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zoom RSS 南北朝期の越後佐々木加地氏の系譜

<<   作成日時 : 2010/03/08 01:55   >>

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 わたしが最近興味をもっているのが、越後佐々木加地氏と隠岐佐々木氏だ。佐々木加地氏に興味をもったのは、鮭延秀綱(愛綱)の子孫大沼氏の系図をみてからである。大沼系図は、ネットで見られる佐々木六角満綱流鯰江氏出身とする鮭延系図とは異なり、佐々木氏の中祖秀義の子真綱から始まり、吉田氏や加地氏、六角氏の人物が登場しながら愛綱に至るというものである。吉田氏が登場するのは、暦応四年(1341)七月十三日の天竜寺供養で調度役を勤めた佐々木源三左衛門尉秀長を『太平記』が「吉田源左衛門尉」としたことが原因であろう。しかし『師守記』康永三年(1344)五月十七日条に記載の熊野参詣供奉人でも「吉田源三左衛門尉」と見えることを考えれば、秀長を鎌倉中期の吉田泰秀の子につなげる系図に誤りがあるのかもしれない。そこで尊卑分脈ではなく沙沙貴神社所蔵佐々木系図を見ると、秀長の甥長秀の母を佐々木加地筑前守女としている。尊卑分脈では長秀の母を隠岐佐々木流の富田義泰の女子としており、吉田氏が出雲吉田郷を領していることを考えれば、吉田氏の家督の母が出雲佐々木氏であることは自然である。佐々木筑前守女を母とするのは吉田源三左衛門尉秀長と考えられる。これで系図伝承と『師守記』『太平記』との整合性が得られる。吉田秀長は外戚佐々木加地氏(小島氏)の養子になったのだろう。大沼氏の系図は源三左衛門尉秀長を記すために、その実家吉田氏の系譜を混入させたものと分かる。このように養子先の系譜に実家の系譜を混入させる例は山崎氏系図などにも見られ、決して珍しいものではない。
 大沼系図では、源三左衛門尉秀長の子に光綱が記されたのち、加地氏と六角氏の人物が登場する。この光綱は、鮭延系図で六角満綱と混同される人物だろう。加地氏の人物は鎌倉・室町期の秀忠(忠秀)・貞綱・近江四郎・氏綱・景綱であり、六角氏の人物は鎌倉期の信綱・頼綱・泰綱である。このように大きく混乱する大沼氏系図ではあるが、大沼氏の系図に登場する人物の実家や養子先であろう吉田氏や六角氏の人物を注意深く取り除くことで、これまで不明とされていた南北朝期の加地氏の人物が浮かび上がってくる。もちろん六角氏の人物と実名が重なる人物もいる可能性があり、取り除くにも慎重さが必要であろう。資料に基づきながら構成することがのぞまれる。越後加地氏の系譜は、鎌倉期と戦国期の間が断絶していて不明なことが多いだけにとても興味をそそられる。
 また大沼氏初代真綱の事績は、承久の乱で京方であった佐々木広綱(山城守)の事績と重なるが、これは織豊期の六角義秀―実綱―秀綱という八幡山秀綱の系譜が混入したからだと考えられる。綱秋が織田信長に近江を追われると毛利氏を頼り、毛利元綱と名乗ったという。六角氏では義堯が足利義昭を擁して毛利氏を頼り鞆幕府を立てた。この六角義堯伝承が、八幡山秀綱の系譜伝承とともに大沼氏に伝えられたのだろう。江戸後期に系図作成者はまず鮭延愛綱(秀綱)と八幡山秀綱を混同し、さらに六角義実―義秀―義郷の存在を知らなかったか否定したがために、義秀を佐々木源三秀義と解釈したのだろう。
 実際に大沼半左衛門(半三郎)家と同族化した佐々木与右衛門(与三郎)家は八幡山秀綱の子孫と推定され、鮭延氏が六角流鯰江氏出身とされるのも佐々木与右衛門家の系譜伝承が混入した結果と考えられる。
 隠岐佐々木氏の系譜については、『一遍聖絵』の研究を通して、踊念仏ははじめて行なわれたという小田切の里の位置をめぐる議論の中で、信濃大井荘小田切郷地頭が佐々木宗清と分かったことによる。これまでの佐々木氏研究では佐々木氏と信濃の関係はあまり注目されず、長野県松本市島立の浄土真宗寺院正行寺の開基了智上人が佐々木高綱であるという伝承が知られていたのみであった。しかし小田切郷地頭に注目することで、浄土教系寺院の佐々木盛綱・高綱開基伝承に隠岐佐々木氏が大きく関っていたことが知られるだけではなく、その閨閥関係から安達泰盛や平頼綱との政治的関係が見えてくる。このような理由によって、最近は佐々木加地氏と隠岐佐々木氏にとても興味をもっている。
 今日は佐々木加地氏の動向を見てみよう。盛綱流佐々木氏では、盛綱の嫡子兵衛太郎信実が源頼朝の面前で工藤祐経を傷つけたことから次男左衛門尉盛季が跡を継いでいたが比叡山堂衆との抗争で戦傷を負い、三男左兵衛尉盛則が在京御家人として活躍していた。しかし承久の乱では越後加地荘に逼塞していた信実が越後守護北条朝時の副将となり備前守護を獲得し、京方であった盛則は没落した。佐々木加地氏は敗者を御内人として復活させた一例といえる。こうして加地氏は備前守護家であるとともに、越後守護北条氏の守護代となった。
 まず備前守護となったのは信実の三男時秀(東郷氏)であり、信実がのちに次男実秀(大友二郎左兵衛尉)に相続させようとしたところ、幕府はその所領を没収してしまった。実秀は幕府に所領回復を愁訴している。そのあいだ大江広元の子孫長井泰重(因幡前司・備後守護)が備前守護を兼務した。備前守護職は実秀の孫長綱(小島太郎左衛門尉、筑前守)が東郷胤時(時秀の子左衛門尉)の女婿になることで、小島実綱・長綱父子に受け継がれて佐々木加地氏が回復した。こののち備前守護佐々木加地氏(小島氏)は太郎左衛門を通称とし、東郷胤時の子胤泰(十郎左衛門尉)は飽浦氏を名乗っている。

