行会、1968年。
東四柳史明「能登畠山氏家督についての再検討」国学院雑誌73巻7
 号、1972年頁。
東四柳史明「畠山義綱考」国史学88号、1972年。
宮島敬一『戦国期社会の形成と展開』吉川弘文館、1996年。
米原正義『戦国武士と文芸の研究』おうふう、1976年。
東京学芸大学日本中世史ゼミ「余呉荘現地調査」(青木啓明「近江国
 余呉荘の調査をめぐって」つぶて2号、1999年)
 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/3657/yogo/yogoindex.html/
『七尾市史』。
『新修七尾市史』

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
戦国大名がたった一つの荘園支配にこだわったこの事例も一般的な戦国大名の見方を変えてくれるものだと思います。両氏の重縁にさらに領地問題が絡んでいたとは、ほんと深いですね。先生にはただただ感謝するばかりです。
佐々木寿
2010/10/01 01:06
そうですね。余呉荘は交通の要所ですが、ひとつの荘園です。しかし能登畠山氏はまさに「一所懸命」だったのです。

『一遍聖絵』研究から余呉荘の考察を始めたのですが、京極氏と余呉荘の関係だけではなく、六角氏と能登畠山氏の関係まで探究できたことは大きな収穫でした。これで六角氏と能登畠山氏の重縁が一向一揆対策だけではなく、近江余呉荘の権益の保持のためと分かったからです。

本当に一般的な戦国大名のイメージが大きく変わります。これだから実証歴史学はやめられません。
佐々木哲
2010/10/05 02:06
 こんにちは
お久しぶりです。
 自分は別なブログでコメントさせて頂いたものです。
 前記事に続いて読ませて頂きました。
近江の荘園経営の重要性については難しくて理解出来ませんでした。本当に素人でお恥ずかしい。
 ただ上杉(長尾)家との関係性は理解出来ました。
しかし、織田信長→加賀前田家と下った長一族の子孫が、自分達の都合の良いように能登七尾城時代を伝えているらしく、能登畠山氏に尽力して来た謙信公が"能登畠山氏を滅ぼした"と、悪く言われるのが辛いです。
ちなみに、謙信公は春王丸君も義隆夫人と共に保護しているはずです。
♯義続氏次男:上条政繁(謙信の養子(猶子))→上条宜順
♯春王丸:義隆(義慶)の子→畠山義春(謙信の養子→政繁の養子)

だと思うのですが。
 残されている謙信の書状に「三条夫人(義隆氏の室)の連れ子は、私が養子(引き取り)にして養育します」というのがあると思うのですが。
いかがでしょうか?

 それではお邪魔しました。失礼します。
ペンネーム忘れました
2010/10/25 11:00
記事「織田信長包囲網の形成」でコメント頂いた歴史さんですね。

義隆の子春王丸と上杉義春(義綱弟)を同一人物とする説がありますが、記事にも書きましたように別人と考えられます。七尾城落城以前に上杉方にあって、景勝の妹との間に子息景広がいたようです。

今後も資料に基づきながら研究していきますから、訂正図べきところがあれば訂正し、新しい発見がありましたらブログで発表していきます。
佐々木哲
2010/10/25 13:31
お久しぶりです。
お礼が遅れて済みません。
ご返事ありがとうございました。
歴史は勉強をし始めたばかりの素人なのですが、少しずつでも勉強して歴史が理解出来るようになりたいと思っています。
今回もご回答ありがとうございました。
確かな資料を素にした、詳しい方からの解説は大変ありがたいです。
それでは、何度もご質問して済みませんでした。
有り難うございました。失礼します。
歴史(ご指摘有り難うございました)
2010/12/11 13:16
お久しぶりでございます<(_ _)>
他の所でペンネームを間違えてしまいました。
上条政繁の、上条家を継ぐ前の名前が『義明』と知り、初めて その名前を知り感動しました。

ちゃんとした歴史資料による本当の歴史は、大変 興味深いです。

この度の記事も、興味深く読ませて頂きました。

ありがとうございました。

歴史
2016/11/20 07:51

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