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zoom RSS 一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(5)

<<   作成日時 : 2009/11/08 00:35   >>

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 佐々木泰清は、本妻大井太郎朝光女(光長姉)を娶り、さらに正妻葛西清親女を娶ったように(11)、東国の豪族級御家人と閨閥を形成した。泰清は隠岐・出雲守護として、『葉黄記』宝治元年(一二四七)五月九日条に六波羅評定衆として見え、建長四年(一二五二)正月十一日臨時宣で検非違使に補任され、翌五年二月四日賀茂・八幡両社行幸行事賞で従五位下に叙爵されて、正嘉元年(一二五七)に従五位上に加級、『経俊卿記』同年五月十一日条でも六波羅評定衆として見える。翌二年に信濃守に補任された(検非違使補任)。以後、隠岐佐々木氏は検非違使を世襲官途にし、また信濃守に補任された者も多く見られ、信濃との関係をうかがわせる。
 この泰清の子息のときに隠岐佐々木氏は二流に分かれ、母が大井朝光女である次男時清(隠岐二郎左衛門尉・信濃二郎左衛門尉・隠岐判官)が隠岐守護職を継承して隠岐氏となり、母が葛西清親女である三男頼泰(大夫判官)は出雲守護職を継承して塩冶氏となった。
 時清は、『吾妻鏡』弘長三年正月十日条で左衛門少尉・検非違使として見え、文永元年(一二六四)十一月十四日に二十三歳で従五位下に叙爵され(検非違使補任)、建治元年(一二七五)七月六日に引付衆に列し(三十四歳)、弘安六年(一二八三)六月十四日に評定衆に加えられた(関東評定衆伝)。六波羅評定衆から鎌倉評定衆へと家格を上昇させている。小田切郷を得たのは、この大井朝光の孫時清のときであろうか。
 時清は、安達盛長の子孫で代々引付衆を勤めた大曽禰氏の惣領上総介長経の娘を娶った。また検非違使補任(『続群書類従』四輯上)では、源時清の項に藤原時豊(左衛門少尉・検非違使・出羽守)の息男で同日に叙爵されたと伝える。伊予守護宇都宮頼業の子時豊(時業)の女婿であった時清は、伊予国御家人であった一遍と旧知の可能性もある。
 弘安八年(一二八五)に霜月騒動が起こると、時清妻の兄大曽禰宗長や叔父義泰は没落し、評定衆宇都宮景綱(下野守)も討手を差し向けられた。しかし時清は弘安十年六月には東使になっている(興福寺略年代記)。東使とは朝廷との交渉役で、実力者が勤めるものであり、霜月騒動後も時清が健在だったことが分かる。しかし時清の子のうち頼清(四郎左衛門尉)は北条時頼の一字を与えられ、しかも『続群書類従』巻百三十三の佐々木系図で隠岐守と伝わるが、その事績が伝わらない。霜月騒動で没落した可能性がある。
 時清の四男宗清(豊前守)は評定衆京極宗綱(能登守)の娘婿だが(12)、舅宗綱の庶兄頼氏が安達泰盛追討賞で豊後守に補任されたように(尊卑分脈、続群書類従本、沙沙貴神社本)、京極氏は霜月騒動で地位を維持している。
                  
                       ┌満信――宗氏
           ┌広綱  ┌泰綱 │      ┠――高氏(導誉)
 秀義―┬定綱―┴信綱―┴氏信―┴宗綱―┬女子
     ├経高                   ├貞宗
     ├盛綱                   └女子
     ├高綱                     ┠――清高―重清
     └義清―――泰清―――時清―――─宗清