 加地信実┬秀忠(磯部)
       ├実秀─実綱(小島)┬長綱─時綱─時秀─師秀
       │             └頼実─顕綱─顕信─貞信
       ├時秀─胤時(東郷)─胤泰(飽浦)
       ├信重─資実
       ├義綱(倉田)─章綱─有綱
       ├時基(磯部)
       ├氏綱┬景綱─宗綱─景綱
       └信朝├経綱─宗経
            └時綱
        
 越後守護代で確認できるのが信実の五男義綱(倉田権五郎)の孫佐々木加地有綱(筑後守)である(三浦和田氏文書)。また信実の七男氏綱(七郎左衛門尉)は鎌倉で御家人に列して、佐々木加地氏の本流となっていた。その子孫は大宰権少弐など顕官に補任されている。
 元弘の変では、加地時秀(小島時綱の子太郎左衛門尉)、隠岐清高(隠岐前司)、大原時重(備中前司)、および京極氏の佐々木善観(近江前司)・導誉(佐渡大夫判官入道)兄弟ら佐々木一族は上京し、善観・導誉兄弟は近江瀬田橋を警固、六角時信(近江守護)、加地時秀、隠岐清高、大原時重らは比叡山攻めの将になっている(光明寺残篇)。また、『太平記』巻七「赤松勢の蜂起」に討伐軍として見える備前守護加地源二郎左衛門尉は、加地時秀の近親者であろう。しかし、『太平記』巻十四「朝敵(足利尊氏)征討軍の下向」では、新田義貞率いる征討軍に佐々木塩冶判官高貞とともに佐々木加地源太左衛門尉(時秀)が見えることから、どこかの時点で時秀は宮方に投降したのだろう。
 南北朝期になると佐々木加地氏の本国越後では、七郎左衛門尉氏綱の曾孫佐々木加地景綱(近江権守)が北朝方の越後国大将になり、また佐々木忠清・忠枝父子が新田義貞に属し、一井貞政が戦没すると忠枝が越後守護代になった。この佐々木忠枝を越後守護代にすると述べた南保重貞宛新田義貞書状が、義貞最後の文書である。十郎左衛門尉忠清・弥三郎忠枝父子は、「忠」の通字と新田氏との関係から、信実の次男実秀(大友二郎左兵衛尉)の子孫越後加地氏ではなく、信実の長男秀忠(太郎左衛門尉)の子孫上野磯部氏と考えられる。
 佐々木近江権守景綱が北朝方の越後国大将であったことは、建武三〜五年(1336-8)に発給された色部高長軍忠状案(色部文書)で知ることができ、建武三年十一月十八日付羽黒義成軍忠状写(中条家文書)では「大将軍佐々木加地近江権守景綱」と記されている。
 景綱が上洛のあいだは、佐々木加地宗敦(越前権守)が国大将になっているが(色部文書)、宗敦は時宗の一字書出を名乗っていること、またすでに越前権守を受領していることから、景綱の有力近親者であったと考えられる。『梅松論』建武三年五月足利尊氏が上洛に際し備前小島に着岸したとき、加地越前守が仮御所を作って奉仕しているが、この越前守と越前権守宗敦は同一人物であろう。越後国大将を任されるにふさわしい経歴であり、景綱の一世代前と考えられる。
 建武五年(1338)三月日付色部高長軍忠状案(色部文書)では、色部高長が佐々木七郎右衛門尉時経・太宰五郎宗綱に属して加地荘桜曽弥で戦ったことを賞されており、景綱の一族に時経・宗綱がいたことが分かる。時経と宗綱は仮名が異なるものの続群書類従や尊卑分脈に見える。とくに宗綱は尊卑分脈や続群書類従本では大宰権少弐と伝わるが、その仮名「太宰五郎」は大宰府官人の子息五郎という意味であり、父が大宰権少弐であったことが分かる。もちろん本人もそののち大宰権少弐に任官した可能性がある。宗綱(太宰五郎)・時経(七郎左衛門尉)を仮名の順に並べることができ兄弟と考えられるが、時経の通称「七郎左衛門尉」は、初代氏綱の通称「七郎左衛門尉」と共通であり、しかも排行名では五郎・七郎の順だが、色部高長軍忠状では七郎(時経)・五郎(宗綱)の順で記しており、尊卑分脈でも時経を氏綱の末子としている。そうであれば時経が叔父で、宗綱が甥となる。これは尊卑分脈や群書類従本と矛盾しない。尊卑分脈では景綱の父を宗綱とする。
 宗綱は、備前守護佐々木加地左衛門尉時綱(小島氏)の後に備前守護になっていた可能性があり、尊卑分脈では太郎左衛門尉時秀の兄弟に左衛門尉宗綱(母氏信女)を記している。この「母氏信女」に注目して、氏信の女子の項を見ると「四郎左衛門尉宗経母」とある。さらに京極氏信の女婿武石宗胤(四郎左衛門尉)が永仁四年(1296年)に造立した元箱根宝篋印塔に結縁した人物に及月光源氏女と源宗経がある。源氏女が宗胤妻で、宗経は氏信女(宗胤妻の姉妹)を母にする佐々木加地宗経だろう。また応長元年(1311)造立の仏岩宝篋印塔の銘には「肥前太守」「息女并日光峯宮」「近江禅閤」があり、肥前守は宗胤のことと考えられ、また近江禅閤は佐々木氏の有力者で出家していた人物と思われる。この金石文から、四郎左衛門尉宗経の母が京極氏信女であることが確認できるとともに、武石氏との関係から下総に所領をもっていたとも推測できる。
 また越後の資料である嘉元二年(1304)七月十八日付左衛門尉宗経・同盛房連署請文写(山形大学中条家文書、新潟県史一七七〇号)に「左衛門尉宗経」とあり、幕府の命令で加地荘内の争論の使節を左衛門尉盛房とともに勤めており、越後での活動も確認できる。盛房は「盛」の字を使用することから盛綱流佐々木加地氏の一族と考えられる。
 そうであれば、景綱の父宗綱(四郎左衛門尉宗経)と建武五年当時まだ任官していない太宰五郎宗綱とは別人であり、太宰五郎宗綱は七郎左衛門尉氏綱の次男左衛門尉経綱の子宗経と考えられる。系図では宗綱と宗経が逆になっており、混同が見られる。

