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zoom RSS 一遍踊念仏と隠岐佐々木氏(1)

<<   作成日時 : 2009/11/04 01:38   >>

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 『一遍聖絵』(以下、『聖絵』)によれば、信濃国小田切の里で踊念仏が始められた。巻四の第五段に伴野市庭と小田切の里の場面が描かれ、つづく巻五の第一段に大井太郎屋形が描かれている。詞書に従えば、信濃入りした一遍は善光寺を訪れたのち下野小野寺を訪れ、再び信濃入りして小田切の里・伴野市庭・大井太郎館に立ち寄ったという。
 しかも信濃の佐久郡に入った一遍は、小笠原氏惣領であった伴野荘地頭伴野氏のもとに寄らず、小田切の里を訪れている。一遍の叔父河野通末が配流されたのは伴野荘であり、親族の鎮魂が目的ならば、大井荘小田切郷ではなく伴野荘を真っ先に訪れるはずである。そのため、小田切の里に向かった理由やその所在が議論されてきた。
 平林富三氏は論文「小田切村と湯原村史料」で、河野通末が伴野荘から何らかの事情で大井荘小田切郷に移り、そこで死去して葬られたという仮説を提示している(1)。たしかに『聖絵』の「或武士の屋形」には墳墓と見られる盛土があり、一遍が伴野に立ち寄らず小田切の里に直行したことや、踊念仏の始行がそこで行われたことが理解できる。
 また砂川博氏は、伴野市庭が賦算の中心と思われるにもかかわらず地頭伴野氏が『聖絵』に登場しないのは、伴野時長が安達泰盛の外祖父であり、霜月騒動(一二八五年)で没落したためと推測した。大井太郎はそして小田切里を大井荘小田切郷とし、小田切郷地頭を大井太郎の縁者と推定している(2)。
 それに対して牛山佳幸氏は、多くを平林富三氏の議論(3)に負いながらも、小田切の里は大井荘小田切郷ではなく、善光寺と同じ水内郡内と主張している(4)。一遍遊行の目的は親族の墓参であり、その道程は『聖絵』とは一致せず、京都→北国路→水内郡善光寺→水内郡小田切氏居館→諏訪郡羽広郷の通政墓所→佐久郡伴野荘の通末墓所→佐久郡大井荘→水内郡善光寺→下野小野寺→陸奥国江刺郡の通信墓所であったと推定した。
 たしかに戦国期の弘治二年(一五五六)に推定される十二月二十四日付武田晴信朱印状にある「小田切方」は水内郡内と考えられ、同郡内の小田切領は鎌倉期にまでさかのぼる可能性がある。しかし水内郡内に小田切氏所領があったことを認めても、小田切という地名があったことまでは認められない。小田切氏旧領という由緒から明治期に小田切村ができたが、それを鎌倉期にまで遡らせるのは強引だろう。また「小田切の里」が小田切氏所領であれば、「或武士の屋形」と隠す必要はない。
 井原今朝雄氏は、『聖絵』には霜月騒動で没落した伴野氏が登場しないこと、『聖絵』の安達泰盛に対する評価が高いことに注目し、『聖絵』に伴野氏と安達泰盛が守護だった上野について触れていないのは両氏との関係に言及するのを避けたからだという。霜月騒動直後の弘安九年(一二八六)にあたる『聖絵』巻九の天王寺参詣の場面で安達泰盛を「おほきなる人」と評していることでも、『聖絵』が安達泰盛派と親しい立場で描かれていることが分かる(5)。このとき安達派はまだ復権していない。さらに一遍が下野小野寺へと往復した理由も、信濃大井荘内の落合新善光寺建立と関連づけて、当時の下野小野寺には勧進聖たちが集まっていたからだと結論した(6)。伊予守護宇都宮頼業の父頼綱(実信房蓮生)は、一遍の父河野通広と同じく証空の弟子であり、また甥景綱(引付頭人)は安達義景(泰盛の父)の女婿である。一遍は下野で宇都宮氏と接触したとも考えられる。

            ┌頼業(伊予守護)―時豊(検非違使・出羽守)
宇都宮頼綱(蓮生)┴泰綱(評定衆)―景綱(引付頭人)―貞綱

 そうであれば、『聖絵』で伴野市庭と大井太郎屋形の間にはさまれた小田切の里も安達泰盛派という視点で見る必要がある。大井朝光は伴野時長の弟であり、大井荘小田切郷地頭が大井氏の縁者であれば、安達泰盛派といえる。また善光寺が大井荘内の落合新善光寺であれば、小田切の里が水内郷内では行程に無理が生じる。画面と現在と伽藍配置が異なることには意味があったのである。

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