 宗清は、永仁元年(一二九三)四月二十三日左衛門尉(権少尉)で検非違使を兼ねていたことが『実躬卿記』に見える。その前日の四月二十二日には平頼綱が滅亡している。翌二年には弘安合戦(霜月騒動)与党の人事について、鎌倉追加法六四三条が発布されて復権が認められたが(13)、宗清の検非違使補任はそれ以前の復権といえる。また時清女が、評定衆二階堂頼綱(下総守)の嫡子貞綱(下総三郎左衛門尉)に嫁いでおり、復権とともに吏僚系御家人と閨閥を築いて、幕府内部に深く入り込んだことが分かる。
 ところが嘉元三年(一三〇五)の嘉元の乱で、父時清(入道阿清)は、連署北条時村を殺害した謀反人北条宗方(引付頭人)と合戦して相打ちとなった。このとき宇都宮景綱の子貞綱(下野守)が、討手として宗方邸を向かい宗方被官を討っている。
 この嘉元の乱では、時清の甥後藤顕清(信濃二郎左衛門尉)も討死にしている。顕清の父後藤基顕(信濃守)は時清の実弟で、六波羅評定衆後藤基政の養子となっていた。基政も葛西清親の女婿で泰清と相婿の関係にあり、泰清は六波羅評定衆に在職していたときに、子息基顕を同僚後藤基政の養子にしたのだろう。基顕(後藤信濃入道)は、こののち北条高時政権で評定衆になっている(金沢文庫文書三七四号)。
 さらに宗清妻の兄貞宗(京極氏嫡子)も戦傷を負い早世している。そのため京極氏は庶流宗氏が婿養子として評定衆に列し、その嫡子高氏が京極氏を継承した。彼が婆裟羅大名佐々木導誉である。続群書類従本で高氏に「於鎌倉補執事」と記すのは、高氏が御内人であったことを示していよう。隠岐・京極・後藤氏は御家人の地位を維持しながら北条得宗家の御内人になり、鎌倉幕府内で家格を上昇させたのである。
 しかし宗清は、検非違使の功で豊前守に補任されたこと、また隠岐守と伝わり隠岐守護を勤めただろうことが推測されるが、幕府要職を経験した形跡が見られない。
 それでも宗清の嫡子清高(隠岐判官・隠岐前司)は引付衆に列して東使を勤めている。さらに清高妻は問注所執事を歴任した三善氏の引付頭人太田時連女であり(続群書類従本)、信濃守を勤めた吏僚系御家人の娘を娶っている。太田時連は佐々木氏惣領六角頼綱の女婿であり、佐々木氏が吏僚系御家人と閨閥を築いたことが確認できる。
 幕府に忠誠を尽くした清高は、鎌倉幕府滅亡にあたって一向派の近江国番場蓮華寺で六波羅探題北条仲時(信濃守護)とともに自害している。「近江国番場宿蓮華寺過去帳」(『群書類従』二十九輯)には「佐々木隠岐前司清高(三十九歳)、子息次郎右衛門尉泰高(十八歳)、同三郎兵衛尉高秀、同永寿丸(十四歳)」とある。
しかし、清高の末子重清(左衛門尉・検非違使)は遊行上人十一代自空になったという(14)。たしかに従兄弟の出雲守護代佐々木隠岐入道自勝とは「自」が通字となる。

 佐々木泰清┬隠岐時清―宗清┬清高―重清(自空)
        |          ├秀清―隠岐入道自勝
        |          └清顕―師清―頼清(都万郷地頭)
        ├塩冶頼泰―貞清―高貞(出雲守護)
        ├富田義泰―師泰―秀貞(美作守護)―直貞(隠岐守護)
        ├後藤基顕―顕清
        └湯 頼清┬泰信―公清―公綱(出雲玉作城主)
               └信清―雅清(布志名判官・若狭守護)

 清高の弟信濃守秀清の子息である隠岐入道自勝は、南北朝期に隠岐・出雲守護を獲得した佐々木導誉の守護代となり(15)、隠岐佐々木氏は時衆との関係も継続して、貞和年間(一三四五〜五〇)には隠岐国の島後西郷に四条派道場の大光明寺を創建している(16)。
 また松江市乃木善光寺蔵写本『託何上人法語』に「雲州玉作本阿弥陀仏ニ給ケル安心」とある人物は、時清の弟湯頼清(七郎左衛門尉)に始まる湯氏と考えられる(17)。湯氏は玉作城を中心とする湯郷の地頭で、頼清―泰信(十郎左衛門尉)―公清(源三左衛門尉)―公綱(信濃守・源三左衛門尉)と続く。また湯泰信の弟信清の子が、『太平記』で「富士名判官」として知られる布志名判官雅清(若狭国守護職次第、大徳寺文書)である。
 時衆と隠岐佐々木氏の関係から、時衆と佐々木導誉の関係も見えてくる。小田切郷地頭佐々木宗清の妻は佐々木宗綱の娘であり、宗清は佐々木導誉の叔父に当たる。導誉は、足利義詮より給付された京都四条京極の土地を五日後には金蓮寺に寄進し、翌二年七月には近江国甲良荘領家年貢のうち五十石を金蓮寺御影堂に寄進した(金蓮寺文書)。
 佐々木時清の屋形は念仏踊始行の場になり、時清母あるいはその姉妹は一遍と結縁して極楽往生したが、時清の一族はその後も時衆と深く関わったことが分かる。