沙沙貴神社佐々木系図

 氏綱┬景綱─貞綱─宗綱
    ├経綱─宗経
    └時綱

尊卑分脈・続群書類従本
 
 氏綱┬景綱─宗綱─景綱
    ├経綱─宗経
    └時綱

 実は沙沙貴神社所蔵佐々木系図では、七郎左衛門尉氏綱流の佐々木加地氏は氏綱―景綱―貞綱―宗綱と続く。しかし「景」と「宗」の草書体が誤りやすいことを考えれば、氏綱―宗綱―貞綱―景綱であろう。さらに「綱」と「経」の草書体が誤りやすいことを考えれば、宗綱が宗経であったように、貞綱も貞経の可能性が高く、続群書類従本で隠岐佐々木泰清女に「母同隠岐守時清、貞経母」とある貞経と同一人物と考えられる。氏綱流の系図は、氏綱―宗経―貞経―景綱となる。一字書出の順でも北条時氏・経時・時頼・時宗・貞時の順が、そのまま氏綱・宗経・貞経と符合する。
 しかし、尊卑分脈や続群書類従本では氏綱―景綱―宗綱―景綱とする。これは貞綱(貞経)が脱落しているとも考えられるが、あるいは尊卑分脈・続群書類従本もまた事実を伝えているとすれば、氏綱―宗綱(宗経)―宗綱(宗敦)―景綱となり、貞経が宗敦と改名したと考えられる。越前佐々木加地氏の惣領は、氏綱(七郎左衛門尉)―宗経(四郎左衛門尉・大宰権少弐)―宗敦(越前権守)―景綱(近江権守)―氏綱(近江四郎)となる。得宗北条貞時の一字を捨てて「宗敦」と名乗ったのであれば、「宗」の字は得宗北条時宗の一字ではなく、皇族将軍宗尊親王の一字であろう。

