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zoom RSS オイディプス王―悲劇の本質と運命愛

<<   作成日時 : 2010/05/01 04:03   >>

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 だれもが幸福になろうと行動しているのに、結果として不幸になってしまう。だれもが思う運命の理不尽さだ。ではなぜ、そんな理不尽なことが起こるのだろう。悲劇の本質を探究すると、悲劇から抜け出す方法も見つかる。そこで、まずギリシア悲劇の傑作であるオイディプス王の話からはじめよう。
 オイディプスが生まれると、父王はかつて受けた「王子が生まれたならおまえを殺し、妃との間に子をなす」という神託を信じて、王子を殺すよう命じた。しかし従者は山中にいた羊飼いに男児を渡し、遠くへ連れ去るように頼んだ。当時隣国の国王夫妻は子宝に恵まれなかったため、羊飼いは男児を二人に渡した。王子はオイディプスと名付けられて立派に成長したが、「王の実子ではない」という噂を聞き、神に伺いを立てたところ、かつて父王が受けた神託と同じ内容だった。オイディプスは自分と養父のことと思い、国を離れることにした。そのころ故国では怪物スフィンクスが出現したため、父王は神託を得ようと出かけたが、途中オイディプスと出会い、行き違いからオイディプスによって殺されてしまった。父王は名乗らなかったため、オイディプスは自分が父王を殺したとは思わなかった。そののちオイディプスは怪物スフィンクスの謎がけを解き退治したことで、摂政は怪物を倒した若者に先王のあとを継がせ、父王の妃をめあわせた。それは自分の実母であった。二人の間には子どもも生まれた。そして王座に就いたオイディプスは自分の出自を知って破滅する。
 わたしは、オイディプス王の悲劇は「幸福になろうとしてかえって不幸になる」という悲劇の本質を顕していると思う。だれも不幸になろうとは思っていない。幸せになろうと思っている。それなのに、良かれと思ってしたことで不幸になってしまう。そのことを、演劇という形で見せたのが、ギリシア悲劇の価値だと思う。では、どうすればいいのだろうか? それが哲学の仕事だろう。フロイトのように、母を得ようとして父と対立する息子の葛藤という物語にしてしまうと、悲劇としては三文芝居になってしまうように思える。
 好きだという気持ちが強すぎて「好き避け」してしまうことがあるけど、避けてしまっていることで相手の男性は嫌われていると思って、彼女を避けるようになる。たとえ好きという気持ちが伝わっている相手でも、いつまでも激しく好き避けされるとうんざりしてしまう。好きという気持ちは純粋なのに、そのことでかえって相手に嫌われてしまうのは、オイディプス王の悲劇に似ている。
 科学も同じだ。ひとつの方法で突っ走ると、必ず壁にぶつかる。わたしたちが対象にしている具体的なものは、一面的なものではなく、ほかのさまざまな物とつながっているからだ。だからひとつの面だけを追い求めれば、ほかの面が壁となって立ち現れてくる。だから科学でも、ひとつの理論で分かる範囲の科学を通常科学という。しかし、それまで誤差として切り捨ててきたものが壁として立ち現れる。誤差を誤差として無視できなくなるんだ。だから、それ以上科学が発展するためには、また新たな基礎理論を見つけるしかない。
 でも、従来の理論は多くの業績を残しており、「無難な判断」によるかぎり、新しい理論は認められない。しかも大きい集団ほど、「無難な判断」に落ち着く。大きい集団ならさまざまな意見があるから変りやすいと思うかもしれないけど、人数が多いほど色々な意見があるほど、結論が出なくて、結局は無難な意見に集約されるもの。誰もがよくなりたいと思っているからこそ、危険は冒したくない。でも、そのことでかえってますます泥沼状態に陥る。慎重さがますます事態を悪くする。
 実は、新しい基礎理論は別の側面を探究するものとして、すでに現れているものだ。ほかの側面が壁として立ちはだかっているということは、それが現在の本質になっているということだから、その側面を探究している理論もすでにあることが多い。しかもすでにある理論ならすでに業績を残しているから、新しい理論として受け入れられやすい。アインシュタインの相対性理論も、最初から宇宙物理学の理論として認められたのではなく、最初は電磁力学という分野の理論だった。多くの場合、科学はこのように発展する。だから科学は決して直線的に進歩しているわけではない。壁が現れたとき、それを飛躍の好機ととらえることが大切だ。しかも、すでにあるものを使う。
 オイディプス王の悲劇を避けるには、立ちはだかる壁を好機に変えることだと分かる。自分が「好き避け」していると気づいたときは、自分でもこのままではダメだと気づいたときなのだから、それを好機だと思えばいい。恥ずかしくて「好き」と言えずに避けて、相手の男性を混乱させているのだから、無理して「好き」とは言わず、避けてしまったことを謝ればいい。「好き」とは言えなくても、謝ることはできるのでは? 「好き」と言わなければならないと思っているから言えないのであり、別の言葉なら言えるだろう。「好き避け」をして迷惑を掛けたということを利用して、そのことを謝るんだ。それまであなたを疑っていた彼も、逆になんて素直な女性だと思って見直してくれる。すでにあるものを使うというのは、こういうことである。
 私たちは物事をひとつの側面からだけ見ていることが多い。そのため、良かれと思ってしたことで、かえって事態を悪くしてしまう。ひとは自分に都合のいいことだけを拡大してしまうけど、世界は割り切れないから必ず別の側面が立ち現れる。これが、「良かれと思ってしたことで不幸になってしまう」悲劇の本質だ。だから、そのときはその壁を、自分が変れる好機だと思おう。これまでの自分の限界が見えて、今が自分が変れる好機だと思えれば、かえって壁に感謝したくなる。これが運命愛とも呼ばれる考え方だ。 

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