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zoom RSS 一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(4)

<<   作成日時 : 2009/11/07 00:27   >>

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 一遍の祖河野通清は平治の乱で一時没落したが、源頼朝の挙兵に呼応して土佐で源希義(頼朝弟)が挙兵すると、通清・通信父子も伊予で挙兵した。『吉記』養和元年(一一八一)八月二十三日条に「伊予国在庁川名大夫通清」が平家に討たれたことが伝聞として記されているが、通信は源義経に従い戦功を挙げて所領を回復している。
 伊予守護には、頼朝の伊豆配流時代からの側近佐々木盛綱が補任されたものの、建仁三年(一二〇三)通信は守護佐々木盛綱の奉行によらず、旧のごとく国中の一族郎党を率いるよう御教書を得ている(『吾妻鏡』建仁三年四月六日条)。元久二年(一二〇五)にも、伊予国の御家人三十二人は守護ではなく通信の奉行で御家人役を勤めるよう、あらためて御教書が発給されている。通信は越智惣領職を認められ、越智一族を指揮するよう命じられたのである。このとき必要とされたのが、通信の父通清を三島神の御子とする系譜伝承であろう。祖父親清を源頼義の末子とする系譜伝承から、河野氏は越智氏との血縁関係をもたないと推測できる。河野氏はまず源氏との結びつきを宣伝し、さらに父通清を三島神の御子として越智氏惣領職を得たのだろう。
 河野氏はほかの有力な西国御家人と同様、後鳥羽上皇が新設した西面の武士に列した。そのため後鳥羽上皇が北条義時追討を命じた承久の乱では、通信と嫡子通政・四男通末をはじめ一族のほとんどが京方であり、幕府方は鎌倉に出仕していた五男通久だけだった。『吾妻鏡』承久三年(一二二一)六月二十八日条によれば、通信は京都での戦闘が終了しても伊予で戦闘を続けている。その通信が死罪を免れて陸奥江刺郡に配流されたのは、通信が鎌倉開幕の元勲であり、助命嘆願が認められたからだろう。しかし京方の参謀のひとり佐々木経高(もと阿波・淡路・土佐守護)は幕府元勲であったが、北条泰時の願いむなしく、助命嘆願せずに自決している(『吾妻鏡』『承久記』など)。
 その結果、幕府方の通久は阿波国富田荘の地頭職を獲得したのみで(保阪潤治氏所蔵文書)、のちに伊予国久米郡石井郷との所替えを許されて本国伊予に復帰するものの、かつて守護と同様の権限を与えられた河野氏の没落は明らかだった。それに対して近江守護佐々木氏では、弟信綱が兄広綱父子を斬首したことで、本国近江守護を維持した。河野氏と佐々木氏との差は歴然としている。『承久記』では信綱の過酷さが物語終盤の悲壮感を盛り上げるが、これが承久の乱で一族が分かれた西国御家人の現実であった。それができなかった河野氏は、本国を維持できなかったのである。
 時清の祖父佐々木義清は、伊予守護佐々木盛綱の弟であり、河野氏と因縁がある。さらに父泰清の本妻は小笠原氏族の大井太郎朝光女だが(続群書類従本)、正妻は奥州総奉行葛西清親女であり(尊卑分脈、続群書類従本、沙沙貴神社所蔵佐々木系図)、河野通信が配流された陸奥国江刺郡は葛西領五郡二保(10)のひとつであった。守護の権限をめぐり河野通信と対立した盛綱の甥で、その河野通信を罪人として預かった葛西清親の女婿佐々木泰清は、河野通末を預かる人物として適任である。また後鳥羽上皇を預かった隠岐守の家系であり、流人処遇の作法もわきまえている。一遍が小田切の里(佐久郡大井荘小田切郷)で踊念仏を始めたのは(『聖絵』巻四詞書)、やはりそこが通末の墓所だからだろう。

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