 氏綱┬宗経─宗敦(貞経)─景綱─氏綱
    ├経綱─宗綱
    └時経 

 ところが上杉氏が守護として越後に入部すると、国大将の地位を失った。それでも足利尊氏の奉公衆(直臣)として中央で活躍し、師守記康永三年(1344)五月十七日条に記載の熊野参詣供奉人によると、景綱の嫡子氏綱(近江四郎左衛門尉)が帯太刀として列し、次男清氏(近江次郎左衛門尉)が調度役を勤めている。さらに翌四年(1345)天龍寺供養で氏綱は先陣十二人衆の一人に列し、弟清氏は帯剣(右十三番)として列した。ただし、この時期中央で活躍する佐々木近江入道(熊野参詣奉行)は景綱ではなく、佐々木導誉の兄佐々木善観(鏡氏)のことである。景綱が越後に在国していたことは、貞和三年(1347)十月二十日付佐々木景綱請文(三浦和田氏文書)で知ることができ、依然として越後で実力者であったことが分かる。その後も氏綱は貞和五年高師直邸に参じるなど中央で活躍している。氏綱の実名は初代氏綱と同じであるが、尊氏から一字書出を給付され、氏綱と名乗ったのだろう。そのことでも景綱・氏綱父子が尊氏からの信任が厚かったことが分かる。
 観応の擾乱が始まる観応元年(1350)には越後でも動きがあった。加地筑前二郎左衛門尉宛に室町幕府引付頭人奉書が発給されているのである。備前佐々木加地氏が「佐々木筑前守」を名乗ったことは、暦応四年(1341)の天龍寺供養に佐々木筑前三郎左衛門尉貞信が足利直義(三条殿)御調度役を勤め、さらに応永十年(1403)三月八日付佐々木筑前入道宛山名時煕(常煕)書状(八坂神社文書三)で筑前入道(飽浦氏)が備後守護代であったことでも分かる。このように佐々木筑前守の受領名は、旧備前守護家の備前守時秀から、その庶流の筑前守顕信・貞信父子、さらに飽浦氏に移ったことがわかる。筑前二郎左衛門尉は貞信の兄弟であろう。
 しかし半年後には近江四郎氏綱代の佐々木加地貞朝の打渡状が発給されており、観応の擾乱で尊氏派に属した近江四郎の優勢が分かる。上杉氏が入部する以前、越後守護は高師直の一族であり、師直派と近江四郎は連携していたと考えられる。
 ところが貞治元年(1362)に上杉氏が越後守護に復帰すると、近江四郎は没落し、備前前司時秀跡は没官された。
 まず上杉氏が守護に復帰してまもなく佐々木越前守という人物が登場する。貞治三年に佐々木加地越前守、翌四年に佐々木加地越前前司が室町幕府引付頭人奉書によって加地荘内の争論解決の使節を命じられている。景綱の父宗敦が越前権守であり、越後佐々木加地氏にとって、越前守は重みのある受領名である。尊卑分脈によれば備前前司時秀の子息師秀が越前権守であったという。観応の擾乱のなかで、南朝方に投降していた上杉氏と備前前司時秀・師秀(小島氏)が連携し、時秀が越後に復帰したのだろう。