(1)平林富三「小田切村と湯沢村史料」(『郷土研究千曲の浅瀬』千曲の浅瀬刊行会、一九七三年)二五七−九五頁。
(2)砂川博「『一遍聖絵』を読み直す(一)」時衆文化四号、二二−四六頁、二〇〇一年。
(3)平林富三「一遍上人の佐久郡伴野庄巡錫に就いて」(『信濃』四巻十一号、一九−二七頁、一九五二年)は、相葉伸氏らが水内郡とするのに対して、大井荘説を主張した。
(4)牛山佳幸「一遍と信濃の旅をめぐる二つの問題」時衆文化九号、一−三三頁、二〇〇四年。多くの議論を平林氏に負いながら、水内郡説を主張している。
(5)井原今朝雄「信濃国大井荘落合新善光寺と一遍(下)」時衆文化十七号、四二−七四頁、二〇〇八年。砂川博氏は、井原氏の学説を高く評価している。
(6)井原今朝雄「信濃国大井荘落合新善光寺(上)」時衆文化十六号、一−二五頁、二〇〇七年。落合新善光寺と下野小野寺の関係について論じている。
(7)平林富三氏、前掲論文「小田切村と湯原村資料」(注1)。および、栗田勇『一遍上人― 旅の思索者』(新潮社、一九七七年)一六二頁。
(8)佐々木弘美氏のご指摘による。
(9)『新編信濃史料叢書』守矢文書。牛山佳幸氏はこの資料を引用しながら、小田切郷説を捨てた。地元の武士小田切氏に引きずられたといえよう。
(10)入間田宣夫「鎌倉時代の葛西氏」入間田宣夫編『葛西氏の研究』名著出版、一五−五八頁、一九九八年。
(11)(『尊卑分脈』宇多源氏、『続群書類従』巻百三十二、沙沙貴神社所蔵佐々木系図。続群書類従本では「母大井太郎朝光女」と記している。)
(12)『尊卑分脈』や沙沙貴神社本が、宗清母とするのは誤りだろう。
(13)細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、二〇〇〇年)二六七−八頁。
(14)「遊行藤沢霊簿」に「生国隠岐佐々木氏後円融院康暦三辛酉二月十八日於備後尾道常弥寺五十三賦算」とある。河野憲善「時衆研究の時到る!」時衆あゆみ十八号、一九五八年。および、金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、一九七五年)三七九頁。河野憲善『一遍教学と時衆史の研究』、(東洋文化出版、一九八一年)二四四頁。
(15)貞治五年(一三六六)十二月五日付隠岐入道宛佐々木導誉遵行状案ほか「山城水無瀬神宮文書」、応安二年(一三六九)九月十六日付隠岐入道宛佐々木高秀遵行状案ほか「祇園神記続録十」など。「隠岐入道」であれば清綱(隠岐守)と考えられるが、沙沙貴神社本では清綱の弟氏清(彦左衛門尉)に「隠岐入道自勝」と注記されている。
(16)『隠州視聴合紀』大光寺村の条。金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、一九七五年)三五三−四頁、および四二六頁。大光明寺の建立は遊行派の七祖託何による。このとき四条派と遊行派は円満な関係にあったようである。
(17)玉作城を本拠としたのは、湯郷地頭湯氏である。河野憲善氏は、佐々木秀貞(富田判官・美作守)と推測しているが(同著『一遍教学と時衆史の研究』二四三頁)、秀貞は「富田判官」と呼ばれているように富田城を本拠とした。

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