 そして上杉氏の守護代長尾高景書状によって、近江四郎が会津新宮の芦名氏のもとに出奔したことが知られるが、高景が越後守護代に補任されたのが貞治五年(1366)であり、また文中で上杉憲栄(「親衛」)が守護である時期と分かる。近江四郎の会津没落は応安元年(1368)から永和四年(1378)までの間である。
 この近江四郎の没落と同じ時期、永和二年(1376)に「加地荘内佐々木備前前司時秀法師跡」が鎌倉円覚寺に与えられている(円覚寺文書、越佐史料2-639)。『洞院公定公記』応安七年(1374)五月三日条に「伝え聞く、去る廿八九日の間、小島法師円寂すと云々。是れ近日天下に翫ぶ太平記の作者なり。凡そ卑賤の器たりと雖も、名匠の聞え有り。無念と謂うべし」とある小島法師は、時秀のことであろう。その所領は佐々木越前守に受け継がれることなく、二年後に鎌倉円覚寺に与えられた。佐々木越前守も没落したのである。上杉氏による有力国人の弾圧であろう。そうであれば室町期に佐々木加地氏が没落し、備前守護家の受領名である筑前守が備前前司時秀(小島氏)から離れて、小島氏庶流の筑前守顕信・貞信父子、さらにもともとの備前守護家佐々木東郷氏の子孫飽浦氏に移ったことも理解できる。
 佐々木氏が衰微していたことは、「応永二十一年(1414)十一月日付佐々木三郎盛綱子孫同三郎長綱謹庭中言上」でも知ることができる。佐々木三郎長綱は、盛綱─信実─秀忠─景秀─秀綱─高信─長綱とつづく秀忠流磯部氏の人物で、室町幕府執事細川清氏の孫細川頼氏の養子になり、越後白河庄上下条と遠江相良庄を相続していた人物であるが、生活に窮して足利義満に直訴していた。このことでも揚北衆佐々木氏が没落していたことが分かるが、この佐々木長綱(三郎左衛門尉)が、新発田氏の祖長綱だろう。戦国期の新発田氏が、越前守師秀の子孫加地氏よりも優勢であった事実から、この長綱の訴えは成功したと考えられる。
 ところで鮭延愛綱(秀綱)の子孫という系譜を持つ大沼氏は、四目結紋と三星紋を交互に配した陣幕をつたえており、三星紋を本紋とした盛綱流佐々木氏の可能性は高い。しかも鮭延愛綱(典膳)が最上義光に仕えて越前守と名乗ったことは、自らの家系が越後佐々木加地氏であることを示している。また大沼氏には会津から出羽に入国したという系譜伝承もあり、事績は異なるものの景綱・氏綱などの名も見られることから、景綱・氏綱父子の子孫である可能性は高い。鮭延越前守侍分限帳(『新庄市史』所収)の一族並館持衆老臣にも、越後出身と思われる平岡館主柿崎能登守がいる。柿崎氏は新田義宗の子孫とも名乗る越後南朝の中心人物であり、その一族が老臣となっていることで近江四郎の越後落居後の行動も推測できる。
 また、その一方で譜代衆には六角氏の近江守護代馬淵氏の一族と思われる馬淵伊織が含まれていることから、近江との交渉はあったようである。おそらく景綱・氏綱が上洛して以降、交流があったのだろう。秀綱が佐々木六角氏流鯰江氏とされる理由も分かる。

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コメント(6件)

内 容 ニックネーム/日時
それでは鮭延氏は、長尾上杉二代目の上杉景勝と
上杉討伐で最上義光配下として戦ったわけですね。そして上杉軍に勝っている…
なんという運命!
匿名で失礼します
2010/05/24 04:33
コメントありがとうございます。

そうですね。関が原の合戦にともなう慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)では、上杉氏と佐々木加地氏の子孫鮭延秀綱が戦ったことになりますね。

実は鮭延秀綱(愛綱)は、太閤検地のとき上杉氏との交渉の窓口で、上杉方に「愛綱」と署名された鮭延秀綱書状があります。越後佐々木加地氏の直系ということが知られていたのかもしれません。

また越後に残った加地氏(謙信の妹婿)も新発田氏も、最終的には上杉氏に対して反乱を起こして滅亡しています。上杉氏対佐々木加地氏という構図は最後まで残っていたように思われます。

佐々木哲
2010/05/24 20:36
 こんばんは。
ご返事ありがとうございます。
 確かに上杉家窓口の色部長真の書状にも、鮭延"愛綱"と書いてありますね。
 なんか歴史ってロマンですね〜(^^ゞ
自分は いわゆる戦国期の歴史はにわかなのですが、知れば知る程 面白いです。
 「御館の乱」の長尾上杉家臣の別れ方も…
う〜ん、奥が深い。

 また哲さんのブログ、来させて下さい。
色々 勉強になります。
有り難うございました。

 それではお邪魔しました(^^)
匿名で失礼します
2010/06/07 19:43
〔訂正〕
「御館の乱」×
   ↓
「新発田の乱」○
匿名で失礼します
2010/06/07 19:49
鉄道ジャーナル8月号に真室川駅が紹介されていました。
とても駅とは思えない造りでお城のようです。記事をよく読むと、鮭延城の城門をモチーフにしたそうです。(佐々木)鮭延秀綱も喜んでいるかな?
奥州系尾州人
2013/07/16 22:21
新発田在住で、地元・旧新井田村のことを知りたくて、こちらのブログにたどり着きました。うちのお向かいに新田義貞の次男義興が匿われていたという農家があり、近所の神明宮の宮司さん新田様がその子孫だといっています。越後佐々木氏は足利方だったと聞いたことがあり、よく無事だったと不思議でしたが、佐々木加地源太左衛門尉=時秀が南朝方についたとすればスッキリします。このムラには新発田重家が最期に自刃したとして溝口公が碑を建てた寺もあり、子供たちにも伝えていけたらと思っています。ありがとうございました!
ちなみに、新発田城はいつからあったのか…という謎もあるんですが、長綱のお屋敷ができたときという解釈でいいんでしょうか?600年くらい前になるんでしょうか…
新発田の洗濯屋
2016/04/19 11:10

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